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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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561/701

[特別養子縁組]現場編 「産んだ母親が返せと言えば、返すしかない」の嘘。六歳の誕生日まであと十二日――実母の脅迫と、親子の未来を守る家庭裁判所の審判

挿絵(By みてみん)

 子供を産んだ人と、子供を育てた人。


 どちらが、本当の親なのでしょうか。


 血のつながりでしょうか。


 それとも。


 熱を出した夜に、一晩中背中をさすってくれた手でしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、一枚の出生届よりも重いものを見ました。


 それは。


 五歳の女の子が、毎日「お母さん」と呼んでいる女性の手を、絶対に離そうとしない姿でした。


 そして私は、まだ知りませんでした。


 昭和六十三年に始まったばかりの新しい養子縁組制度が。


 その小さな手を守るための、最後の希望になることを。


「娘を、連れていかれるかもしれないんです」


 午前九時。


 事務所の扉を開けた女性は、そう言いました。


 三十歳くらい。


 髪をきちんと結んでいますが、目の下には濃い隈があります。


 隣には、背広姿の男性。


 そして。


 女性のスカートを握っている、小さな女の子がいました。


「……娘さんですか?」


 私が聞くと、女性は頷きかけて、言葉を止めました。


「はい。でも……」


「でも?」


「戸籍の上では、まだ、私たちの娘じゃないんです」


 私は椅子を勧めました。


 女性の名前は、藤沢美和子さん。


 三十二歳。


 夫は藤沢修一さん。


 三十五歳。


 二人は町外れで小さなパン屋を営んでいます。


 そして女の子は。


「名前、教えてくれる?」


 私がしゃがんで聞くと、女の子は美和子さんの後ろに隠れました。


「……ゆき」


「ゆきちゃん?」


「うん」


 小さな声。


 でも、可愛い名前です。


「何歳?」


「五歳」


「そうなんだ」


「もうすぐ六歳」


 ゆきちゃんが指を六本立てようとして、片手では足りないことに気づきました。


 私は思わず笑いました。


「六歳になるんだね」


「うん!」


 その瞬間。


 美和子さんの表情が曇りました。


 ……え?


 六歳の誕生日。


 普通なら、お祝いする話です。


 どうして。


 そんな顔をするのでしょうか。


「先生」


 修一さんが口を開きました。


「この子が六歳になるまで、あと十二日しかないんです」


「十二日?」


「その前に、どうしても片づけなければならないことがあって……」


 修一さんは、鞄から一通の封筒を取り出しました。


 差出人。


 小野寺千鶴。


 ゆきちゃんの実母。


 私は中の手紙を読みました。


 そして。


 思わず、息を止めました。


 ――ゆきを返してください。


 ――私は実の母親です。


 ――あなたたちには血のつながりがありません。


 ――正式な養子縁組もしていない以上、親を名乗る資格はないはずです。


 ――どうしても今の生活を続けたいのであれば、これまでの養育に関する謝礼として百五十万円を用意してください。


 ――支払わない場合、ゆきの引渡しを求める手続を取ります。


 ……。


 私は手紙を二度読みました。


「百五十万円?」


「はい」


「養育の謝礼?」


「そう書いてあります」


 おかしい。


 何かが、おかしい。


 普通、子供を預けて育ててもらった側が、養育していた人に謝礼を払うなら、まだ言葉の意味は分かります。


 でも。


 育ててもらった子供を返せ。


 返してほしくなければ金を払え。


 これは、何でしょう。


「美和子さん。ゆきちゃんは、いつから一緒に暮らしているんですか?」


「生後四か月の頃からです」


「……え?」


「もう五年以上になります」


 私はゆきちゃんを見ました。


 五歳。


 つまり。


 物心つく前から、ずっと藤沢家で暮らしている。


「実のお母さんは?」


 私が聞くと、美和子さんはゆっくり答えました。


「千鶴さんは、知人の紹介で知り合った方です。出産したあと、生活が苦しくなって……」


 当時、千鶴さんは十九歳。


 父親とは別れており、育児を続けることが難しくなったそうです。


 親族にも頼れず。


 児童相談所に相談した時期もあった。


 そして。


 藤沢夫妻が、関係者と相談しながら、ゆきちゃんを引き取ることになった。


「最初は、一時的に預かるつもりでした」


 修一さんが言いました。


「でも千鶴さんは、その後も引き取りに来なかったんです」


「連絡は?」


「たまにありました。でも、娘に会いたいというより、お金に困っているという話が多くて」


 美和子さんが続けました。


「それで、私たち……この子を正式に養子にしたいと思うようになったんです」


「なるほど」


「去年、千鶴さんにも話しました。最初は賛成してくれました」


「それが?」


「先月から、急に百五十万円を要求するようになって……」


 美和子さんは、ゆきちゃんの髪を撫でました。


「この子は、私のことをお母さんって呼びます」


「はい」


「主人のことも、お父さんって」


「はい」


「それなのに……」


 声が震えました。


「お金が払えなかったら、明日から他人になるんでしょうか」


 私は何も言えませんでした。


 ゆきちゃんは事情が分からない様子で、美和子さんを見上げています。


「お母さん」


「なあに?」


「帰ったら、パン食べたい」


「……うん」


「クリームパン」


「うん。作ろうね」


 美和子さんは笑いました。


 泣きながら。


 私は思いました。


 この親子を。


 お金の話だけで引き離していいはずがありません。


「大丈夫です!」


 私は思わず立ち上がりました。


「特別養子縁組があります!」


 修一さんが顔を上げました。


「特別養子縁組?」


「はい!」


 来ました。


 民法。


 親族法。


 特別養子縁組。


 現代の行政書士試験でも重要な論点です。


 普通養子縁組と違って、実の親との法律上の親族関係を終了させ、新しい親との安定した親子関係を作る制度。


 まさに今回の事件にぴったりです。


「しかも、ゆきちゃんは五歳です。年齢も十分に要件を満たしています!」


「本当ですか!」


「はい! 現代の民法では、原則として十五歳未満なら――」


「待て」


 背後から、低い声。


 相馬先輩でした。


「……はい?」


「今、何歳って言った」


「十五歳未満です」


「何の話だ」


「特別養子縁組の年齢要件です」


「……お前な」


 先輩が六法を机に置きました。


「どこの国の法律を読んでるんだ?」


「日本の民法ですが?」


「昭和六十三年の日本か?」


 ……。


 あ。


 私は固まりました。


 そうでした。


 ここは昭和六十三年。


 私の頭の中にあるのは、令和の改正民法。


 そして。


 特別養子縁組の年齢要件は、後の法改正で大きく変わっています。


「こはる」


 片桐所長が奥から声をかけました。


「条文を見ろ」


「はい……」


 私は六法を開きました。


 民法第八百十七条の五。


 そして、そこに書かれた数字を見ました。


 六歳。


 ……。


 六歳!?


「ええええっ!?」


 私は思わず声を上げました。


 ゆきちゃんがびっくりして、美和子さんの後ろに隠れます。


「ご、ごめんね!」


 相馬先輩が額を押さえました。


「客の前で叫ぶな」


「だ、だって先輩!」


「何だ」


「六歳未満!?」


「そうだ」


「十五歳未満じゃなくて!?」


「何で十五歳が出てくるんだよ」


 未来の民法です。


 もちろん言えません。


 私は慌てて条文を確認しました。


 昭和六十三年。


 特別養子縁組の対象となる子供は、原則として六歳未満。


 ただし。


 六歳になる前から養親になる人に引き続き育てられている場合には、八歳未満まで例外がある。


 つまり。


「先輩!」


「何だ」


「ゆきちゃんは生後四か月から藤沢さんたちに育てられています!」


「そうだな」


「じゃあ、六歳になっても例外に該当する可能性があります!」


「ある」


 私は胸を撫で下ろしました。


「よかった……」


「ただしな」


 相馬先輩が指を立てました。


「六歳未満と、八歳未満。どちらも無制限じゃねえ。六歳前から引き続き監護されていたか、資料で確認する必要がある」


「はい」


「それから、今回もう一つ大事なことがある」


「何でしょう」


「この制度は、今年始まったばかりだ」


 ……え?


 私は瞬きしました。


「今年?」


「ああ」


 片桐所長が静かに言いました。


「昭和六十三年一月一日から施行された制度だ」


 私は六法を見ました。


 昭和六十二年の民法改正。


 そして、翌昭和六十三年から始まった特別養子縁組。


 そうだったんですか。


 私にとっては、受験テキストに最初から載っている制度。


 でも。


 この時代には、生まれたばかりの新しい法律。


 五年以上、この家族が抱えてきた問題に。


 今年になって初めて、特別養子縁組という選択肢が現れたのです。


「所長」


「何だ」


「……すごいですね」


「何がだ」


「この家族を守るための制度が、今年できたんですね」


 所長は頷きました。


「だからこそ、使えるかどうかを慎重に見極める」


 私は背筋を伸ばしました。


 未来の知識を持っているだけでは駄目。


 今、この時代に使える法律で考えなければならない。


 でも。


 根底にあるものは同じです。


 子供の利益。


 子供の生活。


 子供が安心して育つための家庭。


 そこは、昭和でも令和でも変わりません。


「ところで」


 修一さんが不安そうに尋ねました。


「私たちが特別養子縁組をすれば、千鶴さんは、もうゆきを返せと言えなくなるんでしょうか」


 私は答えようとしました。


 でも、その前に片桐所長が口を開きました。


「成立すれば、実の父母との法律上の親族関係は原則として終了します」


「……本当ですか」


「はい。ただし、簡単に成立する制度ではありません」


 所長は六法を閉じました。


「最終的に判断するのは、家庭裁判所です」


「家庭裁判所……」


「親になる人の希望だけでは決まりません」


 私は頷きました。


 特別養子縁組。


 普通の養子縁組とは違う。


 市役所へ養子縁組届を出せば成立する、というものではありません。


 家庭裁判所の審判が必要。


 養親になる人の年齢。


 夫婦であること。


 子供の年齢。


 実父母の同意。


 子供を育ててきた状況。


 そして。


 何より。


 子供の利益のため、特に必要であること。


「美和子さん」


 所長が聞きました。


「ご夫婦は、お二人とも特別養子縁組を希望されていますか」


「はい」


「私もです」


 修一さんが即答しました。


「年齢は?」


「私は三十五歳です」


「私は三十二歳です」


 所長は頷きました。


「そこは問題なさそうです」


「ゆきは?」


「生後四か月から育てているのであれば、年齢要件についても検討できます」


 修一さんの顔が少し明るくなりました。


「では……」


「まだです」


 所長の声は静かでした。


「実母の同意の問題があります」


 その言葉に。


 美和子さんの顔から、また血の気が引きました。


「やっぱり……」


 美和子さんが呟きました。


「千鶴さんが反対したら、駄目なんですね」


「原則として、実父母の同意が必要です」


 片桐所長は、そこで言葉を切りました。


「ただし」


「……ただし?」


「同意がなくても認められる場合があります」


 私は顔を上げました。


 来ました。


 民法第八百十七条の六。


 父母の同意。


 原則として必要。


 でも。


 父母が意思表示できない場合。


 あるいは。


 父母による虐待、悪意の遺棄、その他子供の利益を著しく害する事情がある場合。


 例外として、同意がなくても特別養子縁組が成立し得る。


「所長!」


「何だ」


「千鶴さんは、生後四か月の子供を預けて、五年以上ほとんど養育していません!」


「うん」


「それなのに、今になってお金を要求しています!」


「うん」


「これって、悪意の遺棄に当たりませんか?」


 所長は、すぐには答えませんでした。


「こはる」


「はい」


「預けたという事実だけで、悪意の遺棄と決めつけるな」


「……はい」


「生活が苦しく、やむを得ず他人に養育を託す親もいる」


 私は黙りました。


 確かに。


 子供を育てられない事情があることと、子供を不当に捨てたことは同じではありません。


「では、何を調べればいいんでしょうか」


 私が尋ねると、所長は言いました。


「なぜ預けたのか。その後、どんな連絡や援助があったか。今、引き取ることが子供にどんな影響を与えるか」


「はい」


「そして、金銭要求の経緯だ」


 相馬先輩が横から言いました。


「要するに、親が悪い奴かどうかだけを調べるんじゃねえ」


「え?」


「子供にとって、どんな暮らしが必要なのかを調べるんだよ」


 私は、ゆきちゃんを見ました。


 美和子さんの膝の上。


 小さな手。


 安心したように眠り始めています。


 なるほど。


 この事件の主人公は。


 お金を要求する実母でも。


 子供を引き取りたい養親でもない。


 ゆきちゃん自身なのです。


 その日の午後。


 事件は、さらに厄介な方向へ動きました。


「藤沢さんから電話です!」


 私が受話器を取ると、修一さんの切迫した声が聞こえました。


『朝比奈さん! 千鶴さんが店に来ています!』


「えっ!」


『ゆきを連れて帰るって……!』


 受話器の向こうで、怒鳴り声がしました。


『あんたらには親権なんかないんだよ!』


 私は息を呑みました。


「修一さん、まず、ゆきちゃんの安全を確保してください!」


『はい!』


「無理に言い争わないでください!」


 電話を切ると、相馬先輩が立ち上がりました。


「どうした」


「千鶴さんが店に来ているそうです!」


「……そうか」


 先輩は片桐所長を見ました。


「所長」


「ああ」


「現場の状況確認と、資料の受取りに行きます」


「分かった。紛争の代理交渉はするな」


「承知しています」


 私は鞄を掴みました。


「私も行きます!」


「こはる」


「はい!」


「一つだけ覚えとけ」


「何でしょう」


「俺たちは、子供を奪い合う喧嘩の仲裁人じゃねえ」


「……はい」


「法律関係を決めるのは裁判所だ。俺たちは事実を整理して、必要な専門家につなぐ」


 私は頷きました。


 行政書士。


 弁護士ではありません。


 まして、家庭裁判所の裁判官でもありません。


 だからこそ。


 感情に流されず、事実を積み上げなければならないのです。


 藤沢パン店。


 駅から少し離れた住宅街。


 店の前には、自転車が三台。


 ガラス越しに、修一さんの姿が見えました。


 その向かいに。


 派手な赤い上着を着た女性が立っています。


 二十五歳くらい。


 髪を肩まで伸ばし、腕を組んでいます。


 小野寺千鶴。


 ゆきちゃんの実母です。


「だから!」


 千鶴さんが声を荒らげました。


「あの子は私が産んだの! 戸籍を見れば分かるでしょ!」


「それは分かっています」


 修一さんが答えました。


「でも、ゆきは今、ここで暮らしているんです」


「だから何?」


「いきなり連れていかれたら、あの子が……」


「うるさい!」


 千鶴さんは机を叩きました。


「赤の他人が親を名乗るんじゃないよ!」


 私は思わず足を止めました。


 赤の他人。


 ……ひどい。


 五年間、育ててきた人に。


 そんな言葉を。


「それにね」


 千鶴さんは笑いました。


「私、ちゃんと調べたんだから」


「何をですか」


「養子縁組って、親の同意が必要なんでしょ?」


 修一さんは黙りました。


「私が嫌だって言えば、できないんでしょ?」


「……」


「だったら、百五十万円払いなさいよ」


 千鶴さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。


「これに署名して。そしたら、養子縁組に同意してあげる」


 私は紙を見ました。


 ――特別養子縁組同意及び金銭支払契約書。


 そこには。


 藤沢夫妻が百五十万円を支払うこと。


 千鶴さんは、その支払を条件に特別養子縁組への同意を検討すること。


 支払後は、理由を問わず返金しないこと。


 そう書かれていました。


 私は目を疑いました。


「……何ですか、これ」


 思わず声が出ました。


 千鶴さんがこちらを向きます。


「あんた誰?」


「片桐行政書士事務所の朝比奈です」


「行政書士?」


 千鶴さんは鼻で笑いました。


「弁護士じゃないんだ」


 ……。


 また来ました。


 この台詞。


 民法の事件で相手が行政書士を見下すとき、どうしてこんなに同じことを言うのでしょうか。


「だったら、余計な口を出さないでよ」


 千鶴さんは契約書を振りました。


「私は実の母親なの。私が認めない限り、あの子は藤沢家の子にはなれないんだから!」


 そのとき。


「そうとは限りませんよ」


 相馬先輩が言いました。


 千鶴さんの笑顔が止まりました。


「……何?」


「実父母の同意がなくても、家庭裁判所が特別養子縁組を認め得る場合はあります」


「は?」


「民法第八百十七条の六です」


 相馬先輩は淡々と言いました。


「ただし、個別の事情によります。ここで俺が結論を決める話じゃありません」


「何それ」


 千鶴さんの眉が動きました。


「脅してるの?」


「いいえ。制度の説明です」


「私が産んだ子なのよ!」


「その事実と、特別養子縁組が認められるかどうかは別の問題です」


 千鶴さんは顔を真っ赤にしました。


「そんな法律があるわけないでしょ!」


 相馬先輩は、珍しく声を荒らげませんでした。


 代わりに。


 鞄から六法を取り出しました。


「今年から施行されています」


 その一言に。


 千鶴さんが、初めて黙りました。


「……今年?」


「昭和六十三年からです」


 相馬先輩が答えました。


「特別養子縁組という制度が新しくできました」


 千鶴さんは口を開きかけました。


 しかし、先輩は続けました。


「もちろん、実の母親であるあなたの立場も、法律は無視しません」


「だったら!」


「ただし、判断の中心は子供の利益です」


 ……。


 子供の利益。


 また出ました。


 この事件の、急所。


「今、あなたが養子縁組への同意と引き換えに百五十万円を求めていることは、少なくとも書面で確認できます」


「だから何よ」


「その事実が家庭裁判所でどのように評価されるかは、裁判所の判断になります」


 千鶴さんは契約書を引っ込めました。


「……私、別に子供を売ってるわけじゃないから」


「そうですか」


「養育のお礼を……」


「誰に対する、何のお礼ですか」


 相馬先輩が静かに聞きました。


 千鶴さんは言葉に詰まりました。


 ……。


 さすが先輩。


 怒鳴らない。


 決めつけない。


 ただ、説明できない部分を確認する。


 そして。


「藤沢さん」


 先輩は修一さんに向き直りました。


「この紙には、今は署名しないでください」


「はい」


「まず、特別養子縁組について家庭裁判所で手続を進めるため、弁護士にも相談しましょう」


「分かりました」


 千鶴さんが舌打ちしました。


「勝手にすれば?」


 そして。


 最後に、こう言いました。


「でも、私の同意がなければ終わりなんだからね」


 そう言って、店を出ていきました。


 赤い上着が角を曲がって消えます。


 私はようやく息を吐きました。


「先輩……」


「何だ」


「あの人、まだ自分が絶対に勝つと思っていますよ」


「だろうな」


「どうするんですか」


「決まってる」


 先輩は鞄を閉じました。


「書面で事実を固める」


 そして。


「そのうえで、家庭裁判所に判断してもらうんだ」


 その日から。


 片桐行政書士事務所の机には、大量の資料が積まれました。


 古い母子手帳。


 予防接種の記録。


 保育園の連絡帳。


 病院の領収書。


 幼稚園の写真。


 藤沢家の家計簿。


 ゆきちゃんが初めて歩いた日の記録。


 熱を出した夜の日記。


 そして。


 実母の千鶴さんとの手紙。


「先輩」


「何だ」


「これ、全部必要なんですか?」


「全部が必要になるとは限らねえ」


「はい」


「だが、五年間どう育ててきたかを示す資料にはなる」


 私は連絡帳を開きました。


 昭和五十九年四月。


 ――ゆき、初めて『おかあさん』と言う。


 昭和六十年十一月。


 ――三十八度五分。夜中、何度も泣く。美和子、ほとんど眠れず。


 昭和六十一年五月。


 ――修一と公園へ。初めて補助輪なしで三輪車を漕いだ。


 ……三輪車に補助輪は普通つけません。


 たぶん、自転車のことですね。


 でも。


 そんな書き間違いまで。


 妙に温かい。


 私は思わず笑いました。


「先輩」


「何だ」


「これ、すごいですね」


「何が」


「ただの育児日記なのに……」


 私はページをめくりました。


「五年間の親子の歴史が、全部入っています」


 相馬先輩は頷きました。


「そういうことだ」


 私は、ハッとしました。


 そうか。


 監護の状況。


 六か月以上。


 教科書には、短く書いてあるだけです。


 でも。


 実際の生活では。


 朝ご飯。


 洗濯。


 発熱。


 夜泣き。


 幼稚園。


 誕生日。


 そういう毎日が積み重なっている。


 法律が確認しようとしているのは、単なる日数ではない。


 本当に、親子として暮らしてきたのか。


 その現実なのです。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「資料の一覧を作れ」


「はい!」


「事実確認書も用意しろ」


「誰のですか」


「藤沢夫妻。それから、監護状況を知る関係者だ」


 私は頷きました。


「保育園の先生や、お医者さんですね」


「そうだ。本人の承諾を得て、確認できる範囲でな」


「はい!」


「ただし」


「はい」


「裁判所に出す証拠や申立ての進め方は、担当弁護士と相談して決める」


「分かりました」


 家庭裁判所で行う特別養子縁組の審判。


 その代理人として活動することは、行政書士の仕事ではありません。


 私たちができるのは、権限の範囲内で事実関係を整理し、資料や通知書を作成すること。


 法的な争いの部分は、弁護士に引き継ぐ。


 ここは絶対に越えてはいけない線です。


「それから」


 所長が言いました。


「実母からの金銭要求について、藤沢さん本人名義の通知書を作る」


「内容証明ですね!」


「そうだ」


 私は鉛筆を握りました。


 いよいよです。


 昭和の民法。


 親族法。


 特別養子縁組。


 そして。


 内容証明郵便。


 親子を守るための、書面の反撃です。


 私は原案を書きました。


 宛先。


 小野寺千鶴。


 通知人。


 藤沢修一、藤沢美和子。


 内容。


 百五十万円の金銭要求について。


 最初の原案を書き終えた私は、得意になって所長へ差し出しました。


「できました!」


 所長は黙って読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『特別養子縁組が成立するので、実母には一切の権利がない』」


「はい!」


「削除」


「ええっ!?」


 赤線。


「まだ成立していない」


「……はい」


「裁判所の判断を、こちらで勝手に決めるな」


 確かに。


 特別養子縁組は、家庭裁判所の審判によって成立する制度。


 書面を出しただけで、親子関係が変わるわけではありません。


「次」


「はい」


「『千鶴の同意は法律上不要である』」


「はい!」


「これも断定するな」


「……はい」


「同意が不要となる事由に当たるかどうかは、事情を精査する必要がある」


 赤線。


「次」


「まだありますか!?」


「ある」


 所長は、私の文章を指しました。


「『千鶴は悪意の遺棄を行った』」


「はい」


「その根拠は?」


「五年以上、育てていないことです」


「それだけか」


「……」


「預けた事情を確認したか」


「……はい」


「最初は生活に困っていた。児童相談所への相談もあった」


「はい」


「では、それだけで直ちに悪意の遺棄と認定できるか」


「……できません」


「そうだ」


 また赤線。


 私は机に突っ伏しました。


「所長……」


「何だ」


「全部、赤くなりました……」


 相馬先輩が横で笑いました。


「法律の書面に、願望を書いてどうする」


「願望じゃありません!」


「じゃあ何だ」


「……希望です」


「同じだろ」


 ぐうの音も出ません。


 所長は静かに言いました。


「こはる。書面は、相手を罵倒するために作るものではない」


「はい」


「こちらが確認できる事実と、法律上の問題を正確に示すためのものだ」


 私は顔を上げました。


「……はい」


「特別養子縁組が成立するかどうかは、家庭裁判所が決める」


「はい」


「だが、百五十万円の要求に応じる義務があるのかは、別に検討できる」


 私はハッとしました。


「そうですね!」


 千鶴さんは、実母であることを理由に百五十万円を請求している。


 でも。


 実母であるというだけで、当然にそんな請求権が生まれるわけではない。


 しかも。


 同意を金銭と引き換えにしようとしている。


 その事実は、特別養子縁組について判断する際にも、無関係ではない。


 私は原案を書き直しました。


 午後四時。


 机の上に、内容証明郵便の原案が完成しました。


 私は、ゆっくり読み上げました。


「第一。通知人らは、未成年者小野寺ゆきを、生後四か月頃より継続して監護養育している」


「うん」


「第二。通知人らは、ゆきの安定した生活環境を維持するため、特別養子縁組を希望している」


「うん」


「第三。貴殿は、特別養子縁組への同意を検討する条件として、百五十万円の支払を求めた」


「うん」


「第四。通知人らは、貴殿が主張する百五十万円の支払義務について、その法律上及び事実上の根拠を確認できておらず、現時点で支払に応じる意思はない」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第五。特別養子縁組は、民法第八百十七条の二以下に基づき、家庭裁判所が子の利益を中心に判断する制度である」


「よし」


「第六。実父母の同意については、民法第八百十七条の六に例外が定められており、貴殿が同意しないことのみをもって、特別養子縁組の成立が法律上絶対に不可能になるものではない」


 私は一度、息を吸いました。


「第七。通知人らは、今後、弁護士に相談のうえ、家庭裁判所における適切な手続を検討する」


「うん」


「第八。貴殿において、金銭請求の根拠があると主張する場合には、その内容及び資料を文書により明らかにされたい」


 最後。


 私は読みました。


「なお、本通知は、未成年者ゆきの法律上の親子関係について、通知人らが一方的に変更を宣言するものではなく、同関係については、法令に従った適切な手続により判断されるべきものと考える」


 ……。


 読み終わりました。


 相馬先輩が言いました。


「まあ、最初よりずっといい」


「本当ですか!」


「余計な断定が減った」


「やった!」


「喜ぶのは早い」


 先輩が、私の原稿の横に別の紙を置きました。


 ――資料一覧。


 ――監護経過表。


 ――金銭要求の経緯。


 ――過去の手紙の写し。


「これを整理しておけ」


「はい!」


「通知に使う資料と、弁護士に引き継ぐ資料は分ける」


「分かりました!」


「それから、戸籍関係も確認する。実父について、まだ確認できていない事項がある」


 私は頷きました。


 実母だけではありません。


 法律上の父母が誰なのか。


 同意が必要な人は誰なのか。


 そこも正確に確認しなければならない。


 所長が最後に言いました。


「こはる」


「はい」


「この書面で、親子を決めることはできない」


「はい」


「だが、相手の金銭要求と、子供の身分関係の問題を切り分けることはできる」


 私は原案を見ました。


 なるほど。


 百五十万円を払わなければ、親になれない。


 そんな相手の作った土俵から、降りる。


 法律で定められた手続に戻す。


 これが。


 今、私たちにできる戦い方なのです。


 内容証明郵便が千鶴さんに届いた三日後。


 事務所に電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……小野寺です』


 私は驚きました。


 千鶴さん。


 あの赤い上着の女性です。


「はい」


『あの……藤沢さんに送ってもらった書面の件なんですけど』


「はい」


『知り合いの法律に詳しい人に見せたら……』


 声が小さくなりました。


『私が反対すれば絶対に養子縁組できないってわけじゃないんですね』


 私は所長を見ました。


 所長が静かに受話器を受け取ります。


「片桐です」


『あの、百五十万円の話なんですけど……』


「はい」


『取り下げたいです』


 ……。


 私は息を止めました。


『こんなことになると思ってなくて』


 所長は、感情を交えずに言いました。


「金銭要求については、取り下げるというご意思ですね」


『はい』


「でしたら、その旨をご自身の言葉で、藤沢さんに書面で伝えてください」


『分かりました』


『それと……』


「はい」


『私、ゆきを育てる自信はないんです』


 電話の向こうで、声が震えました。


『五年前も、そうでした』


 所長は黙って聞いていました。


『でも、私が産んだ子なのに、他の人の子供になるって考えたら……』


 沈黙。


『何か、全部取られた気がして』


 私は、胸が少し痛くなりました。


 千鶴さん。


 自分のしたことは、決して褒められません。


 子供を引き離すと言ってお金を要求することは、許される話ではありません。


 でも。


 実母であること。


 育てられなかったこと。


 その二つの間に、本人にも整理できない感情があったのかもしれません。


 所長は言いました。


「小野寺さん」


『はい』


「特別養子縁組については、弁護士や関係機関から十分に説明を受けてください」


『……はい』


「あなたの意思も、子供の利益も、法律に従って考える必要があります」


『分かりました』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「所長」


「何だ」


「……折れましたね」


「金銭要求についてはな」


「はい」


「だが、縁組の問題は別だ」


 私は頷きました。


 百五十万円を要求しないこと。


 実母が特別養子縁組に同意すること。


 家庭裁判所が縁組を認めること。


 この三つは。


 全部、別の問題なのです。


 翌日。


 藤沢夫妻が事務所を訪れました。


「千鶴さんから手紙が届きました」


 修一さんが、一通の封筒を差し出しました。


 そこには。


 ――百五十万円の要求は撤回します。


 ――ゆきを引き取るという話についても、今すぐ連れ戻すことはしません。


 ――特別養子縁組については、弁護士の説明を受けたうえで考えます。


 と書かれていました。


 私は大きく息を吐きました。


「よかった……!」


 美和子さんは涙ぐみました。


「これで……ゆきは……」


 片桐所長が、静かに言いました。


「まだ、終わりではありません」


「はい」


「特別養子縁組の成立については、家庭裁判所の審判が必要です」


「分かっています」


 修一さんが頷きました。


「弁護士さんとも相談を始めました」


「それがよいでしょう」


 所長は、整理した資料の束を取り出しました。


「これまでの監護の経過をまとめてあります。必要に応じて、担当弁護士に確認してもらってください」


「ありがとうございます」


 美和子さんは、分厚い資料を受け取りました。


 その一番上には。


 ――小野寺ゆき 監護経過一覧。


 と書かれています。


 その下に。


 五年間の毎日。


 五年間の暮らし。


 五年間の家族の記録。


 私は、その束を見つめました。


 血のつながりは、書類で簡単に証明できる。


 でも。


 一緒に暮らしてきた時間を証明するには、こんなにも多くの紙が必要なのです。


 それから、数か月が過ぎました。


 藤沢家の特別養子縁組の申立てについては、担当弁護士が手続を進めました。


 家庭裁判所では、養親となる夫妻の事情。


 実父母の状況。


 ゆきちゃんの生活環境。


 監護の経過。


 そして。


 特別養子縁組が、ゆきちゃんの利益のために特に必要なのか。


 そうした点が慎重に調べられました。


 実母の千鶴さんも、制度の説明を受けたうえで、自分の意思を伝えました。


 もちろん。


 私たち行政書士が、裁判所で代理人として争ったわけではありません。


 私たちが用意した資料は、弁護士によって必要なものが選別され、手続の中で活用されました。


 そして。


 ある秋の日。


 藤沢夫妻が、再び事務所の扉を開けたのです。


「所長!」


 修一さんが、いつになく大きな声を出しました。


「……どうしました」


「認められました!」


 私は顔を上げました。


「え?」


 美和子さんが、一枚の書類を胸に抱えていました。


「特別養子縁組が……」


 声が震えています。


「家庭裁判所で、認められたんです」


 ……!


「本当ですか!?」


「はい!」


 美和子さんは涙を拭いました。


「審判が確定したって、弁護士さんから連絡があって……」


 私は思わず立ち上がりました。


「よかった……!」


 相馬先輩も新聞を置きました。


「そうか」


 短い言葉。


 でも、口元が少し緩んでいます。


 片桐所長は静かに頷きました。


「おめでとうございます」


 修一さんは深く頭を下げました。


「本当に、ありがとうございました」


「礼は、担当された弁護士さんと、ここまで育ててこられたご自身たちに」


 所長はそう言いました。


 私は思わず笑いました。


 いかにも所長らしい。


 でも。


 本当にそうなのです。


 行政書士の書面だけで、親子になったわけではありません。


 家庭裁判所が。


 ゆきちゃんのために、その縁組が必要であると判断した。


 そして、その背景には。


 藤沢夫妻が積み重ねてきた五年以上の暮らしがあったのです。


「ところで」


 私は美和子さんに尋ねました。


「ゆきちゃんは?」


「今日は幼稚園です」


「あ、そうなんですね」


「でも、昨日、こんなことを聞いてきたんです」


 美和子さんが笑いました。


「お母さん、これからもずっとお母さん?」


 ……。


 私は黙りました。


「私、何て答えたと思います?」


「……何て答えたんですか?」


 美和子さんは、涙を浮かべながら言いました。


「ずっと前から、お母さんだよって」


 胸が熱くなりました。


「そうですよね」


「はい」


「法律で親子になったから、急にお母さんになったわけじゃないですもんね」


「そうなんです」


 美和子さんは頷きました。


「法律の手続は、本当に大変でした。でも……」


 少し笑います。


「私たちの毎日は、昨日も今日も、変わらないんです」


 朝起きる。


 朝ご飯を作る。


 幼稚園へ送る。


 夕方迎えに行く。


 夜、一緒にお風呂に入る。


 絵本を読む。


 眠るまで隣にいる。


 その暮らしは。


 昨日も。


 今日も。


 きっと明日も。


 同じなのです。


 ただ。


 その日常を、法律が正式に親子として支えるようになった。


 それが。


 特別養子縁組だったのです。


「先輩」


 藤沢夫妻が帰ったあと、私は相馬先輩に尋ねました。


「何だ」


「普通養子縁組とは、全然違うんですね」


「ああ」


「普通養子縁組は、実の親との法律上の親族関係も残るんですよね」


「そうだ」


「でも特別養子縁組は……」


「原則として、実方との法律上の親族関係が終了する」


 先輩が言いました。


「養親の実の子と同じような法律上の地位を与えるんだ」


 私は頷きました。


 相続。


 扶養。


 親権。


 家族としての法律関係。


 そのすべてに、大きな意味がある。


「じゃあ、もし実母が後から『やっぱり返して』って言っても……」


「簡単に元に戻る制度じゃねえ」


「はい」


「特別養子縁組の離縁は、普通養子縁組よりずっと厳しい」


 私は六法を開きました。


 民法第八百十七条の十。


 特別養子縁組の離縁。


 養親による虐待や悪意の遺棄など、子供の利益を著しく害する事情があること。


 実父母が相当の監護をすることができること。


 そして。


 子供の利益のため、特に必要だと認められること。


 これらを満たす場合に、家庭裁判所が離縁を認め得る。


「……厳しいですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「簡単に親子を作って、簡単に壊せる制度だったら、子供が安心して暮らせねえだろ」


 私は、ゆきちゃんを思い出しました。


 クリームパンが好きな女の子。


 お母さんのスカートを握っていた小さな手。


 あの手を。


 大人の気分や都合で、何度も別の家庭へ移せるようにしてはいけない。


 そういうことなのでしょう。


「先輩」


「何だ」


「特別養子縁組って、強い制度ですね」


「そうだな」


「実の親との法律上の関係まで終了させるなんて」


「だからこそ、家庭裁判所が慎重に判断するんだよ」


 私は頷きました。


 普通養子縁組。


 特別養子縁組。


 名前は似ています。


 でも。


 法律が作ろうとしている親子関係の形は、かなり違う。


 そして。


 その違いを理解することが、子供の人生を守ることにつながるのです。


 夕方。


 事務所の窓から、秋の日差しが差し込んでいました。


 私はノートを開きました。


 昭和六十三年。


 特別養子縁組制度が施行された年。


 原則として六歳未満。


 六歳前から引き続き監護されていれば、八歳未満まで例外。


 養親は原則夫婦共同。


 年齢要件。


 実父母の同意。


 同意が不要となる例外。


 子供の利益のための特別の必要性。


 六か月以上の監護状況。


 家庭裁判所の審判。


 そして。


 実方との法律上の親族関係の終了。


「……すごいなあ」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「この法律、今年できたばかりなんですよね」


「そうだ」


「でも、藤沢さんたちにとっては、五年間待っていた制度だったんですね」


 先輩は少し黙りました。


 そして。


「そうかもしれねえな」


 と言いました。


 私は、現代の行政書士試験を思い出しました。


 特別養子縁組。


 原則十五歳未満。


 成立時十八歳未満。


 現代では、年長の子供にも制度を利用できる範囲が広げられています。


 でも。


 昭和六十三年の法律は、もっと厳しかった。


 原則六歳未満。


 例外でも八歳未満。


 その違いには、制度の歴史があります。


 新しく生まれたばかりの制度。


 慎重に設けられた要件。


 そして。


 将来、より多くの子供に安定した家庭を与えるため、改正されていく法律。


 私は思いました。


 民法は、最初から完成していたわけではない。


 社会が変わり。


 人の暮らしが変わり。


 守るべきものが、よりはっきり見えてくる。


 そのたびに。


 法律も、少しずつ変わってきたのです。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


「特別養子縁組は、実の親との法律上の親族関係を原則として終了させ、養親との安定した親子関係を作る制度です」


「うん」


「でも、養親になりたいという希望だけでは成立しません」


「そうだ」


「家庭裁判所が、子供の利益を中心に判断します」


 所長が頷きました。


「それから?」


「昭和六十三年は、原則六歳未満。六歳前から監護されていれば、八歳未満まで例外があります」


「そうだ」


「そして、実父母が反対すれば絶対に成立しない、というわけではありません」


「うん」


「同意が不要になる場合もある。でも、それを勝手に決めることはできません」


 所長は、静かに言いました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


「所長!」


「何だ」


「一番大事なことが分かりました!」


「言ってみろ」


 私は答えました。


「特別養子縁組は、大人が子供を手に入れるための制度じゃないんです」


 所長が顔を上げました。


「……ほう」


「子供が、安心して暮らせる家庭を持つための制度なんです」


 短い沈黙。


 そして。


 所長は頷きました。


「それを忘れるな」


「はい!」


 私はノートの最後に、一行だけ書きました。


 ――特別養子縁組は、親の都合ではなく、子の利益のために親子関係を作る制度。


 今日の教訓。


 これなら、きっと忘れません。


 その日の仕事が終わる頃。


 事務所に、小さな紙袋が届きました。


 差出人。


 藤沢パン店。


 中には。


 焼きたてのクリームパンが三つ。


 そして。


 子供らしい丸い文字で書かれた手紙。


 ――こはるおねえちゃんへ。


 ――ありがとう。


 ――おとうさんとおかあさんと、ずっといっしょにいるよ。


 私は、その手紙を何度も読みました。


 五歳の女の子。


 今は六歳。


 まだ、民法のことなんて知りません。


 特別養子縁組という言葉も、きっと難しい。


 実父母の同意。


 家庭裁判所の審判。


 六か月の監護。


 そんなこと、分からなくていい。


 でも。


 明日も、同じ家で目を覚ませる。


 明日も、お母さんが朝ご飯を作ってくれる。


 明日も、お父さんが幼稚園へ送ってくれる。


 それを当たり前だと思えること。


 その当たり前を守るために。


 民法は、こんなにも複雑な仕組みを用意しているのです。


「先輩」


「何だ」


「クリームパン、食べます?」


「食う」


「一個ですよ」


「分かってる」


「所長の分もありますから」


「分かってるよ」


 相馬先輩は紙袋を覗き込みました。


「……四つあるぞ」


「え?」


 本当です。


 クリームパンが四つ。


 手紙の裏には、もう一行ありました。


 ――そうませんぱいにも、ひとつ。


 私は笑ってしまいました。


「先輩!」


「何だ」


「ゆきちゃん、先輩の分も入れてくれたみたいです!」


「……そうか」


 相馬先輩は少し照れくさそうに、パンを一つ取りました。


「まあ、悪くねえな」


「素直に嬉しいって言えばいいのに」


「うるせえ」


 私は笑いました。


 所長も、珍しく口元を緩めていました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかに。


 ゆきちゃんの帰る家があります。


 パンの焼ける匂いがする家。


 お父さんとお母さんが待っている家。


 そして。


 もう、戸籍の上でも家族になった三人。


 血がつながっていなくても。


 法律は、親子を作ることができる。


 でも。


 本当の意味で親子になっていくのは。


 法律の条文ではなく。


 その家で積み重ねてきた毎日なのかもしれません。


 私はクリームパンを一口かじりました。


 甘い。


 とても、甘い。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「特別養子縁組って、すごく温かい制度ですね!」


 先輩はパンを飲み込んでから、答えました。


「そうだな」


 そして。


「ただし、忘れんなよ」


「何をですか?」


「成立させるときも、離縁させるときも、子供の利益が中心だ」


「はい!」


「大人が勝った負けたで騒ぐ制度じゃねえんだよ」


 私は頷きました。


 そうです。


 今回、勝ったのは。


 藤沢夫妻でしょうか。


 負けたのは、実母の千鶴さんでしょうか。


 いいえ。


 そんな単純な話ではありません。


 大人たちは、それぞれの事情を抱えていました。


 育てた人。


 産んだ人。


 どちらにも、感情があります。


 けれど。


 法律が最後に見つめたのは。


 五歳の女の子の、これからの人生でした。


 その子が。


 安心して、明日の朝を迎えられるかどうか。


 そこだったのです。


 昭和六十三年。


 新しく生まれた特別養子縁組制度。


 私の六法には、まだ真新しい条文として載っています。


 でも。


 ゆきちゃんにとっては。


 難しい条文なんかではありません。


 ただ一つ。


 明日も、お母さんを「お母さん」と呼べる。


 その当たり前を守ってくれる法律だったのです。

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