[嫡出否認の訴えと親子関係不存在確認の訴え]法理編 こはるノート
血がつながっていなければ、法律上の親子でもない。
そう思っていた時期が、私にもありました。
でも。
民法は、そんなに単純ではありません。
血縁関係がないと分かっていても、法律上の父子関係を簡単には否定できない場合があります。
反対に。
二十年も前に成立した戸籍上の父子関係を、今から争える場合もあります。
その違いは、たった一つ。
嫡出推定が及ぶ子なのか。
それとも、嫡出推定が及ばない子なのか。
ここを間違えると。
一年以内に訴えなければならない事件を放置したり。
本当は出訴期間の制限がない事件を、もう手遅れだと諦めたり。
取り返しのつかない失敗をしてしまうのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……民法って、意地悪ですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また始まったな」
「だって、先輩!」
「何だ」
「親子じゃないことを確認するだけなのに、どうして訴えが二種類もあるんですか!」
「理由があるからだろ」
「その理由を、今から整理するんです!」
「じゃあ最初からそう言え」
私は鉛筆を握りました。
今日のテーマは。
嫡出否認の訴え。
親子関係不存在確認の訴え。
そして。
その二つを分ける、嫡出推定です。
昨日の事件を思い出します。
二十歳の篠原美咲さん。
戸籍上の父親である篠原清次は、美咲さんが母親のおなかにいたころ、長期間海外に滞在していました。
母親と接触する機会もなかった。
それなのに清次は、
「俺が戸籍上の父親だ。もう期限切れだから、親子関係は否定できない」
と言い張り、五百万円を要求してきました。
一方。
野田信夫さん。
生後十か月の息子について、妻から突然、
「あなたの子ではない」
と告げられた男性です。
でも、信夫さん夫婦は、子供を身ごもった時期に一緒に暮らしていました。
こちらには、厳しい出訴期間がありました。
「先輩」
「何だ」
「二十年経っている美咲さんには、まだ争える可能性がある」
「ああ」
「でも、生後十か月の子供については、もう期限が迫っている」
「そうだ」
「最初は、おかしいと思ったんです」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「で、今は?」
「理由が分かりかけています」
「ほう」
「だから今日は、完璧に整理します!」
「また大きく出たな」
そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「まず、七百七十二条を開け」
「はい!」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、嫡出推定です」
私はノートの真ん中に書きました。
――民法第七百七十二条。
昭和六十三年の民法では、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定されます。
「ここ、大事ですね」
私は言いました。
「生まれたときに婚姻していたかだけじゃなくて、いつ懐胎したかが問題になるんです」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「そして、時期についての推定もある」
「はい」
私は続けました。
昭和の民法では。
婚姻成立の日から二百日を経過した後に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定される。
また、婚姻の解消または取消しの日から三百日以内に生まれた子も、婚姻中に懐胎したものと推定される。
「二百日と三百日……」
私は鉛筆を止めました。
「相変わらず数字が多いですね」
「試験勉強だろ。覚えろ」
「はい……」
でも。
なぜ、こんな推定があるのでしょう。
私は少し考えました。
「所長」
「何だ」
「この制度って、子供の父親を早く確定させるためですよね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「親子関係がいつまでも不安定では、子供の立場が定まらん」
「はい」
父親が誰か。
それは、単なる戸籍の文字ではありません。
扶養。
相続。
親権。
生活。
子供の人生に深く関わります。
だから民法は、一定の場合に夫を父親と推定する。
「でも、先輩」
「何だ」
「推定って、絶対に正しいって意味じゃありませんよね」
「ああ」
「なのに、どうして簡単に覆せないんですか?」
相馬先輩は答えました。
「簡単に覆せたら、推定してる意味がねえからだ」
「……なるほど」
「夫婦喧嘩のたびに『あいつは俺の子じゃない』で父子関係が消えてみろ」
「怖いですね……」
「子供の立場がめちゃくちゃになるだろ」
確かに。
父親が機嫌を損ねたから。
母親が別の男性と親しくしていたから。
血縁が疑わしいから。
そんな事情だけで、子供の法律上の父親が次々と変わってしまったら。
子供は安心して生活できません。
「つまり」
私は書きました。
嫡出推定は、父子関係を早期に確定し、子供の身分関係を安定させるための制度。
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「だが、推定が及ぶ場合でも、法律上決められた方法によって争うことはできる」
「それが、嫡出否認の訴えですね!」
「そうだ」
私は次のページを開きました。
◇
「では、嫡出否認の訴えです!」
私は大きく書きました。
――嫡出否認の訴え。
嫡出推定が及ぶ子について、その法律上の父子関係を否定するための訴え。
「昨日の野田信夫さんの事件ですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きます。
信夫さんは、妻と普通に同居していました。
その間に妻が子供を身ごもった。
生まれた息子は、法律上、信夫さんの子と推定される。
ところが、妻が後から、
「あなたの子ではない」
と告白した。
「だから嫡出否認の訴えを検討する必要があるんですね」
「そうだ」
「でも、ここで重要なのが……」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の民法第七百七十四条。
否認権を持つのは、夫です。
「先輩!」
「何だ」
「昭和の制度、厳しすぎませんか!」
「昨日も聞いたぞ」
「何度でも言いたくなります!」
だって。
母親は、自分の子供の血縁上の父親が誰か知っているかもしれません。
子供自身も、成長してから真実を知ることがあるでしょう。
なのに。
当時、嫡出否認権を持つのは、原則として夫だけ。
「つまり、野田さんの奥様が『あなたの子ではない』と認めても、それだけでは父子関係は消えない」
「そうだ」
「子供自身が『あの人は父親ではない』と言っても、自由に嫡出否認を起こせるわけではない」
「そういう制度だ」
私は唇を噛みました。
母親。
子供。
二人とも、自分の人生に関わる問題なのに。
制度上は、夫の否認権を中心に組み立てられていたのです。
「所長」
「何だ」
「この仕組み、現代では変わるんですよね」
所長は少し不思議そうな顔をしました。
「未来の話か」
「あっ……いえ、その」
危ない。
また未来人の癖が。
私は咳払いしました。
「仮に、将来制度を見直すとしたら、子供や母親にも否認権を認める方向が考えられるかな、と」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「お前は法律の勉強をしてるのか、法律を作ってるのか、どっちなんだ」
「勉強です!」
でも。
私は知っています。
現代では、実際にその方向へ改正されるのです。
ただし今は昭和六十三年。
私は目の前の条文に戻りました。
◇
「次に、誰を相手に訴えるかです」
私は書きました。
昭和六十三年の民法第七百七十五条。
夫の否認権は、子または親権を行う母に対する嫡出否認の訴えによって行使する。
「ここ、ちょっと不思議です」
「何がだ」
「父親である夫が、子供か母親を相手に訴えるんですよね」
「そうだ」
「父子関係を否定する訴えなのに、母親を相手にする場合もあるんですね」
相馬先輩が頷きました。
「法律で相手方が決められてるからな」
私はノートに書きました。
誰が訴えられるか。
誰を相手に訴えるか。
これは別々の問題。
「なるほど……」
私は思わず感心しました。
「法律問題って、誰に権利があるかだけじゃなくて、誰に向けて行使するかも大事なんですね」
「当たり前だ」
先輩が言いました。
「相手方を間違えたら、手続きが進まねえ」
「はい!」
所長が静かに付け加えました。
「それに、身分関係の訴訟には特別な規律がある。普通の金銭請求とは違う」
私は頷きました。
父子関係は、二人だけのお金の問題ではありません。
家族全体の権利関係にも影響する。
だから、法律は訴える方法を厳しく定めているのです。
◇
「そして最大の落とし穴!」
私は鉛筆を掲げました。
――出訴期間。
昭和六十三年の民法第七百七十七条。
夫が子の出生を知った時から、一年以内。
「一年!」
私は大きく書きました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「声がでけえ」
「ここ、絶対に忘れちゃいけないんです!」
「分かったから静かにしろ」
私はノートに野田さんの事件を書きました。
息子が生まれた。
信夫さんは出産当日に病院へ行き、出生を知った。
十か月後。
妻が、子供は信夫さんの子ではないと告白した。
「ここで信夫さんが勘違いしそうになるのが……」
私は言いました。
「妻から真実を聞いた日から一年ある、という考え方です」
「違うな」
「はい!」
大切なのは。
父親が子の出生を知った日。
血縁関係がないと知った日ではありません。
「例えば」
私は続けました。
「子供が生まれて三年後に、初めて血縁関係がないと知った場合は?」
「原則として、一年の出訴期間を過ぎているな」
「ですよね……」
私は深くため息をつきました。
これは怖い。
本当に怖い。
「所長」
「何だ」
「どうして、こんなに短いんでしょう」
「子供の身分関係を早く安定させるためだ」
「でも、夫が真実を知らなかったら?」
「その問題はある」
所長は静かに答えました。
「だからこそ、相談を受けたら、まず出生を知った日を確認する」
「はい」
「出訴期間は、実体的な正しさとは別に、権利行使を制限する」
私は頷きました。
正しい主張なら、いつでも通る。
そんなわけではない。
法律には、期限という壁があるのです。
ただし、私はノートの端に小さく書き加えました。
――特別な法定の扱いが問題となる場合もあるため、具体的な事情を確認する。
基本原則は一年。
でも、現実の案件では、条文や経過、本人の状態などを丁寧に確認しなければいけません。
「先輩」
「何だ」
「私、これから親子関係の相談が来たら、最初に出生年月日と出生を知った日を確認します」
「それでいい」
「一日だって、無駄にできませんね」
相馬先輩は頷きました。
「そうだ。期限ってのは、最後の日になってから探すもんじゃねえ」
私はその言葉をノートに書きました。
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「夫が、子の出生後に自分の嫡出子であることを承認したらどうなる」
「え?」
私は六法をめくりました。
民法第七百七十六条。
「……否認権を失います」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
――嫡出の承認。
「これも重要ですね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「ただし、出生届を出したとか、子供をかわいがっていたとか、それだけで何でも承認になると決めつけるなよ」
「はい」
私は頷きました。
承認があったといえるかは、本人の認識や言動など、具体的な事情によります。
単に出生届を提出しただけで、常に法律上の嫡出の承認が成立するわけではありません。
「つまり」
私は整理しました。
昭和の嫡出否認では。
夫に否認権がある。
出生を知った時から一年以内。
さらに、嫡出を承認した場合には否認権を失う。
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「ここまではいいな」
「はい!」
「じゃあ、次だ」
先輩は机の上に、もう一枚の相談票を置きました。
篠原美咲。
二十歳。
私は息を吸いました。
来ました。
もう一つの訴えです。
◇
「親子関係不存在確認の訴えです!」
私はノートに書きました。
――親子関係不存在確認の訴え。
法律上の親子関係が存在しないことを、裁判所に確認してもらうための訴え。
「昨日の美咲さんの事件ですね」
「ああ」
美咲さんの母親である佳代さんは、夫の清次と長期間別居していました。
しかも、清次は海外に滞在。
美咲さんが懐胎した時期、夫婦が接触する機会はなかった。
この事情が客観的に認められるなら。
夫の子を懐胎することが外観上明白に不可能だったと評価される余地があります。
「ここが、さっきの野田さんの事件と違います」
私は言いました。
「そうだな」
野田さん夫婦は、懐胎時期に一緒に暮らしていた。
一方、清次と佳代さんは、懐胎時期に接触できない状態だった。
つまり。
法律上の嫡出推定が及ぶかどうか。
その入口が違う。
「先輩」
「何だ」
「親子関係不存在確認の訴えを使うためには、単に血縁がないと主張するだけでは足りないんですよね」
「そのとおり」
「例えば、夫婦が普通に同居していたけれど、妻が別の男性の子供を身ごもった場合」
「ああ」
「血縁上の父親が別人だと分かっても、それだけで嫡出推定が及ばなくなるとは限らない」
「そういうことだ」
私は大きく頷きました。
ここ。
最大の引っかけ問題かもしれません。
血縁関係がない。
だから親子関係不存在確認。
そう考えてはいけない。
最初に考えるべきは。
嫡出推定が及ぶかどうか。
「所長」
「何だ」
「つまり、訴えを選ぶ基準は、DNA鑑定の結果だけじゃないんですね」
「そうだ」
「夫婦の別居状況や、懐胎時期の事情も大事なんですね」
所長が頷きました。
「推定を受ける子かどうかを、法律上正しく判断しなければならん」
私は書きました。
――血縁がないことと、嫡出推定が及ばないことは別問題。
よし。
これは絶対に覚えます。
◇
「では、親子関係不存在確認の訴えは、誰が起こせるんでしょう」
私はノートに書きました。
――原告適格。
相馬先輩が言いました。
「利害関係がある者だな」
「はい」
夫。
母。
子。
そして、場合によっては、相続権に影響を受ける第三者。
「第三者も訴えられるんですか?」
「ああ。法律上、親子関係の存否を確定する利益があるならな」
私は少し考えました。
「例えば、相続の場面ですか?」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「親子関係があるかどうかで、相続人の範囲が変わることがあるだろ」
「はい」
「だから、本人たち以外にも法律上の利害関係が生じる場合がある」
なるほど。
父子関係は、本人たちだけの問題ではない。
相続にも影響する。
だから、法律上の確認の利益を持つ第三者が、訴えを起こせる場合もある。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「誰でも自由に訴えられるという意味ではない」
「はい」
「単なる好奇心や、他人の家庭事情を知りたいという理由では足りん」
私は頷きました。
法律上、身分関係を確定する必要があること。
そこが重要なのです。
「じゃあ、被告はどうなります?」
私は尋ねました。
相馬先輩は答えました。
「父子関係の当事者の一方が訴えるなら、原則として他方だ」
「はい」
「利害関係を持つ第三者が訴える場合には、原則として父子関係の当事者双方を相手にする」
私はノートに書きました。
当事者からの訴え。
他方当事者が相手。
第三者からの訴え。
身分関係の当事者双方が相手。
もっとも、当事者の死亡などがある場合には、特別な訴訟手続上の扱いが問題になります。
「所長」
「何だ」
「こうして見ると、原告と被告の区別って本当に大事ですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「訴えの内容だけでなく、誰が誰に対して訴えるのかを整理する。それが基本だ」
私はノートに二重線を引きました。
◇
「そして、最大の違い!」
私は勢いよく鉛筆を掲げました。
「……またか」
相馬先輩が呆れます。
「ここが本当に大事なんです!」
私は書きました。
――親子関係不存在確認の訴えには、嫡出否認の訴えのような出訴期間の制限がない。
「つまり、二十年経っていても?」
相馬先輩が聞きました。
「法律上の要件を満たしていれば、期間が経過したという理由だけで訴えられなくなるわけではありません!」
「三十年なら?」
「同じです!」
「四十年なら?」
「出訴期間という意味では、同じです!」
私は勢いよく答えました。
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
ここで注意が必要です。
「期間制限がないからといって、必ず勝てるわけではありません」
「そうだな」
「時間が経つほど、証拠が失われることもあります」
美咲さんの事件を思い出します。
二十年前の海外滞在。
古い手紙。
出入国記録。
勤務先の証明。
母子手帳。
そうした証拠が残っていたからこそ、弁護士に具体的な事情を伝えることができました。
「先輩」
「何だ」
「もし、証拠が全部なくなっていたら?」
「立証が難しくなるな」
「ですよね」
つまり。
出訴期間がない。
それは、証拠なしでも勝てるという意味ではありません。
法律上、訴えることができることと。
その訴えが認められることは、別問題なのです。
「所長」
「何だ」
「昨日の美咲さんの事件、書類が残っていて本当によかったです」
「そうだな」
所長は静かに頷きました。
「古い事件ほど、記録の価値が大きい」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
◇
「ここまでを整理すると……」
私はノートに二つの囲みを描きました。
一つ目。
――嫡出推定が及ぶ子。
父子関係を否定するには、原則として嫡出否認の訴え。
昭和六十三年では、否認権者は夫。
出訴期間は、夫が子の出生を知った時から一年以内。
二つ目。
――嫡出推定が及ばない子。
親子関係不存在確認の訴えを検討する。
法律上の確認の利益がある者が提訴できる。
嫡出否認のような出訴期間の制限はない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「先輩、どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「悪くねえな」
「褒めましたね!」
「まあな」
「えっ!」
珍しい!
素直に褒められました!
すると。
「ただし」
先輩が続けます。
「今の法律を混ぜるなよ」
「……!」
来ました。
最大の難関。
昭和の旧法と、現代の改正民法。
私は思わず姿勢を正しました。
◇
「実はですね、先輩」
「何だ」
「この制度、現代では大きく変わるんです」
「また未来の話か」
「今回は重要なんです!」
私はノートに大きく書きました。
――令和六年四月一日施行の改正。
民法の嫡出推定制度と嫡出否認制度は、令和四年の法改正を経て、令和六年四月一日から大きく変わります。
まず。
嫡出否認権者の拡大。
昭和六十三年。
原則として夫のみ。
令和六年改正後。
父。
子。
母。
そして、一定の場合の前夫。
「……増えたな」
相馬先輩が言いました。
「増えるんです!」
私は頷きました。
「それまでは、母親や子供自身が嫡出否認できないことが、大きな問題だったんです」
「そうだろうな」
「でも、現代では本人たちの意思を尊重する方向に見直されるんです」
私は美咲さんの顔を思い出しました。
二十年間、戸籍のことで悩んでいた女性。
自分の出生について、自分で確認したいと願っていました。
もちろん、美咲さんの事件では、そもそも嫡出推定が及ばない可能性が問題でした。
だから、現代の嫡出否認権の拡大とは、法律上の入口が違います。
でも。
親子関係について、子供自身の意思を尊重する。
その方向は、つながっています。
「所長」
私は言いました。
「これって、子供を守るだけじゃなくて、子供自身にも権利を認める方向への変化なんですね」
所長が頷きました。
「そういう見方はできるな」
私は続けました。
「ただし、母親や前夫が自由に否認できるわけではありません」
「ほう」
「子供の利益を明らかに害する場合には、否認権の行使が制限されることもあるんです」
私はノートに書きました。
――子の利益が重要。
制度が変わっても。
親の都合だけで子供の立場を動かしてよいわけではない。
そこは、昔も今も大切な考え方なのです。
◇
「次に、出訴期間!」
私は勢いよく書きました。
昭和六十三年。
一年。
令和六年改正後。
原則三年。
「三倍です!」
「大きく変わるな」
「そうなんです!」
私は思わず机を叩きました。
でも、これだけではありません。
現代では、誰が否認権を行使するかによって、期間の起算点も整理されています。
父なら、子の出生を知った時。
母なら、子の出生の時。
子自身なら、出生の時。
一定の場合の前夫なら、子の出生を知った時。
「同じ三年でも、いつから数えるかが違うんですね」
私は頷きました。
「そこを混同したら駄目です!」
相馬先輩が言いました。
「相変わらず面倒だな」
「親子関係ですから!」
私はさらに続けました。
「それに、現代では子供について、特別な期間の仕組みもあります」
「特別な?」
「はい」
父親と継続して同居した期間が三年を下回るなどの一定の要件を満たす場合。
子供自身は、二十一歳に達するまで、嫡出否認の訴えを提起できる仕組みが設けられています。
「二十一歳まで?」
相馬先輩が目を丸くしました。
「そうです。原則の三年が過ぎたからといって、子供自身の道が必ず閉ざされるわけではありません」
私は頷きました。
ただし、この特別な期間には要件があります。
誰でも無条件に二十一歳まで訴えられるという意味ではありません。
また、母親などが未成年の子供に代わって否認権を行使する場合と、子供自身が特別な期間を利用する場合は、区別して考えなければなりません。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
昭和の一年。
現代の原則三年。
さらに、子供自身のための特別な仕組み。
こうして比べると、なぜ改正されたのかが見えてきます。
「所長」
「何だ」
「子供の身分関係を早く安定させることは大切です」
「そうだ」
「でも、そのために、子供自身が真実を確かめる機会を失うのも問題ですよね」
「そうだな」
「現代の改正は、その二つの利益を調整し直したんですね」
所長が頷きました。
「制度には、守ろうとする利益がある。その利益の調整の仕方は、時代によって変わり得る」
私は、その言葉をノートに書きました。
◇
「それから、もう一つ!」
私は新しいページを開きました。
――現代の嫡出推定の見直し。
「まだあるのか」
相馬先輩が呆れました。
「あります!」
昭和六十三年の民法では、婚姻成立後二百日という基準や、離婚後三百日という基準が重要でした。
ところが現代では。
婚姻前に懐胎していても、婚姻成立後に生まれた子は、原則としてその婚姻における夫の子と推定される仕組みになっています。
さらに。
懐胎から出生までの間に複数の婚姻があった場合には、出生の直近の婚姻における夫を父と推定する規律も設けられています。
「……複雑だな」
「そうなんです」
私は苦笑しました。
「でも、目的は分かります」
誰が法律上の父親になるのか。
それをなるべく明確にする。
そして。
子供が戸籍を得られないような事態を減らす。
そこには、制度改正の重要な理由があります。
「ただし」
私はノートに赤線を引きました。
「令和六年改正後の嫡出推定の規律は、原則として施行日以降に生まれた子に適用されます」
「ほう」
「施行前に生まれた子については、特別な経過措置が設けられたんです」
例えば、改正法の施行前に生まれた子やその母にも、令和六年四月一日から一年間に限り、一定の嫡出否認の機会が認められました。
しかし、それは無期限の救済ではありません。
「つまり、現代の法律でも、いつ生まれた子なのか、いつ手続きするのかが大切なんですね」
相馬先輩が頷きました。
「結局、期限を確認するのは変わらねえってことだ」
「そうです!」
私は笑いました。
法律の制度が変わっても。
期限を確認する。
当事者を確認する。
必要な手続きを確認する。
その実務の基本は、変わらないのです。
◇
「さて、こはる」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「はい!」
「確認問題だ」
来ました。
今日の総仕上げです。
「第一問」
「はい!」
「婚姻中、夫婦が普通に同居していた。妻が子を出産した。夫は、血縁上の父親が別人だと知った。この場合、原則としてどの訴えを検討する?」
「嫡出否認の訴えです!」
「理由は?」
「嫡出推定が及ぶ子だからです!」
「よし」
私は拳を握りました。
「第二問」
「はい!」
「妻が子を懐胎した時期、夫は長期間海外にいて、夫婦が接触することが外観上明らかに不可能だった。この場合は?」
「嫡出推定が及ばないと評価される余地があり、親子関係不存在確認の訴えを検討します!」
「よし」
いい調子です。
「第三問」
「はい!」
「昭和六十三年の嫡出否認権者は?」
「原則として夫です!」
「出訴期間は?」
「夫が子の出生を知った時から一年以内!」
「血縁関係がないと知った時からか?」
「違います!」
「よし」
完璧。
「第四問」
「はい!」
「親子関係不存在確認の訴えには、嫡出否認と同じ一年の期間制限があるか」
「ありません!」
「二十年経っていたら?」
「期間経過だけを理由に訴えられなくなるわけではありません。ただし、訴えの利益と証拠は必要です!」
「よし」
私は満足げに頷きました。
これなら間違えません。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「どうぞ!」
「夫婦が同居中に生まれた子について、DNA鑑定で血縁関係がないと分かった。だから親子関係不存在確認の訴えを起こせばいい。正しいか?」
「間違いです!」
「理由は?」
「血縁関係がないことだけで、嫡出推定が及ばなくなるわけではないからです!」
「正解」
私は嬉しくなりました。
「先輩、今度は私から問題を出していいですか?」
「何だよ」
「昭和六十三年の嫡出否認の期間は一年。では令和六年改正後は?」
「三年だろ」
「正解!」
「簡単だな」
「では、子供自身が特別な要件を満たす場合、何歳まで訴えられる可能性がありますか?」
「……二十一歳」
「正解!」
「さっき言ってただろ!」
「復習です!」
私は笑いました。
相馬先輩は呆れた顔をしています。
でも。
今日の勉強は、ここで終わりませんでした。
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい?」
「昨日、篠原清次は五百万円の請求を撤回したな」
「はい!」
「では、それで美咲さんと清次の法律上の父子関係は消えたか」
「……いいえ」
私は答えました。
「内容証明で金銭請求が撤回されても、それだけで戸籍上の父子関係が変わるわけではありません」
「そうだ」
「親子関係を法律上確定させるためには、適切な手続きが必要です」
所長が頷きました。
「行政書士の役割は?」
「資料を整理し、必要な書類を作成することです」
「それから?」
「裁判や訴訟代理が必要な部分は、弁護士へ引き継ぎます!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は昨日の内容証明を思い出しました。
清次は、最初は自信満々でした。
戸籍上の父親。
嫡出否認の期間は過ぎた。
だから五百万円を払え。
そんな理屈です。
でも。
嫡出推定が及ばない可能性を指摘されると、態度が変わった。
そして。
五百万円の請求を撤回した。
「先輩」
「何だ」
「内容証明って、やっぱり強いですね」
「ああ」
「でも、何でも解決できるわけじゃない」
「そのとおり」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「内容証明は、裁判の代わりじゃねえ」
「はい」
「相手が引き下がることはある。だが、身分関係を確定するのは、法律で決められた手続きだ」
私は頷きました。
行政書士の仕事。
できること。
できないこと。
その境界を間違えてはいけません。
それでも。
事実を整理し、法律を示し、必要な証拠を揃えることで。
誰かの人生を守る一歩になることがある。
私は、それを昨日の事件から学びました。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
嫡出否認の訴え。
親子関係不存在確認の訴え。
最初は、同じように見えました。
どちらも、法律上の父子関係を否定するための手続きです。
でも。
その入口は違います。
嫡出推定が及ぶ子。
嫡出推定が及ばない子。
そこが分かれ道。
そして。
嫡出否認には、法律上定められた否認権者と出訴期間があります。
一方。
親子関係不存在確認には、嫡出否認と同じ出訴期間の制限はありません。
「所長」
私は言いました。
「昨日、美咲さんは二十年間ずっと悩んでいたんですよね」
「ああ」
「清次さんから『もう手遅れだ』と言われて、本当に諦めかけていた」
「そうだな」
「でも、法律上は別の道が残っていた」
所長が頷きました。
私は続けました。
「一方、野田さんは真実を知ったばかりだったのに、出訴期間が迫っていた」
「そうだ」
「だから、早く弁護士さんに相談する必要があった」
「うん」
私は静かに鉛筆を置きました。
この二つの事件。
どちらも、親子関係の真実を確かめたいという願いから始まりました。
でも。
それぞれ、法律上の入口が違っていた。
「先輩」
「何だ」
「法律って、正しいことを主張するだけじゃ足りないんですね」
「どういう意味だ」
「どんな権利を、誰が、いつまでに、どんな手続きで行使するか」
私は言いました。
「そこまで分かって、初めて法律を使えるんですね」
相馬先輩は少し黙りました。
それから。
「まあ、そういうことだ」
短く答えました。
私は笑いました。
そして。
ノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――推定が及ぶなら「嫡出否認」、及ばないなら「親子関係不存在確認」。まず推定の有無を見極めよ。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと一生忘れません。
美咲さん。
二十年間、戸籍上の父親との関係に悩んでいた女性。
信夫さん。
突然、息子との血縁関係に疑問を抱くことになった男性。
どちらにも、守りたい人生がありました。
そして。
その人生を守るために、法律は異なる手続きを用意していたのです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりだ」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「床も掃け」
「……また掃除ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私は今、非常に重大な法律問題を学んでいたんです」
「そうだな」
「親子関係という、人間の人生に関わる問題です」
「それがどうした」
「だから、今は掃除より復習を優先すべきだと思います!」
相馬先輩がにやりとしました。
「ほう」
「はい!」
「じゃあ、所長に聞いてみろ」
私は奥を見ました。
「所長!」
「何だ」
「今日の学習内容を定着させるため、掃除は明日にしてもよろしいでしょうか!」
所長は帳簿から顔を上げずに言いました。
「駄目だ」
「……!」
即答。
厳しい。
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「先輩!」
「何だ」
「私の学習意欲が否定されました!」
「お前の学習意欲と、掃除をする義務は別問題だ」
「ぐっ……!」
確かに。
何でも一つの問題にまとめてはいけない。
それは、今日学んだことでした。
嫡出否認と、親子関係不存在確認。
似ているけれど、違う。
学習意欲と、掃除当番。
似ていないけれど、こちらも別。
……。
何か納得できません。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「掃除が終わったら、もう一問出します!」
「は?」
「嫡出推定が及ぶ子と、推定が及ばない子の違いです!」
「もういいだろ!」
「駄目です! 復習が大事なんです!」
「お前、さっきから同じことばっかり言ってるぞ!」
「それだけ重要なんです!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
美咲さんは今、自分の戸籍と向き合っています。
野田さんもまた、法律上の父子関係をどうするべきか、弁護士と相談しています。
どちらの結論も、まだ出ていません。
でも。
少なくとも、二人は正しい手続きの入口に立つことができました。
それが、今の私たちにできること。
嫡出否認の訴え。
親子関係不存在確認の訴え。
言葉は似ています。
覚えるのも、ちょっと面倒。
でも。
その違いを知っているだけで。
誰かが「もう手遅れだ」と諦めてしまうのを防げるかもしれません。
あるいは。
期限が迫っていることに気づき、大切な権利を守れるかもしれません。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――推定が及ぶなら「嫡出否認」、及ばないなら「親子関係不存在確認」。まず推定の有無を見極めよ。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「もし私が掃除をしなかったら、どうなります?」
「所長に怒られる」
「じゃあ、掃除当番不存在確認の訴えを……!」
「そんな訴えで逃げられると思うな!」
……なるほど。
親子関係不存在確認の訴えを覚えたからといって、何でも「不存在確認」と言えばいいわけではないようです。
残念ながら。
私の掃除当番には、出訴期間どころか、逃げ道すらなかったのでした。
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