[民法・認知]法理編 こはるノート
父親だと名乗ることと、法律上の父親になることは、同じではありません。
血がつながっていても。
二十年間、一度も会ったことがなくても。
親子関係を法律上成立させるには、守らなければならないルールがあります。
そして。
そのルールは、親のためだけにあるのではありません。
子供のためにも、あるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「父親って、何でしょうね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり重いな」
「だって、昨日の事件ですよ」
「ああ。黒田って男か」
「はい」
藤沢美咲さん。
二十歳。
生まれる前に父親が姿を消し、母親と二人で暮らしてきた女性です。
その母親が亡くなり、美咲さんは家と土地を相続しました。
すると。
二十年間、一度も会いに来なかった黒田義雄が突然現れた。
「俺はお前の父親だ」
そう名乗って。
「認知すれば、俺にも父親としての権利がある」
と主張したのです。
しかも。
娘の土地を売却する権限まで手に入れようとしていました。
「本当に、ひどい話でした」
私は言いました。
「まあな」
「でも、民法七百八十二条があったから、守れました」
成年の子の認知。
本人の承諾が必要。
美咲さんは、はっきり言いました。
「私は、承諾しません」
あの一言です。
たった一言。
けれど。
法律上は、とても重い一言でした。
「先輩」
「何だ」
「今日は、認知を全部整理します!」
「全部?」
「七百七十九条から七百八十八条まで!」
「……長くなりそうだな」
「試験に出ますから!」
そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「またですか」
「昨日の事件は、いい教材になる」
私は拳を握りました。
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、認知とは何か、です!」
私はノートに大きく書きました。
――民法第七百七十九条。
認知。
婚姻関係にない男女の間に生まれた子について、父又は母が自分の子であると認め、法律上の親子関係を成立させる制度。
「つまり、非嫡出子についての制度ですね」
「そうだ」
「でも、先輩」
「何だ」
「条文には、父又は母って書いてあるんですよね」
「ああ」
「だったら、お母さんも認知しないといけないんですか?」
相馬先輩は、にやりとしました。
「昨日の美咲さんを思い出せ」
「はい」
「母親の春江さんは、美咲さんを産んだ」
「はい」
「それで、母親としての認知届を出したのか?」
「……出していません」
「じゃあ、母子関係はなかったのか?」
「ありません!」
私は慌てて首を振りました。
「もちろん、あります!」
「どうしてだ?」
「最高裁判例です!」
私はノートに書きました。
昭和三十七年四月二十七日。
最高裁判決。
母と子の法律上の親子関係は、原則として、分娩の事実によって当然に発生する。
「つまり」
私は言いました。
「お母さんが子供を産めば、原則として、その事実によって法律上の母子関係が成立するんですね」
「そういうことだ」
「だから、春江さんは特別に認知する必要がなかった」
「ああ」
なるほど。
ここは、試験で引っかかりやすいところです。
民法七百七十九条には、父又は母と書かれている。
でも。
母子関係については、分娩によって当然に成立するという最高裁判例がある。
「先輩、これ、条文だけ覚えてたら間違えますね」
「そうだな」
「父も母も、必ず認知が必要って思っちゃいます」
「だから判例を読めって言うんだ」
私は大きく頷きました。
では。
父親は?
「婚姻関係にない男女の間に生まれた子については、父親との法律上の親子関係を成立させるために認知が問題になるんですね」
「そうだ」
「血がつながっているからといって、それだけで認知の届出が済んだことにはならない」
「ああ」
私は、美咲さんのことを思い出しました。
黒田義雄が、仮に本当の父親だったとしても。
それだけで、美咲さんの財産を勝手に管理する権限が生まれるわけではありません。
まして。
父親だと名乗っただけで、娘の家が共有財産になるなどということもありません。
「認知は、財産を奪う制度じゃないんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「法律上の親子関係を成立させる制度」
「その区別を忘れるな」
私は赤線を引きました。
◇
「次は、認知の方法です!」
私はノートをめくりました。
――任意認知。
――強制認知。
「二種類ありますね」
「ああ」
「まず、任意認知です」
民法七百八十一条。
認知は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって行います。
そして。
遺言によっても、することができます。
「先輩、ここ面白いですよね」
「何がだ」
「生きているときだけじゃなく、遺言でも認知できるんですよ」
「そうだな」
私は、例を考えました。
ある男性が、婚姻関係にない女性との間に子供をもうけた。
事情があって、生前には認知届を出さなかった。
しかし。
亡くなる前に、遺言書でその子を認知した。
「この場合も、法律上の認知が可能なんですね」
「ああ。ただし、遺言自体の方式が有効であることや、戸籍上の手続が必要になる」
「なるほど」
私は書きました。
任意認知。
届出による認知。
遺言による認知。
「ただ、先輩」
「何だ」
「遺言で『あの子に財産をあげる』と書くことと、『あの子を認知する』と書くことは、違いますよね」
「当然だ」
「財産を遺贈することと、親子関係を成立させることは別です」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
「言葉の意味を曖昧にするな」
「はい!」
私はさらに書き足しました。
認知は、単に財産を与える約束ではない。
法律上の親子関係そのものに関わる。
だからこそ。
認知の方式や要件は、きちんと決められているのです。
「では、次です!」
私は勢いよく言いました。
「民法七百八十条!」
「認知能力だな」
「はい!」
認知をする父又は母が未成年者であっても、法定代理人の同意は必要ありません。
「昨日の電話相談ですね」
「ああ。十九歳の父親の話だ」
昨日、事務所に電話をかけてきた女性。
息子さんは十九歳。
交際相手との間に子供が生まれ、認知を希望していました。
しかし。
母親である相談者は、反対している。
「十九歳なんだから、親の私が反対すれば認知できませんよね?」
そう尋ねられたのです。
「でも、できるんですよね」
「そうだ」
「親の同意なしで」
「ああ」
私はノートに大きく書きました。
――認知する父又は母が未成年者でも、法定代理人の同意は不要。
「これ、普通の契約とは違いますね」
「どこが違う」
「未成年者が重要な契約をするときは、原則として法定代理人の同意が必要です」
「ああ」
「でも認知については、親の同意がいらない」
「そうだ」
私は考えました。
なぜでしょう。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「こはる」
「はい」
「十九歳の父親が、子供を認知したいと言っている」
「はい」
「その父親の親が、反対している」
「はい」
「そこで認知できないとしたら、誰が困る」
私は、すぐに答えました。
「……子供です」
「そうだ」
親の許可がない。
その理由だけで、子供との法律上の親子関係を成立させられない。
そんな仕組みでは、子供の保護が親の親の意思に左右されてしまいます。
「なるほど……」
私は頷きました。
「認知って、父親の親が決めることじゃないんですね」
「そうだ」
もっとも。
誰でも好き勝手に、血縁のない子を認知してよいという意味ではありません。
本人の意思能力や、真実の親子関係など、別の問題もあります。
でも。
認知する人が未成年者であることだけを理由に、親の同意を要求することはできない。
「大事ですね!」
私は赤線を引きました。
そのとき。
「先輩!」
「何だ」
「成年被後見人も、法定代理人の同意なしに認知できるんですよね!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり顔を上げました。
「……誰だって?」
あ。
私は鉛筆を落としました。
「成年被後見人です……」
「こはる」
「はい」
「今、何年だ」
「……昭和六十三年です」
「成年後見制度なんてあったか?」
「ありません!」
またやりました。
未来の民法。
また持ち込んでしまいました。
「じゃあ、今の民法七百八十条を読んでみろ」
私は慌てて六法を開きました。
そこには。
――認知をするには、父又は母が無能力者であるときでも、その法定代理人の同意を要しない。
と書かれていました。
「……無能力者」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「昭和六十三年の条文だ」
私は頷きました。
そうでした。
昭和六十三年には、現在の成年後見制度はまだありません。
禁治産者。
準禁治産者。
そうした古い制度が使われていた時代です。
そして当時の七百八十条は、現在のように「未成年者又は成年被後見人」と具体的に列挙する形ではなく、「無能力者」という用語を使っていたのです。
「……何だか、すごい言葉ですね」
「当時の法律用語だからな」
「現代では、ずいぶん変わりましたね」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
民法七百八十条。
無能力者であっても、法定代理人の同意は不要。
現代。
未成年者又は成年被後見人であっても、法定代理人の同意は不要。
「基本の考え方は続いているんですね」
「そうだ」
「でも、用語が変わっている」
「ああ」
ここで、私は一つ気づきました。
民法の改正というと。
何か新しい制度が突然生まれたように感じます。
でも。
昔からある考え方を引き継ぎながら、用語や制度を整える改正もある。
認知能力も、その一つです。
「先輩」
「何だ」
「法律って、古い条文を読むと、現代の制度がどうしてできたのか分かるんですね」
「そうかもな」
「禁治産者って言葉は、今の感覚だとかなり強烈ですし」
「まあな」
私は考えました。
本人を保護する。
でも、必要以上に本人の意思を奪わない。
そうした考え方が重視され、平成十一年の改正によって成年後見制度が整備され、平成十二年から施行されることになります。
ただし。
今は昭和六十三年。
まだ先の未来です。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「今の相談は、十九歳の父親だ」
「はい!」
「まずは今の法律で答えろ」
「……そうですね」
私は苦笑しました。
未来の民法を知っていても。
目の前の相談者を守るには、その時代の法律を使わなければならないのです。
◇
「次は、今回の事件の主役です!」
私はページをめくりました。
――民法第七百八十二条。
成年の子の認知。
「美咲さんですね」
「ああ」
「二十歳でした」
「そうだ」
「だから、本人の承諾が必要だった」
私は六法を指差しました。
成年の子は、その承諾がなければ、これを認知することができない。
「これ、今回の決定打でしたね」
「そうだな」
黒田義雄は、言いました。
「俺が父親なんだから、認知するかどうかは俺が決める!」
でも。
民法は、そうは考えていません。
成年の子については、本人の承諾が必要です。
「先輩」
「何だ」
「どうして成年の子だけなんですか?」
相馬先輩は、少し考えました。
「お前なら、どう思う」
私は、美咲さんのことを思い出しました。
二十年間。
父親のいない生活。
母親と二人で暮らした家。
学校。
仕事。
母親の死。
そして。
その全部を乗り越えて、二十歳になった。
「……もう、自分の人生を歩んでいるからでしょうか」
「そうだな」
所長が頷きました。
「成年の子には、その意思を尊重する必要がある」
私は大きく頷きました。
父親が突然現れて。
「今日から俺がお前の父親だ」
そう言ったとしても。
成年した子供は、その認知を受け入れるかどうか、自分で判断することができます。
認知によって、法律上の親子関係が成立する。
それは単なる名前の問題ではありません。
相続。
扶養。
家族としての法律関係。
人生に大きく関わります。
「だから本人の承諾が必要なんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――成年の子の任意認知には、子の承諾が必要。
そして。
「先輩、ここで時代の違いです!」
「またか」
「昭和六十三年の成年年齢は二十歳!」
「そうだ」
「現代は十八歳!」
「ああ」
「つまり、十九歳の子供を認知する場合、昭和と令和で扱いが変わるんです!」
相馬先輩が、少し眉を上げました。
「ほう」
私は説明しました。
昭和六十三年。
十九歳は未成年者。
だから民法七百八十二条の「成年の子」には当たりません。
一方。
現代。
十九歳は成年者。
したがって、任意認知には本人の承諾が必要です。
「これ、試験では注意ですね!」
「そうだな」
「同じ十九歳でも、時代で結論が変わる!」
私は赤い鉛筆で、大きく囲みました。
昭和六十三年。
二十歳から成年。
令和。
十八歳から成年。
「……転生者には、厳しい問題です」
「お前の事情は知らねえよ」
また冷たくされました。
でも。
ここは本当に大切です。
法律の条文が同じように見えても、関連する制度が変われば、結論が変わることがある。
成年の子の認知。
その典型なのです。
◇
「では、次!」
私はノートをめくりました。
――民法第七百八十三条。
胎児又は死亡した子の認知。
「先輩、これも変わってますよね」
「何がだ」
「まだ生まれていない子供も、認知できるんですよ」
「ああ」
私はノートに書きました。
父は、胎内にある子でも認知することができる。
ただし。
母の承諾が必要。
「どうしてお母さんの承諾が必要なんでしょう」
私は考えました。
まだ生まれていない子供。
当然、自分で意思表示することはできません。
そこで、母親の承諾が要求される。
「つまり、父親が一方的に胎児を認知するわけにはいかないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
たとえば。
ある男性が、交際相手の女性の妊娠を知った。
「俺の子だ。今すぐ認知する」
そう言った。
でも、女性が承諾していない。
「この場合、胎児認知はできないんですね」
「そうだ」
ただし、出生後に認知する場合には、また別の要件になります。
ここが重要です。
「胎児認知は、母の承諾!」
私は大きく書きました。
そして。
死亡した子の認知。
私は、少し表情を引き締めました。
「先輩、これ、ちょっと切ないですね」
「何がだ」
「子供が亡くなってから認知する場合です」
民法七百八十三条第二項。
父又は母は、死亡した子でも、その直系卑属がいるときに限り、認知することができる。
そして。
その直系卑属が成年者である場合には、その承諾が必要です。
「つまり、亡くなった子供なら誰でも認知できるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「子供や孫など、直系卑属がいることが必要」
「ああ」
私は例を書きました。
父親が認知しないまま、息子が死亡した。
その息子には、子供が一人いる。
つまり父親から見れば、孫。
「この場合、死亡した息子を認知できる余地があるんですね」
「そういうことだ」
「そして、その孫が成年者なら、承諾が必要」
「ああ」
私はしばらく考えました。
どうして、亡くなった子供の認知に、孫の承諾が関係するのでしょう。
所長が、静かに言いました。
「認知は、その子だけの問題ではないからだ」
「……あ」
「親子関係が成立すれば、さらに次の世代の法律関係にも影響する」
私は頷きました。
なるほど。
亡くなった子供を認知する。
それによって、その子の直系卑属にも法律上の影響が及ぶ。
だから。
直系卑属の存在が要件とされ、成年者なら承諾も要求される。
「民法って、本人が亡くなったあとまで考えているんですね」
「そうだな」
私はノートにまとめました。
胎児の認知。
母の承諾。
死亡した子の認知。
直系卑属が必要。
直系卑属が成年者なら、その承諾。
「……よし!」
私は満足しました。
「これなら覚えられます!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「明日には忘れてるんじゃねえか」
「忘れません!」
「本当か?」
「たぶん!」
「自信ねえな!」
私は笑いました。
でも。
これらの規定には、共通する考え方があると思います。
認知する側の意思だけでは決められない場合がある。
子供自身の意思。
母親の意思。
直系卑属の意思。
法律は、そうした人たちの立場も考慮しているのです。
◇
「では、強制認知です!」
私はノートをめくりました。
――民法第七百八十七条。
認知の訴え。
「先輩、任意認知は分かりました」
「ああ」
「でも、父親が絶対に認知しない場合はどうするんですか?」
「裁判手続だな」
「はい!」
私は書きました。
強制認知。
父親などが任意に認知しない場合、法律上の親子関係の成立を裁判によって求める制度。
「でも、いきなり訴訟ではないんですよね」
「そうだ」
「まず、家庭裁判所で調停です」
ここで。
私は一度、鉛筆を止めました。
危ない。
また、現代の条文番号を書きそうになりました。
現代では、家事事件手続法二百五十七条。
でも。
昭和六十三年には、家事事件手続法はありません。
当時は、家事審判法。
「先輩!」
「何だ」
「今日は、ちゃんと覚えてます!」
「何をだ」
「昭和六十三年の調停前置は、家事審判法十八条です!」
「おお」
「未来の法律を使いません!」
「最初からそうしろ」
私は胸を張りました。
調停前置主義。
家庭に関する一定の事件については、まず家庭裁判所の調停手続を経る。
そして。
調停によって解決できない場合には、訴訟で親子関係の成立を求める道がある。
「ただし、調停の不成立が、必ずそのまま認知を成立させるわけではありません」
「そうだな」
「親子関係が認められるか、裁判で判断されることになるんですね」
「ああ」
私は頷きました。
そして。
「先輩、認知の訴えを起こせる人は、誰ですか?」
相馬先輩が言いました。
「条文を読め」
「はい!」
民法七百八十七条。
子。
その直系卑属。
又は、これらの者の法定代理人。
「この人たちですね」
「そうだ」
「父親本人が、成年の子の承諾を無視して認知したいからという理由で、自由に認知の訴えを起こせるわけじゃない」
「ああ」
ここで、私は昨日の黒田義雄を思い出しました。
あの人は言いました。
「俺が父親だ。認知するかどうかは俺が決める」
でも。
任意認知には、成年の子の承諾が必要。
認知の訴えを提起できる人も、法律で定められている。
つまり。
父親が認知したいからといって、何でも自由にできるわけではないのです。
「……なるほど」
私は頷きました。
でも。
もう一つ。
大事な期限があります。
「先輩」
「何だ」
「認知の訴えって、いつまででも起こせるんですか?」
相馬先輩は、首を横に振りました。
「父親が死んだ場合は、期限がある」
「はい」
私は赤鉛筆を取りました。
民法七百八十七条ただし書。
父又は母の死亡の日から三年を経過したときは、認知の訴えを提起できない。
「三年……」
私は呟きました。
「短いですね」
「そうだな」
たとえば。
父親が認知しないまま死亡した。
子供は、その父親との法律上の親子関係を成立させたい。
その場合。
死亡後も認知を求める制度はあります。
でも。
いつまでも無制限に訴えを提起できるわけではない。
「死亡の日から三年が原則の期限なんですね」
「そうだ」
私は大きく囲みました。
――死後認知の訴えは、死亡の日から三年。
なお、期間に関する判例上の問題が生じる特殊な事情もありますが、まず試験で押さえる基本は、この三年です。
「先輩、どうして期限があるんでしょう」
「お前ならどう思う」
私は考えました。
父親が亡くなっている。
その後、何十年も経ってから親子関係を争う。
証拠が失われる。
相続関係も複雑になる。
ほかの相続人や第三者の立場も不安定になる。
「……法律関係を、いつまでも不安定にしないためでしょうか」
「そうだな」
片桐所長が頷きました。
「親子関係を成立させる利益と、法律関係の安定。その両方を考える必要がある」
「はい」
私は、その言葉を書きました。
認知は、子供を守るための制度。
でも。
ほかの人の法律上の地位を、無期限に不安定にしてよいわけではない。
なるほど。
民法は、ここでも公平を考えているのです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「一番大事なところが残ってるな」
「認知の効果ですね!」
「ああ」
私はノートに大きく書きました。
――民法第七百八十四条。
認知の効力。
認知は、出生の時にさかのぼって、その効力を生じる。
ただし、第三者が既に取得した権利を害することはできない。
「これ、すごいですよね」
「何がだ」
「認知した日からじゃないんですよ」
「ああ」
「生まれた日まで、さかのぼるんです!」
私は、昨日の美咲さんを思い出しました。
二十歳。
もし認知が成立すれば。
その日から突然、父親ができるというだけではない。
法律上は、出生の時にさかのぼって父子関係があったものとして扱われる。
「まるで、時間を巻き戻すみたいです」
私は言いました。
「でも、先輩」
「何だ」
「それなら、昔の相続も全部やり直しになるんですか?」
相馬先輩は、少し笑いました。
「そこが、ただし書だ」
「第三者の既得権ですね」
「そうだ」
私は考えました。
認知によって、出生時にさかのぼって親子関係が成立する。
そうなると。
過去に相続が始まっていた場合にも、影響する可能性があります。
でも。
第三者が既に取得した権利まで、何でも奪い返せるわけではありません。
「先輩、具体例を考えてみます」
「やってみろ」
私はノートに書きました。
ある男性が死亡した。
その男性には、婚姻関係にない女性との間に子供がいた。
しかし、生前には認知されていなかった。
男性の死亡後、認知の訴えによって法律上の父子関係が成立した。
「この場合、その子供は父親の相続について権利を主張できる可能性がありますよね」
「ああ」
「でも、ほかの相続人が既に遺産分割を済ませていたら?」
片桐所長が口を開きました。
「民法九百十条を見てみろ」
「……九百十条?」
私は六法をめくりました。
そこには、認知後の相続関係についての特別な規定がありました。
相続開始後に認知によって相続人となった者が、遺産分割を求めようとする場合。
ほかの共同相続人が既に分割その他の処分をしていたときは、価額による支払請求の問題になります。
「……なるほど!」
私は顔を上げました。
「認知したら、必ず遺産分割を全部ひっくり返すわけじゃないんですね!」
「そうだ」
「場合によっては、お金で調整する」
「ああ」
私は頷きました。
認知の遡及効。
でも。
第三者の既得権の保護。
そして。
相続関係を調整する特別規定。
「すごい……」
私は呟きました。
「認知って、ただ戸籍に父親の名前を載せるだけじゃないんですね」
「何度も言ってるだろ」
「はい!」
ここで、もう一つ重要なことがあります。
私は、美咲さんの事件を思い出しました。
黒田義雄は、認知すれば娘の土地に権利が生じるようなことを言っていました。
でも。
それは違います。
「所長」
「何だ」
「認知が成立しても、美咲さんが母親から相続した土地は、当然に義雄さんとの共有にはならないんですよね」
「そうだ」
「成年した娘の財産を、父親が勝手に売る権限も生まれない」
「そのとおりだ」
私は大きく頷きました。
そして。
「ただ、将来の相続には影響する可能性がある」
所長が頷きました。
「そこが大事だ」
もし美咲さんが亡くなった場合。
その時点で、配偶者も子もなく、母親も亡くなっていて、ほかに先順位の相続人がいない。
そして黒田義雄との法律上の父子関係が成立していれば。
義雄が相続人となる可能性があります。
「でも、それは将来、美咲さんの相続が始まったときの話ですね」
「そうだ」
「今の土地を、父親が当然に共有できるわけじゃない」
「ああ」
私はノートに書きました。
――認知の遡及効と、他人の財産を勝手に取得できることは別。
これも、絶対に忘れないようにします。
◇
「では、次!」
私はノートをめくりました。
――民法第七百八十五条。
認知の取消しの禁止。
「先輩、認知した父親は、あとから取り消せないんですよね」
「ああ」
「気が変わったから、やっぱり認知をやめる、というのは駄目」
「そうだ」
私は頷きました。
たとえば。
父親が、ある子供を認知した。
数年後。
その子供との関係が悪くなった。
すると父親が言い出した。
「やっぱり認知を取り消す!」
「これは認められませんね」
「そうだ」
「親子関係は、気分で取り消せない」
「ああ」
でも。
「先輩」
「何だ」
「本当は血のつながりがないのに、認知してしまった場合は?」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「いい質問だな」
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
先輩は六法を指差しました。
「次の条文を見ろ」
私はページを見ました。
民法七百八十六条。
認知に対する反対の事実の主張。
昭和六十三年の条文では、子その他の利害関係人が、認知に対して反対の事実を主張できるとされていました。
「つまり」
私は言いました。
「認知した父親が気分で取り消すことと、認知が真実の親子関係に反するから効力を争うことは、別なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
認知の取消しは禁止。
でも。
真実の親子関係が存在しないなど、認知の有効性そのものを争う問題は別です。
「ここ、混同しちゃいけませんね」
「そうだな」
所長が静かに言いました。
「親子関係は、紙一枚で自由に作ったり消したりできるものではない」
「はい」
私は、その言葉をノートに書きました。
認知は、法律上の親子関係を成立させる重大な行為。
だからこそ。
成立要件も。
効果も。
取消しや無効を争うルールも。
慎重に定められているのです。
なお、現代では令和四年の民法改正によって、認知の無効を争う訴えの規定も見直されています。
でも、昭和六十三年の私たちが使うのは、当時の七百八十六条です。
今の条文をそのまま読み替えてはいけません。
「……民法の時代差って、本当に怖いですね」
「だから、今の六法を使えって言ってるだろ」
「はい……」
私は苦笑しました。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私は、ここまでの内容を見直しました。
認知。
任意認知。
強制認知。
成年の子。
胎児。
死亡した子。
認知能力。
遡及効。
第三者の既得権。
認知の訴え。
三年の期間制限。
そして、認知の取消しの禁止。
「……多い!」
私は思わず叫びました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だよ」
「覚えることが多すぎます!」
「民法だからな」
「しかも、昭和と令和で違うところまであるんですよ!」
「そうだな」
「もう頭がいっぱいです!」
相馬先輩は笑いました。
「じゃあ、昨日の事件を思い出せ」
「美咲さんですか?」
「ああ」
「黒田義雄が突然認知しようとした事件ですね」
「そうだ」
「美咲さんは二十歳」
「うん」
「成年者」
「うん」
「だから任意認知には本人の承諾が必要」
「そうだ」
「本人は承諾していない」
「うん」
「だから、黒田義雄は一方的に任意認知できない」
「そのとおり」
私は頷きました。
「そして、認知が成立したとしても、娘の土地を勝手に管理できるわけじゃない」
「そうだ」
「認知の効果は出生時までさかのぼるけど、第三者の既得権は害せない」
「ああ」
私は少し笑いました。
そうか。
全部、一つの事件につながっている。
認知。
父親になりたいという意思。
でも、成年の子の承諾。
認知が成立したあとの法律関係。
相続。
財産。
家族。
「……なるほど」
私は呟きました。
「条文って、バラバラに覚えるから難しいんですね」
片桐所長が頷きました。
「事実から考えろ」
「はい」
「誰が、誰を、どうしたいのか」
「はい」
「それによって、必要な条文が決まる」
私は、ゆっくり頷きました。
たとえば。
父親が、自分の子供を認知したい。
なら、任意認知。
成年の子なら、本人の承諾。
胎児なら、母の承諾。
死亡した子なら、直系卑属の存在と、成年の直系卑属の承諾。
父親が認知しない。
なら、子などが認知の訴えを考える。
父親が亡くなっている。
なら、三年の期間制限を確認する。
認知が成立した。
なら、出生時への遡及効。
ただし、第三者の既得権保護。
「……つながりました!」
私は拳を握りました。
「全部、つながりました!」
相馬先輩が笑いました。
「やっとか」
「はい!」
法律の勉強は、暗記だけではありません。
何のための制度なのか。
誰を守るための要件なのか。
そこを理解すると、条文の意味が見えてくる。
認知は。
父親が子供を認める制度。
でも。
それだけではありません。
子供の法律上の地位を守る制度。
親子関係を明確にする制度。
相続や扶養など、家族の法律関係を成立させる制度。
そして。
成年した子供の意思を尊重する制度でもあるのです。
◇
「所長!」
私は顔を上げました。
「何だ」
「確認問題を出してもらっていいですか?」
「いいだろう」
片桐所長は、少し考えました。
「婚姻関係にない男女の間に子が生まれた。母子関係は、原則としてどう成立する」
「分娩の事実によって、当然に成立します!」
「判例は?」
「最高裁昭和三十七年四月二十七日!」
「よし」
私は小さく拳を握りました。
「では、父親が任意認知する方法は?」
「届出、又は遺言です!」
「認知する父親が未成年者だった場合、法定代理人の同意は必要か」
「不要です!」
「成年の子を認知する場合は?」
「本人の承諾が必要です!」
「胎児を認知する場合は?」
「母の承諾が必要です!」
「死亡した子を認知する場合は?」
「その子に直系卑属がいる場合に限ります。直系卑属が成年者なら、その承諾も必要です!」
所長が頷きました。
「認知の効力は、いつから生じる」
「出生の時にさかのぼります!」
「ただし?」
「第三者が既に取得した権利を害することはできません!」
「認知の訴えを提起できる者は?」
「子、その直系卑属、又はこれらの者の法定代理人です!」
「父親の死亡後、いつまで訴えを提起できる」
「原則として、死亡の日から三年です!」
「認知した父親が、気分で認知を取り消せるか」
「できません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は、思わず笑いました。
やった。
認知。
主要論点、整理できました。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「昭和六十三年の民法七百八十条に、『成年被後見人』って書いてあるか?」
「ありません!」
「何て書いてある?」
「無能力者です!」
「よし」
「現代では、未成年者又は成年被後見人と書かれています!」
「未来の話は聞いてねえ!」
また怒られました。
でも。
今日は、ちゃんと覚えています。
昭和六十三年。
成年年齢二十歳。
禁治産者制度の時代。
認知能力の条文には、無能力者という表現。
調停前置は、家事審判法。
現代。
成年年齢十八歳。
成年後見制度。
家事事件手続法。
そして、認知に関する一部の規定も改正されている。
「……時代って、法律を変えるんですね」
私は呟きました。
片桐所長が、静かに言いました。
「だが、変わらないものもある」
「変わらないもの?」
「親子関係を、軽く扱ってはいけないということだ」
私は、はっとしました。
そうです。
認知は、昔も今も重い制度です。
父親が、自分の子供だと認める。
そのことによって、法律上の親子関係が成立する。
そこには。
権利だけではなく、責任も伴います。
だから。
親の都合だけで考えてはいけない。
子供の人生も、考えなければならない。
法律が改正されても。
その根底にある考え方は、受け継がれているのです。
◇
私は、ノートの最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書こう。
少し考えました。
そして。
ゆっくり、鉛筆を走らせました。
――認知は「親子関係を成立させる制度」。成年の子には承諾が必要で、効力は出生にさかのぼる。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、忘れないと思います。
美咲さんのことを思い出せばいい。
二十年間、父親に会ったことがなかった。
母親と二人で暮らした。
母親が亡くなった。
その家と土地を、守ろうとした。
そして。
突然現れた父親に対して。
「私は、承諾しません」
そう言った。
あの一言には、二十年間の人生が詰まっていました。
民法七百八十二条。
成年の子の承諾。
短い条文です。
でも。
あの条文がなければ、美咲さんは、突然現れた父親によって、一方的に法律上の親子関係を成立させられていたかもしれません。
もちろん。
血のつながりを知りたい子供もいます。
父親に認知してほしい子供もいます。
養育費を求めたい子供もいます。
父親が亡くなったあと、法律上の親子関係を成立させ、相続上の地位を明確にしたい子供もいます。
だからこそ、強制認知という制度もある。
一方で。
成年になった子供には、自分の意思があります。
それを無視してよいわけではありません。
「……民法って、ちゃんと両方考えてるんですね」
私は呟きました。
相馬先輩が言いました。
「何をだ」
「親の立場と、子供の立場です」
「ああ」
「認知したい親もいる」
「うん」
「認知してほしい子供もいる」
「うん」
「でも、認知されたくない成年の子もいる」
「そうだ」
私は頷きました。
だから。
任意認知には要件がある。
強制認知には手続がある。
そして。
認知の効果には、第三者の権利を守る制限もある。
民法は、ただ親子という言葉を定義しているのではありません。
人と人との関係を、法律上どう守るか。
そこまで考えているのです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「ついでに、床も掃け」
「……先輩」
「何だ」
「私、今日ずっと勉強してたんですよ」
「知ってる」
「ちょっと疲れたんです」
「そうか」
「だから、掃除は先輩がやってください!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「ほう」
「はい!」
「じゃあ、俺がお前の父親だったら、掃除を命令できるのか?」
……。
私は固まりました。
「……何で急に父親なんですか」
「今日のテーマだろ」
「そうですけど!」
先輩は笑いました。
「親子関係があれば、何でも命令できると思うか?」
「思いません!」
「そうだよな」
「成年した子供の財産だって、親が勝手に管理できないんですから!」
「正解」
私は、はっとしました。
そうでした。
美咲さんの事件。
認知。
親子関係。
でも。
親だからといって、成年した子供の人生を何でも決められるわけではない。
そして。
その逆も同じ。
親子関係が成立したからといって、相手の財産が当然に自分のものになるわけでもない。
「先輩!」
「何だ」
「私、今日のこと、完全に理解しました!」
「そうか」
「認知は、親子関係を成立させる制度です!」
「うん」
「財産を勝手に管理する権限を与える制度じゃありません!」
「そうだ」
「だから、仮に先輩が私の父親でも、掃除を命令する権限が当然にあるわけじゃありません!」
相馬先輩が笑いました。
「そのとおりだ」
「ですよね!」
「でもな」
「はい?」
「俺は、お前の父親じゃねえ」
「……はい」
「先輩だ」
「はい」
「そして、所長から掃除を頼まれてる」
……。
私は、ゆっくり奥を見ました。
「所長」
「何だ」
「本当ですか?」
所長は帳簿を閉じました。
「本当だ」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「ずるい!」
「何がだ」
「民法の勉強を利用して、掃除させようとするなんて!」
「勉強と掃除は別問題だろ」
……確かに。
そこは、認知とは関係ありません。
私は、しぶしぶ箒を手に取りました。
「分かりましたよ!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「何だ!」
「掃除が終わったら、もう一問出します!」
「は?」
「胎児の認知と、死亡した子の認知の違いです!」
「何で俺が試験を受けるんだよ!」
「復習です!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いながら、床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
美咲さんは、母親が残してくれた家に帰っているのでしょう。
縁側。
小さな庭。
古い柱に刻まれた、子供の頃の身長の印。
そして。
二十年間、母親と暮らした記憶。
法律は、その思い出そのものを作ることはできません。
失われた二十年間を、取り戻すこともできません。
でも。
突然現れた父親に対して。
成年した娘が、自分の意思を示すことは守れる。
子供が父親に認知を求める道を用意することもできる。
そして。
親子関係が成立したとき、その法律上の効果を明確にすることもできる。
それが、認知という制度なのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――認知は「親子関係を成立させる制度」。成年の子には承諾が必要で、効力は出生にさかのぼる。
よし。
これなら忘れません。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、認知については完璧です!」
「そうか!」
「だから、先輩が私を認知しようとしても、私は承諾しません!」
「誰がお前を認知するか!」
「民法七百八十二条です!」
「知ってるよ!」
……なるほど。
成年の子の承諾が必要だと理解すると。
認知される予定もないのに、拒否する練習までできるようです。
残念ながら。
それだけでは、掃除を免れる法律上の権利にはならないのでした。
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