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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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563/701

[民法・親権]現場編 「親なんだから子供の財産は自由にできる」の嘘。娘の土地を借金の担保にした父親と、特別代理人という見えない壁

挿絵(By みてみん)

 親だからといって、子供のものまで自分のものになるわけではありません。


 たとえば。


 十歳の娘が、おばあちゃんから土地を相続したとします。


 その土地を。


 父親が、自分の借金の担保に差し出したら。


 それは許されるのでしょうか。


「親権者だから、俺が決める」


 そう言って。


 娘の名前の横に、勝手にハンコを押したら。


 契約は有効になるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は思い知ることになります。


 親権とは。


 親が子供を支配するための権利ではない。


 子供を守るために、親に預けられた権限なのだと。


 そして。


 その権限は、親自身の利益のために使おうとした瞬間。


 恐ろしく鋭い法律の壁にぶつかることがあるのです。


「姪の土地が、取られてしまうかもしれないんです!」


 朝九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 入ってきたのは、三十代半ばの女性。


 その後ろに、小さな女の子。


 女の子は、古びた布製の鞄を胸に抱いていました。


「落ち着いてください」


 私は椅子を勧めました。


「まず、お名前を」


「高瀬由紀子といいます」


 三十五歳。


 地元の洋品店に勤めているそうです。


「こちらは?」


「姪の美咲です。十歳です」


 高瀬美咲ちゃん。


 小学四年生。


 俯いたまま、鞄をぎゅっと抱えています。


「それで、土地というのは?」


 由紀子さんが、一通の封筒を差し出しました。


「これを見てください」


 中から出てきたのは。


 金銭消費貸借契約書。


 そして。


 抵当権設定契約書。


 私は目を通しました。


 債務者。


 高瀬修一。


 借入金額。


 六百万円。


 債権者。


 黒岩金融株式会社。


 担保物件。


 湖西市内の宅地。


 所有者。


 高瀬美咲。


 ……。


 私は手を止めました。


「美咲ちゃんの名前が……」


「そうなんです!」


 由紀子さんが身を乗り出しました。


「義理の兄が、自分の借金のために、この子の土地を担保に入れようとしているんです!」


 私はもう一度、契約書を見ました。


 借金をしたのは父親。


 土地の所有者は娘。


 しかも。


 娘は十歳。


「お父さんが、勝手に?」


「はい」


「お母さんは?」


 由紀子さんの表情が曇りました。


「姉は、三年前に亡くなりました」


「あ……」


 美咲ちゃんが小さく言いました。


「お母さん、病気だったの」


「そうだったんだね」


「うん」


 私は声を落としました。


「土地は、どうして美咲ちゃんの名義になっているの?」


「おばあちゃんが、くれたの」


 美咲ちゃんは鞄を開きました。


 取り出したのは、一枚の写真。


 小さな平屋。


 庭には柿の木。


 縁側に、おばあさんと女の子が並んで座っています。


「ここね、おばあちゃんのお家」


 美咲ちゃんが言いました。


「おばあちゃんが死んじゃう前に、私に残してくれたの」


 由紀子さんが説明を続けます。


「母は遺言を残していたんです。あの土地と家を、美咲に遺贈するって」


「なるほど……」


「手続は済んでいます。登記も美咲の名義になっています」


 私は頷きました。


 つまり。


 土地は、正真正銘、美咲ちゃんの財産。


 父親のものではありません。


「それなのに……」


 由紀子さんが唇を噛みました。


「義兄は事業に失敗して、六百万円の借金を作ったんです」


「それで?」


「借金を返せなければ、この子の土地を差し押さえるような話になっているらしくて」


 私は抵当権設定契約書を見つめました。


 娘の土地。


 父親の借金。


 そして抵当権。


 嫌な組み合わせです。


「お父さんは、何と?」


「親権者なんだから、子供の財産をどう使おうが俺の勝手だ、と」


 ……。


 私はゆっくり顔を上げました。


「今、何と?」


「親権者だから、自由にできるって」


 その瞬間。


 頭の中で、民法の条文が開きました。


 親権。


 身上監護権。


 財産管理権。


 利益相反行為。


 そして。


 特別代理人。


 私は思わず立ち上がりました。


「由紀子さん!」


「は、はい!」


「それ、重大な問題があります!」


「本当ですか?」


「はい!」


 私は勢いよく言いました。


「親権者だからって、子供の財産を自分の借金の担保にしていいわけじゃありません!」


 美咲ちゃんが顔を上げました。


「じゃあ……」


「うん?」


「おばあちゃんのお家、なくならない?」


 私は答えようとしました。


 でも。


 そこで相馬先輩が口を挟みました。


「こはる」


「はい?」


「まだ安心させるな」


「え?」


「契約書だけじゃ分からねえことがある」


 先輩は書類を手に取りました。


「登記はどうなってる」


「登記?」


「抵当権の登記だよ。もう設定されたのか、これからなのか」


 由紀子さんが答えました。


「黒岩金融から、三日後に法務局で手続をすると言われたそうです」


「なるほど」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、まだ間に合う可能性がある」


 私は胸を撫で下ろしかけました。


 しかし。


「ただし、こいつは少し厄介だ」


 先輩が契約書の署名欄を指差しました。


 そこには。


 高瀬美咲。


 法定代理人親権者。


 高瀬修一。


 そう記載されています。


 さらに。


 父親の署名押印。


「美咲ちゃん本人の署名は?」


 私が聞くと、由紀子さんは首を横に振りました。


「ありません。義兄が全部書いたそうです」


「それなら!」


 私は勢いよく言いました。


「親権者が子供の財産を勝手に処分しているんですから、無権代理ですよね!」


「おい」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「はい?」


「いきなり結論を出すな」


「でも!」


「親権者には、子供の財産について法定代理権がある」


「あ……」


 そうでした。


 親権者。


 その権限には、子供の財産管理が含まれます。


 普通なら、親が子供に代わって契約することは認められる。


 だからこそ。


 今回のような事件は厄介なのです。


「問題はな」


 先輩が契約書を指で叩きました。


「その法定代理権を、誰の利益のために使ったかだ」


 私は息を呑みました。


 そこです。


 まさに。


 利益相反。


 親と子の利益が、ぶつかる場面。


「所長!」


 私は奥に向かって声を上げました。


「民法八百二十六条ですね!」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「そうだ」


 短い返事。


 でも。


 その一言で、私は確信しました。


 今回の戦い。


 鍵は、民法八百二十六条にあります。


「でも、親権って親の権利ですよね?」


 私は六法を開きながら尋ねました。


「子供の財産を管理する権限がありますよね?」


「ああ」


「じゃあ、どこまでならいいんですか?」


 相馬先輩が煙草をくわえました。


「子供のために使うなら、普通の財産管理だ」


「はい」


「だが、親の借金のために子供の土地を担保に入れるとなると話が違う」


「……利益相反」


「そうだ」


 私は六法を見ました。


 民法八百二十四条。


 親権を行う者は、子の財産を管理し、その財産に関する法律行為について子を代表する。


 つまり。


 親権者には財産管理権がある。


 でも。


 その権限が無制限というわけではありません。


「たとえば」


 相馬先輩が言いました。


「子供の預金を、子供の学用品を買うために使う」


「はい」


「これは普通の財産管理だ」


「そうですね」


「じゃあ、親が自分の借金を返すために、子供の預金を勝手に引き出す」


「それは駄目です!」


「だろ」


 私は頷きました。


「今回も同じですね」


「似てるが、さらに明確だ」


 先輩は抵当権設定契約書を持ち上げました。


「親の借金の担保として、子供の土地に抵当権を設定する。これは典型的な利益相反行為だ」


 私は思わず手を叩きました。


「だから特別代理人が必要なんですね!」


「そうだ」


 片桐所長が口を開きました。


「親権者が、そのまま子供を代表していい場面ではない」


 なるほど。


 親権者という立場があるからこそ、子供の代わりに契約できる。


 でも。


 親自身の利益が絡むときには。


 その親に、子供の利益を守る判断を任せられない。


 だから。


 第三者の目が必要になる。


「家庭裁判所で、特別代理人を選任してもらうんですね」


「そうだ」


 私はほっとしました。


 よし。


 ここまでは現代の民法と共通しています。


 今回こそ、未来の知識がそのまま役に立つ!


 ……と思ったのですが。


「それなら、親権停止の審判も検討できますよね!」


 私は勢いよく続けました。


「親権の行使が不適当で子供の利益を害している場合、二年以内の期間を定めて停止できますし!」


 相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。


「……何?」


「親権停止です!」


「何だ、それは」


「え?」


「親権を二年間停止する制度?」


「はい!」


 先輩はゆっくり六法を開きました。


「こはる」


「はい」


「民法八百三十四条の二を探してみろ」


「はい!」


 私はページをめくりました。


 八百三十四条。


 次。


 八百三十五条。


 ……。


 あれ?


「ない……」


「ねえだろ」


「……はい」


 しまった。


 未来の法律です。


 またやりました。


 現代では、親権停止制度があります。


 しかし。


 昭和六十三年には、まだありません。


 平成二十三年の法改正によって導入され、平成二十四年から施行される制度です。


 しかも。


 現代の親権喪失制度と、昭和の親権喪失制度では、条文の書き方も違います。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「この時代の八百三十四条を読んでみろ」


「はい……」


 私は六法を開き直しました。


 そこには。


 親権の濫用。


 著しい不行跡。


 そして。


 家庭裁判所による親権喪失の宣告。


 そうした古い制度が記されていました。


「……親権停止がない」


「そうだ」


「じゃあ、いきなり親権喪失を検討するんですか?」


「簡単に決めるな」


 所長が言いました。


「親権喪失は、親子関係に重大な影響を及ぼす」


「はい」


「一度の不適切な行為だけで、当然に認められるものではない」


 私は頷きました。


「しかも今回は、差し迫っているのは土地の担保設定です」


「そうだ」


「なら、まず利益相反行為そのものを止めることが重要ですね」


 所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく昭和に戻ってきたな」


「未来へ行ってたつもりはありません!」


「お前はときどき、存在しねえ制度を持ち出すからな」


「……すみません」


 危ない。


 民法は、昔と今で制度が違う。


 何度も学んできたはずなのに。


 また地雷を踏みました。


 でも。


 今回、一つ救いがあります。


 利益相反行為についての民法八百二十六条。


 この仕組みは、昭和六十三年にも存在している。


 つまり。


 ここでは、未来の制度を持ち込む必要がないのです。


 昭和の民法だけで。


 美咲ちゃんの財産を守れる可能性がある。


「所長!」


「何だ」


「特別代理人が選ばれていないことを確認しましょう!」


「うん」


「もし選任されていなければ、父親の代理権に重大な問題があります!」


「そうだ」


 所長は静かに言いました。


「まず事実を固めろ」


 私は頷きました。


 法律は、結論を急ぐほど危険です。


 でも。


 確認すべき場所が見えた瞬間。


 事件は、少しずつ動き始めるのです。


 翌日。


 私たちは由紀子さんから集めた資料を整理していました。


 土地の登記簿謄本。


 遺言書の写し。


 美咲ちゃんの戸籍謄本。


 父親の借入契約書。


 抵当権設定契約書。


 そして。


 由紀子さんが預かっていた黒岩金融からの通知。


 ――三日以内に抵当権設定登記に必要な書類を提出すること。


 ――提出なき場合には、債務者に対する期限の利益の取扱いを再検討する。


 私は思わず眉をひそめました。


「急がせていますね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「考える時間を与えたくねえんだろ」


「ひどい……」


「金融業者の名前が分かったな」


「黒岩金融株式会社」


「ああ」


 先輩は煙草を消しました。


「どうやら、なかなか評判の悪いところらしい」


「そうなんですか?」


「土地担保の貸付けを手広くやってる。借金を返せなくなった客の不動産を、安く手に入れようとするって話もある」


 私は契約書を見ました。


 六百万円。


 父親の事業資金。


 しかし。


 担保に入れようとしている土地と家は、美咲ちゃんのもの。


「お父さんは、どうしてこんなことを……」


 私は呟きました。


 由紀子さんが静かに答えました。


「義兄の工場が潰れそうなんです」


「工場?」


「町工場を経営しています。従業員が四人いて、支払日が迫っているらしくて」


「……そうですか」


「だから、子供の土地を担保にすれば、もう少し金を借りられると思ったみたいです」


 私は黙りました。


 父親にも事情はある。


 従業員を守りたい。


 工場を潰したくない。


 借金を返したい。


 その気持ちは、分からなくもありません。


 でも。


 それは、美咲ちゃんの財産を危険にさらしていい理由にはならない。


「所長」


 私は言いました。


「親権者には財産管理権があります。でも、今回の行為は子供のためとは言い難いですよね」


「そうだな」


「民法八百二十七条も関係しますよね」


 所長が頷きました。


 親権者の財産管理における注意義務。


 自己のためにするのと同一の注意。


 つまり。


 子供の財産だからといって、ぞんざいに管理していいわけではない。


 自分の財産を管理するのと同じように、注意を払う必要があるのです。


「ただし」


 所長が言いました。


「そこだけで争うな」


「え?」


「今回は、もっと明確な問題がある」


 私は一瞬考えました。


 そして。


「あ!」


 声を上げました。


「利益相反行為!」


「そうだ」


 民法八百二十六条。


 親と子の利益が相反する行為。


 その場合、特別代理人の選任が必要。


「所長、確認しました!」


 由紀子さんが一枚のメモを差し出しました。


「義兄に聞いたんです。特別代理人なんて知らないって」


「そうですか」


「家庭裁判所にも行っていないそうです」


 私は息を吸いました。


 これで。


 重大な事実が、一つ確定しました。


 父親は、特別代理人を選任しないまま。


 子供の土地を、自分の借金の担保に差し出そうとしている。


 しかも。


 相手は金融業者。


 ただの親戚同士の口約束ではありません。


 担保契約の法律問題を、知らなかったでは済まされない立場です。


「相馬先輩」


「何だ」


「この契約、親権者の署名押印があっても、そのまま有効にはならないですよね」


「ああ」


「判例でも、利益相反行為かどうかは、行為の外形から客観的に判断するんですよね」


「そうだ」


 先輩が頷きました。


 ここが重要です。


 父親が、


「娘のためにもなると思った」


 と説明したところで。


 父親自身の借金を担保するため、娘の土地に抵当権を設定する。


 そんな行為が、単なる通常の財産管理になるわけではありません。


「親の動機だけで決まるんじゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


「契約の形と内容を見ろ」


「はい!」


「債務者は誰だ」


「父親です」


「担保を出すのは?」


「娘です」


「借金を返せなかったら、誰の土地が危険になる」


「娘です」


「それで、誰の利益を守る契約だ」


 私は答えました。


「父親自身の借金を担保する契約です」


「そうだ」


 先輩が契約書を閉じました。


「相手が法律を知っているほど、この構造を説明できなくなる」


 私は思いました。


 なんて怖い条文なのでしょう。


 親権者だから契約できる。


 その理屈で押し通そうとしている相手に。


 親権者だからこそ、特別代理人が必要になる場面だ。


 そう突きつける。


 まるで。


 相手の使った鍵が、そのまま相手の手錠になるような話です。


「こんな契約、親がハンコを押せば十分なんだよ!」


 その日の午後。


 黒岩金融の社長、黒岩重蔵が事務所へ乗り込んできました。


 五十代後半。


 太い金の腕時計。


 黒い背広。


 そして、やたらと大きな声。


「行政書士が、うちの契約にケチをつけてるらしいな!」


 うわ。


 いきなり来ました。


 私は立ち上がりました。


「ケチではありません。法律上の問題です」


「何だと?」


 黒岩は鼻で笑いました。


「子供の財産は、親が管理するんだろ?」


「はい」


「だったら親が契約して何が悪い!」


 私は言い返そうとしました。


 でも。


 相馬先輩が手を上げました。


「こはる」


「はい」


「まず、相手の話を聞け」


 先輩は黒岩を見ました。


「確認ですが、高瀬修一さんの借金について、美咲さん所有の土地を担保に取る契約ですね」


「そうだ」


「修一さんが、親権者として署名押印した」


「ああ」


「特別代理人は?」


「何だそれ」


 私は思わず顔を上げました。


 黒岩は続けました。


「親がいるのに、何で他人が必要なんだよ!」


 相馬先輩は表情を変えません。


「家庭裁判所に選任を求めましたか」


「だから、必要ねえだろ!」


「なるほど」


 先輩はメモを取りました。


 それから。


「抵当権設定登記は、まだですか」


「ああ。三日後だ」


「承知しました」


 黒岩は机を叩きました。


「何が承知しましただ! 親が契約したんだから有効なんだよ!」


 私は思わず口を開きました。


「でも、民法八百二十六条では――」


「うるせえ!」


 黒岩が怒鳴りました。


「小娘が、法律を知ったような口を利くな!」


 ……。


 小娘。


 確かに私は十八歳です。


 しかも見習いです。


 でも。


 法律の条文は、年齢で変わりません。


「黒岩さん」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「お話は分かりました」


「おう」


「当事者から必要な確認をしたうえで、書面を整えます」


「書面?」


「はい」


「そんなもん送ってきても、契約は変わらねえぞ」


 所長は静かに答えました。


「契約の効力は、書面にどう書いたかだけでは決まりません」


 黒岩の眉が動きました。


「何?」


「法律が定める要件を満たしているかどうかです」


 一瞬。


 事務所が静かになりました。


 黒岩は舌打ちしました。


「好きにしろよ」


 そう言い残して、出ていきました。


 扉が閉まります。


 私は拳を握りました。


「所長!」


「何だ」


「あの人、絶対に分かってませんよ!」


「そうかもしれんな」


「親がハンコを押せば何でも有効だと思ってます!」


「そうだな」


「何とかしましょう!」


 相馬先輩が笑いました。


「もちろんだ」


 そして。


 例の台詞を口にしました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は頷きました。


 今度こそ。


 こちらの番です。


 事務所へ戻った私たちは、必要な書類を整理しました。


 まず。


 由紀子さん自身の名義で、黒岩金融に対する通知書を作る。


 彼女は美咲ちゃんの叔母ですが、親権者ではありません。


 だから。


 叔母が当然に美咲ちゃんを代理して、契約を取り消したり、相手と和解したりできるわけではない。


 ここは絶対に間違えてはいけません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「通知人の立場を明確にしろ」


「はい」


「由紀子さんは、姪の財産について重大な問題を知った親族として、事実と法的懸念を通知する」


「はい」


「本人に代わって、勝手に権利行使する書面にはするな」


「分かりました」


 私は頷きました。


 行政書士は弁護士ではありません。


 紛争の代理交渉を引き受けたり、裁判所で代理人として争ったりすることはできません。


 でも。


 依頼人の意思に基づく通知書や事実証明書類を、正確に作成することはできます。


 その書面に。


 法律を知らない相手が、簡単には無視できない事実を並べる。


 これが。


 片桐事務所の戦い方です。


「では、書きます!」


 私は原稿用紙を広げました。


 そして。


 一行目を書き始めました。


 ――通知書。


 ――通知人、高瀬由紀子。


 ――被通知人、黒岩金融株式会社代表取締役黒岩重蔵殿。


 私は深呼吸しました。


「第一。本件土地は、未成年者高瀬美咲の単独所有に属する」


「うん」


「第二。貴社は、高瀬修一を債務者とする金銭消費貸借契約の担保として、右土地に抵当権を設定する旨の契約書を作成している」


「続けろ」


「第三。右抵当権設定契約書には、美咲の法定代理人親権者として、高瀬修一の署名押印がある」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


「第四。しかし、修一は本件金銭消費貸借契約の債務者本人であり、美咲所有の土地を自己の債務の担保に供する行為は、親権者と子との利益が相反する行為に該当する」


 私はそこで顔を上げました。


「ここですね!」


「そうだ」


 先輩が言いました。


「相手が一番見たくねえ事実だ」


 私は続けました。


「第五。民法第八百二十六条第一項により、右利益相反行為については、家庭裁判所に特別代理人の選任を求める必要がある」


 そして。


「第六。本件について特別代理人の選任はなされておらず、修一が単独で美咲を代表してした抵当権設定行為は、代理権を欠く行為として、そのまま美咲に効力を及ぼすものではない」


 相馬先輩が言いました。


「ここ、判例も確認しておけ」


「はい!」


 私は資料を開きました。


 利益相反行為についての判例上の考え方。


 親権者と子の利益が相反するかどうかは、行為の外形から客観的に判断される。


 親権者が特別代理人を選任せずに利益相反行為をした場合、その代理行為は無権代理となる。


 そして。


 本人を適法に代表する者などによる追認がない限り、当然には本人に効力を生じない。


 私は鉛筆を止めました。


「先輩」


「何だ」


「これ、黒岩さんにとっては相当まずいですよね」


「ああ」


「担保として期待した土地について、抵当権の効力を主張できなくなる可能性があります」


「そうだ」


「それなのに登記まで進めたら……」


「後で無効を争われる危険がある」


 私は頷きました。


 ここです。


 黒岩金融が欲しいのは、有効な担保権。


 でも。


 子供の土地について、親権者の代理権に重大な欠陥がある。


 そんな契約では、安心して抵当権を実行することなどできません。


「所長」


「何だ」


「契約書にハンコがあっても、代理権がなければ駄目なんですね」


「そうだ」


「特別代理人が必要なのに、選任されていない」


「うん」


「つまり、相手の契約書そのものが、弱点になっている」


 所長が静かに言いました。


「書面の価値は、ハンコの数では決まらん」


 私は思わず笑いました。


「相馬先輩の名言と、ちょっと違いますね」


「うるせえ」


 先輩が笑いました。


「ハンコを押させるにも、法律上の権限が必要なんだよ」


 なるほど。


 まさに。


 そのとおりです。


 通知書は、まだ続きます。


 私は一行ずつ、丁寧に書きました。


 ――本件土地は、亡祖母の遺言によって美咲が取得した財産である。


 ――右土地の担保提供は、修一の個人的債務を担保するものであり、美咲がその債務を負担するものではない。


 ――ついては、本件抵当権設定契約について上記の法的問題が存在することを通知し、抵当権設定登記の申請を控えるよう求める。


 ――既に作成した関係書類の取扱いについて、書面による回答を求める。


 ――なお、本件については、子の利益を保護するため、親族による家庭裁判所への申立て及び弁護士への相談を検討している。


 私は読み終えました。


「……どうでしょう」


 片桐所長が原案を受け取りました。


 しばらく黙って読みます。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……来た。


「ここ」


「はい」


「『契約は絶対に無効であり、いかなる場合も有効にならない』」


「あ……」


「消せ」


 赤線。


「無権代理行為については、追認の問題がある」


「はい……」


「現時点で、本人を適法に代表する者の追認が確認されていない。その事実を正確に書け」


 なるほど。


 法律の書面では。


 断言しすぎるのも危険です。


 成立していないこと。


 確認できていないこと。


 今後の手続によって変わり得ること。


 それを区別しなければなりません。


「それから」


 所長が続けました。


「特別代理人が選任されれば、何でも契約できると考えるな」


「え?」


「特別代理人は、子の利益を守るために選ばれる」


「はい」


「親の都合に合わせて、子の財産を差し出すための飾りじゃない」


 私は息を呑みました。


 そうでした。


 特別代理人。


 それは、単に必要書類にハンコを押してくれる人ではありません。


 親と子の利益が衝突するからこそ。


 子供の立場で判断する人が必要になる。


「……所長」


「何だ」


「特別代理人って、親を助ける人じゃないんですね」


「ああ」


「子供を守る人なんですね」


「そうだ」


 私は原案を見直しました。


 利益相反。


 特別代理人。


 無権代理。


 どれも難しい法律用語です。


 でも。


 意味は、とても単純でした。


 自分の借金のために子供の財産を使いたい親が。


 子供の代わりに、


「はい、いいですよ」


 と決めてはいけない。


 それだけの話なのです。


 翌朝。


 由紀子さんに完成した文面を確認してもらいました。


 内容に納得した由紀子さんは、自分の名義で署名押印しました。


 そして。


 内容証明郵便として発送。


 相手は、黒岩金融株式会社。


 同じ日。


 由紀子さんは、美咲ちゃんの財産を守るため、家庭裁判所で必要な手続について相談することになりました。


 片桐所長は、弁護士への相談に必要な資料も整理しました。


 登記簿謄本。


 遺言書。


 契約書。


 父親の署名押印のある抵当権設定書類。


 特別代理人選任の手続がなされていないことに関する確認記録。


 すべて、一冊のファイルにまとめます。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「ここから先は、弁護士の仕事になる可能性がある」


「はい」


「だからこそ、資料をきっちり揃えろ」


「分かりました」


 私はファイルの背表紙に書きました。


 ――高瀬美咲・所有土地担保設定問題。


 そして。


 小さく。


 ――利益相反。


 と書き加えました。


 これが。


 今回の事件の核心です。


 内容証明が届いた翌日の午後。


 黒岩金融から電話がありました。


「……片桐行政書士事務所か」


 声を聞いた瞬間。


 私は分かりました。


 黒岩社長です。


 でも。


 昨日までの威勢は、どこかへ消えていました。


「はい、そうですが」


『あの書面……』


「はい」


『八百二十六条って、本当にそんな法律があるのか』


 ……。


 私は思わず受話器を握り直しました。


「ございます」


『親が子供の財産を担保に入れるのに、特別代理人が必要だって?』


「親と子の利益が相反する行為には、そうした規定があります」


 電話の向こうで、紙をめくる音がしました。


『……うちの顧問にも聞いた』


 私は黙りました。


『そしたら、まずいって言われた』


 黒岩の声が低くなりました。


『親の借金を子供の土地で担保するのは、典型的な利益相反だって』


 私は思わず奥を見ました。


 相馬先輩がこちらを見ています。


 私は受話器を押さえて、小さく言いました。


「先輩……!」


「何だ」


「効いてます!」


 先輩がにやりとしました。


 電話の向こうで黒岩が続けます。


『特別代理人がいないなら、父親が署名しただけじゃ、子供の土地に有効な抵当権を設定できないって……』


「はい」


『そんなの、聞いてねえぞ!』


 私は思いました。


 聞いていない。


 知らなかった。


 だから許される。


 そんな話にはなりません。


 黒岩は金融業者です。


 人の財産を担保に取る仕事をしている。


 なのに。


 担保を出す所有者が未成年者であること。


 債務者がその父親であること。


 その二つを見れば、利益相反の問題は当然に検討しなければならなかった。


 法律は。


 知らなかった人を、いつでも救ってくれるわけではありません。


『……抵当権の登記は、やめる』


 黒岩が言いました。


 私は息を呑みました。


「そうですか」


『この契約は、このままじゃ使えねえんだろ』


 私は慎重に答えました。


「その点については、送付された通知書のとおり、重大な法的問題があります」


『……分かった』


 黒岩は一度、黙りました。


 そして。


『土地を担保に取る話は撤回する。修一の借金は、修一本人と別に話をする』


 私は頷きました。


「その内容は、当事者に書面でお伝えください」


『……ああ』


 電話が切れました。


 私はゆっくり受話器を置きました。


 そして。


「所長!」


 思わず叫びました。


「黒岩金融、抵当権設定をやめるそうです!」


 片桐所長が顔を上げました。


「そうか」


「はい!」


「書面は?」


「あっ」


 私は止まりました。


「……まだです」


「なら、確認しろ」


 相馬先輩が笑いました。


「言ったろ」


「はい……」


「電話で降参したからって、仕事は終わりじゃねえ」


 そうです。


 大切なのは。


 実際に何が行われたか。


 そして。


 何が書面に残ったか。


 法律の世界では、最後まで確認が必要なのです。


 二日後。


 黒岩金融から、由紀子さん宛てに書面が届きました。


 内容は、明確でした。


 ――本件土地について、抵当権設定登記の申請を行わない。


 ――高瀬美咲所有の土地を担保とする取扱いは撤回する。


 ――本件抵当権設定契約書に基づき、美咲に対して担保権を主張しない。


 ――関係書類は、作成経緯を確認のうえ返還する。


 黒岩重蔵。


 署名。


 社印。


 私はその書面を見つめました。


「……本当に、やめたんですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「抵当権設定登記も、申請されていないことを確認した」


「よかった……!」


 由紀子さんが目元を押さえました。


 でも。


 そこで終わりではありませんでした。


「お父さんは?」


 私は尋ねました。


 由紀子さんの表情が曇ります。


「義兄も、ようやく自分がしたことの重大さを分かったみたいです」


「そうですか」


「黒岩金融から、担保として使えないと連絡を受けたそうです」


 由紀子さんは続けました。


「それで……私に電話してきたんです」


「何と?」


「美咲に、悪いことをしたって」


 私は黙りました。


「工場を守りたかった。従業員を路頭に迷わせたくなかった。でも、だからって、美咲からおばあちゃんの家を奪っていいわけじゃなかったって」


 由紀子さんは、小さく息を吐きました。


「本当に反省しているのかは、まだ分かりません」


 私は頷きました。


 そのとおりです。


 親が謝った。


 それだけで、すべてが解決するわけではありません。


 親権は。


 子供の利益を守るための権限です。


 その権限を使って、子供の財産を危険にさらした事実は消えません。


「由紀子さん」


 片桐所長が言いました。


「今後の財産管理については、慎重に考える必要があります」


「はい」


「親権の喪失や管理権の喪失が問題になる場合もあります。ただし、家庭裁判所が個別の事情に基づいて判断することです」


「分かっています」


「今回の資料は、引き続き保管してください」


「はい」


 由紀子さんは、深く頭を下げました。


「ありがとうございました」


 私は微笑みました。


「美咲ちゃんの土地が守れて、本当によかったです」


 そのとき。


 美咲ちゃんが、私の袖を引っ張りました。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「お父さんって、悪い人なの?」


 ……。


 私は言葉に詰まりました。


 難しい質問です。


 父親。


 子供を育てる人。


 子供を守る人。


 でも。


 その父親が、子供の財産を勝手に使おうとした。


 私は少し考えてから答えました。


「美咲ちゃん」


「うん」


「お父さんが、美咲ちゃんのことを大事に思っているかどうかは、私には全部は分からない」


「……うん」


「でもね」


 私は目線を合わせました。


「今回、お父さんがしたことは、間違っていたと思う」


 美咲ちゃんは俯きました。


「そっか」


「うん」


「でも、お父さん、工場を守りたかったんだって」


「そうだね」


「だから、私のお家を使おうとしたんだって」


「うん」


 私は頷きました。


「でもね、美咲ちゃん」


「なあに?」


「お父さんが困っていることと、美咲ちゃんの大切なものを勝手に使っていいことは、別なんだよ」


 美咲ちゃんは、少し考えました。


 そして。


「……おばあちゃんのお家は、私のものなんだよね?」


「そうだよ」


「お父さんのものじゃないんだよね?」


「うん」


「じゃあ、私が守っていいんだよね?」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は胸が熱くなりました。


「もちろん」


 私は答えました。


「美咲ちゃんが、大切にしていいものだよ」


 女の子は、ぎゅっと鞄を抱きました。


 中には、例の写真。


 おばあちゃんと、柿の木。


 そして、小さな平屋。


「よかった……」


 小さな声。


 でも。


 その声は、はっきり聞こえました。


「おばあちゃんのお家、なくならなくてよかった」


 私は微笑みました。


「本当によかったね」


 美咲ちゃんは、ようやく笑いました。


 その日の夕方。


 私は机に向かっていました。


 目の前には、民法の六法。


 開いているのは。


 八百十八条。


 八百十九条。


 八百二十条。


 八百二十四条。


 そして。


 八百二十六条。


「……親権って、難しいですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「親の権利って書いてあるのに、親の好き勝手にはできないんですよ」


「当たり前だろ」


「でも、名前だけ見ると、親が強い権利を持っているみたいじゃないですか」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「権利ってのは、誰のためにあるかが大事なんだよ」


「誰のために……」


「ああ」


 先輩は続けました。


「親権者には、子供を監護して教育する権利と義務がある」


「はい」


「子供の財産を管理する権限もある」


「はい」


「でも、それは子供を食い物にしていいって意味じゃねえ」


 私は頷きました。


 そのとおりです。


 親権。


 身上監護権。


 財産管理権。


 名前は難しい。


 でも。


 その中心にいるのは、親ではありません。


 子供です。


「所長」


 私は奥に向かって声をかけました。


「今回、もし父親がちゃんと特別代理人を選任していたら、どうなっていたんでしょう」


 片桐所長が顔を上げました。


「それでも、当然に担保設定が認められるわけではない」


「はい」


「特別代理人が、子供の利益を考えて判断する」


「なるほど……」


「必要なのは、親の都合を通すための形式ではない」


 私は頷きました。


 親が子供の代わりに契約する。


 それは、普通なら認められる。


 でも。


 親自身の利益と、子供の利益がぶつかるとき。


 親に判断を任せてはいけない。


 だから。


 特別代理人。


 その制度が必要になる。


「……すごいですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「親権者の権限って、ものすごく強いのに」


「ああ」


「その親権者自身が子供の利益を害するおそれがあるときには、ちゃんと制限があるんですね」


 所長が頷きました。


「親権は、親の所有権ではないからな」


 私は思わず顔を上げました。


 その一言。


 ものすごく、しっくりきました。


 親の所有権ではない。


 子供を自分のものとして扱う権利ではない。


 子供のために行使する、権限と義務。


 そう考えれば。


 すべてがつながります。


 監護。


 教育。


 居所の指定。


 職業の許可。


 財産管理。


 利益相反。


 そして。


 親権の喪失や管理権の喪失。


 どれも。


 子供の利益を守るという考え方につながっているのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「親権者が、子供のために契約するとき、何でも自由に決められると思うか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「今回の事件で、よく分かりました!」


「じゃあ、もう一問」


「はい!」


「親権者が、子供に借金を返済させるために、自分の利益になる契約をする。どうだ?」


「利益相反行為に当たるか、契約内容を確認します!」


「よし」


「当たるなら、特別代理人の選任が必要です!」


「そうだ」


 私は得意になりました。


「完璧です!」


「じゃあ、最後」


「はい!」


「子供が二人いて、兄と弟の利益がぶつかる遺産分割を、同じ親権者が二人とも代理してやろうとしたら?」


 ……。


 私は止まりました。


「え?」


「兄と弟だ」


「はい」


「同じ親権者だ」


「はい」


「だが、取り分について二人の利益が対立する」


 私は考えました。


 親と子の利益相反。


 それは分かる。


 でも。


 子供同士の利益相反?


「……あ!」


 私は六法を開きました。


 民法八百二十六条。


 第二項。


「あります!」


「何がだ」


「数人の子供の間で利益が相反する場合にも、特別代理人が必要になるんです!」


「そうだ」


 私は思わず机を叩きました。


「つまり!」


「うん」


「親と子だけじゃない!」


「そうだ」


「兄弟同士でも、親権者が同じなら、利益相反の問題が起こる!」


「正解」


 相馬先輩が笑いました。


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 書きたいことは山ほどあります。


 でも。


 一行にまとめるなら。


 私は鉛筆を走らせました。


 ――親権は親のための特権ではなく、子の利益を守るための権限。利益がぶつかるときは、特別代理人が必要になる。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「長えな」


 相馬先輩が言いました。


「一行です!」


「字が小せえだけだろ」


「いいんです!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 美咲ちゃん。


 十歳。


 おばあちゃんから残された土地。


 父親の借金。


 黒岩金融の抵当権。


 そして。


 民法八百二十六条。


 たった一つの条文が。


 親権者のハンコを盾にした金融業者の自信を、根底から崩しました。


 法律は。


 親だから正しいとは言いません。


 大人だから正しいとも言いません。


 お金を貸した人が強いとも言いません。


 誰の利益が守られるべきなのか。


 誰が、誰のために判断する資格を持つのか。


 そこを問い直すのです。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯り始めました。


 あのどこかで。


 美咲ちゃんは、おばあちゃんの写真を見ているのでしょう。


 柿の木のある庭。


 古い縁側。


 もう会えないおばあちゃん。


 その思い出を、守ることができた。


 私は静かに六法を閉じました。


 ……と。


「こはる!」


 相馬先輩が声を上げました。


「はい!」


「また相談だ」


「え?」


「今度は、離婚した夫婦の親権争いだとよ」


 私は顔を上げました。


「離婚ですか?」


「ああ」


「協議離婚?」


「そうらしい」


「親権者は、どちらに?」


「それで揉めてるんだよ」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「なら、共同親権にすれば――」


 そこまで言って。


 止まりました。


 ……。


 しまった。


 また。


 未来の制度です。


 昭和六十三年。


 婚姻中の父母は、原則として共同で親権を行使します。


 でも。


 離婚後の親権については、現代の改正された制度をそのまま持ち込むことはできません。


 この時代の民法八百十九条では。


 離婚する場合、父母の一方を親権者として定めなければならないのです。


「……先輩」


「何だ」


「昭和六十三年って、やっぱり厳しいですね」


「何の話だ」


「いえ、こちらの話です」


 私は慌てて相談票を取りました。


 親権。


 一つの言葉なのに。


 婚姻中。


 離婚後。


 身上監護。


 財産管理。


 利益相反。


 親権喪失。


 管理権喪失。


 考えることが、こんなにもある。


 でも。


 どんな場面でも、忘れてはいけないことがあります。


 親権は。


 親が勝つための権利ではない。


 子供を守るための制度なのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、親権って言葉の意味が、やっと分かった気がします!」


「ほう」


「親の権利と書くけど、中心にいるのは子供なんですね!」


 先輩は少しだけ笑いました。


「まあな」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を学んだ」


 私は迷わず答えました。


「親権者だからといって、子供の財産を好き勝手に処分できるわけではありません!」


「うん」


「親と子の利益がぶつかるときには、特別代理人が必要になります!」


「そうだ」


「そして、子供を守ることが、親権という制度の根本なんですね!」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はもう一度、ノートを見ました。


 ――親権は親のための特権ではなく、子の利益を守るための権限。利益がぶつかるときは、特別代理人が必要になる。


 よし。


 忘れません。


 だって。


 美咲ちゃんのおばあちゃんの家が、教えてくれたのですから。


 親だから。


 家族だから。


 子供のためだから。


 そんな言葉だけで。


 子供の財産を、勝手に差し出してはいけない。


 そして。


 その当たり前のことを守るために。


 民法は、親権者にさえ「待った」をかけることができるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日もまた。


 一枚の内容証明が、誰かの暮らしを守りました。


 守ったのは、土地だけではありません。


 そこに残された。


 おばあちゃんの笑顔と。


 十歳の女の子が、これから生きていくための大切な居場所でした。

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