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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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571/701

[単純承認・限定承認・相続放棄]現場編 「親の借金は子供が返すのが当然」の罠。三ヶ月の時限爆弾と、遺産に手をつけさせたい悪徳金融業者の誤算

挿絵(By みてみん)

 親が残したものは、思い出だけとは限りません。


 家。


 預金。


 土地。


 そして。


 借金。


 もし、亡くなった父親が一千万円の財産と、一千五百万円の借金を残していたら。


 子供は、その借金を全部返さなければならないのでしょうか。


 それとも。


「借金はいりません。財産だけください」


 そんな都合のよい相続が、できるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私が知ることになったのは。


 相続には、三つの道があるということでした。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 そして、その三つの道には。


 恐ろしい落とし穴が、隠されていたのです。


 期限は、原則三ヶ月。


 うっかり遺産を処分すれば、もう戻れないことがある。


 さらに。


 相続放棄をしたあとでも、隠してはいけないものがある。


 ……民法。


 この法律、優しい顔をしているくせに。


 油断すると、とんでもなく怖いのです。


「父の借金を、私たちが払わなければいけないんでしょうか」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


 名前は、藤沢真理子さん。


 二十七歳。


 紺色のスカートに、白いブラウス。


 隣には、二十四歳の弟が座っていました。


 藤沢健一さん。


 二人とも、ひどく疲れた顔をしています。


「お父様は、いつ亡くなられましたか」


 片桐所長が尋ねました。


「六月二十日です」


 私は壁のカレンダーを見ました。


 九月十二日。


 ……え。


 六月二十日。


 九月十二日。


 三ヶ月まで、あとわずか。


「お二人は、その日に亡くなったことをご存じだったんですね?」


「はい。病院で看取りました」


「相続人は、お二人だけですか」


「母は五年前に亡くなっています。父は再婚していません」


「ほかにお子さんは?」


「いません」


 なるほど。


 妻は既に死亡。


 子供が二人。


 今回の相続人は、真理子さんと健一さんです。


「それで、借金というのは?」


 相馬先輩が尋ねました。


 真理子さんは、鞄から一通の封筒を取り出しました。


 茶封筒。


 赤い文字で、


 ――最終通告。


 と書かれています。


 嫌な予感しかしません。


 私は中身を読みました。


 差出人。


 東洋金融株式会社。


 代表取締役・黒岩重蔵。


 通知内容。


 ――亡藤沢正一の借入金残高は金一千五百万円である。


 ――相続人は被相続人の債務を承継する。


 ――よって、相続人両名は右金額の支払について責任を負う。


 ――期限までに支払がない場合は、法的措置を講ずる。


 ……。


 一千五百万円。


 私は思わず息を呑みました。


「お父さんは、そんなに借金をしていたんですか?」


「分かりません」


 真理子さんが首を振りました。


「父は小さな印刷工場を経営していました。景気が悪くなってから、苦しかったみたいですけど……」


「借用証書は?」


「見つかっていません」


「取引の明細は?」


「それもありません」


 弟の健一さんが、拳を握りました。


「姉ちゃんは信じてるんです。あの会社の言うことを」


「健一……」


「でも、俺はおかしいと思うんです!」


 健一さんが身を乗り出しました。


「親父が死んだ途端に来たんですよ! あの黒岩って男!」


「何と言われたんですか」


「親の借金は子供が返すのが当然だ、って!」


 私は眉をひそめました。


 親の借金。


 子供が返す。


 ……待ってください。


 それ、半分は正しいけれど。


 半分は、とても危険な言い方です。


「お父様には、ほかに財産がありますか」


 片桐所長が聞きました。


「家があります」


 真理子さんが答えました。


「父と母が建てた家です」


「評価額は?」


「不動産屋さんに相談したら、だいたい八百万円くらいだと」


「ほかには?」


「預金が百五十万円ほど。工場の機械や道具が、全部で五十万円くらいです」


 私は紙に書きました。


 家。


 八百万円。


 預金。


 百五十万円。


 工場の機械。


 五十万円。


 合計。


 一千万円。


 借金。


 一千五百万円。


 差額。


 マイナス五百万円。


 ……なるほど。


 相続したら、五百万円の持ち出しになる可能性があります。


 しかも、借金の額が本当に一千五百万円なのかも、まだ分からない。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく言いました。


「こういうときは限定承認があります!」


 真理子さんが顔を上げました。


「限定承認?」


「はい!」


 私は胸を張りました。


「相続で受け取った財産の範囲内で、亡くなった方の借金を弁済する方法です!」


 これです。


 行政書士試験で習いました。


 相続には三つの選択肢がある。


 全部引き継ぐ単純承認。


 プラスの財産の範囲で責任を負う限定承認。


 最初から相続人でなかったことになる相続放棄。


「つまり!」


 私は続けました。


「一千万円の財産に対して一千五百万円の借金があっても、限定承認なら、原則として自分たちの財産から残り五百万円を返す必要はないんです!」


「本当ですか!」


 真理子さんの表情が明るくなりました。


 よし。


 今回は解決が早そうです。


「では、お姉さんだけ限定承認して、弟さんは相続放棄すれば――」


「待て」


 相馬先輩の声。


 ……あ。


 来ました。


 いつもの嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「限定承認は、一人で勝手にできるのか?」


「え?」


「相続人が二人いる場合だ」


 私は固まりました。


 ……そうでした。


 民法九百二十三条。


 共同相続人の限定承認。


 相続人が数人あるときは。


 共同相続人全員が共同してのみ、限定承認をすることができる。


「……全員です」


「そうだ」


「限定承認は、共同相続人全員でしなければなりません」


 真理子さんが弟を見ました。


「じゃあ……」


 健一さんが腕を組みました。


「俺は、相続なんかしたくない」


「健一」


「借金があるなら、全部放棄したいんだ」


 真理子さんの顔が曇りました。


「でも、家は?」


「家?」


「お父さんとお母さんが建てた家よ」


「……」


「あの家まで、なくなってもいいの?」


 健一さんは黙りました。


 私は二人を見ました。


 なるほど。


 相続問題が難しいのは、計算だけではないのです。


 一千万円。


 一千五百万円。


 数字で見れば、借金の方が多い。


 でも。


 八百万円の家には、八百万円では表せないものがある。


 家族が暮らした時間。


 母親の思い出。


 父親が残した仕事場。


 それらを、簡単に捨てられるわけではありません。


「お二人がどうするか、決めなければなりません」


 片桐所長が言いました。


「ただし」


 所長はカレンダーを見ました。


「時間がない」


 私は頷きました。


 三ヶ月。


 熟慮期間。


 民法九百十五条。


 原則として、自己のために相続の開始があったことを知った時から三ヶ月。


 何もしないまま過ぎると。


 ……単純承認。


 あっ。


「所長!」


「何だ」


「あと八日です!」


「そうだ」


「急がないと!」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「慌てるのはいい。だが、慌てて遺産に手をつけるなよ」


 私は首をかしげました。


「どういう意味ですか?」


「民法九百二十一条だ」


 法定単純承認。


 相続財産の処分。


 期間経過。


 放棄などの後の隠匿や私的消費。


 私はその条文を思い出しました。


 そして。


 次に健一さんが言った一言で。


 背筋が凍ることになったのです。


「そういえば」


 健一さんが言いました。


「黒岩って男、昨日も来たんです」


「昨日?」


「はい」


「何を言われました?」


「親父の工場の機械を売って、借金の一部を返せって」


 ……。


 私は顔を上げました。


「売ったんですか?」


「いえ」


 健一さんが首を振りました。


「まだです」


 よかった。


 私は胸を撫で下ろしました。


 でも。


「黒岩が言うには、十万円で引き取ってやるって」


「……十万円?」


「はい」


「それで借金の返済に充てれば、誠意を見せたことになるって」


 相馬先輩が、煙草を置きました。


「売買契約書は?」


「持ってきています」


 健一さんが鞄から紙を出しました。


 私は受け取りました。


 ――機械設備売買契約書。


 売主。


 藤沢健一。


 買主。


 東洋金融株式会社。


 対象物。


 亡藤沢正一所有の印刷機械一式。


 売買代金。


 金十万円。


 その下。


 小さな文字。


 ――売主は亡藤沢正一の相続人として本件売買を行い、相続債務の存在及び承継を認める。


 ……。


 ……。


 え?


「先輩」


「ああ」


「これ……」


「見えてる」


 私はもう一度読みました。


 相続人として。


 売買を行い。


 相続債務の承継を認める。


 そして、印刷機械を売却する。


 ……駄目です。


 これは。


 危険すぎます。


「健一さん!」


「はい?」


「これ、署名しました?」


「いえ。明日、ハンコを押す約束です」


 私は椅子から立ち上がりました。


「絶対、今は押さないでください!」


 健一さんが驚きました。


「えっ?」


「相続財産を売却すると、法定単純承認の問題が生じるんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は説明しました。


「単純承認は、借金も含めて相続人が権利義務を全面的に引き継ぐことです」


「……はい」


「でも、本人が『単純承認します』と言わなくても、法律上そう扱われる場合があるんです」


「そんな……」


「その一つが、相続財産の処分です」


 民法九百二十一条一号。


 相続財産の全部又は一部を処分したとき。


 原則として、単純承認をしたものとみなされる。


 ただし、保存行為などは例外。


「だから、工場の機械を売ると……」


 健一さんの顔色が変わりました。


「借金を全部引き継いだことになるかもしれない?」


「はい」


 もちろん、誰が何を、どんな事情で処分したのかによって、具体的な判断は必要です。


 けれど。


 今回の契約書は、相続財産の機械一式を売却する内容です。


 しかも。


 相続債務を承継したことまで認める文言がある。


 とても軽い気持ちで押していい書類ではありません。


「……あの野郎」


 健一さんが呟きました。


「誠意を見せれば、借金を少し待ってやるって……」


 相馬先輩が言いました。


「誠意ねえ」


 そして。


「ずいぶん都合のいい誠意だな」


 私は、契約書を見つめました。


 借金を返すために。


 善意で。


 父親の機械を売る。


 そうすると、相続を承認したことになり得る。


 その結果。


 残った借金まで、相続人自身が返さなければならなくなる。


 ……怖い。


 これは本当に怖い。


「所長」


 私が言いました。


「黒岩という人、最初からこれを狙っていたんでしょうか」


 片桐所長は契約書を読みました。


 そして短く言いました。


「その可能性はある」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「借金を取り立てる前に、相続人を逃げられなくしたいってわけだ」


 私は拳を握りました。


 つまり。


 この男の本当の狙いは。


 十万円の機械ではない。


 一千五百万円の借金を、相続人の固有財産にまで追いかけられるようにすること。


 ……なんということでしょう。


 相続の三つの選択肢。


 その中から。


 相手に一番都合のいい道へ、誘導しようとしていたのです。


「しかし、所長」


 私は六法を開きました。


「今回、いつもの改正民法の罠はないんですね」


「何だ?」


「ほら、契約不適合責任とか、成年後見制度とか」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「何の話だ」


「あ、いえ!」


 危ない。


 また未来の法律を口にしてしまいました。


 私は慌てて話題を戻しました。


「単純承認、限定承認、相続放棄の基本的な仕組みは、昭和でも現代でも大きくは変わらないんですね」


「そうだ」


 所長が答えました。


「条文の表現や周辺の制度が変わることはある。だが、今問題にしている三つの選択肢は、昔から相続人を守るためにある」


「なるほど……」


 私は頷きました。


 現代と昭和。


 いつもなら、法律改正によって使えない知識があります。


 でも今回は違う。


 三ヶ月の熟慮期間。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 根本的な仕組みは共通しています。


 だからこそ。


 知っているつもりで油断すると、危ない。


「ところで」


 片桐所長が真理子さんに尋ねました。


「お父様の財産から、何か支払ったり、売却したりしましたか」


「いいえ」


「預金は?」


「通帳は持っていますけど、引き出していません」


「家の中のものは?」


「父の服や道具は、そのままです」


「家の管理は?」


「雨漏りがあったので、応急修理だけしました。費用は私のお給料から出しています」


 所長が頷きました。


「分かりました」


 私は思いました。


 保存行為。


 家を壊さないための応急修理。


 これは、財産を勝手に売ったり使い切ったりすることとは違います。


 もっとも、どんな行為でも「保存」と言えば許されるわけではありません。


 事実をきちんと見なければならない。


「こはる」


 所長が言いました。


「相続財産を守ることと、相続財産を処分することは違う」


「はい」


「そこを混同するな」


 私は頷きました。


 そして。


 もう一つ、大切なことに気づきました。


「真理子さん」


「はい」


「お父様に、ほかの借金がある可能性は?」


「……分かりません」


「黒岩の言う一千五百万円以外にも、です」


 真理子さんは黙りました。


 それから。


「工場の仕入先に、未払金があるかもしれません」


 ……そうですよね。


 相続財産。


 プラスの財産は、ある程度調べられる。


 家。


 預金。


 機械。


 でも。


 マイナスの財産は、調べきれないことがあります。


 借用証書。


 連帯保証。


 未払金。


 後から出てくる債務。


 だからこそ。


 限定承認という制度には、意味があるのです。


 ただし。


 現金一千万円をもらい、借金は一千万円だけ払って終わり、という単純な話ではありません。


 財産目録。


 債権者への対応。


 弁済の手続。


 必要に応じた相続財産の換価。


 いくつもの手順があります。


 そして。


 家も、必ず残せるとは限らない。


 私は真理子さんを見ました。


「限定承認を選べば、借金から生活を守れる可能性はあります。でも、お父様の家を無条件に残せるわけではありません」


 真理子さんは静かに頷きました。


「……分かっています」


 そして、弟を見ました。


「健一」


「何?」


「私は、お父さんが何を残したのか、ちゃんと調べたい」


「……」


「借金も、財産も」


 健一さんは黙っていました。


 やがて。


「俺も、逃げるだけじゃなくて……ちゃんと調べたい」


 そう言いました。


 片桐所長が頷きました。


「なら、まずは時間を確保することだ」


「時間?」


 私は聞き返しました。


「熟慮期間の伸長だ」


 ……あっ!


 民法九百十五条。


 三ヶ月以内に相続財産の調査が終わらない場合。


 利害関係人などの請求によって、家庭裁判所が期間を伸長できる制度があります。


「そうでした!」


 私は頷きました。


「三ヶ月は原則ですけど、必ずその日で打ち切りとは限らないんですね!」


「ただし」


 相馬先輩が言いました。


「勝手に延びるわけじゃねえぞ」


「はい」


「家裁の手続が必要だ。期限内に動くんだ」


「はい!」


 片桐所長は、二人に向き直りました。


「家庭裁判所への申立ては、適切な専門家につなぎます。当事務所では、財産調査の基礎資料と事実関係を整理しましょう」


 相馬先輩が頷きました。


「それと、黒岩の借金の証拠だ」


 私は顔を上げました。


「証拠?」


「そうだ。債務を相続するかどうか以前に、本当にその債務があるのか、金額はいくらなのか。そこを調べねえとな」


 なるほど。


 借金があると言われたから、ある。


 金額が一千五百万円と書いてあるから、一千五百万円。


 そんな話ではありません。


 契約書。


 貸付金の交付記録。


 返済履歴。


 利息の計算。


 全部、確認する必要があります。


「先輩」


「何だ」


「やっぱり内容証明ですね」


「そういうことだ」


 先輩がにやりとしました。


「相手が紙で脅してきたんなら、こっちは紙で事実を突きつける」


 片桐所長が静かに言いました。


「ただし、まだ単純承認も限定承認もしていない。こちらの言葉で余計な承認をするな」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 相続人として債務を認めた。


 返済すると約束した。


 財産を処分する。


 そうした余計な記載は避ける。


 まずは。


 借金の根拠を確認する。


 相続の選択を妨げる行為を止める。


 そのための書面です。


 翌日。


 私と相馬先輩は、藤沢家の印刷工場へ向かいました。


 駅から少し離れた住宅街。


 錆びたトタン屋根。


 古い看板には、


 ――藤沢印刷所。


 とあります。


 中に入ると、インクの匂いが残っていました。


 大きな印刷機。


 作業台。


 金属製の活字。


 壁には、古びたカレンダー。


 六月で止まっています。


「……父は、毎日ここにいました」


 真理子さんが言いました。


「朝六時から、夜遅くまで」


 私は機械を見つめました。


「頑張っていたんですね」


「はい」


 真理子さんは、少し笑いました。


「儲からないって、いつも言っていましたけど」


 そのとき。


 入口から声がしました。


「おう、話はついたか?」


 振り返ると。


 黒い背広の男が立っていました。


 四十代後半。


 太い金の腕時計。


 口元に、薄い笑み。


「黒岩さん……」


 真理子さんが小さく言いました。


 東洋金融株式会社。


 社長。


 黒岩重蔵。


 今回の相手です。


「機械の売買契約、持ってきたか?」


 黒岩は健一さんを見ました。


「十万円で引き取ってやるって話だ」


「……まだ決めていません」


「何?」


「専門家に相談してからにします」


 黒岩の目が細くなりました。


「専門家?」


 相馬先輩が名刺を差し出しました。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 黒岩は鼻で笑いました。


「なんだ、代書屋か」


 ……。


 言いましたね。


 全国の行政書士が六法を開きたくなる発言、その二です。


「弁護士じゃねえんだろ?」


「そうです」


「じゃあ、借金の話に口出ししてくるなよ」


 相馬先輩は表情を変えません。


「本日は、財産の現状確認に立ち会っているだけです」


「ふん」


 黒岩は真理子さんに向き直りました。


「親父さんの借金、一千五百万円だぞ」


「はい……」


「家が八百万円。預金と機械で二百万円。あと五百万円足りねえ」


 私は思わず口を開きかけました。


 でも。


 先輩が手で制しました。


「子供なら、親の借金を返すのが筋だろ」


 黒岩は笑いました。


「それとも、逃げる気か?」


 真理子さんは俯きました。


 黒岩が続けます。


「相続放棄なんて、冷たい真似はするなよ」


 ……。


 私は胸の中で叫びました。


 違う!


 相続放棄は、親を見捨てることじゃありません!


 亡くなった人の借金によって、残された家族の生活まで壊されないようにする制度です!


 でも、口には出しません。


 ここで私たちが依頼人の代理人として示談交渉を始めるわけにはいかないからです。


 黒岩はさらに言いました。


「第一、機械を売れば、借金を引き継ぐって認めたことになるんだからな」


 ……え?


 私は顔を上げました。


 黒岩は笑っています。


「知ってるか? 相続財産を処分したら、単純承認になることがあるんだよ」


 ……。


 知っている。


 この男。


 法律を知らないわけではありません。


 むしろ。


 知っていて、誘導していた。


「だからよ」


 黒岩は契約書を振りました。


「まず、この機械を売れ。十万円だけでも返せば、誠意が見えるじゃねえか」


 相馬先輩が、静かに口を開きました。


「黒岩さん」


「あ?」


「今のお話は、確認しました」


「何?」


「機械の売却によって単純承認が問題になることを、ご存じだったんですね」


 黒岩の笑みが止まりました。


「……だから何だ」


「いえ。確認だけです」


 相馬先輩は手帳に書きました。


 私はその横顔を見ました。


 怒鳴らない。


 責めない。


 ただ、相手の言ったことを記録する。


 そうです。


 行政書士の仕事は。


 その場で口喧嘩に勝つことではない。


 証拠を残すこと。


 後で言い逃れができないようにすること。


「機械は処分しません」


 健一さんが自分で言いました。


 黒岩が睨みます。


「何だと?」


「少なくとも、相続について決めるまでは売りません」


「……生意気な」


 健一さんは震えていました。


 でも。


 顔を上げています。


「親父が残したものだから、勝手に決めたくないんです」


 黒岩は舌打ちしました。


「好きにしろ。だが、借金は消えねえぞ」


 そして。


 工場を出ていきました。


 私はその背中を見つめました。


 ……この人。


 まだ余裕があります。


 きっと。


 法律を知っているのは、自分だけだと思っているのでしょう。


 でも。


 それは今日までです。


 事務所に戻った私たちは、資料を広げました。


 借入通知。


 機械売買契約書案。


 父親の通帳。


 印刷所の帳簿。


 そして。


 一冊の古い借入金台帳。


「これ……」


 私はページをめくりました。


 藤沢正一。


 借入先・東洋金融。


 借入元本。


 一千万円。


 返済記録。


 数年間にわたり、数十万円ずつ。


 合計すると、相当額が返済されていました。


「先輩」


「何だ」


「黒岩の一千五百万円って、どういう計算なんでしょう」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「元本、利息、遅延損害金。何をどう計算したのか不明だ」


「それに、返済した分が反映されているかどうかも分かりません」


「そうだ」


 私は書面の原案を書きました。


 宛先。


 東洋金融株式会社。


 代表取締役・黒岩重蔵殿。


 差出人。


 藤沢真理子。


 藤沢健一。


 内容。


 ――亡藤沢正一に係る債務について、貴社は金一千五百万円の支払を請求している。


 ――しかし、通知人らは、当該債務の発生原因、契約内容、弁済状況及び残高計算の根拠を確認できていない。


 ――ついては、金銭消費貸借契約書、金銭交付記録、弁済履歴、利息及び遅延損害金の計算書その他請求額の根拠資料を提示されたい。


 ――通知人らは、現時点において、本件債務の存在及び金額を承認するものではない。


 ――通知人らは、民法第九百十五条に基づく相続の承認又は放棄について検討中である。


 ――貴社が提示した印刷機械売買契約については、現時点で締結する意思がなく、相続財産の処分を行うものではない。


 ――なお、本通知は、相続債務の承認又は弁済の約束を意味しない。


 書き終えました。


「どうですか!」


 相馬先輩が読みました。


「……悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、もう一つ入れろ」


「何ですか?」


「民法九百二十一条だ」


 私は頷きました。


 法定単純承認。


 相手が、機械の処分を持ちかけた。


 しかも、その法的な意味を知っていた。


 ならば。


 こちらがなぜ機械の売却を拒むのか。


 法律上の理由を明確にする。


 私は書き加えました。


 ――相続財産の処分は、民法第九百二十一条第一号により法定単純承認の問題を生じさせるため、通知人らは、相続の選択を終えるまで、本件機械の売却に応じない。


 そして。


 最後の一文。


 ――本件請求に係る紛争が継続する場合には、通知人らは弁護士に相談し、適切な法的対応を検討する。


 私は読み終えました。


「……できました」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 片桐所長も書面を確認しました。


「請求額が間違っていると決めつけるな」


「はい」


「債務がないとも断定するな」


「はい」


「相手の資料を求め、確認できていないことを明確にする」


「はい」


「それでいい」


 私は、少し驚きました。


 今回の内容証明には。


 派手な言葉がありません。


 契約解除!


 損害賠償!


 直ちに返金せよ!


 そういう攻撃的な言葉ではなく。


 確認。


 資料提示。


 承認していないことの明示。


 それだけです。


 でも。


 逆に、それが怖い。


 相手は一千五百万円と請求している。


 だったら。


 その根拠を説明しなければならない。


 根拠を示せなければ、請求額の正当性を争われる。


 しかも。


 相続人が単純承認したという主張も、簡単にはできない。


 機械は売っていない。


 預金も使っていない。


 三ヶ月の期間内。


 家庭裁判所への手続も進めている。


 ……なるほど。


「所長」


「何だ」


「今回は、相手を攻撃する書面じゃないんですね」


「そうだ」


「相続人が選ぶ権利を守る書面なんですね」


 所長が頷きました。


「相手に選ばせるな」


 その一言。


 私は深く頷きました。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 三つの選択肢。


 それを決めるのは。


 黒岩ではありません。


 相続人自身なのです。


 内容証明郵便を発送してから三日後。


 東洋金融から電話がありました。


『……片桐事務所ですか』


 黒岩の声です。


 前回よりも、明らかに低い。


「はい。片桐行政書士事務所です」


『あの通知書の件だ』


 相馬先輩が受話器を取りました。


「相馬です」


『……借金の資料を出せって書いてあったな』


「通知人ご本人からの照会事項です。回答はご本人宛てにお願いします」


『分かってる!』


 黒岩は苛立った声を出しました。


『こっちだって、法律くらい知ってるんだよ』


「そうですか」


『相続したら借金も引き継ぐ。それは間違いないだろうが!』


「単純承認の場合などには、債務の承継が問題になりますね」


『だったら!』


「ただし、具体的な債務の有無と金額、相続の選択については、それぞれ確認が必要でしょう」


 黒岩は黙りました。


『……機械は売ってねえんだな』


「そのように聞いています」


『預金も?』


「現時点で、処分したとの報告はありません」


『……ちっ』


 私は思いました。


 やっぱり。


 この男。


 相続財産を処分したかどうか、気にしている。


 つまり。


 法定単純承認の材料が欲しかったのです。


『借金の資料は、本人たちに送る』


「承知しました」


『それから……』


 黒岩の声が、少し小さくなりました。


『あの機械の契約書は、もういい』


 私は顔を上げました。


『買い取りの話は撤回する』


「その旨も、本人宛てに書面でお願いします」


『……分かったよ』


 電話が切れました。


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「何だ」


「折れましたね!」


「一つだけな」


「一つ?」


「あいつは、機械の買い取りを引っ込めた。だが借金そのものが消えたわけじゃねえ」


「……はい」


 そうでした。


 相続人を守ることと。


 正当な債権者の権利を消してしまうことは違います。


 借金が本当にあるなら。


 法律に従って処理しなければならない。


 それが民法です。


 私は頷きました。


「でも、少なくとも、罠にはかからずに済みました」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「十万円の機械を売らせて、一千五百万円の借金を追いかけようなんて、そう簡単にいくと思うなって話だ」


 私は少し笑いました。


 ところが。


 本当の驚きは、まだ残っていたのです。


 翌日。


 東洋金融から、真理子さんたちのもとに資料が届きました。


 借用証書の写し。


 返済台帳。


 利息計算書。


 しかし。


 私たちが整理した父親の帳簿と照合すると、いくつもの疑問が出てきました。


 既に返済したはずの金額。


 計算方法が明確でない利息。


 契約書と一致しない記載。


「……これ、本当に一千五百万円なんでしょうか」


 私は呟きました。


 相馬先輩が言いました。


「分からん」


「ですよね」


「だから調べるんだ」


 先輩は、帳簿を指差しました。


「ここの返済記録と、向こうの台帳が合ってねえ」


「はい」


「それに、利息の計算も確認がいる」


「はい」


「黒岩の言った金額を、そのまま飲む理由はねえ」


 私は頷きました。


 片桐所長が言いました。


「ここから先、請求額を争うなら弁護士だ」


「はい」


「我々は事実と資料を整理し、依頼人に渡す」


「分かりました」


 所長は続けました。


「そして、相続の熟慮期間だ」


 ……そうでした。


 三ヶ月。


 九月二十日。


 そこが、原則の期限です。


 既に真理子さんたちには、家庭裁判所での熟慮期間伸長の手続について、弁護士への相談を進めてもらっています。


 相続財産の調査が終わらない。


 借金の金額が不明。


 限定承認をするか、放棄するか、決めるための資料が足りない。


 そういう事情を整理したうえで、期間内に家庭裁判所へ申し立てる必要があるのです。


 私は、壁のカレンダーを見ました。


「期限って、本当に怖いですね」


 相馬先輩が頷きました。


「法律は、待ってくれねえからな」


「はい……」


「何もしなかったことにも、意味がある」


 民法九百二十一条二号。


 期間内に限定承認も相続放棄もしなければ。


 原則、単純承認したものとみなされる。


 つまり。


 沈黙していることも。


 法律上は、重大な選択になるのです。


 それから数週間。


 弁護士の助言を受け、真理子さんたちは家庭裁判所から熟慮期間の伸長を認められました。


 その間に、財産調査が進みました。


 工場の取引先への確認。


 不動産の資料。


 預金の記録。


 東洋金融の請求資料。


 弁護士による債務の精査。


 そして。


 真理子さんたちは、一つの結論にたどり着きました。


「私たち、限定承認にしたいと思います」


 事務所を訪れた真理子さんが、そう言いました。


「本当にいいんですか」


 私は尋ねました。


「はい」


 真理子さんは頷きました。


「父が残した財産で、父の借金を整理したいんです」


「……はい」


「でも、私たちの生活まで失いたくありません」


 隣の健一さんも頷きました。


「俺も、姉ちゃんと一緒に限定承認します」


 私は顔を上げました。


「二人とも?」


「はい」


 健一さんが笑いました。


「最初は、全部放棄しようと思ってました」


「そうでしたね」


「でも、調べてみたら、親父が何を守ろうとしていたか、少し分かった気がしたんです」


 健一さんは、工場の写真を見せました。


 古い印刷機。


 父親の作業台。


 壁のカレンダー。


「借金があるからって、親父が全部間違ってたことにはならないですよね」


 私は、しばらく言葉を探しました。


 そして。


「はい」


 そう答えました。


 真理子さんが言いました。


「家を残せるかどうかは、まだ分かりません」


「……はい」


「でも、私たちがどうするか、自分たちで決めたかったんです」


 その言葉。


 私は胸に残りました。


 相続は。


 親が残した財産を、ただ受け取ることではない。


 受け取るか。


 条件をつけて受け取るか。


 受け取らないか。


 自分の人生を守るために、選ぶことなのです。


 その後、二人は弁護士の支援を受けて、共同で財産目録を整え、伸長された期間内に家庭裁判所へ限定承認を申述しました。


 限定承認が受理されても、そこで借金の整理が終わるわけではありません。


 債権者への公告や弁済など、必要な手続が続きます。


 東洋金融の請求額についても、弁護士が資料を精査したうえで、根拠の不明な部分を争うことになりました。


 黒岩が最初に示した一千五百万円を、二人がそのまま認めることはありませんでした。


 そして何より。


 二人は、父親の借金のために、自分たちの生活をすべて差し出す道を避けることができたのです。


 事件が一段落した夕方。


 私は机に向かっていました。


 目の前には、三つの言葉。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


「先輩」


「何だ」


「今回、一番怖かったのは、どれだと思います?」


「何がだ」


「三つの相続方法です」


 相馬先輩は少し考えました。


「単純承認か?」


「私はそう思いました」


「どうしてだ」


「だって、うっかり財産を売っただけで、単純承認したことになる場合があるんですよ」


「そうだな」


「しかも、三ヶ月経って何もしなかった場合も」


「ああ」


 私は六法を開きました。


 民法九百二十一条。


 法定単純承認。


 相続財産を処分したとき。


 熟慮期間内に限定承認や放棄をしなかったとき。


 そして。


 もう一つ。


「先輩」


「何だ」


「相続放棄をしたあとでも、単純承認になることがあるんですよね」


 相馬先輩が頷きました。


「相続財産を隠したり、自分のために使い込んだりした場合だな」


「はい」


 私は顔をしかめました。


「放棄したのに、ですか」


「そうだ」


「怖い……」


「考えてみろ」


 先輩が言いました。


「借金はいらねえと言って放棄しておいて、親父の預金だけこっそり懐に入れる奴がいたらどうする」


「……駄目です」


「だろ?」


「債権者からすれば、返済に充てられる財産を隠されたことになります」


「そういうことだ」


 なるほど。


 相続放棄は、都合の悪いものだけ捨てる制度ではありません。


 財産も借金も、原則として引き継がない選択です。


 だから。


 借金は放棄。


 預金だけ隠して持っていく。


 そんな勝手なことは許されない。


「ただし、実際に法定単純承認になるかどうかは、行為の内容や事情、それに法律上の例外も確認しなきゃならねえぞ」


「はい」


 相馬先輩は頷きました。


「そこを雑に覚えると、また失敗する」


「……先輩、私の未来の失敗を予言しないでください」


「お前ならやりかねねえだろ」


「ひどい!」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「相続放棄は、どこでする」


「家庭裁判所です!」


「親族に『放棄する』と言えばいいのか」


「駄目です!」


「債権者に手紙を送れば、それで相続放棄になるか」


「なりません!」


 私は勢いよく答えました。


「家庭裁判所に申述する必要があります!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は少し得意になりました。


 でも。


「所長」


「何だ」


「相続放棄したら、最初から相続人じゃなかったことになるんですよね」


「そうだ」


「じゃあ、ほかの親族に相続が回ることもあるんですね」


「ああ」


 ……そうでした。


 民法九百三十九条。


 相続放棄した者は、初めから相続人とならなかったものとみなされる。


 つまり。


 子供が全員相続放棄した場合。


 次の順位の相続人が問題になることがあります。


 亡くなった人の父母。


 さらに、その次の順位の親族。


 もちろん、各人の相続の承認・放棄は、それぞれの立場で判断されます。


 でも。


 借金を自分たちが放棄したから、家族全員の問題が自動的に終わるわけではありません。


「相続って……」


 私は呟きました。


「一人だけの話じゃないんですね」


「そうだ」


 所長が言いました。


「だから、誰が相続人になるかを最初に確認する」


「はい」


「財産と債務を調べる」


「はい」


「そのうえで選ぶ」


 私は頷きました。


 実務の順番。


 それが、少し分かってきました。


 数日後。


 真理子さんから、一通の手紙が届きました。


 中には、写真が一枚。


 藤沢印刷所の前。


 真理子さんと健一さんが並んでいます。


 二人の手には、古い写真立て。


 亡くなったお父さんの写真でした。


 手紙には、こう書かれていました。


 ――父の借金を知ったとき、私たちは、父が怖くなりました。


 ――どうして、こんな借金を残したのか。


 ――私たちの生活を、どうするつもりだったのか。


 ――怒りもありました。


 ――でも、財産を調べていくうちに、父が最後まで工場を守ろうとしていたことが分かりました。


 ――借金を全部返せるとは限りません。


 ――家も、残せるか分かりません。


 ――それでも、私たちは、自分たちの生活を守りながら、父が残したものと向き合う方法を選びました。


 ――ありがとうございました。


 私は手紙を読み終えました。


 しばらく、何も言えませんでした。


 相続。


 試験では、数字の問題です。


 三ヶ月。


 千万円。


 千五百万円。


 プラス。


 マイナス。


 承認。


 放棄。


 けれど。


 実際には。


 亡くなった人の人生がある。


 残された人の生活がある。


 守りたい家がある。


 そして。


 どうしても背負いきれない借金がある。


 そんなとき。


 民法は、三つの道を用意している。


 全部受け取る。


 責任の範囲を限って受け取る。


 受け取らない。


 どれが正しいかは、家庭によって違います。


 大切なのは。


 その選択を、他人に奪われないことです。


「相馬先輩」


「何だ」


「私、今回の事件で分かりました」


「何がだ」


「単純承認って、単純じゃないんですね」


 先輩が顔をしかめました。


「……は?」


「名前は単純なのに、すごく怖いです」


「まあな」


「限定承認も、限定っていうから簡単そうなのに、共同相続人全員でしなきゃいけないし」


「ああ」


「相続放棄も、放棄しますって言うだけじゃ駄目だし」


「そうだな」


 私は大きく頷きました。


「名前に騙されちゃ駄目ですね!」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「お前、今日一日で何回それ言った?」


「大事なことです!」


「なら、ちゃんと書いとけ」


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 ――相続は、財産も借金も見てから選ぶ。処分する前に確認し、三ヶ月の期限を忘れない。


「……できました!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「一行です!」


「ずいぶん詰め込んだな」


「重要なことが多すぎるんです!」


 片桐所長が小さく笑いました。


 珍しい。


 所長が笑いました。


「こはる」


「はい」


「今回、何を守った」


 私は少し考えました。


「……財産でしょうか」


「違う」


「え?」


「選ぶ権利だ」


 私は顔を上げました。


 所長が続けました。


「何も知らないまま、借金を引き受けることになってはいけない」


「はい」


「何も知らないまま、大事な財産を手放すことになってもいけない」


「はい」


「法律が選択肢を用意しているなら、本人が理解して選べるようにする」


 私は頷きました。


 なるほど。


 民法は。


 借金を魔法のように消す法律ではありません。


 亡くなった人の財産を、必ず守ってくれる法律でもありません。


 でも。


 何も知らない人が、取り返しのつかない選択をさせられないように。


 道を示すことはできる。


 そして。


 その道を選ぶ時間も、一定の範囲で用意している。


 それが。


 相続の承認と放棄なのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の女性の声。


『相続放棄について、相談したいんですが……』


 私は背筋を伸ばしました。


「はい。どうされましたか?」


『実は、主人が亡くなってから、もう半年になるんです』


 ……。


 半年。


 私は、思わずカレンダーを見ました。


『でも、借金があると知ったのは、昨日なんです』


 ……え?


 私は固まりました。


「先輩!」


「何だ」


「相続開始から半年経ってるそうです!」


「それがどうした」


「でも、借金を知ったのは昨日だって!」


 相馬先輩が顔を上げました。


「おい、こはる」


「はい!」


「三ヶ月の起算点を言ってみろ」


「自己のために相続の開始があったことを知った時からです!」


「そうだ」


「じゃあ、借金を昨日知ったから、必ず昨日から三ヶ月になるんですか?」


「そんな単純な話じゃねえ」


 先輩が言いました。


「相続開始を知った時期、財産や債務を認識できなかった事情。判例上の例外が問題になることもある」


 私は頷きました。


 そうです。


 熟慮期間。


 相続放棄。


 ただ、死亡日から機械的に三ヶ月を数えるだけでは、答えが出ない場合もあります。


 もちろん、借金を後で知ったから必ず延びる、というわけでもありません。


 具体的な事情を慎重に調べなければならない。


 ……また難しい!


「こはる」


「はい!」


「まず、いつ何を知ったのか聞け」


「はい!」


「相続財産を処分してないかも確認しろ」


「はい!」


「それから弁護士につなぐ必要があるか判断する」


「分かりました!」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。ご主人が亡くなられたときの事情から、順番に教えていただけますか」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 相続の相談は、今日も続きます。


 単純承認。


 限定承認。


 相続放棄。


 三つしかない選択肢。


 でも。


 その三つを知らないだけで、人は大切な財産を失うことがある。


 反対に。


 その三つを正しく理解していれば、守れる暮らしがある。


 私は電話口の女性の話を聞きながら、ノートの端に書き加えました。


 ――親の人生を受け継ぐことと、親の借金で自分の人生を失うことは、同じではない。


 うん。


 今日の教訓は、これが一番しっくりきます。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「相続って、やっぱり怖いですね!」


「怖いから調べるんだろ!」


「はい!」


「それから!」


「何ですか!」


「相談者に『借金だけ放棄できます』なんて、間違っても言うなよ!」


「言いません!」


「限定承認なら家が絶対残る、とも言うな!」


「言いません!」


「三ヶ月を過ぎても必ず何とかなる、なんて言うな!」


「分かってます!」


 ……もう。


 先輩は本当に心配性です。


 でも。


 それが実務というものなのでしょう。


 私は六法を開きました。


 民法九百二十条。


 単純承認。


 九百二十一条。


 法定単純承認。


 九百二十二条。


 限定承認。


 九百二十三条。


 共同相続人。


 九百三十八条。


 相続放棄の方式。


 九百三十九条。


 相続放棄の効力。


 ……よし。


 少しずつ、つながってきました。


 法律は、暗記するだけでは見えないものがあります。


 三ヶ月という期限の意味。


 処分行為が危険な理由。


 限定承認に全員の協力が必要な理由。


 相続放棄を家庭裁判所で行う理由。


 それらが、藤沢家の事件を通じて、少しずつ理解できた気がします。


 そして。


 私は今日、はっきりと知りました。


 親が亡くなったとき。


 残された子供には、悲しむ時間が必要です。


 けれど、法律上の期限は進んでいきます。


 だからこそ。


 悲しんでいる人に、知らないうちに借金を背負わせてはいけない。


 そんな人から、選択する権利を奪う者がいるなら。


 私たちは、法律と書面で立ち向かう。


 弁護士ではありません。


 裁判所で戦うこともできません。


 それでも。


 事実を調べる。


 証拠を残す。


 必要な書類を整える。


 そして、適切な専門家へつなぐ。


 それだけで、守れる人生があるのです。


 窓の外では、夕暮れの町に明かりが灯り始めていました。


 私はもう一度、六法に目を落としました。


 相続は、亡くなった人からの贈り物とは限りません。


 ときには。


 重すぎる荷物が、残されることもあります。


 でも。


 その荷物を、どう受け止めるか。


 民法は、残された人に選ぶ道を与えている。


 だから。


 たとえ親の借金が一千五百万円あっても。


 子供の人生まで、当然に差し出さなければならないわけではない。


 ……これだけは。


 絶対に忘れないようにしようと思います。

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