[民法・親権]法理編 こはるノート
親権とは、親が子供を自由にできる権利ではありません。
子供を守るために、親に与えられた権限です。
だから。
親が子供の財産を管理できるからといって。
その財産を、自分の借金の担保にしてよいわけではありません。
たとえ。
契約書に、親権者の署名があっても。
実印が押されていても。
そこには、法律上の大きな落とし穴があるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一冊のノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……親権って、名前が紛らわしいですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また何だ」
「親の権利って書くじゃないですか」
「ああ」
「でも、親の好き勝手にはできないんですよね」
「当たり前だろ」
「だったら、子供保護権とかにすればいいのに」
「勝手に法律の名前を変えるな」
私は笑いました。
でも。
本当にそう思ったのです。
昨日の事件。
高瀬美咲ちゃん。
十歳。
亡くなったおばあちゃんから土地と家を遺贈された女の子。
ところが。
父親の高瀬修一さんが、事業資金として借りた六百万円の担保に、その土地を差し出そうとした。
相手は、黒岩金融株式会社。
契約書には、父親の署名押印。
しかも。
「親権者なんだから、子供の財産をどう使おうが自由だ」
という、とんでもない主張。
でも結局。
民法八百二十六条。
利益相反行為。
特別代理人。
この二つの言葉が、黒岩金融の計画を止めたのです。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は親権を完全攻略します!」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか」
「昨日は事件です。今日は復習です!」
「毎日忙しい奴だな」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
まず。
私はノートに大きく書きました。
――親権とは何か。
「親権とは、未成年の子供の監護や教育を行い、財産を管理するための権利と義務です」
「そうだな」
「つまり、親には子供を育てる権限があります」
「ああ」
「でも、それだけじゃありません」
私は赤鉛筆を取りました。
権利。
そして。
義務。
「ここが重要なんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「親権は、親が威張るための道具じゃねえからな」
「はい!」
たとえば。
十歳の子供がいる。
その子供は、まだ一人で生活することが難しい。
食事。
住む場所。
学校。
病気になったときの対応。
財産の管理。
そうしたことを、誰かが考えなければなりません。
「そこで親権者が登場するんですね」
「そうだ」
「子供の生活と財産を守るために、親が権限を持つ」
私はノートに書きました。
親権の中心。
――子の利益。
「これだけは、絶対に忘れないようにします!」
所長が静かに言いました。
「ただし、こはる」
「はい?」
「今の六法には、現代のお前が知っている文言と違うところがあるぞ」
……。
嫌な予感。
「え?」
「八百二十条を読んでみろ」
私は六法を開きました。
そこには。
親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
という趣旨の規定があります。
「あれ?」
「どうした」
「私が覚えている条文には、『子の利益のために』って明記されていた気が……」
相馬先輩が眉をひそめました。
「どこに書いてある?」
「……ないです」
「だろ」
しまった。
また未来の民法です。
現代では、親権の行使が子の利益のために行われるべきことが、条文上も明確にされています。
でも。
昭和六十三年の民法八百二十条には、まだその文言がありません。
「じゃあ、昔は親のための権利だったんですか?」
私が聞くと、所長は首を横に振りました。
「そうではない」
「はい」
「子の監護と教育について権利だけでなく義務も定めている。親の利益だけを考えてよい制度ではない」
私は頷きました。
なるほど。
条文の文言は変わっても。
子供を守るという根本的な考え方が、突然生まれたわけではない。
現代では、その考え方がさらに明確にされているのです。
「……民法って、改正の歴史を知ると面白いですね」
「感心する前に、今の条文を覚えろ」
「はい!」
未来人。
今日も昭和の六法に、きっちり叱られました。
「次は、誰が親権者になるかです!」
私はページをめくりました。
――民法八百十八条。
未成年の子は、父母の親権に服する。
「まず、婚姻中の父母ですね」
「ああ」
「父母の婚姻中は、原則として共同で親権を行使します」
「そうだ」
私は父親と母親の絵を描きました。
その下に、子供。
そして。
父母の両方から、子供へ矢印を引きます。
「つまり、お父さんだけが偉いわけでも、お母さんだけが偉いわけでもない」
「そうだな」
「二人で親権を行使する」
私は頷きました。
「でも、先輩」
「何だ」
「父親が出張中で、母親が子供のために文房具を買う場合も、いちいち二人で署名するんですか?」
「そんな面倒なことを毎回やってられるか」
「ですよね!」
私は笑いました。
共同親権だからといって、日常のあらゆる行為について父母双方の実印を要求するわけではありません。
さらに。
昭和の民法八百二十五条には、父母の一方が共同の名義で子を代理した行為について、相手方が他方の親の反対を知っていた場合を除き、一定の保護を与える規定があります。
「ただし、片方の親が単独で行った行為なら、何でも有効になるわけではないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「共同の名義か、相手が何を知っていたか。そこも大事だ」
私は赤線を引きました。
共同親権。
原則として父母共同。
ただし、父母の一方が親権を行えない場合には、他方が行う。
「では、離婚したらどうなりますか?」
私が尋ねると、相馬先輩が言いました。
「一方を親権者に定める」
「はい!」
昭和六十三年の民法八百十九条。
協議離婚の場合。
父母の協議で、どちらか一方を親権者に定めなければなりません。
裁判上の離婚の場合。
裁判所が、父母の一方を親権者に定めます。
「つまり、昭和六十三年では、離婚後は単独親権なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
しかし。
ここで、私の頭の中に令和の知識が浮かびました。
令和八年四月一日。
離婚後の親権に関する大きな改正が施行されています。
現代では、離婚後についても、父母双方を親権者とするか、一方のみを親権者とするかを、子の利益を踏まえて定める制度になっています。
ただし。
共同親権が常に選ばれるわけではありません。
子供の安全や利益を害するおそれがある場合などには、単独親権とする必要があります。
「……先輩」
「何だ」
「将来、この制度も大きく変わるんですよ」
「また未来の話か」
「はい!」
「今は昭和六十三年だ」
「分かってます!」
「だったら、今の依頼人には今の法律で答えろ」
「はい……」
私は苦笑しました。
それでも。
時代によって制度が変わっていく理由は、何となく分かります。
親がどちらか。
父親か母親か。
その形式だけでなく。
子供にとって、どんな養育環境が望ましいか。
それを考える必要があるのです。
「所長」
「何だ」
「親権者を決めるときも、やっぱり子供の利益が大事なんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――親権者を決めるのは、親の勝ち負けを決めるためではない。
うん。
これなら忘れません。
「さて、次です!」
私は新しいページを開きました。
――親権の内容。
大きく二つ。
身上監護権。
財産管理権。
「これ、名前が難しいですよね」
「何がだ」
「身上監護って、最初は何のことか分かりませんでした」
相馬先輩は笑いました。
「子供の生活を守って育てることだ」
「そうなんです!」
身上監護。
子供を育てること。
食事を与える。
学校へ通わせる。
生活する場所を決める。
必要なしつけをする。
「民法八百二十条ですね」
「ああ」
私は続けました。
「そして、居所の指定」
民法八百二十一条。
子供は、親権者が指定した場所に居所を定める。
「つまり、十歳の子供が突然、明日から一人暮らしすると言い出しても」
「親権者が止めることになるな」
「そうですよね」
もちろん、親権者だからといって、子供を危険な場所に閉じ込めてよいわけではありません。
居所指定も、子供の監護のための権限だからです。
次。
職業の許可。
民法八百二十三条。
「未成年の子供が、自分で商売を営もうとする場合には、原則として親権者の許可が必要です」
「そうだ」
「たとえば、十六歳の子が店を開きたいと言った場合ですね」
「ああ」
「親権者が、営業を許可するかどうかを判断する」
私は頷きました。
さらに。
許可した営業については、民法六条により、未成年者が成年者と同一の行為能力を有するという仕組みもあります。
これは、ただ子供を縛る制度ではありません。
許可した範囲では、未成年者の取引の自由を認める制度でもあるのです。
「なるほど」
私は呟きました。
「親権って、子供の自由を全部奪う制度じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「子供が育っていくための制度なんだからな」
私は頷きました。
そして。
次の条文で、少し手が止まりました。
民法八百二十二条。
懲戒。
「……先輩」
「何だ」
「懲戒って、かなり強い言葉ですよね」
「ああ」
「昭和の民法には、親権者の懲戒に関する規定があるんですね」
「そうだ」
私は六法を見つめました。
この時代には、親権者による懲戒について定めた規定が存在しています。
しかし。
だからといって、親が子供を虐待してよいという意味ではありません。
親権は、子供の監護と教育のために認められているもの。
子供を傷つけることが、無条件で正当化されるわけではないのです。
「これも、将来変わるんですよね……」
私は小さく呟きました。
現代では、民法の懲戒権規定は削除されています。
子供の人格を尊重し、体罰などによらず養育するという方向へ、制度が見直されているのです。
「所長」
「何だ」
「昔の制度を見ると、現代の法律がどうして変わったのか、少し分かる気がします」
所長が頷きました。
「法律も、社会の中で見直されていく」
「はい」
私は書きました。
――身上監護権は、子供を育て守るための権限。
よし。
これで一つ整理できました。
「次は、財産管理権です!」
私は大きく書きました。
――民法八百二十四条。
親権者は、子供の財産を管理する。
そして。
その財産に関する法律行為について、子供を代表する。
「ここで、美咲ちゃんの事件につながるんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
たとえば。
子供が百万円の預金を相続した。
まだ十歳。
その子供が、預金に関する複雑な契約を一人で判断するのは難しい。
そこで親権者が、必要な財産管理や法律行為を行う。
「これは普通の財産管理ですよね」
「ああ」
「でも、親が子供のお金を自分の遊びに使ったら?」
「問題だな」
「ですよね!」
私は赤線を引きました。
財産管理権がある。
イコール。
子供の財産を自由に自分のものにできる。
ではありません。
親権者は、子供の財産の所有者になるわけではないからです。
「ここ、間違える人がいそうですね」
「多いだろうな」
相馬先輩が言いました。
「管理できることと、所有していることを混同する」
「はい」
まさに美咲ちゃんの父親が、そうでした。
土地を管理する権限がある。
だから自分の借金の担保にできる。
そう考えた。
でも。
それは違います。
「ところで、こはる」
所長が口を開きました。
「八百二十四条のただし書を読んでみろ」
「はい!」
私は六法を確認しました。
そこには。
子供自身の行為を目的とする債務を生じさせる場合には、本人の同意が必要である。
という規定があります。
「……これは、どういう意味ですか?」
相馬先輩が言いました。
「たとえば、親が勝手に子供を働かせる契約を結ぶ場合を考えろ」
「働かせる?」
「ああ」
「子供自身が、何かをしなければならない契約ですね」
「そうだ」
私は考えました。
たとえば。
親が勝手に、
――うちの娘が、あなたの店で毎日働きます。
と約束する。
その結果。
娘本人に労務を提供する義務が発生する。
「……これは、本人の同意が必要なんですね」
「そうだ」
「親権者だからって、子供自身に何かをさせる義務を勝手に負わせられない」
私は頷きました。
ここも大切です。
親が財産を管理することと。
子供本人の行為を義務づけることは、違う。
「だから、八百二十四条にはただし書があるんですね」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
――子供自身の行為を目的とする債務には、本人の同意が必要。
「これ、試験で引っかけられそうです」
「何でも試験に結びつけるな」
「受験生ですから!」
私は胸を張りました。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「いよいよ昨日の本題だな」
「はい!」
私は新しいページを開きました。
そして。
大きく書きました。
――民法八百二十六条・利益相反行為。
その文字を見ただけで。
私は、美咲ちゃんの顔を思い出しました。
十歳。
小さな布製の鞄。
おばあちゃんとの写真。
そして。
「おばあちゃんのお家、なくならない?」
あの言葉。
私は鉛筆を握り直しました。
「ここは絶対に覚えます」
相馬先輩が頷きました。
「なら、昨日の事件を整理してみろ」
「はい!」
私はノートに書きました。
父親・高瀬修一。
借金六百万円。
娘・高瀬美咲。
土地の所有者。
黒岩金融。
債権者。
「父親は、自分の借金の担保として、娘の土地に抵当権を設定しようとしました」
「そうだ」
「その契約を、娘の法定代理人として父親自身が締結した」
「うん」
「でも、ここに問題があります」
私は二つの名前を丸で囲みました。
父親。
娘。
そして。
その間に、大きく書きました。
――利益相反。
「父親は借金の担保を用意できる」
「ああ」
「でも娘は、自分の土地を失う危険を負う」
「そうだ」
「つまり、親と子の利益がぶつかっています」
相馬先輩が頷きました。
「それが利益相反行為だ」
私は続けました。
「この場合、親権者は家庭裁判所に特別代理人の選任を請求しなければなりません」
「そうだ」
なぜか。
それは。
自分の利益を守りたい人に、相手の利益を守る判断まで任せるのは危険だからです。
「たとえば」
私は言いました。
「父親が借金で困っている」
「うん」
「娘の土地を担保にすれば、父親は助かるかもしれない」
「そうだな」
「でも、娘は土地を失うかもしれない」
「ああ」
「なのに、その契約を認めるかどうかを父親一人に決めさせたら……」
相馬先輩が答えました。
「自分に都合のいい判断をする危険がある」
「そうです!」
だから。
特別代理人。
子供の利益を守るために、別の人が必要になるのです。
「なるほど……」
私は頷きました。
「親権者が、子供のために何でも決められるわけじゃない理由が、よく分かります」
「そうだ」
そして。
ここで、もう一つ重要な問題があります。
「先輩」
「何だ」
「利益相反行為かどうかって、どう判断するんですか?」
「いい質問だ」
私は目を丸くしました。
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
相馬先輩は笑いました。
「行為の外形を見ろ」
「外形?」
「ああ」
ここが判例の重要な考え方です。
利益相反行為に当たるかどうかは、原則として、その法律行為自体を外形的、客観的に見て判断します。
親権者の心の中だけで決めるわけではありません。
「たとえば」
相馬先輩が言いました。
「父親が、自分の借金のために子供の土地を担保に入れた」
「はい」
「でも父親は言う。借りた金は、最終的には子供のためにも使うつもりだった」
「……美咲ちゃんのお父さんみたいですね」
「そうだ」
「その場合は?」
「借金の債務者が親本人なら、子の土地を担保に入れる行為は利益相反に当たる」
私は頷きました。
「父親が善意だったとしても?」
「ああ」
「娘のためになると思っていたとしても?」
「そうだ」
なるほど。
ここで大切なのは、契約の構造です。
誰が借金を負っているか。
誰の財産を担保に出すか。
誰が危険を負うか。
それを客観的に見る。
「だから黒岩金融の契約書そのものが、問題を示していたんですね」
「そうだ」
私は大きく赤線を引きました。
――利益相反は、行為の外形から客観的に判断する。
そして。
これは昭和六十三年の時点で、すでに判例によって示されている考え方です。
最高裁昭和四十二年四月十八日判決。
親権者の動機や意図だけでなく、代理行為自体を客観的に判断するという基準が示されています。
「この判例、昨日の事件にぴったりですね」
「だから使ったんだよ」
相馬先輩が笑いました。
「条文だけじゃなく、判例まで押さえる。それが書面の強さになる」
私は頷きました。
なるほど。
法律の世界では。
難しい条文をたくさん並べることが、強いわけではありません。
目の前の事実に。
ぴったり当てはまる条文と判例を示すこと。
それが、相手の逃げ道を塞ぐのです。
「では、先輩」
私は手を挙げました。
「特別代理人を選任しないまま、親権者が利益相反行為をしたらどうなりますか?」
「無権代理だ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――無権代理。
代理権がないのに、他人を代理して法律行為をすること。
「ここが今回の決定打でしたね」
「そうだ」
父親は、親権者です。
通常なら、子供の財産に関する法律行為について法定代理権があります。
でも。
利益相反行為については、特別代理人を選任する必要がある。
それなのに。
父親が、単独で契約してしまった。
「だから、その行為は無権代理となるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ただし。
ここで一つ注意があります。
「無権代理だから、どんな場合でも永遠に無効!」
……と書こうとした瞬間。
相馬先輩が言いました。
「待て」
「はい?」
「追認はどうした」
「あっ」
しまった。
無権代理行為は、当然に本人に効力を生じるものではありません。
しかし。
適法に追認する権限を持つ者によって追認されれば、効力が認められる場合があります。
「だから昨日、所長に赤鉛筆で直されたんですね」
「そうだ」
「絶対に有効にならない、と断言してはいけない」
「ああ」
私はノートを書き直しました。
――特別代理人を選任せずにした利益相反行為は無権代理となり、適法な追認がなければ本人に効力を生じない。
「これで完璧ですね!」
「まあな」
相馬先輩が頷きました。
私は嬉しくなりました。
でも。
もう一つ疑問があります。
「所長」
「何だ」
「特別代理人が選任されれば、親は子供の土地を自由に担保にできるんですか?」
「違う」
即答でした。
「特別代理人は、親の希望を実現するために選ばれるわけではない」
「はい」
「子供の利益を守るために、その行為をどうするか判断する」
私は頷きました。
そうです。
特別代理人は。
単なるハンコ係ではありません。
親が、
「娘の土地を担保にしたい」
と言っても。
子供の利益を守る立場から、その行為について判断しなければならない。
だから。
選任さえされれば、契約が自動的に有効になるわけではないのです。
「……すごいですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「子供の権利を守るために、ちゃんと別の人の判断を入れる仕組みがあるんですね」
所長が頷きました。
「親権者にも、越えてはならん線がある」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
「では、もう一つ問題です!」
今度は、私が相馬先輩に向き直りました。
「何だ」
「親と子ではなく、兄弟同士で利益がぶつかる場合はどうなりますか?」
先輩が笑いました。
「八百二十六条二項だな」
「正解です!」
「俺が試験を受けてるのか?」
「復習です!」
私はノートに書きました。
――兄弟間の利益相反。
たとえば。
父親が亡くなった。
母親もすでに亡くなっている。
相続人は、未成年の兄と弟。
親権者は、二人の養親である叔母。
そして。
遺産分割をすることになった。
「ここで」
私は言いました。
「兄に土地を全部渡して、弟には少しの預金だけ渡す、という分け方を考えたとします」
「うん」
「兄と弟の利益は、ぶつかる可能性がありますよね」
「そうだ」
「だから、同じ親権者が二人をそのまま代表することには問題がある」
「そういうことだ」
私は頷きました。
民法八百二十六条二項。
同じ親権者のもとにいる複数の子供の間で利益が相反する場合にも、特別代理人の選任が必要です。
「でも、先輩」
「何だ」
「兄と弟が、全員同じ割合で相続すると決めていたらどうなんですか?」
「遺産分割協議なら、具体的な分け方だけを見て利益相反がないと決めつけるな」
「え?」
「誰が何を取得するかを決める行為そのものが、互いの利益に関わる」
私は息を呑みました。
そうです。
遺産分割協議。
財産の取り分を決める。
その時点で、子供同士の利益が対立する関係になる。
「だから、結果的に公平そうな分け方でも、当然に特別代理人が不要になるわけじゃないんですね」
「そうだ」
私は赤線を引きました。
――親と子だけでなく、子と子の利益相反にも注意。
なるほど。
親権者が一人で複数の子供を代表する場面。
ここにも、法律の落とし穴があるのです。
「次は、財産管理の注意義務です!」
私はページをめくりました。
――民法八百二十七条。
親権者は、自己のためにするのと同一の注意をもって、子供の財産を管理しなければならない。
「これ、少し不思議ですよね」
「何がだ」
「他人の財産なのに、自分のためにするのと同じ注意でいいんですか?」
相馬先輩が頷きました。
「そこが条文の特徴だな」
私は考えました。
民法には、善良な管理者の注意。
いわゆる善管注意義務という考え方があります。
でも。
親権者の財産管理については。
自己のためにするのと同一の注意。
という基準が定められている。
「つまり、善管注意義務とまったく同じ基準ではないんですね」
「そうだ」
「でも、注意義務がないわけでもない」
「ああ」
私は頷きました。
たとえば。
親が自分の預金通帳を、雨の中に放置するでしょうか。
普通はしません。
子供の預金通帳も、同じように大切に管理しなければならない。
自分の財産なら絶対にしないような無謀な扱いを、子供の財産だからといってしてよいわけではありません。
「所長」
「何だ」
「美咲ちゃんの父親は、この注意義務にも問題がありそうですね」
「そうだな」
「でも、今回の抵当権設定については、八百二十六条の利益相反がより直接的な問題だった」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
複数の法律問題があるとき。
どの条文が、事件の核心に直結しているのか。
それを見抜くことが大切なのです。
「なるほど……」
私は鉛筆を置きました。
「民法って、条文を全部覚えるだけじゃ足りませんね」
「ようやく気づいたか」
「前から気づいてます!」
相馬先輩が笑いました。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「親権は、いつまでも続くわけではない」
「あ、はい」
私は頷きました。
親権は、未成年の子供について行使されるものです。
昭和六十三年。
成年年齢は二十歳。
つまり。
原則として、子供が二十歳になれば、親権は終了します。
「現代では十八歳ですね」
「また未来か」
「大事な改正です!」
私は笑いました。
でも。
ここで思い出したのは、美咲ちゃんです。
十歳。
まだ親権者による保護が必要な年齢です。
しかし。
その親権者が、子供の財産を危険にさらした。
そんな場合。
子供は、ただ成年になるまで我慢しなければならないのでしょうか。
「所長」
「何だ」
「親権者が、子供の利益を著しく害するような場合には、どうなるんですか?」
「家庭裁判所による親権喪失の制度がある」
「はい」
私は六法を開きました。
民法八百三十四条。
ただし。
ここにも時代の違いがあります。
現代の民法では、虐待や悪意の遺棄などによって子供の利益を著しく害する場合について、親権喪失の審判が定められています。
そして、二年以内に原因が消滅する見込みがあるときには、親権喪失の審判をすることができないという制限があります。
でも。
昭和六十三年の条文は違います。
当時は。
親権の濫用。
著しい不行跡。
そうした事由に基づき、家庭裁判所が親権喪失を宣告する制度でした。
「言葉も違うんですね」
「ああ」
「現代は親権喪失の審判、昭和は親権喪失の宣告」
「そうだ」
私は赤線を引きました。
――昭和と令和では、親権喪失の要件も制度も異なる。
さらに。
現代には、親権停止の制度があります。
一定期間、親権を停止する仕組みです。
でも。
昭和六十三年には、まだありません。
「ここ、昨日も間違えました……」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「そうだったな」
「親権停止、二年以内って言っちゃいました」
「ああ」
「昭和六十三年には存在しないのに」
「そうだ」
私は頭を抱えました。
現代の民法を覚えていると、つい使いたくなってしまう。
でも。
法律は、その時代に施行されているものを使わなければなりません。
「ちなみに、現代の親権停止制度は、平成二十四年から施行されたものです」
「何だその未来の知識は」
「今の法律を理解するための比較です!」
「便利な言い訳だな」
私は笑いました。
しかし。
この改正の意味は、重要です。
親権を完全に失わせるほどではない。
でも、一定期間、親権を行使させると子供の利益が害される。
そんな場合に、より柔軟な対応を可能にするため、親権停止という制度が設けられたのです。
「なるほど……」
私は頷きました。
「子供を守るための選択肢が増えたんですね」
所長が言いました。
「制度は、必要に応じて見直される」
「はい」
私はノートに書きました。
――親権喪失と親権停止は別。昭和六十三年には親権停止制度はない。
よし。
これなら間違えません。
「でも、所長」
私は続けました。
「親権全部を失わせなくても、財産管理だけを問題にできる制度がありますよね」
「ある」
私は大きく書きました。
――民法八百三十五条・管理権喪失。
親権には。
身上監護。
財産管理。
大きく二つの側面があります。
だから。
親として子供の生活を守ることはできても。
財産管理について重大な問題がある。
そんな場合があります。
「美咲ちゃんの事件みたいですね」
「そうだな」
「父親は工場を守ろうとして、娘の土地を危険にさらした」
「ああ」
「でも、それだけで直ちに親権全部を失わせるべきかどうかは、別問題です」
「そうだ」
私は頷きました。
昭和六十三年にも、管理権喪失の制度はあります。
当時の民法八百三十五条では、財産の管理が失当であったことによって子供の財産を危うくした場合について、管理権喪失の宣告が問題になります。
現代では、管理権の行使が困難または不適当であることによって子の利益を害するときに、管理権喪失の審判をする制度として整理されています。
「つまり、財産管理だけを切り離して問題にできるんですね」
「そうだ」
「子供の財産を守るために」
「ああ」
私は少し考えました。
「でも、美咲ちゃんの場合、父親の管理権を当然に失わせることができるわけではありませんよね」
「もちろんだ」
所長が言いました。
「家庭裁判所が、具体的な事情を判断する」
「はい」
「一度の行為を知っただけで、親権喪失や管理権喪失を断定するな」
私は頷きました。
法律は。
子供を守る制度であると同時に。
親子関係に重大な影響を与える制度でもあります。
だからこそ。
慎重な判断が必要なのです。
「……そうですね」
私はノートに書きました。
――親権喪失は親権全体、管理権喪失は財産管理の権限が問題となる。
ここ。
試験では必ず区別したいところです。
「では、最後に確認問題だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「親権者は、子供の財産を自由に自分のものにできるか?」
「できません!」
「親権者は、子供の財産を管理できるか?」
「できます!」
「親権者が、自分の借金の担保として子供の土地に抵当権を設定する場合は?」
「典型的な利益相反行為です!」
「必要な手続は?」
「家庭裁判所に特別代理人の選任を請求します!」
「特別代理人を選ばずに親権者が契約したら?」
「無権代理となり、適法な追認がなければ子供に効力を生じません!」
「利益相反行為かどうかは、親の気持ちだけで決まるか?」
「いいえ! 法律行為の外形から、客観的に判断します!」
「よし」
私は拳を握りました。
完璧。
少なくとも。
今回の事件については、もう迷いません。
「じゃあ、もう一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「親権者が子供二人を代理して、二人の利益が相反する遺産分割協議をする場合は?」
「民法八百二十六条二項です! 一方の子供のために特別代理人が必要になります!」
「正解」
私は笑いました。
でも。
そこで片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「父親が、自分の借金のために娘の土地を担保に入れる。だが父親は、その借入金を娘の教育費に使うつもりだった。利益相反になるか」
私は迷いませんでした。
「なります!」
「理由は?」
「借金の債務者が父親本人で、担保に出すのが娘の土地だからです。親権者の動機だけで決まるわけではありません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
ただし。
そこで一つ、別の疑問が浮かびました。
「所長」
「何だ」
「もし娘自身が借金の債務者で、その娘の土地を担保にした場合はどうなんですか?」
所長は少し考えてから答えました。
「契約の構造が違う」
「はい」
「それだけで当然に利益相反とはいえない。誰の債務か、誰の利益と危険が法律行為に現れているかを見なければならん」
私は頷きました。
なるほど。
親が代理しているから利益相反。
子供の財産を担保にしているから必ず利益相反。
そんな単純な話ではありません。
大切なのは。
契約の外形と、権利義務の関係を正確に見ること。
「……これ、深いですね」
「やっと分かったか」
「分かってます!」
私は笑いました。
でも本当に。
民法八百二十六条。
短い条文なのに。
ここまで考えることがあるなんて。
受験生の頃は、思ってもいませんでした。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを最初から見直しました。
親権者。
身上監護。
居所の指定。
職業の許可。
財産管理。
利益相反。
特別代理人。
親権喪失。
管理権喪失。
たくさんの言葉。
たくさんの条文。
でも。
昨日の事件を思い出せば、すべてがつながります。
美咲ちゃん。
十歳。
おばあちゃんから残された家。
それを。
父親が、自分の借金の担保にしようとした。
黒岩金融は言いました。
「親権者の署名があるから、契約は有効だ」
でも。
民法は、そこで立ち止まらせました。
親権者であっても。
子供の利益と自分の利益がぶつかる場面では、単独で子供を代表してはいけない。
そのために。
特別代理人という制度がある。
「……所長」
私は言いました。
「昨日の事件って、すごく親権らしい事件だったんですね」
「そうか」
「はい」
私は続けました。
「親権者だからこそ、子供の財産を管理できる」
「うん」
「でも、親権者だからこそ、勝手にやってはいけないこともある」
「そうだ」
「親の権利と、子供の利益がぶつかったときに、法律が子供を守る」
所長が頷きました。
「それが大事だ」
私は最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――親権は「子を守るための権限」。親子の利益がぶつかるときは、特別代理人が子の利益を守る。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
あの家を思い出せばいい。
古い平屋。
柿の木。
縁側。
おばあちゃんの写真。
そして。
その家を守りたいと願った、十歳の女の子。
親権。
難しい言葉です。
でも。
その意味を理解できるだけで、守れるものがあります。
子供の財産。
子供の生活。
子供の未来。
そういうものです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「床も掃け」
「……また掃除ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私には、まだ十八歳という設定があります」
「設定って何だ」
「あ、いえ、その……十八歳です!」
「ああ」
「昭和六十三年では、成年年齢は二十歳ですよね」
「そうだな」
「つまり、私は未成年者です!」
相馬先輩が眉を上げました。
「それがどうした」
「未成年者には保護が必要です!」
「そうだな」
「だから、掃除をさせるのは――」
「親権の話と関係ねえだろ!」
「……ですよね」
私はしょんぼりしました。
でも。
そこで、もう一つ思いつきました。
「じゃあ先輩!」
「今度は何だ!」
「私と先輩の利益が相反しています!」
「は?」
「先輩は掃除をしたくない!」
「ああ」
「私も掃除をしたくない!」
「そうだな」
「だから、特別代理人を選任すべきです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「馬鹿言え!」
「何でですか!」
「俺はお前の親権者じゃねえ!」
「……あ」
「しかも、二人とも掃除したくねえだけだろ!」
「確かに……」
私は頭を抱えました。
利益相反行為。
親権者と子供の利益がぶつかる場合。
または、同じ親権者のもとにいる子供同士の利益がぶつかる場合。
そこに特別代理人が必要になる。
単に。
掃除をしたくない二人の意見が一致しているだけでは。
もちろん、関係ありません。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい!」
「掃除を頼む」
「……はい」
私は箒を手に取りました。
相馬先輩がにやにや笑っています。
「ほらな」
「何ですか!」
「法律を覚えたからって、掃除が消えるわけじゃねえ」
「分かってます!」
私は床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
美咲ちゃんは、今日もおばあちゃんの写真を見ているのでしょう。
そして。
いつか大人になったとき。
あの家をどうするか。
自分で決める日が来る。
その日まで。
子供の財産を守る。
それが、親権という制度の大切な役割なのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――親権は「子を守るための権限」。親子の利益がぶつかるときは、特別代理人が子の利益を守る。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私は、子供の利益を守る制度を学んだんです!」
「ああ!」
「だから、未成年者である私の利益も守ってください!」
相馬先輩は、少し考えました。
そして。
「分かった」
「本当ですか!」
「ああ」
先輩は箒を指差しました。
「掃除が終わったら、休憩していいぞ」
「……!」
「未成年者の健康には配慮しねえとな」
「先輩!」
「何だ!」
「それ、ただの通常業務じゃないですか!」
「そうだよ!」
私は思わず笑いました。
なるほど。
親権とは。
親が何でも決められる権利ではない。
そして。
未成年者だからといって、何でも希望どおりになるわけでもない。
大切なのは。
誰の利益を守るための権限なのか。
その権限を、正しく使っているのか。
そこを見極めることなのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日の民法も、なかなか手強いものでした。
でも。
たった一つの条文が。
十歳の女の子の未来を守ったことを。
私は、きっと一生忘れないと思います。
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