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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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567/701

[相続欠格と相続廃除]現場編 「親の財産は長男の俺がもらう」の嘘。隠された遺言書と、相続権を失った男の最後の誤算

挿絵(By みてみん)

 親の財産を奪おうとした人間が、親の財産を受け取れるとは限りません。


 たとえ。


 血のつながった実の息子でも。


 戸籍に名前が載っていても。


 長男でも。


 法律には、その資格を奪う仕組みがあります。


 ただし。


 ここに、大きな落とし穴があります。


 悪いことをしたから、相続できない。


 親に嫌われたから、相続できない。


 そんな単純な話ではないのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、二つの言葉に翻弄されることになります。


 相続欠格。


 相続廃除。


 似ています。


 どちらも相続権を失う制度です。


 でも。


 決定的な違いがある。


 そして、その違いを知らなかった男は。


 自分が隠した一通の遺言書によって、すべてを失うことになるのです。


 もっとも。


 最後に一番驚いたのは、その男ではありませんでした。


 私です。


 だって。


 相続権を失った人間の子供には、まだ相続権が残ることがあるなんて。


 そんなの、ずるいじゃないですか!


 ……いえ。


 よく考えたら。


 それこそが、民法の優しさだったのです。


 ◇


「兄が、父の遺言書を隠したんです」


 朝九時。


 片桐行政書士事務所を訪れた女性は、震える声でそう言いました。


「遺言書を?」


 私は顔を上げました。


 女性の名前は、藤沢千鶴さん。


 三十八歳。


 市内の小学校で給食調理員をしているそうです。


 膝の上には、使い古された風呂敷包み。


 その指が、白くなるほど固く結ばれていました。


「父が先月、亡くなりました」


「お悔やみ申し上げます」


「ありがとうございます」


 千鶴さんは頭を下げました。


「父は、藤沢源蔵といいます。駅から少し離れたところで、昔から金物屋を営んでいました」


「ああ、藤沢金物店か」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「知ってるんですか?」


「商店街の角にある店だろ。釘一本から売ってくれる爺さんの店だ」


「はい。父は、最後まで店を大切にしていました」


 千鶴さんの目が潤みました。


「でも兄は……」


 そこで言葉が止まります。


「お兄さんは?」


 私が尋ねると、千鶴さんは唇を噛みました。


「父が生きている間、何度もお金をせびっていたんです」


 長男。


 藤沢邦夫。


 四十六歳。


 以前は運送会社に勤めていましたが、数年前に退職。


 その後、商売を始めては失敗し、借金を重ねていたそうです。


「父の店にも、お金を取りに来ました」


「どれくらいですか?」


「多いときは、一度に五十万円も」


「五十万円……」


「断ると、怒鳴るんです。年寄りのくせに財産を抱え込んでどうするって」


 千鶴さんは風呂敷を開きました。


 中から出てきたのは、古い帳面。


 そして、何枚もの手紙です。


「父が書き残していたものです」


 私は帳面を開きました。


 そこには、日付と金額。


 ――三月十二日 邦夫に十万円。


 ――四月二日 邦夫に二十万円。


 ――五月十九日 断ったところ、店のガラスを割ると脅された。


 そして。


 六月七日。


 ――邦夫、店先で私を突き飛ばす。腰を打つ。もう限界だ。


 私は手を止めました。


「……ひどい」


「父は、兄を怖がっていました」


 千鶴さんが言いました。


「それでも、親だからって。何度も許してきたんです」


 しかし。


 ある日、源蔵さんは決意しました。


 長男には財産を渡さない。


 その代わり、長年店を手伝い、介護も続けてきた千鶴さんに、店と土地を残す。


「父は遺言書を書いたんです」


「その遺言書は?」


「……それが、なくなってしまって」


 私は眉をひそめました。


「なくなった?」


「兄が、父の書類箱を持っていったんです。葬儀の翌日に」


「勝手に?」


「はい」


「何と言って?」


「長男だから、財産の整理は俺がすると」


 千鶴さんは悔しそうに俯きました。


「それから兄は、私にこう言ったんです」


 千鶴さんは顔を上げました。


 そして、低い声で言いました。


「遺言書なんかなかった。親父の財産は、長男の俺がもらう」


 ……。


 出ました。


 長男だから全部俺のもの。


 相続トラブルで、とても危険な言葉です。


「お父さんの奥様は?」


 片桐所長が尋ねました。


「母は十年前に亡くなっています」


「お子さんは、あなたとお兄さんだけですか」


「はい」


「お兄さんには、お子さんが?」


「……一人います。十四歳の息子です」


 所長が頷きました。


「分かりました」


 私は六法を手に取りました。


 相続。


 実子。


 配偶者なし。


 子供二人。


 遺言がなければ、原則として長男と長女が二分の一ずつ相続することになります。


 少なくとも。


 長男だから全部相続する。


 そんな決まりではありません。


「千鶴さん!」


 私は勢いよく言いました。


「お兄さんの主張は間違っています!」


「本当ですか?」


「はい! それに、遺言書を隠したなら、相続欠格になる可能性があります!」


「相続……欠格?」


「そうです!」


 私は六法を開きました。


 民法八百九十一条。


 相続人の欠格事由。


「遺言書を隠した人は、相続人になれない場合があるんです!」


 千鶴さんの顔が明るくなりました。


「じゃあ、兄は相続できないんですね!」


「はい! しかも、お父さんを虐待していたなら相続廃除も――」


「待て」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい?」


「お前、また大事なところを飛ばしたな」


「え?」


「遺言書を隠したって話だが、何を根拠にそう言ってる?」


「お兄さんが書類箱を持っていったからです」


「その箱に遺言書があった証拠は?」


「……」


「そもそも、本当に遺言書が存在したことを、どう証明する?」


 私は固まりました。


 あ。


 そうでした。


 相続欠格。


 条文を知っているだけでは、足りません。


 相手が欠格事由に該当する行為をしたこと。


 そこが立証できなければ、争いになってしまう。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「法律は、疑いだけで人から相続権を奪うものではない」


「……はい」


「まず、事実だ」


 私は千鶴さんを見ました。


「お父さんが遺言書を書いたところを、誰か見ていますか?」


「……います」


「え?」


「父の古い友人です」


 千鶴さんは、風呂敷から一枚の便箋を取り出しました。


「父は遺言書を書いたあと、その方に預ける前に、内容を読んで聞かせたそうなんです」


 私は便箋を受け取りました。


 差出人。


 小野寺清。


 七十二歳。


 元郵便局員。


 そこには、こう書かれていました。


 ――源蔵さんは、自筆の遺言書を私に示した。


 ――長女千鶴に店舗と土地を残す旨の記載があった。


 ――また、長男邦夫による度重なる暴力及び重大な侮辱を理由として、邦夫を相続人から廃除したい旨が記されていた。


 私は顔を上げました。


「廃除……!」


 相馬先輩も身を乗り出しました。


「ほう」


 所長が言いました。


「話が変わってきたな」


 私は便箋を握り直しました。


 相続欠格。


 相続廃除。


 二つの制度が。


 一つの遺言書を中心に、重なり始めたのです。


 ◇


「相続廃除なら、家庭裁判所ですね!」


 私は六法を開きながら言いました。


「お父さんが虐待を受けていたんですから、廃除の審判を――」


「誰が申し立てるんだ?」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「父親はもう亡くなってるぞ」


「あ……」


 そうでした。


 生きている間なら、被相続人本人が家庭裁判所に廃除を請求できます。


 でも。


 亡くなったあとでは?


 私は考えました。


「遺言による廃除なら……遺言執行者です!」


「そうだ」


 先輩が頷きました。


「民法八百九十三条。遺言執行者が家庭裁判所に廃除を請求する」


「はい!」


「じゃあ、遺言書は?」


「……ありません」


「遺言執行者は誰だ?」


「……分かりません」


「廃除の意思表示が遺言にあったと、どう証明する?」


「……」


 ぐう。


 完敗です。


 法律の知識はある。


 でも、肝心の証拠がない。


 相馬先輩はため息をつきました。


「お前な。条文は魔法の呪文じゃねえぞ」


「分かってます!」


「分かってねえから言ってんだ」


「ぐぬぬ……」


 片桐所長が口を開きました。


「千鶴さん」


「はい」


「お兄さんは、現在、遺産について何か手続きを進めていますか」


「はい。店の土地を売ろうとしています」


「売る?」


「不動産屋さんに相談しているそうです」


「登記は?」


「まだ父の名義です」


 所長の目が細くなりました。


「急ぐ必要があるな」


 私は顔を上げました。


「所長?」


「相続関係が確定しないまま処分が進むと、紛争が複雑になる」


「はい」


「書類箱の所在と、中身を確認しよう」


 そこで。


 千鶴さんが小さな声で言いました。


「実は……」


 私たちは顔を向けました。


「兄から、昨日、こんな手紙が届いたんです」


 千鶴さんは封筒を取り出しました。


 中には、便箋が一枚。


 私は読みました。


 ――父の遺産については、長男である私が管理する。


 ――千鶴には相続分を与えない。


 ――これ以上口を出すなら、父の借金を全部背負わせる。


 最後に、署名。


 藤沢邦夫。


 押印。


 私は思わず呟きました。


「……何ですか、この脅し文句」


「相続の仕組みを知らない妹なら、これで黙ると思ったんだろ」


 相馬先輩が言いました。


 片桐所長は、その手紙をじっと見ていました。


 そして。


「相馬」


「はい」


「本人の意思を確認して、通知書の準備だ」


「了解です」


「こはるも手伝え」


「はい!」


 私の胸が高鳴りました。


 ようやく。


 反撃です。


 しかし。


 その日の午後。


 私は、もう一度大きな勘違いをすることになります。


 ◇


「おいおい。行政書士が何の用だ?」


 藤沢金物店。


 古い木造店舗の奥で、長男の邦夫は椅子にふんぞり返っていました。


 四十六歳。


 太い首。


 派手な腕時計。


 机の上には、不動産会社の封筒。


 その隣には、茶封筒に入れた戸籍謄本らしき書類が置かれていました。


 私と相馬先輩は、千鶴さんから聞いた事情について、資料の所在を確認するため店を訪れていました。


「藤沢邦夫さんですね」


 相馬先輩が名乗りました。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 邦夫は鼻で笑いました。


「弁護士じゃねえんだろ?」


「そうです」


「じゃあ、裁判もできねえじゃねえか」


 出ました。


 お決まりの台詞。


 行政書士なら怖くない。


 そう思っている顔です。


「父上の書類箱について、事実確認をお願いしたいんですが」


 相馬先輩が言いました。


「箱?」


「葬儀の翌日に持ち出されたと聞いています」


「ああ」


 邦夫は平然と頷きました。


「俺が預かってるよ」


「中に遺言書はありましたか」


「ねえよ」


「確認されたんですね」


「当然だろ」


「どのように?」


 邦夫の眉が動きました。


「……何だよ」


「箱の中身を確認されたのなら、目録などは残っていますか」


「そんなもん、作るわけねえだろ」


「そうですか」


 相馬先輩は手帳に書き込みました。


 邦夫は苛立ったように机を叩きました。


「そもそもな!」


 大きな声。


「親父の財産は、長男の俺が継ぐんだよ!」


 私は思わず口を開きました。


「法律上、長男だから全部相続するわけではありません」


「あ?」


「お父さんの配偶者が亡くなっていて、お子さんが二人なら、法定相続分は原則として二分の一ずつです」


「知るか!」


「法律ですから!」


「うるせえ小娘だな!」


 邦夫が立ち上がりました。


「親父は俺の親父だぞ!」


「千鶴さんのお父さんでもあります!」


「何だと!」


 まずい。


 私は口をつぐみました。


 相馬先輩が、ゆっくり手帳を閉じます。


「こはる」


「はい」


「事実確認だ」


「……はい」


 そうでした。


 私たちは、依頼人の代理人として遺産分割の交渉をしに来たわけではありません。


 書類作成のため、事実を整理している。


 それ以上の法律紛争の交渉は、弁護士の仕事です。


 邦夫は勝ち誇った顔で笑いました。


「親父は俺のことを嫌ってたかもしれねえがな」


 私は顔を上げました。


「嫌っていた?」


「ああ。最後のほうは、勘当だとか何とか言ってた」


「……」


「でもな!」


 邦夫は戸籍謄本らしき紙を叩きました。


「親子の縁は切れねえんだよ!」


 私は息を呑みました。


 確かに。


 親が勘当と言っただけで、法律上の親子関係が消えるわけではありません。


 しかし。


「だから財産は俺にも来るんだ!」


 そこは違います。


 親子関係と、相続資格は別です。


「それからな」


 邦夫はにやりと笑いました。


「親父が俺を相続人から外したいって言ってたらしいが、そんなものは無駄だ」


「なぜですか?」


 私が聞くと、邦夫は鼻で笑いました。


「遺言書がねえからだよ」


 ……。


 私は、その顔を見ました。


 何か。


 引っかかりました。


「お父さんが遺言書を書いていたことは、ご存じだったんですか?」


「……!」


 邦夫の顔が、一瞬だけ固まりました。


「いや」


「でも今、遺言書がないから無駄だと」


「千鶴が騒いでるから言っただけだ!」


「そうですか」


 相馬先輩が静かに立ち上がりました。


「確認できました。ありがとうございます」


「もう帰るのか?」


「はい」


「だったら二度と来るな!」


 邦夫は笑いました。


「遺言書がないなら、何もできねえだろ!」


 私たちは店を出ました。


 商店街の風が、少し冷たく感じました。


「先輩」


「何だ」


「あの人、怪しいです」


「そうだな」


「絶対、何か隠してます!」


「かもしれねえ」


「じゃあ、どうして何も言わなかったんですか!」


 相馬先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「相手が自分で何を認めたか、覚えてるか」


「え?」


「書類箱を持ち出した」


「はい」


「中身を確認した」


「はい」


「目録は作っていない」


「はい」


「父親が自分を相続から外したがっていたことも知っていた」


「あ……!」


 私は目を見開きました。


 そうです。


 相手は、余計なことをいくつも話していました。


「でも先輩。それだけじゃ、遺言書を隠した証拠には……」


「ならねえ」


 先輩は即答しました。


「だから証拠を探すんだ」


「はい!」


「それに」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「相手は一つ、大きな勘違いをしてる」


「何ですか?」


「遺言書さえ隠せば、相続権を守れると思ってることだ」


 私は立ち止まりました。


「……あ」


「気づいたか」


「相続欠格!」


「そうだ」


 民法八百九十一条。


 遺言書の隠匿。


 相続人としての資格を失うことがある。


 つまり。


 遺言書を隠して得をしようとする行為そのものが。


 相続権を失う原因になり得るのです。


「先輩!」


「何だ」


「これ、すごく皮肉ですね!」


「何がだ」


「相続したいから遺言書を隠したのに、そのせいで相続できなくなるなんて!」


「法律ってのは、たまにそういう仕掛けがある」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「だが、喜ぶのはまだ早い」


「……証拠ですね」


「そうだ」


 先輩は火をつけずに煙草をしまいました。


「法律は強え。だが、事実を証明できなきゃ、ただの紙切れだ」


 私は頷きました。


 そして。


 翌日。


 その証拠が、思わぬところから現れたのです。


 ◇


「……私、見たんです」


 小野寺清さんは、そう言いました。


 源蔵さんの古い友人。


 元郵便局員。


 七十二歳。


 相馬先輩が約束を取り、私たちは自宅を訪ねていました。


「遺言書を、ですか?」


「ええ」


 小野寺さんは頷きました。


「源蔵は、亡くなる二週間ほど前に、自分で書いた遺言書を見せてくれました」


「どんな内容でしたか?」


「娘の千鶴さんに店と土地を残す。それから……」


 小野寺さんは目を伏せました。


「邦夫を廃除したい、と」


 私は手帳を開きました。


「そのとき、源蔵さんは何と言っていましたか?」


「もう息子が怖い、と」


 小野寺さんの声が震えました。


「何度も殴られた。店を壊すと脅された。客の前で、死に損ないと罵られた。もう財産を渡したくない、と」


 私は唇を噛みました。


 親子なのに。


 こんなことが。


「それで、源蔵さんは遺言書をどこへ?」


「自分の書類箱です」


「箱?」


「ええ。赤い布の貼ってある、小さな木箱です」


 私は顔を上げました。


「その箱なら、お兄さんが持ち出しています!」


「そうでしょうな」


 小野寺さんは苦い顔をしました。


「邦夫は、父親が遺言書を書いたことを知っていましたから」


「え?」


 私は身を乗り出しました。


「知っていたんですか?」


「ええ。あの日、店の裏口で源蔵と邦夫が言い争っていました」


「何と?」


「源蔵が言ったんです。お前には一銭もやらん、遺言も書いた、と」


「……!」


「すると邦夫は、こう怒鳴りました」


 小野寺さんは、ゆっくり言いました。


「そんな紙、破ってしまえば終わりだ」


 私は息を呑みました。


 相馬先輩の鉛筆が止まりました。


「小野寺さん」


「はい」


「そのときのことを、日時や場所を含めて書面にしていただけますか」


「もちろんです」


 小野寺さんは即答しました。


「源蔵のためですから」


 私は胸が熱くなりました。


 でも。


 相馬先輩は、まだ満足していないようでした。


「もう一つ、お尋ねします」


「何でしょう」


「源蔵さんは、遺言執行者を指定していましたか」


「ああ」


 小野寺さんが頷きました。


「藤田先生です」


「藤田先生?」


「隣町の弁護士さんです。源蔵が昔から世話になっていた」


 私は思わず声を上げました。


「遺言執行者が分かった!」


「こはる」


「はい!」


「騒ぐな」


「すみません!」


 相馬先輩は、小野寺さんに頭を下げました。


「貴重なお話をありがとうございました」


 そして。


 最後に、こう尋ねました。


「遺言書の写しは残っていませんか」


「写し……」


 小野寺さんは考え込みました。


「いや、私は持っていません」


「そうですか」


「ただ……」


 小野寺さんは立ち上がりました。


「少し待ってください」


 奥の部屋へ消えます。


 数分後。


 一冊の古い手帳を持って戻ってきました。


「源蔵が遺言書を見せてくれた日、内容を書き留めたんです」


 私は手帳を受け取りました。


 そこには。


 源蔵さんが、長男から受けた暴力。


 長女への感謝。


 店を残したいという希望。


 そして、遺言執行者の名前。


 細かな字で、記されていました。


 もちろん。


 これは遺言書そのものではありません。


 この手帳だけで、正式な遺言の効力を証明できるとは限りません。


 でも。


 遺言書が存在したことを裏づける重要な手掛かりにはなります。


「先輩」


 私は小さく言いました。


「見つけましょう」


「ああ」


「絶対に」


 相馬先輩は頷きました。


「だが、勝手に他人の家や箱を探るなよ」


「はい」


「合法的に証拠を集める。そこは間違えるな」


「分かってます!」


 そして私たちは、千鶴さんに事情を報告しました。


 千鶴さんは、涙を流しました。


「父は……本当に、そんなことまで書いていたんですね」


「はい」


「兄が怖くて、最後まで苦しんでいたのに……」


 私は、何と言えばよいか分かりませんでした。


 すると片桐所長が、静かに言いました。


「千鶴さん」


「はい」


「お父様が残そうとした意思を、確かめましょう」


 千鶴さんが顔を上げました。


「はい」


「そのために、まだできることがあります」


 所長は相馬先輩に向き直りました。


「相馬。資料は揃ってきたな」


「はい」


「では、通知書だ」


 いよいよ。


 書面による反撃が始まります。


 ◇


「まず、相続欠格です!」


 私は原稿用紙に書きました。


 ――民法第八百九十一条第五号。


 相続に関する被相続人の遺言書を偽造し、変造し、破棄し、又は隠匿した者は、相続人となることができない。


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「次!」


「次は相続廃除です!」


 私は続けました。


 ――民法第八百九十二条。


 被相続人に対する虐待、重大な侮辱、その他の著しい非行がある場合、被相続人は、遺留分を有する推定相続人の廃除を家庭裁判所に請求することができる。


「待て」


「はい?」


 相馬先輩が赤鉛筆を取りました。


「今の二つ、違いを言ってみろ」


「違い?」


「ああ」


 私は考えました。


「相続欠格は、法律に定められた欠格事由に当てはまると、当然に相続資格を失います」


「うん」


「相続廃除は、被相続人の意思に基づいて、家庭裁判所の手続きで相続資格を奪う制度です」


「そうだ」


「だから、単に親が勘当したと言っただけでは、廃除されない」


「正解」


 私は胸を張りました。


 よし!


 すると。


 片桐所長が原案を読み始めました。


 そして。


「ここ」


「はい」


「『邦夫は父を虐待していたため、当然に相続人ではない』」


「はい!」


「違う」


 赤線。


「ええっ!」


「虐待があれば、自動的に廃除されるわけではない」


「あ……!」


「家庭裁判所の判断が必要だ」


「はい……」


 私は慌てて書き直しました。


 相続欠格は、法律上の欠格事由があれば、特別な裁判所の手続きを経ずに資格を失う。


 相続廃除は、家庭裁判所の手続きが必要。


 ……なるほど。


 同じ「相続できなくなる」でも、仕組みが違うのです。


「所長!」


「何だ」


「でも、遺言書に廃除したいと書いてあれば、それだけで廃除の効力が生じるんじゃないですか?」


「生じない」


「えっ」


「遺言執行者が家庭裁判所に請求し、廃除が認められる必要がある」


「……はい」


「認められた場合には、死亡時にさかのぼって効力が生じる」


 私は頷きました。


 さらに。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「この事件で、一番重要なのはどっちだ?」


「……相続欠格です」


「なぜだ」


「もし邦夫さんが相続するために遺言書を隠したなら、家庭裁判所の廃除手続きを待たなくても、法律上、欠格の問題が生じるからです」


「そうだ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ただし。


 ここでも気をつけなければなりません。


 遺言書が見つからない。


 それだけで、誰かが相続欠格者になるわけではない。


 遺言書を持っているだけでも、必ず欠格になるとは限らない。


 隠したのか。


 どうして隠したのか。


 何が起きたのか。


 それを確認する必要があります。


「所長」


「何だ」


「内容証明には、どう書きますか」


「事実を示して、回答を求める」


「はい」


「欠格が確定したと決めつけるな」


 私は頷きました。


 そして、書き直しました。


 数時間後。


 机の上に、完成した原案が置かれました。


 差出人。


 藤沢千鶴。


 宛先。


 藤沢邦夫。


 件名。


 ――亡藤沢源蔵の遺言書及び相続財産に関する通知書。


 私は読み上げました。


「第一。亡藤沢源蔵は、生前、自筆の遺言書を作成し、その内容を小野寺清に示していた」


「うん」


「第二。貴殿は、亡源蔵が遺言書を作成したことを認識していた可能性があり、かつ、その死亡後、遺言書が保管されていたとされる木箱を持ち出し、現在これを保管している」


「うん」


「第三。貴殿は、遺言書の存在を否定しているが、木箱の内容物を確認したと述べている」


 片桐所長が頷きました。


「続けろ」


「第四。民法八百九十一条第五号は、被相続人の相続に関する遺言書を隠匿した者を相続人となることができない者として定めている」


「よし」


「第五。したがって、遺言書の存在及び取扱いについて事実関係を明らかにする必要がある」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。貴殿に対し、当該木箱の保管状況、内容物、遺言書の有無及びその処分の経緯について、七日以内に書面で回答するよう求める」


 相馬先輩が頷きました。


「それから?」


「第七。相続資格及び遺言の効力について争いが生じる場合には、弁護士に相談のうえ、必要な法的措置を検討する」


 読み終わりました。


 静寂。


 私は恐る恐る顔を上げました。


「……どうでしょう?」


 相馬先輩は原案を読み返しました。


「まあ、いいだろう」


「本当ですか!」


「ただし、まだ終わりじゃねえ」


「え?」


「証拠書類との照合だ」


 相馬先輩は、小野寺さんの供述書と、千鶴さんが持参した父親の帳面を並べました。


 日付。


 場所。


 発言。


 書類箱。


 遺言書の存在を知っていた人物。


 持ち出した時期。


 そして。


 邦夫自身が認めた事実。


 一つずつ照合していきます。


「内容証明って、すごいですね……」


 私は呟きました。


「何がだ」


「相手を怒鳴らなくても、ここまで追い詰められるんですね」


「追い詰めるのが目的じゃねえ」


 相馬先輩は言いました。


「事実を隠したままじゃ済まねえと、理解させるんだ」


 片桐所長も口を開きました。


「民法は、相手を脅すためにあるわけではない」


「はい」


「正しい権利関係を明らかにするためにある」


 私は頷きました。


 そして。


 書面の最後に、こう記しました。


 ――本件については、遺言書の存否及び相続資格に重大な疑義があるため、関係資料の保存を求める。


 ……。


 私はその一文を見ました。


 保存。


 つまり。


 捨てるな。


 隠すな。


 これ以上、証拠を失わせるな。


 そういう意味です。


 相馬先輩が笑いました。


「こはる」


「はい?」


「これを受け取った相手が、一番怖がるのは何だと思う?」


「訴訟ですか?」


「それもある」


「じゃあ……相続欠格?」


「そうだ」


 先輩は、民法八百九十一条を指で叩きました。


「自分が隠した遺言書のせいで、自分の相続権がなくなるかもしれねえ」


 私は息を呑みました。


「しかも、欠格なら、親が廃除を請求していたかどうかとは別に問題になります」


「そのとおり」


「……怖いですね」


「怖いのは条文じゃねえよ」


 相馬先輩は言いました。


「自分のしたことが、自分に返ってくることだ」


 私は、深く頷きました。


 ◇


 内容証明郵便を発送してから三日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……相馬って人、いるか』


 低い声。


 聞き覚えがあります。


「藤沢邦夫さんですか?」


『そうだ』


 私は受話器を持ち直しました。


「少々お待ちください」


 相馬先輩に代わります。


「相馬です」


『おい』


「はい」


『あの手紙、何だ』


「千鶴さんご本人の意思に基づく通知書です」


『ふざけんな!』


 受話器から怒鳴り声が漏れました。


『俺を相続人から外すっていうのか!』


「通知書に記載されているのは、遺言書の取扱いについての確認事項です」


『……』


「回答は、ご本人に書面でお送りください」


『お前ら、俺を脅してるのか!』


「そうではありません」


 相馬先輩の声は、静かでした。


「相続に関係する重要な事実を確認するための書面です」


 沈黙。


 そして。


『……あのよ』


 邦夫の声が変わりました。


『もし、だぞ』


「はい」


『もし遺言書があったとして、それを隠しただけで、本当に相続できなくなるのか?』


 私は息を止めました。


 相馬先輩は、少し間を置きました。


「民法八百九十一条第五号に、遺言書の隠匿が欠格事由として定められています」


『……』


「具体的に該当するかどうかは、事実関係によります」


『そうか……』


 邦夫は黙りました。


 それから。


『……返せばいいんだろ』


 私は目を見開きました。


 返す?


 何を?


『遺言書だよ』


 ……!


 私の心臓が跳ねました。


『箱の底に入ってたんだ。別に隠したわけじゃねえ。ちょっと預かってただけだ』


 相馬先輩の表情が変わりました。


 しかし、声は落ち着いています。


「遺言書が存在するんですね」


『……ああ』


「分かりました。原本を損なわないよう保管してください」


『返せば、俺の相続権は戻るんだな?』


 相馬先輩は即答しませんでした。


「その点について、私から断定することはできません。必要であれば、弁護士にご相談ください」


『何だよ、それ!』


「当事務所は、書類作成のための事実確認を行っております。相続資格についての紛争の判断や交渉はお引き受けできません」


『……くそっ』


 電話が切れました。


 私は、受話器を見つめました。


「先輩!」


「何だ」


「遺言書、ありましたよね!」


「ああ」


「やっぱり!」


「だが、まだ原本を見てねえ」


「あ……」


「相手が存在を認めたことと、内容が真正であることは別だ」


 相馬先輩はすぐに千鶴さんへ連絡しました。


 そして、遺言書の取扱いについては、指定されている可能性のある藤田弁護士にも相談することになりました。


 数日後。


 邦夫は、千鶴さん本人と藤田弁護士の立会いのもと、保管していた木箱を引き渡しました。


 その中には。


 封筒がありました。


 ――遺言書。


 源蔵さんの文字。


 千鶴さんは、その封筒を見た瞬間、泣き崩れたそうです。


 その後、藤田弁護士は、自筆証書遺言について必要な家庭裁判所の検認手続きを進めました。


 検認は、遺言書の有効性を確定する手続きではありません。


 しかし、遺言書の状態や内容を確認し、保存するための大切な手続きです。


 そして。


 明らかになった遺言の内容は、小野寺さんが語ったものと一致していました。


 店と土地は、千鶴に残す。


 長男邦夫は、長年にわたり暴力と侮辱を繰り返した。


 よって、邦夫を相続人から廃除したい。


 さらに。


 遺言執行者として藤田弁護士が指定されていたのです。


 ◇


「……本当に書いてありました」


 千鶴さんが事務所を訪れたのは、それから数日後でした。


 手には、遺言書の写し。


 目元は赤くなっています。


「父が、私に店を残すって……」


 私は、そっと頷きました。


「よかったですね」


「はい……」


 しかし。


 片桐所長は、落ち着いた声で言いました。


「千鶴さん。まだ確認すべきことがあります」


「え?」


「お兄さんの相続資格です」


 私は顔を上げました。


「欠格と廃除ですね」


「そうだ」


 まず。


 遺言書が発見された。


 邦夫が所持していた。


 生前、遺言書の存在を知っていた。


 それらの事情が揃いました。


 さらに。


 藤田弁護士のもとには、邦夫が書いた説明書が提出されたそうです。


 そこには。


 ――父の死後、木箱の中から遺言書を発見した。


 ――自分を廃除する内容だったため、他の相続人には知らせなかった。


 ――遺言書が見つからなければ、自分にも相続分があると考えた。


 そう記されていました。


 私は、その写しを見て言葉を失いました。


「……自分で書いてますね」


 相馬先輩が頷きました。


「証拠が揃ってきたな」


「これなら相続欠格の問題が、かなり明確になります」


「ああ」


 ただし。


 まだ争いがあれば、最終的には裁判所での判断が必要になることがあります。


 私たち行政書士が、相続欠格の有無について裁判で争うことはできません。


 その部分は、藤田弁護士へ引き継がれました。


 一方。


 遺言による廃除についても。


 藤田弁護士が、遺言執行者として家庭裁判所へ請求する準備を進めていました。


 私は、ようやく二つの違いが見えてきた気がしました。


 欠格。


 法律が定めた重大な行為によって、当然に相続資格を失う。


 廃除。


 被相続人の意思に基づき、家庭裁判所の手続きで相続資格を失わせる。


 似ているけれど。


 入口が違う。


「所長」


「何だ」


「今回、もし遺言書が発見されなかったとしても……」


「うん」


「邦夫さんが本当に遺言書を隠していたと立証できれば、相続欠格の問題は残るんですよね」


「そうだ」


「遺言書そのものが見つからなければ、欠格を主張できないというわけではない」


「うん」


「でも、事実の証明は難しくなる」


「そのとおりだ」


 私は深く頷きました。


 なるほど。


 遺言書を隠す。


 その行為自体が、相続資格を奪う原因になる。


 相続人だから何をしてもいい。


 そんな理屈は通用しないのです。


「それにしても……」


 私は呟きました。


「本当に怖い法律ですね」


 相馬先輩が笑いました。


「悪いことをしなきゃ、怖がる必要はねえよ」


「それもそうですね」


 私も笑いました。


 しかし。


 そのとき。


 千鶴さんが、思い出したように言いました。


「あの……」


「はい?」


「兄の息子は、どうなるんでしょうか」


 私は首をかしげました。


「息子さん?」


「はい。十四歳の、健一です」


 健一君。


 邦夫の一人息子。


「もし兄が相続できなくなったら、健一は……」


 私は口を開きました。


「お兄さんが相続できないなら、健一君も――」


「待て!」


 相馬先輩が叫びました。


「はいっ!?」


「お前、今、何て言おうとした?」


「え?」


「父親が相続できないなら、子供も相続できないって言おうとしただろ」


「……はい」


 相馬先輩は、深いため息をつきました。


「こはる」


「はい」


「民法八百八十七条を開け」


「八百八十七条?」


「代襲相続だ」


 ……。


 私は固まりました。


 代襲相続。


 その文字を見た瞬間。


 頭の中で、何かがつながりました。


「……あああっ!」


「気づいたか」


「欠格者の子供は、代襲相続できる!」


「そうだ」


「廃除された人の子供も!」


「そうだ!」


 私は六法を握りしめました。


「じゃあ!」


 声が裏返りました。


「邦夫さんが相続欠格になっても、健一君は、おじいさんの相続人になる可能性があるんですか!?」


「ああ」


「しかも、廃除の場合でも!?」


「そうだ!」


 私は机に突っ伏しました。


「なんてことですか……!」


「何がだ」


「せっかく悪いお兄さんが相続できなくなるのに、その子供が相続するなんて!」


 相馬先輩は、私の頭を小突きました。


「馬鹿野郎」


「痛っ!」


「子供に何の罪があるんだ」


 私は顔を上げました。


「……え?」


「親父が遺言書を隠した」


「はい」


「親父が祖父を虐待した」


「はい」


「それで、息子の健一まで財産を受け継ぐ資格を失うのか?」


 私は黙りました。


「健一が何か悪いことをしたのか?」


「……してません」


「だったら、親の罪を子に背負わせるな」


 ……。


 私は、六法を見つめました。


 代襲相続。


 欠格。


 廃除。


 相続資格を失った本人は、相続できない。


 でも。


 その子供まで、自動的に相続から排除されるわけではない。


 なるほど。


 そういうことだったんですね。


「所長」


「何だ」


「民法って、意地悪なのか優しいのか分かりません」


 片桐所長は、少しだけ笑いました。


「どちらでもない」


「え?」


「責任を負うべき人間と、守るべき人間を分けているだけだ」


 私は息を呑みました。


 その言葉が。


 妙に胸に残りました。


 ◇


 それから二週間ほど経った頃。


 藤田弁護士から、事件の経過が伝えられました。


 邦夫は、自分の行為を記した書面の内容を認め、遺言書の隠匿による相続欠格について、もはや争わない意向を示したそうです。


 藤田弁護士は、遺言の有効性や欠格の効果を含む権利関係を確認しながら、必要な手続きを進めていました。


 遺言による廃除についても、家庭裁判所への請求が行われています。


 こちらは、審判の結果を待つ必要があります。


 もちろん。


 邦夫が自分で「相続しない」と言っただけで、相続欠格の成立が法律上確定するわけではありません。


 ただ。


 自分が遺言書を発見し、相続上の利益を得ようとして隠したことを認めた。


 その事実は、重大でした。


 邦夫が恐れていたのは、単に店をもらえなくなることだけではありません。


 自分のしたことが法廷で明らかになり、相続資格そのものを失うと判断されること。


 そして、相続権がないのに遺産を勝手に処分すれば、返還や損害賠償などの問題まで生じかねないこと。


 法律の専門家から説明を受けた邦夫は、土地の売却話を中止したそうです。


 最初は。


「長男の俺が全部もらう!」


 と息巻いていた男。


 それが今では。


 遺言書の隠匿について書面で説明し、財産の勝手な処分を控えている。


 私は、思わず呟きました。


「……内容証明一通で、ここまで変わるんですね」


「一通だけの力じゃねえよ」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「千鶴さんが持ってきた帳面。小野寺さんの証言。本人が認めた事実。それから、藤田先生の仕事だ」


「あ……」


「全部つながったから、相手は自分の立場が危ねえと理解したんだ」


 片桐所長が頷きました。


「書面は、事実を整える道具だ」


「はい」


「それを受け取った人間が、自分の責任に気づくこともある」


 私は胸が熱くなりました。


 民法。


 ただ条文を並べるだけの法律ではありません。


 誰が相続できるのか。


 誰が相続できないのか。


 その理由は何か。


 一つずつ。


 人間の行為と結びついているのです。


 ◇


「実は、健一のことでお願いがあるんです」


 ある日の午後。


 千鶴さんが、もう一度事務所を訪れました。


 今回は。


 一人ではありませんでした。


 隣には、少年が座っていました。


 十四歳。


 細い体。


 少し大きめの学生服。


 藤沢健一君。


 邦夫の息子です。


「こんにちは」


 私が声をかけると、健一君は小さく頭を下げました。


「……こんにちは」


 千鶴さんが言いました。


「この子、ずっと心配していたんです」


「何をですか?」


「自分のお父さんが、おじいちゃんの遺言書を隠したことを知って……」


 健一君が、ぽつりと言いました。


「僕も、相続できなくなると思ってました」


 私は胸が詰まりました。


「健一君……」


「お父さんが悪いことをしたから」


 少年は俯きました。


「僕も、おじいちゃんの孫じゃなくなるのかなって」


 ……。


 私は、何も言えませんでした。


 相続。


 資格。


 欠格。


 廃除。


 法律の言葉だけで考えていると、気づかないことがあります。


 この子にとっては。


 自分が祖父の孫でいられるのか。


 そんな不安につながっていたのです。


「健一君」


 私は、ゆっくり言いました。


「お父さんが相続欠格になっても、健一君まで相続資格を失うわけじゃないよ」


「……本当ですか?」


「うん」


「お父さんが相続できないのに?」


「そう」


 私は六法を開きました。


「代襲相続っていう仕組みがあるんだ」


「代襲……?」


「本来相続するはずだった人が、欠格や廃除などで相続できなくなった場合、その子供が代わりに相続することがあるの」


 健一君は、しばらく黙っていました。


 そして。


「……おじいちゃんの孫だから?」


 私は頷きました。


「そうだよ」


 もちろん。


 具体的に何をどれだけ受け取るかは、遺言の内容や遺留分なども関係します。


 代襲相続があるから、必ず店や土地を受け取れるというわけではありません。


 今回も。


 遺言の効力や遺留分の問題を含め、専門家による整理が必要です。


 でも。


 少なくとも。


 父親が悪いことをしたからといって、健一君が当然に祖父から相続する資格まで失うわけではない。


 それだけは、はっきりしていました。


「……よかった」


 健一君が小さく言いました。


「僕、おじいちゃんのこと、大好きだったから」


 千鶴さんが、そっと少年の肩に手を置きました。


「おじいちゃんも、健一のこと大好きだったよ」


「……うん」


「だからね」


 千鶴さんは微笑みました。


「これからも、お店に遊びにおいで」


 健一君が顔を上げました。


「いいの?」


「もちろん」


「でも、お父さんが……」


「お父さんのしたことと、健一のことは別よ」


 私は、その言葉を聞いて。


 胸がいっぱいになりました。


 ああ。


 そうか。


 これが。


 代襲相続の意味なんですね。


 単に。


 誰かが相続できなくなったら、その代わりに別の人が受け取る。


 そういう機械的な話だけではない。


 親子の関係。


 祖父と孫の関係。


 世代を越えてつながる、家族の財産と歴史。


 それを。


 一人の人間の悪い行為だけで、全部断ち切らない。


 法律は、そんな仕組みを用意していたのです。


 ◇


 夕方。


 事務所に戻ると、私は机に突っ伏しました。


「……疲れました」


「何だ、もうへばったのか」


 相馬先輩が笑いました。


「だって先輩!」


「何だ」


「相続欠格と相続廃除、最初は似たような制度だと思ってたんです!」


「うん」


「どっちも相続できなくなるんだから、同じようなもんだろうって」


「それで?」


「全然違うじゃないですか!」


 私はノートを開きました。


「相続欠格は、法律に定められた欠格事由で当然に資格を失う!」


「そうだ」


「相続廃除は、被相続人の意思と家庭裁判所の手続きが必要!」


「そうだ」


「しかも、遺言で廃除したいと書いても、それだけでは終わらない!」


「うん」


「遺言執行者が家庭裁判所に請求する!」


「そうだな」


「さらに!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「どっちの場合でも、子供が代襲相続できる!」


「そうだ!」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく分かったか」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 しかし。


 そこで、もう一つ疑問が浮かびました。


「所長」


「何だ」


「もし源蔵さんが生きている間に邦夫さんの廃除を請求して、認められていたとして……」


「うん」


「あとで仲直りしたら、どうなるんですか?」


 片桐所長が顔を上げました。


「廃除の取消しがある」


「取消し?」


「民法八百九十四条だ」


 私は六法を開きました。


 被相続人は、いつでも推定相続人の廃除の取消しを家庭裁判所に請求することができる。


「……あっ!」


「分かったか」


「廃除って、取り消せるんですね!」


「そうだ」


「一度廃除したら、絶対に戻れないわけじゃない!」


「うん」


 私は、少し考えました。


 虐待された親。


 侮辱された親。


 財産を渡したくないほど、傷ついた親。


 その人が、ある日。


 もう一度、子供を許したいと思うかもしれない。


 もちろん。


 許したからといって、すべてが元どおりになるとは限りません。


 法律上の手続きも必要です。


 でも。


 廃除には、その道が残されている。


「……何だか、人間らしいですね」


 私は呟きました。


「法律が?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


 私は頷きました。


「人間って、怒ることもあれば、許すこともありますから」


 所長が静かに言いました。


「だから廃除は、被相続人の意思を重視する」


「はい」


「だが、欠格は違う」


 私は顔を上げました。


「……あ」


「重大な欠格事由に当たる行為があったかどうかの問題だ。本人が謝ったり、遺言書を返したりしただけで、当然に相続資格が回復するものではない」


 私は頷きました。


 なるほど。


 ここでも。


 二つは違う。


 相続廃除は、被相続人の意思が中心になる。


 相続欠格は、法律に定められた行為をしたことが問題になる。


「所長」


「何だ」


「これ、試験に出たら絶対に間違えません」


「そうか」


「だって、今回の邦夫さんを思い出せばいいんです!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「悪い見本だな」


「最高の反面教師です!」


 私は笑いました。


 そして。


 ノートの最後に、一行だけ書きました。


 ――相続欠格は法律が資格を奪い、相続廃除は本人の意思と家裁の判断で資格を奪う。ただし、子供への道は残る。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 ◇


 数日後。


 藤沢金物店の前を通りかかりました。


 古い木造の店。


 引き戸。


 少し色あせた看板。


 そこに。


 二人の姿がありました。


 千鶴さん。


 そして、健一君。


「こはるさん!」


 千鶴さんが手を振りました。


「こんにちは!」


 私は駆け寄りました。


「お店、開けてるんですね」


「ええ。まだ相続の手続きは続いていますけど、できる範囲で店を守ろうと思って」


 千鶴さんが笑いました。


「父が大切にしていた店ですから」


 健一君は、店先で釘の箱を整理していました。


「健一君、お手伝い?」


「はい」


「えらいね」


「おじいちゃんに、昔よく教わったんです」


 そう言って。


 健一君は小さな釘を一本つまみました。


「釘にも、いろんな種類があるんですよ」


「へえ」


「長さも、太さも、使う場所も違うんです」


 私は笑いました。


「法律みたいだね」


「法律?」


「うん。似たような言葉でも、意味が全然違うの」


 健一君は首をかしげました。


「難しそう」


「すっごく難しいよ」


 私は笑いました。


「でも、覚えると面白いんだ」


 健一君も笑いました。


 その顔には、もう最初の不安そうな表情はありませんでした。


 私は店の奥を見ました。


 古い棚。


 工具。


 金槌。


 釘。


 何十年もかけて、源蔵さんが守ってきた店。


 その財産をめぐって。


 長男は欲を出しました。


 遺言書を隠しました。


 相続権を守ろうとして。


 逆に、その相続権を失う危険を招いたのです。


 でも。


 その息子である健一君まで、祖父とのつながりを失う必要はない。


 そこに。


 私は、民法の不思議な温かさを感じました。


 事務所へ戻る道。


 私は空を見上げました。


 夕暮れの雲が、少し赤く染まっています。


 相続欠格。


 相続廃除。


 最初は。


 どちらも、相続人を排除する怖い制度だと思いました。


 でも。


 実際には違いました。


 相続欠格は。


 遺言を偽造したり、隠したり、重大な不正行為をした人間が、相続によって利益を得ることを防ぐ。


 相続廃除は。


 虐待や重大な侮辱などを受けた被相続人が、自分の財産を渡したくないという意思を、家庭裁判所の手続きによって実現する道を用意する。


 そして。


 代襲相続は。


 相続資格を失った人間の子供まで、その責任を当然に背負わされることを防ぐ。


 それぞれ。


 守ろうとしているものが違う。


 私は、ようやく理解できた気がしました。


「相馬先輩!」


 事務所の扉を開けるなり、私は叫びました。


「何だ!」


「今日、民法の大事なことが分かりました!」


「またか!」


「はい!」


 私は胸を張りました。


「法律って、悪いことをした人から権利を奪うだけじゃないんです!」


「ほう」


「その人の子供まで、巻き添えにしないようにしてるんです!」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「まあな」


「相続欠格も相続廃除も、ただの罰じゃないんですね」


「そうだな」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「血がつながっているからといって、必ず相続できるとは限りません」


「うん」


「でも、親が相続できないからといって、その子供まで当然に相続できなくなるわけでもありません」


「そうだ」


「民法は、誰が何をしたのかを、ちゃんと分けて考えるんですね」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は満足して椅子に座りました。


 すると。


 相馬先輩が、机の上に一枚の紙を置きました。


「じゃあ、確認問題だ」


「え?」


「一問だけな」


「はい!」


 先輩は、にやりと笑いました。


「父親が、長男を相続人から廃除した」


「はい!」


「そのあと、父親は長男を許した」


「はい!」


「父親が家庭裁判所に廃除の取消しを請求し、認められた」


「はい!」


「長男は、相続できる資格を取り戻すか?」


「取り戻します!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 やった!


「じゃあ、もう一問」


「ええっ!?」


「長男が、父親の遺言書を隠して相続欠格になった」


「はい」


「その長男が、あとで謝って遺言書を返した」


「はい」


「それだけで当然に相続欠格が消えるか?」


「消えません!」


「よし」


「ただし、そもそも欠格事由に当たる行為だったかどうかは、具体的に判断する必要があります!」


「……おお」


 相馬先輩が目を丸くしました。


「今日は、ちゃんと考えてるじゃねえか」


「今日は、って何ですか!」


「いつもは勢いで答えるからな」


「ひどい!」


 私が抗議すると、所長が静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「最後に一問、出してやれ」


「了解です」


 相馬先輩が笑いました。


「こはる」


「はい!」


「相続欠格者の息子は、代襲相続できるか?」


「できます!」


「廃除された者の息子は?」


「できます!」


「じゃあ」


 先輩は、少し意地悪そうな顔をしました。


「父親が相続放棄した場合、その息子は父親を代襲して相続できるか?」


 ……。


 私は固まりました。


「……え?」


「どうした」


「……あれ?」


 欠格。


 廃除。


 相続放棄。


 どれも相続できなくなる。


 でも。


 代襲相続は?


 私は慌てて六法を開きました。


 そして。


「あああああっ!」


 絶叫しました。


「相続放棄は違う!」


 相馬先輩が笑いました。


「そうだ」


「相続放棄した人は、初めから相続人とならなかったものとみなされます!」


「うん」


「でも、相続放棄は代襲相続の原因にならない!」


「正解!」


 私は机に突っ伏しました。


「何なんですか、民法!」


「どうした」


「似たような話なのに、結論が違いすぎます!」


「だから、理由を考えろって言ってんだよ」


 私は顔を上げました。


「……理由?」


「ああ」


 相馬先輩は言いました。


「欠格と廃除は、その人自身が相続資格を失う制度だ。子供にまで不利益を広げる必要はねえ」


「はい」


「でも相続放棄は、相続人本人が相続を受けないと選ぶ制度だ。放棄した人を飛び越えて、当然にその子供を相続人にする仕組みじゃねえ」


 私は、しばらく黙りました。


 それから。


 ゆっくり頷きました。


「……なるほど」


 分かりました。


 丸暗記ではなく。


 制度が何を守ろうとしているのか。


 そこを考えれば、違いが見えてくる。


 これが。


 民法のリーガルマインド。


「先輩!」


「何だ!」


「やっぱり民法って面白いですね!」


「お前、毎回それ言ってねえか?」


「だって本当なんです!」


「だったら六法を片付けろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、六法を棚に戻しました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あの商店街の一角では。


 千鶴さんと健一君が、祖父の残した金物店を守ろうとしているのでしょう。


 財産を奪おうとした長男。


 遺言書を隠された父親。


 その父親の意思を守ろうとした娘。


 そして。


 父親の悪事とは無関係な、十四歳の孫。


 相続は。


 単に、お金や土地を分ける制度ではありません。


 誰の意思を尊重するのか。


 誰の行為に責任を負わせるのか。


 誰を守るべきなのか。


 そこまで考える制度なのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――相続欠格は法律が資格を奪い、相続廃除は本人の意思と家裁の判断で資格を奪う。ただし、子供への道は残る。


 よし。


 忘れません。


 相続欠格。


 相続廃除。


 代襲相続。


 そして、相続放棄との違い。


 今日の教訓は、はっきりしています。


 親が悪いことをしたからといって、子供まで悪いことをしたことにはならない。


 それは。


 法律以前に、人として大切なことなのかもしれません。


 ただし。


 遺言書を隠して財産を奪おうとした人間には。


 民法八百九十一条が、容赦なく待ち構えています。


 長男だから。


 親子だから。


 ハンコがあるから。


 そんな言葉で、法律をごまかせると思ったら大間違いです。


 なぜなら。


 相続権というものは。


 血のつながりだけで、何をしても守られるほど。


 甘い権利ではないのです。

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