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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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[婚姻の解消]現場編 「離婚した女に財産なんかない」の嘘。二年の期限を待つ元夫と、主婦の二十年を取り戻す内容証明の刃

挿絵(By みてみん)

 夫婦でなくなったからといって、一緒に生きた二十年間まで消えるわけではありません。


 結婚すれば、家族になる。


 離婚すれば、他人になる。


 それは、ある意味では正しいのでしょう。


 でも。


 夫のために作った毎日の食事。


 子供を育てた長い年月。


 家計を切り詰めて貯めたお金。


 夫婦でようやく手に入れた家。


 それらは、離婚届一枚で、全部なかったことになるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一人の女性から、こんな言葉を聞くことになります。


「主人に言われたんです。離婚したんだから、お前には一円もやる必要がないって」


 そして。


 その女性に残された時間は、あと十四日。


 たった十四日でした。


「私、もう二年近く待っているんです」


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


 名前は、高瀬文江さん。


 四十六歳。


 小柄で、どこか疲れた表情をしています。


 膝の上には、古びた風呂敷包み。


 そこから取り出されたのは、預金通帳の写しと、何枚もの手紙でした。


「二年前に、主人と離婚しました」


「協議離婚ですか?」


 私が尋ねると、文江さんは頷きました。


「はい。二人で話し合って、離婚届を出しました」


「離婚したのは、いつですか?」


「昭和六十一年、十月二十八日です」


 私は相談票に日付を書きました。


 昭和六十一年十月二十八日。


 現在は昭和六十三年十月十四日。


 ……ん?


「ちょっと待ってください」


「はい?」


「もうすぐ二年になりますね」


「そうなんです」


 文江さんは苦しそうに笑いました。


「主人は、ずっと言っていました。家と貯金のことは、落ち着いたら話し合おうって」


「それで?」


「何度も手紙を出しました。でも、返事が来なくなって……」


 文江さんの指が震えました。


「昨日、主人から電話がありました」


「何と言われたんですか?」


「もうすぐ二年だ。そうなれば、お前は何も請求できなくなる。だから、黙っていろって」


 ……。


 私は鉛筆を止めました。


 相馬先輩が新聞から顔を上げます。


「なるほどな」


 低い声でした。


「期限切れを狙ってやがる」


 私は顔を上げました。


「期限切れ?」


「ああ」


 先輩は私の相談票を指差しました。


「離婚の日から、もうすぐ二年だ」


 ……二年。


 あれ?


 現代の民法なら。


 財産分与の家庭裁判所への請求期間は、五年のはず。


 令和八年の改正で、二年から五年に延長されている。


 だから、まだ時間がある。


 ……あ。


 私は固まりました。


 ここ。


 昭和六十三年でした。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「今、お前、何を考えた?」


「い、いえ!」


「五年くらいあると思った顔だな」


「……!」


 何で分かるんですか!


「馬鹿野郎」


 先輩が六法を机に置きました。


「民法七百六十八条を開け」


「はい!」


 私は慌ててページをめくりました。


 財産分与。


 協議上の離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。


 ここまでは、いい。


 問題は、その次です。


 当事者間で協議が調わないとき。


 または、協議をすることができないとき。


 家庭裁判所に対して、協議に代わる処分を請求することができる。


 ただし。


 ――離婚の時から二年を経過したときは、この限りでない。


「……二年!」


 私は思わず声を上げました。


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「あと十四日だ」


 私は文江さんを見ました。


 二十年間の結婚生活。


 二年前の離婚。


 そして、十四日後に迫る期限。


 これは。


 相手が法律を知らないのではありません。


 知っているからこそ。


 時間切れを待っているのです。


「まず、結婚生活のことを教えてください」


 私は文江さんに尋ねました。


「二十年前に結婚しました」


「お仕事は?」


「結婚する前は、洋裁店に勤めていました」


「結婚後は?」


「主人に言われて、辞めました」


 文江さんは小さく笑いました。


「主人が、家のことを全部やってほしいって」


「それで、専業主婦に?」


「はい。子供が二人できましたから」


 私は頷きました。


「ご主人は、どんなお仕事を?」


「建材会社を経営しています」


「会社を?」


「最初は小さな材木置場だけだったんです。主人と私の二人で、夜遅くまで帳簿をつけて……」


 文江さんは遠い目をしました。


「会社が大きくなってからも、私は家のことをしていました。お客さんが来れば食事を作って、従業員さんの世話もして」


「大変でしたね」


「でも、家族でしたから」


 その言葉が、胸に引っかかりました。


 家族でしたから。


 だから、無給でも働いた。


 だから、自分の給料はなかった。


 だから、財産は夫の名義になった。


 でも。


「二十年間で、財産は増えましたか?」


 私が聞くと、文江さんは頷きました。


「家を建てました。預金もあります」


「名義は?」


「全部、主人です」


 ……なるほど。


 私は通帳の写しを見ました。


 普通預金。


 定期預金。


 いくつもの口座。


 文江さんの話では、婚姻生活中に蓄えた預金だけでも、相当な額になるそうです。


 そして。


 市内の住宅地に建つ、一戸建て。


 結婚して十二年目に購入した家。


 こちらも、夫の単独名義でした。


「離婚するとき、財産分与の話は?」


「しました」


「ご主人は何と?」


「会社の資金繰りが落ち着いたら、きちんと分けると」


「書面はありますか?」


「……いいえ」


 文江さんはうつむきました。


「夫婦だったから、信じていたんです」


 私は唇を噛みました。


 二十年間。


 夫婦として生きた相手。


 その言葉を信じてしまうことが、そんなに愚かなことでしょうか。


「それで」


 文江さんが、もう一枚の紙を取り出しました。


「昨日、こんな手紙まで来たんです」


 私は受け取りました。


 差出人。


 高瀬建材株式会社代表取締役。


 高瀬義雄。


 文江さんの元夫です。


 文面には、こう書かれていました。


 ――当方名義の土地建物及び預貯金は、すべて当方個人の財産である。


 ――貴殿は婚姻中、収入を得ておらず、財産形成に寄与していない。


 ――離婚から二年が経過すれば、家庭裁判所への財産分与請求も不可能となる。


 ――今後、財産に関する要求には一切応じない。


 ……。


 私は紙を置きました。


「先輩」


「何だ」


「この人、最低ですね」


「感想はいい」


「だって!」


「怒るなら、条文で怒れ」


 相馬先輩は、民法七百六十八条を指差しました。


「三項を読め」


 私は読みました。


 家庭裁判所は、当事者双方がその協力によって得た財産の額、その他一切の事情を考慮して、分与の額や方法を定める。


 ……あ。


「双方が、その協力によって得た財産……」


「そうだ」


「つまり、給料を稼いだ人だけが、財産を作ったことになるわけじゃないんですね」


 片桐所長が静かに頷きました。


「家を守ることも、協力だ」


 私は文江さんを見ました。


 家事。


 育児。


 家計の管理。


 夫の仕事を支える毎日。


 それがなければ、夫は同じように働けたのでしょうか。


 同じように会社を大きくできたのでしょうか。


 同じように預金を増やせたのでしょうか。


「文江さん」


「はい」


「ご主人の名義だからといって、財産分与の対象にならないとは限りません」


「……本当ですか?」


「はい。夫婦が協力して築いた財産かどうかが重要なんです」


 文江さんの目から、涙が一粒落ちました。


「私も……働いていたことになるんでしょうか」


 私は答えました。


「はい。少なくとも、財産形成への貢献を考えるとき、家事や育児を無視することはできません」


 片桐所長が付け加えました。


「ただし、すべての財産が当然に半分になるわけではありません」


「はい」


「夫が婚姻前から持っていた財産や、相続によって得た財産などは、別に検討する必要があります」


「分かりました」


 文江さんは頷きました。


「何もかも欲しいわけじゃないんです」


 そして、小さな声で言いました。


「ただ、二十年間の私の人生を、なかったことにしてほしくないんです」


 ……。


 私は、その言葉を相談票に書き留めました。


 翌日。


 相馬先輩と私は、高瀬建材株式会社を訪れました。


 昭和六十三年の地方都市。


 駅から少し離れた工業団地。


 広い敷地には、材木と建築資材が積まれています。


 事務所は二階建て。


 応接室には、高そうな革張りのソファ。


 その中央に座っていたのが。


 高瀬義雄。


 五十歳。


 恰幅のよい男でした。


「行政書士?」


 義雄は名刺を見るなり、鼻で笑いました。


「弁護士じゃないのか」


「片桐事務所の相馬です。今日は、ご本人が作成を希望されている書面のため、過去の経緯と貴殿のお考えを確認に来ました」


「書面?」


「財産分与についてです」


「ああ」


 義雄は、灰皿に煙草の灰を落としました。


「文江の件か」


「はい」


「まだ諦めてないのか、あの女」


 ……あの女。


 二十年間、夫婦だった人を。


 そんなふうに呼ぶんですね。


「財産は全部、俺の名義だ」


 義雄が言いました。


「家も、預金も、会社も」


「そうですか」


「文江は専業主婦だ。給料なんか一円も稼いでいない」


「はい」


「だったら、財産を分ける理由なんかないだろ」


 私は我慢できずに言いました。


「家事や育児も、財産形成への協力として考慮されます」


 義雄は私を見ました。


「何だ、嬢ちゃん」


「朝比奈です」


「若いねえ」


 嫌な笑い方でした。


「お前、結婚したことあるのか?」


「……ありませんけど」


「だったら、夫婦のことなんか分からんだろ」


 ……!


「俺が働いて、俺が稼いだ。文江は家にいただけだ」


 私は拳を握りました。


 家にいただけ。


 その一言で。


 二十年間の家事も育児も、消えてしまうのでしょうか。


「高瀬さん」


 相馬先輩が口を開きました。


「財産分与について、協議する意思はおありですか」


「ないね」


「今後も?」


「ない」


「その理由は?」


「何度も言わせるな。俺の財産だからだ」


 義雄は笑いました。


「それに、あと二週間もすれば二年だろ」


 私は顔を上げました。


 義雄の口元が、にやりと曲がります。


「知ってるんだよ、こっちも」


 この男。


 本当に知っている。


「民法七百六十八条だろ? 二年を過ぎれば家庭裁判所に請求できない」


 義雄は煙草をもみ消しました。


「文江には、ずっと待てと言ってきた」


 ……え?


「もう少しで、その二年が終わる」


 私は息を呑みました。


 わざと。


 わざと待たせていたんですか。


「そんなことを……!」


 私が言いかけると、義雄は笑いました。


「法律ってのは、知ってる奴が得するんだよ」


 ……。


 腹が立ちました。


 本当に。


 腹が立ちました。


 でも。


 相馬先輩は、怒りませんでした。


「なるほど」


 短く言いました。


「協議には応じず、期間経過を待つお考えなんですね」


「そうだ」


「分かりました」


 先輩が立ち上がります。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


 私は驚きました。


「先輩!」


「帰るぞ」


「でも!」


「必要なことは聞いた」


 そのまま応接室を出ました。


 背後から、義雄の笑い声が聞こえてきます。


「弁護士でも連れてきな! もっとも、間に合えばの話だがな!」


 ……。


 絶対。


 絶対に、あの笑い顔を何とかしたい。


 私は、そう思いました。


「先輩!」


 会社を出たところで、私は相馬先輩に詰め寄りました。


「何で言い返さなかったんですか!」


「何を?」


「専業主婦には財産分与の権利がないなんて、間違ってるでしょう!」


「そうだな」


「しかも、わざと二年待たせて!」


「そうだな」


「だったら!」


「こはる」


 先輩の声が低くなりました。


「俺たちは、弁護士じゃねえ」


「……はい」


「依頼人の代理人として、法律紛争の交渉を引き受けるわけにはいかねえ」


「分かっています」


「なら、やるべきことを間違えるな」


 相馬先輩は、私の相談票を指差しました。


「相手が何を考えているか、分かっただろ」


「……はい」


「期限切れを待っている」


「はい」


「だったら、どうする」


 私は少し考えました。


「内容証明を送ります!」


「それだけか?」


「え?」


「内容証明を送れば、二年の期限が止まるのか?」


 ……。


 止まる。


 ……わけでは。


「……止まりません」


「そうだ」


 先輩は頷きました。


「この期限を、普通の借金の消滅時効みたいに扱うな」


「あ……!」


「本人名義で財産分与を求める通知は作れる。だが、それを郵送しただけで、家庭裁判所への請求期間を確保したことにはならねえ」


 私は冷や汗をかきました。


 危ない。


 危ないところでした。


 法律の条文を知っていても。


 手続を間違えれば、取り返しがつかない。


「どうすれば……」


「家庭裁判所への申立てを急ぐ」


 相馬先輩が言いました。


「裁判所の手続は、弁護士に引き継ぐ。必要な資料を揃えてな」


「はい!」


「内容証明は、そのための事実整理と本人の意思表示だ。相手に期限切れを狙っているだけでは済まないと知らせる」


「なるほど……」


「いいか、こはる」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「書面は武器だ」


「はい」


「だが、武器にも使いどころがある」


 先輩は火をつけました。


「期限を守る手続と、相手を動かす書面。その二つを混同するな」


 私は強く頷きました。


 そして。


 私たちは事務所へ戻りました。


「まず、財産を洗い出せ」


 片桐所長の指示は、簡潔でした。


「はい!」


 私は机に資料を並べました。


 婚姻届の年月日。


 離婚届の受理日。


 土地建物の登記事項を示す資料。


 預金通帳の写し。


 住宅ローンの返済記録。


 そして。


 文江さんが保管していた家計簿。


「……これ、すごいですね」


 私は思わず言いました。


 二十年分。


 全部ではありませんが、十数冊もの家計簿が残っていたのです。


 昭和四十五年。


 昭和四十六年。


 昭和四十七年。


 毎月の生活費。


 子供の学用品。


 食費。


 電気代。


 水道代。


 夫から渡された生活費。


 そして、少しずつ貯金に回した金額。


「文江さんが、ずっと書いていたんです」


 私は一冊を開きました。


 そこには、丸い文字で書かれていました。


 ――今月も三千円貯金できた。


 ――義雄さんの会社が忙しい。お弁当を二つ作る。


 ――長男の入学式。新しい靴を買った。


 ――家の頭金まで、あと少し。


 ……。


 私は、しばらくページをめくる手を止めました。


 数字ばかりの家計簿。


 でも。


 そこには生活がありました。


 一日一日を、大切に積み重ねた記録。


 夫が会社を経営している間。


 妻が何をしていたのか。


 その答えが、ここにあるのです。


「所長」


「何だ」


「これ、証拠になりますよね」


「なる」


 所長は頷きました。


「少なくとも、家計を管理し、夫婦の財産形成に協力してきた事情を示す資料にはなる」


「はい」


「ただし、家計簿に書いてある金額が、そのまま現在の分与額になるわけではない」


「分かっています」


「預金がいつ形成されたか。家の取得資金がどこから来たか。借入金が残っているか。そこまで調べる」


「はい!」


 私は資料を整理しました。


 義雄が独身時代から持っていた土地。


 それは、原則として夫の特有財産として扱うべきもの。


 一方で。


 結婚後に、夫婦の協力によって取得した家。


 婚姻中の収入から蓄えた預金。


 そうした財産は、名義だけで結論を出せない。


 そして。


 家事と育児を担ってきた文江さんの寄与。


 そこにも、法律上の意味がある。


「……すごい」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「家計簿が、武器になるんですね」


「なるさ」


 先輩は一冊を持ち上げました。


「二十年分の暮らしが書いてあるんだ」


 そして、にやりと笑いました。


「口先だけの男より、よほど信用できる」


 ……確かに。


 少なくとも。


 義雄の、


「文江は何もしていない」


 という言葉は、この家計簿の前ではずいぶん薄っぺらく聞こえました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「婚姻の解消って、何だ?」


「え?」


「試験の話だ。言ってみろ」


 私は答えました。


「婚姻関係が消滅することです」


「原因は?」


「配偶者の死亡と、離婚です」


「そうだ」


 私は頷きました。


 婚姻の解消。


 夫婦の一方が死亡したとき。


 または離婚したとき。


 なお、失踪宣告によって法律上死亡したものとみなされる場合も、婚姻の解消につながります。


「離婚には?」


「協議離婚と裁判離婚があります」


「今回の文江さんは?」


「協議離婚です」


「成立は?」


「離婚届が受理されたときです」


「そうだ」


 相馬先輩は六法を閉じました。


「じゃあ、離婚したら、夫婦でいた間の財産の問題も全部消えるのか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「財産分与が残ります!」


「そうだ」


 そこが、今回の核心でした。


 婚姻は解消する。


 でも。


 婚姻中に形成した財産をどう分けるかという問題は、残る。


 しかも。


 離婚のときに、すべて決めていなければならないわけではありません。


 離婚後でも、財産分与を請求できる。


 ただし。


 昭和六十三年の民法では、家庭裁判所への請求期間が二年。


 ……二年。


 私は何度も、その数字を見ました。


「先輩」


「何だ」


「離婚って、届出を出して終わりじゃないんですね」


「当たり前だ」


「でも、なんとなく、離婚届を出せば全部終わるような気がしていました」


 相馬先輩は鼻を鳴らしました。


「終わるのは、夫婦という身分関係だ」


 そして。


「二十年間の金の問題まで、勝手に片付くわけじゃねえ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 離婚届。


 たった一枚の紙。


 でも、その後ろには。


 何十年もの生活があるのです。


 その日の午後。


 私は文江さんに、もう一つ尋ねました。


「離婚するとき、お名前はどうされましたか?」


「旧姓に戻りました」


「そうですか」


「でも、娘が結婚するまでは高瀬のままでいたかったんです」


「え?」


「姓が変わると、子供たちと違ってしまうでしょう?」


 文江さんは少し寂しそうに笑いました。


「主人に聞いたら、離婚した女が高瀬を名乗るなって」


 ……また。


 あの男。


「文江さん」


「はい」


「離婚後の氏については、ご本人が選べる制度があります」


「そうなんですか?」


「はい。婚姻によって氏を変えた人は、離婚によって原則として婚姻前の氏に戻ります」


 私は六法を開きました。


 民法七百六十七条。


「でも、離婚の日から三か月以内に届出をすれば、離婚の際に使っていた氏を称することもできます」


「……三か月」


 文江さんの顔が曇りました。


「もう、二年近く経っていますね」


「はい……」


 私は声を落としました。


 ここにも期限がありました。


 三か月。


 財産分与の二年とは、まったく別の期限。


 その特別な届出をする期間は、すでに過ぎています。


「今から同じ氏にしたい場合は、別の手続を検討する必要があります」


「そうですか」


 文江さんは少し考えました。


 それから。


「でも、いいんです」


「え?」


「今は、旧姓にも慣れましたから」


 そう言って、笑いました。


「名前が変わっても、子供たちの母親であることは変わらないでしょう?」


 私は頷きました。


「はい」


 離婚しても。


 父は父。


 母は母。


 子供の嫡出子としての身分が、それだけで消えるわけではありません。


「私、子供たちと家族だったことまで、なくなったわけじゃないんですよね」


「もちろんです」


 私はそう答えました。


 文江さんは、少しだけ安心した顔をしました。


 その表情を見て。


 私は思いました。


 婚姻の解消。


 それは、すべての人間関係を消すことではない。


 法律が終わらせるものと。


 終わらせないものがあるのです。


 翌朝。


 片桐所長は、完成した資料一式を机に並べました。


「こはる」


「はい!」


「通知書を読んでみろ」


 私は深呼吸しました。


 宛先。


 高瀬義雄。


 差出人。


 高瀬文江。


 表題。


 ――財産分与請求通知書。


「第一。本通知人と貴殿は、昭和六十一年十月二十八日、協議離婚により婚姻を解消した」


「うん」


「第二。婚姻期間中、通知人は家事、育児及び家計管理を担い、貴殿の事業活動と家庭生活を支えた」


「うん」


「第三。婚姻中に取得した土地建物、預貯金その他の財産については、その名義のみをもって、財産分与の対象から当然に除外されるものではない」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。民法第七百六十八条に基づき、通知人は貴殿に対し、婚姻中の協力によって形成された財産について、適正な財産分与を求める」


「よし」


「第五。貴殿からは、離婚後、財産分与に関する協議を先送りする旨の説明が繰り返されてきた。しかし、現在まで具体的な分与内容は提示されていない」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。通知人は、上記財産について、取得時期、取得原資、現在の残高及び負債の状況を明らかにしたうえで、誠実な協議が行われることを求める」


「うん」


「第七。協議が調わない場合には、通知人は、弁護士に相談のうえ、民法第七百六十八条第二項に基づく家庭裁判所への申立てその他の適切な法的手続を進める」


 私は読み終わりました。


「……どうでしょうか」


 片桐所長は書面を受け取りました。


 しばらく読んでいます。


 そして。


「悪くない」


「本当ですか!」


「だが、ここを直せ」


 所長が一か所を指差しました。


 私が最初の原案で書いた、


 ――貴殿名義の全財産の二分の一を請求する。


 という部分でした。


「これでは駄目だ」


「……はい」


「財産分与は、すべての財産を機械的に半分にする制度ではない」


「はい」


「どの財産が夫婦の協力で得られたものか。どういう事情を考慮すべきか。そこを分けろ」


「分かりました」


 私は頷きました。


 確かに。


 夫婦だから半分。


 専業主婦だからゼロ。


 どちらも、乱暴な決めつけです。


 民法が求めているのは。


 当事者双方の協力。


 財産の形成過程。


 そして、一切の事情。


 それらを見たうえでの、公平な分配なのです。


「それから」


 所長が言いました。


「この通知書の発送と、家庭裁判所への申立ては別だ」


「はい!」


「期限は迫っている。通知書が届いて相手の返事を待っているうちに、二年が過ぎては意味がない」


「分かっています」


「弁護士への引継資料は?」


「できています!」


 私は別の封筒を取り出しました。


 離婚日を示す戸籍の資料。


 財産一覧。


 預金通帳の写し。


 登記資料。


 家計簿の要約。


 義雄からの手紙。


 文江さんが財産分与について何度も協議を求めた経緯。


 そして。


 家庭裁判所への申立期限を明記した一覧表。


 片桐所長が頷きました。


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと仕事らしくなってきたな」


「今まで仕事じゃなかったんですか!」


「半人前の仕事だ」


「ひどい!」


「だが」


 相馬先輩は書類の束を見ました。


「これだけ揃ってりゃ、弁護士も動きやすい」


 私は、少し嬉しくなりました。


 行政書士。


 裁判で争うことはできません。


 依頼人の代理人として、法律紛争の示談交渉をすることもできません。


 でも。


 事実を整理し。


 証拠を揃え。


 法律の条文に沿って、本人の意思を正確な書面にする。


 そして、必要なところで弁護士に引き継ぐ。


 それができれば。


 裁判が始まる前から、依頼人の立場を強くすることができるのです。


「所長」


「何だ」


「書面って、本当に人を守れるんですね」


 所長は短く答えました。


「守れる形にして、初めてな」


 私は頷きました。


 内容証明郵便が発送されました。


 その一方で。


 文江さんは紹介された弁護士に相談し、家庭裁判所への財産分与の調停申立てを進めました。


 期限が来る前に。


 確実に。


 必要な手続を行う。


 ここを曖昧にしてはいけません。


 そして。


 数日後。


 高瀬建材株式会社から、事務所に電話が入りました。


「……片桐行政書士事務所か」


 聞き覚えのある声でした。


 高瀬義雄。


 あの男です。


「はい」


『相馬さんはいるか』


「少々お待ちください」


 私は受話器を相馬先輩に渡しました。


「相馬です」


『あの……書面が届いたんだが』


「はい」


『あれは、どういうことだ』


「文江さんご本人の財産分与請求の意思を記載した通知書です」


『いや、それは分かるが……』


 義雄の声が、少し震えています。


『あんな家計簿まで残っていたのか』


 私は顔を上げました。


 相馬先輩は落ち着いた声で言いました。


「通知書には、文江さんが保管している資料の概要が記載されています」


『……そうか』


 しばらく沈黙。


 それから。


『弁護士にも見せた』


 来ました。


『その……専業主婦でも、財産分与の対象になるって言われた』


「はい」


『家も預金も俺の名義だって言ったんだが……』


「はい」


『名義だけでは決まらないって』


 私は思わず拳を握りました。


 そうです。


 そうなんです。


 名義だけでは、決まらないんです!


『それに、あの二年の期限なんだが……』


 義雄が言いました。


『もう家庭裁判所の手続を進めているらしいな』


「その件については、文江さんが弁護士に相談されています」


『……』


 義雄は、黙りました。


 おそらく。


 計算が狂ったのでしょう。


 離婚から二年。


 その日まで待たせれば、財産分与の話は終わる。


 そう考えていた。


 でも。


 文江さんは、動いていた。


 しかも。


 二十年間の家計簿と、財産の資料を持って。


『……裁判になると、俺の預金も調べられるのか』


「具体的な手続については、弁護士にご相談ください」


『……分かった』


 義雄の声は、すっかり小さくなっていました。


『もう、無視するのはやめる』


 そして。


『文江に、財産の一覧を渡す』


 私は思わず、相馬先輩を見ました。


 先輩は何も言いません。


『預金も、家のことも、ちゃんと説明する』


「そうですか」


『……争いになれば、もっと面倒なことになるんだろ』


「その点も、弁護士にご相談ください」


『分かったよ……』


 電話が切れました。


 私は叫びました。


「先輩!」


「何だ」


「折れましたよね!」


「ああ」


「やりましたね!」


「まだだ」


「え?」


 相馬先輩は受話器を置きました。


「財産の一覧を渡すと言っただけだ」


「あ……」


「本当に資料が出てくるか。内容が正しいか。分与の合意ができるか。そこまで確認しなきゃ終わらねえ」


「はい……」


 そうでした。


 相手が電話で白旗を上げても。


 それだけで財産が戻るわけではありません。


「だが」


 先輩が少し笑いました。


「あいつの時間切れ作戦は、もう通じねえ」


 ……。


 それを聞いた瞬間。


 私は、胸の奥が熱くなりました。


 さらに数日後。


 文江さんが事務所を訪れました。


 今度は、少しだけ明るい表情でした。


「主人から、手紙が届きました」


「本当ですか?」


「はい」


 差し出された紙には、義雄の署名と押印がありました。


 ――婚姻期間中に取得した財産について、資料を開示し、財産分与に関する協議に応じる。


 ――協議にあたっては、婚姻期間中の双方の協力及び財産形成への寄与を考慮する。


 私は、その二行を何度も読みました。


 あの義雄が。


「専業主婦は何もしていない」


 と言い切った男が。


 婚姻期間中の双方の協力を考慮する。


 そう書いているのです。


「……先輩」


「何だ」


「ハンコがあります」


「ああ」


「本人のハンコですね」


「そうだな」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 出ました。


 先輩の口癖。


 でも、今回は。


 少しだけ意味が違って聞こえました。


 最初の義雄は、声が大きかった。


 会社の社長。


 財産は全部自分のもの。


 専業主婦には一円もやらない。


 あと二週間待てば終わり。


 そんな言葉で、文江さんを追い詰めていた。


 けれど。


 民法七百六十八条。


 家計簿。


 預金通帳。


 登記資料。


 そして、期限内の家庭裁判所への申立て。


 それらが揃った瞬間。


 義雄の大声は、意味を失ったのです。


「文江さん」


 私は言いました。


「これで、ようやく話し合いの入口に立てましたね」


「はい」


 文江さんは頷きました。


「でも、私……」


「はい?」


「お金が戻ってくることも嬉しいんですけど」


 文江さんの目から、涙がこぼれました。


「主人が、私のしてきたことを、少しでも認めたのが嬉しくて……」


 私は何も言えませんでした。


 二十年間。


 朝ご飯を作って。


 子供を育てて。


 洗濯をして。


 掃除をして。


 家計を守って。


 夫を支えて。


 それでも。


 給料をもらっていないから、何もしていない。


 そう言われていた女性。


 その人の二十年間に。


 ようやく、法律が光を当てたのです。


 その後。


 弁護士を通じた手続の中で、財産の内容が明らかになっていきました。


 義雄が婚姻前から所有していた土地については、別に検討されました。


 一方で。


 結婚後に購入した住宅。


 婚姻期間中に形成された預貯金。


 それらについては、文江さんの家事や育児による協力も踏まえ、具体的な分与内容が検討されました。


 そして。


 義雄は、当初の、


「一円も渡さない」


 という主張を撤回しました。


 最終的には、弁護士の関与する手続の中で、預貯金の一部の分与と、住宅についての金銭的な調整を行う内容で合意が成立しました。


 金額は、文江さんが最初に望んでいた額と完全に同じではありませんでした。


 でも。


 ゼロではない。


 何もしていなかったことにも、されなかった。


 そして、何より。


 二年の期限を、間に合って越えることができた。


 ……いえ。


 正確には。


 二年が来る前に、必要な手続を取ることができたのです。


 一週間ほどして。


 文江さんが、もう一度事務所へ来ました。


 手には、小さな紙袋。


「これ、よかったら」


「何ですか?」


「おまんじゅうです」


「わあ!」


 私は思わず笑いました。


「ありがとうございます!」


 相馬先輩が横から言いました。


「お前、食い物には反応が早えな」


「先輩も食べるくせに!」


「俺は仕事の礼としてだ」


「同じでしょう!」


 文江さんが笑いました。


 初めて来たときとは、まるで違う笑顔でした。


「本当に、ありがとうございました」


 私は首を振りました。


「私たちは、書類を作っただけです」


「でも」


 文江さんは言いました。


「あの書類がなかったら、私はずっと、自分が何もしてこなかった人間だと思っていたかもしれません」


 ……。


「主人に、何度も言われたんです」


 文江さんは静かに続けました。


「お前は働いていない。俺の金で暮らしていただけだって」


 私は聞いていました。


「だから、離婚したあとも、財産をくださいなんて言ってはいけないのかと思っていました」


「……はい」


「でも、違ったんですね」


 文江さんは、にっこり笑いました。


「私も、あの家を作った一人だったんですね」


 胸が、ぎゅっとなりました。


「はい」


 私は頷きました。


「そうだと思います」


 文江さんは、少しだけ目を潤ませました。


 そして。


「これからは、自分のためにも働いてみようと思います」


「お仕事ですか?」


「ええ。昔、洋裁店にいたでしょう?」


「はい!」


「知り合いが、また一緒に働かないかって」


「いいですね!」


「子供たちも、もう大きくなりましたから」


 文江さんは笑いました。


「今度は、自分の名前でお給料をもらってみたいんです」


 私は、その笑顔を見て思いました。


 離婚。


 婚姻の解消。


 それは、人生の終わりではありません。


 誰かと一緒に生きた時間が終わっても。


 その人自身の人生は、続いていく。


 民法は。


 その新しい生活へ踏み出すための、足場を用意しているのかもしれません。


 文江さんが帰ったあと。


 私は机の上に六法を置きました。


「相馬先輩」


「何だ」


「婚姻の解消って、難しいですね」


「そうか?」


「はい」


 私はページをめくりました。


 民法七百六十三条。


 協議上の離婚。


 民法七百七十条。


 裁判上の離婚。


 民法七百六十七条。


 離婚による復氏。


 民法七百六十八条。


 財産分与。


「離婚したら終わり、と思っていました」


「うん」


「でも、終わらないものが、たくさんあるんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「当たり前だ」


「夫婦で築いた財産も」


「そうだ」


「子供との親子関係も」


「そうだ」


「二十年間の生活も」


 先輩は少し黙りました。


 それから。


「生活の記憶は、法律で消せねえからな」


 私は頷きました。


 ……そうですね。


 民法は、婚姻を解消することができます。


 でも。


 一緒に食べた夕食。


 子供の成長を喜んだ日。


 家を建てた日の嬉しさ。


 夫婦で苦労した年月。


 それらを、なかったことにはできない。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「裁判離婚なら、どんな理由でも離婚できると思うか?」


「え?」


「相手が嫌いになった。それだけで裁判所が必ず離婚を認めるか?」


 私は首を振りました。


「いいえ。民法七百七十条の離婚原因が問題になります」


「言ってみろ」


「不貞行為、悪意の遺棄、三年以上の生死不明、強度の精神病で回復の見込みがない場合、その他婚姻を継続し難い重大な事由です」


「そうだ」


 私は頷きました。


 もっとも、昭和六十三年の条文には、今の感覚では強烈に感じられる表現もあります。


 特に。


 強度の精神病。


 この規定。


 現代では削除されています。


 ……でも、今は昭和六十三年。


 この時代の民法では、まだ明文の離婚原因なのです。


「ただし」


 片桐所長が奥から言いました。


「理由があれば、必ず離婚できるわけでもない」


「はい!」


 私は答えました。


「一切の事情を考慮して、婚姻の継続が相当と認められる場合には、裁判所が離婚請求を棄却することもあります!」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「離婚も、人の生活を大きく変える。条文の番号だけで決めるな」


「はい!」


 私は六法を閉じました。


 今回。


 文江さんは、夫婦で話し合って離婚を成立させました。


 でも、もし相手が離婚に応じなかったら。


 あるいは。


 脅されて離婚届を書かされたとしたら。


 また別の法律問題が生まれます。


 協議離婚。


 裁判離婚。


 詐欺や強迫による離婚の取消し。


 それぞれ、要件も手続も違います。


 そして。


 離婚のあとには。


 氏。


 財産。


 子供。


 たくさんの問題が続いている。


「……民法、奥が深いですね」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「お前、毎回それ言ってるな」


「だって、本当に深いんです!」


「だったら、もっと勉強しろ」


「はい!」


 私は机に戻り、ノートを開きました。


 夕暮れ。


 窓の外には、赤く染まった町並み。


 どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってきます。


 私は、今日の出来事を思い出しました。


 高瀬文江さん。


 二十年間の結婚生活。


 離婚届。


 夫名義の家。


 夫名義の預金。


 そして、期限まであと十四日。


 もし、あの日。


 文江さんが事務所に来なかったら。


 もし、私たちが現代の知識のまま、


「財産分与は五年あるから大丈夫です」


 なんて言っていたら。


 もし、内容証明を送っただけで安心していたら。


 ……。


 私は、ぞっとしました。


 未来の法律を知っていることは、便利です。


 でも。


 今、この時代に適用される法律を間違えれば。


 守れるはずの人を、守れなくなる。


 しかも。


 期限を間違えたときの損失は、知識問題の失点では済みません。


 誰かの人生に、直接跳ね返ってくるのです。


 私は鉛筆を握りました。


 そして、今日の教訓を書きました。


 ――婚姻が終わっても、夫婦で築いた財産と親子の絆まで消えるわけではない。


「……よし」


 私は頷きました。


 これなら忘れません。


「相馬先輩!」


「何だ!」


「今日の教訓、できました!」


「聞こえてる」


「離婚届一枚で、二十年の人生は消えない!」


 先輩は、少しだけ笑いました。


「悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声でした。


『主人が、離婚届を書けって言うんです』


 私は姿勢を正しました。


「はい」


『でも、私、離婚したいなんて一度も言っていないんです』


 ……。


『主人が、離婚届にハンコを押さないと、子供に会わせないって……』


 私は受話器を握り直しました。


 相馬先輩が、こちらを見ました。


 私は小さく言いました。


「先輩」


「何だ」


「今度は……離婚の強迫です」


 先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「まず事情を聞け」


「はい!」


「本当に離婚届を出したのか。まだ出してねえのか。それで話が変わる」


 ……なるほど。


 協議離婚は、本人たちの意思が重要。


 そして、届出によって効力が生じる。


 でも。


 脅されて書かされた離婚届。


 そこには、また別の問題が潜んでいる。


 私は受話器に向かって言いました。


「すみません。まず、離婚届はもう提出されていますか?」


『いいえ、まだです』


「分かりました。では、順番にお話を聞かせてください」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、誰かの人生が、紙一枚の上で揺れています。


 婚姻届。


 離婚届。


 内容証明郵便。


 財産分与の合意書。


 同じ紙でも。


 そこに書かれた意味は、まるで違う。


 法律は、人と人を結びつけることもあれば。


 その関係を終わらせることもある。


 でも。


 関係が終わったあとに、取り残される人がいないようにすること。


 それも、民法の大切な役割なのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「民法って、離婚したあとまで面倒を見てくれるんですね!」


「面倒を見るんじゃねえ!」


「え?」


 先輩は笑いました。


「離婚したあとだって、人は生きていかなきゃならねえんだよ」


 ……。


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 そして、もう一度、受話器を握り直します。


 法律が終わらせるのは、婚姻という関係。


 人間の人生ではありません。


 だって。


 二十年間、家族のために生きてきた女性が。


 離婚した途端に、価値のない人間になるはずがないのです。


 そして。


 それを、夫の一言で決めさせないために。


 民法七百六十八条は、今日も六法の中にあるのでした。

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