[嫡出否認の訴えと親子関係不存在確認の訴え]現場編 「血がつながっていないなら親子じゃない」の罠。たった一年で閉ざされる訴えと、二十年経っても消えない真実
血がつながっていないことと、法律上の親子でないことは、同じではありません。
たとえ、血液型が合わなくても。
たとえ、本人たちが親子ではないと認めていても。
戸籍に書かれた「父」という一文字は、簡単には消せないことがあります。
しかも。
ある親子には、わずか一年しか与えられない時間が。
別の親子には、二十年経っても残されている。
その違いは、何なのか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
この日、私は二組の親子をめぐる相談から、民法の恐ろしい落とし穴を知ることになります。
嫡出否認の訴え。
親子関係不存在確認の訴え。
名前は似ています。
目的も似ています。
けれど。
間違えれば、一生取り返しがつかないことがあるのです。
◇
「娘を、あの男の子供ではないことにしたいんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
「……娘さんを?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、篠原佳代さん。
三十九歳。
その隣には、二十歳くらいの若い女性が座っています。
長い髪を後ろで結び、膝の上で手を握りしめていました。
「娘の美咲です」
「篠原美咲です」
美咲さんは、小さく頭を下げました。
「実は、戸籍のことで困っていまして……」
佳代さんが茶封筒を差し出します。
中には戸籍謄本。
私は開きました。
美咲さんの出生。
昭和四十三年。
父の欄には、
――篠原清次。
と記されています。
「こちらが、お父様ですか?」
「戸籍上は、そうです」
佳代さんが答えました。
「でも、清次は、この子の父親ではありません」
私は顔を上げました。
「どういうことでしょう」
「私たちは、結婚してすぐに別居したんです」
「別居?」
「ええ。清次が外国へ働きに行って、そのまま帰ってこなくなって」
佳代さんは古い封筒を一通取り出しました。
差出人は外国。
消印の日付は昭和四十一年。
「夫は海外に渡りました。それから何年も日本に戻らなかったんです」
「……何年も?」
「はい。美咲を身ごもったころも、ずっと外国にいました」
私は美咲さんを見ました。
彼女は静かに頷きました。
「母から聞いています。私が生まれたとき、清次という人は日本にいなかったって」
「それなら……」
私は少し考えました。
夫婦が婚姻中に子供を産んだ。
だから戸籍上は夫の子とされた。
でも、懐胎したころ夫は外国にいて、夫婦が会う機会もなかった。
なるほど。
これは、嫡出推定の問題です。
「分かりました!」
私は六法を引き寄せました。
「まずは、嫡出否認ですね!」
すると。
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「何で嫡出否認なんだ」
「え? だって、戸籍上のお父さんとの親子関係を否定するんですよね?」
「そうだな」
「だったら、嫡出否認の訴えじゃないんですか?」
先輩は私を見ました。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「その子は、いくつだ」
「二十歳です」
「嫡出否認の出訴期間は?」
「三年です!」
言った瞬間。
事務所が静まり返りました。
相馬先輩が目を細めます。
「……三年?」
「あっ」
しまった。
またです。
未来の民法。
現代の改正民法では、嫡出否認の訴えについて、出訴期間が三年に延長されています。
しかも、父親だけでなく、子供や母親にも否認権が認められるようになっています。
でも。
ここは昭和六十三年。
その改正は、まだ何十年も先です。
「お前、どこの六法を読んでるんだ?」
「あ、いえ、その……」
「三年なんて書いてあるか?」
「……ありません」
「じゃあ何年だ」
私は恐る恐る条文を開きました。
民法第七百七十七条。
そこに書かれていたのは。
――夫が子の出生を知った時から一年以内。
「……一年」
「そうだ」
「しかも……」
私は別の条文を確認しました。
民法第七百七十四条。
昭和六十三年の法律では、嫡出否認の権利を持つのは、原則として夫だけ。
つまり。
母親が自由に訴えられるわけでもない。
子供自身が自由に訴えられるわけでもない。
「えええっ!」
私は思わず叫びました。
「一年しかないんですか!」
「そうだ」
「しかも、夫だけ!?」
「そうだ」
「厳しすぎませんか!?」
「法律に文句を言っても始まらねえ」
相馬先輩は六法を閉じました。
「だから、何の訴えを使えるか、最初に見極めるんだ」
私は青ざめました。
二十年前に生まれた美咲さん。
今さら一年以内の訴えなんて。
どう考えても無理です。
「じゃあ……」
私は佳代さんを見ました。
「もう、何もできないんでしょうか」
佳代さんの顔が曇りました。
美咲さんも、うつむきます。
そのとき。
「こはる」
片桐所長が口を開きました。
「はい」
「まだ、決めるな」
「え?」
「その子に、嫡出推定が及ぶかどうか。確認したのか」
私は固まりました。
「……推定が、及ぶかどうか?」
「そうだ」
所長は戸籍謄本を指差しました。
「婚姻中に生まれたというだけで、すべて同じように考えるな」
私は、もう一度資料を見ました。
夫は長期間海外に滞在。
妻が懐胎した時期にも帰国していない。
夫婦として接触する機会がなかった。
そこで。
私の頭の中に、もう一つの言葉が浮かびました。
「……親子関係不存在確認の訴え?」
所長が頷きました。
「そうだ」
え。
ちょっと待ってください。
今、何か大事な扉が開いた気がします。
◇
「親子関係不存在確認の訴えには、嫡出否認の訴えのような一年という出訴期間の制限がありません」
私は六法を確認しながら言いました。
佳代さんが顔を上げます。
「では、二十年経っていても?」
「訴えの対象になる親子関係で、必要な要件を満たしていれば、期間だけを理由に排除されるわけではありません」
「本当ですか……!」
ただし。
ここには、重大な条件があります。
嫡出推定が及ばないこと。
これが鍵です。
相馬先輩が机に二枚の紙を並べました。
「いいか、こはる」
「はい」
「例えば、夫婦が普通に一緒に暮らしていたとする」
「はい」
「その間に妻が子供を身ごもった」
「はい」
「あとになって、血液型などから夫の子じゃない可能性が出てきた」
「はい」
「その場合、法律上の父子関係を争うには、原則として嫡出否認の訴えだ」
私は頷きました。
「でも、今回の美咲さんは違う?」
「そこを調べるんだ」
先輩は外国からの封筒を手に取りました。
「夫が何年も外国にいて、妻が身ごもった時期に夫婦が接触できなかったことが、外から見ても明らかならどうだ」
「あ……」
「そもそも夫の子を懐胎する可能性がなかったといえるだろ」
「はい!」
「そういう場合には、嫡出推定が及ばないと扱われる余地がある」
私は思わず身を乗り出しました。
「じゃあ、親子関係不存在確認の訴えが使える!」
「事情が立証できればな」
なるほど。
同じように戸籍上の父親との親子関係を否定したい場合でも。
法律が父親だと推定している子なのか。
その推定が及ばない子なのか。
そこによって、使える訴えが変わる。
しかも。
一方には一年という厳しい期間。
もう一方には、そのような期間制限がない。
「所長……」
「何だ」
「これ、間違えたら大変ですね」
「大変どころじゃない」
所長が静かに答えました。
「使えない訴えを選べば、裁判所で入口からつまずく」
私は背筋が寒くなりました。
事件の中身が正しいかどうか以前に。
選んだ手続きが違えば、救済にたどり着けない。
民法。
恐ろしい。
でも。
まだ話は終わりませんでした。
「実は……」
佳代さんが口を開きました。
「その清次が、突然戻ってきたんです」
「え?」
「二十年近く連絡もなかったのに、先月、家に来ました」
私は驚きました。
「何のために?」
佳代さんは唇を噛みました。
「お金です」
◇
話は、こうでした。
篠原清次。
五十歳。
海外での仕事に失敗し、数年前に帰国。
佳代さんとの戸籍上の婚姻関係は、長らく放置されていました。
そして最近。
佳代さんの父親が亡くなり、佳代さんが小さな土地と家を相続したことを知ったのです。
「清次が言うんです」
佳代さんの声が震えました。
「美咲は戸籍上、俺の娘だ。お前たちが親子関係を消したいなら、五百万円払えって」
「五百万!?」
私は椅子から立ち上がりそうになりました。
美咲さんがバッグから手紙を取り出します。
そこには、乱暴な字でこう書かれていました。
――戸籍上、俺が父親である以上、親子関係は法律上有効である。
――これを否定するには嫡出否認の訴えが必要である。
――しかし、美咲は既に二十歳であり、出訴期間は経過している。
――従って、父子関係を否定することは不可能である。
そして最後に。
――今後、親子関係をめぐる紛争を避けたいのであれば、解決金として五百万円を支払え。
私は紙を置きました。
「……ひどい」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「法律を半分だけ知ってる奴が、一番厄介なんだよ」
「半分?」
「ああ。嫡出否認には期間がある。それは知ってる」
「はい」
「でも、嫡出推定が及ばない場合のことは、知らねえか、知ってて黙ってる」
私は手紙を睨みました。
なるほど。
清次は自分が戸籍上の父であることを利用している。
美咲さんたちが法律を知らないと思って。
出訴期間という言葉で脅している。
しかも。
五百万円。
自分が長年放置していた家族から、お金を取ろうとしているのです。
「先輩!」
「何だ」
「こんなの、許せません!」
「だろうな」
「すぐ内容証明を!」
「その前に」
相馬先輩が低い声で言いました。
「証拠だ」
「……はい」
所長も頷きました。
「清次が懐胎時期に外国にいたことを、客観的に証明する資料を集める」
「はい!」
「そして、もう一つ」
「何でしょう」
「訴訟が必要になるなら、弁護士へ引き継ぐ」
私は頷きました。
親子関係不存在確認の訴えは、裁判所で扱う身分関係の訴訟です。
行政書士が代理人として法廷で戦えるわけではありません。
また、私たちが報酬を受けて清次との解決金交渉を引き受けることもできません。
だから。
私たちは、まず事実を調べる。
必要な記録を整理する。
本人の意思に基づく書面を作成し、裁判手続きが必要な部分は弁護士へ渡す。
それが仕事です。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「相手の脅し文句を、法律と証拠で崩すぞ」
「はい!」
◇
ところが。
その日の午後。
もう一人、親子関係の相談者がやってきました。
「息子が、俺の子じゃないかもしれないんです」
入ってきた男性は、まだ三十歳くらい。
名前は、野田信夫さん。
二十九歳。
顔色が悪く、手には一枚の封筒。
「妻と離婚の話をしていて……そのとき、妻から言われたんです」
「何をですか?」
「生まれた息子は、俺の子じゃないって」
私は息を呑みました。
「息子さんは、何歳ですか?」
「生後十か月です」
十か月。
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ています。
嫌な予感。
「ご夫婦は、お子さんを身ごもった時期、一緒に暮らしていましたか」
片桐所長が尋ねました。
「はい。普通に暮らしていました」
「長期間の別居などは?」
「ありません」
「そうですか」
所長は静かに頷きました。
「まず、嫡出推定が及ぶ子として考える必要がありますね」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の民法。
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定されます。
信夫さん夫婦は一緒に暮らしていた。
子供も婚姻中に生まれた。
夫の子を懐胎することが外観上不可能だった、という事情はない。
つまり。
美咲さんとは違います。
「信夫さん」
私は言いました。
「息子さんの親子関係を否定するには、原則として嫡出否認の訴えが必要になります」
「訴え……?」
「はい」
「でも、妻は俺の子じゃないと認めているんですよ」
「それでも、法律上の父子関係が当然になくなるわけではありません」
信夫さんは驚きました。
「本人たちが認めてるのに?」
私は少し胸が痛みました。
でも。
ここは大事なところです。
「はい。嫡出推定が及ぶ子については、当事者の言葉だけで推定を消せないんです」
相馬先輩が横から言いました。
「それより、信夫さん」
「はい」
「子供が生まれたことを知ったのは、いつです?」
「生まれた当日です。病院に行きましたから」
先輩は卓上カレンダーを見ました。
「子供が生まれて十か月。つまり……」
私は慌てて計算しました。
一年。
十二か月。
残り二か月。
「……あと二か月!」
信夫さんが目を見開きました。
「何がですか?」
「嫡出否認の訴えを起こせる期間です!」
「二か月!?」
私は頷きました。
「昭和六十三年の法律では、夫が子供の出生を知った時から一年以内に訴えを起こさなければなりません」
信夫さんの顔から血の気が引きました。
「そんな……」
「奥様から本当のことを聞いたのが昨日でも、出生を知った日から期間が進んでいるんです」
「昨日知ったばかりなのに……!」
私は拳を握りしめました。
理不尽に感じます。
でも。
法律は、父子関係をいつまでも不安定にしておかないため、厳しい期間を設けているのです。
子供の身分関係を早く確定させる。
家庭の安定を守る。
その目的は分かります。
けれど。
何も知らされなかった夫にとっては、あまりにも短い。
「所長」
私は小さな声で言いました。
「すぐに弁護士さんへつなぐべきですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「今日中に必要な資料を整理する。弁護士に事情を伝えて、速やかに相談してもらう」
信夫さんは何度も頭を下げました。
「お願いします……!」
その声を聞きながら。
私は、さっきの美咲さんのことを思い出していました。
二十年。
十か月。
一方は、まだ訴えの道が残されている可能性がある。
もう一方は、あと二か月でその道が閉ざされかねない。
……同じ親子関係の問題なのに。
これほど違う。
◇
翌朝。
私は相馬先輩と一緒に、美咲さんの資料を整理していました。
机の上には、古い書類が山積みです。
清次が海外に渡った際の勤務先の証明書。
外国から送られてきた手紙。
旅券の出入国記録が分かる資料。
当時の親族の日記。
そして、佳代さんの母子手帳。
「先輩」
「何だ」
「すごいですね」
「何が」
「二十年前のことなのに、こんなに残ってるなんて」
「よく取ってあったもんだな」
相馬先輩は古い封筒を光に透かしました。
「日付が大事だ。懐胎したと考えられる時期に、清次がどこにいたのか」
「はい」
「ただ外国にいたというだけじゃ足りねえ。いつ出国し、いつ帰国したのか。途中で会っていないか」
「そこまで確認するんですね」
「当たり前だ」
私は母子手帳を開きました。
美咲さんの出生年月日。
妊娠の経過。
医師の記録。
そして。
清次の勤務先が発行した在職証明。
出国から帰国まで、長期間海外に滞在していた記録がある。
「これなら……」
私は呟きました。
「夫婦が接触できなかった事情を、資料で説明できますね」
「そうだ」
先輩は頷きました。
「もっとも、最終的に認めるかどうかは裁判所の判断だ。俺たちは、判断の材料になる事実を揃える」
「はい」
そのとき。
私は机の端に置いていた清次の手紙を、もう一度読みました。
――出訴期間は経過している。
――父子関係を否定することは不可能である。
……。
「先輩」
「何だ」
「この人、どうしてこんなに自信満々なんでしょう」
「戸籍を持ってるからだろ」
「戸籍?」
「父親って書いてある。それだけで勝てると思ってる」
先輩は鼻で笑いました。
「だが、戸籍に書いてあることを争う法的な道はある」
「はい」
「問題は、どの道を使うかだ」
私は頷きました。
そこへ。
玄関の戸が、乱暴に開きました。
「おい!」
大きな声。
五十歳くらいの男が立っています。
くたびれた背広。
厚い革鞄。
目つきが鋭い。
「ここが片桐って行政書士の事務所か!」
相馬先輩が顔を上げました。
「そうですが」
「篠原清次だ!」
……!
来ました。
例の男です。
◇
「聞いたぞ! 佳代がここで余計な相談をしてるんだってな!」
清次は応接机を叩きました。
「二十年前の話を蒸し返しやがって!」
私は思わず立ち上がりました。
「余計な相談って、何ですか!」
「何だ、お嬢ちゃん」
「私は朝比奈こはるです!」
「名前なんか聞いてねえ!」
……失礼な人です。
清次は鼻で笑いました。
「どうせ、あいつらに入れ知恵してるんだろ」
相馬先輩が静かに言いました。
「私どもは事実関係を整理しているだけです」
「行政書士ごときが何をするってんだ」
出ました。
悪役の定番台詞。
「俺は戸籍上の父親だぞ」
清次は鞄から戸籍謄本を取り出しました。
「ほら見ろ! 父、篠原清次!」
私は黙って見ました。
「裁判でも何でもしてみろよ!」
清次は笑いました。
「嫡出否認なんて、とっくに期限切れだろ!」
……。
私は息を吸いました。
反論したい。
猛烈に反論したい。
でも。
「こはる」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「はい」
「余計な口を出すな」
「……はい」
先輩は清次を見ました。
「篠原さん」
「何だ」
「戸籍上の記載があることは確認しています」
「そうだろ!」
「ただし、その記載を法律上争う手続きが、嫡出否認だけとは限りません」
清次の笑みが止まりました。
「……何?」
「事実関係によっては、別の手続きが問題になります」
「別の?」
相馬先輩はそれ以上、説明しませんでした。
「私どもが代理人としてこの場で交渉することはありません。ご本人のご意向と、資料の確認を進めています」
「ふん!」
清次は机を叩きました。
「どうせ無駄だ! 期限切れは期限切れだ!」
そう言い残して、出ていきました。
玄関の戸が閉まります。
私は我慢できずに言いました。
「先輩!」
「何だ」
「何で教えてあげなかったんですか!」
「何を」
「親子関係不存在確認の訴えです!」
「それを教えて、あの男が素直に引き下がると思うか?」
「……思いません」
「だったら書類を完成させろ」
先輩は古い記録を指差しました。
「法律問題は、怒鳴り合いで解決しねえ」
「はい」
「それに、相手の代理人でもねえ俺たちが、あそこで法律相談を始める必要もない」
私は頷きました。
先輩が続けます。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
出ました。
いつもの台詞。
でも。
今日は、その意味が少し違って聞こえました。
◇
午後。
片桐所長は、私が書いた通知書の原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「ここ」
所長が指差します。
――篠原清次と篠原美咲の親子関係は、当然に無効である。
「断定するな」
「え?」
「親子関係の不存在については、身分関係を確定するための適切な裁判手続きが必要になる」
「あ……」
「内容証明を送っただけで戸籍が変わるわけじゃない」
「はい……」
赤線。
「次」
「はい」
――血縁関係がないので、嫡出推定は適用されない。
所長の赤鉛筆が動きました。
「これも駄目だ」
「ええっ!」
「血縁関係がないというだけで、嫡出推定が当然に排除されるわけではない」
「……はい」
「重要なのは?」
私は少し考えました。
「夫の子を懐胎することが、外観上も明らかに不可能だった事情です」
「そうだ」
所長は頷きました。
「それを証拠で示せ」
私は書き直しました。
清次の長期間の海外滞在。
懐胎時期。
その間、夫婦が接触していなかったこと。
そして。
戸籍上の父子関係について、民法七百七十二条の嫡出推定が及ばないと評価される事情があること。
「これならどうでしょう」
所長は頷きました。
「よし」
相馬先輩が書類を受け取りました。
「清次の五百万円の要求についても、整理しておけ」
「はい!」
私は別紙に書きました。
要求された金額。
要求の日時。
清次から届いた手紙の内容。
金銭請求の法律上の根拠が示されていないこと。
そして。
佳代さんと美咲さんは、五百万円を支払う意思がないこと。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「五百万円という金額を見て、どう思う?」
「法的な根拠が分かりません」
「そうだな」
「戸籍上の父親というだけで、相手から自由に五百万円を取れる権利なんてありません」
「そのとおり」
私は強く頷きました。
親子関係。
それは、お金を取るための道具ではありません。
相馬先輩が原案を指差しました。
「ただし、書面で『犯罪だ』『絶対に敗訴する』なんて決めつけるなよ」
「はい」
「俺たちは脅迫状を書くんじゃねえ」
「……内容証明です」
「そうだ」
事実。
法律。
本人の意思。
そして、今後の対応。
それを冷静に並べる。
私は何度も書き直しました。
やがて。
机の上に、一通の内容証明郵便の原案が完成しました。
差出人。
篠原佳代。
宛先。
篠原清次。
私は、ゆっくり読み上げました。
「第一。貴殿は、昭和四十一年以降、長期間にわたり海外に滞在しており、篠原美咲の懐胎時期に通知人と接触した事実がない」
「うん」
「第二。以上の事情から、篠原美咲については、民法第七百七十二条による嫡出推定が及ばないものとして、親子関係不存在確認の訴えによる身分関係の確認が問題となる」
「続けろ」
「第三。したがって、嫡出否認の訴えの出訴期間が経過したことのみをもって、法律上の父子関係を争う余地が一切ないとする貴殿の主張は、妥当とはいえない」
私は息を吸いました。
「第四。貴殿の要求する五百万円について、通知人は支払義務を認めず、その請求に応じない」
相馬先輩が頷きました。
「最後」
「第五。今後、身分関係の確定については、弁護士への相談のうえ、適切な裁判手続きを検討する」
読み終わりました。
所長はしばらく黙っていました。
そして。
「いいだろう」
短く言いました。
「……!」
やった。
赤線が増えませんでした!
相馬先輩が笑います。
「珍しいな」
「何がですか!」
「お前の原案が、ようやく書面らしくなった」
「先輩!」
私は頬を膨らませました。
でも。
嬉しかった。
なぜなら、この書面には、相手が最も頼りにしている理屈を崩す力があるからです。
清次は言いました。
嫡出否認の期間は過ぎた。
だから、親子関係を否定することは不可能だ。
でも。
そもそも嫡出推定が及ばない子であれば。
その前提が崩れる。
「所長」
「何だ」
「今回の急所は、出訴期間じゃなかったんですね」
「そうだ」
「その期間が適用される訴えなのかどうか」
所長が頷きました。
「まず、そこだ」
私は内容証明の原案を見つめました。
相手が頼りにした一年という数字。
その数字自体は、昭和の法律として正しい。
でも。
使う場面を間違えれば、正しい数字も、人を騙す道具になってしまう。
法律の怖さ。
そして。
法律を正しく使う大切さ。
私は、その両方を感じていました。
◇
内容証明郵便を発送して、数日後。
清次から、佳代さんのもとに電話がありました。
『おい! あの書面は何だ!』
相変わらず怒鳴り声だったそうです。
しかし。
その翌日。
もう一度、電話がありました。
『……あの、ちょっと聞きたいんだが』
声が変わっていたそうです。
『親子関係不存在確認って、本当にあるのか?』
佳代さんは、自分で調べてほしいと答えました。
そして。
さらに二日後。
清次から、書面が届いたのです。
――先に送付した五百万円の請求については撤回する。
――今後、同請求を行わない。
――親子関係に関する法律上の手続きについては、裁判所の判断に従う。
署名。
篠原清次。
押印。
私はその写しを見て、思わず声を上げました。
「先輩!」
「何だ」
「五百万円、撤回しました!」
「そうだな」
「やりましたね!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「まだ終わってねえぞ」
「え?」
「清次が金の要求を引っ込めたことと、親子関係が法律上なくなることは別だ」
「あ……」
そうでした。
清次が書面を出した。
要求も撤回した。
でも、それだけでは戸籍上の父子関係は変わりません。
だから。
私たちは資料一式を整理し、佳代さんと美咲さんが依頼する弁護士へ引き継ぎました。
長期間の海外滞在を示す記録。
懐胎時期を示す資料。
本人たちの事実確認書。
戸籍謄本。
そして、清次の要求書。
弁護士は、資料を確認したうえで言ったそうです。
「これは、親子関係不存在確認の訴えを検討すべき事案ですね」
その言葉を聞いたとき。
美咲さんは、初めて泣いたそうです。
自分の出生について。
ずっと曖昧なままだったこと。
誰にも相談できなかったこと。
戸籍に書かれた父親から、突然お金を要求されたこと。
そして。
もう何もできないと言われたこと。
全部。
二十年分。
溜め込んでいたものが、涙になったのでしょう。
◇
一方。
野田信夫さんの事件も、動き始めていました。
こちらは時間との戦いです。
信夫さんの息子は、生後十か月。
夫婦は懐胎時期に同居していました。
したがって。
外観上、夫の子を懐胎することが不可能だったとはいえません。
嫡出推定が及ぶ子として考える必要があります。
そして。
信夫さんが子供の出生を知ったのは、出産当日。
昭和六十三年の民法では、そこから一年以内。
たとえ妻が、
「あなたの子ではない」
と認めていても。
それだけで父子関係が消えるわけではありません。
弁護士は、信夫さんから事情を聞き、必要な証拠を確認したうえで、期間内に嫡出否認の訴えを提起する準備を進めました。
「間に合いそうです」
信夫さんが、事務所に報告に来たとき。
私は心底ほっとしました。
「よかった……!」
信夫さんは苦笑しました。
「まさか、子供が自分の子じゃないかもしれないと知った時じゃなくて、生まれたことを知った時から一年だなんて」
「そうなんです」
私は頷きました。
「知らなかったら、危なかったです」
「本当ですね」
信夫さんは少し黙りました。
そして。
「でも、子供には罪はないんですよね」
私は顔を上げました。
「……はい」
「親子関係がどうなるにしても、あの子が悪いわけじゃない」
その言葉に、胸が詰まりました。
そうです。
嫡出否認の訴え。
親子関係不存在確認の訴え。
どちらも、法律上の父子関係を確定させるための手続きです。
子供を責めるためのものではありません。
大人たちの事情で、子供の将来が不安定にならないように。
誰が法律上の父親なのか。
その関係を、適切な手続きで決めるためにあるのです。
◇
それからしばらくして。
美咲さんから、一通の手紙が届きました。
封筒には、丁寧な文字。
私は開きました。
――片桐先生、相馬さん、こはるさん。
――先日はありがとうございました。
――弁護士の先生にお願いして、親子関係不存在確認の手続きを進めています。
――清次さんからは、もう五百万円の話は出ていません。
――まだ裁判の結果は分かりませんが、私は初めて、自分のことを自分で確かめられる気がしています。
そして最後に。
――母はずっと、「昔のことだから仕方がない」と言っていました。
――でも、二十年前のことでも、確かめられる道が残っていると知って、安心しました。
私は手紙を読み終えました。
「……よかった」
相馬先輩がこちらを見ました。
「何がだ」
「美咲さん、少し元気になったみたいです」
「そうか」
「はい」
私は手紙を折り畳みました。
「先輩」
「何だ」
「今回の事件、すごく不思議でした」
「何が」
「二十年経っていても争える可能性がある人と、生後十か月でも急がなきゃいけない人がいるんです」
「ああ」
「同じ父子関係の問題なのに」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「それが、法律の仕組みってもんだ」
「でも、少し不公平な気もします」
「そうだな」
先輩は珍しく、すぐに否定しませんでした。
「嫡出否認の期間が短いのは、親子関係を早く安定させるためだ」
「はい」
「だが、そのせいで血縁上の真実と法律上の親子関係が食い違うこともある」
「……はい」
「一方、そもそも夫の子を懐胎する可能性がなかったと外観上明らかな場合には、同じ推定を押しつける理由がない」
私は頷きました。
だから。
親子関係不存在確認という別の道がある。
民法は、ただ血液だけを見ているわけではありません。
戸籍の安定。
家族の平穏。
子供の立場。
そして、事実に合わない親子関係を正す必要性。
それぞれの利益が、ぶつかっているのです。
「所長」
私は奥の机を見ました。
「何だ」
「法律って、真実が分かればそれで終わりじゃないんですね」
「そうだ」
「どうやって、その真実を法律上認めてもらうかが大事なんですね」
片桐所長が頷きました。
「正しい手続きを選べなければ、守れるものも守れん」
私は、その言葉を噛みしめました。
◇
夕方。
私は机の上で、二枚の相談票を並べていました。
一枚目。
篠原美咲さん。
二十歳。
戸籍上の父親とは、懐胎時期に母親が接触していなかった。
嫡出推定が及ばない可能性。
親子関係不存在確認の訴え。
二枚目。
野田家の息子さん。
生後十か月。
夫婦同居中に懐胎。
嫡出推定が及ぶ。
夫による嫡出否認の訴え。
出生を知った時から一年以内。
「……なるほど」
私は鉛筆を握りました。
最初は、どちらも同じ問題に見えました。
血のつながっていない父親。
戸籍上の親子関係。
それを否定したい。
でも。
決定的に違っていたのは。
その子に、嫡出推定が及ぶのかどうか。
そこだったのです。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
そして、ノートに一行だけ書きました。
――父子関係を否定する前に、その子に嫡出推定が及ぶかを見極めよ。
「これです!」
相馬先輩が覗き込みました。
「ほう」
「どうですか!」
「悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
またそれですか。
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
だって。
二十歳の美咲さんは、もう遅いと言われていました。
生後十か月の男の子の父親は、まだ時間があると思っていました。
でも。
法律は、二人にまったく違う答えを用意していたのです。
同じ「父親ではない」という主張でも。
使う手続きによって。
救済への道は、大きく変わる。
そして。
正しい道を見つけることができれば。
誰かが諦めていた人生に、もう一度選択肢を取り戻すことができる。
それが。
今日、私が知った民法の力でした。
「ところで、先輩」
「何だ」
「嫡出否認の一年って、やっぱり短すぎませんか?」
「俺に言うな」
「だって、知らないうちに期限が来ちゃう人もいるんですよ!」
「そうだな」
「もっと長くした方がいいと思います!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前が法律を変えるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
私は口をつぐみました。
実は。
未来では変わるんです。
出訴期間は三年に延長されます。
それだけではありません。
父親だけでなく、子供や母親にも嫡出否認の権利が認められるようになります。
成年に達した子供のための特別な期間の仕組みまで整えられるのです。
でも。
それはまだ、何十年も先の話。
私は未来の法律を知っています。
けれど、今の相談者を救うためには、今の法律で考えなければなりません。
そう思っていたところへ。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「一年が短いと思うなら、まず期限を落とすな」
「……!」
「法律に不満があっても、今の制度で使える権利を失わせたら意味がねえ」
私は、思わず背筋を伸ばしました。
「はい!」
「それに、期限がない訴えだからって、証拠集めを怠るなよ」
「はい!」
「二十年前の資料だろうが、必要なら徹底的に集めるんだ」
「はいっ!」
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「もう少し優しく教えてやれ」
私は思わず顔を上げました。
「所長!」
ありがとうございます!
ところが。
「こはる」
「はい!」
「明日は、今日の二件について、条文と訴訟の違いをノートにまとめろ」
「……え?」
「嫡出否認と親子関係不存在確認。原告、期間、推定の有無。間違えるなよ」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「宿題だな」
「所長!」
優しくするって、そういう意味ですか!?
私は肩を落としました。
でも。
悪くありません。
だって明日は。
今日の事件を、法律の言葉で整理できるのですから。
私はノートを閉じました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが訪れています。
美咲さんは今、二十年間知らなかった自分の法律上の立場と向き合っています。
信夫さんは、一年という短い期限の中で、息子との関係をどうするべきか考えています。
どちらの人生も。
簡単なものではありません。
でも。
法律を正しく知ることで、少なくとも選べる道が見えてくる。
私は今日、それを学びました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「明日の法理編、楽しみです!」
「お前、勉強が好きなのか嫌いなのか、どっちなんだよ!」
「試験勉強は嫌いです!」
「おい!」
「でも、事件の理由が分かるのは好きです!」
相馬先輩は一瞬黙りました。
そして。
「……それでいいんじゃねえか」
小さく言いました。
私は笑いました。
民法。
嫡出否認。
親子関係不存在確認。
難しい言葉です。
でも、その違いを知ることは。
ただ試験で一問正解するためだけではありません。
戸籍に書かれた一文字に苦しんでいる人へ。
正しい道を示すためでもあるのです。
私は最後に、ノートの一行をもう一度読みました。
――父子関係を否定する前に、その子に嫡出推定が及ぶかを見極めよ。
よし。
これなら忘れません。
ただし。
昭和六十三年の民法は、今日も容赦がありません。
一年。
たった一年。
その数字の重さを、私はきっと忘れないでしょう。
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