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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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566/701

[民法・扶養]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 家族だからといって、何でも背負わなければならないわけではありません。


 長男だから。


 嫁に出たから。


 親の財産をもらったから。


 そんな理由だけで、誰か一人に扶養の責任を押しつけることはできないのです。


 そして。


 どれほど立派な念書に署名しても。


 どれほど強くハンコを押しても。


 簡単には手放せない権利があります。


 それが。


 生きるために必要な扶養を受ける権利です。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かっていました。


 目の前には、分厚い六法。


 そして。


 表紙に大きく文字を書いた、一冊のノート。


 ――こはるノート・民法編。


「……扶養って、思ったより怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何が怖いんだ」


「家族の責任を、勝手に決めつける人がいることです」


「ああ」


「長男だから全部決めていいとか、嫁に出たから金を払えとか」


「いたな、そういう奴が」


 先輩が苦笑しました。


 いました。


 杉浦正一。


 材木会社を経営する長男。


 病気で入院した母親の扶養について、妹の和子さんに一方的な念書を書かせた人です。


 その念書には。


 ――今後、母に対する扶養の請求を一切行わない。


 そんな趣旨の文言までありました。


「最初、私もびっくりしました」


「何がだ」


「本人の署名もないのに、母親の扶養請求権まで消そうとしたことです」


「そうだったな」


「でも、民法八百八十一条がありました」


 私は六法を開きました。


 そこには、短い条文。


 ――扶養を受ける権利は、処分することができない。


「この一行です」


 私は指で条文をなぞりました。


「この一行が、トシさんを守ったんですよね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 あの事件。


 母親の生活。


 兄弟姉妹の扶養義務。


 扶養の順位。


 扶養の程度。


 事情変更。


 そして、扶養請求権の処分禁止。


 行政書士試験で覚えなければならない重要な論点が、全部詰まっていました。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は扶養を完全攻略します!」


「また始まった」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「昨日も完全攻略って言ってなかったか」


「昨日は現場です!」


「で?」


「今日は法理です!」


「何が違うんだ」


「現場は人を助けるために使う法律です!」


「うん」


「法理は試験で間違えないために整理する法律です!」


 すると、奥から片桐所長が声をかけました。


「両方必要だ」


「はい!」


「条文を暗記しても、使い方を間違えれば人を傷つける」


「……はい」


「現場を知っていても、条文を知らなければ守れない」


 私は頷きました。


 そうです。


 杉浦家の事件で分かったこと。


 法律は。


 難しい言葉を知っているだけでは、役に立たない。


 でも、正確に理解していれば。


 人の生活を守る武器になる。


「では、始めます!」


 私はノートの最初に、大きく書きました。


 ――扶養。


 家族が、困っている家族の生活を支えるための法律。


 ただし。


 誰でも無制限に助ける義務があるわけではない。


 ここからが、今日の本題です。


 まず。


「先輩、扶養って何でしょう?」


 私が尋ねると、相馬先輩は即答しました。


「親族の生活を支えることだろ」


「はい!」


「金を渡したり、世話をしたりすることだな」


「そのとおりです」


 私はノートに書きました。


 ――扶養とは。


 生活に困っている親族に対し、必要な経済的援助などを行うこと。


「ここで、登場人物が二人います」


「二人?」


「扶養義務者と、扶養権利者です」


 私は矢印を描きました。


 扶養義務者。


 援助する義務を負う側。


 扶養権利者。


 援助を受ける権利を持つ側。


「杉浦家なら?」


 相馬先輩が尋ねました。


「母親のトシさんが扶養権利者です」


「うん」


「そして、子供である正一さん、和子さん、妹さんが扶養義務者になります」


「そうだな」


 私は頷きました。


 ただし。


 ここで重要なのは。


 扶養義務者になり得ることと、現実にいくら負担すべきかは別問題だということです。


「たとえば」


 私は言いました。


「病気で働けない妹さんも、母親の子供ですよね」


「ああ」


「直系血族だから、法律上は扶養義務を負う立場です」


「そうだ」


「でも、だから毎月五万円を必ず払わなければならない、とはなりません」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「本人に金がなけりゃ、無理なものは無理だ」


「はい」


 扶養の具体的な負担を決めるときは、その人の生活状況や資力を考える必要があります。


 また、親が未成熟の子を養育する場合など、法律上強く生活保障が求められる関係もあります。


 扶養義務という言葉が同じでも、すべての親族関係を機械的に同じ強さで扱ってはいけません。


「つまり」


 私はノートに二重線を引きました。


 ――扶養義務の存在と、具体的な扶養の負担は区別する。


「ここ、試験でひっかけられそうですね」


「お前は何でも試験に結びつけるな」


「受験生ですから!」


「見習いの仕事も忘れるなよ」


「……はい」


 痛いところを突かれました。


 でも。


 この区別は本当に大切です。


 扶養義務がある。


 だから、必ず同じ金額を払う。


 そんな単純な話ではないのです。


 次。


 私は六法を開きました。


 民法第八百七十七条。


 ――扶養義務者。


「ここが最重要です!」


 私は言いました。


「扶養義務を負う親族の範囲を決めています」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「言ってみろ」


「はい!」


 私は読み上げました。


 ――直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。


「まず、直系血族です」


「親と子だな」


「はい。それだけではありません」


 私はノートに家系図を描きました。


 祖父母。


 父母。


 本人。


 子。


 孫。


 ひ孫。


「こういう、血のつながりが縦に続く関係です」


「なるほどな」


「親と子だけではなく、祖父母と孫も直系血族です」


「そうだ」


「しかも、民法八百七十七条一項は、直系血族について何親等以内という制限を設けていません」


 私は赤鉛筆で囲みました。


 直系血族。


 原則として、親等数による限定なし。


「先輩、ここ大事です」


「何がだ」


「三親等以内という言葉に引っ張られて、直系血族まで三親等以内だと思ったら間違いです」


「そうだな」


「ひ孫と曾祖父母だって、直系血族です」


「うん」


「ただし、現実に扶養できるかどうかは、資力などの事情を考えます」


 私は頷きました。


 次。


 兄弟姉妹。


「これは分かりやすいですね」


 私は書きました。


 兄。


 弟。


 姉。


 妹。


 これらの間にも、互いに扶養義務があります。


「杉浦家では?」


「正一さん、和子さん、妹さんは互いに兄弟姉妹です」


「そうだ」


「ただし、今回直接問題になったのは、その三人と母親との直系血族間の扶養義務です」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


 私は胸を張りました。


「どうですか!」


「まだ八百七十七条一項しか終わってねえぞ」


「……そうでした」


 先は長い。


 民法。


 恐るべし。


「では、第二項です」


 私はページを指差しました。


 ――家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。


「先輩!」


「何だ」


「昨日、私が間違えたところです!」


「自慢するな」


「復習です!」


 私はノートに書きました。


 直系血族・兄弟姉妹。


 法律上、当然に扶養義務を負う。


 それ以外の三親等内の親族。


 特別の事情があるとき、家庭裁判所が扶養義務を負わせることができる。


「この違いです!」


「そうだ」


 私は続けました。


「たとえば、叔父と姪」


「三親等だな」


「はい」


「じゃあ叔父は、姪を当然に扶養する義務があるのか?」


「ありません!」


 私は即答しました。


「直系血族でも兄弟姉妹でもありませんから!」


「そうだ」


「ただし、特別の事情がある場合、家庭裁判所が扶養義務を負わせることはできます」


「よし」


 私は頷きました。


 ここで、もう一つ。


 あの事件で出てきた疑問です。


「娘の夫はどうでしょう?」


 相馬先輩が尋ねました。


「母親から見ると、姻族一親等です」


「うん」


「姻族も民法上の親族に含まれます」


「そうだ」


「でも、直系血族ではありません」


「うん」


「だから、八百七十七条一項で当然に扶養義務を負うわけではありません」


「そのとおり」


 私はノートに丸をつけました。


 娘の夫。


 母親から見れば、姻族一親等。


 特別の事情があれば、家庭裁判所が扶養義務を負わせる余地はある。


 しかし、当然に義務が発生するわけではない。


「ここですね」


 私は言いました。


「三親等以内の親族だから、全員当然に扶養義務あり、は間違い」


「正解だ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、三親等内なら家庭裁判所は必ず扶養義務を負わせるのか?」


「いいえ!」


 私は首を振りました。


「特別の事情が必要です!」


「そうだ」


 特別の事情。


 この言葉は重い。


 ただ親族だから。


 ただ収入が多いから。


 それだけで、当然に扶養義務が発生するわけではありません。


 それまでの生活関係。


 援助の実態。


 当事者の事情。


 そうした具体的な事実が重要になります。


「先輩」


「何だ」


「この条文って、親族の範囲を無制限に広げないためにもあるんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 人を守るための扶養。


 でも。


 そのために、遠い親族の生活まで無条件に犠牲にしてよいわけではない。


 民法は。


 援助を受ける側だけではなく。


 援助する側の生活にも目を向けているのです。


「それから、第三項」


 私は六法を指差しました。


 ――前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。


「これは、何の審判ですか?」


 相馬先輩が尋ねました。


「八百七十七条二項によって、三親等内の親族に扶養義務を負わせた審判です」


「よし」


「事情が変われば、その審判を取り消せるんです」


「そうだ」


 たとえば。


 ある親族が、特別の事情から扶養義務を負うことになった。


 でも。


 その後、病気になったり、収入が大きく減ったりした。


 あるいは。


 扶養を受ける側の生活状況が改善した。


 そんな場合。


 当初の事情がそのまま続いているとは限りません。


「だから、見直しの余地があるんですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「人間の生活は、何十年も同じじゃねえからな」


 私は頷きました。


 ここは、後で出てくる民法八百八十条ともつながります。


 法律は、一度決めたら絶対に変えられない、というものばかりではない。


 とくに扶養は。


 人間の生活そのものに関わる制度なのです。


 さて。


「次は、民法八百七十八条です!」


 私はページをめくりました。


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「昨日、一番やらかしたところだな」


「言わないでください!」


「収入の多い奴が最優先、だったか?」


「それは忘れてください!」


「試験で間違えるぞ」


「……復習します」


 私は咳払いしました。


 扶養の順位。


 ここでは、二つの場面が問題になります。


 まず。


 一人の扶養権利者に対して、扶養義務者が数人いる場合。


「杉浦家ですね」


「ああ」


 母親のトシさん。


 扶養を受ける側。


 そして。


 子供は三人。


 正一さん。


 和子さん。


 妹さん。


「三人とも、法律上扶養義務を負う立場です」


「そうだ」


「でも、誰がどのような順序で扶養するかについて、意見がまとまらない」


「うん」


「その場合は?」


 私は大きく書きました。


 第一段階。


 当事者間の協議。


 第二段階。


 協議が整わないとき、または協議できないとき。


 家庭裁判所が定める。


「これが基本です!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、長男が一番か?」


「違います!」


「年収の高い奴が必ず一番か?」


「違います!」


「一番年下の子供が優先されるか?」


「そんな規則もありません!」


「よし」


 私は鉛筆を握り直しました。


 民法八百七十八条。


 扶養の順位は、長男優先でも、収入順でもない。


 まず協議。


 まとまらなければ家庭裁判所。


「これなら覚えられます」


 私は言いました。


 でも。


 八百七十八条には、もう一つの場面があります。


 私はノートに新しい図を描きました。


 一人の扶養義務者。


 複数の扶養権利者。


「今度は逆です」


「逆?」


「援助する側が一人で、援助を受けたい人が複数いる場合です」


 たとえば。


 ある男性に、扶養を必要とする父親と母親がいる。


 でも。


 男性の資力では、二人の必要を十分に賄えない。


「この場合、どちらを優先するかが問題になります」


「なるほどな」


「ここでも、まず当事者間の協議です」


「協議できなかったら?」


「家庭裁判所が定めます!」


「正解」


 私は大きく丸をつけました。


 扶養義務者が複数。


 誰が扶養するか。


 扶養権利者が複数。


 資力が足りないとき、誰を優先するか。


 どちらも民法八百七十八条。


「先輩!」


「何だ」


「これ、二つの問題を一つの条文に入れてるんですね!」


「そうだ」


「受験生への罠です!」


「法律はお前を困らせるために作られたんじゃねえ」


「分かってます!」


 私は笑いました。


 ただし。


 ここでも、一つ注意が必要です。


 扶養を受ける人が複数いるからといって、常に誰か一人だけを助けて残りを切り捨てる、という意味ではありません。


 具体的な扶養の順位や方法は、事情に応じて判断されます。


 そして。


 夫婦間の生活保持義務や、親の未成熟子に対する養育義務など、別の規定や身分関係から生じる義務も、きちんと考える必要があります。


「要するに」


 私は書きました。


 ――扶養の順位は、名前や立場だけで機械的に決めない。


 これです。


「さて」


 相馬先輩が湯呑みを置きました。


「順位は分かったな」


「はい!」


「じゃあ、誰が扶養するか決まったとして、いくら払わせる?」


「それが次の論点です!」


 私は六法を開きました。


 民法第八百七十九条。


 ――扶養の程度又は方法。


「ここ、杉浦家の事件では特に重要でした」


「そうだな」


 私は昨日の資料を思い出しました。


 トシさん。


 七十二歳。


 脳梗塞で入院。


 年金と預貯金だけでは、必要な生活費や療養費を十分に賄えない。


 一方。


 長男の正一さんは、材木会社を経営。


 次女の和子さんは、仕立屋で働いている。


 夫の収入は減少。


 子供が二人。


 三女は、病気のため十分に働けない。


「全員、事情が違います」


「ああ」


「だから、同じ金額を出せば公平とは限らないんですね」


「そのとおりだ」


 私はノートに書きました。


 扶養の程度や方法について、協議が整わない場合。


 家庭裁判所は、次の事情を考慮する。


 扶養権利者の需要。


 扶養義務者の資力。


 その他一切の事情。


「まず、扶養権利者の需要です」


「トシさんが、何を必要としているかだな」


「はい」


 生活費。


 食費。


 住居費。


 医療費。


 療養に必要な費用。


 そして、病状や生活状況に応じた援助。


「たとえば」


 私は言いました。


「トシさんが一か月に必要とする生活費が十万円だったとして」


「うん」


「年金などで六万円を賄えるなら、足りない部分について、どのような扶養が必要なのか考えます」


「そうだ」


「でも、必要額を調べずに、長男だから毎月十万円払え、とは言えません」


「そのとおり」


 相馬先輩が頷きました。


「逆に、必要額を調べもしないで、二万円で十分だろうとも言えねえ」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 扶養を受ける人の需要。


 これが出発点。


「次に、扶養義務者の資力です」


 私は続けました。


「援助する人に、どのくらいの負担能力があるか」


「そうだ」


 収入。


 財産。


 生活費。


 借金。


 養っている家族。


 その他、生活上の事情。


「ここで、正一さんの立派な車を思い出します」


「ああ、あの黒塗りか」


「はい。最初は、あんな車に乗っているんだからお金持ちだと思いました」


「思ったな」


「でも、先輩に止められました」


 相馬先輩が笑いました。


「車だけで財産状況は分からねえからな」


「はい」


 高級車を持っている。


 だから無条件に扶養料を払える。


 そんな推論は危険です。


 財産があっても、負債があるかもしれない。


 会社の資金と個人の収入は、同じではない。


 家族を養うために必要なお金もある。


「反対に」


 私は言いました。


「和子さんは収入が少なくても、必死に働いてお母さんを支えていました」


「ああ」


「でも、扶養義務があるからといって、自分の子供たちの生活を壊すほど負担して当然、とはなりません」


「そうだ」


 ここで、相馬先輩が少し真面目な顔になりました。


「こはる」


「はい」


「扶養で一番やっちゃいけねえのは、義務があるって言葉だけで、人間を追い詰めることだ」


 私は黙りました。


「扶養義務者だろうと、人間だ」


「はい」


「食わなきゃ生きていけねえ。家族がいれば、その生活もある」


「……そうですね」


 私は、和子さんの手を思い出しました。


 針仕事で傷ついた指。


 寝不足の顔。


 子供二人の学費。


 そして、母親への思い。


 あの人に。


「娘なんだから、もっと払え」


 そう言うことが、正しいとは限らない。


 だから。


 民法八百七十九条は。


 扶養を受ける人の需要だけでなく。


 扶養する人の資力も、考慮するのです。


「では、扶養の方法です」


 私はノートをめくりました。


「先輩、扶養というと、何を思い浮かべますか?」


「金を渡すことだな」


「ですよね!」


 私は大きく頷きました。


「でも、お金を渡すことだけじゃありません」


 たとえば。


 親を自宅に迎えて生活を支える。


 毎月一定額の生活費を援助する。


 必要な医療費を負担する。


 生活に必要な世話を分担する。


 そうした形も考えられます。


「杉浦家では、まさにこれが問題でした」


 私は言いました。


「正一さんは療養費を負担する」


「うん」


「和子さんは通院や日常生活の援助をする」


「うん」


「妹さんは、体調の許す範囲で見守りに協力する」


「そうだったな」


 もちろん。


 家事や見守りのすべてが、当然に法律上強制できる扶養の履行になるというわけではありません。


 でも。


 扶養の方法を考えるうえで、それぞれが実際に何をしているかは大切です。


「それから、本人の希望も重要ですよね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「そうだ」


「トシさんは、家に帰りたいとおっしゃっていました」


「ああ」


「でも、誰かが一方的に同居を決めればいいという話でもありません」


「そのとおりだ」


 扶養とは。


 扶養義務者の都合だけで、援助される人の生活を決める制度ではない。


 同時に。


 援助する人に、どんな負担でも命じてよい制度でもない。


 だからこそ。


 協議が必要になるのです。


「先輩」


「何だ」


「扶養の方法って、結局、生活の設計なんですね」


「そうだな」


「誰がいくら払うかだけではなく、どうすれば無理なく生活を続けられるか」


 相馬先輩は頷きました。


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――扶養の程度は「どのくらい」、方法は「どのように」。


 よし。


 覚えやすい。


 そこで、私はふと手を止めました。


「所長」


「何だ」


「一度、扶養の協議がまとまったら、その内容はずっと変えられないんでしょうか」


 所長は、机に置かれた杉浦家の協議書の控えを指差しました。


「読んでみろ」


 私は書面を開きました。


 ――当事者の収入、健康状態、療養の必要その他の事情に重大な変更が生じた場合には、扶養の内容について改めて協議する。


「これですね!」


「ああ」


 私は六法を開きました。


 民法第八百八十条。


 ――扶養に関する協議又は審判の変更又は取消し。


「ここも大事です」


 私は言いました。


 扶養の順位。


 扶養の程度。


 扶養の方法。


 これらについて、一度協議や審判があったとしても。


 その後、事情が変われば、見直しが問題になります。


「先輩、問題です!」


「またか」


「正一さんが、毎月一定額の扶養料を負担することになりました」


「うん」


「でも翌年、会社が倒産して、本人の生活にも困るようになりました」


「……嫌な話だな」


「仮定の話です!」


「で?」


「それでも、最初に決めた金額を絶対に払い続けなければならないんでしょうか?」


「事情が変わったなら、見直しを考えるべきだろ」


「正解です!」


 私は頷きました。


 事情変更。


 これが重要です。


 たとえば。


 扶養義務者が失業した。


 病気になった。


 収入が大きく減った。


 反対に。


 扶養を受ける人が回復して働けるようになった。


 年金や収入が増えた。


 あるいは、医療費や生活費が大きく増加した。


 そんな場合。


 以前の取り決めが、そのまま適切とは限らない。


「だから民法八百八十条があるんですね」


「そうだ」


 ただし。


 ここで一つ、注意点があります。


「事情が変わったら、自分で勝手に払うのをやめてもいいんですか?」


 私は尋ねました。


 片桐所長は首を振りました。


「そう単純ではない」


「ですよね」


「事情変更による見直しには、当事者間での話合いや、必要な家庭裁判所の手続を考えなければならん」


「はい」


 民法八百八十条が定めているのは、事情変更があった場合に家庭裁判所が従前の協議や審判を変更・取消しできるという仕組みです。


 事情が変わったと一方が主張するだけで、以前の取り決めが自動的に消えるわけではありません。


 ここを混同してはいけないのです。


「では、試験用に整理します」


 私は書きました。


 ――民法八百七十七条三項。


 三親等内の親族に特別の事情によって扶養義務を負わせた審判について、事情変更による取消しを定める。


 ――民法八百八十条。


 扶養の順位、程度、方法についての協議や審判について、事情変更による変更・取消しを定める。


「似ていますね」


 私は言いました。


「でも、対象が違います」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「八百七十七条三項は、二項による扶養義務を負わせた審判」


「うん」


「八百八十条は、順位や程度、方法についての協議や審判」


「よし」


 私は赤線を引きました。


 ここ。


 絶対に混同しない。


 だって。


 試験で間違えそうですから!


 そして。


 いよいよ。


 今回の事件の核心です。


「民法八百八十一条!」


 私は大きな声で言いました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「そんなに叫ばなくても聞こえる」


「すみません!」


 でも。


 どうしても気合が入ってしまいます。


 だって。


 この条文こそ。


 杉浦家の事件で、最も重要な役割を果たしたからです。


 私は、問題の念書の写しを机に置きました。


 ――母杉浦トシは、今後、杉浦正一に対して扶養その他生活上の援助を求めないものとする。


「これです」


 私は言いました。


「お兄さんは、この一文で母親の扶養請求権を消したつもりでした」


「そうだったな」


「でも、まず大前提として、母親本人は署名していません」


「ああ」


「和子さんが母親の権利を勝手に放棄することもできません」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここで、最初の問題。


 他人の権利を勝手に処分することはできない。


 しかし。


 今回は、それだけではありません。


「民法八百八十一条です」


 私は条文を読み上げました。


 ――扶養を受ける権利は、処分することができない。


「先輩、この『処分することができない』って、どういう意味ですか?」


 相馬先輩は少し考えました。


「売ったり、譲ったり、勝手になくしたりできねえってことだろ」


「はい」


 私は頷きました。


 扶養を受ける権利は、本人の生活を支えるための権利です。


 ですから。


 その権利そのものを、他人へ譲渡したり。


 将来にわたって永久に放棄したり。


 自由に処分できる財産のように扱うことは認められません。


「たとえば」


 私はノートに書きました。


 母親が、これから先どれほど生活に困っても、子供には一切扶養を求めない。


 その代わり、今日十万円を受け取る。


「こんな約束をすれば、将来の扶養請求権が全部なくなるんでしょうか」


「そうはいかねえだろうな」


「はい」


 扶養を受ける権利は、生活保障と深く結びついた権利です。


 将来、どのような事情が生じるかも分かりません。


 今は生活できても。


 病気になるかもしれない。


 収入がなくなるかもしれない。


 援助が必要になるかもしれない。


「それなのに、一度署名したから未来永劫助けを求められない、なんてことになったら……」


「困るな」


「はい」


 私は少し声を落としました。


「本当に助けが必要になったとき、誰にも頼れなくなってしまいます」


 所長が頷きました。


「だから、法律が処分を禁止している」


 私は条文を見つめました。


 八百八十一条。


 たった一行。


 けれど。


 その向こうには。


 病院のベッドで、子供たちに迷惑をかけたくないと泣いていたトシさんがいる。


 法律の条文が。


 あの人の明日につながっている。


 私は、そう感じました。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「ここも、雑に覚えるな」


「はい?」


「扶養請求権の処分禁止を、あらゆる扶養関係の金銭や合意が一切処分できないという意味にするな」


 私は首をかしげました。


「……違うんですか?」


「違う」


 所長は続けました。


「扶養を受ける権利そのものと、具体的に発生した金銭債権などは、区別して考える必要がある」


 私は鉛筆を止めました。


 なるほど。


 ここは少し難しい。


 扶養請求権は、生活を支えるという性質を持つ権利です。


 一方。


 過去の扶養料として具体的に支払が定められ、既に支払期が到来した金銭債権などについては、その性質や成立事情に応じ、別の検討が必要になります。


「つまり、八百八十一条があるから、扶養に関係するお金の約束は全部無効、とは言えないんですね」


「そうだ」


「そこを一緒にしたら駄目ですね」


 私は頷きました。


 さらに。


 今回の和子さんの念書にも、複数の問題がありました。


 一つは。


 母親の扶養請求権を、本人の意思によらず消そうとしたこと。


 もう一つは。


 和子さん自身が、兄に対してどのような費用負担を求められるのかということ。


「所長」


「何だ」


「八百八十一条を使えば、和子さんが以前立て替えた入院費を、全部自動的に兄から取り返せますか?」


「いや」


「ですよね……」


 所長は頷きました。


「既に支払った費用の精算や求償ができるかは、誰にどのような義務があり、どんな合意があったのかなど、別の検討が必要だ」


「はい」


 私は赤鉛筆で書きました。


 ――扶養請求権の処分禁止と、過去の費用の精算は別問題。


 ここ。


 かなり大事です。


 生活を守るための権利が消えないことと。


 過去に支払ったお金を、誰にどれだけ請求できるかは。


 必ずしも同じ問題ではありません。


「難しいですね……」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「だから法律なんだよ」


「どういう意味ですか」


「一つの条文で何でも解決できるなら、俺たちは六法なんか持ち歩かねえ」


 ……。


 確かに。


 私は、分厚い六法を見ました。


 民法だけでも、これだけあります。


 それぞれの条文が、別々の場面を想定しています。


 だからこそ。


 事実を整理して、必要な条文を組み合わせる。


 片桐所長が、いつも言っていることです。


「一つの条文に飛びつくな」


 所長が言いました。


「はい」


「誰の、どんな権利なのか。それを先に確かめろ」


「……はい!」


 私は大きく頷きました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、今日はまだ一度も妙な未来の条文を持ち出してねえな」


「……!」


 私は思わず顔を上げました。


「そうなんです!」


「何がだ」


「今回の扶養、昭和六十三年でも、現代の知識がかなりそのまま使えるんです!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「また訳の分からねえことを言い始めたな」


「聞いてください!」


 私はノートをめくりました。


 昭和六十三年。


 今、私がいる時代です。


 令和。


 私がもともと暮らしていた時代。


 民法は、この間に大きく変わりました。


 たとえば。


 平成十一年の成年後見制度に関する改正。


 平成十二年から、禁治産者や準禁治産者という古い制度に代わり、成年後見・保佐・補助の制度が施行されました。


 そして。


 令和二年施行の債権法大改正。


 瑕疵担保責任から契約不適合責任へ。


 消滅時効についても、基本的な仕組みが大きく変わりました。


 さらに。


 令和四年から成年年齢が二十歳から十八歳に引き下げられています。


「でも!」


 私は言いました。


「扶養に関する八百七十七条から八百八十一条の基本的な仕組みは、昭和六十三年と現代で共通する部分が多いんです!」


「そりゃそうだろ」


「え?」


「親子や兄弟姉妹が、互いに生活を支えるって考え方は、昔からあるんだからな」


 相馬先輩は、当然のように言いました。


 私は少し黙りました。


 ……なるほど。


 そうなんです。


 今回のテーマ。


 無理に新旧の違いを探そうとすると、かえって間違えてしまう。


 大切なのは。


 変わった制度と、変わっていない基本原則を、正しく区別すること。


「所長」


「何だ」


「扶養って、民法の中でも、生活に密着した制度なんですね」


「そうだ」


「時代が変わっても、親が病気になることはあります」


「ああ」


「子供が親を支えることもあります」


「うん」


「でも、誰か一人が無理をすれば、家族全員が困ることだってあります」


 所長は頷きました。


「だから、具体的な事情を見る」


「はい」


 私はノートに書きました。


 ――扶養の基本原則は、昭和六十三年と令和で共通する部分が多い。


 その下に、小さく付け加えます。


 ――ただし、成年年齢や成年後見制度、関連する家族法制度などは時代によって異なる。


「完璧!」


 私は満足しました。


「先輩!」


「何だ」


「今回は時代錯誤を起こしませんでした!」


「現場で扶養の順位を勝手に決めかけただろ」


「……」


「三親等以内なら全員当然に義務があるとも言いかけたな」


「……」


「法律が変わってなくても、お前が間違えりゃ意味ねえんだよ」


「ぐっ……!」


 痛い。


 正論です。


 でも。


 確かに。


 法律の改正を知っていることと、現行法を正しく使えることは別です。


 未来の知識を持っているからといって、昭和の事件を全部解決できるわけではありません。


 今ある法律を、今の事実に当てはめる。


 それが、行政書士の仕事なのです。


「よし」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「最後に確認するぞ」


「はい!」


 私は背筋を伸ばしました。


 来ました。


 片桐所長の確認問題。


 これに全部答えられれば、今日の法理編は合格です。


「まず、扶養義務を当然に負う親族は?」


「直系血族と兄弟姉妹です!」


「直系血族は三親等以内に限られるか」


「いいえ! 八百七十七条一項には、親等数による制限はありません!」


「では、叔父と姪は?」


「当然には扶養義務を負いません。ただし、特別の事情があるときは、家庭裁判所が三親等内の親族として扶養義務を負わせることができます!」


「よし」


 所長が頷きました。


「次。扶養義務者が三人いる。誰が先に扶養するかは、長男が決められるか」


「決められません!」


「では誰が決める」


「まず当事者間の協議です!」


「協議が整わなければ?」


「家庭裁判所です!」


「扶養を受ける側が複数で、扶養義務者の資力が全員を扶養するのに足りない場合は?」


「同じく、協議が整わなければ家庭裁判所が順位を定めます!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 まだまだいけます。


「では、扶養の程度や方法について協議が整わない場合は?」


「家庭裁判所が、扶養権利者の需要、扶養義務者の資力、その他一切の事情を考慮して定めます!」


「一度決めたら、永遠に変更できないか」


「いいえ!」


 私は勢いよく答えました。


「事情変更があれば、民法八百八十条による変更・取消しが問題になります!」


「よし」


 所長が頷きました。


 そして。


「最後だ」


「はい!」


「親が、自分の将来の扶養請求権を永久に放棄するという念書を書いたら、どうなる?」


 私は六法を閉じました。


 もう、条文を見なくても答えられます。


「民法八百八十一条です!」


 私は言いました。


「扶養を受ける権利は、処分することができません!」


「そうだ」


「だから、将来の扶養を受ける権利そのものを、念書一枚で永久に消すことはできません!」


 所長が頷きました。


「よし」


 ……!


 私は両手を握りました。


「合格ですか!」


「ああ」


「やりました!」


 相馬先輩が横から言いました。


「じゃあ、俺から追加問題だ」


「ええっ!」


「嫌ならやめるか?」


「受けて立ちます!」


 相馬先輩がにやりとしました。


「母親が入院した。長男は金持ち。次女は貧乏。三女は病気だ」


「はい!」


「だから長男が全部払う。正しいか?」


「その事情だけでは決まりません!」


「ほう」


「長男の資力は重要ですが、具体的な扶養の程度や方法は、母親の需要や各人の事情も考慮して決めます!」


「よし」


「それに!」


 私は続けました。


「家族間で協議がまとまるなら、その内容を明確にしておくことが大切です!」


「そのとおり」


 先輩が頷きました。


「じゃあ、協議書を作るときに気をつけることは?」


「誰が、誰に、何を、どの程度、どんな方法で扶養するのかを明確にすることです!」


「うん」


「それから、事情が変わった場合の取扱いも考えておきます!」


「いいじゃねえか」


 私は笑いました。


 やった。


 相馬先輩に褒められました。


 これは珍しい。


 昭和六十三年の事件として、記録しておきたいくらいです。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「行政書士の役割も答えてみろ」


 私は少し考えました。


 杉浦家の事件。


 あのとき、私たちは何をしたでしょう。


 正一を脅したわけではありません。


 裁判所で戦ったわけでもありません。


 依頼人に代わって扶養料の交渉をしたわけでもありません。


 まず。


 母親の生活状況を確認した。


 療養に必要な費用を整理した。


 子供たちの生活事情を確認した。


 念書の内容を精査した。


 民法の条文を調べた。


 そして。


 本人たちの意思に基づき、通知書を作成した。


「所長」


「うん」


「行政書士は、扶養紛争の代理交渉や家庭裁判所の手続を、弁護士のように引き受けることはできません」


「そうだ」


「でも、事実関係を整理し、適法な範囲で書類を作ることはできます」


「ああ」


「紛争性が高い法律問題は、弁護士へ引き継ぐ必要があります」


「そのとおり」


 私は頷きました。


「だからこそ、書面に間違いがあってはいけないんですね」


「そうだ」


 所長は、机の上にある協議書の控えを見ました。


「声の大きさは、証拠にならん」


「はい」


「長男だから偉いという理屈も、条文には書いていない」


「はい」


「だが、本人が何を求め、何に困り、誰がどんな事情を抱えているのかを整理した書面は、話合いの土台になる」


 私はゆっくり頷きました。


 なるほど。


 内容証明郵便は、魔法の紙ではありません。


 送っただけで、相手の財産を差し押さえられるわけでもありません。


 扶養料の額が自動的に確定するわけでもありません。


 けれど。


 本人の意思。


 客観的な事実。


 適切な条文。


 これらが正確に記されていれば。


 相手が、自分の主張を見直すきっかけになる。


 そして。


 もし話合いがまとまらなければ。


 何が争点なのかを整理したうえで、家庭裁判所の手続へ進むことができる。


 それこそが。


 書面の力なのです。


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 今日の総まとめ。


 まず。


 民法八百七十七条。


 誰に扶養義務があるか。


 次。


 民法八百七十八条。


 誰が、誰を優先して扶養するか。


 次。


 民法八百七十九条。


 どの程度、どんな方法で扶養するか。


 次。


 民法八百八十条。


 事情が変わったら、どうするか。


 最後。


 民法八百八十一条。


 扶養を受ける権利は、処分できない。


「……できた」


 私は呟きました。


 五つの条文。


 最初は、ただの数字でした。


 八百七十七。


 八百七十八。


 八百七十九。


 八百八十。


 八百八十一。


 でも。


 杉浦家の事件を思い出すと、全部つながります。


 誰が母親を支えるのか。


 どんな順序で支えるのか。


 いくら、どんな方法で支えるのか。


 生活が変わったら、どうするのか。


 そして。


 母親が将来助けを求める権利を、勝手に消せるのか。


 法律は。


 それぞれの問いに、答えるための道筋を用意していたのです。


「先輩」


「何だ」


「扶養って、五つの条文を一つの事件で覚えられるんですね」


「そうだな」


「これ、暗記だけだったら絶対に混同してました」


 相馬先輩が笑いました。


「お前は暗記でも現場でも間違えたけどな」


「そこは言わないでください!」


「だが、覚えただろ」


「はい!」


 私は笑いました。


 本当に。


 もう忘れません。


 正一さんの念書。


 和子さんの傷ついた指。


 トシさんの病室。


 そして。


 家族四人が並んで座った、あの写真。


 全部が。


 民法の条文と、つながっているのです。


 窓の外は、すっかり暗くなっていました。


 駅前の商店街。


 夕食の匂い。


 自転車のベル。


 遠くで、子供たちの笑い声が聞こえます。


 私は机の上に、杉浦家から届いた写真を置きました。


 病院の庭。


 ベンチに座るトシさん。


 その隣には、正一さん。


 和子さん。


 妹さん。


 四人とも、笑っていました。


「……よかったですね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「ああ」


「お兄さんも、最後には扶養の話合いに応じてくれました」


「そうだな」


「でも、所長」


「何だ」


「もしお兄さんが最後まで拒否していたら、どうなったんでしょう」


 所長は静かに答えました。


「家庭裁判所の出番だ」


「……ですよね」


「協議ができないからといって、扶養の問題が消えるわけではない」


「はい」


「家族で解決できないときのために、法的な手続がある」


 私は頷きました。


 民法八百七十八条。


 八百七十九条。


 当事者の協議が整わないとき。


 または協議できないとき。


 家庭裁判所が定める。


 つまり。


 扶養の問題は。


 必ずしも、仲のよい家族だけを想定した制度ではないのです。


 仲が悪くても。


 話合いができなくても。


 誰かが一方的に拒否していても。


 法律上の手段が残されている。


「……それって、すごいですね」


 私は言いました。


 片桐所長がこちらを見ました。


「何がだ」


「家族が仲良くなくても、扶養を受ける権利まで消えるわけじゃないんです」


 所長は、少しだけ笑いました。


「そうだな」


 私は胸が温かくなりました。


 法律は、家族の愛情まで命じることはできません。


 仲直りを強制することもできません。


 でも。


 愛情がないから。


 仲が悪いから。


 長年会っていないから。


 そんな理由だけで、当然に扶養義務が消滅するわけでもない。


 そして。


 助けを必要とする人の生活は。


 家族の機嫌に、すべて左右されてよいものではありません。


 それを守るために。


 民法があるのです。


「さて!」


 私はノートを閉じました。


「本日の勉強、終了です!」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「じゃあ、掃除だな」


「……!」


 またですか。


 私は椅子に座り直しました。


「先輩」


「何だ」


「私にも生活があります」


「あるだろうな」


「扶養の勉強をするには、休息が必要です」


「そうだな」


「ですから、今日は先輩が掃除をしてください!」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「俺に扶養義務でもあるのか?」


「……ありません」


「じゃあ、何で俺が全部やるんだ」


「同じ事務所の仲間だからです!」


「それは扶養じゃねえ!」


「知ってます!」


 私は笑いました。


 でも。


 そこで、ふと思いつきました。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「掃除の分担について、協議しましょう!」


「は?」


「まずは当事者間の協議です!」


「扶養の話じゃねえだろ!」


「まとまらなかったら、所長が決めます!」


「勝手に家庭裁判所の代わりにすんな!」


 奥から、片桐所長が言いました。


「協議は終わりだ」


 私と先輩が同時に振り向きました。


「え?」


「二人で掃除しろ」


 ……。


 沈黙。


 そして。


「所長!」


 私は叫びました。


「それ、扶養の順位より決まるのが早くないですか!」


「業務分担だからな」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほら、こはる。箒を持て」


「先輩もですよ!」


「分かってるよ」


 私は箒を手に取りました。


 相馬先輩は雑巾を持ちます。


 ……。


 なるほど。


 誰か一人が全部背負うより。


 二人で分担した方が、早く終わる。


 もちろん。


 掃除の分担と、法律上の扶養義務は別問題です。


 でも。


 少しだけ。


 杉浦家のことを思い出しました。


 和子さん一人が、母親の生活を支えていた頃。


 苦しくても。


 誰にも頼れなくて。


 それでも頑張っていた。


 けれど。


 正一さんが協議に応じてから、少しずつ状況が変わった。


 自分にできることを。


 自分の事情に応じて。


 それぞれが担う。


 そのための話合いが始まった。


 私は、箒を動かしながら呟きました。


「……扶養って、やっぱり大事ですね」


 相馬先輩が答えました。


「そうだな」


「家族って、誰か一人が犠牲になればいいわけじゃないんですね」


「ああ」


「でも、困っている人を放っておいていいわけでもない」


「そうだ」


 私は頷きました。


 扶養。


 たった二文字。


 けれど。


 その中には、人間の生活が詰まっています。


 親と子。


 祖父母と孫。


 兄弟姉妹。


 そして、特別の事情がある親族。


 誰が支えるのか。


 どのように支えるのか。


 どこまで支えられるのか。


 全部が、人によって違う。


 だからこそ。


 法律は、決めつけない。


 協議を認め。


 家庭裁判所による判断を用意し。


 事情が変われば、見直しの道を残している。


 そして。


 何より。


 生きるために扶養を受ける権利を、簡単には手放させない。


 私は箒を止めました。


 机の上のノート。


 最後のページに、一行だけ書き足します。


 ――扶養は「誰が・どの順序で・どれだけ・どう支えるか」。協議が基本、まとまらなければ家裁。扶養を受ける権利は処分できない。


「……よし!」


 私は満足してノートを閉じました。


 これで。


 民法八百七十七条から八百八十一条まで。


 全部、一つの物語として覚えられました。


 あの病室のことを思い出せばいい。


 母親の手。


 息子の後悔。


 娘の涙。


 そして、家族四人の写真。


 法律は。


 家族の愛情を作ることはできません。


 でも。


 愛情が揺らいだときにも、人の生活を守る仕組みを用意している。


 それが。


 民法の扶養なのです。


「こはる!」


 相馬先輩が呼びました。


「はい!」


「またノート見てるだろ!」


「今日の一行を確認してたんです!」


「掃除を終わらせろ!」


「分かりました!」


 私は笑いながら箒を握り直しました。


 そして、心の中で、もう一度だけ呟きました。


 扶養義務は、長男だけのものではない。


 扶養の負担は、声の大きさでは決まらない。


 扶養を受ける権利は、勝手に消せない。


 昭和六十三年。


 民法の世界は、まだまだ奥が深い。


 でも。


 今日覚えた五つの条文は、きっと忘れません。


 だって。


 あの念書に押された赤いハンコよりも。


 病室で母親の手を握った息子の姿の方が。


 ずっと強く、心に残っているのです。

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