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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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554/701

[嫡出の推定]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 血がつながっていることと、法律上の父親であることは、必ずしも同じではありません。


 そして。


 赤ちゃんが生まれた日によって、法律上の父親が変わることがあります。


 二百日。


 三百日。


 たった二つの数字。


 けれど、その数字には。


 子供の身分を守るための、民法の大切な仕組みが隠されているのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……三百日って、長いですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「離婚した夫が、法律上の父親と推定される期間です」


「ああ」


「三百日ですよ?」


「知ってる」


「約十か月ですよ?」


「知ってるって言ってるだろ」


 私は鉛筆を置きました。


「その間に再婚して、新しい家庭を作って、赤ちゃんが生まれても……」


「昭和の民法では、前夫の子と推定されることがあるな」


「そうなんです!」


 私は机を叩きました。


「美咲ちゃんの事件です!」


 藤村美咲ちゃん。


 六月二十日に生まれた、小さな女の子。


 お母さんの由美さんは、前年十月一日に前夫の黒田邦彦と離婚していました。


 そして、今年四月十五日に藤村直樹さんと再婚。


 美咲ちゃんが生まれたのは、離婚から二百六十三日後。


 ところが。


 前夫の黒田は、民法七百七十二条を持ち出して、


 ――法律上は俺の子だ。


 と主張しました。


 そのうえ、百五十万円の解決金まで要求したのです。


「ひどい話でしたよね」


「ああ」


「でも、内容証明を送ったら金銭請求を撤回しました!」


「親子関係の問題は、まだ残ってるけどな」


「はい」


 そうです。


 黒田の不当な要求を止めることと、法律上の父子関係を確定することは別問題。


 その後の手続は、弁護士に引き継ぎました。


 私たち行政書士ができるのは、事実関係を整理し、必要な書面を作るところまで。


 裁判で親子関係を争うことはできません。


「でも、先輩」


「何だ」


「どうして民法は、こんな複雑な仕組みにしたんでしょう?」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「じゃあ、今日はそこから考えてみるか」


「はい!」


 奥で帳簿を整理していた片桐所長が、静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「条文を暗記する前に、何のための制度か考えろ」


 私は頷きました。


 よし。


 今日のテーマ。


 嫡出の推定。


 二百日と三百日の謎を、完全に解き明かします!


 ◇


「まず、嫡出子とは何か」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――嫡出子。


 法律上の婚姻関係にある男女の子として、法律上扱われる子。


「つまり、結婚している夫婦の子供ですね」


「基本はそうだ」


「では、結婚していない男女の間に生まれた子供は?」


「何て言う」


「非嫡出子です!」


 私は書き加えました。


 ――非嫡出子。


 婚姻外の子。


「ただし、先輩」


「何だ」


「非嫡出子だからといって、人としての価値が低いわけではありません」


「当たり前だ」


「はい」


 重要なのは。


 婚姻関係があるかどうかによって、法律上の親子関係の成立の仕組みが異なるということです。


「それから、婚姻前に生まれた子でも、後から父母が婚姻して嫡出子の身分を取得する場合があります」


「準正だな」


「はい!」


 民法第七百八十九条。


 準正。


 認知された子について、父母の婚姻などにより嫡出子の身分を取得させる制度です。


「でも今回の中心は、嫡出子という言葉そのものではありません」


「何だ」


「推定です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――嫡出の推定。


 一定の出生事情があるときに、法律上、夫の子であると推定する仕組み。


 ここで私は、ふと疑問を覚えました。


「所長」


「何だ」


「どうして、わざわざ父親を推定する必要があるんですか?」


 片桐所長が顔を上げました。


「母親は、一般に出産という事実から明らかになる」


「はい」


「では、父親は?」


「……出産しません」


「そうだ」


 私は、なるほどと思いました。


 母親は子供を産みます。


 でも父親については、出産という事実だけでは分かりません。


 現代ならDNA鑑定という手段があります。


 しかし昭和六十三年。


 そんなものが、誰でも簡単に利用できる時代ではありません。


 それに、現代でも。


 すべての赤ちゃんについて、出生のたびにDNA鑑定をするわけではない。


「もし、法律上の父親がいつまでも決まらなかったら?」


 相馬先輩が聞きました。


「扶養の問題が起きます」


「うん」


「相続も」


「そうだ」


「親権や戸籍にも関係しますね」


 私は鉛筆を握り直しました。


 つまり。


 父親が誰なのかを、いつまでも不安定にしておくわけにはいかない。


 そこで民法は。


 婚姻と出生時期などの事情から、法律上の父親を推定する。


「なるほど!」


 私は声を上げました。


「嫡出推定は、お父さんを困らせるための制度じゃないんですね!」


「当然だろ」


「子供の身分を安定させるためなんです!」


 片桐所長が頷きました。


「そこが出発点だ」


 私はノートに赤線を引きました。


 ――嫡出推定の目的は、子の身分関係の早期安定。


 これを理解すると、次の疑問が生まれます。


 なぜ。


 二百日と三百日なのでしょうか。


 ◇


「では、昭和六十三年の民法七百七十二条です!」


 私は六法を開きました。


 第一項。


 ――妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。


「懐胎って何だ」


 相馬先輩が聞きました。


「妊娠することです!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 懐胎=妊娠。


「今の言葉なら、妊娠した子供って書けばいいのに」


「昔から法律は難しい言葉が好きだからな」


「受験生泣かせです!」


 私は続けました。


「妻が婚姻中に妊娠した子供は、夫の子と推定されます」


「うん」


「たとえば、結婚して一年後に妊娠した場合」


「そうだな」


「その子は、法律上、夫の子と推定される」


「そのとおり」


 ここまでは簡単です。


 問題は第二項。


 私は読み上げました。


 ――婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。


 ……。


「長い!」


「読め」


「はい……」


 私は内容を分けて考えました。


 まず。


 婚姻成立から二百日を経過した後に生まれた子。


 次に。


 離婚などによる婚姻解消から三百日以内に生まれた子。


「つまり、婚姻中に妊娠したと推定するための、出生時期の基準なんですね」


「そうだ」


「どうしてその数字なんでしょう」


 相馬先輩が言いました。


「妊娠期間を考えたんだ」


「あっ!」


 私は手を叩きました。


 人間の妊娠期間。


 一般に約十か月。


 もちろん、早産もありますし、出産時期には個人差があります。


 でも法律は、父子関係を安定させるため、一定の日数を基準として設けました。


「二百日というのは、結婚してからある程度の期間を経て生まれた子なら、婚姻中に妊娠したと推定するため」


「うん」


「三百日というのは、離婚した後でも、婚姻中に妊娠した子が生まれる可能性を考えた期間」


「そのとおりだ」


 私はノートに数字を書きました。


 婚姻成立から二百日経過後。


 婚姻解消から三百日以内。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「数字をただ覚えていたときより、ずっと分かりやすいです」


 片桐所長が言いました。


「理由が分かれば、忘れにくい」


「はい!」


 ただし。


 ここで私は、大きな注意点に気づきました。


「先輩!」


「何だ」


「二百日や三百日は、妊娠したことを医学的に証明する数字ではありませんよね?」


「そうだ」


「法律上の推定を働かせるための基準なんですよね」


「そのとおり」


 つまり。


 二百日経ったから、必ず婚姻中に妊娠した。


 三百日以内だから、絶対に前夫の子。


 そういう意味ではありません。


 あくまで。


 法律が、一定の事実を推定する。


 その仕組みなのです。


 ◇


「では、美咲ちゃんの事件に戻ります!」


 私はノートに三つの日付を書きました。


 昭和六十二年十月一日。


 前夫・黒田と離婚。


 昭和六十三年四月十五日。


 直樹さんと再婚。


 昭和六十三年六月二十日。


 美咲ちゃん出生。


「ここで質問です!」


 私は相馬先輩を見ました。


「前夫との離婚から、出生まで何日でしょう?」


「二百六十三日」


「正解!」


「昨日も数えただろ」


「復習です!」


 私は続けました。


「では、離婚後三百日以内ですか?」


「そうだ」


「つまり?」


「昭和の七百七十二条では、前夫の子と推定される」


「正解です!」


 今度は、再婚の日付を指しました。


「では、直樹さんとの婚姻から出生までは?」


「六十六日だな」


「そうです!」


 私は二百日という数字に丸をつけました。


「二百日を経過していません!」


「そうだ」


「したがって、昭和の民法では、現在の夫について七百七十二条の嫡出推定が働かないんです!」


「そのとおり」


 私は頭を抱えました。


「うう……やっぱり複雑です」


 前夫については、三百日以内だから推定。


 今の夫については、二百日を経過していないから推定されない。


 これが昭和の民法。


「でも、先輩」


「何だ」


「どうして再婚しているのに、前夫の子と推定されるんでしょう?」


「当時の条文が、再婚後の出生について現在のような優先規定を置いていないからだ」


 私は頷きました。


 つまり。


 昭和の法律は、婚姻解消後三百日という基準を強く維持していた。


 そのため、美咲ちゃんのように再婚後に生まれた子供でも、前夫の子と推定されることがあったのです。


「でも、現代では変わったんですよね」


 私は思わず言いました。


 相馬先輩が眉をひそめました。


「……また未来の話か」


「今回ばかりは、ものすごく重要なんです!」


 私はノートの右側に、


 ――令和六年四月一日施行。


 と書きました。


「現代の民法七百七十二条では、女性が婚姻前に妊娠し、婚姻成立後に生まれた子も、夫の子と推定することが明記されました!」


「ほう」


「しかも、妊娠から出生までの間に二つ以上の婚姻があった場合、出生の直近の婚姻の夫の子と推定する仕組みになったんです!」


 相馬先輩が腕を組みました。


「つまり?」


「美咲ちゃんのように、前夫との離婚から三百日以内でも、再婚後に生まれた子なら、原則として新しい夫の子と推定されるんです!」


「なるほどな」


 私は胸を張りました。


「これなら、あんな問題が起きにくくなります!」


 片桐所長が口を開きました。


「では、なぜ改正が必要だったと思う」


「はい」


 私は少し考えました。


 前夫との離婚から三百日以内。


 その間に再婚した。


 新しい夫との子供が生まれた。


 でも、法律上は前夫の子と推定される。


 その結果。


 前夫を父親とする出生届を出すことをためらう。


 出生届が提出されず、戸籍が作られない。


 いわゆる無戸籍児問題。


 そうした深刻な問題が生じてきたのです。


「つまり、現代の改正は……」


 私は言いました。


「子供が出生したときに、実際の家族関係により即した父子関係を、法律上も安定させやすくするためなんですね」


 所長が頷きました。


「制度は、何を守るためにあるのか。それを忘れてはならん」


 私は大きく頷きました。


 そして。


「ちなみに、再婚禁止期間も廃止されるんです!」


 と付け加えました。


 相馬先輩が首をかしげました。


「再婚禁止期間?」


「はい!」


 ここで私は、また昭和と令和の大きな違いを思い出しました。


 昭和六十三年の民法には、女性について、前婚の解消から原則六か月間の再婚禁止期間がありました。


 その後、平成二十八年の改正で百日に短縮され、例外も整備されました。


 そして令和六年四月一日施行の改正で、再婚禁止期間そのものが廃止されたのです。


「どうして廃止されたと思います?」


 私は得意になって言いました。


「父親の推定が重複する問題を、新しい七百七十二条の仕組みで整理できるようになったからです!」


 相馬先輩が少し笑いました。


「よく分からん未来だが、理屈は通ってるな」


「そうでしょう!」


「ただし」


「はい?」


「昭和の事件を処理するときは、昭和の法律を使えよ」


「……はい」


 また釘を刺されました。


 でも。


 私は、この改正の意味を強く感じました。


 法律は。


 昔の制度をそのまま守ることだけが目的ではありません。


 現実に困っている人がいるなら。


 何が問題なのかを考え、制度を見直していく。


 そうして少しずつ、変わっていくものなのです。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「婚姻成立から二百日以内に生まれた子は、昭和ではどう扱う?」


「嫡出推定を受けません!」


「じゃあ、嫡出子じゃないのか?」


「……そこが、ひっかけ問題ですね!」


 私はノートをめくりました。


 ――推定されない嫡出子。


 この言葉。


 最初に聞いたときは、意味が分かりませんでした。


「先輩。推定されないのに、嫡出子なんですよね」


「そうだ」


「ややこしいです!」


「法律に言え」


「またそれですか!」


 私は説明を始めました。


 たとえば。


 四月一日に結婚した夫婦。


 六月一日に赤ちゃんが生まれた。


 婚姻から、わずか二か月。


 昭和の民法七百七十二条による嫡出推定は受けません。


 でも。


 婚姻中に出生した子供です。


 このような子供は、婚姻中に生まれた嫡出子として扱われ、いわゆる「推定されない嫡出子」と呼ばれていました。


「つまり!」


 私は言いました。


「嫡出子であることと、七百七十二条の強い推定を受けることは、区別しなければならないんです!」


「そこだ」


 片桐所長が頷きました。


「ただし、推定されないからといって、誰でも勝手に親子関係を否定できるわけではない」


「はい」


 親子関係の存否をめぐる問題には、適切な法律上の手続が必要です。


 それに。


 今回の美咲ちゃんは、単純な「婚姻から二百日以内に生まれた子」の事例ではありません。


 なぜなら。


 前夫との離婚から三百日以内という、もう一つの推定の問題を抱えているからです。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「今の夫との婚姻から二百日以内だからといって、それだけで前夫の推定が消えるわけではないんですね」


「そうだ」


「だから、美咲ちゃんの事件は難しかった」


「そのとおり」


 私はノートの中央に書きました。


 ――推定されない嫡出子と、推定の及ばない子は違う。


「……ん?」


 私は鉛筆を止めました。


「先輩」


「何だ」


「似た言葉が、また二つ出てきました」


「ああ」


「推定されない嫡出子」


「うん」


「推定の及ばない子」


「うん」


「これ、試験で間違えさせる気満々ですよね!」


「出題者に聞け」


「先輩!」


「何だ!」


「ちゃんと違いを教えてください!」


 相馬先輩はため息をつきました。


「お前が説明するんだよ」


「……はい」


 ですよね。


 今日は私の復習です。


 私は、二つの言葉を並べました。


 まず。


 推定されない嫡出子。


 これは、昭和の民法で、婚姻成立から二百日以内に生まれた子のように、そもそも七百七十二条の嫡出推定の要件を満たさない子を指します。


 一方。


 推定の及ばない子。


 こちらは、条文上は推定を受ける出生時期に当てはまっていても、夫との性的交渉の機会がなかったことが客観的に明らかであるなど、推定の前提を欠く特別な事情がある子を指します。


「つまり!」


 私は言いました。


「前者は、最初から法律上の推定の要件に当てはまらない」


「うん」


「後者は、形式上は要件に当てはまっても、特別な事情で推定が及ばない」


「そうだ!」


 私は大きく丸をつけました。


 なるほど。


 似ているけれど、意味が違う。


 しかも。


 美咲ちゃんの事件では、まさに後者が問題になったのです。


 ◇


「では、推定の及ばない子について整理します!」


 私はノートの新しいページを開きました。


 ――推定の及ばない子。


「美咲ちゃんの前夫、黒田は長期間海外にいましたね」


「ああ」


「由美さんとは二年近く会っていませんでした」


「そうだ」


「しかも、そのことを裏付ける資料が残っていました」


 海外事務所の勤務記録。


 出張記録。


 手紙。


 電報。


 別居先の生活状況。


 関係者の陳述書。


「だから、前夫との間に性的交渉の機会がなかったことを、客観的に示せる可能性があったんです」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「これが、推定の及ばない子の典型例なんですね」


「ああ」


 私は別の例も考えました。


 夫が長期間海外に滞在している。


 夫が長期間、刑務所に収容されている。


 夫婦が事実上離婚し、遠く離れて生活している。


 その間、性的交渉の機会がなかったことが客観的に明らかである。


「こういう事情があれば、七百七十二条の推定が及ばない場合があるんですね」


「そうだ」


 ここで相馬先輩が、少し意地悪な顔をしました。


「じゃあ、夫婦仲が悪かったら?」


「え?」


「毎日喧嘩していた」


「はい」


「妻が『夫の子じゃない』と言っている」


「はい」


「それだけで推定が及ばなくなるか?」


 私は考えました。


 夫婦仲が悪い。


 不仲。


 別居。


 でも。


 それだけで、性的交渉の機会がなかったとは限りません。


「……なりません!」


「そうだ」


「単に夫婦仲が悪かったとか、妻が別の男性との子だと言っているだけでは足りません」


「うん」


「客観的に見て、夫婦間に性的交渉の機会がなかったことが明らかかどうかが重要です!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は続けました。


「それに、血液型や親子鑑定の結果だけで、推定が当然になくなると考えるのも危険ですね」


「そのとおりだ」


 法律上の嫡出推定は、単に生物学上の父親を推測するだけの仕組みではありません。


 子供の身分を安定させるための制度でもあります。


 だから。


 夫婦が普通に同居していて、性的交渉の機会もあった場合。


 後から血縁関係がないと分かったとしても、それだけで直ちに「推定の及ばない子」となるわけではないのです。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「これ、すごく大事ですね」


「何がだ」


「推定の及ばない子は、単に血のつながりがない子という意味ではないんです」


「そうだ」


「夫婦関係の外形的事情から、そもそもその夫の子を妊娠する機会がなかったと認められるような場合なんですね」


「そこを押さえろ」


 片桐所長が言いました。


「昭和四十四年の最高裁判例も確認しておけ」


「はい!」


 私は判例資料を開きました。


 昭和四十四年五月二十九日。


 最高裁判所判決。


 夫婦が長期間、事実上の離婚状態にあり、夫婦の実態が失われていた事案です。


 最高裁は、そのような事情のもとで生まれた子について、七百七十二条の嫡出推定が実質的に及ばないと判断しました。


「これなら、昭和六十三年でも使える判例ですね!」


「そうだ」


「未来の判例じゃありません!」


「当たり前だ」


「私にとっては重要なんです!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


 でも。


 ここで私は、ようやく理解しました。


 美咲ちゃんの事件で、私たちが必死に証拠を集めた理由。


 それは。


 単に、前夫と血がつながっていないと主張するためではありません。


 そもそも嫡出推定が働く前提を欠いていること。


 それを示すためだったのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「推定が及ぶ子について、夫が『俺の子じゃない』と言ったらどうする?」


「嫡出否認の問題です!」


 私は即答しました。


 民法第七百七十四条以下。


 嫡出否認。


 嫡出推定を受ける子について、法律上の父子関係を否定するための制度です。


「ここで、また昭和と現代の違いが出ます!」


「またかよ」


「出るんです!」


 私はノートを左右に分けました。


 左側。


 昭和六十三年。


 右側。


 令和。


「まず昭和です」


 昭和六十三年の旧民法では、嫡出否認の訴えを起こす権利は、原則として夫に限られていました。


「夫だけ?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


「母親は?」


「自分で嫡出否認の訴えを起こすことはできません」


「子供は?」


「同じく、嫡出否認権者ではありません」


「期間は?」


「夫が子の出生を知った時から一年以内です!」


 私は大きく書きました。


 ――旧民法第七百七十七条。


 夫が子の出生を知った時から一年以内。


「一年……」


 私は思わず呟きました。


「短いですね」


「ああ」


「しかも、母親や子供は自分から嫡出否認できない」


「そうだ」


 私は美咲ちゃんの事件を思い出しました。


 もし。


 前夫の黒田について、嫡出推定が完全に及ぶと判断されたら。


 母親の由美さんが、


 ――黒田は父親ではありません。


 と訴えたいと思っても。


 昭和の嫡出否認制度では、原則として由美さん自身にその訴えを起こす権利がありません。


「……これは厳しいですね」


「厳しいな」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、推定が及ぶのか、及ばないのかが重要になる」


「はい」


 私は大きく頷きました。


 そして。


「でも、どうして期間を一年にしたんでしょう?」


 と尋ねました。


 片桐所長が答えました。


「父子関係をいつまでも不安定にしないためだ」


「あ……」


 そうでした。


 子供の身分を安定させる。


 それが嫡出推定の目的です。


 もし、父親が何十年も経ってから自由に父子関係を否定できるなら。


 子供の扶養。


 相続。


 家族関係。


 そうしたものが、いつまでも不安定になってしまう。


「だから、否認できる人と期間を制限していたんですね」


「そうだ」


「でも、その制限が厳しすぎると……」


「困る者も出る」


 所長が言いました。


 私は頷きました。


 守るための制度が、別の場面では壁になる。


 まさに、美咲ちゃんの事件です。


「では、令和の民法ではどう変わるか!」


 私は右側に書きました。


 令和六年四月一日施行の改正。


 嫡出否認権者の拡大。


 そして、期間の伸長。


「現代では、父だけでなく、子や母にも嫡出否認権が認められます」


「ほう」


「さらに、一定の場合には前夫にも認められます」


 相馬先輩が腕を組みました。


「随分変わるんだな」


「はい!」


 私は続けました。


「原則的な出訴期間も、一年から三年に延びました!」


「三年か」


「そうです。ただし、誰が訴えるかによって起算点が違いますし、子については、一定の要件のもとでさらに期間が延びる特則もあります」


 私は赤線を引きました。


 昭和。


 夫だけ。


 原則一年。


 令和。


 父・子・母などに拡大。


 原則三年。


 ただし例外あり。


「これは、どうして改正されたんでしょう?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が笑いました。


「また自問自答か」


「学習法です!」


 でも、答えは分かっていました。


 父親の権利だけでなく。


 母親や子供自身の利益も考える必要があるから。


 そして。


 従来の一年という期間では、事情によっては適切に争うことが難しかったから。


「法律上の親子関係を安定させることは重要です」


 私は言いました。


「でも、子供自身が間違った父子関係を争う機会も大切なんですね」


 片桐所長が頷きました。


「どちらか一方だけを見てはいかん」


「はい」


 安定。


 そして、真実や当事者の利益。


 その両方を調整する。


 民法は、そこに苦労しているのです。


 ◇


「では、もう一つ」


 私はノートをめくりました。


 ――親子関係不存在確認。


「美咲ちゃんの事件では、こちらが問題になりましたね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「どうして嫡出否認じゃなかった?」


「前夫との間に、性的交渉の機会がなかったことを裏付ける客観的事情があったからです」


「うん」


「そのため、嫡出推定が及ばない子と認められる可能性がありました」


「そうだ」


 私は続けました。


「推定が及ばない場合には、嫡出否認の訴えとは別に、親子関係不存在確認の手続によって父子関係の存否を争うことができます」


「そうだな」


 ここで私は、二つを整理しました。


 嫡出否認。


 法律上の嫡出推定が及ぶ子について、その推定による父子関係を否定するための特別な手続。


 親子関係不存在確認。


 嫡出推定が及ばない場合などに、法律上の親子関係が存在しないことの確認を求める手続。


「つまり、先輩」


「何だ」


「この二つは、好きな方を選べるわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「嫡出否認の期間を過ぎたから、親子関係不存在確認に切り替えればいい、というものでもない」


「そのとおり!」


 私は大きく頷きました。


 ここ。


 重要です。


 嫡出推定が及ぶ子について、期間制限を避けるために、自由に親子関係不存在確認を使えるわけではありません。


 そうでなければ。


 嫡出否認の厳格な制度を設けた意味がなくなってしまいます。


「だから、最初に判断すべきことは……」


 私は言いました。


「その子に嫡出推定が及ぶのかどうか!」


 相馬先輩が頷きました。


「正解だ」


 片桐所長も静かに言いました。


「入口を間違えると、出口も間違える」


「……はい」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 入口。


 つまり。


 法律上、どの類型に当たるのか。


 そこを間違えれば。


 使う手続も。


 訴えを起こせる人も。


 期間も。


 全部間違えてしまう。


 美咲ちゃんの事件で、最初に必要だったのは。


「血がつながっていない!」


 と叫ぶことではありませんでした。


 前夫と母親が、懐胎時期にどのような状態だったか。


 そこで夫婦間の接触の機会がなかったことを客観的に証明できるか。


 そうした事情を調べることだったのです。


 ◇


「ところで、先輩」


 私は手を挙げました。


「何だ」


「嫡出の推定って、推定なんですよね」


「そうだ」


「じゃあ、証拠があれば普通に覆せるんじゃないですか?」


 相馬先輩が私を見ました。


「そこが落とし穴だ」


「え?」


「推定だからって、何でも自由に覆せると思うな」


 私は首をかしげました。


 法律上の推定。


 一般には、反対の事実が認められれば覆り得るもの。


 でも。


 嫡出推定の場合は、父子関係の安定という特別な目的があります。


 そのため。


 推定が及ぶ子については、法律の定める嫡出否認の手続と制限に従う必要がある。


「つまり、単なる証明の問題だけじゃないんですね」


「そうだ」


「親子関係を争う方法そのものが、制限されている」


「そのとおり」


 私は書きました。


 ――嫡出推定は、単なる事実上の推測ではなく、身分関係を安定させる法的な仕組み。


 なるほど。


 この違い。


 行政書士試験では、絶対に理解しておきたいところです。


「でも、先輩」


「何だ」


「じゃあ、前夫が本当の父親ではないと分かっていても、何もできない場合があるんですか?」


「昭和の制度では、そういう厳しい問題が起こり得る」


 私は黙りました。


 それは。


 とても重い話でした。


 血のつながり。


 法律上の父子関係。


 子供の生活。


 当事者の意思。


 それらが一致しないことがある。


 しかも。


 民法は、誰か一人の希望だけで父子関係を変えることを認めていません。


 なぜなら。


 法律上の親子関係は、子供の人生に深く関わるものだからです。


「だからこそ」


 片桐所長が言いました。


「書類を作る者は、軽々しく断定してはいかん」


「はい」


「依頼人の話を信じることと、証明できることを区別しろ」


 私は頷きました。


 現場編で。


 私が最初に書いた内容証明の原案。


 ――黒田邦彦と美咲との親子関係は存在しない。


 この一文。


 片桐所長に赤線を引かれました。


 あのときは、少し悔しかったのです。


 でも今なら分かります。


 行政書士が通知書を書いたからといって、法律上の親子関係が消えるわけではありません。


 必要な証拠を整理し。


 問題点を明らかにし。


 適切な裁判手続へつなぐ。


 そのための書面を作る。


「私たちの仕事は、判決を書くことじゃないんですね」


「そうだ」


「判決に耐えられる事実を、整理することなんですね」


 相馬先輩が笑いました。


「少しは分かってきたじゃねえか」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一言は、忘れないと思います。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「はい!」


「確認問題だ」


「来ましたね!」


 私は背筋を伸ばしました。


「昭和六十三年。婚姻成立から二百日を経過した後に生まれた子は?」


「婚姻中に懐胎したものと推定され、夫の子と推定されます!」


「離婚から三百日以内に生まれた子は?」


「原則として、前夫の子と推定されます!」


「では、離婚から三百日以内でも、母親が再婚していたら?」


「昭和の民法では、再婚しただけで前夫の推定が新しい夫に切り替わるわけではありません!」


「よし」


 所長が続けます。


「婚姻成立から百日で生まれた子は?」


「昭和では、七百七十二条の嫡出推定を受けません。ただし、婚姻中に生まれた嫡出子として扱われる場合があり、推定されない嫡出子と呼ばれます!」


「推定の及ばない子とは?」


「出生時期からは推定の対象になるものの、夫婦が事実上離婚状態で接触の機会がなかったなど、客観的事情から夫の子を懐胎する可能性がなかったと認められる場合の子です!」


「よし」


「推定が及ぶ子について、昭和の嫡出否認権者は?」


「原則として夫です!」


「期間は?」


「夫が子の出生を知った時から一年以内です!」


「では、推定の及ばない子については?」


「親子関係不存在確認の手続などが問題になります!」


 片桐所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 やった。


 嫡出推定。


 昭和の基本は、これで整理できました。


「じゃあ、俺からも問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「令和六年四月一日以降に生まれた子で、母親が離婚後三百日以内に再婚し、その再婚後に出産した場合は?」


「原則として、再婚後の夫の子と推定されます!」


「婚姻成立から二百日以内に生まれた子は?」


「現代では、婚姻前に妊娠していても、婚姻成立後に生まれれば、原則として夫の子と推定されます!」


「嫡出否認権者は?」


「父だけでなく、子や母などにも拡大されました!」


「期間は?」


「原則三年です。ただし、起算点や子についての特則に注意します!」


「よし!」


 相馬先輩が頷きました。


「……しかし、お前」


「はい?」


「未来の民法の方が詳しくねえか?」


 私は固まりました。


 しまった。


「い、いえ!」


「何で昭和六十三年に、令和六年の改正まで知ってるんだ?」


「あ、あの……」


 まずい。


 転生者。


 最大の秘密が。


 嫡出推定の勉強会で、暴かれそうになっています!


「その……」


「その?」


「私、法律の将来について考えるのが好きなんです!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「……変な趣味だな」


 と言いました。


 助かったあああ!


 私は心の中で胸を撫で下ろしました。


 危ない。


 民法の勉強より先に、私の正体が否認されるところでした。


 ◇


 窓の外は、もう夕暮れでした。


 私はノートを最初から見直しました。


 嫡出子。


 非嫡出子。


 嫡出推定。


 二百日。


 三百日。


 推定されない嫡出子。


 推定の及ばない子。


 嫡出否認。


 親子関係不存在確認。


 昭和と令和の違い。


 ずいぶん、たくさんの言葉が並びました。


 でも。


 美咲ちゃんの事件を思い出すと。


 それぞれの意味が、きれいにつながります。


 黒田は言いました。


 ――離婚後三百日以内だから、俺が父親だ。


 確かに。


 昭和の民法では、その出生時期から前夫の子と推定されます。


 でも。


 黒田は二年近く海外にいて、由美さんとの間に性的交渉の機会がなかったことを示す客観的資料がありました。


 だから。


 嫡出推定の及ばない子である可能性を検討できた。


 そして。


 親子関係不存在確認という手続につながった。


「所長」


「何だ」


「私、最初は嫡出推定って、すごく冷たい法律だと思いました」


「そうか」


「はい」


 私はノートを見ました。


「でも、考えてみたら、子供の身分を安定させるための制度なんですよね」


「そうだ」


「ただ、昔の制度では、現実に合わない問題もあった」


「ああ」


「だから、現代では再婚後の子供の推定や、嫡出否認の仕組みが改正された」


 片桐所長が頷きました。


「法律を理解するには、何を守るための制度かを考えることだ」


「はい!」


 私は大きく息を吸いました。


 そして。


 ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――嫡出推定は「二百日・三百日」で父子関係を安定させる制度。ただし、推定の及ぶ範囲と、否定するための手続を混同しない。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「またですか!」


「一行にしては長すぎる」


「大事なことを全部入れたんです!」


「欲張りだな」


「行政書士試験に出るんです!」


 相馬先輩は笑いました。


 私も笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 美咲ちゃん。


 小さな手。


 白いおくるみ。


 そして。


 あの子を抱きしめる、由美さんと直樹さん。


 あの家族を思い出せば。


 二百日も。


 三百日も。


 ただの数字ではなくなるからです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「それから、お茶を入れろ」


「……先輩」


「何だ」


「私、今、重大なことに気づきました」


「何だよ」


 私は真剣な顔をしました。


「民法には、推定という制度がありますよね」


「ああ」


「では、先輩が毎日私にお茶を入れさせるのは、何か法律上の推定に基づいているんでしょうか?」


「は?」


「見習いだからお茶を入れるべきだ、という推定ですか?」


 相馬先輩が、こちらを見ました。


 そして。


「そんな推定、民法のどこにもねえよ」


 と言いました。


「ですよね!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「つまり、先輩の要求には法律上の根拠がありません!」


「別に民法を根拠に頼んでねえよ!」


「なら、私が拒否しても――」


「こはる」


 片桐所長の声がしました。


「はい!」


「お茶を頼む」


「……!」


 私は固まりました。


 相馬先輩が、にやりと笑います。


「ほらな」


「何ですか!」


「所長の業務指示だ」


「くっ……!」


 私は、しぶしぶ立ち上がりました。


 そして。


「でも、先輩!」


「何だ!」


「私がお茶を入れることと、先輩の父親が誰かという問題は、全然違います!」


「当たり前だろ!」


「だから、嫡出推定の勉強には関係ありません!」


「お前が持ち出したんだろうが!」


 ……。


 確かに。


 法律の知識を覚えたからといって。


 何でも法律の問題にしてはいけないようです。


 私は苦笑しながら、湯呑みを並べました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 そのどこかで。


 美咲ちゃんは、今日も小さな寝息を立てているのでしょう。


 直樹さんに抱かれて。


 由美さんに見守られながら。


 父親を推定する法律。


 その仕組みは、時代とともに変わっていきます。


 でも。


 子供の身分を守りたいという願いは、昔も今も変わりません。


 私は、湯呑みにお茶を注ぎながら、もう一度ノートの最後の一行を思い出しました。


 ――嫡出推定は、子供を守るための法律上の推定。数字を覚えるだけでなく、推定の範囲と争い方を理解する。


 よし。


 これなら、忘れません。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「お茶、まだか!」


「今、入れてます!」


「早くしろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「民法七百七十二条は、父親を推定する条文です!」


「知ってるよ!」


「でも、先輩がお茶を飲みたいことは、推定じゃなくて事実ですね!」


「当たり前だ!」


「じゃあ、証明は不要ですね!」


「いいから持ってこい!」


 私は笑いながら、お茶を運びました。


 昭和六十三年。


 民法は、今日も一筋縄ではいきません。


 けれど。


 二百日と三百日の意味を理解した今。


 私はもう、数字だけで父親を決めつけたりしません。


 その数字が、誰を守るためにあるのか。


 そして。


 その数字の向こうに、どんな家族がいるのか。


 そこまで考えられる行政書士になりたいと思います。


 だって。


 赤ちゃんが生まれた日の数字だけで、その子の人生のすべてが決まってしまうほど。


 民法は、単純な法律ではないのです。

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