[民法・認知]現場編 「父親だと名乗れば、遺産ももらえる」の罠。二十年ぶりに現れた男と、娘の承諾を要求する民法七百八十二条
血がつながっていることと、家族になれることは、同じではありません。
たとえば。
二十年間、一度も会いに来なかった父親が。
ある日突然、目の前に現れて。
「俺はお前の父親だ。だから、俺にも権利がある」
そう言い出したら。
子供は、必ず受け入れなければならないのでしょうか。
そして。
父親が自分の子供だと認めれば、法律上の親子関係は、いつから生まれるのでしょうか。
認知した日?
届出を出した日?
それとも。
生まれた日まで、さかのぼる?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法七百七十九条から始まる「認知」という制度に、思いがけない恐ろしさを教えられることになります。
父親が子供を認めない。
そんな事件なら、想像できました。
でも。
今回の相談は、正反対だったのです。
父親が、突然、認めると言い出した。
それも。
娘が大きな財産を相続した、その直後に。
◇
「父親に、認知されそうなんです」
朝九時。
事務所を訪れた若い女性は、そう言いました。
「……認知、されそう?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、藤沢美咲さん。
二十歳。
細い肩。
白いブラウス。
膝の上では、小さなハンドバッグを両手で握りしめています。
「父親だという人が、突然現れたんです」
「突然?」
「はい。今まで一度も会ったことがありませんでした」
私は相談票を開きました。
「お父さんとは、ずっと別々に暮らしていたんですか?」
「……父親は、私が生まれる前に母を捨てたんです」
美咲さんは、静かに話し始めました。
二十年前。
美咲さんの母親、藤沢春江さんは、ある男性と交際していました。
男性の名前は、黒田義雄。
当時二十五歳。
町で建材店を営む家の息子でした。
春江さんが妊娠を告げると。
義雄は言ったそうです。
「結婚なんかできるか。俺には別の縁談がある」
そして。
姿を消した。
養育費も払わず。
認知届も出さず。
娘が生まれたことさえ、確かめに来なかった。
「母は、一人で私を育ててくれました」
美咲さんは言いました。
「昼は縫製工場。夜は内職をして」
「……大変だったでしょうね」
「はい。でも、母は一度も、私が生まれなければよかったなんて言いませんでした」
美咲さんが、少し笑いました。
「私は、お母さんが二人分、愛してくれたから」
私は鉛筆を止めました。
そして。
「お母さんは、今は?」
そう尋ねました。
美咲さんの表情が曇ります。
「半年前に、亡くなりました」
「あ……」
「病気でした」
私は小さく頭を下げました。
「お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
美咲さんはハンカチを取り出しました。
「母が残してくれた家と土地があるんです」
「家と土地?」
「はい。祖父母から母が相続したもので……」
駅から少し離れた住宅地。
土地は約百坪。
古い木造住宅が一軒。
近くに新しい道路が通る計画があり、周辺の地価が上がり始めているそうです。
「不動産屋さんには、二千万円くらいの価値があると言われました」
「二千万円……」
昭和六十三年。
二十歳の女性にとっては、相当な財産です。
もっとも。
美咲さんにとって、そこは単なる不動産ではありません。
お母さんと二十年間、一緒に暮らした家。
柱には、子供の頃につけた身長の印。
台所には、母親が使っていた古い鍋。
縁側には、二人で育てた朝顔の鉢。
そんな家でした。
「その相続のことが、どこからか父親に伝わったらしくて……」
美咲さんは、バッグから一通の封筒を取り出しました。
「これが届いたんです」
私は封筒を開きました。
中には手紙。
差出人。
黒田義雄。
そして。
そこには、とんでもないことが書かれていました。
――美咲へ。
――私はお前の実の父親である。
――これまで事情があって認知してこなかったが、今後は正式な親子関係を成立させる。
――認知は出生時にさかのぼって効力を生じるため、私には父親としての権利がある。
――お前が相続した不動産についても、今後は親子で協議する必要がある。
――認知届は近日中に提出する。
私は、最後の一文を読みました。
もう一度。
読み直しました。
「……何ですか、これ」
つい、口から出てしまいました。
相馬先輩が隣から覗き込みます。
「どうした」
「先輩、見てください!」
「何だよ、朝から騒がしいな」
先輩は手紙を読みました。
一行。
二行。
三行。
そして。
「……ほう」
嫌な笑い方をしました。
「これは、なかなか厚かましい親父だな」
「ですよね!」
私は思わず声を上げました。
二十年間、養育費も払わなかった。
母親が亡くなっても、葬式に来なかった。
それなのに。
娘が土地を相続した途端。
「父親だから権利がある」
ですって?
いくら何でも。
都合がよすぎませんか!
「美咲さん」
私は言いました。
「安心してください!」
「え?」
「成年の子を認知するには、本人の承諾が必要です!」
民法七百八十二条。
成年の子の認知。
現代の行政書士試験でも重要な論点です。
私は勢いよく続けました。
「だから、美咲さんが嫌だと言えば、お父さんが一方的に任意認知することはできません!」
美咲さんの表情が、少し明るくなりました。
「本当ですか?」
「はい!」
よし。
今回は簡単です。
民法七百八十二条。
成年の子の承諾。
これで決まり。
そう思った瞬間。
「こはる」
片桐所長が口を開きました。
「はい?」
「美咲さんは、何歳だと言った」
「二十歳です!」
「そうだな」
「はい!」
所長は、私を見ました。
「今、何年だ」
……。
嫌な予感。
「昭和六十三年です」
「では、成年年齢は?」
「……二十歳」
あ。
私は口を開けました。
そうでした。
現代の民法。
成年年齢は十八歳。
でも、昭和六十三年は二十歳。
つまり。
十九歳なら、まだ未成年者。
二十歳なら、成年者。
同じ「成年の子」でも。
時代によって、境界線が違う!
「お前、また妙なことを考えてただろ」
相馬先輩が言いました。
「い、いえ!」
「顔に書いてあるぞ」
「何がですか!」
「二十歳なんだから当然だ、って顔だ」
「当然じゃないですか!」
「だったら何を慌ててる」
……未来人の苦労を知らない人は、気楽ですね。
私は咳払いしました。
「でも、今回は二十歳ですから!」
「ああ」
「昭和六十三年でも成年者です!」
「そうだ」
「だから問題ありません!」
相馬先輩が頷きました。
「ようやく、今の六法に戻ってきたな」
ひどい。
でも。
今回の本当の問題は、そこからでした。
◇
「所長、少し気になることがあります」
私は手紙を指差しました。
「この父親、認知すれば娘の土地にも権利があるみたいなことを書いています」
「ああ」
「でも、認知したからといって、父親が娘の財産を共有できるわけじゃありませんよね?」
「そのとおりだ」
所長が頷きます。
「認知は、法律上の親子関係を成立させる制度だ」
「はい」
「娘の財産を父親に移す制度ではない」
ですよね!
私は美咲さんを見ました。
「美咲さん。お母さんの家と土地は、お母さんから相続したものなんですよね」
「はい」
「お母さんは結婚していませんでしたか?」
「はい。ずっと独身でした」
「美咲さんに、兄弟姉妹は?」
「いません」
所長が確認しました。
「遺言書は?」
「ありませんでした」
「ほかに相続について争っている親族は?」
「いません。母の両親も、ずいぶん前に亡くなっています」
相馬先輩が腕を組みました。
「それなら、その黒田って男は、春江さんの相続人じゃねえ」
「そうですよね」
「婚姻していなかった以上、配偶者でもねえからな」
私は大きく頷きました。
父親が娘を認知する。
それによって、法律上の父子関係が成立する。
しかし。
それで突然、娘が母親から受け継いだ土地の所有権が父親に移るわけではありません。
「でも……」
美咲さんが、小さく言いました。
「父親には、何か考えがあるみたいなんです」
「考え?」
「この間、家まで来たんです」
「えっ?」
「それで……」
美咲さんは、震える手で、もう一枚の紙を取り出しました。
不動産の売却についての覚書。
そこには。
――藤沢美咲所有不動産の売却及び売却代金の管理について、黒田義雄に一任する。
と書かれていました。
……。
私は目を疑いました。
「これ、署名したんですか!?」
「いいえ!」
美咲さんは慌てて首を振りました。
「怖くなって、逃げたんです」
「よかった……!」
私は胸を撫で下ろしました。
相馬先輩は、覚書を見つめました。
「なるほどな」
「先輩?」
「認知だけじゃ、土地は取れねえ」
「はい」
「だから今度は、娘に財産管理を任せろと言ってるわけだ」
先輩の目が細くなりました。
「父親になれば、娘が言うことを聞くと思ってるんだろ」
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「まず、認知と財産管理を分けろ」
「はい!」
「次に、この男が本当に父親なのかも確認が必要だ」
「……あ」
そうでした。
そもそも。
黒田義雄が本当に美咲さんの実父なのか。
そこから確認しなければなりません。
美咲さんは、母親から義雄の名前を聞いていました。
若い頃の写真も残っているそうです。
母親が書き残した手紙にも、義雄の名前がある。
しかし。
そのことと、法的な認知が既に成立していることは別です。
「美咲さん」
所長が尋ねました。
「戸籍には、父親の記載がありますか」
「いいえ。父の欄は空白です」
「これまで認知届が出されたこともない?」
「ありません」
所長は頷きました。
「では、今のところ、その男との法律上の父子関係は成立していないわけですね」
「はい」
「そして、美咲さんは認知を望んでいない」
「……はい」
美咲さんは、はっきり答えました。
「私は、あの人を父親だと思えません」
その言葉には、二十年間が詰まっていました。
◇
翌日。
事務所に、黒田義雄本人が現れました。
相談者本人の承諾もないまま、勝手に法律相談の場へ押しかけてきたのです。
五十歳前後。
上等な背広。
金の腕時計。
革靴はぴかぴか。
見るからに、景気のよさそうな男でした。
「ここが片桐行政書士事務所か」
男は入り口で言いました。
「黒田義雄です」
片桐所長が、顔を上げました。
「何かご用でしょうか」
「うちの娘が、ここに相談に来たそうじゃないか」
私は眉をひそめました。
うちの娘。
二十年間、ほったらかしにしておいて。
よく言えますね。
「相談内容については、お答えできません」
所長が言いました。
「依頼人の秘密に関わりますので」
「ふん」
義雄は鼻で笑いました。
「行政書士なんて、所詮は代書屋だろ」
……出ました。
こういう人。
必ず言うんですよね。
代書屋。
書類を書くしか能がない。
そう思っている人ほど。
書類に何が書かれているか、まるで分かっていないのです。
「とにかく」
義雄は椅子に座りました。
「認知は父親がするものだろう」
「任意認知は、父親の届出によって行うことができます」
私は答えました。
「ほらな!」
義雄が笑いました。
「じゃあ、俺が認知すると言えば終わりじゃないか」
「ただし」
私は言いました。
「成年の子を認知するには、その子の承諾が必要です」
「……何?」
「民法七百八十二条です」
義雄の眉が動きました。
「承諾?」
「はい」
「娘が嫌だと言ったら、父親は認知できねえってのか?」
「成年の子について、本人の承諾がない任意認知はできません」
「馬鹿な!」
義雄が机を叩きました。
「俺の血を引いているんだぞ!」
「血縁関係と、認知の法律上の要件は別です」
「親が子を認めるのに、子供の許可がいるなんておかしいだろ!」
……。
私は一瞬、言葉に詰まりました。
でも。
ここで相馬先輩が口を開きました。
「黒田さん」
「何だ」
「二十年間、父親として名乗り出なかったんですよね」
「事情があったんだよ」
「そうですか」
「男には仕事も付き合いもある。若い頃のことを、いつまでも責められても困る」
相馬先輩の表情が変わりました。
笑っていません。
「じゃあ、質問を変えます」
「何だよ」
「娘さんが二十歳になってから、突然認知しようと思った理由は?」
「父親だからに決まってるだろ」
「なるほど」
先輩は頷きました。
「では、娘さんの不動産を管理する覚書は、何のためです?」
義雄の顔が、少し強張りました。
「……何だと?」
「ご本人が持っていた書面です」
「俺は親として、娘の財産を守ってやろうとしただけだ!」
「娘さんは成年者ですよ」
「だから何だ!」
「認知しても、成年の子の財産を当然に管理する権限は生まれません」
義雄は黙りました。
私は心の中で拍手しました。
そうです!
認知は、財産管理の委任状ではありません!
父親だから。
実の親だから。
その一言で、成年した娘の家や土地を自由に処分できるわけではないのです。
義雄は立ち上がりました。
「くだらん!」
顔が赤くなっています。
「親子関係は血で決まるんだ!」
そして、私たちを睨みつけました。
「俺は届出を出す! 本人の承諾なんかなくても、役所に行けば受け付けるだろ!」
私は口を開こうとしました。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が止めました。
「はい」
「もういい」
「でも!」
「相手の主張は分かった」
義雄が鼻で笑いました。
「やっぱり何もできねえんだな」
相馬先輩は、表情を変えませんでした。
「俺たちは弁護士じゃありませんからね」
「だったら引っ込んでろ!」
「ただ」
先輩が静かに言いました。
「法律上の要件は、書面で明確にできます」
義雄は、意味が分からないという顔をしました。
「何だ、それ」
「お帰りください」
片桐所長が短く言いました。
「本人の承諾なく、こちらから相談内容をお話しすることもありません」
義雄は舌打ちして、出ていきました。
乱暴に閉まった扉が、しばらく震えていました。
◇
「先輩!」
私は椅子から立ち上がりました。
「何で帰しちゃったんですか!」
「何だよ」
「今の人、完全に法律を舐めてますよ!」
「ああ」
「しかも娘さんの土地まで狙って!」
「そうだな」
「もっと言い返さないと!」
相馬先輩が、煙草を一本取り出しました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「法律紛争について、依頼人の代理人として相手と示談交渉することはできねえ」
「分かってます」
「だったら、口で勝とうとするな」
先輩は机を指差しました。
「事実を整理しろ。条文を確認しろ。本人名義の書面を作るんだ」
私は口を閉じました。
そうです。
私たちの武器は、怒鳴り声ではありません。
法律。
証拠。
そして。
書面。
「まず、民法七百八十二条です!」
私は六法を開きました。
「成年の子は、その承諾がなければ、これを認知することができない!」
「よし」
「美咲さんは二十歳です!」
「そうだ」
「本人が承諾していません!」
「そこだ」
片桐所長が言いました。
「だが、それだけで終わるな」
「え?」
「相手は、認知の効果を利用しようとしている」
「はい」
「では、認知したら何が起こる」
私は答えました。
「法律上の親子関係が生じます」
「いつからだ」
「出生の時にさかのぼります」
「そうだ」
民法七百八十四条。
認知は、出生の時にさかのぼって効力を生じる。
ただし、第三者が既に取得した権利を害することはできない。
私は頷きました。
「つまり、二十歳で認知されたとしても、法律上は出生時から親子関係があったものとして扱われるんですね」
「ああ」
「でも、それによって娘の財産が父親の共有財産になるわけじゃない」
「そうだ」
所長は続けました。
「では、別の問題だ」
「はい」
「仮に認知が成立したあと、美咲さんが亡くなったら?」
「……え?」
「美咲さんに配偶者も子もなく、母親も既に亡くなっている。ほかに先順位の相続人がいない場合だ」
私は、しばらく考えました。
そして。
背筋が冷たくなりました。
「……父親」
「そうだ」
「認知によって法律上の父子関係が成立すれば、父親が相続人になる可能性がある……」
所長が頷きました。
美咲さんは、今、健康です。
だから当然、今すぐ義雄が土地を相続できるわけではありません。
でも。
将来の相続関係は、大きく変わります。
婚姻関係にない男女の間に生まれた子と、その父親。
法律上の父子関係が成立すれば。
互いに相続人となり得る関係になる。
「……所長」
「何だ」
「認知って、思ったよりずっと重い制度ですね」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「だから、成年の子には承諾を求める」
私は、ようやく気づきました。
認知は。
名前だけの問題ではありません。
戸籍に父親の名前が載る。
それだけでもありません。
相続。
扶養。
家族としての法律関係。
人生の根っこに関わる問題なのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「もう一つだ」
「はい?」
「母親はどうだった」
「……母親?」
「春江さんだ」
私は首をかしげました。
「美咲さんのお母さんですよね」
「ああ」
「お母さんは認知していないんでしょうか?」
言った瞬間。
相馬先輩が、じっと私を見ました。
「こはる」
「はい?」
「出産した母親と子供の法律上の親子関係を、どう考える」
……あ。
「そうでした!」
私は額を押さえました。
婚姻関係にない男女の間に生まれた子。
認知。
民法七百七十九条。
条文には、父又は母が認知できると書かれている。
でも。
母親と子の関係については、重要な最高裁判例があります。
昭和三十七年四月二十七日。
母と子の親子関係は、原則として分娩の事実によって当然に発生する。
「だから、美咲さんは、お母さんに認知してもらう必要はなかったんですね!」
「そういうことだ」
「お母さんから土地を相続できたのも、当然の親子関係があったから!」
「ああ」
所長が頷きました。
「条文の言葉だけで、現実の親子関係を見失うな」
「はい!」
私は六法の余白に小さく書きました。
――母子関係は分娩。父子関係には認知が問題となる。
もちろん、今回のように婚姻関係がなかった場合の話です。
そして。
もう一つ。
私たちには確認しなければならない問題がありました。
「所長」
「何だ」
「黒田義雄が、本人の承諾を偽って認知届を出そうとしたら?」
片桐所長の目が、鋭くなりました。
「そこまで想定して、証拠を残す」
私は頷きました。
いよいよ。
内容証明の出番です。
◇
その日の午後。
美咲さんに、もう一度事務所へ来てもらいました。
所長が静かに尋ねます。
「美咲さん」
「はい」
「お父さんだと名乗る黒田さんの認知について、あなた自身はどう考えていますか」
美咲さんは、しばらく黙りました。
窓の外では、車が走っていました。
遠くから、踏切の音。
チン、チン、チン。
やがて。
「……私は、認めたくありません」
美咲さんは言いました。
「血がつながっているかもしれないことは、分かっています」
「はい」
「でも、あの人が、今まで何をしてくれたんでしょう」
声が震えました。
「私が熱を出したときも」
「……」
「学校で父親のことを聞かれて、泣いたときも」
「……」
「母が亡くなる前、病室でずっと私の手を握っていたときも」
美咲さんは、涙を拭いました。
「あの人は、一度も来てくれなかった」
私は何も言えませんでした。
「なのに、土地を相続したら、急に父親だって……」
美咲さんは顔を上げました。
「私は、認知を承諾しません」
はっきりした言葉でした。
片桐所長が頷きました。
「分かりました」
そして。
「その意思を、書面に残しましょう」
美咲さんは小さく頷きました。
「お願いします」
私は鉛筆を握りました。
今度は。
怒りだけで書くわけにはいきません。
本人の意思を。
法律が要求する言葉で。
正確に残すのです。
内容証明郵便の原案を作りました。
宛先。
黒田義雄。
差出人。
藤沢美咲。
件名。
――認知に関する承諾拒絶及び財産管理権限不存在の通知。
私は一行ずつ読み上げました。
「第一。通知人は昭和四十三年生まれであり、現在二十歳の成年者である」
「うん」
「第二。貴殿は通知人に対し、父であるとして任意認知を行う意向を示している」
「うん」
「第三。民法第七百八十二条により、成年の子を認知するには、その子の承諾を要する」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。通知人は、貴殿による任意認知について承諾しておらず、今後も承諾する意思がないことを明確に通知する」
「よし」
「第五。通知人は、認知届への承諾を示す書面について署名押印した事実がなく、貴殿に承諾書の作成を委任した事実もない」
私は一度、息を吸いました。
「第六。仮に貴殿が通知人の承諾があるかのような書面を作成又は提出した場合には、その真否及び法的効力を争い、必要に応じて関係機関への相談及び法的措置を検討する」
所長が頷きました。
「続けなさい」
「第七。認知が成立したとしても、それを理由に貴殿が当然に通知人所有の不動産を管理、処分し、又は所有権を取得するものではない」
相馬先輩が、にやりとしました。
「そこだ」
「第八。通知人は、貴殿に対し、本件不動産に関する売却、管理その他の代理権を一切授与していない」
「いいぞ」
私は最後の一文を読みました。
「以上、通知人の意思を明確に通知するとともに、通知人の承諾が存在するとの誤解を生じさせる行為を行わないよう求める」
読み終わりました。
ふう。
私は少し緊張しました。
「どうでしょうか」
相馬先輩は原案を見ました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし、一つ足りねえ」
「ええっ!」
またですか!
「何が足りないんですか!」
「証拠だ」
相馬先輩は、机に数枚の紙を並べました。
美咲さんの戸籍謄本。
黒田義雄から届いた手紙。
財産管理を一任させようとした覚書。
そして。
美咲さん本人の署名押印がある意思確認書。
「相手は『娘が承諾した』と言い出すかもしれねえ」
「はい」
「だったら、その前から承諾していないことを明確にしておく」
「なるほど……」
さらに。
所長は私の原案に一本、赤線を引きました。
「ここ」
「はい」
「認知を承諾しないことと、相手が生物学上の父親かどうかは別の問題だ」
「はい」
「父親ではないと断定する必要はない」
「……確かに」
「承諾していない。その事実を明確にすればいい」
なるほど。
ここで無理に、
「あなたは父親ではない!」
と断言する必要はありません。
実際に父親かどうか。
それは別の問題です。
今回、書面で明確にすべきなのは。
美咲さんが、成年者であること。
認知について、承諾していないこと。
土地の管理を委任していないこと。
その三点です。
「所長」
私は尋ねました。
「もし黒田さんが本当に父親だったら、美咲さんは絶対に認知されないんですか?」
所長は、少し考えました。
「任意認知には、成年の子の承諾が必要だ」
「はい」
「だが、認知の制度には、裁判による道もある」
「あ……」
強制認知。
父親が認知しない場合などに、法律上の父子関係の成立を求める手続です。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「黒田本人が、娘の承諾なしに認知したいって話と、子が父親に認知を求める話は違う」
「そうですね」
「認知の訴えを提起できる者も、法律で決まってる」
民法七百八十七条。
子、その直系卑属又はこれらの者の法定代理人。
「父親が成年の娘の承諾を飛ばすために、自由に認知の訴えを起こせるわけじゃねえ」
「はい!」
私は頷きました。
同じ「認知」という言葉でも。
誰が求めるのか。
何を望んでいるのか。
どんな手続を使うのか。
そこを間違えると、結論がひっくり返ります。
「それと、こはる」
所長が言いました。
「調停の法律も確認しておけ」
「調停ですか?」
「ああ」
「家事事件手続法二百五十七条の、調停前置主義ですね!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。
「何法?」
しまった。
またやりました。
「あ、えっと、その……」
「家事事件手続法?」
「……はい」
「そんな法律、今あったか?」
ありません!
平成のずっと後です!
現在の家事事件手続法は、昭和六十三年にはまだ存在しません。
当時は、家事審判法。
調停前置については、家事審判法十八条が問題になります。
「すみません!」
私は頭を下げました。
「家事審判法十八条です!」
「そうだ」
「家事事件手続法は、まだありません!」
「当たり前だろ!」
相馬先輩が呆れました。
「お前の頭の中には、何年分の法律が入ってるんだ」
「……いろいろです」
「ちゃんと昭和六十三年の法律を使え」
「はい!」
危ない。
現代の受験知識。
便利なようで、昭和では地雷だらけです。
でも。
今回の中心は変わりません。
成年の子の承諾。
そして。
認知の効果。
そこだけは、絶対に外してはいけないのです。
◇
内容証明郵便は、美咲さん自身の名前で発送されました。
同時に。
認知届が提出された場合に備え、本人の承諾がないことを戸籍担当窓口にも相談し、対応を確認しました。
これで全てが解決するわけではありません。
でも。
少なくとも、美咲さんの意思は明確になりました。
そして。
三日後。
黒田義雄から、美咲さんの自宅に電話が入りました。
最初は、いつもの威勢のよい声だったそうです。
『何だ、あの内容証明は!』
美咲さんは、受話器を握りしめました。
『親に向かって、あんなものを送りつけるとは!』
「……私は、あなたを父親として受け入れるつもりはありません」
『何だと!』
「認知も承諾しません」
電話の向こうで、義雄が息を荒げました。
『俺が本当の父親なんだぞ!』
「そうかもしれません」
『だったら!』
「でも、二十年間、あなたは私のお父さんではありませんでした」
『……』
「お母さんが、一人で育ててくれました」
沈黙。
そして。
義雄の声が、少し小さくなりました。
『……分かったよ』
美咲さんは、耳を疑ったそうです。
『弁護士に書面を見せた』
「……はい」
『成年の子の承諾がなければ、俺が一方的に任意認知することはできないって』
「はい」
『それに、認知したって、お前の土地を俺が勝手に売れるわけじゃねえらしいな』
「……そうです」
『あの覚書も、もう持って来なくていい』
美咲さんは、静かに答えました。
「最初から、署名するつもりはありません」
義雄は黙りました。
そして。
『……認知届を勝手に出すようなことは、しない』
そう言ったのです。
翌日。
義雄から、書留郵便が届きました。
中には、短い確認書。
――藤沢美咲の承諾がないことを確認した。
――本人の承諾があるとの書面を作成又は提出しない。
――藤沢美咲所有の不動産について、代理権その他の管理処分権限を主張しない。
署名。
黒田義雄。
押印。
私は事務所でその写しを見せてもらい、思わず声を上げました。
「やりましたね!」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「しかも、本人のハンコまで!」
「そうだ」
先輩は、いつもの台詞を言いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
「今回は、本当にそうですね!」
ただし。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「認知は、単なる契約じゃない」
「……はい」
「この確認書で、血縁関係の有無まで決まるわけではないし、法律で定められた認知の手続をすべて消せるわけでもない」
「そうですね」
「今回確認できたのは、成年の子の承諾がないことと、相手が無断の届出や財産管理をしない意思を示したことだ」
「はい」
私は頷きました。
法律上の親子関係。
血縁関係。
本人の意思。
どれも、同じではありません。
そして。
認知については、もう一つ、とても大事なことがあります。
「所長」
「何だ」
「もし義雄さんが認知したあとに、やっぱり親子をやめるって言い出したら?」
所長が、私を見ました。
「何条だ」
私は六法を開きました。
民法七百八十五条。
認知の取消しの禁止。
「認知をした父又は母は、その認知を取り消すことができない!」
「そうだ」
なるほど。
親子関係は、その日の気分で結んだり切ったりするものではない。
認知する。
やっぱり嫌になったから取り消す。
そんな簡単な話ではないのです。
もちろん、真実の親子関係がないなど、認知の効力自体を争う問題は別にあります。
でも。
都合がよくなったから認知する。
都合が悪くなったから取り消す。
そのような身勝手を、民法は簡単には許さない。
「……重いですね」
私は言いました。
「親子になるって」
所長は頷きました。
「重いからこそ、法律がある」
私は、その言葉をノートに書きました。
◇
一週間後。
美咲さんが、再び事務所を訪れました。
今度は、少し明るい表情でした。
「ありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げました。
「家も、土地も、守れそうです」
「よかったです!」
私は笑いました。
「これから、どうされるんですか?」
美咲さんは、少し考えました。
「家を直そうと思っています」
「家を?」
「はい。古くなっているところが、いくつかあるので」
そして。
バッグから一枚の写真を取り出しました。
古い木造住宅。
小さな庭。
縁側。
そこに。
若い女性と、小さな女の子が座っていました。
「これ、母と私です」
私は写真を見ました。
お母さんは、穏やかな顔で笑っています。
女の子は、まだ五歳くらい。
二人とも、楽しそうでした。
「母は、よく言っていました」
美咲さんが言いました。
「この家は、あなたが帰ってくる場所だからねって」
私は、写真から目を離せませんでした。
「だから、売りたくないんです」
「……はい」
「父親が急に現れても、この家だけは渡したくなかった」
美咲さんは、少し笑いました。
「守れて、よかったです」
私は、胸の奥が温かくなるのを感じました。
民法。
認知。
七百七十九条。
七百八十二条。
七百八十四条。
試験のテキストでは、数字と短い文章が並んでいるだけです。
でも。
その一つ一つが。
誰かの人生に、深く関わっている。
誰を父親と呼ぶのか。
誰が子供として扱われるのか。
誰が誰の財産を相続するのか。
そして。
大人になった子供が、突然現れた親に対して、自分の意思を示せるのか。
法律は、そんな問題まで考えているのです。
「ところで、美咲さん」
私は尋ねました。
「もし、あの人がもっと早く認知しようとしていたら、どうだったと思います?」
「もっと早く?」
「たとえば、十歳の頃とか」
美咲さんは、しばらく考えました。
「……分かりません」
「そうですよね」
「でも」
彼女は写真を見つめました。
「十歳の頃なら、父親に会いたかったかもしれません」
「……」
「学校で、お父さんの似顔絵を描く宿題が出たことがあるんです」
「あ……」
「私は、顔を知らなかったから、想像で描きました」
美咲さんは、小さく笑いました。
「優しそうな顔にしたんです」
私は、何も言えませんでした。
「でも」
美咲さんは続けました。
「今は、もう二十歳です」
「はい」
「母が一人で育ててくれたことも、私を守ってくれたことも、全部知っています」
彼女は、はっきり言いました。
「だから今度は、私が自分で決めたいんです」
私は、ゆっくり頷きました。
そうか。
成年の子の承諾。
あの短い条文は。
単に、年齢によって手続を増やしているわけではない。
成長して、自分の人生を歩み始めた子供の意思を、法律が尊重している。
そこに意味があるのです。
「美咲さん」
「はい」
「これからも、お母さんの家を大切にしてくださいね」
「はい」
美咲さんは、笑いました。
「もちろんです」
そして、帰っていきました。
母親と写った、古い写真を胸に抱えて。
◇
夕方。
私は、机の上に六法を広げていました。
「先輩」
「何だ」
「認知って、面白いですね」
「また始まったな」
「だって、すごく複雑なんですよ!」
私は指を折りました。
「まず、任意認知!」
「うん」
「父親が自分の意思で届け出たり、遺言でしたりする!」
「そうだ」
「そして、強制認知!」
「うん」
「父親が認知しない場合に、子供などが裁判手続によって求める!」
「そうだな」
「でも、成年の子には承諾が必要!」
「任意認知の場合だな」
「はい!」
私は勢いよく続けました。
「しかも、胎児の認知には母親の承諾が必要です!」
「ああ」
「亡くなった子でも、直系卑属がいれば認知できる場合があります!」
「そうだ」
「その直系卑属が成年者なら、その承諾も必要!」
「……お前」
「はい?」
「今日はずいぶん熱心だな」
「だって、今日の事件で分かったんです!」
私は六法を指差しました。
「認知って、誰でも好き勝手にできるわけじゃないんですよ!」
「当たり前だ」
「誰が認知するのか、誰を認知するのか、相手は何歳なのか。そこで要件が変わる!」
「そうだ」
私は、思わず笑いました。
これ。
試験の暗記だけでは、なかなか頭に入りません。
でも。
今日の事件を思い出せば。
二十歳の美咲さん。
突然現れた父親。
母親が残した家。
そして、民法七百八十二条。
全部、つながって思い出せます。
「それに」
私は言いました。
「認知って、出生時までさかのぼるんですよね」
「ああ」
「でも、第三者の既得権は害せない」
「そうだ」
「何だか、時間を巻き戻すみたいですね」
相馬先輩が笑いました。
「お前、また妙なこと考えてるな」
「だって、本当にそうじゃないですか!」
認知した日から、父親になる。
そう考えると、簡単です。
でも、民法は違う。
出生の時まで、さかのぼる。
その子が生まれた瞬間から、法律上の親子関係があったものとして扱う。
ただし。
その時間の巻き戻しによって、第三者が既に取得した権利を壊してはいけない。
「過去にさかのぼるけど、他人の権利は守る……」
私は呟きました。
「民法って、やっぱり公平を考えてるんですね」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして。
「認知は、血のつながりを口で言い張るだけの制度じゃありません」
「うん」
「法律上の親子関係を生じさせる、とても重い制度です」
「そうだ」
「だから、成年の子を任意認知するには、本人の承諾が必要なんですね」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ノートを開きました。
最後の一行に。
今日の教訓を書きます。
――認知は出生にさかのぼる。だが、成年の子の人生を、父親だけの意思で決めることはできない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の女性の声でした。
『孫のことで相談したいんですが……』
「お孫さんですか?」
『はい。息子が、結婚していない女性との間に子供をもうけたらしくて……』
私は鉛筆を持ち直しました。
「はい」
『でも、息子はまだ十九歳なんです』
……。
十九歳。
昭和六十三年。
未成年者です。
『息子は認知したいと言っているんですが、私は反対なんです』
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
『親の私が認めなければ、認知なんてできませんよね?』
……来ました。
今度は。
父親が、認知したい。
でも。
その父親自身が未成年者。
しかも、その親が反対している。
「先輩」
「何だ」
「次、民法七百八十条です」
「聞こえてる」
「未成年者でも、法定代理人の同意なしに認知できますよね!」
「ああ」
「ちなみに、現代なら成年被後見人も――」
「こはる!」
「はいっ!」
「今は昭和六十三年だ!」
私は、はっとしました。
そうでした。
この時代には、成年後見制度がまだありません。
禁治産者。
昭和の民法は、そういう言葉を使います。
「……失礼しました!」
私は慌てて六法を開きました。
「昭和六十三年の民法七百八十条を確認します!」
相馬先輩が、ため息をつきました。
「お前、本当に毎回、時代を間違えるな」
「法律が変わりすぎなんです!」
「法律のせいにするな!」
私は笑いながら、受話器を握り直しました。
「すみません。まず、息子さんが認知を希望している事情を、詳しく教えていただけますか?」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
父親が認知したくない場合。
父親が認知したい場合。
子供が認知を承諾しない場合。
親が反対する場合。
そして。
子供がまだ生まれていない場合。
同じ「認知」でも、法律が守ろうとするものは、それぞれ違います。
ただ。
今日、私は一つだけ確信しました。
血がつながっている。
その事実は、大切です。
でも。
だからといって。
誰かが二十年間積み重ねてきた人生を、突然現れた人間が勝手に書き換えてよいわけではありません。
民法は、血縁だけを見ているのではない。
子供の意思も。
親としての法律上の責任も。
財産の帰属も。
そのすべてを、考えているのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり民法って、奥が深いですね!」
「そう思うなら、さっさと相談票を書け!」
「はいっ!」
私は鉛筆を走らせました。
今日の教訓。
認知は、父親が自分の都合で使う魔法ではありません。
それは。
法律上の親子関係を生み出す、重い意思表示。
そして、成年の子には。
その意思表示を受け入れるかどうか、自分で決める権利がある。
だからこそ。
二十年間、父親のいない家で育った娘が。
母親から受け継いだ小さな家を守るために。
たった一言。
「私は、承諾しません」
そう言ったことには。
法律上、とても大きな意味があったのです。
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