↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
550/701

[婚姻の無効と取消し]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 結婚は、二人の意思でするものです。


 けれど。


 騙されて結婚した場合と。


 結婚するつもりもないのに、勝手に婚姻届を出された場合。


 この二つは、法律上、まったく同じではありません。


 そして。


 結婚が「無効」になることと、「取り消される」ことも。


 似ているようで、決定的に違います。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、二枚の紙を並べていました。


 一枚には、


 ――婚姻の無効。


 もう一枚には、


 ――婚姻の取消し。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「私、民法に騙された気分です」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「民法が何をした」


「無効と取消しです」


「ああ」


「普通の契約だと、取り消したら初めから無効だったことになるじゃないですか」


「そうだな」


「でも、婚姻の取消しは、過去にさかのぼらないんですよ!」


「当たり前だろ」


「当たり前じゃありません!」


 私は六法を掲げました。


「民法七百四十八条! 婚姻の取消しは、将来に向かってのみ効力を生ずる!」


「知ってるよ」


「これ、受験生を引っかけるために作った条文じゃありませんか!?」


「違う」


 即答でした。


 そこへ。


 奥から片桐所長が顔を出しました。


「こはる」


「はい!」


「昨日の事件を思い出せ」


 私は手を止めました。


 杉浦正一さん。


 六十八歳。


 亡くなる九か月ほど前に、身の回りの世話をしてくれていた黒川妙子と婚姻したことになっていた男性。


 しかし。


 婚姻届は妙子が勝手に作成したものだった。


 正一さん自身は、再婚するつもりがなかった。


 それなのに。


 妙子は戸籍の婚姻記載を盾に、妻として遺産の半分を要求していた。


 結局。


 日記。


 病状の記録。


 婚姻届の作成経緯。


 証人の説明。


 そして、昭和四十七年の最高裁判決。


 それらを整理した結果、妙子が自分で婚姻届を作成したことを認め、正式な手続を経て婚姻の無効が確認された。


「あの事件ですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「では、あの事件が取消しではなく無効の問題だったのは、なぜだ」


 私は鉛筆を握りました。


「正一さんに、そもそも婚姻する意思がなかったからです」


「そうだ」


 よし。


 今日の勉強会。


 最初の問題は正解です。


 しかし。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「じゃあ、無効な婚姻は、あとから絶対に有効にならねえのか?」


「えっ」


 私は固まりました。


 あ。


 それは。


 昭和四十七年七月二十五日の最高裁判決。


 あの、ややこしい追認の話です。


「……条件によっては、有効になります」


「そうだな」


「しかも、届出の当初にさかのぼって」


「よし」


 私は頭を抱えました。


「やっぱり民法、難しいです!」


「難しいから勉強するんだろ」


 相馬先輩は笑いました。


 私はノートを開きました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法親族編。


 と書いてあります。


 今日は。


 婚姻の無効と取消し。


 この二つを、完全に区別することにします。


 ◇


「まず、婚姻の無効です!」


 私はノートの真ん中に、大きく書きました。


 ――民法第七百四十二条。


 婚姻の無効原因。


 原則として、二つ。


 一つ目。


 当事者間に婚姻をする意思がないとき。


 二つ目。


 婚姻の届出をしないとき。


「ここが基本ですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「まず、一つ目です」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 妙子は、正一さんの名前を勝手に婚姻届へ書きました。


 そして、役所へ提出した。


 しかし。


 正一さん本人には、結婚する意思がなかった。


「これは、婚姻意思がない場合です」


「うん」


「だから、婚姻は無効」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 婚姻意思がない。


 婚姻は無効。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「婚姻意思とは、何だ」


「え?」


「単に婚姻届を提出する意思か。それとも、夫婦になる意思か」


 私は少し考えました。


「夫婦としての身分関係を形成する意思です」


「そうだ」


 ここが大切です。


 婚姻届を出すことを了承していても。


 夫婦になる意思がなければ、婚姻意思があるとは限りません。


 たとえば。


 外国へ行くための便宜上の結婚。


 戸籍上の地位を利用するだけの結婚。


 あるいは。


 相続権を得ることだけを目的として、夫婦になる意思がないまま届け出る場合。


「ただし、先輩」


「何だ」


「財産上の目的があるからといって、それだけで偽装結婚とは限りませんよね」


「おう」


「実際に夫婦として生活する意思があるなら、動機にお金が絡んでいるというだけで、当然に無効にはならない」


 先輩が頷きました。


「そこを間違えるなよ」


 私はノートに書きました。


 ――婚姻の動機と、婚姻意思の有無は別問題。


 なるほど。


 結婚に至る理由は、人それぞれです。


 愛情。


 生活。


 家族。


 経済的な事情。


 いろいろな理由があっても、それだけで婚姻が無効になるわけではありません。


 問題は。


 法律上の夫婦としての関係を築く意思が、本当にあったか。


 そこなのです。


 ◇


「では、二つ目」


 私は書きました。


 ――婚姻の届出をしないとき。


「これ、ちょっと不思議ですよね」


「何がだ」


「結婚する意思があっても、届出をしなければ、法律上の婚姻は成立しないんですよね」


「そうだ」


 たとえば。


 男性と女性が、何十年も一緒に暮らしている。


 周囲の人たちも、夫婦だと思っている。


 家計も一緒。


 家事も分担。


 病気になれば看病する。


 それでも。


 婚姻届を出していなければ、法律上の婚姻は成立していない。


「いわゆる内縁関係ですね」


「そうだな」


「内縁にも、一定の法的保護は認められます。でも、法律上の配偶者と完全に同じ立場になるわけではありません」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 妙子は、正一さんの妻として遺産を要求しました。


 なぜなら。


 法律上の配偶者には、相続権があるからです。


 しかし。


 仮に、妙子が何年も正一さんの世話をしていたとしても。


 それだけで、当然に法律上の配偶者として相続することにはならない。


「夫婦としての生活があることと、法律上の婚姻が成立していることは、区別する必要があるんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「ただし、形式だけを見るな」


「え?」


「第七百四十二条第二号のただし書だ」


 私は六法を見ました。


 婚姻届の方式。


 民法第七百三十九条第二項。


 当事者双方と成年の証人二人以上による署名など。


 または、これらの者からの口頭による届出。


「所長、ここですね」


「ああ」


「届出が、その方式を欠くだけの場合は、それだけで婚姻が無効になるわけではない」


「そうだ」


 私は頷きました。


 たとえば。


 婚姻する意思のある二人が、婚姻届を提出した。


 役所も受理した。


 ところが、証人について方式上の不備があった。


 そんな場合。


 その方式違反だけを理由に、婚姻が当然に無効になるわけではありません。


「ただし、婚姻意思そのものがなかった場合は別ですよね」


「もちろんだ」


 相馬先輩が言いました。


「証人が二人いようが、三人いようが、本人の婚姻意思がなけりゃ、それを補えるわけじゃねえ」


 私は思わず笑いました。


「昨日の妙子さんですね」


「ああ」


 あの婚姻届には。


 証人が二人いました。


 署名もありました。


 押印もありました。


 受付印もありました。


 ですが。


 肝心の正一さんの意思がなかった。


 だから問題になったのです。


 私はノートに書きました。


 ――届出方式の不備と、婚姻意思の欠缺を混同しない。


「よし!」


「まだ始まったばかりだぞ」


「……はい」


 ◇


「次は、昨日の判例です!」


 私は判例集を開きました。


 昭和四十七年七月二十五日。


 最高裁判所判決。


 婚姻の追認。


「これが、今回の事件で一番怖かったところですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


 問題になったのは。


 一方の意思に基づかずに婚姻届が提出された場合でも、あとから有効になることがあるのか。


 という点です。


「所長、これ、普通に考えると無効ですよね」


「そうだ」


「本人が婚姻届の提出を認めていないんですから」


「うん」


「でも、最高裁は一定の場合に追認を認めた」


 私はノートに、二つの条件を書きました。


 まず。


 届出当時、二人の間に、夫婦としての実質的生活関係が存在していたこと。


 そして。


 届出に関与していなかった側が、あとから届出の事実を知り、それを追認したこと。


「この二つが大切なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「たとえば、こうだ」


 先輩は机の上に、二本の鉛筆を置きました。


「長年、事実上の夫婦として暮らしていた男女がいる」


「はい」


「女が、男に断らず婚姻届を出した」


「はい」


「その後、男が届出の事実を知った」


「はい」


「そして、『そうか、届け出たのか。これからも夫婦としてやっていこう』と、婚姻を認めた」


 私は頷きました。


「その場合、届出時に実質的な夫婦関係が存在していれば、追認によって婚姻が届出の当初にさかのぼって有効になる可能性がある」


「そうだ」


「でも!」


 私は指を立てました。


「昨日の妙子さんと正一さんは違います!」


「どう違う」


「夫婦としての実質的生活関係を裏付ける事情が乏しかった」


「うん」


「正一さんが婚姻届の事実を知って、認めたことも確認できなかった」


「そうだ」


「むしろ、再婚する意思がないことを日記に書いていた」


 所長が頷きました。


「そこが重要だった」


 私は判例集を見つめました。


 最初は、不思議に思いました。


 勝手に婚姻届を出されたのに。


 あとから有効になるなんて。


 しかし。


 よく考えると、そこにも理由がある。


 長年、夫婦として生活してきた二人がいる。


 一方が婚姻届を出した。


 あとから他方も、その届出を認めた。


 そんなとき。


 最初の届出に本人の意思が反映されていなかったという理由だけで、絶対に婚姻を有効にできないとするのは、当事者の意思や実際の生活関係に合わない場合がある。


 だから。


 一定の条件の下で、追認を認める。


「法律って、形式を大事にしながら、実際の生活も見ているんですね」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、誰でも勝手に婚姻届を出して、あとから何とかなるって話じゃねえぞ」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 ――勝手な婚姻届が、当然に追認で有効になるわけではない。


 そして。


 その下に、もう一行。


 ――追認が認められる場合は、届出当初にさかのぼって有効。


「……あれ?」


 私は鉛筆を止めました。


「先輩」


「何だ」


「これ、婚姻の取消しと正反対じゃありませんか?」


「ほう」


「追認で有効になる場合は、届出当初にさかのぼる」


「うん」


「でも、婚姻の取消しは、将来に向かってしか効力がない」


 相馬先輩がにやりとしました。


「ようやく気づいたか」


「これ、試験に出されたら間違えそうです!」


「だから覚えろ」


 私はノートに大きく書きました。


 追認による有効化は、一定の場合に遡及する。


 婚姻の取消しは、遡及しない。


 ……。


「覚えることが増えました!」


「喜べ」


「喜べません!」


 ◇


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「次は、婚姻の取消しだ」


「はい!」


 私はノートをめくりました。


 ――民法第七百四十三条。


 婚姻は、法律に定められた場合でなければ、取り消すことができない。


「ここ、大事ですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「一度成立した婚姻を、誰でも好き勝手に取り消せるわけじゃねえ」


「はい」


 私は考えました。


 もし。


 夫婦喧嘩をした。


 相手の性格が気に入らなくなった。


 結婚してみたら、思っていた生活と違った。


 そんな理由だけで。


 婚姻を初めから問題のあるものとして、自由に取り消せたら。


 家族関係は、不安定になってしまいます。


「だから、取消原因は法律で決められているんですね」


「そうだ」


「そして、取消しは家庭裁判所へ請求する」


「うん」


 私は書きました。


 ――婚姻の取消しは、単に相手へ内容証明を送るだけではできない。


 これは重要です。


 普通の契約なら、取消権者が相手に取消しの意思表示をすることで、取り消せる場合があります。


 しかし。


 婚姻の取消しは、家庭裁判所の手続が必要です。


「昨日の事件で、私たちができたのは、証拠整理と書面作成まででした」


「そうだ」


「婚姻無効の確認も、争いがあれば正式な法的手続が必要」


「うん」


「行政書士が勝手に婚姻を無効と確定したり、取り消したりすることはできない」


 所長が頷きました。


「それを忘れるな」


 私は姿勢を正しました。


 ここは。


 法律を学ぶうえで、とても大事なところです。


 法律を知っていることと。


 他人の紛争を代理して解決できることは、違う。


 私たちは、弁護士ではありません。


 だからこそ。


 法律の要件を整理し、証拠を整え、必要な専門家へ引き継ぐ。


 その役割を、きちんと果たさなければならないのです。


 ◇


「では、取消原因です!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年の民法。


 婚姻適齢違反。


 重婚。


 再婚禁止期間違反。


 近親婚。


 直系姻族間の婚姻。


 養親子等の間の婚姻。


 そして。


 詐欺又は強迫による婚姻。


「うわ……」


 私は思わず声を漏らしました。


「多いですね」


「婚姻は身分関係だからな」


 相馬先輩が言いました。


「誰でも、どんな関係でも結婚できるわけじゃねえ」


「そうですね」


 私は一つずつ確認しました。


 まず、婚姻適齢。


「昭和六十三年では、男性十八歳、女性十六歳です」


「そうだ」


「現代は男女とも十八歳」


「未来の話だな」


「比較なんです!」


 私は二重線を引きました。


 ここは、絶対に間違えられません。


 さらに。


 昭和六十三年の成年年齢は二十歳。


 未成年者が婚姻するには、当時の民法第七百三十七条により、父母の同意が問題になります。


「そういえば」


 私は顔を上げました。


「昨日、電話がありましたよね」


「ああ」


「十六歳の娘さんが、二十二歳の男性と結婚したいっていう相談です」


「覚えてるぞ」


 私はノートに書きました。


 女性十六歳。


 男性二十二歳。


 昭和六十三年。


「女性は婚姻適齢に達しています」


「そうだ」


「ただし未成年者なので、父母の同意の問題がある」


「うん」


「でも、父母の一方が同意しないときは、他方の同意だけで足りるんですよね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここも、昔の民法らしいところです。


 ただし。


 未成年者の婚姻について、父母の同意が欠けていることと、婚姻適齢に達していないことは別です。


 父母の同意を欠くという問題だけで、成立した婚姻を当然に無効にしたり、民法第七百四十四条によって取り消したりできるわけではありません。


「……所長」


「何だ」


「これ、親が反対していたら、必ず婚姻を取り消せると思い込んだら危険ですね」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 ――婚姻適齢違反と、父母の同意の欠缺は別。


 続いて。


 重婚。


「これは分かりやすいですね」


 私は言いました。


「配偶者がいるのに、別の人と婚姻することです」


「そうだ」


「ただし、重婚だからといって、後の婚姻が当然に無効になるわけではなく、取消しの問題になる」


「そこが大切だ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は驚きました。


 重婚。


 明らかに法律が禁止している婚姻。


 それでも、無効と取消しは区別される。


「先輩、これも試験で引っかかりそうです」


「お前、さっきから引っかかる話ばかりしてるな」


「受験生の本能です!」


「変な本能だな」


 次は、近親婚。


 直系血族や、一定範囲の傍系血族との婚姻。


 直系姻族との婚姻。


 養親子等の間の婚姻。


「この三つは、親族関係を守るための禁止ですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 婚姻は、単なる二人だけの契約ではありません。


 親族関係にも影響する。


 だから、一定の身分関係にある者同士の婚姻について、制限が設けられている。


 ただし。


 具体的にどの範囲が禁止されるのか。


 養子縁組の関係が解消されたあとも禁止が続くのか。


 そこは、条文を丁寧に確認する必要があります。


「……覚えることが多い」


「だから六法があるんだろ」


「六法が分厚い理由が分かってきました」


 相馬先輩は笑いました。


 ◇


「さて、問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「女性が離婚した翌日に、別の男性と再婚した。昭和六十三年ならどうなる?」


 私は即答しました。


「原則として、再婚禁止期間に違反します!」


「よし」


「当時は六か月です!」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――昭和六十三年・女性の再婚禁止期間は原則六か月。


「でも、これ」


 私は首をかしげました。


「現代とずいぶん違いますよね」


「ああ?」


「現代では、女性の再婚禁止期間そのものが廃止されています」


「また未来か」


「大事なんです!」


 私は説明しました。


 かつて女性に再婚禁止期間が設けられていたのは、主に、出生した子の父親について法律上の推定が重複することを避けるという考え方によるものでした。


 しかし。


 再婚禁止期間は、その後の法改正で六か月から原則百日に短縮されました。


 さらに。


 嫡出推定制度の見直しなどを経て、令和六年四月から再婚禁止期間は廃止されました。


「つまり」


 私は言いました。


「昭和六十三年は原則六か月。その後は原則百日。そして現代は廃止です」


「随分変わるもんだな」


 相馬先輩が呟きました。


「そうなんです」


 私は頷きました。


 法律は、社会の変化に合わせて改正されます。


 昔の制度には、その時代なりの理由があった。


 でも。


 医学。


 家族のあり方。


 男女平等の考え方。


 法律上の親子関係を決める制度。


 そうしたものが変われば、必要な規制のあり方も変わっていく。


「だから、先輩」


「何だ」


「今の民法を昔の事件に、そのまま当てはめたら駄目なんです」


「そりゃ当たり前だ」


「でも、私には難しいんです!」


 未来から来た受験生の悲しいところです。


 頭の中にある条文と。


 机の上にある昭和の六法。


 ときどき、まったく違うことが書いてあるのです。


「それから、取消しを請求できる期間にも注意しろ」


 所長が言いました。


「はい」


 昭和六十三年の民法第七百四十六条。


 再婚禁止期間違反の婚姻については、前婚の解消または取消しから六か月を経過したとき、あるいは女性が再婚後に出産したときには、その違反を理由とする婚姻取消しを請求できなくなります。


「ここも、あとから改正されるんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――再婚禁止期間だけでなく、それに対応する取消制限の条文も、時代によって違う。


「うう……」


「どうした」


「改正前の六法を、全部暗記したくなってきました」


「やめとけ」


「即答!」


「今の試験に必要な勉強もしろ」


「……正論です」


 ◇


「次は、誰が取消しを請求できるかです」


 私はページをめくりました。


 ――民法第七百四十四条。


 婚姻適齢違反など、法律で定められた不適法な婚姻。


 その取消しを請求できるのは。


 各当事者。


 その親族。


 検察官。


 そして、重婚や再婚禁止期間違反については、当事者の配偶者または前配偶者にも取消請求が認められる。


「ここ、大事ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「誰でも請求できるわけじゃねえ」


「はい」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 奈津子さんは、亡くなった正一さんの娘。


 相続について利害関係を持つ人でした。


 そのため、婚姻無効を争う利益があった。


 しかし。


 婚姻の無効と取消しでは、誰がどんな手続で争えるかも違う。


「無効の場合は、当事者以外の利害関係人も、当事者の死亡後に争える場合があります」


「そうだ」


「でも取消しの場合は、法律で請求できる人が決まっている」


「うん」


「しかも、検察官は当事者の一方が死亡したあとには、婚姻の取消しを請求できない」


 私は赤線を引きました。


 ――無効の主張と、取消請求権者の範囲を混同しない。


 ここで。


 所長が言いました。


「もう一つ。婚姻適齢違反の取消しには特則がある」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――民法第七百四十五条。


 婚姻適齢に達していなかった者の婚姻。


 その者が婚姻適齢に達すると、原則として婚姻適齢違反を理由とする取消しはできなくなる。


 ただし。


 その本人には、適齢に達してから三か月間、なお取消請求が認められる。


 適齢に達したあとで追認した場合は別。


「これ、優しいですね」


 私が言うと、相馬先輩が首をかしげました。


「何がだ」


「本人だけは、適齢に達したあとも三か月間、考える機会が残されているんです」


「ああ」


 たとえば。


 婚姻適齢に達しないうちに、婚姻してしまった人がいる。


 その人が適齢に達した途端、周囲の人は婚姻適齢違反を理由に取消しを求められなくなる。


 でも。


 本人には、なお短い期間、婚姻を続けるかどうか考える機会が与えられている。


「本人の意思を尊重しているんですね」


「そうだな」


 私は頷きました。


 婚姻制度。


 ここでも、本人の意思が大切にされています。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「昨日の事件に一番近い、もう一つの取消原因だ」


「詐欺と強迫ですね!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――民法第七百四十七条。


 詐欺又は強迫による婚姻。


「例えば」


 私は言いました。


「結婚相手が、重要な事実について嘘をついていて、その嘘によって結婚を決めた場合」


「うん」


「具体的な事情によっては、詐欺による婚姻の取消しが問題になります」


「そうだ」


「それから、脅されて結婚した場合は強迫です」


 私は少し考えました。


 昨日の正一さん。


 もし、妙子から何か重大な嘘をつかれ、それでも自分の意思で婚姻届を出したのであれば。


 詐欺による婚姻の取消しが問題になったかもしれません。


 しかし。


 実際は違いました。


 そもそも、婚姻をする意思がなかった。


 婚姻届の作成も了承していなかった。


 だから。


 婚姻無効の問題だったのです。


「無効と取消しの違い、ようやく頭に入りました」


「なら答えてみろ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「男が女に『大金持ちだ』と嘘をついた。女はその話を信じて、結婚する意思を持ち、婚姻届を出した」


「詐欺による取消しが問題になります!」


「ただの見栄や誇張でも、全部取り消せるのか?」


「いいえ。婚姻の意思決定にどれほど重要な欺罔があったかなど、具体的な事情によります!」


「よし」


「次!」


「女が男に黙って、男の名前を書いた婚姻届を提出した。男には結婚する意思がなかった」


「無効です!」


「次!」


「男がその届出をあとから知り、夫婦としての生活関係がある中で追認した」


「一定の条件の下で、届出当初にさかのぼって有効になり得ます!」


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 完璧。


 ……と思ったのですが。


「じゃあ、詐欺による婚姻の取消しは、いつまで請求できる?」


 相馬先輩が聞きました。


「えっと……」


 私は慌てて六法を見ました。


 民法第七百四十七条第二項。


 詐欺を発見した後。


 または、強迫を免れた後。


 三か月。


 そして、追認した場合。


 取消権は消滅する。


「三か月です!」


「そうだ」


「それから、追認した場合も取消しはできなくなります!」


「よし」


 私は深く息を吐きました。


 期限。


 ここ、本当に怖いですね。


 騙されたことを知った。


 でも、いつまでも放置していた。


 その結果、取消権を失ってしまう。


「だから、詐欺や強迫に気づいたら、早めに専門家へ相談する必要があるんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「婚姻無効の問題なのか、取消しの問題なのか。それを最初に見極めることが重要だ」


 私はその言葉に、二重線を引きました。


 ◇


「では、今日の最大の山場です!」


 私はノートをめくりました。


 ――民法第七百四十八条。


 婚姻の取消しの効力。


「これですよ!」


 私は六法を指差しました。


「婚姻の取消しは、将来に向かってのみ効力が生じる!」


「そうだ」


「普通の法律行為の取消しと違います!」


 相馬先輩が頷きました。


「説明してみろ」


「はい」


 私は二本の線を引きました。


 一方は、普通の契約。


 もう一方は、婚姻。


「普通の契約を取り消した場合、原則として初めから無効だったものとして扱われます」


「うん」


「でも、婚姻の取消しは違います」


 たとえば。


 昭和六十年に、詐欺によって婚姻した人がいる。


 昭和六十三年に、その婚姻が取り消された。


 この場合。


 昭和六十年から昭和六十三年までの婚姻を、初めから存在しなかったことにするわけではありません。


 取消しの効力は、将来に向かって生じる。


「だから、その間に婚姻していたという法律関係まで、全部消えるわけではないんですね」


「そうだ」


「どうしてですか?」


 所長が答えました。


「婚姻は、当事者だけの問題ではないからだ」


 私は頷きました。


 夫婦。


 子供。


 親族。


 財産。


 生活。


 婚姻によって、さまざまな法律関係が生じます。


 もし、何年も続いた婚姻が取り消された途端。


 過去の婚姻関係そのものが、最初から存在しなかったことになるとしたら。


 その間に生じた身分関係や財産関係に、深刻な混乱が起こり得ます。


「だから将来効なんですね」


「そうだ」


 私は赤鉛筆で書きました。


 ――婚姻の取消しは、将来効。過去にさかのぼらない。


 よし。


 これで覚えました。


 しかし。


 相馬先輩が言いました。


「まだ終わりじゃねえぞ」


「え?」


「財産はどうする」


 私は固まりました。


 あ。


 そうでした。


 婚姻が取り消されても。


 婚姻によって得た財産がある場合。


 その返還が問題になるのです。


 ◇


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「婚姻の取消原因を知らなかった人間と、知っていた人間。同じように財産を返させるべきか?」


 私は首をかしげました。


「……同じではないと思います」


「なぜだ」


「知らなかった人まで、知っていた人と同じ責任を負わせたら、不公平だからです」


「そうだ」


 私は民法第七百四十八条を開きました。


 第二項。


 善意の当事者。


 第三項。


 悪意の当事者。


「ここでいう善意と悪意は、普通の意味じゃありませんよね」


「ああ」


「善意は、婚姻の取消原因があることを知らなかったこと」


「そうだ」


「悪意は、知っていたこと」


「うん」


 私は頷きました。


 善意。


 親切な人。


 悪意。


 意地悪な人。


 そういう意味ではありません。


 法律上の善意と悪意は、原則として、一定の事実を知っていたかどうか。


 そこが問題になります。


「まず、善意の当事者です」


 私は書きました。


 婚姻の取消原因があることを知らなかった当事者が、婚姻によって財産を得ていた場合。


 返還義務は、現に利益を受けている限度。


 つまり。


 現存利益の範囲です。


「例えば」


 私は考えました。


 婚姻によって、相手から百万円の財産上の利益を得た人がいる。


 その人は、婚姻の取消原因を知らなかった。


 そして。


 取消しの時点で、受けた利益のうち四十万円しか残っていない。


「その場合、現存利益が四十万円なら、その限度で返還することになります」


「そうだ」


「ただし、単純に手元の現金が四十万円しかないから、四十万円でいいとは限りませんね」


 相馬先輩が頷きました。


「ほう。分かってるじゃねえか」


「例えば、そのお金で自分の生活費を支払って、本来使うはずだった自分の財産が残っているなら、その利益が現存していると評価されることもあります」


「そうだ」


 私は得意になりました。


 現存利益。


 この言葉。


 不当利得でも出てきます。


 民法って、別々の分野がつながっているんですね。


「じゃあ、悪意の当事者は?」


 相馬先輩が聞きました。


「婚姻によって得た利益の全部を返還しなければなりません!」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 ――善意は現存利益。


 ――悪意は全部返還。


「さらに」


 片桐所長が言いました。


「相手方が善意だった場合は?」


 私は六法を確認しました。


 民法第七百四十八条第三項ただし書。


「悪意の当事者は、善意の相手方に対して損害賠償責任を負います!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――悪意の当事者は、全部返還に加え、相手方が善意なら損害賠償責任も負う。


「……怖いですね」


「何がだ」


「婚姻の取消原因を知っていた人が、財産上の利益まで得ていた場合です」


「ああ」


「相手を騙したような人が、得た利益をそのまま持ち逃げできるわけではない」


 相馬先輩は頷きました。


「だから民法がある」


 私は少し胸が熱くなりました。


 婚姻の取消し。


 将来に向かって効力が生じる。


 それだけでは、財産関係の公平を守り切れません。


 だから。


 善意と悪意を区別し、財産の返還について別のルールを置く。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「過去の婚姻関係を全部消すわけではないけれど、不当に得た利益の精算は必要になるんですね」


「そういうことだ」


 所長が頷きました。


 私は、もう一度ノートを見ました。


 無効。


 取消し。


 将来効。


 現存利益。


 全部返還。


 損害賠償。


 最初は、ばらばらの用語でした。


 でも。


 今は、一つの考え方でつながっています。


 婚姻という身分関係を安定させる。


 そして。


 当事者間の公平を守る。


 民法は、その両方を考えているのです。


 ◇


 窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


 私はノートを見直しました。


 すると。


 一つ、気になることがありました。


「所長」


「何だ」


「婚姻の無効と取消しって、結局、どちらも婚姻を続けないという結果になることがありますよね」


「そうだ」


「でも、なぜ、わざわざ二つに分けているんでしょうか」


 所長は、しばらく黙っていました。


 それから。


「婚姻が、最初から成立していなかったのか」


「はい」


「それとも、成立した婚姻に、取り消すべき原因があったのか」


「……はい」


「その違いを、法律が無視するわけにはいかないからだ」


 私は頷きました。


 正一さんの事件。


 本人には、婚姻する意思がなかった。


 だから、無効。


 一方。


 詐欺によって婚姻した人。


 その人は、騙されていたとしても、婚姻する意思を持っていた。


 だから、取消しが問題になる。


 そして。


 取消しの場合は、過去の身分関係への影響を考えて将来効になる。


「……ああ」


 私は小さく声を上げました。


「分かりました」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何がだ」


「無効と取消しの違いって、単なる試験の暗記問題じゃないんです」


「ほう」


「本人の意思と、家族関係の安定。その両方を守るための区別なんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は嬉しくなりました。


 民法の条文。


 一つ一つが、理由を持っている。


 理由が分かると、覚えやすくなる。


 そして。


 現場の事件を思い出せば、忘れにくくなる。


 これこそ。


 私が昭和の行政書士事務所で学んでいる、一番大事なことなのかもしれません。


 ◇


「よし」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「最後に確認問題だ」


「来ましたね!」


「嬉しそうだな」


「受験生ですから!」


 私は鉛筆を構えました。


「第一問」


「はい!」


「本人が結婚する意思を持っていないのに、他人が勝手に婚姻届を出した。どうなる?」


「婚姻は無効です!」


「第二問。婚姻の届出がされていない場合は?」


「法律上の婚姻は成立しません!」


「第三問。婚姻届の証人の方式に不備があるだけで、婚姻は当然に無効になるか?」


「なりません!」


「第四問。婚姻する意思に基づかない届出が、あとから有効になる場合はあるか?」


「はい。届出当時に夫婦としての実質的生活関係があり、あとから他方が届出を知って追認した場合、届出当初にさかのぼって有効となり得ます!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「第五問。詐欺によって婚姻した場合は?」


「家庭裁判所に取消しを請求できます!」


「第六問。詐欺を発見してから四か月。追認もしていない。取消権は?」


「原則として三か月の経過で消滅しています!」


「第七問。婚姻の取消しは過去にさかのぼるか?」


「さかのぼりません! 将来効です!」


「第八問。婚姻取消原因を知らなかった人が婚姻によって得た利益は?」


「現存利益の範囲で返還します!」


「第九問。知っていた人は?」


「得た利益の全部を返還します!」


「相手が善意なら?」


「損害賠償責任も負います!」


「よし!」


 相馬先輩が笑いました。


「今日は調子がいいな」


「褒めましたね!」


「まだ終わってねえ」


「ええっ!」


 先輩は、最後の問題を出しました。


「昭和六十三年、女性の婚姻適齢は?」


「十六歳!」


「男性は?」


「十八歳!」


「女性の再婚禁止期間は?」


「原則六か月!」


「令和の婚姻適齢は?」


「男女とも十八歳!」


「再婚禁止期間は?」


「廃止されています!」


「……」


 相馬先輩が黙りました。


「どうですか!」


「お前、未来の民法と昔の民法を、ようやく区別できるようになったな」


「はい!」


 私は胸を張りました。


 やった。


 昭和と令和。


 親族法の違い。


 今日は、もう間違えません。


 ◇


 夕暮れ。


 片桐行政書士事務所の窓から、オレンジ色の光が差し込んでいました。


 私はノートを閉じる前に、もう一度、昨日の事件を思い出しました。


 杉浦正一さん。


 製材所を営んでいた男性。


 亡くなった妻の写真を、ずっと飾っていた人。


 その人が残した日記。


 ――再婚など考えていない。


 たった一行。


 でも。


 その一行が、他人に勝手に作られた婚姻届に対抗するための、大切な手がかりになりました。


 もし。


 婚姻届が受理されたというだけで、絶対に結婚が有効になるのなら。


 本人の意思は、どこへ行くのでしょう。


 もし。


 詐欺によって成立した婚姻について、取り消す制度がなかったら。


 騙された人は、どうやって救われるのでしょう。


 そして。


 もし婚姻の取消しが、どんな場合でも初めから無効だったことになるのなら。


 その間に生まれた子供や、築かれた家族関係は、どうなるのでしょう。


 民法は。


 そうした問題を、一つずつ考えているのです。


「所長」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「婚姻の無効と取消し、最初は同じようなものだと思っていました」


「うん」


「でも、違うんですね」


「そうだ」


「無効は、婚姻そのものが有効に成立していない場合」


「うん」


「取消しは、いったん成立した婚姻について、法律上の原因に基づいて効力を将来に向かって失わせるもの」


 所長が静かに頷きました。


「それでいい」


 私は最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の教訓を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――婚姻の無効は「初めから成立していない」、取消しは「将来に向かって効力を失う」。ただし、婚姻意思を欠く届出でも、判例上、一定の追認で当初にさかのぼって有効になる。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「ええっ!」


「一行の覚え書きだろ」


「重要な論点が多いんです!」


「もっと短くしろ」


 私は少し考えました。


 そして。


 もう一行を書き直しました。


 ――婚姻は意思がなければ無効、取消しは将来効。追認と善意・悪意の財産返還を忘れるな。


「これならどうですか!」


 相馬先輩はしばらく眺めました。


「まあ、悪くねえ」


「やった!」


「ただし」


「はい?」


「婚姻意思がない場合でも、例の追認判例を忘れるなよ」


「はい!」


 私は笑いました。


 よし。


 これで完璧です。


 ……と思った、そのとき。


「こはる」


 所長が言いました。


「はい」


「さっきの十六歳の娘さんの相談票は?」


「あ……」


 私は固まりました。


 机の隅。


 昨日の電話相談のメモ。


 確か。


 母親が結婚に反対している。


 父親は賛成している。


 娘は十六歳。


 相手は二十二歳。


「こはる」


 相馬先輩がにやりとしました。


「はい……」


「昭和六十三年の民法第七百三十七条、覚えてるよな?」


「はい!」


「父母の一方が同意しない場合は?」


「他方の同意だけで足ります!」


「そうだ」


 私は胸を張りました。


 ところが。


 先輩が言いました。


「じゃあ、それだけで必ず結婚できると答えていいのか?」


「……え?」


 私は止まりました。


「本人の意思は?」


「確認します」


「相手に配偶者がいたら?」


「重婚の問題になります」


「近親婚の問題は?」


「確認が必要です」


「届出の要件は?」


「戸籍法上の手続も確認します!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は深く息を吐きました。


 なるほど。


 一つの条文を知っているだけでは、実務はできない。


 婚姻適齢を満たしている。


 父母の同意がある。


 それだけで、すべてが終わるわけではありません。


 本人が本当に結婚したいと思っているのか。


 法律上、婚姻を妨げる事情はないのか。


 必要な手続は整っているのか。


 その全部を確認して、初めて一つの婚姻を扱えるのです。


「先輩」


「何だ」


「結婚って、難しいですね」


「今さらか」


「だって、民法がこんなに複雑なんですよ!」


「人生が複雑だからだろ」


 私は黙りました。


 ……。


 なるほど。


 それは、そうかもしれません。


 民法が人を難しくしているのではなく。


 人の生活が複雑だから、民法が細かく決めている。


 結婚すること。


 結婚しないこと。


 結婚を取り消すこと。


 そして。


 結婚する意思がなかったことを、あとから証明すること。


 その一つ一つに。


 誰かの人生がかかっているのです。


「こはる!」


 相馬先輩が叫びました。


「はい!」


「感心してねえで相談票を整理しろ!」


「今、民法の本質について考えていたんです!」


「本質は後だ!」


「ひどい!」


 私は笑いながら、机の書類を整えました。


 外では、夕焼けが町を赤く染めています。


 どこかの家では。


 夫婦が夕食を囲んでいるのでしょう。


 どこかの家では。


 これから結婚する二人が、将来の話をしているのかもしれません。


 そして。


 どこかには。


 結婚したくないのに、誰かにその意思を無視されそうになっている人もいるかもしれない。


 法律は。


 そのすべての人に、同じ答えを押しつけているわけではありません。


 本人の意思を守る。


 家族関係の安定を守る。


 財産上の公平を守る。


 それぞれの場面に合わせて、違う仕組みを用意しているのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――婚姻は意思がなければ無効、取消しは将来効。追認と善意・悪意の財産返還を忘れるな。


 よし。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 たとえ。


 令和の民法と、昭和の民法が、どれほど違っていても。


 人の意思と生活を守ろうとする、その根っこの考え方は。


 きっと、変わらないのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、結婚するときは絶対に民法を確認します!」


「勝手にしろ!」


「婚姻適齢も、届出要件も、取消原因も!」


「そんなことより、まず相手を見つけろ!」


「……!」


 私は固まりました。


 ……なるほど。


 民法第七百三十九条。


 婚姻は、届出によって効力を生ずる。


 しかし。


 その前に。


 そもそも、婚姻する相手が必要です。


 これは。


 どんな法律改正があっても、変わらない原則のようでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイファンタジー〔ファンタジー〕
魔術師こはるの物語 ―― 火力不足で追放された少女は、古代魔法の法理を読み解き世界を書き換える
その他〔その他〕
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
推理〔文芸〕・歴史〔文芸〕
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
歴史〔文芸〕 新訳セレクション ── 古典のハードル、下げておきました。
詩〔その他〕・エッセイ〔文芸〕
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
歴史〔文芸〕(六道輪廻抄)&関連作品
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。