[民法・特別受益者の相続分]法理編 こはるノート
相続財産は、亡くなった人が残したものだけとは限りません。
正確に言えば。
実際に分ける財産と。
公平に分けるために計算する財産は。
必ずしも同じではないのです。
たとえば。
父親が三千万円の財産を残して亡くなった。
相続人は、妻と二人の息子。
しかし、生前に。
長男には、住宅購入資金として六百万円。
次男には、仕事用の車を購入する資金として四百万円。
それぞれ贈与していた。
この場合。
三千万円だけを法定相続分で分けてよいのでしょうか。
そして。
既にもらった六百万円や四百万円は、返さなければならないのでしょうか。
さらに。
もし長男が、生前に二千万円もらっていたら?
相続分は、マイナスになるのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
今日のテーマは。
特別受益者の相続分。
民法第九百三条。
そして。
遺産相続で、兄弟の仲が悪くなる原因としては、かなり強烈な制度です。
「……先輩」
「何だ」
「民法って、足し算と引き算まで怖いんですね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また変なこと言い出したな」
「だって、昨日の田島家ですよ!」
「ああ」
「三千万円の遺産なのに、四千万円で計算するんですよ!」
「そうだな」
「最初、意味が分かりませんでした」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
「じゃあ、復習するか」
「はい!」
「田島家の相続人は?」
「妻の文江さん、長男の浩一さん、次男の修二さんです!」
「遺産はいくらだ」
「三千万円!」
「生前贈与は?」
「長男が六百万円、次男が四百万円!」
「で、結局どうなった」
私は胸を張りました。
「特別受益を考慮して、文江さんが二千万円、浩一さんが四百万円、修二さんが六百万円を基本とする遺産分割で合意しました!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「じゃあ、その数字をどう出したか、説明してみろ」
「任せてください!」
私は鉛筆を握りました。
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「計算する前に、何を確認した」
……。
私は止まりました。
計算する前。
つまり。
「生前贈与が、特別受益に当たるかどうかです!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「何でも足していいわけじゃない」
「はい!」
私はノートの一番上に書きました。
――特別受益は、まず『何をもらったか』を確認する。
さあ。
今日も、昭和の民法との戦いが始まります。
◇
「まず、特別受益者とは何か、です」
私はノートに大きく書きました。
――特別受益者。
共同相続人のうち、被相続人から一定の遺贈や贈与を受けた人。
「共同相続人って何だ」
相馬先輩が聞きました。
「同じ被相続人について、共同して相続人になる人たちです」
「田島家なら?」
「文江さん、浩一さん、修二さん!」
「そうだ」
私は頷きました。
ここが最初のポイントです。
特別受益者というのは。
単に、生前に何かをもらった人ではありません。
共同相続人の中で、法律が定める特別な利益を受けた人です。
「じゃあ、何をもらったら特別受益になる?」
相馬先輩が尋ねました。
「三つの類型です!」
私は指を立てました。
「一つ目。遺贈!」
「うん」
「二つ目。婚姻や養子縁組のための贈与!」
「うん」
「三つ目。生計の資本としての贈与!」
「よし」
私はノートに書き込みました。
遺贈。
婚姻・養子縁組のための贈与。
生計の資本としての贈与。
この三つが、民法九百三条一項に登場する特別受益です。
「ところで先輩」
「何だ」
「遺贈と贈与って、似てますよね」
「ああ」
「でも、同じではありません」
私はノートを開き直しました。
遺贈は、遺言によって財産を与えること。
贈与は、当事者間の贈与契約によって財産を与えること。
「たとえば」
私は言いました。
「お父さんが遺言書に、『長男に一千万円を遺贈する』と書いた場合」
「うん」
「共同相続人である長男が遺贈を受けたなら、特別受益の対象になります」
「そうだ」
「でも、生前の贈与は、何でも特別受益になるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「そこを間違える奴が多い」
私は続きを書きました。
婚姻のための贈与。
たとえば、結婚するときに親が多額の持参金を渡した場合。
養子縁組のための贈与。
たとえば、養子縁組に伴い、生活の基盤を作るためにまとまった財産を渡した場合。
そして。
生計の資本としての贈与。
たとえば、住宅購入資金。
事業開始資金。
独立して生活するための多額の援助。
「田島家は、ここですね」
「そうだ」
私は昨日の事件を思い出しました。
長男の浩一さん。
家を建てるために六百万円。
次男の修二さん。
仕事用の車を買うために四百万円。
しかも。
父親の清一さんが残した帳簿には、
――生活の基盤を作るため。
そう書かれていました。
「これが決定的でしたね」
「ああ」
「単なる小遣いじゃない。仕事や生活の土台を作るための援助だった」
相馬先輩が頷きました。
「しかも、銀行の振込記録も残ってた」
「はい」
「法律の条文に当てはめるには、まず事実が必要だ」
私はその言葉に赤線を引きました。
法律を知っているだけでは足りません。
六百万円を受け取った。
それだけでは、まだ結論は出せない。
誰から。
誰へ。
いつ。
何のために。
返済の約束があったのか。
どんな家族関係だったのか。
そこまで確認して初めて。
特別受益かどうかを考えられるのです。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「親が子供に誕生日プレゼントとして腕時計を買った場合は?」
「それだけで、すぐ特別受益とは言えねえな」
「ですよね」
「金額や生活状況にもよるが、普通の贈り物まで何でも持ち戻すわけじゃねえ」
私は頷きました。
親からもらったもの。
全部が特別受益。
これは間違いです。
逆に。
「親からもらったお金は、全部相続と無関係」
これも間違い。
大切なのは。
その贈与が、どんな性質のものだったか。
そこを見極めることなのです。
◇
「さて」
相馬先輩が机に紙を置きました。
「次は計算だ」
「来ましたね!」
「田島家の数字を書け」
「はい!」
私は大きく書きました。
父・田島清一。
死亡時の遺産、三千万円。
妻・文江。
長男・浩一。
次男・修二。
長男への生前贈与、六百万円。
次男への生前贈与、四百万円。
「ここで最初の問題です」
私は言いました。
「相続財産は三千万円なのに、なぜ四千万円を使うのでしょうか」
相馬先輩が笑いました。
「自分で答えろ」
「はい!」
私は鉛筆を走らせました。
三千万円+六百万円+四百万円=四千万円。
――みなし相続財産。
「これです!」
「うん」
「民法九百三条一項では、被相続人が相続開始時に持っていた財産の価額に、特別受益となる生前贈与の価額を加えて、相続財産とみなします」
「そうだ」
「つまり、四千万円は計算上の財産です!」
「正解」
私は頷きました。
ここが大切です。
四千万円。
この数字は。
田島家の金庫に四千万円あった、という意味ではありません。
実際に残っているのは三千万円。
でも。
既に長男が六百万円。
次男が四百万円。
先に受け取っています。
だから。
公平な取り分を計算するために。
いったん、贈与された金額を加える。
これが持戻し計算です。
「先輩」
「何だ」
「なんだか、みんなが同じスタート地点に戻るみたいですね」
「ほう」
「先にもらった人も、まだもらっていない人も、いったん全部を並べて考える」
「そういうことだ」
私は笑いました。
なるほど。
持戻し。
難しい言葉ですが。
意味が分かると、意外と単純です。
先にもらった利益を、計算上、いったん戻す。
それによって。
誰がどれだけ受け取るのが公平かを考えるのです。
「ただし!」
私は自分で声を上げました。
「実際に返金させることとは違います!」
相馬先輩が頷きました。
「そこを忘れるな」
長男は六百万円を返す必要がある。
次男は四百万円を返す必要がある。
だから、遺産が四千万円になる。
そんな意味ではありません。
あくまで。
相続分の計算上、加算するのです。
◇
「じゃあ、次です!」
私はノートをめくりました。
――一応の相続分。
「四千万円を、法定相続分で分けます!」
片桐所長が頷きました。
「割合は?」
「配偶者が二分の一、子全体で二分の一です!」
「うん」
「子が二人なので、それぞれ四分の一!」
私は計算しました。
妻・文江。
四千万円×二分の一。
二千万円。
長男・浩一。
四千万円×四分の一。
一千万円。
次男・修二。
四千万円×四分の一。
一千万円。
「はい!」
私はノートを掲げました。
「一応の相続分は、二千万円、一千万円、一千万円です!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、そのまま分けるか?」
「いいえ!」
「何でだ」
「もう受け取っている分があるからです!」
私は赤鉛筆を取りました。
ここから。
いよいよ引き算です。
妻・文江。
一応の相続分、二千万円。
特別受益、ゼロ。
具体的相続分、二千万円。
長男・浩一。
一応の相続分、一千万円。
特別受益、六百万円。
一千万円-六百万円=四百万円。
次男・修二。
一応の相続分、一千万円。
特別受益、四百万円。
一千万円-四百万円=六百万円。
「できました!」
私は数字を足します。
二千万円+四百万円+六百万円。
合計。
三千万円。
「ぴったり!」
「当たり前だ」
相馬先輩が笑いました。
「でも、ここで確認するのは大事です!」
私はノートに書きました。
――具体的相続分の合計は、実際に残った遺産額と一致する。
少なくとも、今回のように超過特別受益や他の調整要素がない単純な事例なら。
この計算で確認できます。
私は表にまとめました。
| 相続人 | 一応の相続分 | 特別受益 | 具体的相続分 |
| ----- | ------- | ------- | ------- |
| 妻・文江 | 2,000万円 | 0円 | 2,000万円 |
| 長男・浩一 | 1,000万円 | 600万円 | 400万円 |
| 次男・修二 | 1,000万円 | 400万円 | 600万円 |
| 合計 | 4,000万円 | 1,000万円 | 3,000万円 |
「ほら!」
私は表を指差しました。
「こうすると、一目で分かります!」
「そうだな」
「しかも、長男さんの最初の計算と全然違います」
最初の遺産分割協議書案。
妻、千五百万円。
長男、七百五十万円。
次男、七百五十万円。
でも。
特別受益を考慮すると。
妻、二千万円。
長男、四百万円。
次男、六百万円。
「長男さんの取り分は、三百五十万円減りました」
「ああ」
「文江さんの取り分は、五百万円増えました」
「そうだ」
私は鉛筆を置きました。
「これ、数字だけ見たらすごい変化ですよね」
相馬先輩は頷きました。
「だから、最初に作られた協議書を、何も考えずに信じるなってことだ」
「はい」
「法定相続分の割合が正しくても、特別受益を見落としていたら結果は変わる」
私はその言葉をノートに書きました。
――法定相続分の割合が正しくても、具体的相続分まで正しいとは限らない。
これは、行政書士試験で絶対に間違えたくないところです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「はい!」
「ここまでは簡単だ」
「えっ」
「本当に厄介なのは、ここからだ」
私は身構えました。
嫌な予感。
相馬先輩がこういう顔をするときは、大抵、試験で引っかかる問題が出てきます。
「田島家の長男が、六百万円じゃなくて、もっと多くもらっていたらどうなる?」
「もっと?」
「ああ。たとえば、二千万円だ」
私はノートに書きました。
長男への生前贈与。
二千万円。
次男への生前贈与。
四百万円。
残った遺産。
三千万円。
「……ずいぶん太っ腹なお父さんですね」
「そこは今、関係ねえ」
「はい!」
私は計算を始めました。
三千万円+二千万円+四百万円。
合計、五千四百万円。
「みなし相続財産は五千四百万円です!」
「うん」
「妻は二分の一なので二千七百万円!」
「うん」
「長男と次男は、それぞれ四分の一なので千三百五十万円!」
「そうだ」
私は長男の具体的相続分を計算しました。
千三百五十万円-二千万円。
……。
マイナス六百五十万円。
「先輩!」
「何だ」
「マイナスになりました!」
「そうだな」
「じゃあ、長男さんは六百五十万円を返さないといけないんですか?」
相馬先輩は笑いました。
「民法九百三条二項を読め」
私は六法を開きました。
そこには。
遺贈または贈与の価額が、算定された相続分の価額に等しいか、それを超える場合。
その受遺者または受贈者は、相続分を受けることができない。
そう書かれています。
「……あ!」
私は顔を上げました。
「返せとは書いてありません!」
「そうだ」
「相続分を受けられない、と書いてあります!」
「そこだ」
相馬先輩が頷きます。
つまり。
特別受益が自分の一応の相続分を超えていたら。
今回の遺産から、新たに受け取る分はゼロ。
でも。
民法九百三条の特別受益の計算だけを根拠として、当然に超過分の返還義務が生じるわけではないのです。
「なるほど!」
私は赤線を引きました。
――超過特別受益者の相続分はゼロ。ただし、九百三条だけで超過分の返還義務が生じるわけではない。
「これ、重要ですね!」
「ああ」
「先にもらいすぎた人は、今回の遺産からはもらえない。でも、だからといって生前贈与そのものを取り消す制度ではない」
「そういうことだ」
私は頷きました。
ただし。
ここで、もう一つ気づきました。
「あれ?」
「どうした」
「先輩。この場合、長男の相続分をゼロにしたら、残りの三千万円はどうなるんですか?」
私は先ほどの数字を見直しました。
妻。
二千七百万円。
次男。
千三百五十万円-四百万円。
九百五十万円。
長男。
ゼロ。
合計。
三千六百五十万円。
「……あれっ!」
私は叫びました。
「三千万円しかないのに、三千六百五十万円になりました!」
相馬先輩がにやりとしました。
「気づいたか」
「気づきましたけど、困ります!」
「だろうな」
「六百五十万円、どこから出てきたんですか!」
所長が、静かに口を開きました。
「超過特別受益者がいる場合は、残りの相続人の取り分を調整する必要がある」
「……調整?」
「そうだ」
私は改めて計算しました。
長男は、既に受け取った二千万円が一応の相続分を超えている。
したがって、今回の三千万円からは受け取らない。
残った三千万円について、長男の超過分を考慮しながら、妻と次男の取り分を調整する。
今回の単純化した例なら、長男の取り分をゼロとしたうえで、残る妻と次男の一応の相続分の比率に応じて調整する考え方があります。
妻と次男の調整前の取り分は。
二千七百万円と九百五十万円。
合計三千六百五十万円。
これを、実際の遺産三千万円に合わせて按分すると。
妻は約二千二百十九万円。
次男は約七百八十一万円。
長男はゼロ。
合計三千万円。
「……できました!」
私は息を吐きました。
「でも、これは難しいですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「超過特別受益があるときは、単純に引き算して終わりにはできねえ」
「はい」
「他の相続人の取り分まで関係するからな」
私はノートに書きました。
――超過特別受益がある場合は、他の相続人の相続分の調整にも注意する。
ただし、実務では遺留分その他の問題が絡むこともあり、具体的な計算や分割方法について争いがあれば、弁護士への相談や家庭裁判所での手続が必要になります。
今回の田島家では、幸い、そこまで複雑な状況ではありませんでした。
長男六百万円。
次男四百万円。
どちらも一応の相続分の範囲内。
だから。
最初の基本計算で整理できたのです。
「……先輩」
「何だ」
「普通の計算問題が、急に難しくなりました」
「民法はそういうもんだ」
「怖いです!」
「だから、条文を最後まで読め」
私は深く頷きました。
九百三条。
一項だけ覚えて終わりではありません。
二項にも、重要な意味があるのです。
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「そもそも、親が生前贈与した財産を、必ず持ち戻さなければならないのか」
「え?」
私は首をかしげました。
「九百三条に書いてあるんだから、当然じゃ……」
そこで止まりました。
違います。
まだありました。
第三項。
「持戻し免除の意思表示!」
私は思わず叫びました。
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
民法九百三条三項。
被相続人が、前二項と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。
「つまり」
私は言いました。
「お父さんが『この贈与は相続分から差し引かなくていい』という意思を示していた場合ですね」
「そうだ」
「そうすると、原則として、その意思が尊重される」
「うん」
私はノートに書きました。
――持戻し免除の意思表示。
生前贈与などを、特別受益として相続分から控除しない扱いを望む被相続人の意思表示。
「たとえば」
私は言いました。
「お父さんが長男に六百万円を渡したとき、『これはお前に特別にやる金だ。将来の相続分とは別に考えてくれ』と言っていた場合です」
「そうだな」
「それが持戻し免除の意思表示として認められる可能性がある」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、言ったと言い張るだけじゃ、簡単には済まねえ」
「……証拠ですね」
「ああ」
私は昨日の長男を思い出しました。
浩一さんは最初、
「生前にもらった金は相続と無関係だ」
と主張していました。
でも。
それは、浩一さん自身の考えにすぎません。
民法九百三条三項で問題になるのは。
被相続人。
つまり、亡くなった清一さん自身の意思です。
「もらった側が勝手に『持戻し免除だ』と決めることはできないんですね」
「そのとおり」
片桐所長が頷きました。
私はノートに赤線を引きました。
――持戻し免除を決めるのは、財産を与えた被相続人の意思。
「所長」
「何だ」
「持戻し免除って、必ず書面が必要なんですか?」
「必ずしもそうとは限らない」
「え?」
「明示の意思表示だけでなく、事情から黙示の意思表示が認められる場合もある」
私は目を丸くしました。
なるほど。
書面に、
――この贈与について持戻しを免除する。
と書かれていれば、分かりやすい。
でも。
生前の言動。
贈与の目的。
家族の事情。
そうした事実を総合して、黙示の持戻し免除の意思表示が認められる場合もあるのです。
「だからこそ、証拠が重要なんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
そして、もう一つ。
私は書き加えました。
――持戻し免除があっても、遺留分の問題は別に検討する。
民法は、被相続人の意思を尊重します。
けれど。
他の相続人の遺留分を侵害する問題があれば、そこで別の法律関係が生じることがあります。
つまり。
持戻し免除がある。
だから何をしても絶対に問題ない。
そんな単純な話でもありません。
「……民法って、本当に逃げ道がないですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「逃げ道じゃねえよ」
「え?」
「それぞれの権利を、きちんと整理してるんだ」
私は少し考えました。
確かに。
特別受益は、共同相続人間の公平を守る。
持戻し免除は、被相続人の意思を尊重する。
遺留分は、一定の相続人を保護する。
それぞれ、守っているものが違う。
法律は。
一つの正義だけで動いているわけではないのです。
◇
「さて」
私はノートをめくりました。
「次は、昭和と現代の違いです!」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「また未来の話か」
「大事なんです!」
「お前は未来の法律が好きだな」
「好きというか、私の頭に入っているのが現代の法律なので……」
「何?」
「あ、いえ!」
危ない。
転生者だとバレるところでした。
私は慌てて六法を開きました。
「昭和六十三年の民法九百三条には、何項までありますか?」
「三項だ」
「そうです!」
私は大きく書きました。
昭和六十三年。
民法九百三条。
第一項。
特別受益の持戻しと具体的相続分。
第二項。
超過特別受益者の相続分。
第三項。
被相続人の異なる意思表示。
「ここまでは、現代にも基本的な考え方が引き継がれています」
「うん」
「でも、現代には第四項があります!」
相馬先輩が六法を確認しました。
「この六法にはねえぞ」
「昭和の六法ですから!」
「じゃあ、今の仕事には使えねえな」
「はい……」
私は苦笑しました。
ですが。
この第四項こそ。
現代の相続法が、残された配偶者の生活を守る方向へ進んだことを示す、重要な規定なのです。
平成三十年の相続法改正。
そして令和元年七月一日から施行された、民法九百三条四項。
そこでは。
婚姻期間が二十年以上の夫婦について。
一方が他方に対して、居住用の建物やその敷地を遺贈または贈与した場合。
原則として。
その遺贈や贈与について、持戻し免除の意思表示があったものと推定する。
という仕組みが設けられました。
「……二十年以上?」
相馬先輩が聞きました。
「はい!」
「ずいぶん長いな」
「長年連れ添った配偶者の居住を守るための制度なんです」
私は説明しました。
「たとえば、夫が妻に、自宅の土地建物を生前贈与したとします」
「うん」
「婚姻期間は三十年」
「うん」
「ところが夫が亡くなったあと、その自宅の価額を当然に特別受益として計算に加えると……」
私は少し考えました。
「妻が生前にもらった自宅の価額を、自分の相続分から差し引かれることになります」
「そうだな」
「そうすると、自宅はあるけれど、預金などの取り分が少なくなって、生活資金が不足する可能性があります」
片桐所長が頷きました。
「なるほど」
「だから現代では、一定の要件を満たす長年の夫婦間の居住用不動産の贈与・遺贈について、持戻し免除の意思を推定するんです」
「……そうか」
相馬先輩が呟きました。
「夫婦で暮らしてきた家を、残された配偶者に渡す。それを相続分の前渡しと当然に扱わないわけだな」
「そうです!」
私は嬉しくなりました。
ただし。
ここには重要な注意点があります。
「先輩、推定といっても、絶対ではありません」
「ほう」
「法律上、持戻し免除の意思表示があったと推定するだけです。反対の事実によって覆される余地があります」
「なるほどな」
「それに、対象は婚姻期間二十年以上の夫婦間における居住用不動産の贈与や遺贈です」
私はノートに赤線を引きました。
現金なら何でも適用。
結婚していれば誰でも適用。
夫婦間の贈与は全部適用。
そんな規定ではありません。
そして何より。
「昭和六十三年には、まだありません!」
「分かったから大声を出すな」
「はい!」
私は笑いました。
ただし。
ここで昨日の田島家を思い出します。
文江さん。
夫の清一さんと、長年連れ添っていました。
住み慣れた自宅を守りたいと願っていました。
でも。
文江さん自身は、その家を生前贈与されたわけではありません。
だから。
仮に現代だったとしても、婚姻期間が二十年以上というだけで、九百三条四項を直接使えるわけではないのです。
「……なるほど」
私は頷きました。
「文江さんを守れたのは、現代の第四項のおかげではなく、昭和六十三年にもある第一項の特別受益の計算だったんですね」
片桐所長が言いました。
「そうだ」
「条文の目的が似ていても、適用要件は別」
「そのとおり」
私はノートに書きました。
――法律の目的に共感しても、条文の要件を飛ばしてはいけない。
これは。
行政書士として、かなり大切な教訓です。
◇
「ところで先輩」
「何だ」
「昭和と現代で、特別受益の基本的な計算方法は大きく変わっていませんよね」
「ああ」
「でも、現代の相続法では、配偶者の居住を守る制度が増えています」
私は続けました。
現代には。
配偶者居住権という制度もあります。
これは令和二年四月一日に施行された制度です。
一定の要件のもと、残された配偶者が、亡くなった配偶者の所有していた建物に住み続けるための権利を認める仕組み。
「配偶者居住権?」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「何だ、それは」
「あっ」
しまった。
また未来の言葉です。
「今は使えない制度です!」
「またか!」
「でも、これも大切なんです!」
私は慌てて説明しました。
昭和六十三年。
現在の配偶者居住権制度は、まだありません。
残された配偶者が家に住み続けるためには、当時の法制度のもとで、所有権の取得や他の法的な方法を検討する必要がありました。
一方、現代では。
自宅を所有することだけでなく、一定の要件のもとで居住する権利を確保するという選択肢もあります。
「つまり」
私は言いました。
「現代の相続法は、財産をどう分けるかだけでなく、残された配偶者がどう暮らし続けるかも、より具体的に考えるようになっているんです」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
そして。
「……文江さんみたいな人を守るためか」
「はい」
私は頷きました。
「そういう事情が、制度改正の背景の一つなんだと思います」
所長が静かに言いました。
「法律は、暮らしから離れて存在するものじゃない」
私はその言葉を書き留めました。
昭和から令和へ。
法律の用語や条文は変わります。
でも。
誰かが住む場所を失わないように。
残された人が生活を続けられるように。
そういう問題意識は、昔も今も続いているのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「昨日の長男は、何を間違えていた?」
「民法九百三条を知らなかったことです!」
「それだけか?」
私は少し考えました。
長男の浩一さん。
父親から六百万円をもらっていた。
そのお金で家を建てた。
でも。
父親が亡くなると。
その六百万円は、もう自分の財産だから関係ないと言い張った。
そして。
残された三千万円を、単純に法定相続分で分けようとした。
「……贈与の効力と、特別受益の計算を混同していたんです」
「そうだ」
私は頷きました。
ここが、今回の事件で最も重要なところかもしれません。
父親から六百万円の贈与を受けた。
その贈与が有効に成立していれば、六百万円は長男の財産になります。
それ自体を、民法九百三条が当然に否定するわけではありません。
でも。
その財産を取得したことが、相続分の計算で考慮される場合がある。
「つまり、先輩」
「何だ」
「もらったものは、自分のもの。でも、相続の計算では、もらった事実を無視できない」
「そういうことだ」
私は赤線を引きました。
――贈与の有効性と、特別受益としての持戻し計算は別問題。
この区別。
本当に大事です。
「それなのに長男さんは、『もう自分の金だから関係ない』って言い張ったんですね」
「ああ」
「でも、民法九百三条は、まさにその『もう自分のものになった贈与』を相続分の計算に反映する制度なんですね」
「そのとおり」
私は笑いました。
「それじゃあ、長男さんの言い分は、答えになっていなかったんですね」
「そうだな」
相馬先輩も笑いました。
「論点を外していたわけだ」
私はノートに大きく書きました。
――『贈与は完了している』だけでは、『特別受益ではない』ことの説明にならない。
よし。
これも覚えました。
◇
「じゃあ、もう一つ質問です!」
私は手を挙げました。
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「まだあるのか」
「あります!」
「何だ」
「もし、生前贈与を受けたのが、相続人じゃない人だったら?」
先輩が顔を上げました。
「ほう」
「たとえば、長男のお嫁さんに六百万円を贈与した場合です」
私はノートに書きました。
被相続人。
父。
相続人。
妻。
長男。
次男。
贈与を受けた人。
長男の妻。
「長男の妻は、原則として父親の法定相続人ではありませんよね」
「そうだ」
「だったら、当然に長男本人の特別受益として計算していいんでしょうか?」
片桐所長が答えました。
「原則として、そうはならない」
「やっぱり!」
「九百三条が問題にするのは、共同相続人が受けた一定の利益だからな」
私は頷きました。
つまり。
贈与を受けた人が、誰なのか。
これは重要です。
長男本人が六百万円もらったのか。
長男の妻がもらったのか。
その違いで、民法九百三条の適用関係は変わります。
もっとも。
実際には、名義だけを長男の妻にして、実質的には長男への贈与だったというような事情も考えられます。
だから。
形式だけで決めつけず、実際の財産移転の内容を確認する必要があります。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「相続人じゃない人への贈与は、原則として九百三条の特別受益とは別なんですね」
「そうだ」
「でも、名義と実態が違う場合は注意が必要」
「うん」
私は書きました。
――特別受益では、誰が利益を受けたかを確認する。
そして。
もう一つ気づきました。
「先輩、特別受益の計算だけでは解決できない問題もありますよね」
「ああ」
「たとえば、相続開始前の贈与によって遺留分が侵害される場合です」
所長が頷きました。
「そこは別に検討する必要がある」
私はノートに書きました。
特別受益。
遺留分。
似たように生前贈与が問題になりますが。
制度の目的も、計算方法も、すべて同じではありません。
特別受益は、共同相続人間の公平な相続分を算定する制度。
遺留分は、一定の相続人に保障される最低限の相続上の利益を守る制度。
「混同すると危険ですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「一つの贈与から、いくつもの法律問題が生まれることがある」
「はい!」
だからこそ。
一つの条文だけを覚えて満足してはいけないのです。
◇
窓の外が、少しずつ暗くなってきました。
商店街には、夕食の買い物をする人たちの姿。
自転車に乗った学生。
買い物袋を持ったおばあさん。
昭和六十三年の、いつもの夕方です。
私はノートのページをめくりました。
今日の学習内容。
特別受益者。
みなし相続財産。
一応の相続分。
具体的相続分。
超過特別受益。
持戻し免除。
そして。
昭和と現代の制度の違い。
「……たくさんありますね」
私は呟きました。
相馬先輩が笑います。
「何だ、もう疲れたのか」
「違います!」
「じゃあ何だ」
「これだけ覚えることがあるのに、試験では一問にまとめられるんですよ!」
「恐ろしい試験だな」
「本当に!」
私は頷きました。
でも。
不思議なことに。
今日は、あまり苦痛ではありません。
なぜなら。
数字を見るたびに、田島家の顔が浮かぶからです。
六百万円。
家を建てた長男。
四百万円。
仕事を始めるために車を買った次男。
三千万円。
残された財産。
そして。
二千万円。
文江さんが、生活を守るために取得することになった財産の価額。
「先輩」
「何だ」
「法律の計算って、意味が分かると忘れにくいですね」
「ああ」
「昔は、公式だけ覚えようとしてました」
私はノートを見つめました。
みなし相続財産。
そこから法定相続分を計算。
特別受益を控除。
教科書なら、三行で終わる話です。
でも。
実際の事件では。
誰が何をもらったか。
それが贈与だったのか。
生計の資本としての贈与だったのか。
被相続人が持戻しを免除していなかったか。
証拠はあるか。
遺産分割の合意があるか。
そうした事実を、一つずつ確認しなければなりません。
「所長」
私は言いました。
「試験の問題って、最初から事実が全部書いてありますよね」
「ああ」
「でも、実務では、その事実を集めるところから始まるんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「しかも、相手は都合の悪いことを言わない場合もある」
「あるな」
「長男さんだって、最初から六百万円のことを自分で説明してくれたわけじゃありません」
相馬先輩が笑いました。
「むしろ、そこを忘れさせたかったんだろうな」
「はい」
私は、清一さんの大学ノートを思い出しました。
家族のための支出。
そう書かれた古い帳簿。
そこに残っていた六百万円と四百万円の記録。
もし、あの帳簿がなかったら。
もし、銀行の振込記録が残っていなかったら。
相続人たちは、もっと長く争っていたかもしれません。
「……書類って、大事ですね」
私は呟きました。
片桐所長が静かに言いました。
「書類は、過去の事実を未来に残す」
私は顔を上げました。
「……はい」
「本人が亡くなっても、記録は残る」
所長は続けました。
「何のために金を渡したか。いくら渡したか。どんな約束だったか」
私は頷きました。
「だから、贈与契約書や振込記録が大切なんですね」
「そうだ」
生前贈与をするとき。
贈与契約書を作る。
日付を残す。
金額を明確にする。
贈与の目的を記録する。
必要に応じて、持戻し免除の意思表示も明確にしておく。
それが。
将来の相続争いを防ぐことにつながるのです。
法律は。
亡くなったあとだけの話ではありません。
生きているうちに、準備できることもあるのです。
◇
「さて、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「最後に確認する」
来ました。
所長の抜き打ち試験です。
私は背筋を伸ばしました。
「特別受益者とは?」
「共同相続人のうち、被相続人から遺贈や、婚姻・養子縁組のための贈与、生計の資本としての贈与を受けた人です!」
「よし」
「生前に受けたすべての贈与が特別受益になるか」
「なりません! 贈与の目的や性質などを確認します!」
「よし」
「持戻しとは?」
「特別受益となる生前贈与の価額を、相続分の計算上、相続財産に加えることです!」
「現実に返金するのか」
「いいえ! 計算上の持戻しと、現実の返還は別です!」
「よし」
所長は続けました。
「三千万円の遺産。長男への六百万円の特別受益。次男への四百万円の特別受益。みなし相続財産はいくらだ」
「四千万円!」
「妻の一応の相続分は?」
「二千万円!」
「長男は?」
「一千万円!」
「次男は?」
「一千万円!」
「具体的相続分は?」
「妻が二千万円! 長男が四百万円! 次男が六百万円!」
「正解」
私は拳を握りました。
やった。
ここまでは完璧。
「では」
所長が続けました。
「特別受益が一応の相続分を超えた場合は?」
「その特別受益者は、新たに相続分を受け取れません!」
「超過分は?」
「民法九百三条だけでは、当然に返還義務は生じません!」
「よし」
「持戻しを免除できるか」
「被相続人が持戻し免除の意思を表示していれば、原則としてその意思に従います。ただし、遺留分などの問題は別に検討します!」
所長が頷きました。
「いいだろう」
私は思わず笑いました。
今日は、かなり調子がいいです。
ところが。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「昭和六十三年の民法九百三条四項には、何が書いてある?」
「ありません!」
「おお」
「昭和六十三年には、第四項は存在しません!」
「正解」
「現代では、二十年以上婚姻していた夫婦間の居住用不動産の贈与・遺贈について、持戻し免除の意思表示を推定する規定があります!」
「はいはい」
「でも昭和六十三年には存在しません!」
「分かった」
「そして、その現代の規定も、単に二十年以上婚姻しているだけで適用されるわけではありません!」
「だから分かったって!」
相馬先輩が笑いました。
私は得意になりました。
そして。
所長が最後の質問をしました。
「こはる」
「はい!」
「今回、文江さんを守ったものは何だ」
「民法九百三条です!」
「それだけか」
私は少し考えました。
条文。
特別受益。
持戻し。
でも。
それだけではありません。
「……証拠です」
私は答えました。
「清一さんが残した帳簿と、銀行の振込記録です」
所長が頷きました。
「うん」
「それから、相続人全員が事実を認めて、合意したことです」
「そうだ」
私は続けました。
「民法九百三条を知っているだけでは、相続は終わらないんですね」
「ああ」
「実際に何があったのかを調べて、書類にして、みんなが理解できる形にする」
「うん」
「それが、行政書士の仕事なんですね」
片桐所長は、静かに頷きました。
「そうだ」
◇
私はノートの最後のページを開きました。
今日の内容を、全部思い返します。
特別受益者とは。
生前に、一定の特別な利益を受けた共同相続人。
持戻しとは。
その利益を相続分の計算に反映すること。
みなし相続財産とは。
残された遺産に、特別受益となる生前贈与の価額を加えた、計算上の財産。
具体的相続分とは。
その計算を踏まえて、各相続人が取得すべき相続分。
そして。
特別受益が多すぎる人は、相続分がゼロになることがある。
ただし、それだけで超過分を返さなければならないわけではない。
持戻し免除の意思表示があれば、原則としてその意思が尊重される。
昭和六十三年には九百三条四項は存在しない。
現代では、長年連れ添った配偶者の居住用不動産について、一定の場合に持戻し免除の意思表示が推定される。
「……よし」
私は鉛筆の先を整えました。
そして。
今日の一行を書きました。
――特別受益は「先にもらった分」を計算に戻し、公平に分ける仕組み。持ち戻して、割って、差し引く。ただし超過分は原則返さない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長いな」
「ええっ!」
「一行にしては長い」
「でも、重要なことが全部入ってます!」
「まあ、そうだな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行。
たぶん、忘れません。
田島家の事件を思い出せばいい。
生前に六百万円をもらった長男。
四百万円をもらった次男。
そして。
父親と暮らした家を守りたいと願った母親。
相続は、単なる財産の取り合いではありません。
亡くなった人が。
生きている間に、誰に何を与えてきたのか。
その積み重ねを、もう一度見つめることでもあります。
だから。
民法は、亡くなったときに残った三千万円だけを見るのではありません。
既に渡された六百万円と四百万円にも目を向ける。
それは。
家族の間の公平を守るため。
そして。
亡くなった人が残した思いを、できるだけ大切にするためなのです。
◇
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今日の勉強会は終わりだな」
「はい!」
「じゃあ、帰るぞ」
先輩は上着を取ろうとしました。
そのとき。
「相馬」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「今日は掃除当番だろう」
……。
私は顔を上げました。
そうです。
昨日、所長が決めたのです。
今日の掃除当番は、相馬先輩。
昨日の私の掃除を考慮して。
公平にするために。
「……所長」
相馬先輩が言いました。
「何だ」
「昨日の約束、まだ有効ですか」
「もちろんだ」
「……」
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だよ」
「掃除当番にも、公平が必要ですよね!」
「うるせえ」
「昨日、私が掃除した分を、計算上持ち戻して――」
「持ち戻すな!」
私は吹き出しました。
「でも先輩!」
「何だ!」
「先に掃除した人と、していない人が同じ扱いだったら不公平じゃありませんか!」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
そして。
「……こはる」
「はい?」
「じゃあ、こうしよう」
「何ですか?」
「昨日、お前に昼飯を奢っただろ」
「……はい」
「あれを持ち戻す」
「は?」
「俺が奢った昼飯代を計算に入れて、掃除の負担を調整するんだ」
私は固まりました。
「先輩」
「何だ」
「それ、特別受益じゃありません」
「知ってるよ」
「しかも、相続じゃありません」
「分かってる」
「それに、ラーメンと餃子を奢ったからって、掃除当番がなくなるわけじゃありません!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、すっかり九百三条を覚えたな」
「先輩が変な問題を出すからです!」
そこへ。
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「掃除は、頼んだぞ」
「……はい」
私は勝ち誇りました。
「やりました!」
「お前は帰れ!」
「はい!」
私は鞄を持ちました。
でも。
扉の前で、ふと立ち止まりました。
机の上。
相馬先輩が使っている箒。
窓の外。
夕焼けに染まる、昭和六十三年の町。
そして。
田島家の、あの古い家。
清一さんの写真。
文江さんの笑顔。
息子たちが、庭の草取りに来るという話。
私は、少しだけ笑いました。
「先輩」
「今度は何だ」
「民法九百三条って、いい法律ですね」
「……そうか?」
「はい」
私は答えました。
「先にもらった人を罰するためじゃなくて、家族みんなの公平を考える法律だからです」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
それから。
「まあな」
短く言いました。
私は頷きました。
法律は。
いつも誰かを負かすためにあるわけではありません。
誰かの主張を正し。
誰かの誤解を解き。
誰かの暮らしを守るためにもある。
今回の特別受益は、まさにそうでした。
六百万円。
四百万円。
三千万円。
四千万円。
数字だけなら、ただの計算です。
でも。
その数字の向こうに、家族の人生がある。
それを忘れないこと。
それが、今日いちばん大切な教訓だったのかもしれません。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「帰るなら、早く帰れ!」
「はい!」
「それから、明日の朝は机を拭いとけ!」
「ええっ!」
「見習いだろ!」
私は振り返りました。
「先輩!」
「何だ!」
「私、昨日も机を拭いたんですけど!」
「だから何だ!」
「それも持戻しの対象に――」
「ならねえよ!」
……なるほど。
どうやら。
相続財産の公平を守る民法九百三条でも。
見習い行政書士の掃除当番までは、守ってくれないようです。
残念。
でも。
今日の勉強は、完璧です。
私は鞄の中のノートを、もう一度開きました。
最後の一行。
――特別受益は「先にもらった分」を計算に戻し、公平に分ける仕組み。持ち戻して、割って、差し引く。ただし超過分は原則返さない。
よし。
覚えました。
あとは。
この法律が、誰のためにあるのか。
それさえ忘れなければ。
民法九百三条は、もう怖くありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も私は。
法律の条文の向こうにある、人の暮らしを学んでいます。
そして。
三千万円の遺産を四千万円で計算する理由が。
今なら、はっきり分かります。
相続は、最後に残った財産だけでなく、それまでに家族が受け取ってきたものも考え、公平を図る制度なのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




