[民法・扶養]現場編 「長男なんだから全部払え」の嘘。母の命を値札に変えた兄と、扶養放棄の念書を破る民法八百八十一条の刃
親を養う義務は、長男だけのものではありません。
長男だから。
嫁に出たから。
家を継いだから。
財産をもらったから。
そんな言葉で、家族の責任を勝手に押しつけることはできないのです。
そして。
お金がないからといって、親を見捨ててよいわけでもありません。
けれど。
自分の子供を飢えさせてまで、親を養わなければならないのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私たちの前に現れたのは。
一枚の念書でした。
そこには、恐ろしい一文が書かれていました。
――私は今後、母に対する扶養の請求を一切行わず、また母の扶養に関して兄弟に金銭その他の援助を求めない。
署名。
押印。
そして。
その念書を書かせた男は、こう言ったそうです。
「一度ハンコを押したんだ。母さんが飢え死にしようが、俺には関係ない」
……。
私は思いました。
民法。
親族編。
今回ばかりは。
六法を開く前から、腹が立ちます。
「母を……助けてください」
朝九時。
事務所に入ってきた女性は、そう言って頭を下げました。
三十八歳。
名前は、杉浦和子さん。
駅前の仕立屋で働いているそうです。
着古した紺色のカーディガン。
指先には、針仕事でできた小さな傷。
そして。
目の下には、濃い隈がありました。
「どうなさいましたか」
片桐所長が尋ねました。
和子さんは、膝の上の風呂敷を握りしめました。
「母が、入院しているんです」
「お母様が?」
「はい。七十二歳です。先月、家で倒れて……」
脳梗塞。
幸い命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残ったそうです。
現在も入院中。
退院後も、しばらくは誰かの助けが必要になる見込みでした。
「入院費は、どうされていますか」
所長が尋ねました。
「私が払っています」
「ご主人は?」
「工場勤めです。でも、去年から残業が減って……」
和子さんは俯きました。
「子供も二人います。上が中学生で、下が小学生です」
私は思わず、手元の相談票を見ました。
母親の入院。
子供二人。
夫の収入減少。
そして、仕立屋の給料。
「ほかに、ご兄弟はいらっしゃいますか」
相馬先輩が尋ねました。
「兄が一人、妹が一人います」
「三人きょうだいですね」
「はい」
「お兄さんは?」
その瞬間。
和子さんの表情が変わりました。
「……兄は、材木会社を経営しています」
「会社を?」
「ええ。父が残した会社です」
「経営状態は?」
「悪くないと思います。去年、新しい倉庫も建てました」
私は顔を上げました。
材木会社。
新しい倉庫。
それなりの収入がある可能性は高そうです。
「お兄さんには、援助をお願いしましたか」
「しました」
「何と?」
和子さんは、唇を噛みました。
「……長男なんだから、母親の面倒を見るのは当然でしょうって」
「え?」
私は首をかしげました。
長男だから面倒を見る。
それなら、お兄さんが払うのでは?
「すみません。どういう意味ですか」
和子さんが苦笑しました。
「兄は、こう言ったんです」
――俺は長男として家を守っている。
――お前は嫁に出たんだから、親孝行くらい金でしろ。
……。
なるほど。
長男という言葉。
自分に都合のいいところだけ使っているわけですね。
「じゃあ、お兄さんは一円も?」
「最初に二万円だけ渡してくれました」
「それだけですか?」
「はい」
「妹さんは?」
「妹は病気で、ほとんど働けません。小さな子供も抱えていて……」
私は息を吐きました。
お兄さん。
和子さん。
妹さん。
三人とも同じ母親の子供です。
なのに。
母親を支えているのは、生活に余裕のない和子さんだけ。
「それで……」
和子さんは風呂敷を開きました。
「兄に、こんな紙を書かされたんです」
出てきたのは、一枚の念書。
私は受け取りました。
そこには、こう書かれていました。
――扶養に関する念書。
――私、杉浦和子は、母杉浦トシの扶養について、今後すべて自己の責任と負担において対処する。
――兄杉浦正一に対し、扶養料、療養費その他一切の金銭を請求しない。
――また、母杉浦トシは、今後、杉浦正一に対して扶養その他生活上の援助を求めないものとする。
……。
私は目を細めました。
最後の一文。
おかしい。
「和子さん」
「はい」
「これ、お母様も署名されたんですか?」
「いいえ」
「では、お母様の意思は確認されたんですか?」
「……されていません」
私は念書をもう一度見ました。
和子さんの署名。
和子さんの認印。
でも。
母親本人の署名はありません。
委任状もありません。
それなのに。
母親の扶養を受ける権利まで、勝手に消そうとしている。
「これを書いたら、兄が入院費を少し出してくれると言ったんです」
「……それで?」
「でも、ハンコを押した途端、もう二度と請求するなって」
和子さんの声が震えました。
「母が……病院で、何度も言うんです」
「何と?」
「正一に迷惑をかけたくない。和子にも迷惑をかけたくない。もう家に帰りたいって」
和子さんは目を伏せました。
「でも、家に帰してあげても、私一人では十分に世話ができません」
……。
私は念書を机に置きました。
胸の奥が、じりじりしました。
これは。
ただのお金の問題ではありません。
病気になった母親。
苦しい家計。
その隙につけ込んで、兄が一方的な念書を作った。
しかも。
母親自身の権利まで、勝手に放棄させようとしている。
私は立ち上がりました。
「大丈夫です!」
和子さんが驚いて顔を上げます。
「ほ、本当ですか?」
「はい!」
私は胸を張りました。
「民法八百七十七条です!」
来ました。
親族法。
扶養義務。
行政書士試験では、何度も出てくる論点です。
「直系血族と兄弟姉妹は、互いに扶養義務を負います!」
「はい……」
「お兄さんも、お母様の子供です!」
「ええ」
「だから、お兄さんにも扶養義務があります!」
よし。
ここまでは完璧。
「それに、扶養の順位は――」
私は勢いよく続けようとしました。
「子供が複数いるなら、まず収入の多い人から負担すべきです!」
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「今、何て言った?」
「収入の多い人から、です」
「どこに書いてある?」
「え?」
「民法の何条だ」
……。
私は固まりました。
ええと。
八百七十八条。
扶養の順位。
扶養義務者が数人ある場合。
まずは当事者間の協議。
協議が整わなければ、家庭裁判所。
……あ。
「ないです」
「何が」
「収入の多い人が必ず最優先、という条文は……」
「そうだ」
先輩が六法を机に置きました。
「金がある奴に負担を求める理由にはなる。だが、順位が法律で自動的に決まるわけじゃねえ」
「……はい」
「お前、いつもの現代知識で押し切ろうとしたな?」
「いえ、今回は違います!」
「ほう」
「昭和と令和で大きく変わっていない条文なのに、私が勝手に覚え間違えました!」
「なお悪いじゃねえか!」
ぐっ。
正論。
しかも今回は。
いつものような債権法大改正の落とし穴ではありません。
扶養に関する民法八百七十七条以下の基本構造は、昭和六十三年にも存在しています。
現代の受験知識を持っている私にとって、比較的使いやすいはずの分野。
それなのに。
思い込みで順位を作ってしまいました。
「いいか、こはる」
相馬先輩が言いました。
「扶養義務があることと、誰がどれだけ負担するかは別問題だ」
「はい」
「親の子供が三人いるなら、三人とも扶養義務者になり得る」
「はい」
「だが、一律三分の一とも限らねえ」
「……そうですね」
「一人が全部負担するとも限らねえ」
なるほど。
扶養義務。
扶養の順位。
扶養の程度。
扶養の方法。
似ているようで、全部違う。
片桐所長が静かに口を開きました。
「それから、もう一つ」
「はい」
「扶養と聞いたら、金銭だけを考えるな」
「え?」
「病院への付き添いもあれば、生活の世話もある。金銭を支払う方法もある」
私は頷きました。
確かに。
扶養とは、現金を渡すことだけではありません。
生活を支えること。
必要な世話をすること。
どのような形で支援するかも、重要なのです。
「ただし」
所長は続けました。
「今日は、もっと大きな問題がある」
「何ですか?」
所長は念書を指差しました。
「この紙だ」
私は視線を落としました。
扶養に関する念書。
母親の権利を放棄させようとする一文。
そこで。
私は気づきました。
「あっ!」
「分かったか」
「民法八百八十一条!」
私は六法を開きました。
扶養請求権の処分の禁止。
そこには、短い条文がありました。
――扶養を受ける権利は、処分することができない。
私は息を呑みました。
「……これですね」
所長が頷きます。
「そうだ」
たった一行。
でも。
この一行があるからこそ。
病気の母親の未来を、誰かが勝手に売ったり、永久に放棄させたりすることはできない。
「所長」
「何だ」
「この念書……」
「ああ」
「母親本人が署名していない時点で、そもそも母親の権利を放棄する意思表示にはなりません」
「そうだ」
「しかも、扶養を受ける権利そのものは、処分できない」
「うん」
「つまり!」
私は念書を指差しました。
「お兄さんは、紙一枚で母親の扶養請求権を消したつもりになっているんです!」
相馬先輩が笑いました。
「いいところに気づいたな」
「ありがとうございます!」
「まだ喜ぶな」
「え?」
「和子さん自身が、将来の費用負担について兄と何を約束したのかは、別に検討が必要だ」
「……はい」
「だから念書全体が一文字残らず当然に無効だ、なんて雑な書き方はするなよ」
私は口を閉じました。
危ない。
また勢いで結論を出すところでした。
民法は、そんなに単純ではありません。
しかし。
少なくとも。
母親の扶養を受ける権利を、娘の署名だけで消すことはできない。
ここに、反撃の突破口がありました。
「それから」
片桐所長が和子さんに尋ねました。
「お兄さんから、ほかに何か書類を受け取りましたか」
「はい」
和子さんはもう一枚、紙を出しました。
――今後、母の入院費その他の支出を請求する場合は、長男としての相続分を放棄すること。
私は目を疑いました。
「……相続分?」
「兄は、父の土地を全部引き継ぐつもりなんです」
「お父様は?」
「五年前に亡くなりました」
「遺産分割は?」
「まだ終わっていません」
……。
今度は相続ですか。
「兄は言いました」
和子さんが続けました。
「母の面倒を見る金を欲しがるなら、父の土地には手を出すなって」
私は拳を握りました。
なるほど。
構図が見えてきました。
兄は父親の土地を独占したい。
母親の療養費は妹に押しつけたい。
そして。
両方を実現するために、念書を書かせようとしている。
「先輩」
「何だ」
「これ、相当ひどくないですか」
「ひどいな」
「扶養と相続を、ごちゃ混ぜにしてます」
「そうだ」
相馬先輩が煙草を置きました。
「親の面倒を見る義務と、親の遺産をどう分けるかは、別の問題だ」
「はい」
「相続財産についての話があるなら、それはそれで事実と権利関係を整理する」
「はい!」
「扶養料を出す条件として、相続の権利まで一方的に取り上げられると思うなよ」
片桐所長が静かに言いました。
「和子さん」
「はい」
「お兄さんに、協議を申し入れた記録はありますか」
「……手紙を二度出しました」
「返事は?」
「一度だけ」
和子さんは封筒を取り出しました。
私は開きました。
中には、兄からの短い返事。
――母親の扶養については、和子が責任を負うと念書に記載されている。
――今後は一切の協議に応じない。
――これ以上要求するなら、相続財産についても厳しく対応する。
……。
私は黙りました。
なんとも。
嫌な手紙です。
でも。
「所長」
「何だ」
「これ、証拠になりますね」
「ああ」
所長が頷きました。
「協議を求めたのに、相手が拒否している」
「はい」
「民法八百七十八条の問題だ」
そうです。
扶養の順位。
当事者間で協議できなければ、家庭裁判所が定める。
そして八百七十九条。
扶養の程度や方法についても、協議が整わなければ家庭裁判所が事情を考慮して定める。
つまり。
兄が協議を拒否したからといって、扶養の問題が消滅するわけではない。
むしろ。
家庭裁判所で整理すべき問題が、明確になるのです。
「所長!」
「何だ」
「反撃できます!」
「できるな」
「内容証明ですね!」
「ああ」
片桐所長は、念書を机に置きました。
「ただし、こはる」
「はい」
「裁判所に何を決めてもらう必要があるのかまで、整理しろ」
私は頷きました。
扶養する人の順位。
扶養する程度。
扶養する方法。
そして。
母親が持つ、扶養を受ける権利。
これは。
単に兄へ怒りの手紙を送れば済む話ではありません。
事実を整理して。
法的な論点を分けて。
必要なら家庭裁判所の手続につなぐ。
そのための書面です。
翌日。
私と相馬先輩は、和子さんの案内で杉浦材木店を訪れました。
駅から車で十分ほど。
広い敷地。
積み上げられた木材。
新しい倉庫。
そして、立派な黒塗りの乗用車。
「……ずいぶん立派ですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「見た目で資力を決めつけるなよ」
「分かってます」
「車が立派でも、借金だらけかもしれねえ」
「はい」
そうです。
扶養義務者の資力。
見た目だけでは分かりません。
収入。
財産。
生活費。
負債。
扶養している家族。
そうした事情を確認する必要があります。
事務所に入ると、背広姿の男が座っていました。
五十歳前後。
大柄。
金の腕時計。
杉浦正一。
和子さんの兄です。
「何だ、お前ら」
正一は私たちを見ました。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
「はい」
「弁護士じゃねえのか」
……。
またですか。
この時代の悪役。
行政書士を見た瞬間に、必ず一度は鼻で笑わないと気が済まないのでしょうか。
「何の用だ」
正一が尋ねました。
「ご家族の扶養に関して、事実関係の確認をお願いしたいと思いまして」
「扶養?」
「お母様の件です」
正一は笑いました。
「ああ。和子が何か言ったんだな」
「お母様の入院費について、現状を確認しています」
「勝手にしろ」
正一は机の引き出しから紙を取り出しました。
例の念書です。
「これがある」
机の上に叩きつけます。
「和子がハンコを押したんだ。全部自分で面倒を見るってな」
「確認しました」
相馬先輩が答えました。
「だったら終わりだろ」
「ただ、念書にお母様ご本人の署名はありませんね」
「母さんは病院だ。そんなもん、いちいち書かせられるか」
「ご本人が扶養を受ける権利について、何か意思を示されたわけではないんですね」
「だから何だ!」
正一が声を荒らげました。
「和子は俺の妹だぞ!」
……。
私は思いました。
妹だから何でしょう。
「家のことは長男の俺が決めるんだ」
正一は続けました。
「父親が死んだら、俺がこの家の主だ。誰が親の面倒を見るかも、俺が決める」
私は思わず口を開きました。
「それは違います」
「何?」
「扶養について、長男に一方的な決定権があるわけではありません」
「小娘が何を言ってる」
正一は鼻で笑いました。
「家のことも知らねえくせに」
「民法八百七十八条です」
「何だと?」
「扶養義務者が複数いる場合、扶養する順序は、まず当事者の協議で決めます」
「協議?」
「協議が整わない場合には、家庭裁判所が定めます」
正一の笑みが薄れました。
でも。
「だから何だ」
彼は言いました。
「協議なら、もう終わってるだろ」
念書を指差します。
「和子が全部やるって書いてある」
私は反論しかけました。
しかし。
「こはる」
相馬先輩が静かに呼びました。
「はい」
「そこまでだ」
私は口を閉じました。
先輩は正一に向き直りました。
「念書に基づき、お母様に対する援助を今後一切行わないというお考えですね」
「ああ」
「事情が変わっても?」
「当たり前だ」
「お母様の療養状態が悪化しても?」
「俺には関係ねえ」
「分かりました」
相馬先輩は手帳を閉じました。
「それでは失礼します」
「……は?」
正一が拍子抜けした顔になりました。
「もう帰るのか?」
「はい」
「説得しに来たんじゃねえのか?」
「事実を確認しに来ました」
「何だ、つまらねえ」
正一はふんぞり返りました。
「言っとくが、裁判でも何でもやってみろ」
私は足を止めました。
「……」
「俺には金もある。弁護士だって雇える」
正一はにやりと笑いました。
「貧乏な妹が、どこまで戦えるか見ものだな」
……。
腹が立つ。
本当に腹が立つ。
でも。
相馬先輩は、何も言い返しませんでした。
「先輩!」
材木店を出た瞬間、私は言いました。
「何であんな態度を許すんですか!」
「許しちゃいねえよ」
「でも!」
「こはる」
先輩は足を止めました。
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代理人になって、相手と扶養料の交渉をする仕事はできねえ」
「分かってます」
「だったら、口で言い負かそうとするな」
先輩は煙草を取り出しました。
「俺たちの仕事は、書面で事実を固めることだ」
「……はい」
「それに、あの男が協議を拒んでいることも分かった」
「はい」
「自分の言葉で、はっきり言ったな」
私は頷きました。
協議を拒否。
念書があるから一切払わない。
母親の事情が変わっても関係ない。
つまり。
相手の主張は、すでに明確です。
「次は何をしますか」
私は尋ねました。
相馬先輩は言いました。
「調べるんだよ」
「何をです?」
「母親に、何が必要なのかをな」
……。
私は黙りました。
確かに。
兄の態度がひどいことは分かりました。
でも。
母親の生活を守るために、具体的にいくら必要なのか。
退院後に、どんな援助が必要なのか。
誰に、どこまで負担できるのか。
そこを確かめなければ、正確な書面にはなりません。
「こはる」
「はい」
「扶養はな、相手を罰するための制度じゃねえ」
先輩は言いました。
「困ってる人間を、生きていけるようにするための制度だ」
私は顔を上げました。
「……はい」
その言葉が。
妙に胸に残りました。
午後。
私たちは病院へ向かいました。
杉浦トシさん。
七十二歳。
白い髪。
細い腕。
右手は布団の上に置かれています。
言葉はゆっくりですが、会話はできます。
「……和子が、ご迷惑を」
トシさんは申し訳なさそうに言いました。
「そんなことありません」
私は椅子に座りました。
「お体はいかがですか」
「ぼちぼち、です」
トシさんは笑いました。
でも。
その笑顔には、どこか寂しさがありました。
「正一は……忙しいんでしょうねえ」
私は何も言えませんでした。
「昔は、優しい子だったんですよ」
トシさんは続けました。
「小さい頃は、私が風邪をひくと、庭の柿を取ってきてくれて」
……。
私は胸が詰まりました。
今の正一からは、想像しにくい姿です。
「お母様」
相馬先輩が尋ねました。
「退院したら、どうされたいですか」
「……家に帰りたいです」
「はい」
「でも、和子にばかり迷惑はかけたくありません」
トシさんは左手で布団を握りました。
「正一に、お金を出せなんて言いたくないんです」
「どうしてですか」
「息子の仕事の邪魔をしたくありませんから」
私は思わず尋ねました。
「でも、お母様は生活に困っていらっしゃるんですよね」
「……ええ」
「それなら、子供たちに助けを求めてもいいんです」
トシさんが顔を上げました。
「……いいんですか」
「はい」
私は頷きました。
「扶養を受けることは、恥ずかしいことではありません」
トシさんは、しばらく黙っていました。
そして。
「私はね」
ゆっくり話し始めました。
「子供たちが、喧嘩するのが嫌なんです」
「……はい」
「私なんかのために」
その瞬間。
私は首を振りました。
「私なんか、じゃありません」
トシさんが目を丸くしました。
「お母様が今まで、お子さんたちを育ててこられたんですよね」
「……ええ」
「だったら、困ったときに助けを求めることまで、遠慮しなくていいんです」
トシさんの目に、涙が浮かびました。
「……ありがとう」
私は小さく頭を下げました。
法律は、冷たい文章かもしれません。
でも。
扶養という制度の向こうには。
こういう人がいるのです。
病院を出たあと。
私たちは、担当者から和子さんが持ち帰っていた費用明細を確認しました。
さらに、本人の了解を得て、家計の資料を整理します。
トシさんの年金。
預貯金。
医療費。
入院に伴う自己負担。
退院後に必要となる生活費の見込み。
和子さんの収入。
夫の給与。
子供二人の教育費。
妹さんの事情。
そして。
正一の資力について、現時点で確認できる資料。
私は電卓を叩きました。
「……足りませんね」
和子さん一家が負担している額は、家計の余裕を大きく超えていました。
このままでは。
母親の生活どころか。
和子さん自身の家庭まで、立ち行かなくなるおそれがあります。
「所長」
「何だ」
「扶養義務って、無制限じゃありませんよね」
「そうだ」
「兄弟姉妹も直系血族も、全員が同じ額を出さなければならないわけじゃない」
「うん」
「扶養義務者の資力も考慮しなければならない」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「八百七十九条を見ろ」
私は六法を開きました。
扶養の程度又は方法。
協議が整わないとき。
家庭裁判所は、扶養権利者の需要、扶養義務者の資力、その他一切の事情を考慮する。
「……なるほど」
私は顔を上げました。
「だから、一律に長男が全部でも、三人で三等分でもないんですね」
「そうだ」
「必要な人の事情と、負担する人の事情を、両方見る」
「うん」
「それが扶養なんですね」
相馬先輩が言いました。
「法律は、金のある奴を懲らしめるためにあるんじゃねえ」
「はい」
「金のない奴を、一人で潰させないためにもあるんだ」
私は頷きました。
今回の和子さんのように。
母親を見捨てられない人ほど、限界まで頑張ってしまう。
そして。
責任から逃げたい人ほど、声を大きくする。
でも。
民法は。
声の大きさではなく、具体的な事情を見るのです。
「よし」
片桐所長が言いました。
「書くぞ」
夕方。
事務所の机に、便箋と六法が並びました。
内容証明郵便。
今回も、私たちの武器です。
ただし。
いきなり兄に金銭の支払いを命じるような文書を作るわけではありません。
まずは。
母親本人の扶養を受ける権利が消えていないこと。
長男だからといって一方的に扶養の負担を決定できないこと。
協議に応じない場合には、家庭裁判所の手続があること。
それらを正確に整理した通知を、本人の意思に基づいて作るのです。
そして。
私には、どうしても確認したいことがありました。
「所長」
「何だ」
「差出人は誰にしますか」
「いい質問だ」
所長は頷きました。
「和子さんの通知と、お母様ご本人の通知は分けて考える」
「はい」
「和子さんは、自分の負担や念書についての意思を示せる」
「はい」
「しかし、母親の扶養請求権そのものは、母親の権利だ」
私は頷きました。
今回。
トシさんは意思を確認できる状態にあります。
本人は、必要な生活支援を受けたいと希望している。
であれば。
本人の意思を確かめたうえで、本人名義の扶養に関する通知を作成する。
そして、和子さん名義では、念書によって母親の権利を放棄させたとする主張への異議を明らかにする。
この二つを整理する必要があります。
「それから」
所長は言いました。
「家庭裁判所に進むなら、弁護士への相談も準備しておけ」
「はい」
「俺たちは、相手との紛争交渉や裁判所での代理をする立場じゃない」
「分かっています」
「だからこそ、事実関係を一つ残らず整理する」
私は鉛筆を握りました。
そして。
書き始めました。
――通知書。
通知人 杉浦トシ。
被通知人 杉浦正一。
――第一。
――通知人は、貴殿の実母であり、現在、疾病により療養を要し、自己の収入及び財産のみでは必要な生活及び療養の費用を十分に賄うことが困難な状態にある。
――第二。
――民法第八百七十七条第一項により、直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養義務を負う。
――第三。
――通知人は、貴殿に対し、今後の生活及び療養に必要な扶養について、関係当事者間での協議を求める。
――第四。
――通知人の娘杉浦和子が作成したとされる念書には、通知人自身が署名した事実はなく、通知人が自己の扶養請求権を放棄する意思を表示した事実もない。
――第五。
――加えて、民法第八百八十一条は、扶養を受ける権利について、その処分を禁止している。
――第六。
――したがって、右念書の存在のみを理由として、通知人が将来必要となる扶養を求める権利が消滅したとする主張は、認められない。
――第七。
――扶養の順位、程度及び方法について協議が整わない場合には、民法第八百七十八条及び第八百七十九条に従い、家庭裁判所による判断を求めることが検討される。
――以上を踏まえ、通知人は、扶養に関する協議への回答を求める。
――なお、回答が得られない場合には、弁護士への相談及び家庭裁判所における適切な手続を検討する。
……。
私は書き終えました。
「どうでしょう!」
相馬先輩が読みました。
そして。
「ここ」
「はい!」
「『扶養義務を負う』だけで、具体的な支払額が確定しているように書くなよ」
「はい」
「具体的な金額や方法は、これから協議する問題だ」
「分かりました」
「それと、資料にない費用を勝手に盛るな」
「盛りません!」
「昨日、お前は退院後の費用を三倍にしてただろ」
「あれは計算間違いです!」
「なお悪い!」
……。
反論できません。
所長は書面を読み終えました。
そして、一言。
「よし」
私は思わず顔を上げました。
「本当ですか!」
「ああ」
「やりました!」
「ただし、もう一枚だ」
「え?」
「和子さんの念書についての通知だ」
そうでした。
今回の事件。
母親本人の扶養を受ける権利とは別に。
和子さんが署名した念書についても、整理が必要です。
私は便箋を取り直しました。
和子さんから正一への通知。
その内容は。
自分が署名した念書をもって、母親本人の扶養請求権が失われたとは認めないこと。
正一が扶養の協議を一切拒否している現状について、改めて協議を求めること。
そして。
今後の扶養負担について、公平な話合いを求めること。
また、将来の具体的な扶養負担まで永久に固定したかのような解釈には、事情変更に関する民法八百八十条などを踏まえ、問題があることを記載しました。
「所長」
「何だ」
「八百八十条って、使いどころがあるんですね」
「ああ」
「一度決まった扶養の内容でも、事情が変われば見直しが問題になる」
「そうだ」
所長は頷きました。
「人の生活は変わる」
「はい」
「収入も変わる。病気にもなる。子供も成長する」
「はい」
「だから、扶養を一度決めたら未来永劫そのまま、というわけにはいかん」
私はペンを止めました。
なるほど。
法律は、人間の生活が変わることまで考えている。
それが。
扶養という制度なのです。
数日後。
内容証明郵便は、正一のもとへ届きました。
そして。
その翌々日。
事務所に電話が入りました。
「片桐行政書士事務所です」
私が受話器を取ると。
『……杉浦だ』
低い声。
杉浦正一。
あの兄です。
「お電話ありがとうございます」
『……所長はいるか』
「はい」
私は所長に代わりました。
正一の声は、以前とは違っていました。
『あの書面……』
「はい」
『弁護士に見せた』
「そうですか」
『……母親の扶養を受ける権利は、念書じゃ消せないって言われた』
私は思わず顔を上げました。
所長は静かに聞いています。
『それに、扶養の負担を誰がどれだけするかは、長男だからって勝手に決められないって……』
「はい」
『家庭裁判所に行けば、こっちの収入や資産も問題になるんだな』
「扶養の程度や方法については、関係する事情を考慮することになります」
『……』
沈黙。
それから。
『俺、本当に全部払わなきゃいけないのか?』
所長は答えました。
「具体的な負担について、現時点で私が決めることはできません」
『……』
「法律上の枠組みは通知書のとおりです。ご本人たちによる協議が整わなければ、家庭裁判所で判断を求めることになります」
『……そうか』
正一は、しばらく黙りました。
そして。
『……母さんに、会ってくる』
私は息を呑みました。
『もう半年近く、まともに顔を出してない』
「そうですか」
『……和子にも、直接話す』
正一の声が震えました。
『俺……あんな念書を書かせて、何やってたんだろうな』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「今の!」
「ああ」
「お兄さん、折れましたよね!」
相馬先輩が横から言いました。
「まだ分からねえぞ」
「え?」
「言葉だけなら、いくらでも言える」
「……そうですね」
「実際にどうするか。そこまで確認だ」
私は頷きました。
そうです。
法律書面の目的は。
相手に謝らせることではありません。
必要な扶養が、現実に行われること。
そこまで進んで、初めて意味があるのです。
一週間後。
和子さんが事務所へ来ました。
今度は。
泣いていませんでした。
「兄が……母の病院に来ました」
私は顔を上げました。
「本当ですか!」
「はい」
和子さんは微笑みました。
「母が、泣いていました」
正一は病室に入り。
母親の前で、長い間黙っていたそうです。
そして。
ようやく。
「……母さん」
そう言った。
「俺、ひどいこと言ったな」
トシさんは、左手を伸ばしたそうです。
「正一」
「……うん」
「仕事は、大丈夫なのかい」
……。
私は思いました。
この母親。
自分が病院のベッドにいるのに。
まず息子の仕事を心配したんですね。
「それで」
和子さんが続けました。
「兄は、こう言ったんです」
――仕事は大丈夫だ。
――今度は俺も、母さんを支える。
正一は、それまで拒んでいた扶養についての話合いに応じることにしたそうです。
和子さん。
妹さん。
そして、正一。
それぞれの収入や家庭の事情を踏まえ、母親をどう支えるか、具体的に話し合いました。
結果。
正一は、母親の療養費について、当面、毎月一定額を負担することを申し出た。
和子さんは、仕事と子育ての範囲で通院や日常生活の援助を続ける。
妹さんも、体調の許す範囲で、電話での見守りや必要な用事を分担する。
そして。
母親の状態や、それぞれの家庭の事情が変われば、改めて話し合う。
そんな内容で合意したのです。
「書面にもしたんです」
和子さんが封筒を取り出しました。
そこには。
扶養に関する協議書。
三人の署名。
押印。
そして、母親本人の希望も記録されていました。
相馬先輩が読みました。
「……いいじゃねえか」
「ありがとうございます」
和子さんが頭を下げました。
「兄が、前の念書はもう持ち出さないって」
「それも書面に残しましたか」
「はい」
先輩が頷きました。
「よし」
私は思わず笑いました。
「先輩」
「何だ」
「また書面にハンコですね!」
「そうだ」
「今回は三人分です!」
「多けりゃいいってもんじゃねえ」
「分かってます!」
それでも。
同じハンコでも。
今回は意味が違います。
誰かに押しつけるためのハンコではなく。
それぞれが支え合うことを確認するためのハンコ。
私は、少し嬉しくなりました。
「ところで」
和子さんが言いました。
「先生方に、もう一つ聞いてもいいでしょうか」
「はい」
私は答えました。
「私の主人にも、母の扶養義務があるんでしょうか」
……。
私は止まりました。
夫。
つまり。
母親から見れば、娘の夫。
姻族一親等。
扶養義務。
ええと。
「あります!」
私は勢いよく答えかけました。
「三親等以内の親族ですから――」
「待て!」
相馬先輩が即座に遮りました。
「はい!?」
「お前、今度は何を間違えた!」
「え?」
「三親等内の親族なら、誰でも当然に扶養義務があると思ってねえか?」
……。
あ。
やってしまいました。
民法八百七十七条。
第一項。
直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養義務を負う。
第二項。
家庭裁判所は、特別の事情があるときは、その他の三親等内の親族間にも扶養義務を負わせることができる。
つまり。
「……自動的ではありません」
「そうだ!」
相馬先輩が言いました。
「三親等以内なら全員が当然に扶養義務者ってわけじゃねえ」
「はい……」
「家庭裁判所が特別の事情を認めて、扶養義務を負わせる場合があるって話だ」
「……はい」
私は顔を赤くしました。
危ない。
本当に危ない。
母親の扶養を守ろうとして。
今度は娘の夫にまで、当然に義務があると決めつけるところでした。
「和子さん」
私は改めて説明しました。
「ご主人は、お母様の直系血族でも兄弟姉妹でもありません」
「はい」
「ですから、その関係だけで民法八百七十七条第一項の扶養義務を当然に負うわけではないんです」
「そうなんですね」
「ただし、三親等以内の親族として、特別の事情があれば家庭裁判所が扶養義務を負わせる可能性はあります」
和子さんは、ほっとしたように息を吐きました。
「よかった……主人にも迷惑をかけていると思っていて」
所長が静かに言いました。
「ご主人がご家族として自発的に協力することと、法律上当然に扶養義務を負うことは、区別して考えてください」
「はい」
和子さんが頷きました。
私は思いました。
家族だから。
親族だから。
そんな言葉だけで、すべての責任を決めることはできない。
これも。
民法の大切なところなのです。
数日後。
トシさんの退院に向けて、準備が進み始めました。
正一は、自分の家の近くにある平屋の一室を使えるように整えると申し出たそうです。
ただし。
無理に同居するのではありません。
トシさん本人の希望を聞き。
和子さんや妹さんとも話し合って。
通院しやすく、必要な援助を受けられる生活の形を探す。
そうした話合いが続いていました。
ある日。
和子さんから、一枚の写真が届きました。
病院の庭。
木製のベンチ。
そこに座るトシさん。
隣には、正一。
反対側に、和子さん。
そして、妹さん。
四人が並んでいました。
トシさんは、左手で正一の腕を握っています。
正一は少し照れくさそうな顔。
和子さんは笑っています。
私は写真を見ながら、胸が温かくなりました。
「……よかった」
思わず呟きました。
相馬先輩が覗き込みました。
「何だ」
「杉浦さんたちの写真です」
「ああ」
「家族って、戻れることもあるんですね」
先輩は写真を見ました。
それから。
「まあな」
短く答えました。
「でも」
私は言いました。
「最初は、お兄さん、あんなにひどかったのに」
「そうだな」
「内容証明を受け取って、考え直したんでしょうか」
先輩は煙草をくわえました。
「法的な危険を知ったのは確かだろうな」
「はい」
「でも、それだけじゃねえかもしれねえ」
「え?」
「母親の顔を見て、ようやく自分が何をしてるか分かったんだろ」
私は写真を見ました。
病院のベンチ。
母親の手。
その手を、息子が受け止めている。
「……そうですね」
法律は。
家族を仲良くさせる魔法ではありません。
でも。
誰かが一方的に押しつけられている責任を、整理することはできる。
誰かが奪おうとしている権利を、守ることはできる。
そして。
話合いの席に戻るきっかけを作ることもある。
それだけでも。
法律には、十分意味があるのです。
夕暮れ。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、六法を広げていました。
民法八百七十七条。
扶養義務者。
民法八百七十八条。
扶養の順位。
民法八百七十九条。
扶養の程度又は方法。
民法八百八十条。
扶養に関する協議又は審判の変更又は取消し。
そして。
民法八百八十一条。
扶養請求権の処分の禁止。
「……五つもあるんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「扶養の条文です」
「ああ」
「最初は、親族がお金を出して助けるだけの話だと思ってました」
「そうか」
「でも、違うんですね」
私はノートを開きました。
「誰に扶養義務があるのか」
「うん」
「誰が先に扶養するのか」
「うん」
「どの程度、どんな方法で扶養するのか」
「そうだ」
「事情が変わったら、どうするのか」
「うん」
「それから、扶養を受ける権利を勝手に処分できないこと」
相馬先輩が頷きました。
「分かってきたじゃねえか」
「ありがとうございます!」
「で、今日の教訓は?」
私は少し考えました。
長男。
次女。
三女。
娘の夫。
そして、母親。
同じ家族でも。
それぞれの生活があります。
収入も違う。
抱えている事情も違う。
必要としている援助も違う。
だから。
法律は、全員に同じ負担を命じるわけではない。
かといって。
声の大きな誰かが、一方的に負担を押しつけてよいわけでもない。
「所長」
「何だ」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「扶養って、誰か一人に全部背負わせる制度じゃないんですね」
「そうだ」
「困っている人の生活を守るために、誰がどんな支援をできるか考える制度なんですね」
所長は頷きました。
「それでいい」
私は鉛筆を握りました。
そして。
ノートの最後に、一行だけ書きました。
――扶養は「長男だから」では決まらない。協議で決め、まとまらなければ家庭裁判所。生きるための権利は、念書一枚では奪えない。
「……よし!」
私はノートを閉じました。
「覚えました!」
相馬先輩が言いました。
「本当か?」
「はい!」
「じゃあ問題だ」
「どうぞ!」
「兄弟三人がいる。母親が生活に困っている。誰が扶養する?」
「まず当事者間の協議です!」
「協議ができなかったら?」
「家庭裁判所です!」
「金額は?」
「扶養を受ける人の需要、扶養義務者の資力、その他一切の事情を考慮します!」
「よし」
先輩が続けました。
「じゃあ、娘の夫は?」
「直系血族でも兄弟姉妹でもありません!」
「うん」
「三親等内の親族でも、特別の事情がある場合に家庭裁判所が扶養義務を負わせることができるんです!」
「よし」
さらに。
「母親に、今後一切扶養を求めないって念書を書かせたら?」
「扶養請求権は処分できません!」
「何条だ?」
「八百八十一条!」
「よし!」
私は拳を握りました。
完璧。
今日の扶養。
もう忘れません。
「ところで、先輩」
「何だ」
「扶養する側にも、生活がありますよね」
「当たり前だ」
「じゃあ、先輩が私を扶養してくれる可能性は?」
「ねえよ」
「即答!?」
「何で俺がお前を養わなきゃならねえんだ」
「同じ事務所で働く仲間なのに!」
「血族でも姻族でもねえだろ!」
「ですよね!」
私は笑いました。
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前な……」
「冗談です!」
「ったく」
そのとき。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「今日の書類整理は終わったか」
「……まだです」
「では、頼む」
「はい!」
私は立ち上がりました。
棚に六法を戻します。
窓の外。
昭和六十三年の町には、夕暮れの明かりが灯り始めていました。
あの町のどこかで。
親を支える子供がいる。
子供を支える親がいる。
兄弟を助ける兄弟がいる。
けれど。
家族だからこそ、言えないこともある。
家族だからこそ、押しつけられてしまうこともある。
そして。
家族だからこそ、助けてほしいと頼むことを、恥ずかしいと思ってしまう人もいる。
でも。
民法は。
そんな遠慮や、声の大きさだけで、扶養を決めようとはしていない。
誰が困っているのか。
誰に支える力があるのか。
どのような支え方が必要なのか。
その事情を、きちんと見る。
扶養を受ける権利は、簡単に処分できない。
なぜなら。
人が生きていくための権利だから。
私は、杉浦家の写真をもう一度見ました。
母親の手を握る息子。
その隣で笑う娘たち。
あの家族には、これからも大変なことがあるでしょう。
病気は、内容証明一通で治りません。
生活費が、突然空から降ってくるわけでもありません。
それでも。
誰か一人が潰れるまで我慢するしかなかった昨日とは、違う。
支え合う方法を、みんなで考えられる明日がある。
私は、そう思いました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「民法って、家族の喧嘩にも強いですね!」
「法律で全部解決できると思うなよ!」
「はい!」
「最後は人間同士の話だ!」
「分かってます!」
私は笑いました。
でも。
今日の事件で、ひとつだけ確信しました。
親だから。
子だから。
長男だから。
嫁だから。
そんな言葉で、誰かの人生を一方的に決めてはいけない。
そして。
生活に困った人が、助けを求めることを。
紙一枚で、永久に封じることもできない。
だって。
民法八百八十一条は。
たった一行で。
その人が明日も生きるための権利を、守っているのです。
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