[普通養子縁組]法理編 こはるノート
親子になることと、財産の持ち主になることは、まったく違います。
たとえば。
十四歳の少女を養子にした男性がいたとします。
その少女には、亡くなった両親が残した家と預金がありました。
男性は言いました。
「俺が父親になったんだから、娘の財産も全部俺のものだ」
……本当に?
養子縁組をすれば、養親は養子の財産を自由に使えるのでしょうか。
そもそも。
養子になる子供が嫌がっていても、大人が勝手に親子関係を作れるのでしょうか。
そして。
いったん養子になったら、亡くなった実の親との関係は消えてしまうのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……親子って、法律で作れるんですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「普通養子縁組です」
「ああ」
「血がつながっていない人同士でも、法律上の親子になれるんですよね」
「そうだな」
「でも、その条件が多すぎませんか?」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「お前、昨日も同じこと言ってただろ」
「昨日は事件の対応で精いっぱいだったんです!」
「今日は?」
「全部整理します!」
私は鉛筆を握りました。
昨日の相談者。
水野千尋ちゃん。
十四歳。
両親を交通事故で亡くし、父方の叔父である水野達郎が未成年後見人になっていました。
ところが。
達郎は自分の会社の借金を返すため、千尋ちゃんの財産を利用しようとした。
その手段が。
普通養子縁組。
「養子になれば、俺が父親だ。だから財産も自由に使える」
そんな理屈で、千尋ちゃんに縁組を迫っていたのです。
でも。
民法を調べると、問題が次々に出てきました。
後見人による縁組。
未成年者の縁組。
夫婦共同縁組。
十五歳未満の代諾。
家庭裁判所の許可。
結局、法律上の問題点を整理した内容証明郵便を送ったことで、達郎は養子縁組を取りやめました。
ただし、後見人としての財産管理については、家庭裁判所で確認すべき問題が残っています。
「先輩」
「何だ」
「普通養子縁組って、親子になるための制度なのに、どうしてこんなに要件が多いんでしょう」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「親子になるってのは、それだけ重大なことだからだろ」
「重大?」
「名前が変わる。相続権が生まれる。未成年なら親権も変わる」
「あ……」
「人生が変わるんだぞ」
私は鉛筆を止めました。
そうでした。
養子縁組。
試験では、条文の番号を覚える問題です。
でも。
現実には、一人の人生を変える法律行為なのです。
「よし!」
私はノートに大きく書きました。
――普通養子縁組。
血縁関係のない者同士などに、法律上の親子関係を成立させる制度。
「今日は、これを完全攻略します!」
「大げさだな」
「行政書士試験に出ますから!」
すると。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、普通養子縁組には、大きな特徴があります」
私はノートに二人の人物を描きました。
一人は実の父親。
もう一人は養父。
その下に、子供。
「普通養子縁組では、養親との間に新しい法律上の親子関係が生まれます」
「うん」
「でも、実の親との法律上の親子関係は、原則として残ります」
私は二本の線を引きました。
実親と子。
養親と子。
両方つながっています。
「これが普通養子縁組の大きな特徴です」
相馬先輩が頷きました。
「だから千尋は、養子になったとしても、亡くなった両親の子でなくなるわけじゃねえんだな」
「はい!」
私は少し嬉しくなりました。
昨日。
千尋ちゃんが言った言葉。
「養子になっても、お父さんとお母さんの子供なんですか?」
あの不安そうな顔を、私は忘れられません。
「普通養子縁組なら、実親との親子関係は残るんです」
「そうだ」
「そして養親との親子関係もできます」
つまり。
普通養子縁組では、法律上の親子関係が増える。
実親との関係を消して、養親だけを親にする制度ではありません。
「じゃあ、こはる」
相馬先輩が尋ねました。
「実の父親が亡くなった場合、普通養子は相続できるか?」
「できます!」
「養父が亡くなった場合は?」
「そちらも相続できます!」
「両方か?」
「はい!」
私は大きく頷きました。
普通養子は、実親と養親の双方について、相続人となることができます。
もちろん、実際に何をどれだけ相続するかは、それぞれの相続関係によります。
でも。
養子になったというだけで、実親の相続権が消えるわけではありません。
「これ、すごく重要ですね」
「ああ」
「千尋ちゃんは、もう亡くなったお父さんとお母さんの財産を相続していました」
「そうだな」
「もし普通養子縁組をしても、その相続財産が自動的に養父のものになるわけじゃない」
私はノートに赤線を引きました。
――養子縁組は、養子の財産を養親へ移転する制度ではない。
相馬先輩が頷きました。
「今回の事件の急所だな」
「はい!」
民法第八百九条。
養子は、縁組の日から、養親の嫡出子の身分を取得します。
つまり。
法律上、養親の子としての地位を得る。
でも。
養子が持っていた財産は、養子自身の財産です。
「未成年者の場合は?」
片桐所長が尋ねました。
「養親の親権に服します」
民法第八百十八条。
養子となった未成年者は、養親の親権に服する。
ただし。
親権には財産管理の権限が含まれるからといって、子供の財産を自分の財布のように使っていいわけではありません。
親権者は、子供の利益のためにその権限を行使する必要があります。
「だから達郎さんの考え方は、根本から間違っていたんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「親になることは、子供の財産を自分のものにすることではない」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
◇
「では、養子縁組の要件を整理します!」
私は新しいページを開きました。
最初に書いたのは。
――民法第七百九十二条。
「養親になる人は、成年者でなければなりません」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「ただし、ここで昭和と現代の違いがあります!」
「また未来の話か」
「重要なんです!」
私は二つの時代を書きました。
昭和六十三年。
成年年齢、二十歳。
令和。
成年年齢、十八歳。
「現代では十八歳で成年です。でも昭和六十三年は二十歳なんですよね」
「ああ」
「それに当時は、婚姻した未成年者を成年とみなす規定もありました」
民法第七百五十三条。
婚姻による成年擬制。
この制度も、現代では成年年齢の引下げに伴って廃止されています。
「だから、昭和六十三年の十九歳でも、婚姻によって成年とみなされる場合があったんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
法律は、同じ条文番号でも、時代によって前提が違う。
そこを間違えると危険です。
「次!」
私は書きました。
――民法第七百九十三条。
「尊属、または年長者を養子にすることはできません」
相馬先輩が顔を上げました。
「具体例は?」
「例えば、三十歳の人が五十歳の人を養子にすることはできません」
「そうだな」
「年下の人が、年上の人の法律上の親になることはできないんです」
私は少し考えました。
「じゃあ、同い年なら?」
「どう思う?」
「……年長者ではありません」
「そうだ」
「だから、年齢が同じというだけでは禁止されないんですね!」
ただし。
年齢だけではありません。
自分の父母や祖父母といった尊属を養子にすることもできません。
「親を自分の子にする、なんてことは認められないんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――養親は成年者。養子は尊属でも年長者でもないこと。
これで、最初の二つが整理できました。
◇
「さて、ここからが昨日の事件です」
私は鉛筆を握り直しました。
――民法第七百九十四条。
「後見人が被後見人を養子にする場合、家庭裁判所の許可が必要です」
相馬先輩が頷きました。
「なぜだ?」
「後見人は、被後見人の財産を管理する立場だからです」
「うん」
「その人が養親にもなると、利益が衝突する危険があります」
昨日の達郎が、まさにそうでした。
後見人。
財産管理者。
そして、養親になろうとする人。
全部、同じ人物です。
「叔父さんは、千尋ちゃんの財産を自分の会社に使おうとしていました」
「ああ」
「だから、後見人という立場を利用した縁組が本当に適切なのか、家庭裁判所の審査が必要なんですね」
所長が頷きました。
「後見人だから、自由に養子にできるわけではない」
「はい」
「後見人の任務が終わっても、まだ財産管理の計算が終わっていない場合には、同じ問題が残る」
私は目を見開きました。
「あっ!」
そうです。
第七百九十四条には、続きがあります。
後見人の任務が終了した後でも、管理の計算が終わらない間は、家庭裁判所の許可が必要なのです。
「つまり、後見人を辞めた翌日に養子縁組すれば逃げられる、というわけではないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「財産管理の責任を、縁組でうやむやにされたら困るからな」
私は大きく頷きました。
「次は、民法第七百九十八条です」
未成年者を養子にする場合。
原則として、家庭裁判所の許可が必要。
「これも千尋ちゃんの事件ですね」
「ああ」
「十四歳の未成年者を養子にするなら、原則として家庭裁判所の許可を受けなければなりません」
「例外は?」
「自己または配偶者の直系卑属を養子にする場合です!」
私は答えました。
たとえば。
自分の孫を養子にする場合。
配偶者の子を養子にする場合。
これらは、法律上の例外に該当し得ます。
「でも、叔父と姪は直系ではありません」
「そうだ」
「だから千尋ちゃんの事件では、第七百九十八条の許可も必要だったんですね」
私は、ノートに大きく書きました。
――後見人が未成年の被後見人を養子にする場合、第七百九十四条と第七百九十八条の両方を確認する。
「これ、試験でも引っかけられそうですね」
相馬先輩が笑いました。
「一つ許可があれば、もう一つは要らないと思わせるわけか」
「そうです!」
昨日の達郎は、後見人であることを理由に、何でも自由にできると思っていました。
でも。
現実は逆でした。
後見人だからこそ、追加のチェックが必要になる。
それが民法なのです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「次は夫婦だな」
「はい!」
私はノートに書きました。
――民法第七百九十五条。
配偶者のある者が未成年者を養子にする場合。
原則として、夫婦がともに養親にならなければならない。
「昨日の達郎さんには、奥さんがいました」
「ああ」
「文江さんですね」
「そうだ」
「でも、文江さんは養子縁組に同意していませんでした」
それどころか。
養子縁組の話を正式に聞いてすらいなかった。
「ここで、達郎さんは言いました」
私は少し声を低くしました。
「妻は関係ない!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえ」
「物真似の評価は求めてません!」
でも。
達郎の主張は間違いでした。
「配偶者がいて、未成年者を養子にするなら、原則として夫婦がともに養親になる必要があるんです」
「そうだ」
「もちろん、配偶者の嫡出子を養子にする場合や、配偶者が意思表示できない場合などの例外はあります」
私は続けました。
「でも、達郎さんが自分の姪を養子にするケースには、普通はその例外が当たりません」
「うん」
「だから、文江さんが反対していることも大きな壁だったんですね」
そこで私は、一つ疑問が浮かびました。
「先輩」
「何だ」
「じゃあ、夫婦の一方だけが養子縁組できる場合はないんですか?」
「あるぞ」
「え?」
「成年者を養子にする場合だ」
私は目を見開きました。
あ。
そうでした。
民法第七百九十六条。
配偶者のある者が養子縁組をする場合、原則として配偶者の同意が必要です。
ただし、配偶者とともに縁組する場合や、配偶者が意思表示できない場合には、同意を要しないとされています。
「つまり……」
私は整理しました。
「未成年者を養子にする場合は、原則として夫婦共同縁組」
「うん」
「成年者を養子にする場合は、夫婦の一方だけでも縁組できることがある」
「そうだ」
「ただし、配偶者の同意が原則必要」
「正解」
私は拳を握りました。
なるほど!
ここは、きれいに区別できます。
「第七百九十五条は、夫婦で養親になるかという問題」
「うん」
「第七百九十六条は、配偶者の同意が必要かという問題」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「共同縁組と配偶者の同意を混同するなよ」
「はい!」
私は二つを丸で囲みました。
これなら、もう間違えません。
◇
「では、昨日の事件で一番難しかったところです」
私はページをめくりました。
――民法第七百九十七条。
十五歳未満の者を養子にする場合。
法定代理人が本人に代わって、縁組の承諾をすることができる。
「これ、最初は驚きました」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「十四歳の千尋が嫌がってるのに、法定代理人が承諾できるって話だな」
「はい」
養子縁組は、当事者の意思が重要な法律行為です。
でも。
十五歳未満の子供については、法定代理人が代わって承諾する仕組みがあります。
これを。
代諾。
といいます。
「先輩、どうして十五歳なんでしょう?」
「子供の判断能力との関係だな」
「ですよね」
養子縁組は、人生を左右する重大な法律行為です。
幼い子供が、その意味を十分に理解できるとは限りません。
そこで。
一定の年齢に達するまでは、法定代理人が代わって承諾する制度が設けられています。
「ただし」
片桐所長が口を開きました。
「代諾できるからといって、子供の意思を無視していいわけではない」
「はい」
「家庭裁判所の許可が必要な場合には、子供の生活状況や利益が重要になる」
私は頷きました。
千尋ちゃんは十四歳。
自分の希望を、はっきり言葉にできる年齢でした。
「養子になりたくない」
その気持ちを、軽く扱っていいはずがありません。
もっとも、法定代理人による代諾が法律上認められる場面では、十五歳未満の本人が反対したという事実だけで、当然に縁組が無効になるわけではありません。
だからこそ。
誰が代諾するのか。
その人は子供の利益を守る立場にあるのか。
必要な許可は得ているのか。
そこを慎重に確認しなければならないのです。
「昨日の達郎さんは、本人が養親になるうえに、養子側の法定代理人でもありました」
「そうだ」
「だから利益相反の問題が出たんですね」
相馬先輩が頷きました。
「後見監督人の有無や、特別代理人の選任を確認する必要があるって話だ」
「はい」
私は書きました。
――十五歳未満は代諾。だが、代諾者が誰でもよいわけではない。
なお、昭和六十三年の民法第七百九十七条第二項にも、法定代理人とは別に子を監護すべき父母がいる場合、その同意を要する規定があります。
現代では、親権停止制度の導入に伴う文言も加わっていますが、それを昭和六十三年の六法へそのまま持ち込むことはできません。
「……本当に、年代確認って大事ですね」
「やっと分かったか」
「何度も分かってます!」
私は苦笑しました。
◇
「さて、もう一つ大切なのが届出です」
私はノートに書きました。
――民法第七百九十九条。
養子縁組には、婚姻の届出などに関する規定が準用されます。
つまり。
普通養子縁組は、必要な届出によって成立します。
「例えば」
私は言いました。
「おじいさんが、近所の若者をかわいがって、こう言ったとします」
私は声を低くしました。
「お前は今日から、わしの息子じゃ!」
相馬先輩が笑いました。
「ありそうだな」
「でも、言っただけでは養子縁組は成立しません」
「そうだ」
「どれだけ仲がよくても、法律上の親子になるには届出が必要なんです」
ここで、私はもう一つ書きました。
――縁組意思。
養親と養子になる当事者には、法律上の親子関係を成立させる意思が必要です。
十五歳未満なら、法律上の代諾の仕組みを踏まえて考えます。
「先輩、これって婚姻と似ていますね」
「ああ」
「婚姻届も、ただ出せば何でも有効になるわけではありません」
「そうだな」
「養子縁組も同じで、縁組をする意思が必要なんです」
私は頷きました。
例えば。
相続税を減らす目的があったとしても、それだけで直ちに縁組が無効になるわけではありません。
重要なのは、法律上の親子関係を成立させる意思があるかどうかです。
一方で。
当事者に縁組意思がなく、名義だけを勝手に使って届出をしたような場合には、無効の問題が生じます。
「だから達郎さんの事件でも、単に養子縁組届の用紙があるだけでは駄目だったんですね」
「そうだ」
「意思も、要件も、届出も確認する必要がある」
私は大きく丸をつけました。
――普通養子縁組は、口約束だけでは成立しない。
◇
「では、ここから無効と取消しです!」
私が言うと、相馬先輩が顔をしかめました。
「またややこしいところに来たな」
「はい!」
私はノートに二つの言葉を書きました。
無効。
取消し。
「まず、無効です」
民法第八百二条。
養子縁組が無効になるのは、主に次のような場合です。
当事者間に縁組意思がない。
または、縁組の届出をしていない。
「例えば、本人が知らないうちに養子縁組届を作られていた場合」
「うん」
「縁組意思がなければ、無効の問題になります」
「そうだな」
「一方、そもそも届出をしていなければ、縁組の効力は生じません」
私は続けました。
「ただし、届出に証人の署名などの方式上の不備があるだけなら、それを理由として当然に無効になるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「そこが試験で狙われそうだな」
「はい!」
届出がない。
それと。
届出に方式上の不備がある。
この二つは、区別が必要です。
「さて、次は取消しです」
私は新しいページを開きました。
民法第八百三条以下。
普通養子縁組には、一定の要件違反について取消しを認める規定があります。
「例えば、成年者でない人が養親になった場合」
民法第八百四条。
「尊属や年長者を養子にした場合」
民法第八百五条。
「後見人が必要な許可を得ずに被後見人を養子にした場合」
民法第八百六条。
「配偶者の同意を得なかった場合」
民法第八百六条の二。
「未成年者の養子縁組について、必要な家庭裁判所の許可を得なかった場合」
民法第八百七条。
私は一度、息を吸いました。
「……多い!」
相馬先輩が笑いました。
「またそれか」
「だって多いんです!」
でも。
整理してみると、共通点があります。
養子縁組は重大な身分関係を作るものだから、年齢や同意、許可などの要件が定められている。
その要件に違反した場合、法律の定める者が、法律の定める手続によって取消しを求めることができる。
「ここで注意したいのが、勝手に取り消せるわけではないことです」
「そうだな」
「取消しを請求できる人や、期間にも制限があります」
例えば。
必要な配偶者の同意がなかった場合。
同意していない配偶者には取消請求が認められますが、縁組を知ってから六か月が経過したり、追認したりすると、取消しができなくなる場合があります。
「つまり、いつまでも自由に取り消せるわけじゃないんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――無効と取消しは違う。要件違反があっても、取消しには法律上の手続と制限がある。
そこで。
私は昨日の事件を思い出しました。
「千尋ちゃんの場合は、まだ養子縁組届を出していませんでした」
「ああ」
「だから、成立した縁組の取消しをする話ではなかった」
「そうだ」
「まず不適法な縁組を進めさせないことが重要だったんですね」
片桐所長が頷きました。
「そのとおり」
私は少し胸が熱くなりました。
法律は。
問題が起きてから戦うためだけにあるのではありません。
問題が起きる前に、何が許されて何が許されないのかを明らかにする。
それも、法律の大切な役割なのです。
◇
「さて、養子縁組が有効に成立したら、何が変わるのか」
私はノートに書きました。
――民法第八百九条。
嫡出子の身分の取得。
「養子は、縁組の日から、養親の嫡出子の身分を取得します」
相馬先輩が頷きました。
「うん」
「これによって、養親との間に法律上の親子関係が生まれます」
「そうだな」
さらに。
民法第八百十条。
養子の氏。
「原則として、養子は養親の氏を称します」
私は例を書きました。
養親が田中。
養子が佐藤。
普通養子縁組が成立すれば、原則として養子は田中の氏を称する。
「ただし、婚姻によって氏を改めている人には例外があるんですね」
「そうだ」
婚姻の際に定めた氏を称している間は、その氏を使う場合があります。
「ここも昭和六十三年の直前に改正されたところですね」
私が言うと、相馬先輩が顔を上げました。
「よく調べたな」
「はい!」
実は。
昭和六十二年の民法改正によって、夫婦共同縁組や配偶者の同意などの規定が整えられていました。
つまり。
昭和六十三年の民法は、決して何十年も変わらない古い法律というだけではありません。
ちょうど大きな改正を経たばかりの時代でもあったのです。
「……面白いですね」
「何がだ」
「転生した時代にも、その時代なりの新しい法律があるんです」
「当たり前だろ」
「ですよね!」
でも。
現代の知識を持っている私には、それが新鮮でした。
昭和六十三年。
普通養子縁組の規定。
そして、特別養子縁組制度も導入されたばかり。
新しい法律が、家族の形を少しずつ変えていく時代なのです。
◇
「ところで、先輩」
「何だ」
「普通養子縁組と特別養子縁組って、何が一番違うんでしょう?」
相馬先輩が答えました。
「実親との親族関係だな」
「そうです!」
私はノートに二本の線を描きました。
普通養子縁組。
実親との法律上の親子関係は残る。
養親との法律上の親子関係が新たにできる。
一方。
特別養子縁組。
原則として、実方の父母や血族との法律上の親族関係が終了する。
「ここが大きな違いです」
「うん」
「普通養子縁組は、実親との関係が原則として残ります」
「そうだ」
「特別養子縁組は、子供の利益のため、実方との法律上の関係を原則として終了させ、養親との親子関係を成立させる制度です」
私は頷きました。
そして。
ここには、時代の大きな違いがあります。
特別養子縁組制度は、昭和六十二年の改正によって創設されました。
昭和六十三年に施行されています。
「つまり、この時代には特別養子縁組ができたばかりなんですね」
「そうだ」
「現代では特別養子縁組の対象年齢なども改正されていますけど、昭和六十三年は導入当初の制度なんです」
私は六法を見ました。
現代の制度をそのまま当てはめてはいけない。
やっぱり。
転生者の民法は、油断できません。
「ただ」
片桐所長が言いました。
「今日は普通養子縁組だ」
「あ、はい!」
「特別養子縁組の詳しい話は、別に整理しろ」
「分かりました!」
私はノートの端に書きました。
――普通養子は、実親との親族関係が原則残る。特別養子は、原則終了する。
よし。
大きな違いは、これで覚えられます。
◇
「では、最後に離縁です」
私はページをめくりました。
――離縁。
普通養子縁組による親子関係を解消すること。
「養子縁組は、いったん成立したら絶対に解消できないわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「普通養子縁組には、協議離縁と裁判離縁があります」
まず。
協議離縁。
民法第八百十一条。
原則として、養親と養子が話し合い、離縁に合意する方法です。
「でも、養子が十五歳未満の場合は?」
相馬先輩が尋ねました。
「養子本人に代わって、離縁後に法定代理人となるべき人が協議します」
「そうだ」
私は頷きました。
ここは、縁組の代諾と似ています。
十五歳未満という年齢が、また登場する。
ただし。
誰が代わって協議するかは、法律に従って判断する必要があります。
「それから」
私は続けました。
「養親が夫婦で、未成年者との離縁をする場合は、原則として夫婦がともに離縁しなければなりません」
民法第八百十一条の二。
「これも夫婦共同なんですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「一緒に養親になった夫婦の一方が、勝手に子供との関係を切るのは困るからな」
「そうですね」
もちろん。
夫婦の一方が意思表示できない場合などには例外があります。
でも、基本は共同。
「養子縁組をするときも、離縁するときも、未成年者については夫婦の責任が重視されるんですね」
「そうだ」
私は赤線を引きました。
次。
裁判上の離縁。
民法第八百十四条。
「これは、一定の理由がある場合に、裁判によって離縁を求める制度です」
私は一つずつ書きました。
相手方から悪意で遺棄された場合。
相手方の生死が三年以上明らかでない場合。
その他、縁組を継続し難い重大な事由がある場合。
「例えば」
私は言いました。
「養親が養子を見捨て、扶養や生活の面倒を見る責任を不当に放棄した場合」
「うん」
「悪意の遺棄が問題になり得ます」
ただし。
単に仲が悪い。
気に入らない。
それだけで、常に裁判離縁が認められるわけではありません。
法律上の要件に当たるかどうかが問題になります。
「先輩」
「何だ」
「これ、やっぱり普通養子縁組は重い制度ですね」
「そうだな」
「親子になるのも簡単じゃないし、親子関係を解消するのにもルールがある」
相馬先輩が頷きました。
「だから、財産目当てで安易に縁組しようなんて考える奴は、制度を甘く見てるんだよ」
私は深く頷きました。
昨日の達郎。
もし、千尋ちゃんとの養子縁組を強引に進めていたら。
家庭裁判所の許可。
夫婦共同縁組。
代諾の利益相反。
そして、財産管理。
いくつもの問題に直面していたはずです。
それなのに。
「養子にすれば全部俺のもの」
そんな単純な理屈で、子供の人生を変えようとしていた。
……本当に、恐ろしい話です。
◇
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「確認問題だ」
「来ましたね!」
私は背筋を伸ばしました。
「昭和六十三年。十九歳の未婚者が養親になれるか」
「原則として成年に達していないので、なれません!」
「では、当時、十九歳でも婚姻によって成年とみなされている者は?」
「養親になれる場合があります!」
「三十歳の者が、三十五歳の者を養子にできるか」
「年長者なので、できません!」
「後見人が被後見人を養子にするには?」
「家庭裁判所の許可が必要です!」
「未成年者を養子にするには?」
「原則として、家庭裁判所の許可が必要です!」
「例外は?」
「自己または配偶者の直系卑属を養子にする場合です!」
「配偶者がいる者が未成年者を養子にするには?」
「原則として、夫婦共同縁組です!」
「十五歳未満の子供の縁組承諾は?」
「法定代理人が代諾できます!」
よし。
ここまでは完璧。
所長が続けました。
「普通養子縁組で、実親との親族関係はどうなる?」
「原則として残ります!」
「養親の相続権は?」
「取得します!」
「実親の相続権は?」
「普通養子縁組だけでは失いません!」
「養子の財産は養親のものになるか」
「なりません!」
私は勢いよく答えました。
「養親になっても、子供の財産を自由に使っていいわけではありません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった。
普通養子縁組。
かなり整理できました。
「じゃあ俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「養子縁組届を出さずに、十年間、本当の親子みたいに暮らしていたらどうなる?」
「それだけでは、普通養子縁組は成立しません!」
「じゃあ、縁組意思がないのに、勝手に届出を出したら?」
「無効の問題になります!」
「養親になる人が未成年者だったら?」
「取消しの問題になります!」
「いいぞ」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、夫婦で未成年者を養子にしたあと、夫だけが勝手に離縁できるか?」
「原則としてできません!」
「正解」
私は得意になりました。
「完璧ですね!」
「まだだ」
「え?」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「昭和六十三年に、成年被後見人という制度はあるか?」
「ありません!」
「何という?」
「禁治産者です!」
「よし」
「現代では成年後見制度ですが、昭和六十三年は禁治産制度です!」
「じゃあ、普通養子縁組の条文に現代の用語が出てきたら?」
「時代を確認します!」
「正解」
私は胸を張りました。
もう、未来の民法には騙されません。
……たぶん。
◇
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私はノートを見直しました。
普通養子縁組。
最初は、ただの家族制度だと思っていました。
でも。
昨日の事件を思い出すと、条文の意味が変わって見えます。
養親の成年要件。
年長者や尊属を養子にできないという制限。
後見人と被後見人の縁組に必要な許可。
未成年者の養子縁組の許可。
夫婦共同縁組。
十五歳未満の代諾。
縁組意思。
届出。
その一つ一つが。
千尋ちゃんのような子供を守るための、大切な条件だったのです。
「所長」
私は尋ねました。
「何だ」
「普通養子縁組って、結局、何を一番大切にしているんでしょう」
所長は少し考えました。
そして言いました。
「親子という身分関係を、軽々しく作らせないことだ」
「……はい」
「当事者の意思を確認する。必要な保護を与える。家族関係に重大な影響が出るからな」
私は頷きました。
「でも、それだけじゃないですよね」
「ほう」
「普通養子縁組は、血のつながりがなくても家族になれる制度です」
「そうだ」
「だから、大切な制度なんです」
所長が静かに頷きました。
私は続けました。
「ただ、その大切な制度を利用して、弱い立場の人から財産を奪うことは許されない」
「うん」
「親子になることと、子供を支配することは違う」
相馬先輩が、低い声で言いました。
「そこだな」
私は鉛筆を握りました。
今日の最後。
一行の覚え書きです。
何を書こう。
少し考えて。
私はゆっくり書きました。
――普通養子縁組は「親子を増やす制度」。親になる資格・意思・許可・届出を確認し、子の財産は子のもの。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長くねえか?」
「一行です!」
「文字が多い」
「大事なことが多いんです!」
先輩は笑いました。
「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
十四歳の千尋ちゃん。
亡くなった両親。
父親が残した家。
母親が植えた紫陽花。
その全部を。
家族という言葉を悪用した大人から守るために。
民法は、いくつもの壁を用意していたのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「床も掃け」
「……また掃除ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私、今日とても重要なことを学びました」
「ほう」
「親子になることと、子供を支配することは違うんです」
「そうだな」
「つまり!」
私は胸を張りました。
「先輩と私も、先輩後輩だからといって、何でも命令できるわけじゃありません!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「そうか」
「はい!」
「じゃあ、所長が決めた掃除当番は?」
「……」
私は奥を見ました。
「所長」
「何だ」
「今日の掃除当番について、再検討していただけませんか」
片桐所長は帳簿から顔を上げませんでした。
「却下だ」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「何ですか!」
「普通養子縁組の勉強と、掃除当番は関係ねえだろ」
「確かに……」
私は肩を落としました。
法律上の親子関係。
職場の上下関係。
そして、掃除当番。
全部、違う問題です。
……残念ながら。
民法を勉強しただけでは、掃除から逃げることはできないようでした。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「何だ!」
「明日は、先輩にも確認問題を出します!」
「は?」
「普通養子縁組の無効と取消しです!」
「何で俺が試験を受けるんだよ!」
「勉強会です!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いながら、床を掃き始めました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、家々の明かりが灯っていきます。
そのどこかで。
千尋ちゃんは、亡くなったお母さんが植えた紫陽花に水をあげているのでしょう。
普通養子縁組。
法律上の親子関係を作る制度。
でも。
親になることは、子供の財産を手に入れることではない。
子供の人生に、責任を持つことです。
そして。
民法は、ただ親子という名前を作っているのではありません。
その名前に伴う権利と義務を、きちんと定めているのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――普通養子縁組は「親子を増やす制度」。親になる資格・意思・許可・届出を確認し、子の財産は子のもの。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「普通養子縁組って、本当に大切な制度ですね!」
「分かったから掃除しろ!」
「はいっ!」
……なるほど。
民法を理解すると、人を守るための制度が、少しずつ好きになります。
ただし。
それだけでは、掃除を免れる法律上の権利にはならないのでした。
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