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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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553/701

[嫡出の推定]現場編 「離婚した夫が父親に決まっている」の罠。三百日の壁と、生まれたばかりの赤ちゃんを奪おうとした男の誤算

挿絵(By みてみん)

 赤ちゃんは、生まれる父親を選べません。


 けれど。


 法律は、ときとして。


 赤ちゃんが生まれる前から、父親を決めてしまいます。


 それも。


 母親が離婚していても。


 別の男性と再婚していても。


 血のつながりがなくても。


 ある数字に当てはまるだけで。


 ――三百日。


 この数字が、一人の赤ちゃんの人生を左右することがあるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は民法の恐ろしさを思い知ることになります。


 契約書もありません。


 借金もありません。


 土地の売買でもありません。


 問題になったのは。


 生まれたばかりの赤ちゃんの、父親でした。


 しかも。


 本当の父親が、すぐ隣に座っているというのに。


 法律上は、別の男が父親だと言われてしまったのです。


「お願いです。この子を、あの人の子供にしないでください」


 朝九時。


 事務所の扉が開きました。


 入ってきたのは、若い夫婦でした。


 女性の腕には、白いおくるみに包まれた赤ちゃん。


 まだ生まれて間もないようです。


「どうぞ、座ってください」


 私が椅子を勧めると、女性は深々と頭を下げました。


「私、藤村由美と申します」


 二十七歳。


 隣の男性は、藤村直樹さん。


 三十一歳。


「この子は、美咲です」


 由美さんがおくるみを少し開きました。


 小さな顔。


 閉じたまぶた。


 握りしめた手。


 すうすうと寝息を立てています。


「かわいい……」


 思わず声が漏れました。


 すると由美さんは、泣きそうな顔で言いました。


「でも、この子を主人の子として届けられないかもしれないんです」


「……え?」


 私は直樹さんを見ました。


 直樹さんも苦しそうな表情をしています。


「妻には、前の夫がいるんです」


 なるほど。


 再婚家庭。


 それ自体は珍しくありません。


 でも、何かがおかしい。


「前のご主人とは、いつ離婚されたんですか?」


「去年の十月一日です」


「今のご主人とは?」


「今年の四月十五日に結婚しました」


「赤ちゃんの誕生日は?」


「六月二十日です」


 私は相談票に書き込みました。


 昭和六十二年十月一日。


 前夫と離婚。


 昭和六十三年四月十五日。


 現在の夫と再婚。


 昭和六十三年六月二十日。


 美咲ちゃん出生。


 そして。


 私は、ある数字を思い出しました。


 民法七百七十二条。


 嫡出の推定。


 婚姻解消から三百日以内。


「あっ……」


 思わず声が出ました。


 由美さんが不安そうに私を見ます。


「やっぱり、駄目なんでしょうか」


「いえ、ちょっと確認させてください」


 私は慌てて六法を開きました。


 離婚から出生まで。


 二百六十三日。


 三百日以内です。


 つまり。


 旧民法の嫡出推定が問題になる。


 でも。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく顔を上げました。


「再婚されていますよね!」


「はい」


「でしたら、新しいご主人の子供と推定されるはずです!」


 由美さんの顔が明るくなりました。


「本当ですか!」


「はい! 民法七百七十二条三項で、複数の婚姻がある場合は、出生の直近の婚姻の夫が――」


「こはる」


 低い声。


 相馬先輩です。


「はい?」


「今、何条って言った?」


「七百七十二条三項です」


「……三項?」


「はい!」


 先輩が六法を開きました。


 そして、私の前に置きます。


「読んでみろ」


「はい」


 私は条文を見ました。


 民法七百七十二条。


 一項。


 二項。


 ……。


 あれ?


 三項がありません。


「……ない」


「何が」


「三項が……」


「ねえよ」


 先輩が言いました。


「どこの民法を読んでるんだ、お前は」


 しまったあああ!


 私は心の中で絶叫しました。


 現代知識。


 またやってしまいました。


 令和六年四月一日施行の改正民法。


 そこでは、母親が再婚した後に子供が生まれた場合、一定の要件のもとで新しい夫の子と推定される仕組みになっています。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 その改正は、まだ存在しません。


「こはる」


 片桐所長が奥から言いました。


「今ある条文を読め」


「……はい」


 私は深呼吸しました。


 そして、旧民法七百七十二条を読みました。


 ――妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。


 ――婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。


 ……。


 私は固まりました。


 離婚後三百日以内。


 美咲ちゃんは、二百六十三日。


 再婚後、まだ六十六日。


 つまり。


「……前のご主人の子供だと、法律上推定されるんですか?」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


「でも、もう再婚してますよ!」


「それで当然に推定が新しい夫に移る制度は、今はねえ」


「そんな……」


 私は由美さんを見ました。


 由美さんは、美咲ちゃんを抱く腕に力を込めています。


「私たち、ちゃんと結婚したんです」


「はい……」


「この子のお父さんは、直樹なんです」


 直樹さんが妻の肩を抱きました。


「僕も、そう思っています」


 その声が、震えていました。


「生まれる前から、ずっと楽しみにしていました」


 直樹さんは、美咲ちゃんの小さな手を見ました。


「名前も、一緒に考えたんです」


 美咲。


 美しく咲く。


 そう願ってつけた名前。


 なのに。


 法律が、別の男を父親だと推定する。


 私は六法を握りしめました。


 なんてことですか。


 三百日。


 その数字が。


 この家族の前に、壁として立ちはだかっているのです。


「でも、前の夫の子供なんて、絶対にあり得ないんです」


 由美さんが言いました。


 私は顔を上げました。


「どういうことですか?」


「前の夫とは、二年近く会っていません」


「……二年?」


「はい」


 由美さんの前夫。


 名前は、黒田邦彦。


 四十二歳。


 貿易会社を経営していた男性だそうです。


 結婚していた当時、仕事を理由に海外へ長期滞在していました。


 しかも。


「昭和六十一年の春から、ほとんど日本に帰っていないんです」


「え?」


「離婚するまで、一度も会っていません」


 私は鉛筆を止めました。


 昭和六十一年の春。


 つまり、美咲ちゃんが生まれる二年以上前から。


 前夫は海外にいた。


「本当に、一度も?」


「はい」


「帰国も?」


「少なくとも、私とは会っていません」


 ここで片桐所長が顔を上げました。


「由美さん」


「はい」


「前のご主人の渡航記録は、確認できますか」


「渡航記録……」


「勤務先の記録でも構いません。出張先や滞在期間を示す資料です」


「会社には、残っていると思います」


 所長が頷きました。


「それは重要です」


 私は胸の中で、何かがつながる音を聞きました。


 そうです。


 嫡出推定。


 たしかに、婚姻中の懐胎や離婚後三百日以内の出生に法律上の推定を与える制度です。


 でも。


 夫が長期間海外にいて、夫婦が会う機会そのものがなかった場合。


 法律は、そんな場合にまで無理やり血縁関係を認めるのでしょうか。


「所長!」


「何だ」


「推定の及ばない子!」


 片桐所長が、ゆっくり頷きました。


「そこだ」


 私は思わず立ち上がりました。


「婚姻中に妊娠したことになる子供でも、夫との間に性的交渉の機会がなかったことが客観的に明らかなら、嫡出推定が及ばない場合があります!」


「そうだ」


「単なる夫婦仲の悪さじゃなくて、そもそも妊娠の可能性がない事情です!」


 相馬先輩が言いました。


「ただし、まだ決めつけるな」


「はい?」


「『会っていない』という本人の話だけでは、相手が争ってくる」


「……あ」


「昭和の裁判で、どうやって証明する?」


 私は口を閉じました。


 今なら。


 DNA鑑定。


 医学的な親子鑑定。


 そんな方法を思い浮かべます。


 でも、この時代。


 現代ほど簡単に利用できるわけではありません。


 しかも。


 推定の及ばない子であるかどうかは、単に血縁が違うという話だけでなく、夫婦が会う機会を持てなかった客観的事情が問題になります。


「証拠……」


 私は呟きました。


「証拠が必要なんですね」


 片桐所長が言いました。


「法律は、事情を知らん」


「はい」


「だから書面で示す」


 なるほど。


 この事件。


 勝負は、もう始まっているのです。


「実は、前の夫から手紙が届いています」


 由美さんが鞄から封筒を取り出しました。


 厚手の封筒。


 中には、便箋が二枚。


 そして、もう一枚。


 妙な書類がありました。


 私は読みました。


 ――通知書。


 差出人。


 黒田邦彦。


 そこには、こう書かれていました。


 ――出生した子は、民法七百七十二条により、前夫である私の嫡出子と推定される。


 ――したがって、私の承諾なく、現在の夫を父親として取り扱うことは認めない。


 ――親子関係に関する問題を円満に解決したいのであれば、解決金百五十万円を支払われたい。


 私は目を疑いました。


 百五十万円。


 解決金?


「……何ですか、これ」


 由美さんが俯きました。


「前の夫は、私が再婚することをずっと嫌がっていたんです」


「はい」


「離婚するときも、何度も嫌がらせをされました」


 直樹さんが続けます。


「美咲が生まれたと知った途端、電話が来たんです」


「何て?」


「自分が法律上の父親だ。だから、俺の言うことを聞け、と」


 私は唇を噛みました。


 さらに。


 その通知書には、こんな一文までありました。


 ――百五十万円の支払を確認した場合には、父親としての権利を主張しない旨の書面を交付する。


 ……。


 私は思わず言いました。


「父親の権利を、売るつもりですか?」


 由美さんの目から涙が落ちました。


「私、この子の戸籍がどうなるのか怖くて……」


「……はい」


「もう十万円、渡してしまったんです」


「えっ!」


 私は顔を上げました。


「十万円も?」


「はい。これで静かにしてくれると思って」


 でも。


 黒田はさらに百四十万円を要求してきた。


 払わなければ、親子関係をめぐる問題を起こす。


 そう脅しているというのです。


 私は通知書を机に置きました。


 そして、思いました。


 ひどい。


 本当に、ひどい。


 民法七百七十二条。


 子供の法律上の身分を安定させるための規定。


 それを。


 金を取る道具にしているのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「何が間違ってる」


「前の夫が、親子関係をお金で左右できると思っていることです」


「そうだ」


「それに、推定が及ぶかどうかも確かめていません」


「うん」


「証拠次第では、そもそも推定の及ばない子として扱われる可能性があります」


「そのとおり」


 私は、もう一度通知書を見ました。


 民法七百七十二条。


 たしかに書いてあります。


 条文番号まで。


 だからといって。


 それだけで相手が正しいとは限りません。


「所長」


「何だ」


「この男、自分に都合のいいところしか読んでいません」


 所長が頷きました。


「法律を知っている者が、法律を正しく使うとは限らん」


 私は強く頷きました。


 そうです。


 ここで必要なのは。


 相手より大きな声ではありません。


 正確な事実。


 正確な条文。


 そして。


 正確な書面です。


 その日の午後。


 私は相馬先輩と、黒田の経営する貿易会社へ向かいました。


 駅から少し離れた雑居ビル。


 三階。


 扉には、


 ――黒田貿易商会。


 と書かれています。


「失礼します」


 応接室へ通されると、背広姿の男が座っていました。


 黒田邦彦。


 四十二歳。


 金色の腕時計。


 太い指には、大きな指輪。


 男は私たちを見ると、鼻で笑いました。


「何だ。行政書士か」


「片桐事務所の相馬です。事実関係を確認させていただきたい」


「弁護士じゃないのか」


「そうです」


「じゃあ、親子関係の裁判なんてできないだろ」


 うわ。


 この人。


 ものすごく嫌な笑い方をします。


「そのとおりです」


 相馬先輩はあっさり答えました。


「私たちが裁判の代理人になることはできません」


「だったら帰れよ」


 黒田は椅子にふんぞり返りました。


「法律上は俺の子なんだよ」


「そのようにお考えなんですね」


「考えじゃねえ。民法だ」


 黒田は机を叩きました。


「七百七十二条! 離婚後三百日以内に生まれた子は、前の夫の子だ!」


 私は思わず口を開きました。


「でも、それは――」


「こはる」


 相馬先輩が遮ります。


「はい……」


 先輩は黒田に尋ねました。


「昭和六十一年から、海外に滞在されていましたね」


「だから何だ」


「どちらに?」


「シンガポールだよ」


「帰国は?」


「仕事で何度か帰ったことはある」


 私は息を呑みました。


 帰国していた?


 なら、慎重に調べなければなりません。


 相馬先輩は表情を変えません。


「昭和六十二年の夏から秋にかけては?」


「……何?」


「その頃、日本に帰国されましたか」


 黒田の眉が動きました。


「そんな昔のこと、覚えてねえよ」


「そうですか」


「何だよ」


「いえ。確認です」


 相馬先輩は手帳に書き込みました。


 黒田は苛立った様子で言いました。


「どうせ、あいつらから頼まれて来たんだろ」


「事実確認に伺いました」


「じゃあ、伝えとけ」


 黒田は笑いました。


「百五十万円だ」


 私は拳を握りました。


「何の権利があって――」


「民法七百七十二条だよ!」


 黒田が大声で言いました。


「法律に書いてあるんだ!」


 その瞬間。


 相馬先輩が静かに立ち上がりました。


「分かりました」


「分かったなら帰れ」


「はい」


 先輩は一礼しました。


「お話は確認できました」


 そして。


 それ以上、一言も言わずに応接室を出たのです。


「先輩!」


 ビルを出た私は、思わず叫びました。


「何で何も言わないんですか!」


「言っただろ」


「何を!」


「事実を確認した」


「もっと反論できたじゃないですか!」


 相馬先輩が足を止めました。


「こはる」


「はい!」


「俺たちは弁護士じゃねえ」


「……はい」


「依頼人の代わりに、あいつと解決金の交渉をするわけにはいかねえ」


「分かっています」


「だったら、口で勝とうとするな」


 先輩は煙草を一本取り出しました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 ……また出ました。


 相馬先輩の決め台詞です。


「でも、先輩」


「何だ」


「黒田は、帰国したことがあるって」


「そうだな」


「だったら、夫婦が会っていないって証明するのは難しいんじゃ……」


「だから調べる」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「法律の推定を崩したいなら、気合いじゃなくて事実だ」


「事実……」


「帰国した日。滞在した場所。由美さんがそのときどこにいたか。全部だ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 条文だけでは勝てない。


 判例だけでも勝てない。


 その条文や判例が、今回の事件に当てはまること。


 そこまで示さなければならないのです。


 翌日から。


 証拠集めが始まりました。


 まず、由美さんの以前の住居。


 近所の人への聞き取り。


 前夫が海外へ渡った時期。


 最後に会った日。


 別居の経緯。


 次に、黒田の海外滞在についての資料。


 会社の関係者から提供された、出張記録。


 取引先との往復書簡。


 海外事務所から送られた電報。


 そして。


 黒田自身が以前、由美さんへ送っていた手紙。


 そこには、こう書かれていました。


 ――今年の夏も帰国できそうにない。


 ――年末もシンガポールで過ごす予定だ。


 さらに、勤務先に残る資料をたどると。


 黒田が昭和六十二年の夏から秋にかけて、継続して海外で仕事をしていたことを裏付ける記録が見つかりました。


「……ありました!」


 私は事務所で声を上げました。


「先輩! 出張記録です!」


 相馬先輩が書類を受け取ります。


「昭和六十二年七月から十一月まで、海外事務所勤務……」


「はい!」


「その間の取引記録もあるな」


「はい!」


「ただし、これだけで日本に一度も戻らなかったと断定はできねえ」


「……そうですね」


 私は頷きました。


 書類に名前があるだけで、必ずその場所にいたとは限りません。


 だから。


 さらに裏付けが必要です。


 相馬先輩は、資料を一つずつ机に並べました。


 海外滞在の記録。


 由美さんの別居先住所。


 離婚前の手紙。


 別居後の生活状況を知る人の陳述。


 黒田の帰国時期についての資料。


「こはる」


「はい」


「何が見えてきた」


 私は考えました。


「婚姻関係が続いていたことと、夫婦が実際に会える状態だったことは、別です」


「そうだ」


「婚姻届が残っていても、長期間海外にいて性的交渉の機会がなかったことが客観的に明らかなら、嫡出推定が及ばない場合がある」


「うん」


「そのことを、書類で証明するんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 私は六法を見ました。


 七百七十二条。


 三百日。


 法律は、たしかに父親を推定する。


 でも。


 その数字が、すべての事実を消してしまうわけではないのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「もう一つ、気づいてるか」


「何です?」


「今の夫と結婚してから、美咲ちゃんが生まれるまで、何日だ?」


「六十六日です」


「そうだな」


「それが?」


「民法七百七十二条をもう一度読め」


 私は条文を開きました。


 婚姻の成立の日から二百日を経過した後。


 ……。


「あっ!」


 私は声を上げました。


「二百日!」


「そうだ」


「今のご主人との婚姻から、まだ二百日を経過していません!」


「だから?」


「昭和の民法では、この子は現在の夫についても、七百七十二条による嫡出推定を受けないんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は頭を抱えました。


 何ですか、この複雑さ!


 離婚した夫については、三百日以内だから推定。


 再婚した夫については、婚姻から二百日を経過していないから推定されない。


 でも。


 出生時には、ちゃんと今の夫婦が結婚している。


「じゃあ、美咲ちゃんは非嫡出子なんですか?」


「そこを間違えるな」


 片桐所長が言いました。


「はい?」


「推定を受けないことと、嫡出子でないことは同じではない」


 私は目を瞬きました。


「……違うんですか?」


「違う」


 所長は静かに続けました。


「婚姻成立から二百日以内に生まれた子でも、婚姻中に出生した子として、嫡出子と扱われる場合がある」


「つまり……」


「『推定されない嫡出子』だ」


 私は鉛筆を取り落としそうになりました。


 何ですか、その言葉。


 推定されない。


 でも嫡出子。


 頭が混乱します。


「先輩!」


「何だ」


「それ、すごく分かりにくいです!」


「法律に言え」


「法律に言いたいです!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「文句を言っても、条文は変わらねえぞ」


 私は思わず呟きました。


「……いつか変わるんですけどね」


「何?」


「い、いえ!」


 危ない。


 令和の民法では、婚姻前に妊娠し、婚姻成立後に生まれた子についても、夫の子と推定する規定が明文化されます。


 でも、それはずっと先の話。


 今、この時代に生きる美咲ちゃんには、昭和の法律が適用される。


 私は改めて思いました。


 たった二つの数字。


 二百日。


 三百日。


 それだけで、こんなに扱いが変わる。


 法律の歴史には、人の人生を左右する境界線が引かれているのです。


 三日後。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には、大量の資料が積み上がっていました。


 出張記録。


 海外からの手紙。


 別居先の資料。


 関係者の陳述書。


 離婚届の受理を示す資料。


 再婚の日付。


 美咲ちゃんの出生証明書。


 さらに、直樹さんと由美さんが、いつから生活を共にしていたかを整理した事実経過書。


「よし」


 片桐所長が言いました。


「通知書を作るぞ」


「はい!」


 私は原案を書き始めました。


 差出人。


 藤村由美。


 宛先。


 黒田邦彦。


 そして。


 表題。


 ――不当な金銭請求の中止及び既払金返還請求通知書。


「所長!」


「何だ」


「書けました!」


 所長が原案を受け取りました。


 そして。


 赤鉛筆を持ちました。


 嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『黒田邦彦と美咲との親子関係は存在しない』」


「はい!」


「断定するな」


 赤線。


「えっ!」


「俺たちは裁判所ではない」


「……はい」


「相手との親子関係に争いがあるなら、法的に確定させる手続が必要になる」


 私は頷きました。


「じゃあ、どう書けば……」


「推定が及ばないと考える具体的な根拠を示せ」


「……根拠」


「そして、必要な裁判手続については、弁護士に相談する旨を記載する」


「はい!」


 私は書き直しました。


 ――本件出生子については、民法第七百七十二条第二項に規定する出生時期に該当するものの、貴殿と通知人との間には、懐胎時期に夫婦としての接触の機会が存在しなかったことを裏付ける客観的事情がある。


 ――したがって、本件には嫡出推定が及ばないと評価されるべき事情があり、親子関係不存在確認の手続等について弁護士への相談を予定している。


「うん」


 所長が頷きました。


「次」


 私は続けました。


 ――民法第七百七十二条は、父子関係の法的安定を図る規定であり、推定上の父とされる者に金銭請求権を与える規定ではない。


 ――貴殿が要求する百五十万円について、その支払義務を基礎づける契約その他の法的根拠は確認できない。


 ――また、親子関係の存否は、当事者による金銭の授受のみで自由に変更できるものではない。


 相馬先輩が頷きました。


「いいぞ」


「はい!」


「続けろ」


 私は次の文章を読みました。


 ――通知人は、貴殿に対し、右金銭請求を直ちに中止するよう求める。


 ――既に支払った十万円については、支払経緯及び法律上の原因を踏まえ、不当利得返還請求等の対象となると考えるため、その返還を求める。


 ――今後も不当な請求又は威迫的言動が継続する場合には、弁護士への相談のうえ、必要な法的措置を検討する。


 読み終わりました。


 事務所が静かになります。


 私は所長を見ました。


「どうでしょう」


 片桐所長は、ゆっくり頷きました。


「いい」


「本当ですか!」


「ただし、もう一つ必要だ」


「何ですか?」


「裏付け資料の一覧だ」


 所長は机を指しました。


「相手が『会っていない証拠などない』と言える状態にするな」


 私は頷きました。


 そうです。


 単に、


 ――あなたは父親ではありません。


 と書いても、相手は笑うだけです。


 しかし。


 黒田自身の海外滞在記録。


 過去の手紙。


 別居の経緯。


 関係者の陳述。


 それらが具体的に整理されていれば。


 相手は、一つずつ反論しなければならない。


 しかも。


 その資料には、黒田本人が作成したものまで含まれています。


「先輩」


「何だ」


「これ、怖いですね」


「何が」


「相手が昔、自分で書いた手紙が、今になって証拠になるんです」


 相馬先輩が笑いました。


「悪党ってのはな」


「はい」


「自分が昔ついた嘘や、自分で残した記録に足をすくわれることがあるんだよ」


 私は机の上を見ました。


 昭和の書類。


 手紙。


 電報。


 日付。


 住所。


 署名。


 全部、紙です。


 でも。


 その紙が積み重なると。


 人の言い逃れを、少しずつ封じていくのです。


「所長」


 私は尋ねました。


「一つ、確認してもいいですか?」


「何だ」


「推定の及ばない子なら、嫡出否認の訴えを使わなくてもいいんですよね?」


 片桐所長が頷きました。


「一般に、嫡出推定が及ばない場合には、親子関係不存在確認の問題になる」


「はい」


「ただし、そこに該当するかどうかは慎重に判断しなければならない」


 相馬先輩が言いました。


「推定が及ぶ子なら、単に血がつながっていないってだけで、誰でも自由に父子関係を否定できるわけじゃねえ」


「……はい」


「昭和の嫡出否認には、訴えを起こせる者や期間に厳しい制限がある」


 私は息を呑みました。


 そうでした。


 嫡出推定は、子供の身分を安定させるための制度。


 だからこそ。


 一度成立した法律上の父子関係を、いつでも誰でも簡単に覆せる仕組みにはなっていない。


「でも、先輩」


「何だ」


「今回みたいに、夫婦が会う機会自体なかった場合まで、同じように扱ったら……」


「そうだ」


 先輩が頷きました。


「だから、推定の及ばない子という考え方が重要になる」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 法律の推定には、強さがある。


 でも、その推定がそもそも働く場面なのか。


 そこから確かめなければならないのです。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「推定は、事実そのものではない」


 私は顔を上げました。


「……はい」


「法律が、ある事実から別の事実を導く仕組みだ」


 その言葉が、胸に残りました。


 三百日。


 婚姻。


 懐胎。


 出生。


 これらの事情から、父親を推定する。


 でも。


 法律が推定しているからといって。


 現実に起きた出来事まで、書き換わるわけではありません。


 私は鉛筆を握り直しました。


 そして、書面の最後に。


 一文を加えました。


 ――本通知は、貴殿との父子関係の存否を一方的に確定するものではないが、貴殿による金銭請求には応じられないことを明確に通知するものである。


 相馬先輩が、それを読んで頷きました。


「よし」


「はい!」


「相手がどこまで争えるか。こっちがどこまで言えるか。その境目を間違えるな」


 私は頷きました。


 法律の書面とは。


 大きなことを書けば強くなるものではありません。


 言えることを、正確に書く。


 言えないことを、無理に断定しない。


 それが。


 本当に強い書面なのです。


 内容証明郵便を発送した翌々日。


 黒田邦彦の会社から、電話がありました。


「……片桐行政書士事務所か?」


 声が違います。


 前に会ったときの、あの余裕がありません。


「はい。片桐でございます」


 所長が電話に出ました。


『あの書面は、何だ』


「通知書に記載された内容のとおりです」


『海外にいた記録まで、どうやって調べた!』


「提出された資料に基づき、事実関係を整理しております」


『……くそっ』


 受話器の向こうで、何かが机に当たる音がしました。


『弁護士に見せたんだよ』


「そうですか」


『そしたら……』


 黒田の声が小さくなりました。


『俺が父親だって、絶対に認められるわけじゃないって……』


 私は思わず顔を上げました。


『長期間海外にいて、夫婦が会う機会がなかったことが証明されたら、推定が及ばない可能性があるって……』


 所長は黙って聞いていました。


『しかも、百五十万円を要求する根拠なんかないって……』


「はい」


『……あの十万円も、返した方がいいと言われた』


 私は息を呑みました。


 黒田はしばらく黙っていました。


 そして。


『……金は返す』


 小さな声で言ったのです。


『もう、百五十万円なんて言わない』


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


『ただ……』


 黒田が続けました。


『あいつら、俺を裁判にかけるつもりなのか』


 所長は静かに答えました。


「親子関係については、専門の弁護士に相談されると伺っています。今後の具体的な手続は、当事者と弁護士の判断になります」


『……そうか』


「なお、金銭の返還については、通知人ご本人に書面でご回答ください」


『分かった……』


 電話が切れました。


 私は思わず立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「折れましたね!」


「ああ」


「百五十万円、諦めましたよ!」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと、自分が何をやってたか分かったんだろ」


「はい!」


「ただし、こはる」


「はい」


「これで親子関係の問題が解決したわけじゃねえぞ」


 私は頷きました。


「分かっています」


 そうです。


 黒田が金銭請求を撤回したこと。


 黒田と美咲ちゃんの法律上の親子関係を確定すること。


 この二つは、別問題です。


 内容証明郵便は、裁判所の判決ではありません。


 戸籍を自動的に書き換える力もありません。


 でも。


 相手の不当な要求を止めることはできた。


 そして。


 法律上の親子関係を正しく整理するための資料を、集めることができた。


 私は、それだけでも大きな一歩だと思いました。


 一週間後。


 黒田から返還された十万円について、由美さんから連絡がありました。


 約束どおり返金されたそうです。


 そして。


 事務所には、もう一枚の書面が届きました。


 黒田本人が署名押印した確認書です。


 ――藤村由美に対する百五十万円の金銭請求を撤回する。


 ――既払金十万円については返還済みである。


 ――本件出生子に関する法律上の親子関係について、金銭の支払を条件とする要求を今後行わない。


 私は確認書を見つめました。


「先輩」


「何だ」


「ハンコ、押してありますね」


「ああ」


「自分で」


「そうだ」


 相馬先輩がにやりとしました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて――」


「書面にハンコを押させた奴が勝つ!」


 私が先に言うと。


「お前、俺の台詞を取るな!」


 先輩が怒りました。


 私は笑いました。


 でも、本当に。


 最初の黒田は、あれほど自信満々でした。


 民法七百七十二条。


 三百日。


 だから俺が父親だ。


 だから金を払え。


 それだけを繰り返していました。


 しかし。


 婚姻中に懐胎したと推定されること。


 実際に夫婦が会う機会があったこと。


 法律上の親子関係を争うための手続。


 金銭請求の根拠。


 これらを一つずつ区別すると。


 黒田の理屈は、あっけなく崩れたのです。


 その日の夕方。


 藤村夫妻が、もう一度事務所を訪れました。


 もちろん。


 美咲ちゃんも一緒です。


「ありがとうございました」


 由美さんが頭を下げました。


「おかげで、前の夫からの請求が止まりました」


「よかったです!」


 私は笑いました。


 直樹さんも頭を下げました。


「集めていただいた資料も、弁護士さんに見てもらいました」


「どうでしたか?」


「夫婦が長く離れていた事情を、きちんと調べてもらえることになりました」


 片桐所長が頷きました。


「よかったですね」


「はい」


 直樹さんは続けました。


「親子関係不存在確認の手続が適切かどうかも含めて、これから進めていくそうです」


 私はほっとしました。


 これで。


 ようやく。


 正しい手続に進めるのです。


「まだ、全部終わったわけじゃありませんけど」


 由美さんが言いました。


「はい」


「でも、前みたいに怖くはなくなりました」


 私は由美さんを見ました。


「どうしてですか?」


「何が問題なのか、分かったからです」


 その言葉に。


 私は、はっとしました。


 そうです。


 分からないから怖い。


 法律の言葉が分からない。


 何をすればいいのか分からない。


 誰が正しいのかも分からない。


 だから。


 声の大きな人に、


「法律で決まっている!」


 と言われると、従うしかないと思ってしまう。


 でも。


 法律の仕組みを知れば。


 何が決まっていて。


 何がまだ決まっていなくて。


 何を証明しなければならないか。


 それが見えてくる。


「私……」


 由美さんが、美咲ちゃんを見ました。


「この子が生まれて、初めて抱っこしたとき」


「はい」


「本当に幸せだったんです」


 赤ちゃんが、小さく身じろぎしました。


「でも、すぐに前の夫から連絡が来て……」


 由美さんの目が潤みました。


「この子の名前を、ちゃんと届けられないんじゃないかって」


「……はい」


「私たちの家族じゃなくなってしまうんじゃないかって」


 直樹さんが、妻の肩を抱きました。


「でも、違うんですよね」


 私は顔を上げました。


「法律上の問題があっても、僕たちが美咲を大切に思っていることは変わらない」


「……はい」


「それに、ちゃんと解決する道もある」


 私は大きく頷きました。


「あります」


 そして。


「まだ手続は必要ですけど、一つずつ進めていきましょう」


 そう答えました。


 そのとき。


 美咲ちゃんが、小さな声を出しました。


「あう……」


 私は思わず笑いました。


「美咲ちゃんも、何か言ってますね」


 直樹さんが赤ちゃんの顔を覗き込みます。


「何だ、美咲」


「あう」


「そうかそうか」


 由美さんが笑いました。


「何も言ってないじゃない」


「いや、言ってる」


「何て?」


 直樹さんは、少し考えてから言いました。


「お父さん、頑張ってって」


 由美さんが吹き出しました。


 私も笑いました。


 片桐所長まで、ほんの少し口元を緩めました。


 法律上の父子関係については、まだ解決していません。


 でも。


 その小さな家族には、笑顔が戻っていました。


 二人が帰ったあと。


 私は六法を開いていました。


 民法七百七十二条。


 嫡出の推定。


 婚姻中に懐胎した子。


 婚姻成立から二百日経過後。


 婚姻解消から三百日以内。


 私は鉛筆で、数字を囲みました。


 二百日。


 三百日。


「先輩」


「何だ」


「この数字、ちょっと怖いですね」


「どうしてだ」


「だって、美咲ちゃんは何も悪くないのに」


「ああ」


「生まれた日によって、法律上の父親が変わることがあるんです」


 相馬先輩は煙草を置きました。


「そうだな」


「でも、そもそも、どうして法律は父親を推定するんでしょう」


 先輩は私を見ました。


「お前は、どう思う」


 私は考えました。


 父親を推定する。


 それは、親子関係を早く安定させるため。


 子供を、いつまでも父親の分からない不安定な立場に置かないため。


 法律上の親子関係が定まれば、扶養や相続にも関係する。


 だから。


 嫡出推定は、本来、子供を守るための制度なのです。


「……子供のため、ですよね」


 私が答えると、先輩が頷きました。


「そうだ」


「でも今回、その制度が逆に子供を苦しめていました」


「そこが難しいところだ」


 片桐所長が静かに言いました。


「制度には、守るものがある」


「はい」


「だが、一律の基準では、現実に合わない場合がある」


 私は頷きました。


 たしかに。


 三百日。


 それは、多くの事例を整理するための基準です。


 でも。


 夫婦が長期間会っていなかった場合。


 離婚後に別の男性と再婚した場合。


 婚姻成立後、二百日以内に子供が生まれた場合。


 そうした事情を、すべて同じように扱えば。


 法律が守ろうとした子供自身が、困ってしまうことがある。


「所長」


「何だ」


「だから、法律って改正されるんでしょうか」


 所長は少し考えてから言いました。


「社会が変われば、法律が現実に合わなくなることもある」


「はい」


「そのとき、何を守るための法律だったのかを、考え直す必要がある」


 私は胸の中で、静かに頷きました。


 令和の民法。


 婚姻前に妊娠して、婚姻成立後に生まれた子も、夫の子と推定する。


 離婚後三百日以内でも、再婚後に生まれた子は、新しい夫の子と推定する。


 昭和にはなかった仕組みです。


 そして。


 その改正には、理由があった。


 今回の美咲ちゃんのように。


 法律の推定と、実際の家族関係が食い違うことがあるから。


 その食い違いによって、出生届や戸籍をめぐる困難が生じることがあるから。


 法律が、子供を守るはずなのに。


 その法律のために、子供が苦しんではならない。


 だから。


 制度は、少しずつ変わっていくのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日、一番大事なことは何だ」


「三百日です!」


「違う」


「えっ!」


「数字は大事だ。だが、それだけじゃねえ」


 私は考えました。


 七百七十二条。


 嫡出推定。


 推定の及ばない子。


 婚姻から二百日以内。


 離婚から三百日以内。


 嫡出否認。


 親子関係不存在確認。


 頭の中で、言葉が回ります。


 そして。


 私は、ようやく気づきました。


「……法律が推定していることと、現実に何が起きたかは、別です」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「推定があるからって、何も調べなくていいわけじゃない」


「うん」


「逆に、血がつながっていないと言うだけで、法律上の父子関係をいつでも自由に否定できるわけでもない」


「そのとおり」


 片桐所長が言いました。


「よく覚えておけ」


「はい」


「親子関係は、当事者だけの問題ではない」


 私は顔を上げました。


「子供の身分、扶養、相続。長く続く法律関係だ」


「……はい」


「だからこそ、慎重に扱わなければならん」


 私はノートを開きました。


 そして。


 今日の教訓を、一行だけ書きました。


 ――嫡出推定は、子供を守るための法律上の推定。数字だけで真実を決めつけず、推定の及ぶ範囲と客観的事実を見極める。


 書き終えました。


「できました!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「えっ!」


「一行って言っただろ」


「一行です!」


「文字が多すぎる」


「大事なことが多いんです!」


 先輩は笑いました。


 私も笑いました。


 そして、ふと窓の外を見ました。


 夕暮れの商店街。


 買い物帰りのお母さん。


 子供の手を引くお父さん。


 乳母車を押す若い夫婦。


 どの家族にも、それぞれの事情があるのでしょう。


 婚姻届を出した日。


 赤ちゃんが生まれた日。


 離婚した日。


 再婚した日。


 法律は、それらの日付から親子関係を推定します。


 でも。


 子供が誰に抱きしめられているのか。


 誰が夜中に起きて、泣く赤ちゃんをあやしているのか。


 誰が、その子の将来を願っているのか。


 そういう生活の現実も、確かに存在します。


 もちろん。


 愛情だけで法律上の父子関係が決まるわけではありません。


 だからこそ。


 法律と現実の両方を見なければならない。


 私は今日、それを学びました。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「いつまで六法を眺めてる!」


「復習です!」


「だったら、問題だ」


「え?」


「婚姻成立から百日で生まれた子は、昭和の民法でどう扱う?」


 私は即答しました。


「七百七十二条の嫡出推定は受けません!」


「それだけか?」


「婚姻中に生まれた子として、嫡出子と扱われる場合があります!」


「よし」


「いわゆる、推定されない嫡出子です!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、離婚から二百八十日で生まれた子は?」


「原則として、前夫の子と推定されます!」


「今の夫と再婚していたら?」


「昭和六十三年では、再婚したというだけで当然に新しい夫の子と推定されるわけではありません!」


「そうだ」


「でも、夫婦が長期間会えなかったことが客観的に明らかな場合などには、推定の及ばない子として扱われる可能性があります!」


「よし!」


 やった。


 今度こそ。


 時代を間違えませんでした。


「どうですか、先輩!」


「まあまあだな」


「褒めましたね!」


「調子に乗るな」


「でも先輩!」


「何だ!」


「令和の民法なら、再婚した後に生まれた子は――」


「未来の法律を持ち込むな!」


「はいっ!」


 怒られました。


 でも。


 私は思わず笑ってしまいました。


 昭和六十三年。


 民法七百七十二条。


 二百日。


 三百日。


 その数字を覚えることは、たしかに大事です。


 けれど。


 もっと大事なのは。


 その数字が、誰を守ろうとしているのか。


 そして。


 数字だけでは守りきれない人が、目の前に現れたとき。


 法律と事実を、どう結びつけるか。


 それを考えることなのです。


 あの美咲ちゃんは、まだ法律を知りません。


 民法七百七十二条も。


 嫡出推定も。


 二百日も、三百日も。


 何も知りません。


 それでも。


 生まれた瞬間から、法律上の親子関係という大切な問題に関わっている。


 だから。


 大人が、きちんと考えなければならないのです。


 法律の推定に、無条件で従うのでもなく。


 都合が悪いからと、無視するのでもなく。


 子供のために。


 事実を確かめ。


 必要な手続を踏み。


 正しい法律関係を明らかにしていく。


 それが。


 民法の仕事なのだと思います。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、嫡出推定って、ただの数字の問題だと思ってました!」


「ああ」


「でも、違いました!」


「そうだな」


「子供の人生を守るための制度なんですね!」


 相馬先輩は少し笑いました。


「分かったなら、忘れるなよ」


「はい!」


 私は、もう一度ノートを見ました。


 そこには。


 二百日。


 三百日。


 そして、今日の教訓。


 たくさんの赤線が引いてありました。


 私は鉛筆を置きました。


 夕暮れの空が、少しずつ赤く染まっています。


 藤村家では今頃。


 美咲ちゃんが、お父さんとお母さんに抱かれているのでしょう。


 法律上の親子関係を確定するには、まだ手続が必要です。


 でも。


 もう、黒田の不当な要求に怯える必要はありません。


 そして。


 美咲ちゃんのために、何をすればいいのか。


 その道筋も見えてきました。


 それだけで。


 今日の内容証明には、大きな意味があったと思います。


 なぜなら。


 父親を決める法律は、子供を苦しめるためにあるのではないのですから。


 ――民法七百七十二条。


 嫡出の推定。


 その本当の意味を、私はようやく理解し始めたのでした。

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