[普通養子縁組]現場編 「養子にすれば、財産も全部俺のもの」の嘘。十四歳の少女を狙う後見人と、家族を金儲けの道具にさせない民法の刃
親子になることは、財産を奪うための契約ではありません。
たとえば。
両親を亡くした十四歳の少女がいたとします。
その少女には、父親が残した家と預金がありました。
ある日。
少女の面倒を見ている叔父が言いました。
「俺の養子になれば、全部うちの財産になる」
……本当に?
養子縁組をすれば、子供の財産まで養親のものになるのでしょうか。
そもそも。
十四歳の子供が嫌がっていても、大人が勝手に養子にできるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の中でも、とびきり重たい言葉と向き合うことになります。
普通養子縁組。
親でもない人を、法律上の親にする制度。
そして。
いったん成立すれば、相続も、親権も、戸籍も変わる。
それほど重大な制度なのに。
世の中には、それを金儲けの道具にしようとする人間がいるのです。
◇
「私、養子になりたくないんです」
その言葉を聞いた瞬間。
私は持っていた湯飲みを落としそうになりました。
「……養子?」
「はい」
朝一番。
事務所を訪れたのは、十四歳の少女でした。
名前は、水野千尋。
中学二年生。
制服の袖が少し長く、膝の上で握った両手が小さく震えています。
隣には、六十代の女性。
少女の母方の祖母、水野ハルさんが座っていました。
「この子を、父方の叔父が養子にしようとしているんです」
ハルさんが言いました。
「本人は嫌がっているのに……」
「どういうことですか?」
私が尋ねると、千尋ちゃんは一枚の紙を差し出しました。
そこには。
――養子縁組届。
と書かれていました。
私は目を見開きました。
「これ……!」
「叔父さんが持ってきたんです」
千尋ちゃんが言いました。
「名前を書けって」
「千尋ちゃんは、書いたの?」
「いいえ」
「よかった……」
私は胸を撫で下ろしました。
ところが。
千尋ちゃんは首を横に振りました。
「でも、叔父さんは言ったんです」
「何て?」
「十四歳の子供に、断る権利なんかないって」
……。
私は眉をひそめました。
「それで?」
「私の後見人だから、叔父さんが決めればいいんだって」
後見人。
その言葉が出た瞬間。
奥で書類を整理していた片桐所長が顔を上げました。
「後見人?」
「はい」
ハルさんが頷きました。
「千尋の父親も母親も、去年亡くなりまして……」
交通事故でした。
両親が同じ事故で亡くなり、千尋ちゃんだけが助かった。
その後。
父親の弟である水野達郎が、家庭裁判所で未成年後見人に選任されたそうです。
「叔父さんは、最初は優しかったんです」
千尋ちゃんが言いました。
「学校も続けていいって。お父さんの家にも住んでいいって」
「うん」
「でも、最近になって……」
少女の声が小さくなりました。
「お父さんの貯金を、叔父さんの商売に使うって言い始めたんです」
私は顔を上げました。
「貯金?」
ハルさんが茶封筒を開きました。
中には、預金通帳の写し。
土地建物の登記簿謄本。
そして、父親の遺産に関する資料。
「千尋の父親は、小さな製材所を経営していました」
「はい」
「事故のあと、工場は閉めましたが、土地と自宅が残っています」
私は資料を見ました。
自宅。
土地。
預金。
その合計は。
「……二千万円以上?」
昭和六十三年。
地方都市で二千万円を超える財産。
かなりの金額です。
「これ、千尋ちゃんが相続したんですか?」
「はい。ほかに相続人はいませんでしたから」
ハルさんが頷きました。
そのとき。
千尋ちゃんが、小さく言いました。
「叔父さんの会社、借金があるんです」
「え?」
「お父さんの貯金を使えば助かるって」
私は背筋が冷たくなりました。
なるほど。
見えてきました。
十四歳の少女。
両親を亡くしている。
相続財産がある。
後見人は、商売に失敗した叔父。
そして。
突然持ち出された養子縁組。
「叔父さん、こう言いました」
千尋ちゃんは唇を噛みました。
「養子になれば、俺が本当の父親になる。だから財産も俺が自由に使えるんだって」
……。
私は思いました。
それ。
完全におかしくありませんか?
◇
「大丈夫です!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「養子縁組は、子供の利益を守る制度です!」
千尋ちゃんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい!」
民法。
親族編。
養子縁組。
現代の行政書士試験でも、重要な分野です。
「未成年者を養子にするには、原則として家庭裁判所の許可が必要です!」
「家庭裁判所……?」
「そうです!」
私は六法を開きました。
民法第七百九十八条。
未成年者を養子にするには、原則として家庭裁判所の許可が必要。
ただし、自己または配偶者の直系卑属を養子にする場合は例外。
「叔父さんは、千尋ちゃんの祖父ではありません。叔父と姪の関係ですから、この例外には当たりません!」
よし。
これは使えます。
「しかも、叔父さんは後見人ですよね!」
私は続けました。
「後見人が被後見人を養子にする場合にも、家庭裁判所の許可が必要なんです!」
民法第七百九十四条。
後見人が被後見人を養子にする場合。
家庭裁判所の許可。
つまり。
今回の養子縁組には、少なくとも二つの許可が問題になる。
「これなら、叔父さんが勝手に養子縁組することはできません!」
私は胸を張りました。
すると。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「十四歳ってところを見落としてねえか」
「え?」
「十五歳未満だぞ」
「……あ」
私は止まりました。
十五歳未満。
養子縁組。
代諾。
民法第七百九十七条。
そうでした。
「養子となる者が十五歳未満の場合は、法定代理人が本人に代わって縁組を承諾できる……」
「そうだ」
「でも、その法定代理人が……」
私は千尋ちゃんを見ました。
「……叔父さん?」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
私は六法を見つめました。
ちょっと待ってください。
十四歳の千尋ちゃんは、自分では養子縁組を望んでいない。
でも。
法律には、十五歳未満の場合、法定代理人が代わって承諾できる仕組みがある。
そして、その法定代理人は。
養親になろうとしている叔父本人。
「ええっ!」
私は思わず声を上げました。
「それじゃあ、叔父さんが自分で自分との養子縁組を承諾するんですか!?」
「だから、そこが問題なんだよ」
相馬先輩が言いました。
「本人が養親にも、養子側の代諾者にもなろうとしてる。利益がぶつかるだろ」
「あ……!」
私は目を見開きました。
利益相反。
ここでも出てくるんですね。
後見人は、本来、子供の利益を守る立場です。
ところが、自分自身が養親になりたがっている。
しかも目的は、子供の財産。
そんな人間に、子供の利益を公平に判断させてよいのでしょうか。
「後見監督人がいるか確認しろ。いなければ、特別代理人の選任も問題になる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「それから、こはる」
「はい?」
「お前、現代の成年年齢で考えてねえだろうな」
私は固まりました。
あ。
またです。
令和の成年年齢は十八歳。
でも。
昭和六十三年は二十歳。
さらに当時の民法には、婚姻した未成年者を成年とみなす規定もあります。
「今回は養親の年齢は問題なさそうですけど……」
「だからって、令和の条文をそのまま持ってくるな」
「はい……」
「お前の頭の中、時々十年どころじゃなく進んでるからな」
すみません。
三十年以上進んでいます。
もちろん。
言えませんけど。
片桐所長が静かに口を開きました。
「こはる」
「はい」
「家庭裁判所の許可だけで終わりだと思うな」
「え?」
「叔父には、妻がいるのか」
私はハルさんを見ました。
「達郎さんは結婚していますか?」
「はい。奥さんがいます」
「お子さんは?」
「大学生の息子が一人」
「なるほど……」
所長が頷きました。
「では、まだ壁がある」
「……何ですか?」
「夫婦共同縁組だ」
私は六法を開き直しました。
民法第七百九十五条。
配偶者のある者が未成年者を養子にする場合。
原則として、夫婦がともに養親とならなければならない。
もちろん、法律上の例外はあります。
でも。
今回のように、叔父が自分の姪を養子にしようとする場合。
通常は、叔父だけが勝手に養親になることはできません。
「奥さんも、養子にすることに同意しているんでしょうか?」
私が尋ねると。
ハルさんは首を振りました。
「それが……」
「はい」
「奥さんは、千尋を養子にするなんて聞いていないそうです」
……。
私はゆっくり六法を閉じました。
これは。
かなり問題がありそうです。
◇
その日の午後。
片桐行政書士事務所に、一人の男がやってきました。
「おい」
受付の引き戸が乱暴に開きます。
「うちの姪が、ここに来たそうだな」
五十歳前後。
背広。
金色の腕時計。
強い整髪料の匂い。
水野達郎。
問題の叔父です。
「何の用ですか」
相馬先輩が聞きました。
「何の用も何も、家庭の問題だ」
達郎は鼻で笑いました。
「行政書士風情が、他人の家に口を出すなよ」
……来ました。
この手の人。
なぜか最初に職業を馬鹿にしてくるんですよね。
「千尋は俺が面倒を見てる」
達郎は言いました。
「飯を食わせて、学校に通わせて、親代わりをしてやってるんだ」
「はい」
「だから正式に養子にする。それの何が悪い」
私は尋ねました。
「千尋ちゃんは、その縁組を望んでいるんですか?」
「十四歳のガキに何が分かる」
達郎が笑いました。
「十五歳未満なら、後見人が代わりに承諾できるんだよ」
……。
私は驚きました。
この人。
法律を知らないわけではありません。
むしろ。
自分に都合のよいところだけ、調べている。
「民法七百九十七条だろ?」
達郎は勝ち誇ったように言いました。
「俺は後見人だ。だから俺が決める」
相馬先輩が椅子に腰を下ろしました。
「ずいぶん詳しいですね」
「商売人だからな」
「じゃあ、七百九十四条は?」
「……何?」
「後見人が被後見人を養子にする場合の規定です」
達郎の表情が少し変わりました。
「何が言いたい」
「家庭裁判所の許可は得ましたか?」
「……」
「七百九十八条の許可は?」
「何だよ、それ」
「未成年者を養子にする場合の許可です」
「親戚なんだから、そんなもんいらんだろ!」
相馬先輩が首を横に振りました。
「直系卑属と、姪は違います」
達郎の眉が動きました。
私は続けました。
「それに、奥様も養親になる必要があるのでは?」
「妻は関係ない!」
「関係あります」
「俺が決めることだ!」
「未成年者との普通養子縁組は、原則として夫婦共同です」
達郎は机を叩きました。
「法律、法律って!」
大きな音。
私は思わず肩をすくめました。
でも。
片桐所長は動きませんでした。
「達郎さん」
所長が静かに言いました。
「一つ確認させてください」
「何だ」
「千尋さんの預金を、ご自身の会社の資金に使うおつもりですか」
達郎が黙りました。
「……後見人が管理している金だ」
「管理と所有は違います」
「家族なんだから一緒だろ!」
所長は首を横に振りました。
「違います」
たった一言。
でも。
その声は、妙に重く聞こえました。
「後見人であることも、養親になることも、子供の財産を自分のものにする資格ではありません」
達郎の顔が赤くなりました。
「じゃあ何だ! 俺が千尋に使った金はどうなる!」
「必要な費用の扱いと、千尋さんの財産を事業資金に流用することは、別の問題です」
「だったら裁判でも何でもしろ!」
達郎は立ち上がりました。
「養子縁組届は出す! 俺には後見人としての権限がある!」
私は思わず口を開きかけました。
しかし。
「こはる」
相馬先輩が制しました。
「はい」
「追うな」
「でも!」
「もう十分だ」
「何がですか!」
先輩は低い声で言いました。
「相手が何を考えているか、分かっただろ」
私は黙りました。
そうです。
達郎は養子縁組を、子供の生活を守る制度だとは思っていない。
自分の支配を強める手段だと思っている。
「こはる」
先輩が言いました。
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「はい」
「依頼人の代理人として、あいつと示談交渉するわけにはいかねえ」
「……はい」
「なら、次に何をする?」
私は答えました。
「事実を整理して、書面にします」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は拳を握りました。
よし。
民法の反撃です。
◇
翌朝。
私は机の上に三枚の資料を並べました。
一枚目。
千尋ちゃんの戸籍関係資料。
二枚目。
達郎が後見人に選任されたことを示す資料。
三枚目。
千尋ちゃんの財産目録。
「まず、事実から固めます」
私は言いました。
相馬先輩が頷きます。
「言ってみろ」
「千尋ちゃんは十四歳です」
「うん」
「両親が亡くなっていて、達郎さんが未成年後見人です」
「うん」
「達郎さんは、千尋ちゃんを普通養子縁組で養子にしようとしています」
「そうだ」
「しかも、達郎さんには奥さんがいます」
「で?」
「そして、千尋ちゃんの財産を自分の会社のために使おうとしています」
私は最後の資料を指差しました。
「ここが一番問題です」
相馬先輩が頷きました。
「養子縁組の要件と、財産管理の問題は分けて書け」
「はい!」
私は原案を書き始めました。
宛先。
水野達郎。
差出人。
水野ハル。
ただし、ハルさんは千尋ちゃんの祖母であって、現在の法定代理人ではありません。
そのため、千尋ちゃん本人の財産について祖母が当然に法律行為をできるわけではない。
まずは祖母自身から、判明した事実を通知し、養子縁組や財産管理についての重大な懸念を示す文書にします。
未成年後見人の権限濫用については、家庭裁判所に事情を報告し、必要な措置を求める資料も別に準備する。
私は鉛筆を走らせました。
――第一。
貴殿は、未成年者水野千尋の未成年後見人である。
――第二。
貴殿は、千尋との普通養子縁組を予定し、養子縁組届への署名等を求めている。
――第三。
民法第七百九十四条は、後見人が被後見人を養子にする場合、家庭裁判所の許可を要求している。
――第四。
千尋は十四歳であり、貴殿の直系卑属ではないため、民法第七百九十八条による未成年者養子縁組の許可も必要となる。
――第五。
貴殿には配偶者が存在し、民法第七百九十五条による夫婦共同縁組の要件も問題となる。
私はそこで手を止めました。
「……先輩」
「何だ」
「十五歳未満の代諾は、どう書けばいいですか?」
相馬先輩が原案を覗きました。
「本人が嫌がってるから絶対無効、なんて書くなよ」
「はい」
「十四歳なら、法定代理人による代諾の制度がある。それ自体は否定できねえ」
「ですよね……」
「だが、今回の問題は、代諾する側が養親になる本人だってことだ」
私は頷きました。
後見人が子供を守る側に立ちながら。
自分自身との縁組を承諾しようとする。
ここには利益相反の問題があります。
しかも。
達郎には、子供の財産を自分の事業に利用しようとする疑いがある。
家庭裁判所が、子供の利益を確認すべき事情です。
「この件、後見監督人の選任の有無も調べます」
「そうだ。いないなら、代諾のための特別代理人の選任も検討しなきゃならねえ」
「はい!」
私は続けて書きました。
――第六。
本件では、後見人である貴殿自身が養親となるため、養子側の縁組承諾につき利益相反が生じる。代諾に関する適切な手続を欠いたまま、縁組を進めることはできない。
そして。
最後。
――第七。
普通養子縁組は、養子となる者の財産を養親へ当然に帰属させる制度ではない。
私は鉛筆を止めました。
「……これです」
所長が顔を上げます。
「何だ」
「一番伝えたいことです」
私は言いました。
「養子縁組をしたからって、千尋ちゃんの財産が叔父さんのものになるわけじゃない」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「養子縁組は、所有権を移す契約じゃありません」
「うん」
「親子関係を作る制度です」
私は書き加えました。
――養親が親権を取得した場合であっても、子の財産は子自身に帰属する。親権に基づく財産管理権は、子の利益のために行使されるべきものであり、養親自身の事業債務の弁済に充てる権限を与えるものではない。
書き終えると。
相馬先輩が言いました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「だが、まだ甘い」
「ええっ!」
「相手が何を隠そうとしてるか、証拠で詰めろ」
先輩は別の封筒を取り出しました。
中には。
達郎の妻、水野文江さんが作成した事実確認書。
文江さんは、すでにハルさんから事情を聞き、面談に応じていたのです。
私は読みました。
――私は、千尋を養子とする話について、夫から正式な説明を受けていない。
――私は、千尋との養子縁組を承諾していない。
――養子縁組届への署名をした事実もない。
――夫が私の意思に反して縁組届を提出することには反対する。
署名。
水野文江。
押印。
「……!」
私は顔を上げました。
「奥さんの意思が、書面になってる!」
「ああ」
「これ、すごく重要じゃないですか!」
「重要だから取ったんだよ」
相馬先輩が言いました。
さらに。
千尋ちゃん本人から聞き取った事情も、日付と発言を整理して記録してありました。
養子縁組を望まないこと。
父親の家に住み続けたいこと。
預金を叔父の会社に使ってほしくないこと。
そして。
叔父から、何度も署名を迫られたこと。
「所長」
私は言いました。
「これで、かなり強くなりますね」
片桐所長が頷きました。
「ただし、勘違いするな」
「はい?」
「内容証明郵便を送っただけで、縁組を無効にしたり、取消したりできるわけではない」
「あ……」
「そもそも、まだ縁組届は受理されていないんだろう」
「はい」
「なら、成立していない縁組を取り消す話ではない。まず、不適法な届出をさせないことだ」
私は頷きました。
普通養子縁組。
意思がなければ無効になる場合がある。
要件違反なら取消しが問題になる場合もある。
でも。
無効。
取消し。
そして、まだ成立していない縁組。
これらは全部違います。
「それに」
所長は言いました。
「養子縁組の無効と取消しには、それぞれ法律上の要件と手続がある。内容証明に『無効だ』と書けば何でも解決するわけではない」
「はい」
「だからこそ、届出前に要件を確認する」
なるほど。
争いが起きてから戦うだけではない。
不適切な法律行為が成立する前に、事実と法律を整理する。
それも行政書士の仕事なのです。
◇
その日の夕方。
片桐所長が、内容証明郵便の最終原稿を確認しました。
文章は、決して長くありません。
でも。
そこには、達郎が逃げようとしていた問題が、一つずつ並んでいました。
後見人であること。
十四歳の未成年者であること。
家庭裁判所の許可。
夫婦共同縁組。
代諾の利益相反。
子供の財産の独立性。
そして。
財産を事業資金に流用しようとする疑い。
最後には、こう記されました。
――本件については、千尋の利益保護のため、家庭裁判所への事情報告及び後見人の職務に関する必要な措置の申立てを検討している。
――なお、財産管理に関する違法行為が判明した場合には、弁護士への相談のうえ、損害回復その他の法的措置を検討する。
――ついては、法令上の要件及び適切な手続を欠く養子縁組届の提出を行わず、また、千尋の財産を自己の事業のために処分することを控えられたい。
私は、その文章を何度も読みました。
怒鳴っていません。
脅してもいません。
ただ。
事実と法律が、静かに並んでいます。
「先輩」
「何だ」
「これ、相手は怖いでしょうね」
「ああ」
「だって、反論するには……」
「全部説明しなきゃならねえからな」
相馬先輩が言いました。
「後見人なのに、なぜ子供の財産を自分の会社に使おうとしたのか」
「はい」
「家庭裁判所の許可はどうしたのか」
「はい」
「妻が同意していないのに、どうして夫婦の縁組を進められると思ったのか」
「はい」
「十四歳の子供の意思を、どう考えたのか」
私は深く頷きました。
「……全部、答えなきゃいけない」
「そうだ」
所長が短く言いました。
「書類は、相手を怒鳴り負かすために作るものじゃない」
「はい」
「ごまかせない事実を、残すために作るものだ」
私は、その言葉を胸に刻みました。
◇
内容証明郵便が配達されてから三日後。
達郎から、事務所へ電話がありました。
『……片桐さんはいるか』
声が違いました。
以前のような怒鳴り声ではありません。
明らかに、焦っています。
「片桐です」
所長が受話器を取りました。
『あの書面、何なんだ』
「通知書です」
『……そんなことは分かってる!』
所長は黙っています。
『家庭裁判所にまで話を持っていくつもりなのか』
「千尋さんの利益に関わる問題ですから」
『……』
「必要な手続は検討しています」
達郎はしばらく黙りました。
それから。
『昨日、知り合いの弁護士に見せた』
私は顔を上げました。
『あんたらの書いたこと、だいたいそのとおりだって……』
相馬先輩が、煙草を灰皿に押しつけました。
『後見人が養子にするなら、家庭裁判所の許可が要るって』
「はい」
『未成年者を養子にする許可も、別に必要になるって』
「はい」
『妻の件も……』
達郎の声が小さくなりました。
『一人で勝手に養子にできるわけじゃないんだな』
「法律上の要件があります」
『……それに』
達郎が、苦しそうに言いました。
『養子にしたからって、千尋の預金が俺のものになるわけじゃないんだな』
私は思わず拳を握りました。
そうです。
そこです。
今回の事件で、絶対に譲ってはいけないところ。
養子縁組は、財産を奪うための制度ではない。
『……届は出さない』
達郎が言いました。
『養子の話は、取りやめる』
私は目を見開きました。
『妻にも反対された。会社の借金のために子供を養子にするつもりかって……』
所長は静かに聞いていました。
『もう、そんな話はしない』
「そのお考えを、書面にしていただけますか」
『……分かった』
電話が切れました。
私は立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「養子縁組、やめるって!」
「ああ」
「やりましたね!」
でも。
相馬先輩は首を横に振りました。
「まだ終わってねえぞ」
「え?」
「後見人は、まだあいつだ」
私は固まりました。
あ。
そうでした。
養子縁組をやめても。
達郎が後見人であることは変わらない。
千尋ちゃんの財産を管理する立場も、そのままです。
「所長……」
「分かっている」
片桐所長は、机の上に置かれた別の書類を指差しました。
家庭裁判所に提出するための事情整理書。
そこには。
達郎の発言。
財産流用の疑い。
養子縁組を迫った経緯。
預金の管理状況を確認する必要性。
そうした事実が、時系列で記されていました。
「養子縁組だけ止まっても、財産が守られたとは限らない」
所長が言いました。
「はい」
「後見人として適切かどうかも、家庭裁判所に判断してもらう必要がある」
私は頷きました。
法律の世界。
一つの問題を解決しても。
その隣に、別の問題が残っていることがあります。
養子縁組。
後見。
親権。
財産管理。
全部、似ているようで違う。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「これが実務だ」
「……はい」
「一枚の内容証明で、世の中の問題が全部片付くわけじゃねえ」
「はい」
「でも、相手が隠していた問題を、表に引っ張り出すことはできる」
私は、書類を見つめました。
なるほど。
それが。
私たちの武器なのです。
◇
その後。
達郎から、署名押印した確認書が届きました。
――千尋との養子縁組を進めない。
――作成途中の養子縁組届は提出しない。
――千尋の財産を自己の会社の事業資金として使用しない。
――財産管理について、家庭裁判所から求められる説明及び報告に応じる。
私は確認書を見ました。
「……本当に書いてあります」
相馬先輩が頷きました。
「口だけじゃなく、紙に残したな」
「はい」
そして。
家庭裁判所には、ハルさんからの事情説明と資料が提出されました。
片桐事務所が作成を支援した事実関係の整理書です。
後見人の財産管理について、裁判所が確認する必要があること。
養子縁組を利用して、子供の財産を事業資金に回そうとした疑いがあること。
千尋ちゃんが強い不安を抱いていること。
これらが報告されました。
後見人を解任するかどうか。
財産管理に不正があったかどうか。
それを決めるのは、私たちではありません。
家庭裁判所です。
私たち行政書士は、裁判の代理人にはなれません。
必要があれば、弁護士へ引き継ぐ。
でも。
正確な書類がなければ、事実を調べることすら難しくなる。
だから。
私たちは、紙の上で戦うのです。
◇
数日後。
千尋ちゃんが、ハルさんと一緒に事務所へ来ました。
「ありがとうございました」
千尋ちゃんが頭を下げました。
「叔父さん、もう養子の話はしないって」
「うん」
私は微笑みました。
「よかったね」
「はい」
でも。
少女は少し考えてから言いました。
「……あの」
「どうしたの?」
「養子になることって、悪いことなんですか?」
私は驚きました。
「え?」
「叔父さんが悪い人だったから、養子縁組も悪い制度なのかなって……」
私は首を横に振りました。
「違うよ」
「……違う?」
「うん」
私は、ゆっくり説明しました。
「養子縁組はね、本当の親子じゃなかった人たちを、法律上の親子にする制度なの」
千尋ちゃんは頷きました。
「たとえば、ずっと一緒に暮らしていて、本当の親子みたいに大切に思っている人たちがいるでしょう?」
「はい」
「そういう人たちが、法律上も親子になることができる」
「……」
「養子になった人は、法律上、養親の子になるの。相続する権利も持つし、未成年なら養親の親権に服することになる」
私は続けました。
「しかも、普通養子縁組なら、原則として実の親との親子関係も残るんだよ」
「え?」
「そう。養親との親子関係ができても、実の親との法律上の親子関係が消えるわけじゃないの」
千尋ちゃんの目が丸くなりました。
「じゃあ……」
「うん」
「養子になっても、お父さんとお母さんの子供なんですか?」
私は頷きました。
「もちろん」
千尋ちゃんの目に、涙が浮かびました。
「……よかった」
私は胸が締めつけられました。
そうか。
この子は。
養子になったら、亡くなった両親とのつながりまで消えてしまうと思っていたんだ。
「千尋ちゃん」
「はい」
「普通養子縁組はね、親子の関係を増やす制度なんだよ」
「増やす……」
「うん。実の親との関係を消して、全部なかったことにする制度じゃないの」
もっとも。
普通養子縁組と特別養子縁組では、法律上の効果が大きく違います。
でも。
今日は、普通養子縁組のお話です。
「だから、養子縁組そのものが悪いわけじゃない」
私は言いました。
「問題なのは、それを利用して、千尋ちゃんの財産を奪おうとしたことなんだよ」
千尋ちゃんは、しばらく黙っていました。
そして。
「私……」
「うん」
「お父さんの家に、住み続けたいです」
「うん」
「お母さんが植えた花もあるんです」
私は微笑みました。
「どんな花?」
「紫陽花です」
「紫陽花?」
「はい。お母さん、毎年六月になると、庭に水をあげていました」
千尋ちゃんは少し笑いました。
「来年も、咲くかなって」
私は頷きました。
「きっと、咲くよ」
ハルさんが、孫の肩に手を置きました。
「千尋。来年は、おばあちゃんも一緒に水をあげようね」
「うん」
千尋ちゃんは、小さく頷きました。
その笑顔を見たとき。
私は思いました。
財産。
二千万円。
土地。
家。
預金。
書類に書けば、ただの数字です。
でも。
そこには。
亡くなったお父さんが働いて残したお金がある。
お母さんが植えた紫陽花がある。
家族が暮らした思い出がある。
その全部を。
「養子にすれば俺のものだ」
そんな一言で奪っていいはずがないのです。
◇
夕方。
事務所には、静かな時間が戻ってきました。
私は、机の上の六法を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日の事件、すごく勉強になりました」
「そりゃよかったな」
「普通養子縁組って、思っていたより難しいんですね」
「ああ」
「養親が成年者であること」
「うん」
「年長者や尊属を養子にできないこと」
「うん」
「後見人が被後見人を養子にする場合の家庭裁判所の許可」
「うん」
「未成年者の養子縁組の許可」
「うん」
「夫婦共同縁組」
「そうだ」
「十五歳未満の代諾」
私は指を折りました。
「……多い!」
相馬先輩が笑いました。
「まだあるぞ」
「ええっ!」
「縁組の意思も、届出も必要だ」
「あ……!」
私は額を押さえました。
そうでした。
普通養子縁組は、ただの口約束では成立しません。
法律上の要件を満たして。
届出をする。
そこまで必要です。
「それに、縁組が無効になる場合と、取り消せる場合も違う」
相馬先輩が言いました。
「はい……」
「成立したあとには、離縁の問題だってある」
「……まだ続くんですか」
「当たり前だ」
先輩はにやりとしました。
「親子になるってのは、それだけ重大なことなんだよ」
私は黙りました。
なるほど。
今日、私が覚えたのは。
単なる条文の数ではありません。
親子という関係を作ることの重さ。
そして。
その制度を、大人の都合だけで利用してはいけないということ。
「所長」
私は奥に声をかけました。
「何だ」
「普通養子縁組って、何のためにあるんでしょうか」
片桐所長は、帳簿を閉じました。
「法律上の親子関係を作るためだ」
「はい」
「だが、制度の形だけ整えても、子供の利益を害するようでは困る」
「……はい」
「親になるというのは、子供の財産を手に入れることじゃない」
所長は、静かに言いました。
「子供に対して、責任を負うことだ」
私は、その言葉を胸に刻みました。
親になる。
責任を負う。
財産を奪うのではなく。
子供を守る。
当たり前のことです。
でも。
その当たり前を守るために。
民法には、いくつもの条件が用意されているのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、一つ分かりました」
「ほう」
「普通養子縁組の条件って、面倒くさい制限じゃないんですね」
「うん」
「子供を守るための壁なんですね」
先輩は、少しだけ笑いました。
「まあな」
私はノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行で書きました。
――養子縁組は、親子になる制度であって、子供の財産を奪う制度ではない。
よし。
これなら忘れません。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「普通養子縁組で親子になったら、相続はどうなる?」
「養子は養親の相続人になります!」
「実の親との関係は?」
「原則として残ります!」
「じゃあ、普通養子は?」
「実親と養親、両方について相続権を持ち得ます!」
「よし」
私は得意になりました。
「完璧ですね!」
「まだだ」
「え?」
「養親が死んだあと、養子との関係はどうなる?」
「えっ?」
「離縁したい場合は?」
「……え?」
「夫婦で未成年者を養子にした場合、片方だけが勝手に離縁できるか?」
「……ええっ!?」
私は頭を抱えました。
「先輩!」
「何だ」
「今日の事件、やっと終わったところですよ!」
「法律の勉強は終わってねえだろ」
「鬼!」
「褒め言葉として受け取っとく」
私は頬を膨らませました。
でも。
次の瞬間。
机の上に置かれた千尋ちゃんの事実確認書が目に入りました。
十四歳。
両親を亡くした少女。
養子になりたくないと訴えた子供。
その小さな声が、紙の上に残されている。
もし。
あの子が何も知らずに。
叔父の言うことだけを信じていたら。
もし。
私たちが民法の要件を確認しなかったら。
養子縁組という名目で、子供の生活と財産が大きく揺さぶられていたかもしれません。
私は、そっと六法を閉じました。
普通養子縁組。
親子になる制度。
だからこそ。
誰でも。
いつでも。
好き勝手にできるわけではない。
親になる資格。
年齢。
配偶者。
家庭裁判所の許可。
本人や代諾者の意思。
届出。
そうした条件の一つ一つには、人の人生を守る意味があるのです。
「相馬先輩」
「今度は何だ」
「私、今日ちょっとだけ民法が好きになりました」
「昨日も言ってなかったか」
「昨日より好きになったんです!」
「毎日増えるのかよ」
「はい!」
先輩は呆れた顔をしました。
でも。
私は本気でした。
民法は、財産の法律です。
契約の法律です。
相続の法律です。
そして。
家族の法律でもあります。
だから。
法律を知らない人が。
家族という言葉を利用して、大切なものを奪われそうになったとき。
私たちが、その仕組みを正しく伝えられることには意味がある。
裁判所で戦うことはできなくても。
相手の代理人として交渉することはできなくても。
事実を調べ。
条文を読み。
書面にして。
誰かの生活を守る手助けはできるのです。
「こはる!」
相馬先輩が声をかけました。
「はい!」
「感動してるところ悪いが、次の相談票だ」
「え?」
「今度は、六十八歳の女性が、六十五歳の男性を養子にしたいらしい」
「……はい?」
「しかも女性には夫がいる」
「……」
「男性のほうも結婚してるそうだ」
私は固まりました。
六十八歳。
六十五歳。
養子縁組。
双方に配偶者。
……待ってください。
「先輩!」
「何だ!」
「年上を養子にできないのは分かります!」
「うん」
「でも今回は、養親になる人のほうが年上ですよね!」
「そうだな」
「しかも、養子になるのは成年者!」
「そうだ」
「じゃあ、未成年者の養子縁組とは条件が違うんですね!?」
相馬先輩がにやりとしました。
「少しは頭が回るようになったじゃねえか」
「やった!」
「ただし、配偶者の同意は別に考えろよ」
「……!」
私は六法を開き直しました。
普通養子縁組。
同じ制度でも。
誰が誰を養子にするのか。
何歳なのか。
結婚しているのか。
後見人なのか。
それによって、必要な条件が変わる。
「……民法って」
私は呟きました。
「本当に、一筋縄ではいきませんね」
相馬先輩が笑いました。
「だから面白えんだろ」
私は思わず笑い返しました。
「はい!」
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが訪れています。
あの町のどこかで。
千尋ちゃんは、亡くなったお母さんが植えた紫陽花に水をあげているのでしょう。
誰かの財産ではなく。
誰かの商売道具でもなく。
一人の子供として。
自分の暮らしを守りながら。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――養子縁組は、親子になる制度であって、子供の財産を奪う制度ではない。
そして。
今日、もう一つだけ覚えたことがあります。
家族だから。
親だから。
後見人だから。
その言葉だけで、他人の財産を自由にしていいわけではない。
民法が守っているのは。
家族という名前ではなく。
その中で生きる、一人一人の権利なのです。
「こはる!」
「はい!」
「次の相談者が来るぞ!」
「分かりました!」
私は新しい相談票を取り出しました。
普通養子縁組。
今日の事件は終わりました。
でも。
民法の勉強は、まだまだ続きます。
ただし。
次に誰かが、
「養子にすれば、財産も全部俺のものだ」
なんて言い出したら。
私は迷わず、こう答えるつもりです。
――親になることと、財産の持ち主になることは、まったく別の話です。
そして。
机の上には。
その違いを証明する、分厚い六法があるのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




