[民法・特別受益者の相続分]現場編 「生前にもらった金は相続と関係ない」の嘘。三千万円の遺産を奪おうとした長男と、六百万円の贈与を暴く内容証明の刃
親が生きているうちにもらったお金は、親が死んだら、なかったことになるのでしょうか。
たとえば。
長男には、家を買うために六百万円。
次男には、車を買うために四百万円。
そして父親が亡くなり、三千万円の財産が残った。
そのとき。
「生前の贈与は終わった話だ。残った遺産は、法律どおりに分ければいい」
そう言って、長男が自分の取り分を要求してきたら。
それは本当に、公平なのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の計算問題が、ただの算数ではないことを思い知らされます。
特別受益。
持戻し。
具体的相続分。
試験のテキストでは、少し面倒な計算問題。
でも。
現実の相続では。
その計算ひとつで。
残された母親の老後が、ひっくり返ってしまうのです。
◇
「息子に、家を売れと言われたんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、震える手で風呂敷を開きました。
中から出てきたのは、一冊の預金通帳。
古い土地の権利証。
そして、三枚の紙。
「主人が亡くなって、まだ四十九日も済んでいないのに……」
女性の名前は、田島文江さん。
六十二歳。
ご主人の清一さんは、先月、病気で亡くなったそうです。
「相続人は?」
片桐所長が尋ねました。
「私と、息子が二人です」
「長男と次男ですね」
「はい」
文江さんは頷きました。
「長男は浩一。三十八歳。建材会社を経営しています」
「次男は?」
「修二。三十四歳です。町の自動車整備工場で働いています」
私は相談票に書き込みました。
被相続人。
田島清一。
相続人。
妻・文江。
長男・浩一。
次男・修二。
遺言なし。
残された財産は、預金と土地などを合わせて、およそ三千万円。
債務や葬儀費用などの問題は、ひとまず別途確認することになりました。
「それで、長男さんが家を売れと?」
「はい……」
文江さんは一枚の紙を差し出しました。
そこには、大きな文字で、
――遺産分割協議書。
と書かれていました。
「もう協議書が?」
私は驚きました。
「長男が作って持ってきたんです」
内容を読みます。
遺産総額、三千万円。
妻・田島文江。
千五百万円。
長男・田島浩一。
七百五十万円。
次男・田島修二。
七百五十万円。
……。
「あれ?」
私は首をかしげました。
割合だけ見れば、合っています。
昭和六十三年の民法でも。
配偶者と子が相続人となる場合。
配偶者が二分の一。
子全体で二分の一。
子が二人なら、それぞれ四分の一。
つまり。
三千万円の遺産なら。
妻が千五百万円。
長男が七百五十万円。
次男が七百五十万円。
法定相続分どおりです。
「……数字は合ってますね」
私が呟いた瞬間。
相馬先輩が顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「その数字、何を前提にしてる?」
「え?」
「本当に、残っている三千万円だけで計算していいのか?」
……。
私は文江さんを見ました。
「何か、生前に財産を渡したことがありますか?」
その途端。
文江さんの顔が曇りました。
「……あります」
「誰にですか?」
「長男に、六百万円」
「六百万円?」
「それから、次男に四百万円」
私は鉛筆を止めました。
……合計、一千万円。
「何のためのお金ですか?」
「長男が家を建てるときに、主人が六百万円を出しました」
「はい」
「次男には、仕事で使う車を買うために四百万円を」
文江さんは小さく息を吐きました。
「どちらも、返さなくていいと言って渡したお金です」
なるほど。
貸付けではありません。
贈与です。
しかも。
住宅取得資金。
仕事に必要な車の購入資金。
これは、ただのお小遣いとは違います。
私は六法を開こうとしました。
その前に。
文江さんが、もう一枚の紙を取り出しました。
「でも、長男は……」
そこに書かれていたのは、長男が持ってきた説明書でした。
――生前贈与は父が存命中に完了したものであり、相続とは無関係である。
――よって、相続開始時に残存する三千万円のみを対象として分割する。
――長男は法定相続分四分の一に相当する七百五十万円を取得する。
そして。
最後の一行。
――母は不足額を確保するため、自宅を売却するものとする。
「……自宅を?」
私は顔を上げました。
「今住んでいる家ですか?」
「はい」
「そこを売れと?」
「長男は、現金で七百五十万円欲しいと言っているんです」
文江さんの声が震えました。
「土地も預金も全部合わせれば三千万円になる。でも、現金はそんなにないんです」
「なるほど……」
「だから、家を売って金を作れって」
私は協議書を握りしめました。
父親から六百万円もらって家を建てた長男が。
今度は。
母親の住む家を売らせようとしている。
「……それは、ちょっと」
私が言いかけると。
相馬先輩が低い声で言いました。
「ちょっと、じゃねえな」
先輩は協議書を指で叩きました。
「この紙には、肝心なものが抜けてる」
「肝心なもの?」
「生前にもらった金だ」
私は頷きました。
そうです。
ここで登場するのが。
民法九百三条。
特別受益者の相続分。
私は思わず立ち上がりました。
「分かりました!」
文江さんがびくっとします。
「あっ、すみません!」
私は座り直しました。
「生前贈与を、相続財産に持ち戻して計算するんです!」
そう。
現代の行政書士試験で勉強したところです。
特別受益。
生前に特別な財産を受け取った相続人について、共同相続人間の公平を図る制度。
私は勢いよく言いました。
「住宅取得資金の六百万円と、車の購入資金の四百万円。これを加算して計算し直せば――」
「待て」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「何でも加算すりゃいいってもんじゃねえ」
「え?」
「その贈与が、法律上の特別受益に当たるか確認したのか?」
「……あ」
「生活費を一回渡したのも、誕生日に菓子を買ってやったのも、全部持ち戻すつもりか?」
「それは違います!」
「じゃあ、何が必要だ」
私は六法を開きました。
民法九百三条。
そこには。
遺贈。
婚姻や養子縁組のための贈与。
生計の資本としての贈与。
そう書かれています。
「……生計の資本としての贈与かどうか、ですね」
「そうだ」
「住宅取得資金なら、該当する可能性が高いです」
「うん」
「次男の車も、仕事に必要な高額の援助なら、同じように検討する必要があります」
「そういうことだ」
先輩は頷きました。
「あと、もう一つ」
「何でしょう」
「父親が、持戻しを免除する意思を示していなかったか」
私は止まりました。
そうでした。
民法九百三条三項。
被相続人が異なる意思を表示していた場合、その意思が問題になります。
私は文江さんに尋ねました。
「ご主人は、生前のお金について、相続のときは考慮しなくていい、とおっしゃっていましたか?」
「いいえ」
文江さんは首を振りました。
「むしろ逆です」
「逆?」
「主人は、よく言っていました」
文江さんは目を伏せました。
「浩一には家を建てる金を出した。修二には車を買う金を出した。どちらにも、できることはしてやった。だから、俺が死んだら、文江の暮らしを一番に考えてやれって」
私は黙りました。
亡くなったお父さん。
二人の息子。
それぞれに、大きな援助をしていた。
そして。
残される妻の生活を心配していた。
なのに。
長男が持ってきた協議書には、その思いがどこにもありません。
「所長」
私は片桐所長を見ました。
「これ、計算し直す必要がありますよね」
所長は静かに頷きました。
「ああ」
そして、ひと言。
「ただし、まず証拠を集めろ」
◇
その日の午後。
田島家の長男、浩一が事務所に現れました。
濃紺の背広。
金色の腕時計。
よく磨かれた革靴。
いかにも、商売で成功しているという雰囲気の男です。
「お袋が相談に来たそうですね」
浩一は椅子に座るなり、そう言いました。
「行政書士さんですか」
相馬先輩が答えます。
「そうです」
「じゃあ、相続の書類を作る仕事ですよね」
「業務の範囲内で、書類を作成します」
「なら話が早い」
浩一は鞄から協議書を取り出しました。
「これで作ってもらえませんか」
例の紙です。
妻、千五百万円。
長男、七百五十万円。
次男、七百五十万円。
「法律どおりですよ」
浩一は笑いました。
「母親が二分の一。息子が四分の一ずつ。小学生でも分かる計算でしょう」
……。
私は心の中で呟きました。
小学生でも分かる計算。
確かに。
ただし。
問題文を最後まで読んでいれば、です。
「一点、確認させてください」
私は言いました。
「お父様から、住宅取得資金として六百万円を受け取っていますね」
浩一の笑顔が止まりました。
「……それが?」
「その贈与について――」
「昔の話ですよ」
浩一は遮りました。
「親父が生きていたころにもらった金です。贈与税の申告も必要なものは済ませています」
「はい」
「もう俺の金になったんです」
「そうですね」
「だったら、相続とは関係ないでしょう」
私は口を開きました。
「それが、関係するんです」
浩一の眉が動きます。
「は?」
「民法九百三条です」
「何ですか、それ」
「特別受益者の相続分を定めた規定です」
浩一は鼻で笑いました。
「法律の話なら、こっちも知ってますよ」
「そうですか」
「親から贈与された金は、受け取った人間のものになる。贈与契約は終わってるんです」
「はい」
「今さら返せと言われる筋合いはない」
「返す話とは、少し違います」
私がそう言うと。
浩一は机を叩きました。
「何が違うんですか!」
私はびくっとしました。
その瞬間。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「相手の声の大きさに付き合うな」
先輩は浩一を見ました。
「こちらは、ご本人の相談を受けて資料を整理しています。遺産分割協議書は相続人全員の合意が必要ですから、今ここで作成できるものではありません」
「じゃあ、母親を説得してくださいよ」
「それはできません」
「行政書士でしょう?」
「だからこそです」
先輩の声は静かでした。
「俺たちは、依頼人の代理人として相続争いの交渉をする立場じゃありません」
「だったら、何ができるんですか」
浩一は笑いました。
「弁護士でもないのに」
……出ました。
民法編の敵役が、だいたい一度は口にする台詞です。
弁護士じゃないのに。
行政書士に何ができる。
その言葉を聞いた相馬先輩は。
なぜか、少し笑いました。
「書類を作れます」
「……は?」
「事実を整理して、必要な書類を作れます」
「そんなもので何が変わる」
相馬先輩は答えませんでした。
代わりに。
片桐所長が口を開きました。
「田島さん」
「はい?」
「お父様から六百万円を受け取ったことは、間違いありませんね」
「……ええ」
「返済の約束は?」
「ありません」
「では、贈与だったわけですね」
「そうですよ」
浩一は肩をすくめました。
「だから何だって言うんです」
片桐所長は、淡々と言いました。
「分かりました」
それだけでした。
浩一は立ち上がります。
「とにかく、俺は七百五十万円もらいますから」
「……」
「母親が家を売るかどうかは、そちらで考えてください」
そう言い残して。
浩一は事務所を出ていきました。
扉が閉まります。
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「あんな言い方、ひどくないですか!」
「ああ」
「自分は家を建てる金をもらっておいて、お母さんには家を売れって!」
「そうだな」
「どうしてもっと言い返さなかったんですか!」
相馬先輩は、私を見ました。
「こはる」
「はい」
「相手は、何を認めた?」
「……え?」
「今の話だ」
私は思い返しました。
六百万円を受け取った。
返済の約束はない。
贈与だった。
……あ。
「全部、認めました」
「そうだ」
「でも、口頭ですよね」
「だから、次は裏付けだ」
先輩は机の引き出しから一枚の相談記録を取り出しました。
「お袋さんから聞いた話だけじゃ足りねえ。銀行の記録、贈与の書類、父親の帳簿。全部調べる」
「はい!」
「それから」
「はい」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「相手が持ってきた七百五十万円という数字を、民法でひっくり返すぞ」
◇
翌日。
私は田島家の居間に座っていました。
文江さんが古い茶箪笥を開けています。
「主人はね、何でも取っておく人だったんです」
出てきたのは、何冊もの通帳。
家計簿。
銀行の振込控え。
そして。
一冊の古い大学ノートでした。
表紙には。
――家族のための支出。
と書かれています。
「……これ」
私はページをめくりました。
数年前の日付。
長男・浩一。
住宅新築資金。
六百万円。
その下に。
――返済不要。浩一の生活の基盤を作るため。
別のページ。
次男・修二。
仕事用車両購入資金。
四百万円。
――返済不要。修二の独立した生活を支えるため。
私は息を呑みました。
「文江さん!」
「はい?」
「これ、すごく大事な資料です!」
「そうなんですか?」
「はい!」
さらに。
六百万円の振込控え。
四百万円の振込控え。
それぞれの日付。
振込先の名義。
金額。
すべて残っています。
しかも、同じ時期の通帳の出金記録とも一致していました。
「所長が見たら、きっと喜びます!」
……。
いや。
片桐所長は、たぶん喜びません。
静かに一度頷いて、
「よし」
と言うだけでしょう。
でも。
それが最高評価なのです。
「ところで」
私は文江さんに尋ねました。
「このお金以外に、ご主人が息子さんたちへ大きな財産を渡したことはありますか?」
「いいえ」
「住宅費や生活費の援助は?」
「小さなものはありましたけど、あんな大きなお金は、この二回だけです」
「分かりました」
私は記録しました。
特別受益に該当するかどうかは、贈与の目的、金額、家族の生活状況などによって判断されます。
今回は。
六百万円の住宅新築資金。
四百万円の仕事用車両購入資金。
どちらも、子供たちの独立した生活の基盤を作るための贈与でした。
少なくとも。
普通の小遣いや日常の生活費と同じようには扱えません。
私はノートを閉じました。
「文江さん」
「はい」
「ご主人は、息子さんたちに公平であろうとしていたんですね」
文江さんは、少しだけ笑いました。
「そうなんです」
「……」
「浩一には家を。修二には仕事のための車を。あの人、二人が自分の足で立てるようにって」
その笑顔が、ゆっくり曇ります。
「でも、私は……」
「はい」
「もう、この歳ですから」
文江さんは居間を見回しました。
古い柱時計。
使い込まれた座卓。
仏壇に飾られた清一さんの写真。
「ここを出たくないんです」
私は何も言えませんでした。
「主人と四十年近く暮らした家です」
文江さんは、小さな声で続けました。
「私の取り分を増やして、息子から何か奪いたいわけじゃないんです」
「……はい」
「ただ、残りの人生くらい、ここで暮らしたい」
私はゆっくり頷きました。
相続。
遺産。
金額。
計算。
数字だけ見れば、冷たい話です。
でも。
その数字の向こうには。
誰かの暮らしがあります。
誰かが守りたい家があります。
民法九百三条。
特別受益。
あの面倒な計算式は。
こういう人のために、存在するのかもしれません。
◇
事務所に戻った私は、早速、計算を始めました。
「先輩!」
「何だ」
「資料、そろいました!」
「見せろ」
私は銀行の記録と清一さんのノートを机に並べました。
「長男への六百万円、次男への四百万円。どちらも生計の資本としての贈与に当たると考えられます!」
「うん」
「贈与の目的も書かれています!」
「いいな」
「そして、相続財産は三千万円!」
「よし。計算しろ」
私は紙に大きく書きました。
三千万円。
プラス、六百万円。
プラス、四百万円。
イコール。
「四千万円!」
思わず声が出ました。
相馬先輩が頷きます。
「それが、みなし相続財産だ」
「はい!」
「で、四千万円をどう分ける」
「妻が二分の一!」
「うん」
「子が二人で、残りの二分の一!」
「そうだ」
私は計算しました。
妻・文江。
四千万円の二分の一。
二千万円。
長男・浩一。
四千万円の四分の一。
一千万円。
次男・修二。
同じく一千万円。
「できました!」
私は顔を上げました。
ところが。
相馬先輩は首を振りました。
「まだだ」
「え?」
「そのままじゃ、四千万円を分けることになるぞ」
「……あ」
私は固まりました。
そうでした。
実際に残っている遺産は、三千万円です。
六百万円と四百万円は、もう生前に渡されています。
現金が戻ってきたわけではありません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「持戻しとは、何だ」
「えっと……」
「実際に返金させることか?」
「違います!」
私は慌てて答えました。
「相続分を計算するために、贈与の価額を加算することです!」
「そうだ」
「だから、受け取った人は、自分の相続分からその贈与額を差し引くんですね」
所長が頷きました。
「続けろ」
「はい!」
私はもう一度、鉛筆を握りました。
妻・文江。
二千万円。
生前贈与なし。
よって。
二千万円。
長男・浩一。
一千万円。
そこから、六百万円を控除。
四百万円。
次男・修二。
一千万円。
そこから、四百万円を控除。
六百万円。
「……できた!」
私は数字を足しました。
二千万円。
プラス、四百万円。
プラス、六百万円。
合計。
三千万円。
「ぴったりです!」
「当たり前だ」
相馬先輩が笑いました。
「民法の計算だぞ」
「でも先輩!」
「何だ」
「長男さんの取り分、七百五十万円じゃありません!」
「そうだ」
「四百万円です!」
「そういうことだ」
私は協議書を見ました。
七百五十万円。
そこに書かれていた長男の取り分。
でも。
特別受益を考慮すると。
四百万円。
差額。
三百五十万円。
そして。
母親の取り分は。
千五百万円から。
二千万円へ。
五百万円も変わります。
「……これ」
私は呟きました。
「全然違いますね」
「違うな」
「法定相続分そのものが間違っていたわけじゃないのに」
「そうだ」
相馬先輩は、協議書を指差しました。
「相続人の割合だけ合っていても、計算の土台が間違ってりゃ、答えは変わる」
私は頷きました。
なるほど。
法定相続分。
それは出発点。
でも。
生前に特別な財産をもらった人がいるなら。
その事情を無視していいわけではありません。
「所長!」
「何だ」
「これなら、文江さんの生活を守るための選択肢が増えます!」
「ああ。ただし」
「はい」
「具体的に誰がどの財産を取得するかは、まだ決まっていない」
「……はい」
「家を残せるかは、遺産の内訳と分割方法にもよる」
そうでした。
計算上の相続分が二千万円になったからといって、自動的に自宅全部を取得できるわけではありません。
土地。
建物。
預金。
それぞれの評価。
誰がどの財産を取得するか。
そこは別に、遺産分割の合意が必要です。
でも。
長男が主張する七百五十万円を、当然に現金で用意しなければならない。
そんな前提は崩れました。
「先輩」
「何だ」
「すごいですね、特別受益」
「何が」
「生前のお金まで計算に入れるだけで、こんなに変わるんですね」
相馬先輩は笑いました。
「だから相続は、死んだときの通帳だけ見て終わりじゃねえんだよ」
◇
ところが。
問題は、まだ終わりませんでした。
「所長!」
私は再び六法を開きました。
「現代の民法には、二十年以上婚姻していた夫婦について、居住用不動産の贈与や遺贈があれば、持戻し免除の意思表示が推定される規定がありますよね!」
……。
事務所が静かになりました。
相馬先輩が、ゆっくり顔を上げます。
「……何だって?」
「あ」
しまった。
またです。
未来の民法。
また出ました。
「民法九百三条四項です!」
「四項?」
先輩が六法を開きました。
そして。
「ねえぞ」
「……はい」
「こはる」
「はい」
「今は何年だ」
「昭和六十三年です……」
「じゃあ、存在しない条文を使うな」
「はい……」
私は机に突っ伏しました。
そうです。
現在の民法九百三条四項。
婚姻期間二十年以上の夫婦間における居住用不動産の贈与・遺贈について、持戻し免除の意思表示を推定する規定。
あれは、平成三十年の相続法改正で新設されたもの。
昭和六十三年には存在しません。
もっとも。
今回、文江さんは夫から自宅を贈与されたわけではありません。
だから、その現代の規定を持ち出しても、直接の解決にはなりません。
「……関係ない未来の条文まで出してしまいました」
「まったくだ」
相馬先輩が呆れました。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今ある条文で、何ができる」
私は六法を見直しました。
昭和六十三年の民法九百三条。
第一項。
特別受益を考慮した相続分の計算。
第二項。
特別受益が相続分以上の場合。
第三項。
被相続人が異なる意思を表示した場合。
「……三項までは、あります」
「そうだ」
「持戻し免除の意思表示という考え方自体は、この時代にもあります」
「うん」
「でも、現代のような二十年以上の夫婦についての推定規定は、ありません」
所長が頷きました。
「時代を間違えるな」
「はい!」
私は額を押さえました。
民法。
本当に怖い。
古い条文がそのまま残っているところもあれば。
あとから追加された条文もある。
現代の条文番号を、そのまま昭和に持ってくると。
存在しない法律を根拠に書類を作ってしまう。
……行政書士として、それは絶対にやってはいけません。
「ただな」
相馬先輩が言いました。
「今回の勝負は、そこじゃねえ」
「はい?」
「六百万円と四百万円だ」
先輩は証拠を並べました。
「誰に」
「長男と次男に」
「いくら」
「六百万円と四百万円」
「何のため」
「住宅取得資金と、仕事用の車の購入資金」
「返済の約束は」
「ありません」
「それを裏付ける資料は」
「銀行の振込控えと、お父さんの帳簿です!」
相馬先輩は頷きました。
「よし」
そして。
いつもの台詞を言いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「出ました!」
「何がだ」
「先輩の決め台詞!」
「茶化すな!」
私は笑いました。
でも。
今度ばかりは、分かります。
あの長男を説得するのは、難しい。
自分が七百五十万円もらえると思い込んでいる。
そのうえ、母親に家を売らせようとしている。
口で何を言っても。
「関係ない」
で押し切ろうとするでしょう。
だからこそ。
事実と条文と数字を。
一枚の書面に、並べるのです。
◇
その夕方。
私たちは、内容証明郵便の原案を作っていました。
差出人。
田島文江。
宛先。
田島浩一。
文江さん本人の意思を確認したうえで、相続分の計算に関する見解を通知する書面です。
私は鉛筆を握りました。
「まず、民法九百三条に基づく特別受益の指摘です」
「うん」
「次に、生前贈与の事実」
「うん」
「それから、具体的相続分の計算結果」
「よし」
私は慎重に書き進めました。
――通知人は、亡田島清一の相続に関し、貴殿作成の遺産分割協議書案について、以下のとおり見解を通知する。
――第一。被相続人田島清一の死亡時における積極財産の評価額は、現時点の資料によれば三千万円である。
――第二。貴殿は、被相続人から住宅新築資金として六百万円の贈与を受けている。
――第三。共同相続人田島修二は、被相続人から仕事用車両の購入資金として四百万円の贈与を受けている。
――第四。上記各贈与は、いずれも生計の資本としての贈与に該当すると考えられ、民法第九百三条第一項にいう特別受益として考慮すべきものである。
私は息を吸いました。
「ここから計算です」
相馬先輩が頷きました。
「数字を間違えるなよ」
「はい!」
――第五。上記贈与の価額を前提とすると、みなし相続財産は、三千万円に六百万円及び四百万円を加えた四千万円となる。
――第六。これに基づく各共同相続人の一応の相続分は、通知人二千万円、貴殿一千万円、田島修二一千万円となる。
――第七。各人の特別受益を控除した具体的相続分は、通知人二千万円、貴殿四百万円、田島修二六百万円となる。
私は顔を上げました。
「どうですか!」
片桐所長は、しばらく書面を見つめました。
「……ここを直せ」
「えっ!」
所長が指差したのは、次の一文です。
――したがって、貴殿には四百万円を超える財産を取得する権利はない。
「……駄目ですか?」
「断定しすぎだ」
「でも、計算では四百万円ですよね?」
「現時点の資料を前提にした計算だ」
「はい」
「他の贈与や遺贈、持戻し免除の意思表示、財産評価について、新しい事実が判明する可能性もある」
「……そうですね」
「それに、相続人全員が合意すれば、法定の具体的相続分と異なる遺産分割もできる」
なるほど。
民法九百三条は、相続人がどんな話合いをしても絶対に変更できない分配表ではありません。
特別受益を考慮して、公平な相続分を算定するための規定。
その計算を示すことと。
相手に一円たりとも別の取得を許さないと言い切ることは。
違います。
「分かりました」
私は書き直しました。
――以上の事情から、貴殿作成の協議書案は特別受益を考慮しておらず、現時点では同意できない。
――通知人は、遺産分割協議に際し、民法第九百三条に基づく特別受益を適切に考慮することを求める。
――また、通知人は居住中の自宅の売却に同意しておらず、相続人全員の合意が成立した事実もない。
――本通知に記載した贈与について異なる事実関係を主張される場合には、その根拠資料を明らかにされたい。
そして。
最後の一文。
――当事者間で協議が整わない場合には、弁護士への相談及び家庭裁判所における遺産分割手続の利用を検討する。
私は書き終えました。
「……どうでしょう」
片桐所長が頷きました。
「いい」
やった。
所長の最高評価です。
相馬先輩も書面を見ました。
「この通知なら、相手はもう『昔の贈与だから関係ない』の一言じゃ済まねえな」
「はい!」
「六百万円を受け取った事実を否定するのか」
「はい」
「住宅取得資金だったことを争うのか」
「はい」
「持戻し免除があったと主張するのか」
「はい」
「それとも、計算を争うのか」
先輩はにやりとしました。
「どの道を選んでも、根拠が要る」
私は書面を見つめました。
なるほど。
相手を罵倒していない。
脅してもいない。
ただ、法律と事実を並べている。
でも。
反論するなら、どこが違うのか説明しなければならない。
これが、書面の力。
行政書士の武器です。
「所長」
「何だ」
「やっぱり内容証明って、すごいですね」
所長は首を振りました。
「内容証明だから、正しいわけではない」
「……はい?」
「内容証明郵便は、どんな内容の文書を、いつ差し出したかを証明する仕組みだ」
「はい」
「書かれた主張が正しいことまで、郵便局が保証してくれるわけではない」
私は頷きました。
そうです。
内容証明を送れば、相手が自動的に負けるわけではありません。
その書面自体が、裁判所の命令になるわけでもありません。
でも。
事実を調べて。
法律を確認して。
根拠のある主張を書き。
本人の意思として届ける。
それが、相手に事態の重大さを理解させることはあります。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「強い書面を書こうとするな」
「え?」
「間違いのない書面を書け」
私は、その言葉を胸に刻みました。
◇
内容証明郵便を発送して、三日後。
田島浩一から、事務所に電話がありました。
「……あの」
私は受話器を取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『相馬さん、いますか』
「少々お待ちください」
私は先輩に受話器を渡しました。
「田島浩一さんです」
「分かった」
相馬先輩が電話に出ます。
「相馬です」
『あの、例の書面ですが……』
「はい」
『弁護士に見せました』
私は顔を上げました。
来た。
相馬先輩は、黙って聞いています。
『その……父親からもらった金は、もう自分のものになっているはずなんですが』
「贈与の効力と、特別受益として相続分の計算に考慮するかは、別の問題ですね」
『ええ……弁護士にもそう言われました』
電話の向こうで、紙をめくる音がします。
『住宅購入資金は、特別受益になる可能性が高い、と』
「そうですか」
『それに、銀行の振込記録も残っているそうで……』
相馬先輩は何も言いません。
『あの六百万円を考慮しないまま、七百五十万円が当然の取り分だと言い張るのは、難しいんですかね』
先輩は落ち着いて答えました。
「通知人の見解と根拠は、書面に記載したとおりです。法的なご判断については、ご相談された弁護士とよく確認してください」
『……はい』
少し沈黙がありました。
そして。
『……母親に、家を売れと言った件ですが』
「はい」
『撤回します』
私は思わず息を止めました。
『もう、あんな協議書を押しつけるつもりはありません』
相馬先輩は静かに言いました。
「そのご意思は、ご本人に直接お伝えください」
『分かりました』
電話が切れます。
「先輩!」
「何だ」
「撤回するって!」
「ああ」
「家を売れって言ったの、撤回するって!」
「聞こえてた」
「やりましたね!」
相馬先輩は受話器を置きました。
「まだ終わってねえぞ」
「……はい?」
「遺産分割協議は、まだ成立していない」
「あ」
「家を売らなくて済む分け方が、本当に可能かも詰めなきゃならねえ」
「はい」
「それに、弟の修二さんだって相続人だ。本人の意思も確認しなきゃならねえ」
私は頷きました。
そうです。
長男が折れた。
それは大きな前進。
でも。
相続は、一人が負けを認めたら終わる勝負ではありません。
共同相続人全員の権利が関わります。
「所長」
私は言いました。
「今度は、みんなが納得できる分け方ですね」
「ああ」
片桐所長は頷きました。
「書類は、そのために作る」
◇
その後。
田島家では、改めて相続人全員で話合いが行われました。
長男の浩一は、最初に持ち込んだ遺産分割協議書案を撤回。
次男の修二も、自分が父親から四百万円の援助を受けていた事実を認めました。
「兄貴だけずるいなんて、言えないよ」
修二さんは、文江さんにそう言ったそうです。
「俺だって、親父に助けてもらったんだから」
清一さんの帳簿に記載されていた二件の贈与については、双方が特別受益として扱うことで一致しました。
他に大きな贈与や持戻し免除の意思表示がないことも確認されました。
そして。
当事者間で、具体的な遺産分割について合意が成立したのです。
妻・文江。
二千万円相当。
長男・浩一。
四百万円相当。
次男・修二。
六百万円相当。
この配分を基本に。
自宅の土地建物と預金などの組合せを検討し、文江さんが今までの家に住み続けられる内容になりました。
もちろん。
内容証明を送っただけで、家の所有権が移ったわけではありません。
相続人全員が話し合い、同意したからこそ実現した分割です。
片桐事務所では、その合意内容に基づき、遺産分割協議書を作成しました。
そして。
全員が内容を確認し。
署名し。
実印を押しました。
私は完成した協議書を見つめました。
「……先輩」
「何だ」
「今度は、本当にみんなのハンコですね」
「そうだ」
「無理やり押させたんじゃない」
「ああ」
「数字も、ちゃんと説明したうえで」
相馬先輩は笑いました。
「だから、意味があるんだよ」
◇
一週間後。
文江さんが、事務所にやって来ました。
今日は風呂敷ではありません。
小さな紙袋を持っています。
「皆さん、ありがとうございました」
中には、手作りのおはぎが入っていました。
「主人が好きだったんです」
文江さんは、照れくさそうに笑いました。
「お礼にと思って」
「ありがとうございます!」
私は思わず顔をほころばせました。
相馬先輩も、珍しく素直に頭を下げました。
「お気遣い、ありがとうございます」
「本当に、助かりました」
文江さんは椅子に座り、ゆっくり話し始めました。
「長男がね、昨日、家に来たんです」
「浩一さんが?」
「はい」
「何か言われましたか?」
文江さんは頷きました。
「……すまなかったって」
私は黙りました。
「父さんがくれた六百万円のこと、忘れていたわけじゃない。でも、あれはもう昔にもらった金だから、相続とは別だと思っていたって」
「……はい」
「それでね」
文江さんの目が潤みました。
「自分の家を建てるとき、父さんに助けてもらったのに、母さんの家を売れなんて言って悪かったって」
私は胸が熱くなりました。
あの偉そうな長男。
七百五十万円を当然の権利だと言い張っていた男が。
ようやく。
父親が生きていたころのことを思い出した。
「それは……よかったですね」
「はい」
文江さんは笑いました。
「お金のことは、まだ難しいところもあります。でも、家族だからこそ、ちゃんと分けなきゃいけなかったんですね」
私は頷きました。
そうです。
特別受益。
それは、過去の贈与を責めるための制度ではありません。
親が子供を助けたこと自体は、悪いことではない。
長男が家を建てるために六百万円をもらったことも。
次男が仕事を始めるために四百万円をもらったことも。
それぞれ、父親の愛情だったのでしょう。
でも。
その愛情を。
相続が始まった瞬間に、なかったことにしてはいけない。
既にもらった人。
まだもらっていない人。
残された人。
みんなの事情を考えて。
公平を図る。
それが、民法九百三条の役割なのです。
「文江さん」
私は尋ねました。
「今は、どうされていますか?」
「今までどおりですよ」
「家は?」
「もちろん、あの家です」
文江さんは笑いました。
「主人の写真を置いて、毎朝お茶を供えています」
私は、ほっと息を吐きました。
「よかった……」
「それにね」
「はい?」
「今度の日曜日、息子たちが来るんです」
「え?」
「二人とも、庭の草取りをしてくれるって」
文江さんは少し照れました。
「主人が生きていたら、きっと喜んだでしょうね」
私は笑いました。
民法。
相続分。
特別受益。
持戻し。
これらは、家族の仲を直接直してくれる魔法ではありません。
でも。
間違った思い込みを正して。
不公平な要求を止めて。
ちゃんと話し合うための土台を作ることはできる。
そうして初めて。
家族が、もう一度向き合えることもあるのです。
◇
文江さんが帰ったあと。
私は事務所の机で、今回の事件を振り返っていました。
相馬先輩は新聞を読んでいます。
片桐所長は帳簿を整理しています。
私はノートを開きました。
そして。
「先輩!」
「何だ」
「特別受益って、すごいですね!」
「今度は何だ」
「だって、三千万円の遺産なのに、四千万円で計算するんですよ!」
「ああ」
「でも、実際に分けるのは三千万円!」
「そうだ」
「最初、訳が分からなかったんです!」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「そりゃそうだろ」
「え?」
「四千万円あると思うから、訳が分からなくなる」
私は首をかしげました。
「……どういうことですか?」
「四千万円は、実際の遺産じゃねえ」
「はい」
「みんなが公平に受け取るための、計算上の数字だ」
「……あ」
「親父さんが死んだとき、金庫に四千万円があったわけじゃねえだろ」
「三千万円です」
「そうだ」
先輩は机を指で叩きました。
「でも、長男は先に六百万円もらってる」
「はい」
「次男も四百万円もらってる」
「はい」
「その事実を考えずに、残った金だけ同じ割合で分ければ、不公平になることがある」
私は頷きました。
「だから、いったん計算に戻す」
「そうだ」
「そのうえで、既にもらった分を差し引く」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
持戻し。
計算上の加算。
実際に返金させることとは違う。
そこで。
ふと、別の疑問が浮かびました。
「先輩」
「何だ」
「もし、長男さんが六百万円じゃなくて、二千万円もらっていたら?」
相馬先輩が顔を上げました。
「ほう」
「たとえば、生前にもらった金額が、自分の相続分を超えていた場合です」
「どうなると思う?」
私は考えました。
特別受益。
持戻し。
生前にもらった分を相続分から差し引く。
ならば。
相続分がマイナスになることもある。
「……超えた分を返す?」
私が言うと。
相馬先輩は首を振りました。
「違う」
「えっ!」
「民法九百三条二項を読め」
私は慌てて六法を開きました。
そして。
「あ!」
声が出ました。
遺贈や贈与の価額が、算定された相続分に等しいか、それを超える場合。
その特別受益者は、新たに相続分を受け取ることができない。
……。
「つまり!」
「うん」
「特別受益が多すぎる場合、具体的相続分はゼロになる!」
「そうだ」
「でも、九百三条の計算だけで、超過分を返す義務が生じるわけじゃない!」
「正解」
私は目を丸くしました。
「……なるほど!」
これは、大事です。
既にもらった分が多いから。
今回の相続では、もう受け取れない。
でも。
もらいすぎたからといって、特別受益の規定だけで、当然に返還義務を負うわけではない。
もちろん、遺留分など別の法律問題が生じる場合はあります。
けれど。
特別受益の計算と、返還請求は同じではありません。
「先輩!」
「何だ!」
「特別受益って、思っていたより奥が深いです!」
「そうだな」
「ただの足し算と引き算じゃないんですね!」
「最初からそう言ってるだろ」
私は笑いました。
でも、本当に。
あの計算式には、意味があります。
親から受け取ったもの。
兄弟姉妹の公平。
残された配偶者の生活。
そのすべてが関わっているのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい!」
「今回の事件で、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「相続は、亡くなったときに残っていた財産だけを見て決めるものではない、ということです」
「うん」
「生前に特別な贈与を受けた相続人がいるなら、その利益を考慮して、公平な相続分を計算する必要があります」
所長が頷きました。
「そうだ」
「そして、持戻しは、実際にお金を返すこととは違います」
「うん」
「特別受益が自分の相続分以上なら、相続分はゼロ。でも、九百三条だけを根拠に超過分を返せとは言えません」
「よし」
私は嬉しくなりました。
今日の教訓。
これなら忘れません。
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――特別受益は「先にもらった相続分」を考える仕組み。足して計算し、もらった分を引いて公平を図る。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「先輩、どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
三千万円の遺産。
六百万円の住宅資金。
四百万円の車の資金。
そして。
自宅を売らずに済んだ、六十二歳の文江さん。
法律の計算問題。
それが、人の暮らしを守ることもある。
そんなことを、私は今日、初めて実感したのです。
◇
「そういえば」
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「お前、今月の給料、もうもらったか?」
「はい!」
「いくらだ」
「それは秘密です!」
「見習いが何をもったいぶってんだ」
「だって先輩、また変なこと言いそうですから!」
相馬先輩は、にやりとしました。
「実はな」
「はい?」
「先週、お前に昼飯を奢っただろ」
「……はい」
「ラーメンと餃子」
「……はい」
「あれは特別受益だ」
「は?」
「だから今月の給料から引いとく」
……。
私は固まりました。
「先輩」
「何だ」
「私たち、相続人じゃありませんよね?」
「ああ」
「先輩、私のお父さんじゃありませんよね?」
「違うな」
「そもそも、先輩は生きてますよね?」
「見りゃ分かるだろ」
私は机を叩きました。
「だったら民法九百三条は関係ないでしょう!」
相馬先輩が吹き出しました。
「おお、理解してるじゃねえか!」
「試したんですか!」
「復習だよ、復習」
「給料を勝手に減らそうとしないでください!」
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「昼飯を奢ったのは、お前の自由意思だろう」
「そうですね」
「なら、あとから給料に結びつけるな」
「……はい」
私は勝ち誇りました。
「所長!」
「何だ」
「ありがとうございます!」
所長は帳簿を閉じました。
「その代わり、こはる」
「はい!」
「今日の掃除当番はお前だ」
「……え?」
「床と窓を頼む」
私は固まりました。
「所長」
「何だ」
「昨日も掃除した気がするんですが」
「そうか」
「これも持戻しの対象になりませんか?」
「ならん」
「ですよね!」
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
「こはる! 掃除の特別受益って何だよ!」
「知りませんよ! 先輩が変なこと言うから!」
「ほら、箒持て!」
「もう!」
私は立ち上がり、箒を手に取りました。
窓の外には、昭和六十三年の夕焼け。
古い商店街の屋根が、橙色に染まっています。
あの町のどこかで。
文江さんは、きっと今夜も。
清一さんの写真に、お茶を供えているのでしょう。
息子たちが建てた家。
息子が仕事で使う車。
それらは、亡くなった父親が残した愛情の形です。
そして。
妻が住み続けることのできた家も。
また。
父親が家族に残した、大切なものだったのです。
民法九百三条。
特別受益者の相続分。
教科書では。
三千万円に六百万円と四百万円を足して。
四千万円から相続分を計算して。
最後に、それぞれの贈与額を引く。
ただ、それだけの問題かもしれません。
でも。
その足し算と引き算には。
家族が生きてきた時間が、詰まっています。
私は箒を動かしながら、今日のノートを思い出しました。
――特別受益は「先にもらった相続分」を考える仕組み。足して計算し、もらった分を引いて公平を図る。
うん。
これなら、行政書士試験でも間違えません。
「こはる!」
「はい!」
「そこ、まだ埃が残ってるぞ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私の掃除の特別受益は、いつ持ち戻されるんですか!」
「そんなもんねえよ!」
「じゃあ、掃除当番の公平はどうするんですか!」
「所長に聞け!」
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「共同相続人間の公平だけじゃなくて、事務所の掃除当番の公平も考えてください!」
所長は少し考えました。
そして。
「明日は相馬に頼む」
「……!」
私は拳を握りました。
「やった!」
「おい、所長!」
相馬先輩が抗議します。
「何で俺なんですか!」
所長は涼しい顔で答えました。
「こはるは、昨日も掃除をしている」
「……!」
「その事情を考慮した」
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だよ!」
「公平って、大事ですね!」
「民法九百三条を掃除に持ち込むな!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も法律の勉強は、騒がしく続きます。
ただし。
ひとつだけ、確かなことがあります。
親が生きているうちにもらった六百万円は。
親が亡くなった瞬間に、歴史から消えてしまうわけではありません。
そのお金で建てた家も。
そのお金に込められた親の思いも。
確かに、そこにあるのです。
だから。
相続の計算は。
残された財産だけでなく。
既に受け取ったものにも、目を向けなければならない。
民法は。
死んだ人の財布を分けるだけの法律ではありません。
生きている家族が、これからどう暮らしていくか。
その公平を、守ろうとする法律でもあるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




