[相続欠格と相続廃除]法理編 こはるノート
親が悪いことをしたからといって、子供まで相続権を失うわけではありません。
けれど。
親の財産を奪おうとした人間が、親の財産を相続できなくなることはあります。
たとえ実の息子でも。
長男でも。
戸籍に名前が載っていても。
相続人としての資格を失うことがあるのです。
その仕組みが。
相続欠格。
そして、相続廃除。
どちらも、相続人から相続資格を奪う制度です。
でも。
この二つには、決定的な違いがあります。
法律によって当然に資格を失うのか。
被相続人の意思に基づき、家庭裁判所の手続きによって資格を失うのか。
そして。
相続資格を失った人間の子供が、代わりに相続できるのか。
ここを間違えると、行政書士試験では痛い失点につながります。
何より。
実際の相続では、誰かの人生を左右してしまうのです。
◇
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
「……納得できません」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「相続です」
「またか」
「だって、おかしくないですか?」
「何が」
「悪いことをしたお父さんが相続できないのに、その息子さんは相続できるんですよ!」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「まだそんなこと言ってんのか」
「だって!」
「健一が何か悪いことをしたのか?」
「……してません」
「じゃあ、何が不満なんだ」
「それは……」
私は口をつぐみました。
先日の事件。
藤沢家の相続問題です。
亡くなった金物店主、藤沢源蔵さん。
長男の邦夫は、生前の父親に暴力を振るい、何度も金を要求していました。
源蔵さんは、長女の千鶴さんに店と土地を残したいと考え、自筆証書遺言を作成しました。
さらに。
長男を相続人から廃除したいという意思まで記していたのです。
ところが。
邦夫は、その遺言書を発見すると、自分に都合が悪いと考えて隠してしまいました。
しかも。
「長男の俺が親父の財産をもらう」
と主張していた。
結局、私たちが事情を調べ、千鶴さん本人名義の内容証明郵便を作成したことで、邦夫は遺言書の存在を認めました。
さらに。
自分が相続上の利益を得るために隠していたことまで、書面で説明したのです。
その後は、藤田弁護士に引き継ぎ。
遺言の有効性。
相続欠格の成否。
家庭裁判所への廃除請求。
そうした法的な手続きが進められています。
でも。
一番印象に残っていたのは、邦夫の息子、健一君でした。
十四歳。
祖父の金物店が大好きだった少年です。
彼は、私に言いました。
「お父さんが悪いことをしたから、僕も相続できないと思ってました」
……。
あの言葉は、忘れられません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「今日の勉強は、そこから始めろ」
「え?」
「相続欠格と相続廃除は、何のためにある?」
私は考えました。
「……悪い相続人から、相続権を奪うため?」
「半分だな」
「半分?」
奥の机から、片桐所長が口を開きました。
「相続制度の公正を守るためだ」
「公正……」
「誰が、何をしたのか。その行為によって、相続資格を失わせるべきか」
所長は帳簿を閉じました。
「そこを区別する」
私は鉛筆を握りました。
なるほど。
今日は。
単に条文を覚えるだけではありません。
相続資格を失う理由。
失うための手続き。
そして、失ったあとに何が起きるのか。
そこまで理解する必要があります。
「よし!」
私はノートに大きく書きました。
――相続欠格と相続廃除。
「今日は、この二つを完全に区別します!」
相馬先輩が笑いました。
「昨日もそんなこと言ってたな」
「昨日は事件です! 今日は試験対策です!」
「結局、毎日勉強してるじゃねえか」
「行政書士受験生ですから!」
……もっとも。
私の頭の中には、令和の民法が入っています。
ここは昭和六十三年。
また未来の条文や制度を持ち込んでしまわないように、注意しなければなりません。
そう思いながら。
私は六法を開きました。
◇
「まず、相続欠格です」
私はノートに書きました。
――民法第八百九十一条。
相続人の欠格事由。
「相続欠格とは、法律に定められた重大な行為をした人が、相続人となる資格を当然に失う制度です」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「ここで大事なのは?」
「家庭裁判所に廃除してもらう必要がないことです!」
「よし」
私は続けました。
「欠格事由に該当すれば、法律上、当然に相続資格を失います」
つまり。
誰かが「お前は相続欠格者だ!」と宣言する必要はありません。
被相続人が「相続させない」と遺言する必要もありません。
家庭裁判所が、廃除の審判をする必要もありません。
法律上の要件を満たした場合に、相続資格を失う。
これが、相続欠格の大きな特徴です。
「ただし!」
私は自分で言いました。
相馬先輩が眉を上げました。
「何だ」
「当然に資格を失うことと、欠格事由があったと証明できることは、別問題です!」
「そうだ」
たとえば。
遺言書がなくなった。
長男が怪しい。
だから長男は相続欠格!
……とはなりません。
実際に欠格事由に当たる行為があったのか。
そこを確認する必要があります。
「今回の邦夫さんも、最初は疑いだけだったんですよね」
「ああ」
「でも、書類箱を持ち出していたこと、遺言書の存在を知っていたこと、さらに自分で隠したと認めたことが重なった」
「そうだな」
「だから、欠格の成否を判断するための重要な証拠になった」
私は大きく頷きました。
法律の効果は、自動的。
でも。
事実の認定まで自動的に済むわけではない。
ここは忘れてはいけません。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「八百九十一条の欠格事由、全部言ってみろ」
「全部ですか!?」
「五つしかねえぞ」
「五つもあるんですよ!」
「試験に出るぞ」
「……やります!」
私は鉛筆を握り直しました。
相続欠格。
五つの事由。
一つずつ、事件として考えてみることにしました。
◇
「第一号です」
私は読み上げました。
――故意に被相続人又は相続について先順位若しくは同順位にある者を死亡するに至らせ、又は至らせようとしたために、刑に処せられた者。
「……長い!」
私は叫びました。
「条文に文句を言うな」
相馬先輩が言いました。
「だって、途中で息が切れます!」
「分けて読め」
「はい……」
私はノートに書きました。
まず、故意。
つまり、わざと。
次に、対象。
被相続人。
または、自分より相続順位が先の人。
あるいは、自分と同じ順位の人。
そして。
死亡させた、または死亡させようとした。
そのために刑に処せられた。
「たとえば」
私は言いました。
「父親の財産が欲しくて、長男が父親を殺した場合です」
「そうだ」
「そんな人が父親の財産を相続できたら、おかしいですよね」
「ああ」
さらに。
同順位の相続人。
たとえば、兄弟二人が父親を相続する立場にある場合。
兄が弟を殺して、自分の取り分を増やそうとした。
そのような場合にも、欠格が問題になります。
「ただし、ここで大事なのは、刑に処せられたことですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「単に疑われているだけでは、この一号には当たらねえ」
「はい」
「それから、故意も重要だ」
私は書きました。
故意。
刑に処せられた。
この二つが、重要な要件です。
「では、交通事故で父親を死亡させてしまった場合は?」
相馬先輩が尋ねました。
「故意がなければ、第一号の相続欠格には当たりません」
「そうだ」
「過失による死亡事故だから、必ず相続欠格になるわけではない」
「正解」
私は頷きました。
相続欠格は、単に結果が重大だからというだけで成立するものではありません。
法律が定めた具体的な要件が必要なのです。
◇
「第二号です!」
私は続けました。
――被相続人の殺害されたことを知って、これを告発せず、又は告訴しなかった者。
「つまり」
私は言いました。
「父親が殺されたと知っていたのに、告発や告訴をしなかった人ですね」
「そうだ」
「でも、例外があります!」
私は六法を指差しました。
是非の弁別がない場合。
殺害者が、自己の配偶者または直系血族である場合。
「ここ、すごく人間的ですね」
私が言うと、相馬先輩が首をかしげました。
「どういうことだ」
「たとえば、お母さんが殺人を犯したと知った子供に、お母さんを告発しろと強制するのは、とても重いことですよね」
「……まあな」
「だから、殺害者が自分の直系血族だった場合には、告発しなかったことを欠格事由にしない例外があるんですね」
私はノートに書きました。
告発・告訴しなかった場合でも、例外がある。
ここを忘れると危険です。
「でも先輩」
「何だ」
「殺害者が自分の配偶者だった場合も、例外なんですよね」
「そうだ」
「親子や夫婦という関係の難しさを、法律が考慮しているんですね」
相馬先輩は少し考えました。
「法律ってのは、全部の人間に同じ行動を強いるだけじゃねえからな」
私は頷きました。
なるほど。
相続欠格は厳しい制度です。
でも、その適用には例外もある。
その例外にも、理由があるのです。
◇
「第三号と第四号は、セットで覚えます!」
私はノートに大きく書きました。
――詐欺・強迫と遺言。
「ほう」
相馬先輩が頷きました。
「どう違う?」
「第三号は、遺言をすることなどを妨げる場合です!」
「うん」
「第四号は、詐欺や強迫によって遺言をさせる場合などです!」
私は具体例を書きました。
まず、第三号。
父親が、長女に財産を残す遺言を作ろうとしている。
ところが長男が、
「遺言なんか書いたら、家族に危害を加えるぞ!」
と脅して、遺言を作らせなかった。
これは、詐欺または強迫によって、遺言をすることを妨げた場合です。
「それから」
私は続けました。
「父親が、以前書いた遺言を撤回しようとしたのに、長男が脅して撤回を妨げた場合も問題になります」
「そうだ」
では、第四号。
今度は逆です。
長男が父親を脅して、
「財産は全部俺に残すと書け!」
と言い、遺言を作らせた。
あるいは。
嘘をついて、遺言を書き換えさせた。
「これが第四号ですね」
「うん」
相馬先輩が頷きました。
「第三号は妨害。第四号は、させる側だ」
「はい!」
私は書きました。
第三号。
詐欺・強迫によって、遺言の作成・撤回・取消し・変更を妨げる。
第四号。
詐欺・強迫によって、遺言の作成・撤回・取消し・変更をさせる。
「先輩!」
「何だ」
「これ、逆に覚えたら大変ですね!」
「大変だな」
「どっちも詐欺・強迫だから!」
「だから行為を見ろってことだ」
私は頷きました。
妨げたのか。
させたのか。
似ています。
でも。
法律が問題にしているのは、どちらも被相続人の自由な遺言意思を侵害することです。
「つまり」
私は言いました。
「本人が自由に遺言を決めることを、他人が不正にゆがめてはいけないんですね」
「そうだ」
所長が静かに頷きました。
なるほど。
ここでも、守ろうとしているものが見えてきました。
被相続人の意思。
それが、相続法の中心にあるのです。
◇
「そして第五号!」
私は鉛筆を握り直しました。
――相続に関する被相続人の遺言書を偽造し、変造し、破棄し、又は隠匿した者。
「今回の邦夫さんですね!」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「では、四つの言葉を説明してみろ」
「はい!」
偽造。
本人が作っていない遺言書を、本人が作ったように偽って作ること。
変造。
本物の遺言書の内容を、勝手に書き換えること。
破棄。
遺言書を破ったり、燃やしたりして失わせること。
隠匿。
遺言書の存在や所在を隠すこと。
「邦夫さんは、遺言書を木箱から見つけて……」
「うん」
「自分に都合が悪いから、千鶴さんに知らせなかった」
「そうだ」
「しかも、遺言書なんてないと言い張った」
私は深く頷きました。
「だから、隠匿が問題になったんですね」
「ああ」
ただし。
ここで所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「遺言書を破った人間は、必ず欠格になるか」
「え?」
私は固まりました。
「条文には、破棄した者って書いてありますよね」
「そうだ」
「じゃあ、当然に……」
「本当にそうか」
所長の声が低くなりました。
私は考えました。
たとえば。
遺言書を、古い手紙だと思って誤って捨ててしまった場合。
故意に遺言書を破棄したわけではありません。
それから。
本人の意思で正式に撤回された遺言書を、本人の指示に従って処分した場合。
これは、相続を不正に操作しようとした行為とは違います。
「……あ!」
私は顔を上げました。
「相続について、不当な利益を得ようとする目的が問題になります!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私は、現代で勉強した判例を思い出しました。
最高裁判所平成九年一月二十八日判決。
……平成九年。
つまり、一九九七年。
昭和六十三年より、九年も先です。
危ない!
「先輩!」
「何だ」
「今、危うく未来の判例を引用するところでした!」
「……は?」
「い、いえ!」
私は慌てて六法を閉じかけました。
「何でもありません!」
「お前、また妙なこと言ってんな」
危なかった。
平成九年の最高裁判例では、遺言書の破棄や隠匿について、相続上の不当な利益を得る目的との関係が問題になっています。
そのため、令和の受験生である私は、単に遺言書を破棄・隠匿したという外形だけで、あらゆる場合に欠格が成立すると考えないようにしています。
でも。
今は昭和六十三年。
未来の最高裁判決を、現在の確立した判例として引用することはできません。
私は、こっそりノートの端に書きました。
――未来の判例を、昭和の事件に持ち込まない!
そして、改めて口を開きました。
「とにかく、今回の邦夫さんは、単なる保管や勘違いではありませんでした」
「そうだな」
「自分の相続分を得るために、遺言書を隠したと認めていた」
「うん」
「だから、相続欠格の判断に直結する重大な事実だったんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は、五つの欠格事由を見直しました。
殺害。
殺害を知りながら告発・告訴しないこと。
遺言の妨害。
詐欺・強迫による遺言の作成や変更。
遺言書の偽造・変造・破棄・隠匿。
なるほど。
どれも。
相続をめぐる重大な不正行為です。
私はノートに大きく書きました。
――相続欠格は、血縁よりも相続の公正を優先する制度。
「……できた!」
私は顔を上げました。
「次は相続廃除です!」
相馬先輩がため息をつきました。
「お前、まだ元気なのか」
「はい!」
「こっちは疲れてんだけどな」
「試験は待ってくれません!」
「誰の試験だよ!」
もちろん。
私の試験です。
ただし。
昭和の六法と、令和の知識を混ぜないこと。
そこだけは、今日も油断できないのでした。
◇
「次は、相続廃除です!」
私はノートをめくりました。
――民法第八百九十二条。
推定相続人の廃除。
「まず、推定相続人とは何か」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は答えました。
「今、その人が亡くなったとしたら、相続人になるはずの人です!」
「そうだ」
「つまり、まだ相続が始まっていない段階での話ですね」
「ああ」
たとえば。
父親が生きている。
妻は既に亡くなっている。
子供は長男と長女。
この場合、長男と長女は、父親の推定相続人です。
「ただし!」
私は六法を指差しました。
「誰でも廃除できるわけではありません!」
「ほう」
「廃除の対象になるのは、遺留分を有する推定相続人です!」
相馬先輩が頷きました。
「そこが重要だな」
遺留分。
一定の法定相続人に保障される、最低限の相続上の取り分です。
「たとえば、子供には遺留分があります」
「そうだ」
「だから、長男を廃除することが問題になる」
「うん」
「でも、兄弟姉妹には遺留分がありません」
私は鉛筆を止めました。
「……あれ?」
「どうした」
「じゃあ、兄弟姉妹は廃除できないんですか?」
「そうだ」
「ええっ!」
私は思わず叫びました。
「悪い兄弟だったら、廃除したくなりません!?」
「気持ちの問題じゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「法律上の廃除は、遺留分を有する推定相続人が対象だ」
「……なるほど」
兄弟姉妹には遺留分がありません。
そのため、遺言で財産の行き先を指定することで、兄弟姉妹に相続させないようにすることが可能です。
一方。
子供には遺留分があります。
単に、
「長男には財産をやらない!」
と遺言するだけでは、遺留分の問題が残ることがあります。
そこで。
重大な事情がある場合には、相続人の地位そのものを奪う制度が必要になる。
それが、廃除なのです。
「先輩!」
「何だ」
「廃除の対象が遺留分を有する推定相続人なのって、ちゃんと理由があるんですね!」
「そうだ」
「単なる嫌がらせで財産を渡さない制度じゃない!」
「当たり前だ」
私はノートに書きました。
――廃除の対象は、遺留分を有する推定相続人。
そして、もう一つ。
「廃除が認められれば、相続権そのものを失うんですよね」
「ああ」
「だから、遺留分だけでなく、法定相続分も失う」
「そうだ」
相続させないという遺言と。
相続人から廃除すること。
似ているけれど、まったく同じではありません。
私は大きく頷きました。
これで、今回の源蔵さんの行動が少し理解できました。
源蔵さんは、単に長男に財産を渡したくなかっただけではありません。
長年の暴力や侮辱を受けて。
長男の相続人としての地位そのものを失わせたいと考えていたのです。
◇
「では、廃除事由を言ってみろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は六法を開きました。
民法第八百九十二条。
廃除の理由は、大きく三つ。
虐待。
重大な侮辱。
その他の著しい非行。
「まず、虐待です!」
私は言いました。
「今回の邦夫さんは、父親を突き飛ばしたり、暴力を振るったりしていました」
「そうだな」
「これは、廃除事由になり得ます」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、暴力があったと聞いただけで、機械的に廃除が決まるわけじゃねえ」
「はい」
具体的に何があったのか。
どの程度の行為だったのか。
どれほど継続していたのか。
家族関係や経緯はどうだったのか。
そうした事情を踏まえて、家庭裁判所が判断します。
「だから源蔵さんの帳面が重要だったんですね」
「ああ」
日付。
金銭要求。
暴言。
暴力。
それらが、具体的に記録されていました。
単に、
「長男が嫌いだ」
という感情だけではありません。
何が起きたのか。
なぜ廃除を望んだのか。
それが、証拠として残されていたのです。
「次は、重大な侮辱です!」
私は続けました。
邦夫は、父親に対して、
「死に損ない」
と罵っていたそうです。
しかも、店の客がいる前で。
「これは、重大な侮辱になり得ますよね」
「そうだ」
ただし。
親子喧嘩で一度、ひどい言葉を言ってしまった。
それだけで、必ず廃除が認められるわけではありません。
言葉の内容。
状況。
繰り返しの有無。
それまでの関係。
そうした事情が問題になります。
「相続廃除って、かなり厳しい制度なんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「相続資格そのものを奪うからな」
「だから、単に仲が悪いだけでは足りない」
「そうだ」
私は納得しました。
親子だからといって、何をされても我慢しなければならないわけではありません。
でも。
親が気に入らないというだけで、子供から相続資格を奪ってよいわけでもない。
両方の立場を考える必要があるのです。
「三つ目は、その他の著しい非行です!」
私は続けました。
「これは、虐待や重大な侮辱以外の行為でも、非常に悪質な事情があれば廃除の対象になり得るということですね」
「そうだ」
たとえば。
親の財産を繰り返し無断で使い込む。
多額の金銭を要求して、家族に深刻な被害を与える。
その他、親子関係を著しく損なうような重大な行為。
そうした事情が問題になります。
「でも、単に浪費癖があるとか、親の言うことを聞かないとか、それだけで廃除できるわけではない」
「そのとおりだ」
私は、三つを囲みました。
虐待。
重大な侮辱。
その他の著しい非行。
「よし!」
私は顔を上げました。
「これなら覚えられます!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ確認問題だ」
「はい!」
「父親が長男に『家業を継がないなら廃除する』と言った」
「はい」
「長男は自分の希望する仕事に就いた。ほかに重大な事情はない。廃除できるか?」
「それだけでは、廃除が認められるとはいえません!」
「正解」
「職業選択が気に入らないからって、相続人の地位を奪えるわけじゃないです!」
「そうだな」
私は胸を張りました。
ところが。
相馬先輩は、もう一問出してきました。
「じゃあ、父親が長男を廃除したいと紙に書いた」
「はい!」
「家庭裁判所には何も請求していない。遺言でもない」
「はい!」
「それで廃除は成立するか?」
「成立しません!」
「よし」
私は拳を握りました。
なるほど。
廃除事由があること。
廃除を望んでいること。
そして、法律上の手続きを経て廃除が認められること。
この三つは、区別しなければならないのです。
◇
「では、次は廃除の方法です!」
私はページをめくりました。
――生前の廃除。
――遺言による廃除。
「この二つですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「まず、生前の廃除を説明してみろ」
「はい!」
私は答えました。
「被相続人が生きている間に、家庭裁判所へ廃除を請求する方法です」
「そうだ」
たとえば。
父親が長男から虐待を受けている。
もう財産を相続させたくない。
そう考えた父親が、家庭裁判所へ廃除を請求する。
家庭裁判所が事情を調べて、廃除が認められるかを判断する。
「つまり」
私は言いました。
「親が『勘当だ!』と怒鳴っただけでは、法律上の廃除になりません」
「そうだ」
「戸籍から名前を消したいと言っても、親子関係が当然になくなるわけではない」
「うん」
「廃除は、家庭裁判所の手続きが必要です」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、遺言による廃除は?」
「民法八百九十三条です!」
私は勢いよく答えました。
「被相続人が遺言で廃除する意思を表示した場合には、遺言執行者が家庭裁判所へ廃除を請求します!」
「正解」
今回の源蔵さんが、まさにそれでした。
遺言書には。
長男邦夫を廃除したい。
そう書かれていたのです。
そして、遺言執行者として藤田弁護士が指定されていました。
「所長」
「何だ」
「もし遺言書に廃除するって書いてあっても、家庭裁判所が認めなければ廃除は成立しないんですよね」
「そうだ」
「遺言した本人が亡くなっているから、遺言執行者が手続きをする」
「うん」
「しかも、廃除が認められた場合の効力は、被相続人の死亡時にさかのぼる」
私は二重線を引きました。
――遺言による廃除は、認められれば死亡時にさかのぼって効力が生じる。
「これ、かなり重要ですね!」
「そうだな」
たとえば。
父親が一月一日に亡くなった。
遺言執行者が廃除を請求した。
家庭裁判所での手続きが進み、数か月後に廃除が認められた。
この場合。
遺言による廃除の効力は、父親が亡くなった一月一日にさかのぼります。
「だから、相続開始時からの権利関係に関わるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
廃除の手続きには時間がかかる。
でも。
その間に財産が勝手に処分されたら困ります。
「……あれ?」
私は六法を見ました。
「所長!」
「何だ」
「そのための条文が、八百九十五条ですか?」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
民法第八百九十五条。
推定相続人の廃除に関する審判確定前の遺産の管理。
「今回みたいに、廃除の審判が確定する前に相続が始まっていた場合などには、家庭裁判所が遺産の管理について必要な処分を命じることができるんですね」
「うん」
しかも。
遺言で廃除の意思が示されていた場合にも、この規定が問題になります。
「なるほど……」
私は腕を組みました。
相続欠格。
相続廃除。
そして、審判が終わるまでの財産管理。
法律は、単に相続権を奪うかどうかだけを考えているのではありません。
その結論が出るまで、財産をどう守るか。
そこまで制度が用意されているのです。
「所長」
「何だ」
「今回、邦夫さんが店の土地を勝手に売ろうとしていたのって、かなり危険だったんですね」
「そうだ」
所長は静かに頷きました。
「だから相続関係の争いがあるときは、財産の保全も考えなければならん」
私はノートに書きました。
――廃除の結論を待つ間にも、遺産を守る必要がある。
これも、現場を経験しなければ意識しなかったことです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。
「廃除は取り消せるんだったな」
「はい!」
私は答えました。
「民法八百九十四条です!」
――被相続人は、いつでも、推定相続人の廃除の取消しを家庭裁判所に請求することができる。
「つまり」
私は言いました。
「父親が長男を廃除しても、あとで考えを変えることができるんですね」
「そうだ」
たとえば。
長男が父親に重大な侮辱を加えた。
父親は、家庭裁判所へ廃除を請求した。
廃除が認められた。
ところが数年後。
長男が父親に謝罪し、関係が修復した。
父親は、もう一度相続させたいと考えるようになった。
「そんなときに、廃除の取消しを請求できるんですね」
「ああ」
「ただし、父親が『許す』と言っただけで、法律上の廃除が自動的に消えるわけではない」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
廃除の取消し。
これも、家庭裁判所の手続きが必要になります。
それから。
遺言によって廃除の取消しをすることもできます。
その場合には、民法八百九十三条の規定が準用され、遺言執行者が家庭裁判所へ必要な請求をすることになります。
「所長」
「何だ」
「廃除は、被相続人の意思を重視する制度なんですね」
「そうだ」
「一度、相続させたくないと思っても」
「うん」
「その後、考えが変われば、取消しの道がある」
所長が頷きました。
「人の気持ちは変わるからな」
私は、少しだけ笑いました。
法律というものは。
冷たい条文の集まりだと思っていました。
でも。
廃除の取消しという制度には、人間の感情の変化が織り込まれている。
怒り。
失望。
後悔。
許し。
そういうものです。
「じゃあ先輩!」
「何だ」
「相続欠格も、本人が謝れば取り消せるんですか?」
「同じにするな」
「……はい」
相馬先輩が即答しました。
「欠格と廃除は、そこが違う」
相続欠格は、法律上の欠格事由があれば当然に資格を失う制度。
相続廃除は、被相続人の意思に基づく制度。
だから。
欠格事由に当たる行為をした人が、後から謝罪した。
隠した遺言書を返した。
それだけで、当然に欠格が取り消されるわけではありません。
ただし、欠格者に対して被相続人が別途有効な遺贈をする場合などは、相続人としての地位とは区別して考える必要があります。
「先輩」
「何だ」
「つまり、相続人になる資格と、遺言によって財産を受け取ることは、必ずしも同じ話じゃないんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
法律の世界では。
似たような結果に見えても、根拠となる権利や資格が違うことがあります。
だから。
相続欠格と相続廃除。
この二つを単純に同じものとして覚えてはいけないのです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「今回、一番驚いたのは何だった?」
私は即答しました。
「代襲相続です!」
「だろうな」
私はノートに大きく書きました。
――民法第八百八十七条第二項。
代襲相続。
「今回の健一君ですね」
「ああ」
相続欠格になった人。
相続廃除された人。
その人の子供が、代わりに相続人になることがあります。
今回でいえば。
源蔵さんの長男、邦夫。
そして、その息子の健一君。
もし邦夫が相続欠格によって相続資格を失えば、健一君が祖父の相続について代襲相続人になる。
廃除が認められた場合も同様です。
「でも先輩」
「何だ」
「これ、最初は本当に納得できなかったんです」
「まだ言うか」
「だって、悪いお父さんが相続できないのに、その息子さんが代わりに相続できるなんて、変な感じがして」
相馬先輩は私を見ました。
「じゃあ聞くぞ」
「はい」
「健一は何か悪いことをしたか?」
「してません」
「祖父を殴ったか?」
「いいえ」
「遺言書を隠したか?」
「いいえ」
「なら、健一から相続資格を奪う理由は何だ?」
私は黙りました。
「……ありません」
「そういうことだ」
相馬先輩は頷きました。
なるほど。
相続欠格は、欠格事由に当たる行為をした人の相続資格を失わせる制度です。
相続廃除も、廃除された本人の相続資格を失わせる制度。
それなのに。
その人の子供まで当然に相続できないことにしてしまったら。
本人の行為とは関係のない人間にまで、不利益が広がってしまいます。
「だから代襲相続が認められるんですね」
「そうだ」
私は、ノートに家系図を描きました。
祖父・源蔵。
長男・邦夫。
長女・千鶴。
長男の子・健一。
そして。
邦夫の名前に、大きな印をつけました。
――欠格または廃除。
その下に。
――健一が代襲相続。
「……分かりやすい!」
私は嬉しくなりました。
ただし。
もう一つ、注意点があります。
「代襲相続するためには、健一君が源蔵さんの直系卑属である必要があります」
「そうだ」
「今回は実の孫だから、その点は問題ありません」
私は頷きました。
そして。
代襲相続人になることと、実際にどの財産をどれだけ受け取るかは別問題です。
今回のように遺言があれば、その効力も考える必要があります。
遺留分も関係します。
だから。
「健一君が代襲相続できるから、店と土地を必ず半分もらえる!」
とは言えません。
「所長」
「何だ」
「相続人になる資格と、具体的な取り分は別なんですね」
「そうだ」
「ここを混同すると危険ですね」
所長が頷きました。
「資格を確認してから、財産の帰属を考える」
私は、その言葉をノートに書きました。
◇
「では、ここで引っかけ問題だ」
相馬先輩が言いました。
「来ましたね!」
私は鉛筆を握りました。
「何でもどうぞ!」
「父親が亡くなった」
「はい!」
「本来相続人になるはずだった長男は、相続放棄をした」
「はい!」
「長男には息子がいる」
「はい!」
「その息子は、代襲相続できるか?」
私は胸を張りました。
「できません!」
「正解!」
やった!
私は拳を握りました。
「欠格・廃除と、相続放棄は違います!」
「そうだ」
私はノートに三つ並べました。
相続欠格。
相続廃除。
相続放棄。
どれも、その人が相続人として財産を承継しないことにつながる制度です。
でも。
代襲相続の原因になるかどうかが違います。
相続欠格。
代襲相続の原因になる。
相続廃除。
代襲相続の原因になる。
相続放棄。
代襲相続の原因にならない。
「先輩!」
「何だ」
「これ、行政書士試験で絶対に狙われますよね!」
「だろうな」
「でも、理由が分かれば覚えられます!」
私は続けました。
「相続放棄をした人は、初めから相続人とならなかったものとみなされます」
「そうだ」
「そして、相続放棄は代襲相続の原因として定められていません」
「うん」
「だから、放棄した人の子供が、当然に代襲相続人になることはない!」
「正解」
私は頷きました。
ここは、ただ暗記するだけでは危険です。
相続放棄によって、次順位の相続人が相続することはあります。
しかし。
それは、放棄した人の子供が当然に代襲相続するという意味ではありません。
「……なるほど」
私は鉛筆を止めました。
同じように見える制度でも。
法律効果は違う。
これが民法の面白さです。
「先輩!」
「何だ!」
「私、もう間違えません!」
「本当か?」
「はい!」
「じゃあ、もう一問」
「ええっ!?」
相馬先輩は笑いました。
「相続欠格になった人には、子供がいなかった。その人の兄弟が代わりに相続するか?」
私は固まりました。
「……え?」
「どうした」
「それって……」
私は六法を開きました。
代襲相続は、誰でも自由に代わりになれる制度ではありません。
相続順位。
親族関係。
そして、代襲相続が認められる範囲。
それらによって決まります。
「……誰が代襲できるかは、相続人の順位によって違います!」
私は答えました。
「そうだ」
「子の代襲相続と、兄弟姉妹の代襲相続では、範囲も違います!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ今日は、それ以上はいい」
「助かった……」
私は胸を撫で下ろしました。
相続。
奥が深すぎます。
欠格。
廃除。
代襲。
放棄。
似たような言葉が並ぶたびに。
民法は、受験生の頭を試してくるのです。
◇
「ところで先輩」
私は、ふと顔を上げました。
「何だ」
「今回の相続欠格と相続廃除って、昭和と令和で大きく変わっているんですか?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「……令和?」
「あっ」
しまった。
また未来の話をしてしまいました。
「い、いえ! 将来、制度が変わったりするのかなと思いまして!」
「そんな先の話、俺が知るか」
「ですよね!」
私は苦笑しました。
でも。
現代から転生してきた私には、分かります。
民法は、長い年月の中で大きく変わりました。
成年年齢。
債権の消滅時効。
契約不適合責任。
成年後見制度。
親族法や相続法にも、さまざまな改正が行われています。
けれど。
今回の相続欠格と相続廃除は、基本的な仕組みが昭和六十三年から現代まで引き継がれています。
民法八百九十一条。
相続欠格。
民法八百九十二条。
推定相続人の廃除。
民法八百九十三条。
遺言による廃除。
民法八百九十四条。
廃除の取消し。
民法八百九十五条。
審判確定前の遺産の管理。
これらの制度の骨格は、現代でも理解する必要があります。
「……珍しい」
私は呟きました。
「何がだ」
「いえ、民法って、昔と今で全部違うわけじゃないんだなって」
片桐所長が顔を上げました。
「法律には、変わるものと、変わらないものがある」
「はい」
「変わらないものには、変わらないだけの理由がある」
私は頷きました。
相続の公正。
被相続人の意思の尊重。
重大な行為をした相続人への対応。
そして、無関係な子供を巻き添えにしないこと。
そうした考え方は。
昭和でも、令和でも。
簡単には色あせないのです。
ただし。
未来の法律をそのまま昭和の事件に使ってはいけません。
未来の判例を引用してもいけません。
制度の根本が同じだからこそ。
その時代に存在する条文と判例を、正確に確認することが大切なのです。
「所長」
「何だ」
「法律の勉強って、歴史の勉強でもあるんですね」
片桐所長は頷きました。
「そうかもしれんな」
私は、ノートの端に小さく書きました。
――変わった条文を覚える。変わらない理由を理解する。
これも、大事な教訓です。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私は、今日のノートを見直しました。
相続欠格。
相続廃除。
最初は、どちらも相続資格を失わせる制度だと思っていました。
でも。
今は違います。
相続欠格は、法律が定めた重大な行為によって、当然に相続資格を失う制度。
相続廃除は、被相続人の意思に基づいて、家庭裁判所の手続きによって相続資格を失わせる制度。
そして。
欠格や廃除によって相続できなくなった人の子供には、代襲相続が認められる場合がある。
一方。
相続放棄は、代襲相続の原因にはならない。
私は大きく頷きました。
「よし」
鉛筆を握り直します。
今日の一行。
何と書こう。
少し考えて。
私は、ゆっくり書きました。
――欠格は「法律が自動で」、廃除は「本人の意思と家裁で」。子供は代襲できるが、放棄では代襲しない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「おお」
「おお?」
「まあ、分かりやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
なぜなら。
藤沢家のことを思い出せばいいからです。
父親の財産を奪おうとした長男。
隠された遺言書。
父親が受けた暴力と侮辱。
そして。
祖父の金物店を大好きだった十四歳の孫。
法律は。
長男から相続資格を奪うことがあります。
でも。
その子供まで、同じように扱うわけではありません。
そこに。
制度の意味があるのです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりだ」
「はい!」
「じゃあ、掃除をしろ」
「……え?」
私は固まりました。
「また掃除ですか!?」
「またって何だ」
「昨日も掃除しました!」
「昨日掃除したから、今日の床が汚れねえとでも思ってんのか」
「それは……」
私は腕を組みました。
そして。
ひらめきました。
「先輩!」
「何だ」
「私、掃除から廃除されたいです!」
相馬先輩が止まりました。
「……は?」
「毎日の掃除当番から、廃除してください!」
沈黙。
それから。
「馬鹿野郎!」
「痛っ!」
軽く頭を小突かれました。
「相続廃除は、推定相続人の相続資格を奪う制度だ!」
「はい!」
「掃除当番を外す制度じゃねえ!」
「分かってます!」
「分かってて言うな!」
私は笑いました。
そこで。
片桐所長が静かに口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「掃除をしない理由があるのか」
私は胸を張りました。
「あります!」
「何だ」
「毎日掃除をしているので、精神的苦痛が――」
「それは廃除事由ではない」
「……!」
即答でした。
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「所長まで!」
私は肩を落としました。
しかし。
ここで引き下がる私ではありません。
「では!」
私は言いました。
「掃除当番の相続放棄をします!」
相馬先輩が笑いました。
「それも違う!」
「ええっ!」
「相続放棄は相続人が相続を放棄する制度だ!」
「知ってます!」
「掃除当番には使えねえ!」
「じゃあ、掃除当番の代襲相続を!」
「誰が代襲するんだよ!」
「先輩です!」
「俺はお前の子供じゃねえ!」
……。
なるほど。
法律用語を覚えたからといって、何にでも使えるわけではないようです。
残念。
私は、仕方なく箒を手に取りました。
◇
掃除を始めると。
窓の外から、商店街の鐘の音が聞こえてきました。
夕方の六時。
店じまいの時間です。
あの金物店でも。
千鶴さんと健一君が、店の戸を閉めている頃でしょうか。
私は箒を動かしながら、考えました。
相続というのは、不思議な制度です。
人が亡くなる。
その人が残した財産を、別の人が引き継ぐ。
ただ、それだけのことのように見えます。
でも。
財産の背後には、人の人生があります。
何十年も働いて築いた店。
家族と暮らした家。
苦労して貯めたお金。
その人が、大切にしてきたもの。
それを。
誰に引き継いでもらいたいのか。
そして。
誰には引き継がせたくないのか。
そこには、人間の感情があります。
愛情。
怒り。
失望。
後悔。
許し。
法律は。
それらすべてを、思いどおりに実現してくれる魔法ではありません。
でも。
重大な不正をした人には、相続資格を失わせる。
虐待を受けた人には、相続人を廃除する道を用意する。
そして。
罪のない子供には、代襲相続という道を残す。
そこに。
人間を一人ずつ見ようとする、民法の姿勢があるように思えました。
「……やっぱり」
私は小さく呟きました。
「民法って、優しいですね」
「何か言ったか?」
相馬先輩が聞きました。
「いえ!」
「なら掃除を続けろ」
「はい!」
私は笑いました。
そして、ノートの最後の一行を思い出します。
――欠格は「法律が自動で」、廃除は「本人の意思と家裁で」。子供は代襲できるが、放棄では代襲しない。
よし。
完璧。
……と思った、そのとき。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「最後に一問だけ」
「まだあるんですか!?」
「今回の邦夫が、父親の遺言書を隠した」
「はい」
「それで相続欠格になった」
「はい」
「その後、邦夫自身に子供が生まれたとする」
「はい」
「その子供は、祖父の相続について代襲相続できるか?」
……。
私は箒を止めました。
相続開始時。
代襲相続人の資格。
直系卑属。
胎児。
出生。
「……先輩」
「何だ」
「また新しい論点を出しましたね?」
「試験ってのは、そういうもんだ」
私は六法を見ました。
そして。
「生まれた時期と、祖父が亡くなった時期を確認しなければなりません!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「相続開始時に既に生まれていたか、胎児だったか。そこが問題になります!」
「よし」
「それに、代襲相続人としての資格も確認しなければならない!」
「そのとおり」
私は深く息を吐きました。
「……民法、恐るべし」
相馬先輩が笑いました。
「やっと分かったか」
私は箒を握り直しました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
相続の勉強は、まだまだ続きそうです。
でも。
今日は、一つだけ確信しました。
相続資格を失わせる制度を学ぶことは。
単に、誰を相続から排除するかを覚えることではありません。
誰の行為が問題なのか。
誰の意思を尊重するのか。
そして。
誰にまで、その不利益を及ぼしてよいのか。
そこを考えることなのです。
親の財産を奪おうとした者には、厳しく。
虐待を受けた親には、救いを。
そして。
罪のない孫には、未来を。
相続欠格と相続廃除。
その二つを理解したとき。
私は、民法が守ろうとしているものを、少しだけ深く知った気がしました。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「また箒が止まってるぞ!」
「今、相続法の本質を考えていたんです!」
「本質はいいから床を掃け!」
「先輩!」
「何だ!」
「この掃除当番、著しい非行に当たりませんか!?」
「お前が掃除をサボってることなら、著しい怠慢だ!」
「ひどい!」
……なるほど。
残念ながら。
民法八百九十二条をどれだけ理解しても。
掃除当番から廃除される日は、まだ来そうにありません。
それでも。
今日の私は、少しだけ誇らしい気分でした。
なぜなら。
相続欠格と相続廃除の違いを、もう二度と忘れないからです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




