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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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572/701

[単純承認・限定承認・相続放棄]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 遺産は、もらうだけが相続ではありません。


 受け取る。


 条件をつけて受け取る。


 受け取らない。


 この三つを間違えると。


 亡くなった親の借金が、残された子供の人生まで飲み込んでしまうことがあります。


 しかも。


 何もしなかっただけで、借金を引き継いだことになる場合がある。


 良かれと思って遺産を売っただけで、相続放棄が難しくなることもある。


 そして。


 相続放棄をしたあとでも、遺産をこっそり隠した人には、法律が容赦しないことがあるのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……相続って、三択問題なんですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だ、いきなり」


「単純承認、限定承認、相続放棄」


「ああ」


「三つしかないんですよ」


「そうだな」


「なのに、どうしてこんなに難しいんですか!」


「お前が勝手に難しくしてるんじゃねえのか」


「違います!」


 私は鉛筆を握りました。


「だって、選び方を間違えたら一千五百万円の借金ですよ!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「……藤沢さんの件か」


「はい」


 藤沢真理子さん。


 二十七歳。


 弟の健一さん。


 二十四歳。


 亡くなった父親が残したのは。


 家。


 預金。


 印刷工場の機械。


 合計、約一千万円の財産。


 そして。


 東洋金融の黒岩が請求してきた、一千五百万円の借金でした。


 黒岩は、健一さんに父親の印刷機械を売らせようとしました。


 売買代金は十万円。


 でも、その本当の狙いは。


 民法九百二十一条。


 法定単純承認。


 相続財産を処分させ、相続放棄や限定承認を難しくすることだったのです。


「危なかったですよね……」


 私は呟きました。


「ああ」


「機械を売っていたら、どうなっていたか」


「少なくとも、厄介な争いになってただろうな」


 相馬先輩が言いました。


「だから、あの契約書にハンコを押させなかったのは大きかった」


「はい」


 私は頷きました。


 あの事件では、結局。


 二人は共同で限定承認を選びました。


 それでも、すべてが終わったわけではありません。


 相続財産を調査し、債権者への弁済を進める必要がある。


 家を残せる保証もない。


 でも。


 二人は、自分たちの生活まで差し出すことなく、父親の財産と向き合う道を選んだのです。


「よし」


 私はノートの一番上に書きました。


 ――相続の三つの選択肢。


「今日は、これを完全に理解します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場です! 今日は法理です!」


「便利な言い訳だな」


 そこへ。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……またですか」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 まず。


 私はノートに二つの言葉を書きました。


 ――積極財産。


 ――消極財産。


「先輩!」


「何だ」


「相続財産って、プラスの財産だけじゃないんですよね」


「そうだ」


「積極財産は、家や土地、預金、現金など」


「ああ」


「消極財産は、借金や未払金などの債務です」


 相馬先輩が頷きました。


「藤沢の親父さんが残したのも、その両方だったな」


「はい」


 私はノートに書きました。


 プラスの財産。


 一千万円。


 マイナスの財産。


 一千五百万円。


「差し引き、マイナス五百万円です」


「そうだな」


「でも、これって変じゃありません?」


「何がだ」


「親が借りたお金なのに、どうして子供が返すんですか?」


 相馬先輩が少し笑いました。


「いい質問だな」


「褒めました?」


「まだだ」


「またですか!」


 先輩は六法を開きました。


「相続は、亡くなった人の財産上の地位を引き継ぐ仕組みだからだ」


 私は頷きました。


 民法八百九十六条。


 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。


 ただし、被相続人の一身に専属したものは除く。


「つまり、相続は『欲しいものだけをもらう制度』じゃないんですね」


「そうだ」


 たとえば。


 父親が一千万円の預金を持っていた。


 それと同時に、一千五百万円の借金を負っていた。


 父親が亡くなったら。


 預金だけ引き継いで、借金は無視。


 そんなことを自由に認めてしまえば、債権者が困ってしまいます。


「でも!」


 私は言いました。


「だからって、借金を全部引き継がせたら、相続人が困りますよね!」


「そうだな」


「そこで三つの選択肢なんです!」


 私は鉛筆で大きく丸を描きました。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 片桐所長が静かに言いました。


「相続は、亡くなった者と残された者、そして債権者の利益を調整する制度だ」


「はい」


「相続人だけを守ればいいわけでもない」


「はい」


「債権者だけを守ればいいわけでもない」


 私は頷きました。


 なるほど。


 相続の三択は。


 相続人のわがままを認めるためのものではありません。


 亡くなった人の権利義務を、どう整理するか。


 そのために用意された道なのです。


「では、一つ目!」


 私はノートに書きました。


 ――単純承認。


 民法九百二十条。


「これは一番分かりやすいですね」


 相馬先輩が聞きました。


「説明してみろ」


「単純承認は、被相続人の権利義務を無限に承継することです!」


「無限って?」


「相続財産の範囲に責任が限定されない、ということです」


「そうだ」


 私は藤沢家の数字を書きました。


 プラス。


 一千万円。


 マイナス。


 一千五百万円。


「仮にこの数字が正しく、藤沢さんたちが単純承認していたら」


 私は続けました。


「相続財産だけでは借金を返しきれません」


「ああ」


「残り五百万円についても、相続人自身の財産から弁済する責任が問題になります」


「そうだな」


 もちろん、相続人が複数いる場合、金銭債務の承継割合なども考える必要があります。


 原則として、可分な金銭債務は法定相続分に応じて承継される。


 だから。


 姉弟二人だからといって、当然に一人ずつ一千五百万円全額を負担するわけではありません。


 今回の藤沢家なら、ほかに相続人がいなければ、原則として姉弟それぞれ二分の一です。


 ただし、保証関係など、個別の債務の性質にも注意が必要です。


「所長」


「何だ」


「単純承認って、本当に全部引き受ける覚悟が必要なんですね」


「そうだ」


「プラスだけ見て決めたら危ないですね」


 所長が頷きました。


「借金を調べずに財産を使うな」


 私は大きく赤線を引きました。


 ……これです。


 単純承認の怖さ。


 そして。


 次が、もっと怖いところでした。


「先輩」


「何だ」


「単純承認って、自分から『単純承認します』と言わなくても成立するんですよね」


「ああ」


 私はページをめくりました。


 ――法定単純承認。


 民法九百二十一条。


「ここが藤沢家の事件の急所でした」


「そうだな」


 私は指を三本立てました。


「法定単純承認になる場合は、大きく三つです」


「言ってみろ」


「一つ目。相続財産の全部または一部を処分したとき」


「うん」


「二つ目。熟慮期間内に限定承認または相続放棄をしなかったとき」


「うん」


「三つ目。限定承認や相続放棄をした後で、相続財産を隠匿したり、私的に消費したり、悪意で財産目録に記載しなかったとき」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は得意になりました。


「三つとも覚えました!」


「じゃあ、問題だ」


「はい!」


「親が死んだ。息子が、親の車を中古車屋に売った」


「はい」


「単純承認か?」


「原則として、法定単純承認が問題になります!」


「正解」


 私は頷きました。


 相続財産の処分。


 それが、法定単純承認の代表例です。


「じゃあ、次」


 相馬先輩が言いました。


「親が死んだ。家の屋根が壊れて、雨漏りしている」


「はい」


「息子が、屋根を応急修理した」


「……保存行為ですね!」


「そうだ」


 民法九百二十一条一号には、例外があります。


 保存行為。


 そして、民法六百二条に定める期間を超えない賃貸。


 これらは、同号の処分には含まれません。


「なるほど!」


 私は言いました。


「財産を守るための行為まで、全部単純承認にされたら困りますもんね!」


「そうだ」


 たとえば。


 親が亡くなった。


 家の窓が割れた。


 雨が入り込む。


 放置すれば家が傷む。


 そんなとき。


 相続人が窓を修理しただけで、


「はい、単純承認!」


 となってしまったら。


 誰も家を守れなくなります。


「だから保存行為は例外なんですね」


「そうだ」


 ただし。


 私はノートに注意書きをしました。


 ――保存行為と処分行為の区別は、具体的な事情による。


 財産を守るためと言いながら、高価な品物を売却してしまった。


 あるいは、相続財産を自分のために使ってしまった。


 そんな場合まで、当然に保存行為になるわけではありません。


「藤沢家の機械売却は?」


 相馬先輩が聞きました。


「印刷機械一式を十万円で売却する内容でした」


「うん」


「だから、保存行為とは考えにくいです」


「そうだな」


 しかも。


 契約書には、


 ――相続人として債務の承継を認める。


 そんな文言まで入っていました。


 私は思い出すだけで腹が立ちました。


「黒岩、本当に悪質でしたね!」


「相続人にハンコを押させようとしてたからな」


「はい!」


「だが、そこを見抜けたのは、契約書を読んだからだ」


 私は頷きました。


 法律を知っているだけでは、足りない。


 どんな書面に。


 どんな文言があるのか。


 そこまで確認する。


 それが実務なのです。


「次は二つ目!」


 私はノートに書きました。


 ――熟慮期間の経過。


「先輩、これって、ものすごく怖いですよね」


「何がだ」


「何もしなかっただけで、単純承認したことになるんですよ!」


「ああ」


 民法九百十五条。


 相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三ヶ月以内に、単純承認、限定承認、相続放棄の選択をする。


 この期間が、熟慮期間です。


「三ヶ月……」


 私はカレンダーを見ました。


 藤沢さんのお父さんが亡くなったのは、六月二十日。


 相談に来たのは、九月十二日。


「本当にぎりぎりでした」


「そうだな」


「でも先輩」


「何だ」


「どうして三ヶ月なんですか?」


 相馬先輩は少し考えました。


「いつまでも相続するかどうか分からなきゃ、債権者もほかの相続人も困るだろ」


「ああ!」


 なるほど。


 相続人に考える時間は必要です。


 でも。


 十年も二十年も、


「まだ相続するか決めていません」


 では、財産関係がいつまでも確定しません。


 債権者も困る。


 次の順位の相続人も困る。


 だから、法律は一定の期間を設けている。


「ただし!」


 私は自分で言いました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「三ヶ月以内に財産調査が終わらない場合もあります!」


「そうだ」


「その場合は、家庭裁判所に熟慮期間の伸長を申し立てることができます!」


 民法九百十五条一項ただし書。


 利害関係人または検察官の請求によって、家庭裁判所が期間を伸長できる。


「でも、勝手には延びないんですよね」


「当然だ」


「期限内に適切な手続を取る必要がある」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 ――熟慮期間は原則三ヶ月。延長には家庭裁判所の判断が必要。


 藤沢家の場合。


 借金の金額が不明。


 ほかの債務の可能性もある。


 財産の調査も終わっていない。


 そのため、弁護士の支援を受けて期間伸長の手続を進めたのでした。


「所長」


「何だ」


「もし、藤沢さんたちが何もしないで期限を過ぎていたら?」


「原則として、単純承認だ」


「ですよね……」


 私はため息をつきました。


 三ヶ月。


 たった三ヶ月。


 家族が亡くなって、悲しんでいる間にも進んでいく。


 でも。


 法律が冷たいから三ヶ月なのではない。


 相続人を守る必要と、法律関係を確定させる必要。


 その両方を考えているのです。


「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「相続開始から半年経って、初めて借金の存在を知った人はどうなる」


「あっ!」


 私は顔を上げました。


 現場編の最後に、電話で相談してきた女性です。


 ご主人が亡くなって半年。


 借金があると知ったのは、昨日。


「あの件ですね!」


「そうだ」


「原則は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三ヶ月です」


「うん」


「でも、借金を知った日がいつかも、場合によって重要になります」


 私は少し慎重に答えました。


 昭和五十九年四月二十七日。


 最高裁判所の判例。


 相続人が、相続財産は全く存在しないと信じ、かつ、そのように信じることについて相当な理由がある場合など、特別な事情のもとでは、熟慮期間の起算点が問題になることがあります。


「つまり!」


 私は言いました。


「死亡から三ヶ月を過ぎたから、絶対に相続放棄できないとは限らないんですね!」


「そうだ」


「でも、借金を後から知ったら必ずそこから三ヶ月、というわけでもない」


「そのとおり」


 相馬先輩が頷きました。


「判例の要件を雑に覚えるなよ」


「はい」


 相続財産の存在を知らなかった事情。


 知らなかったことに相当な理由があったか。


 いつ、どのように相続財産や債務の存在を認識したか。


 そうした事情を慎重に調べる必要があります。


「だから、あの相談では、最初に事情を詳しく聞いたんですね」


「そうだ」


 所長が言いました。


「期限が過ぎたと思い込んで諦めるな。だが、必ず救済されるとも言うな」


 私は頷きました。


 この言葉。


 実務では、とても大事です。


 希望だけを与えても駄目。


 最初から絶望させても駄目。


 事実を確認して、法律上の可能性を探す。


 それが、行政書士に求められる姿勢なのです。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「三つ目だ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――隠匿・私的消費・悪意の財産目録不記載。


 民法九百二十一条三号。


「……名前が長いです」


「文句を言うな」


「だって、覚えにくいんです!」


「じゃあ事件にして覚えろ」


 相馬先輩が言いました。


「親父が死んだ。息子は相続放棄した」


「はい」


「ところが、親父の預金通帳を隠していた」


「……はい」


「さらに、その預金を自分の遊ぶ金に使った」


「駄目です!」


「どうしてだ」


「相続財産を私的に消費しているからです!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 相続放棄。


 それは、最初から相続人でなかったものとみなされる制度です。


 だから、原則としてプラスの財産もマイナスの財産も承継しません。


 なのに。


 借金はいらない。


 でも、預金は欲しい。


 それでは、債権者の利益を害してしまいます。


「だから、放棄した後でも、相続財産を隠したり使い込んだりすると、法定単純承認の問題になるんですね」


「そうだ」


 私は書きました。


 ただし。


 民法九百二十一条三号には、例外があります。


 相続放棄によって新たに相続人となった者が、相続の承認をした後は、この号による法定単純承認は生じません。


「……先輩」


「何だ」


「また例外です」


「法律だからな」


「便利な言葉ですね!」


「覚えろ」


「はい……」


 でも、理由を考えれば理解できます。


 相続放棄によって、次の相続人へ相続が移る。


 その次の相続人が承認した。


 そこまで進んだ後に、前の放棄者を単純承認したものと扱えば、相続関係が複雑になってしまいます。


 だから、条文には例外が置かれている。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「相続財産を隠すのは駄目。でも、法律関係が後の相続人に移った場合の調整も必要なんですね」


「そういうことだ」


 片桐所長が頷きました。


「条文には、必ず理由がある」


 私は、その言葉をノートに書きました。


「次は限定承認です!」


 私はページをめくりました。


 ――限定承認。


 民法九百二十二条。


「これは藤沢さんたちが選んだ方法ですね」


「ああ」


 限定承認。


 相続によって得た財産の限度においてのみ、被相続人の債務及び遺贈を弁済すべきことを留保して、相続を承認する。


「つまり!」


 私は言いました。


「相続財産を引き継ぐけど、借金の返済責任を相続財産の範囲に限定するんです!」


「そうだ」


 私は例を書きました。


 プラスの財産。


 一千万円。


 マイナスの財産。


 一千五百万円。


「限定承認なら、原則として一千万円の相続財産を限度に弁済することになります」


「うん」


「残り五百万円について、相続人が自分の預金や給料から返済する必要はありません」


「そうだ」


 私は頷きました。


 これが限定承認の最大の特徴です。


 ただし。


「先輩」


「何だ」


「限定承認って、単純に一千万円をもらえる制度じゃないんですよね」


「当たり前だ」


「相続財産の中から債務を弁済するんですよね」


「ああ」


 たとえば。


 一千万円の財産がある。


 一千五百万円の借金がある。


 限定承認した。


 その場合。


 一千万円の財産を相続人が自由に使えるわけではありません。


 債権者への弁済が必要になります。


 相続財産を処分して現金化することもあります。


「だから藤沢さんたちも、家を必ず残せるとは限らなかったんですね」


「そうだ」


 私は少し考えました。


「でも、家を残したいから限定承認したんですよね?」


 相馬先輩が首を振りました。


「違う」


「え?」


「家を残せる可能性も含めて考えたんだ。限定承認すりゃ自動的に家が残るわけじゃねえ」


「あ……」


 そうでした。


 限定承認には、債権者への弁済手続があります。


 相続財産の換価が必要になることもあります。


 ただし、共同相続人による限定承認などでは、法律上の要件と手続を満たすことで、相続不動産の競売を防ぐために評価額を弁済する仕組みもあります。


 それでも。


 家を残せる資金がなければ、簡単ではありません。


「つまり、限定承認は『財産を全部守る制度』じゃなくて、『自分の固有財産を守るために責任を限定する制度』なんですね」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 ――限定承認は、相続財産の範囲で責任を負う。家が必ず残るわけではない。


 よし。


 これなら忘れません。


「次は、限定承認の最大の壁です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――共同相続人全員で行う。


 民法九百二十三条。


「ここ、試験に出ます!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「また試験か」


「大事なんです!」


 限定承認は、相続人が数人いるとき、共同相続人全員が共同して行わなければなりません。


「どうして全員なんですか?」


 私は尋ねました。


 相馬先輩が答えました。


「相続財産全体を使って債務を整理する制度だからだ」


「なるほど!」


 たとえば。


 相続人が三人いる。


 長男。


 長女。


 次男。


 長男は限定承認したい。


 長女も限定承認したい。


 でも次男は単純承認する。


 この場合。


 長男と長女だけで勝手に限定承認することはできません。


「つまり、一人でも反対する人がいたら、共同の限定承認はできないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 藤沢家でも。


 最初、健一さんは相続放棄したいと言っていました。


 真理子さんは限定承認したかった。


 だから、二人で話し合う必要があったのです。


「でも先輩」


「何だ」


「全員が相続放棄する必要はないんですよね」


「もちろんだ」


 ここは大事です。


 相続放棄は、各相続人が個別に選択できます。


 だから、兄は相続放棄。


 妹は単純承認。


 そんなこともあり得ます。


 でも限定承認は、共同相続人全員が共同して行う。


「この違い、かなり重要ですね!」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――限定承認は全員共同。相続放棄は各人でできる。


 そして。


「所長」


「何だ」


「もし、相続人の一人が放棄したら、その人は最初から相続人でなかったことになるんですよね」


「そうだ」


「なら、放棄した人まで限定承認に参加する必要はないんですね」


「そういうことだ」


 民法九百三十九条。


 相続放棄をした者は、初めから相続人とならなかったものとみなされる。


 したがって、共同相続人の一人が適法に放棄した場合には、残った相続人全員で限定承認をすることが可能になります。


「……あっ!」


 私は声を上げました。


「先輩!」


「何だ!」


「現場で私、『お姉さんだけ限定承認、弟さんは放棄』って言いかけましたよね!」


「ああ」


「でも、それ自体が絶対に不可能な組み合わせというわけじゃなかったんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「弟が適法に相続放棄して、姉が唯一の相続人になれば、姉が限定承認を選ぶ余地はある」


「……なるほど!」


「ただし、放棄によって次順位の相続人が現れるかなど、相続関係の確認は必要だ」


「はい!」


 私は慌ててノートを書き直しました。


 共同相続人全員。


 とは。


 相続放棄によって初めから相続人でなかったことになる者を、当然に含むわけではない。


 重要なのは、限定承認をするときの相続人の範囲です。


「危なかった……」


 私は呟きました。


「全員って言葉だけ丸暗記していたら、間違えるところでした」


 片桐所長が頷きました。


「だから、制度の意味を考えろ」


「はい!」


 やっぱり。


 理解して覚えることが大切なのです。


「さて、限定承認の手続です」


 私はノートに書きました。


 ――民法九百二十四条。


 限定承認をしようとする相続人は、熟慮期間内に、相続財産の目録を作成して家庭裁判所に提出し、限定承認する旨を申述する。


「先輩、これって相続放棄より大変ですね」


「そうだな」


「財産目録が必要です」


「ああ」


「家や預金、機械だけじゃなく、借金も調べなければなりません」


「そうだ」


 私は藤沢家の資料を思い出しました。


 不動産の評価資料。


 預金通帳。


 印刷機械の目録。


 借入契約書。


 返済記録。


 工場の未払金。


 それらを一つずつ調べていく。


「限定承認って、名前は優しそうなのに、手続はかなり厳しいですね」


「そりゃそうだ」


「どうしてですか?」


 相馬先輩が言いました。


「債権者にとっては、相続人の固有財産まで追いかけられなくなるんだぞ」


「ああ!」


 なるほど。


 だから、相続財産の範囲を明確にする必要がある。


 債権者に公平な弁済をするための手続も必要になる。


 私は頷きました。


「つまり、限定承認は相続人だけの都合で自由に借金を切り捨てる制度じゃないんですね」


「そうだ」


 片桐所長が静かに言いました。


「債権者の権利も守る。そのための財産目録だ」


「はい」


 私は赤線を引きました。


 ――限定承認は、三ヶ月以内に財産目録を家庭裁判所へ提出し、申述する。


 もちろん、熟慮期間の伸長が認められた場合には、その伸長された期間内に手続を行うことになります。


「そして、限定承認をしたら終わり、ではないんですよね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「その後の清算手続がある」


「はい」


 債権者への公告。


 弁済。


 必要な財産の換価。


 そうした手続を適切に進めていく。


 私は少し考えました。


「先輩」


「何だ」


「限定承認って、借金を減らす魔法じゃないんですね」


「当たり前だ」


「でも、自分の人生を守る盾にはなる」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「まあな」


 私はその言葉を、ノートに小さく書きました。


「次は相続放棄です!」


 私はページをめくりました。


 ――相続放棄。


 民法九百三十八条。


 民法九百三十九条。


「これは一番簡単そうですね」


 相馬先輩が言いました。


「説明してみろ」


「相続放棄をすると、初めから相続人でなかったものとみなされます!」


「そうだ」


「だから、プラスの財産もマイナスの財産も、原則として引き継ぎません!」


「うん」


 私は例を書きました。


 父親の預金。


 一千万円。


 父親の借金。


 一千五百万円。


 相続放棄をしたら。


 預金も相続しない。


 借金も相続しない。


「つまり、借金だけ放棄して、預金だけもらうことはできません」


「そのとおり」


「そこが限定承認との違いですね」


「ああ」


 私は続けました。


「相続放棄は、家庭裁判所に申述する必要があります」


「そうだ」


 民法九百三十八条。


 相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。


「だから!」


 私は言いました。


「兄弟で『私は相続放棄します』って書面を作っただけでは、法律上の相続放棄にはならないんですよね!」


「そうだ」


 ここ。


 ものすごく大事です。


 遺産分割協議書に、


 ――私は財産を一切取得しない。


 と書いた。


 あるいは。


 親族に、


「借金はいらないし、財産もいらない」


 と言った。


 でも。


 それだけで民法九百三十八条の相続放棄をしたことにはなりません。


「先輩、これって間違えやすいですよね」


「ああ」


「遺産をもらわないことと、法律上の相続放棄は違う」


「そうだ」


 たとえば。


 兄弟二人で遺産分割協議をした。


 兄が土地も預金も全部取得する。


 弟は何も取得しない。


 そんな協議が成立したとしても。


 弟が家庭裁判所で相続放棄をしていなければ、相続人であったこと自体が消えるわけではありません。


 亡くなった父親の金銭債務について、弟が法定相続分に応じた責任を負うこともあり得ます。


「……怖い!」


 私は思わず声を上げました。


「財産をもらってないのに、借金だけ請求されることがあるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、単に遺産分割でゼロにすることと、相続放棄は分けて考えろ」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 ――遺産分割で何ももらわないことと、家庭裁判所での相続放棄は別。


 よし。


 これも絶対に忘れません。


「ところで」


 片桐所長が言いました。


「相続放棄したら、ほかの相続人はどうなる」


 私は顔を上げました。


「相続人の順位が変わることがあります!」


「説明してみろ」


「はい!」


 私はノートに簡単な家系図を書きました。


 父親。


 母親は既に死亡。


 子供二人。


 そして、父親の両親が健在。


「この場合、子供二人が相続人です」


「そうだ」


「でも、子供二人が相続放棄したら」


 私は鉛筆を動かしました。


「子供は、初めから相続人でなかったものとみなされます」


「うん」


「その結果、父親の両親が次の順位の相続人になることがあります!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 ここが怖いところです。


 子供が、


「借金があるから放棄します」


 と相続放棄した。


 それで安心。


 ……とは限りません。


 今度は、亡くなった人の父母が相続人になる場合があります。


 父母もいなければ、次の順位の兄弟姉妹が問題になることもあります。


「だから、相続放棄したら、次の順位の親族にも影響があるんですね」


「そうだ」


 もちろん。


 相続放棄した人が、次の相続人の借金を勝手に引き受けるわけではありません。


 それぞれの相続人が、自分の立場で承認や放棄を判断することになります。


「所長」


「何だ」


「相続放棄って、自分だけの問題だと思っていました」


「そうか」


「でも、家族全体に影響するんですね」


 所長が頷きました。


「だから相続人の範囲を確認する」


 私は、その言葉を書きました。


 ――相続放棄は、次順位の相続人にも影響することがある。


 なるほど。


 相続は、本当に一筋縄ではいきません。


「次は、相続放棄した後の管理です」


 私はノートをめくりました。


 ――民法九百四十条。


「相続放棄したら、もう財産に関係ないんじゃないんですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩が首を振りました。


「そう簡単じゃねえ」


「え?」


「家の中に遺産が残ってるのに、放棄したからって全部放り出していいと思うか?」


「……それは困ります」


「だろ」


 昭和六十三年の民法九百四十条。


 相続放棄をした者は、その放棄によって相続人となった者が相続財産の管理を始めることができるまで、自己の財産におけるのと同一の注意をもって、その財産の管理を継続しなければならない。


「つまり!」


 私は言いました。


「相続放棄をしても、一定の場合には管理を続けなければならないんですね!」


「そうだ」


 たとえば。


 親が亡くなった。


 子供が相続放棄した。


 でも、家には財産が残っている。


 次の相続人が管理を始めるまで、その財産を適切に扱う必要が生じる。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「相続放棄って、全部捨てて逃げる制度じゃないんですね」


「そうだ」


 ただし。


 私はふと、未来の知識を思い出しました。


 ……あれ?


 現代の民法九百四十条。


 たしか、改正されていましたよね?


「先輩!」


「何だ」


「ここ、昭和と現代で違うんです!」


「また未来の話か」


「大事なんです!」


 私は説明しました。


 現代では、令和三年の民法改正によって、相続放棄後の保存義務の規定が見直されています。


 改正法は令和五年四月一日に施行されました。


 現代の民法九百四十条では、相続放棄をした時に相続財産に属する財産を現に占有している場合に、その財産を相続人や相続財産の清算人に引き渡すまで保存する義務が定められています。


「……ちょっと待て」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何だ、その清算人ってのは」


「あっ!」


 しまった。


 未来の制度用語です。


「昭和六十三年には、今と条文の表現が違うんでした!」


「当たり前だ」


 私は慌てて六法を閉じました。


「すみません!」


 でも。


 この違いには、大きな意味があります。


 昭和の規定では、相続放棄をした者の管理継続義務が広く読める表現でした。


 一方、現代では、誰がどの財産について保存義務を負うのかが、より明確にされています。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「民法って、相続放棄の後始末についても、少しずつ整理されているんですね」


 片桐所長が頷きました。


「法律は、財産を放置してよいとは考えない。だが、義務の範囲は明確でなければならん」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 相続放棄後の管理継続義務。


 現代。


 現に占有する相続財産についての保存義務を明確化。


「これ、転生者にとっては地雷ですね」


「何がだ」


「昔の六法で、未来の九百四十条を説明したら怒られます!」


「怒るに決まってるだろ」


 ……ですよね。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「ここまでで三つの選択肢は整理できたな」


「はい!」


「じゃあ確認問題だ」


「来ました!」


 私は鉛筆を構えました。


 相馬先輩が言いました。


「父親が一千万円の財産と一千五百万円の借金を残した」


「はい」


「子供が単純承認したら?」


「プラスもマイナスも無限に承継します!」


「よし」


「相続人自身の財産から返済する責任も問題になります!」


「そうだ」


「じゃあ限定承認したら?」


「相続によって得た財産の限度で、被相続人の債務などを弁済します!」


「うん」


「原則として、相続人の固有財産から不足分を返済する必要はありません!」


「よし」


「相続放棄したら?」


「初めから相続人でなかったものとみなされます!」


「そうだ」


「プラスもマイナスも、原則として承継しません!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は拳を握りました。


 完璧。


 ……と思ったのですが。


「じゃあ次」


 相馬先輩がにやりとしました。


「父親の車を勝手に売った」


「法定単純承認が問題になります!」


「父親の家の割れた窓を直した」


「保存行為なら、原則として法定単純承認にはなりません!」


「三ヶ月、何もしなかった」


「原則として法定単純承認です!」


「相続放棄したあと、親父の預金を隠して自分の遊ぶ金に使った」


「民法九百二十一条三号の法定単純承認が問題になります!」


「よし」


 私は得意になりました。


「もう完璧です!」


「まだだ」


「ええっ!」


「限定承認は、相続人が三人いたら一人でできるか?」


「できません! 共同相続人全員で行います!」


「ただし?」


「適法に相続放棄して、初めから相続人でなかったとみなされる人は、共同限定承認に参加する必要はありません!」


「おお」


 相馬先輩が少し驚きました。


「覚えたな」


「はい!」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 片桐所長が、最後に一問出しました。


「こはる」


「はい!」


「遺産分割協議書に『私は財産を一切もらわない』と書いたら、相続放棄になるか」


「なりません!」


「どうする」


「家庭裁判所に相続放棄の申述をします!」


「よし」


 所長が頷きました。


 私は思わず笑いました。


 よかった。


 今日の内容。


 ちゃんと理解できています。


 窓の外は、もう夕暮れでした。


 私はノートを見返しました。


 単純承認。


 全部引き継ぐ。


 限定承認。


 相続財産の範囲で責任を負う。


 相続放棄。


 最初から相続人でなかったことになる。


 そして。


 法定単純承認。


 処分。


 三ヶ月経過。


 隠匿など。


 私は鉛筆を止めました。


「所長」


「何だ」


「今回、一番大事だったのは、何でしょう」


 片桐所長は少し考えました。


「選ぶ前に、財産を動かさないことだ」


「……はい」


「もちろん、必要な保存行為は別だ。だが、借金も財産も分からないうちに処分すると、選択肢を失いかねない」


 私は頷きました。


 藤沢家の事件。


 黒岩が持ち込んだ売買契約書。


 十万円で印刷機械を買い取る。


 それだけなら、親切そうにも見えます。


 でも。


 その行為によって、相続財産を処分したと評価されれば。


 相続人の選択肢が狭まる。


 しかも、契約書には債務の承継を認める文言まであった。


「先輩」


「何だ」


「やっぱり、あの契約書は怖かったですね」


「ああ」


「もし健一さんがハンコを押していたら……」


「争いになってただろうな」


 相馬先輩が言いました。


「だから書面を読むんだ」


「はい」


「言葉だけ聞くな」


「はい」


「『親の借金は子供が返すのが当然』なんて言われても、法律上どうなのか確かめろ」


「はい!」


 私は頷きました。


 なるほど。


 法律は、声の大きさで決まりません。


 親族の常識でもありません。


 金融業者の都合でもありません。


 条文。


 事実。


 証拠。


 そして、本人の選択。


 それらによって、決まるのです。


「さて」


 私はノートの最後のページを開きました。


「今日の一行を書きます!」


 相馬先輩が新聞を持ち直しました。


「やっと終わりか」


「まだです!」


「何?」


「一行が大事なんです!」


 私は鉛筆を握りました。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 三つの違いを、一行で覚える。


 少し考えて。


 私は書きました。


 ――単純承認は「全部背負う」、限定承認は「遺産の範囲で背負う」、相続放棄は「最初から背負わない」。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、分かりやすいな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 あの藤沢家の印刷工場。


 古い機械。


 インクの匂い。


 父親の写真。


 そして、黒岩が差し出した契約書。


 もし、法律を知らなかったら。


 健一さんは、親の借金を減らそうとして、機械を売っていたかもしれません。


 その善意が。


 かえって自分の生活を苦しめる結果につながったかもしれない。


 でも。


 民法を知っていたから。


 選ぶ権利を守ることができた。


 私は、ノートを閉じました。


「所長」


「何だ」


「法律って、知らない人には本当に厳しいですね」


 片桐所長が頷きました。


「だから、知っている者が支える」


「……はい」


「ただし、代わりに人生を決めるな」


 私は顔を上げました。


 所長は続けました。


「相続放棄するか、限定承認するか。決めるのは本人だ」


「はい」


「我々は、判断のための材料を整える」


 私は深く頷きました。


 行政書士。


 弁護士ではありません。


 裁判所で戦うこともできません。


 相手方との法律紛争について、業として示談交渉を代理することもできません。


 でも。


 財産目録を整理するための基礎資料。


 契約書の確認。


 事実関係の記録。


 内容証明郵便の作成支援。


 そして、必要な場面で弁護士などの専門家につなぐこと。


 そうした仕事には、大きな意味があります。


 藤沢さんたちは、それによって相続の選択肢を失わずに済んだのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、終わったか?」


「はい!」


「じゃあ、机の上の書類を片付けろ」


「……またですか」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私、今日、相続放棄について勉強したんです」


「それがどうした」


「だから、机の片付けを放棄します!」


 ……。


 相馬先輩が黙りました。


 そして。


「お前、馬鹿か?」


「ひどい!」


「相続放棄は、被相続人の財産上の地位を引き継がないための制度だろ」


「はい!」


「お前の仕事を放棄する制度じゃねえ!」


「……!」


 確かに。


 私は少し考えました。


「じゃあ、限定承認で!」


「何?」


「私が片付けるのは、自分の机の範囲に限定します!」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「駄目だ」


「どうしてですか!」


「その机、共有で使ってるだろ」


「……はい」


「じゃあ全員共同だな」


 ……。


 あ。


 民法九百二十三条。


 共同相続人全員で限定承認。


「先輩!」


「何だ!」


「それ、限定承認の使い方が違います!」


「分かってんなら片付けろ!」


「ひどい!」


 私は笑いながら書類をまとめました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 藤沢真理子さんと健一さんは、亡くなったお父さんの思い出を整理しているのでしょう。


 財産と借金。


 その両方を見つめながら。


 自分たちの生活を守るために。


 相続。


 それは。


 亡くなった人から何を受け取るか、という問題です。


 でも同時に。


 何を受け取らないか、という問題でもある。


 だからこそ。


 民法は、三つの選択肢を用意しています。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――単純承認は「全部背負う」、限定承認は「遺産の範囲で背負う」、相続放棄は「最初から背負わない」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで片付けろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「片付けにも熟慮期間をください!」


「何ヶ月だ!」


「三ヶ月です!」


「ふざけるな!」


 ……なるほど。


 相続には三ヶ月の熟慮期間がありますが。


 事務所の片付けには、そんな制度はないようです。


 残念ながら。


 私は今日も、単純承認どころか、無条件で掃除を引き受けることになりました。


 ただし。


 ひとつだけ、確信しました。


 親が残した借金まで、何も知らずに背負う必要はない。


 相続人には、法律が用意した選択肢がある。


 その選択肢を守るために大切なのは。


 期限を知ること。


 財産を調べること。


 そして。


 選ぶ前に、うっかり遺産を処分しないこと。


 赤いハンコを押す前に。


 民法を一度、開いてみる。


 それだけで。


 守れる人生が、きっとあるのです。

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