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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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[婚姻の無効と取消し]現場編 「婚姻届にハンコがあるから妻です」の嘘。亡き父の遺産を狙う偽りの花嫁と、民法七百四十二条が暴く戸籍の罠

挿絵(By みてみん)

 結婚は、紙一枚で成立する。


 けれど。


 紙一枚で、人の心まで結婚させることはできません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一枚の戸籍謄本を前に、思わず叫びました。


「……お父さんが、死んだあとに結婚したんですか!?」


 もちろん。


 そんなことは、普通あり得ません。


 ですが。


 目の前の戸籍には、亡くなった男性の婚姻が、確かに記録されていたのです。


 婚姻届。


 署名。


 押印。


 証人二名。


 そして、役所の受付印。


 書類だけ見れば、立派な結婚です。


 しかし。


 娘さんは、震える声で言いました。


「父は、あの女と結婚するつもりなんて、絶対になかったんです」


 私は六法を開きました。


 民法第七百四十二条。


 婚姻の無効。


 そして、第七百四十七条。


 詐欺又は強迫による婚姻の取消し。


 似ているようで、まったく違う二つの制度。


 その違いを間違えれば。


 亡くなった父親の遺産が、見知らぬ女に渡ってしまうかもしれない。


 これは。


 一枚の婚姻届に隠された、恐ろしい事件の始まりでした。


 ◇


「父の妻を名乗る女が、突然現れたんです」


 朝九時。


 事務所を訪れたのは、三十一歳の女性でした。


 名前は、杉浦奈津子さん。


 手には、古い革鞄。


 目の下には、濃い隈があります。


「父は、先月亡くなりました」


 奈津子さんは、静かに話し始めました。


 父親の名前は、杉浦正一さん。


 六十八歳。


 町外れで小さな製材所を営んでいた男性です。


 妻には十年前に先立たれ、娘の奈津子さんと二人暮らし。


 もっとも、奈津子さんは結婚して隣町に住んでいました。


 正一さんは一人になっても、製材所を手放さず、毎朝仕事に出ていたそうです。


「去年の秋、父が倒れたんです」


「ご病気ですか?」


「脳梗塞でした」


 幸い命は助かったものの、右手に麻痺が残りました。


 言葉も少し不自由になり、長い文章を書くことが難しくなった。


 そこで。


 近所に住む女性が、身の回りの世話を申し出たそうです。


 名前は、黒川妙子。


 四十五歳。


 以前、製材所の経理を手伝っていた女性でした。


「最初は、本当に親切だったんです」


 奈津子さんが俯きました。


「食事を届けてくれて、病院にも付き添ってくれて……」


「なるほど」


「だから私も、信用していました」


 ところが。


 父親が亡くなった途端。


 妙子の態度が変わった。


「葬儀が終わった翌日でした」


 奈津子さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。


 私は受け取りました。


 ――通知書。


 差出人、黒川妙子。


 いや。


 その名前は、既に変わっていました。


 杉浦妙子。


 そこには、こう書かれていたのです。


 ――私は故杉浦正一の法律上の妻であり、配偶者として相続権を有する。


 ――遺産である自宅土地建物及び製材所関係財産について、法定相続分に従った分割を求める。


 ――相続財産の処分を無断で行わないよう通知する。


 私は読み終えて、顔を上げました。


「……奥さん?」


「違います!」


 奈津子さんが叫びました。


「父は、あの人と結婚していません!」


「でも、戸籍には……?」


「載っていたんです」


 奈津子さんの声が震えました。


「役所で戸籍を取ったら、父とあの女が婚姻していたことになっていて……」


 私は戸籍謄本を確認しました。


 婚姻日。


 昭和六十二年十一月十日。


 父親が倒れた、およそ一か月後。


 死亡日は、昭和六十三年八月。


 つまり。


 正一さんは亡くなる九か月ほど前に、妙子と婚姻したことになっている。


「お父様は、この婚姻届のことをご存じでしたか?」


「いいえ」


「知らなかったと、どうして分かるんですか?」


 奈津子さんは唇を噛みました。


「父が、亡くなる二週間前に言ったんです」


「何と?」


「妙子さんには感謝している。でも、再婚するつもりはないって」


 私は息を呑みました。


「それを……?」


「病室で、私に」


 奈津子さんの目から涙が落ちました。


「母さんとの結婚は、一回きりで十分だって。笑っていたんです」


 私は戸籍謄本を見つめました。


 そこには、はっきりと婚姻の記録があります。


 けれど。


 本人の言葉は、その記録と食い違っている。


「所長」


 私は片桐所長を見ました。


「これ、どうなるんでしょう」


 所長は、戸籍謄本を机に置きました。


「まず、婚姻届を調べる」


「はい」


「それから、正一さんの意思だ」


 短い言葉。


 しかし。


 その二つが、この事件のすべてを決めることになるのでした。


 ◇


「無効です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「本人に婚姻意思がなかったんですよね! だったら婚姻は無効です!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「落ち着け」


「でも!」


「まだ何も確定してねえだろ」


「戸籍が間違っているんです!」


「それをどう証明する?」


「……え?」


 私は固まりました。


「結婚する気がなかった」


 先輩は言いました。


「本人が死んだあとで、どうやってそれを証明する?」


「それは……娘さんの証言で……」


「それだけか?」


「……」


 そうです。


 問題は、そこでした。


 婚姻届は受理されている。


 戸籍にも載っている。


 そして。


 当の本人は、もう亡くなっている。


「こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「婚姻届が受理されたことと、婚姻が実体法上有効であることは、同じではない」


「はい」


「だが、戸籍に記載がある以上、単に『間違いです』と言うだけでは、現実の問題は解決しない」


 私は頷きました。


「婚姻無効を確認するための法的手続が必要になるんですね」


「そうだ」


 そこへ。


 相馬先輩が、私のノートを覗き込みました。


「何だ、これ」


「え?」


「『婚姻適齢は男女とも十八歳』?」


 ……しまった。


 私は慌ててノートを閉じました。


「いや、これは、その……」


「どこの民法だ」


「未来の……いえ、最新版の……」


「昭和六十三年だぞ」


「はい……」


 先輩は棚から六法を抜きました。


「当時の婚姻適齢は、男十八歳、女十六歳だ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ」


 ああ。


 またやりました。


 現代の民法では、婚姻適齢は男女とも十八歳。


 ですが。


 この昭和六十三年には、男性十八歳、女性十六歳。


 しかも、当時は二十歳が成年年齢です。


 私は赤鉛筆でノートを訂正しました。


「それから、先輩」


「何だ」


「再婚禁止期間も違いますよね」


「ああ。女の再婚禁止期間は原則六か月だ」


「六か月……」


 現代の知識では、既に廃止された制度です。


 教材でかつて勉強した百日という期間すら、この時代の条文とは違います。


 六か月。


 婚姻適齢も違う。


 制度も違う。


 民法。


 恐ろしい。


「ただし」


 所長が言いました。


「今回は婚姻適齢や再婚禁止期間の事件ではない」


「はい」


「何が争点だ」


 私は答えました。


「婚姻する意思が、本当にあったかどうかです」


「そうだ」


 所長は静かに頷きました。


「そこを外すな」


 ◇


 翌日。


 奈津子さんは、市役所で保管されている婚姻届の記載事項について、所定の手続を経て確認できた資料を持ってきました。


 そこには。


 杉浦正一。


 黒川妙子。


 そして、二名の証人。


 署名押印が並んでいました。


「……あれ?」


 私は一か所で手を止めました。


「どうした」


 相馬先輩が聞きます。


「お父様の署名です」


「何かおかしいか?」


「右手に麻痺があったんですよね」


「ああ」


「なのに、この文字……」


 私は以前の書類と見比べました。


 製材所の帳簿に残された、正一さんの署名。


 太くて、少し右上がり。


 力強い文字。


 ところが。


 婚姻届の署名は、妙に整っていました。


「……筆跡が違います」


「断定するな」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「だが、調べる価値はある」


 私は頷きました。


 そのとき。


 奈津子さんが、小さな声で言いました。


「父は、倒れてから右手で字を書けませんでした」


「左手では?」


「練習していました。でも、自分の名前を書くのも大変だったんです」


 私は婚姻届を見つめました。


 そこには、乱れのない署名。


 さらに。


 証人欄には、妙子の弟と、その妻の名前がありました。


「……証人が、相手の親族?」


「そうです」


 奈津子さんが頷きました。


「二人とも、妙子さんの身内です」


 それだけで婚姻が無効になるわけではありません。


 証人が親族でも、法律上の要件を満たしていれば問題はありません。


 ですが。


 この事件では、意味があります。


 婚姻届を作った状況を知っている可能性があるからです。


「所長」


「何だ」


「証人が二人いても、それだけで婚姻意思が証明されるわけじゃないんですね」


「そうだ」


「本人が本当に結婚する意思を持っていたかは、別に確かめる必要がある」


 所長が頷きました。


 そして言いました。


「もう一つ調べろ」


「何ですか?」


「婚姻届が出されたころ、二人はどう暮らしていた」


 私は首をかしげました。


「暮らし?」


「夫婦としての生活があったかどうかだ」


 その意味を。


 私は、まだ十分には理解していませんでした。


 ◇


 三日後。


 私たちは、奈津子さんと一緒に資料を整理していました。


 正一さんの入退院記録。


 製材所の帳簿。


 近隣住民の話を本人たちに確認してまとめた記録。


 そして、古い日記。


「父は、毎日日記をつけていました」


 奈津子さんが差し出したのは、茶色い表紙の大学ノートでした。


 私はページをめくりました。


 昭和六十二年十一月八日。


 ――妙子さん、今日も食事を運んでくれた。ありがたい。


 十一月九日。


 ――奈津子が来る。孫の写真を見せてもらった。


 十一月十日。


 婚姻届が提出された日。


 そこには、震えた文字で、こう書いてありました。


 ――妙子さん、書類を持ってきた。役所の手続だという。右手が動かず困る。任せる。


 私は息を止めました。


「……役所の手続?」


 奈津子さんが頷きました。


「父は、療養中の生活費のことで、いくつか手続をしていたんです」


「では、その書類だと思っていた可能性が……」


「はい」


 私は日記の続きを読みました。


 十一月十二日。


 ――妙子さんに世話になりっぱなしだ。退院したら、きちんと礼をしたい。


 十一月二十日。


 ――奈津子が心配する。再婚など考えていない。母さんの仏壇を守りたい。


 ……。


 私はノートを握りしめました。


 婚姻届の十日後。


 父親は、再婚するつもりがないと書いている。


 しかも。


 そのあとも、妙子は正一さんの家に住んでいませんでした。


 自宅は別。


 生活費も別。


 夫婦として一緒に暮らした記録もない。


「これは……」


 私が呟くと、片桐所長が言いました。


「大事な事実だ」


「はい!」


「だが、これだけで結論を出すな」


「え?」


「婚姻しても別居する夫婦はいる。日記も、本人がどのような認識で書いたかを慎重に見る必要がある」


「……そうですね」


 私は頷きました。


 法律は、都合のいい事実だけを拾ってよいものではありません。


 相手から反論される可能性まで考える。


 それが、書類を作るということ。


 そこで。


 相馬先輩が、一冊の判例集を机に置きました。


「こはる」


「はい」


「昭和四十七年七月二十五日」


「……はい?」


「最高裁判所の判決だ。調べてみろ」


 私は判例集を開きました。


 婚姻無効。


 追認。


 そして。


 届出時の夫婦としての実質的生活関係。


 ……あ。


「先輩!」


「気づいたか」


「これ、危ないです!」


 私は思わず声を上げました。


 夫婦の一方が、相手の意思に基づかないで婚姻届を提出した場合でも。


 当時、二人の間に夫婦としての実質的生活関係が存在していて。


 その後、相手が婚姻届の事実を知り、追認したときには。


 婚姻が、届出の当初にさかのぼって有効になる。


 そんな場合があるのです。


「つまり……」


 私は呟きました。


「勝手に婚姻届を出されたから、絶対に、いつまでも無効だとは言い切れない」


「そうだ」


「あとから本人が事情を知って認めた場合には、婚姻が有効になることがある」


「そのとおりだ」


 私は日記を見つめました。


 正一さんは、婚姻届が提出されたことを知らなかったのか。


 知っていて、あとから認めたのか。


 そもそも、妙子との間に夫婦としての実質的生活関係があったのか。


 そこが重要です。


「所長」


「何だ」


「この事件、単に署名が偽物だというだけでは、十分じゃないですね」


「そうだ」


「正一さんが、あとから婚姻を認めた可能性まで調べないと」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は大きく息を吸いました。


 民法。


 難しい。


 でも。


 だからこそ、面白い。


 婚姻届の一枚。


 その裏には、人の意思と生活があります。


 紙に書かれた文字だけでは、人の人生を決められない。


 そのことが、少しずつ見えてきました。


 ◇


「結婚したかどうかなんて、戸籍を見れば分かるでしょう!」


 駅前の喫茶店。


 黒川妙子は、そう言って笑いました。


 派手な紫色のブラウス。


 大きな真珠の指輪。


 肩にかけた革のバッグ。


 四十五歳。


 どこか余裕のある表情です。


 もっとも。


 今日、私たちがここに来たのは、示談交渉をするためではありません。


 奈津子さんの希望で、相手の主張と事実関係を確認するためです。


 相馬先輩は、最初に立場を説明しました。


「こちらは行政書士事務所です。相続分や婚姻の有効性について、代理人として交渉することはできません。今日は事実の確認だけです」


「ふうん」


 妙子は鼻で笑いました。


「弁護士じゃないんだ」


「そうです」


「じゃあ、何もできないじゃない」


 ……。


 出ました。


 悪徳業者や狡猾な親族が、必ず一度は言う台詞。


 行政書士だから何もできない。


 確かに、裁判はできません。


 紛争の示談交渉もできません。


 でも。


 事実を整理し、法律上の問題を文書にすることはできます。


 そして、その文書は。


 相手が一番隠したい事実を、白日の下にさらすことがあるのです。


「杉浦正一さんとの婚姻について、お尋ねします」


 相馬先輩が言いました。


「婚姻届の作成には、正一さんご本人が関わりましたか?」


「もちろん」


「署名は、ご本人が?」


「ええ」


「当時、右手に麻痺がありましたが」


 妙子の目が、少し動きました。


「……左手で書いたのよ」


「なるほど」


 先輩は何も反論しませんでした。


「では、婚姻後、夫婦として同居されていましたか?」


「別居婚よ」


「生活費は?」


「それぞれで管理していたわ」


「正一さんは、ご自身が婚姻したことを知っていましたか?」


「当たり前でしょう!」


 妙子が声を荒らげました。


「何が言いたいの!」


 私は思わず口を開きかけました。


 しかし。


 先輩が小さく手を上げました。


 やめろ。


 そういう合図です。


「分かりました」


 相馬先輩は手帳を閉じました。


「今日伺った内容は、事実確認の記録として整理します」


「それだけ?」


「はい」


 妙子はにやりと笑いました。


「だったら、こっちからも言わせてもらうわ」


 彼女はバッグから、一枚の紙を取り出しました。


 婚姻届の写し。


「ここに署名があるでしょう?」


「はい」


「ハンコもある」


「はい」


「証人も二人いる」


「確認しました」


「そして役所が受理している!」


 妙子は机を指で叩きました。


「だから、私は妻なの!」


 私は唇を噛みました。


 違う。


 そう叫びたい。


 ですが。


 相馬先輩は表情を変えません。


「それが、あなたのご主張ですね」


「そうよ!」


「分かりました」


「だったら遺産を分けなさい!」


 妙子は勝ち誇ったように笑いました。


「妻には、ちゃんと相続権があるんだから!」


 その瞬間。


 私は背筋が冷たくなりました。


 昭和六十三年。


 配偶者と子一人が相続人なら。


 法定相続分は、それぞれ二分の一。


 この婚姻が有効なら、妙子は遺産の半分を主張する立場に立ちます。


 自宅。


 土地。


 製材所の財産。


 父親が長年働いて築いてきたもの。


 その半分。


 もし。


 婚姻届が勝手に作られたものだったら。


 こんな理不尽な話があるでしょうか。


「こはる」


 相馬先輩が小さく言いました。


「はい」


「帰るぞ」


「……はい」


 私たちは席を立ちました。


 妙子は最後まで余裕の笑みを浮かべていました。


「裁判でも何でもすれば?」


 そう言って。


「戸籍は嘘をつかないんだから」


 私は振り返りませんでした。


 ただ。


 心の中で、ひとつだけ思いました。


 戸籍は、記録です。


 人の心を透かして見られる魔法の紙ではありません。


 ◇


「先輩!」


 事務所へ戻った私は、机を叩きました。


「腹が立ちます!」


「机が壊れる」


「だって!」


「ああいう奴に、口で勝とうとするな」


「でも!」


 相馬先輩は煙草を一本取り出しました。


「こはる」


「はい」


「お前、婚姻の無効と取消しを混同してないか?」


 私は固まりました。


「……え?」


「今、何条で考えてる」


「民法七百四十二条です」


「それだけか?」


「えっと……七百四十七条も……」


「何でだ」


 私は口を閉じました。


 七百四十二条。


 婚姻の無効。


 婚姻意思がない場合など。


 一方。


 七百四十七条。


 詐欺又は強迫による婚姻の取消し。


「たとえば」


 相馬先輩が言いました。


「妙子が正一さんに『私は独身です』と嘘をつき、正一さんがその嘘を信じて、自分の意思で結婚した場合はどうだ」


「詐欺による婚姻の取消しが問題になります」


「そうだ」


「でも、今回みたいに、そもそも結婚する意思がなかった場合は……」


「無効の問題だ」


 私は頷きました。


「似ていますね」


「似てねえ」


「ええっ!」


「本人が結婚するつもりだったかどうかが違う」


 ……なるほど。


 騙されて結婚を決めた。


 それと。


 結婚を決めてもいないのに、勝手に婚姻届を出された。


 同じ『騙された』でも、法律上の問題は違う。


「それに」


 所長が言いました。


「取消しには、期限の問題がある」


「はい」


「詐欺や強迫による婚姻の取消権は、詐欺を発見し、または強迫を免れた後、三か月を経過すると消滅する。追認した場合も同じだ」


 私は慌ててノートを開きました。


 三か月。


 短い。


「でも所長」


「何だ」


「今回、正一さんは婚姻届そのものを知らなかった可能性があります」


「そうだ」


「その場合、そもそも婚姻意思がなかったという無効の問題になる」


「うん」


「詐欺による取消しの三か月を、そのまま当てはめるわけにはいかない」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は胸を撫で下ろしました。


 ですが。


 所長は、そこで言いました。


「もう一つ」


「はい」


「婚姻の取消しは、過去にさかのぼらない」


 私は目を見開きました。


「えっ!」


 民法第七百四十八条。


 婚姻の取消しは、将来に向かってのみ効力を生じる。


 つまり。


 取り消されたからといって、婚姻していた過去の事実まで、初めからなかったことになるわけではない。


「……普通の契約の取消しと違う!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「家族の身分関係は、契約書一枚の話じゃねえ。過去の婚姻を全部なかったことにすると、子供や財産関係に大きな混乱が起こり得る」


「なるほど……」


 私は六法を見つめました。


 無効。


 取消し。


 たった二文字と三文字。


 でも。


 意味は大違い。


 しかも今回は。


 父親が亡くなっている。


 だからこそ。


 婚姻が最初から無効だったのか。


 それとも、有効な婚姻に取消原因があったのか。


 その違いは、相続に直接関わってくるのです。


 ◇


「こはる」


 片桐所長が、机の上に白い原稿用紙を置きました。


「書け」


「はい!」


「ただし、勘違いするな」


「何をですか?」


「内容証明だけで戸籍は直らん」


「……あ」


 そうでした。


 婚姻無効が争われている場合。


 必要に応じて家庭裁判所での調停や訴訟など、正式な手続を取らなければならない。


 行政書士の内容証明には、婚姻を無効と確定する力はありません。


 それでも。


 できることはある。


 相手の主張。


 本人の意思。


 届出の経緯。


 判例。


 証拠。


 それらを整理し、矛盾を文書にする。


「弁護士には?」


 私が尋ねると、所長が頷きました。


「相談の段取りを進める。こちらは資料を整える」


「はい!」


 相馬先輩が口を挟みました。


「それから、この書面は誰の名前で出す?」


「奈津子さんです」


「そうだ」


「娘さんは、相続について利害関係があります」


 婚姻が有効か無効か。


 それによって、相続人の範囲も変わる。


 だからこそ、奈津子さんには婚姻無効を争う法律上の利益がある。


「でも先輩」


「何だ」


「相手が亡くなっていても、婚姻無効って主張できるんですよね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「婚姻当事者が亡くなったからといって、無効だった婚姻が有効になるわけじゃねえ」


「はい」


「利害関係人が、死後に無効を争うこともできる」


 私は大きく頷きました。


 よし。


 書けます。


 私は原稿用紙に向かいました。


 まず。


 婚姻届の提出日。


 昭和六十二年十一月十日。


 次。


 正一さんの病状。


 右手の麻痺。


 次。


 本人の日記。


 婚姻届提出時の認識。


 そして。


 夫婦としての実質的生活関係があったかどうか。


 最後に。


 昭和四十七年七月二十五日の最高裁判決。


 私は慎重に、一文字ずつ書いていきました。


 ◇


 三時間後。


 机の上に、内容証明郵便の原案が完成しました。


 私は読み上げました。


「通知人、杉浦奈津子」


「うん」


「被通知人、杉浦妙子こと黒川妙子」


「続けろ」


「貴殿は、昭和六十二年十一月十日付で、亡杉浦正一との婚姻届を提出し、現在、同人の配偶者として相続権を主張している」


 相馬先輩が頷きました。


「しかし」


 私は続けました。


「通知人が保管する亡正一の生前の日記その他の資料には、同人が貴殿との婚姻を希望していなかったことをうかがわせる記載が存在する」


「うん」


「また、当該婚姻届が提出された当時、亡正一には右上肢の麻痺があり、婚姻届の署名についても、従前の筆跡及び身体状況との整合性に疑義がある」


「よし」


「さらに、両名が夫婦としての実質的生活関係を形成していたかについても、確認を要する事情が存在する」


 私は少し息を吸いました。


「民法第七百四十二条第一号は、当事者間に婚姻をする意思がない場合、婚姻を無効と定めている」


 片桐所長が、ゆっくり頷きました。


「続けろ」


「また、最高裁判所昭和四十七年七月二十五日判決は、一方の意思に基づかない婚姻届であっても、届出当時に夫婦としての実質的生活関係が存在し、後に他方が届出の事実を知って追認した場合には、届出当初にさかのぼって有効となり得る旨を判示している」


「うん」


「本件については、亡正一が届出の事実を認識し、追認したことを裏付ける資料は、現時点で確認されていない」


 私は原稿を持つ手に力を込めました。


「よって、通知人は、本件婚姻の効力について重大な疑義を有している」


 相馬先輩が腕を組みました。


「最後だ」


「はい」


 私は読みました。


「ついては、貴殿が主張する婚姻の成立経緯、届出書の作成経緯、亡正一本人の婚姻意思及び届出後の認識に関する資料について、書面による説明を求める」


 そして。


「本件婚姻の有効性が確定していない現状において、通知人は貴殿の配偶者としての相続権を争う意思を有しており、必要に応じて弁護士に相談のうえ、家庭裁判所における法的手続を検討する」


 私は読み終えました。


 静寂。


 やがて。


 相馬先輩が言いました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、一か所直せ」


「どこですか?」


「『追認したことを裏付ける資料は確認されていない』。それ自体は今の調査結果としていい。だが、相手が資料を持っている可能性まで否定するな」


「はい」


「こちらが証明できていないことも、相手が証明していないことも、同じじゃねえ」


 私は頷きました。


「だから、説明を求めるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が、最後に一文を書き加えました。


 ――なお、本通知は婚姻の効力を確定するものではなく、通知人の法的立場及び今後の対応方針を明らかにするものである。


「所長」


「何だ」


「これ、すごく大事ですね」


「何がだ」


「内容証明を送っただけで、婚姻が無効になるわけじゃない」


「そうだ」


「でも、相手が何を説明しなければならないかを、明確にできる」


 所長は短く頷きました。


「書面の仕事は、そこからだ」


 私は完成した原案を見つめました。


 声を荒らげていない。


 相手を罵倒していない。


 ただ。


 法律と事実が並んでいる。


 この書面に答えるには。


 妙子は説明しなければならない。


 なぜ、右手が麻痺していた正一さんの署名が整っているのか。


 なぜ、正一さんは婚姻後の日記に、再婚の意思がないと書いているのか。


 なぜ、本人が届出の事実を知り、認めたことを示す資料がないのか。


 そして。


 なぜ、夫婦としての生活を裏付ける事情が乏しいのか。


 ……怖い。


 これは、本当に怖い書面です。


 しかし。


 もっと怖いのは。


 嘘をついた人間が、事実を突きつけられる瞬間なのかもしれません。


 ◇


 内容証明郵便を発送してから四日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……黒川です』


 女の声。


 妙子でした。


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「あ、先日の……」


『片桐さん、いらっしゃいますか』


 声が、違います。


 あの喫茶店での、勝ち誇ったような声ではありません。


 妙に小さい。


 私は受話器を所長に渡しました。


「片桐です」


『……あの書面のことなんですけど』


「はい」


『弁護士に見せました』


「そうですか」


『そしたら……』


 妙子は口ごもりました。


『婚姻届が受理されていても、婚姻意思がなければ無効になることがあるって……』


「その点は、民法に定められています」


『でも、本人は死んでるんですよ!』


「はい」


『死んだ人が、結婚する気がなかったなんて言えるんですか!』


 所長は落ち着いて答えました。


「ご本人が亡くなられた後でも、利害関係人が婚姻の無効を争うことはあります」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そして。


『……あの』


「はい」


『本当は……』


 妙子の声が震えました。


『婚姻届、私が書いたんです』


 私は息を止めました。


『正一さんの名前も……』


 相馬先輩が顔を上げました。


 所長は静かに言いました。


「その内容は、今後の正式な手続で、ご自身から正確に説明していただく必要があります」


『……はい』


『でも、私、ずっと世話してたんです!』


 妙子の声が少し大きくなりました。


『病院にも連れていったし、食事だって作った!』


「そうですか」


『だから、少しくらい財産をもらっても……』


「世話をされた事実と、法律上婚姻が成立しているかどうかは、別の問題です」


 妙子は黙りました。


 所長が続けます。


「療養中の世話について、別途精算すべき費用などがあるのであれば、それはその事実に基づいて整理する問題です」


『……』


「婚姻届の効力を利用して相続権を主張することとは、区別しなければなりません」


 妙子は、しばらく何も言いませんでした。


 それから。


『……相続分は、もう請求しません』


 小さな声で、そう言いました。


『私が書いたことも、認めます』


 私は思わず立ち上がりました。


「……!」


 しかし。


 相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。


 まだだ。


 そういう意味です。


 所長は静かに言いました。


「そのお考えは、必要な手続で正式に明らかにしていただくことになります」


『分かりました……』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「所長!」


「何だ」


「認めましたよ!」


「ああ」


「やりましたね!」


 相馬先輩が、煙草を灰皿に押しつけました。


「まだ終わってねえ」


「え?」


「戸籍がそのままだろ」


「あ……」


 そうです。


 妙子が電話で認めた。


 それだけで、戸籍の婚姻記載が消えるわけではありません。


 婚姻の効力について、正式な手続が必要です。


「それに」


 相馬先輩が言いました。


「一度認めたことを、あとでひっくり返す奴もいる」


「……はい」


「だから書面だ」


 私は大きく頷きました。


 世の中。


 声がでかい奴じゃなくて。


 書面にハンコを押させた奴が勝つ。


 ただし。


 そのハンコだって、本人の意思と手続が伴って初めて意味を持つ。


 ……なるほど。


 今回の事件に、ぴったりの言葉です。


 ◇


 その後。


 妙子は、自ら婚姻届を作成した経緯と、正一さんから婚姻の承諾を得ていなかったことを記した事実確認書に署名押印しました。


 婚姻届の証人となっていた二人からも、届出の際に正一さん本人の意思を直接確認していなかったことが明らかになりました。


 さらに。


 妙子が持っていた古い手帳には、決定的な記載が残されていました。


 ――正一さん、結婚の話は嫌がる。


 ――娘に知られると面倒。


 ――婚姻届だけ先に出しておく。


 その手帳を見たとき。


 私は言葉を失いました。


 世話をしたこと。


 感謝されていたこと。


 それは、事実だったのでしょう。


 でも。


 だからといって、他人の婚姻意思を勝手に作り出してよいわけではない。


 感謝と結婚は、違います。


 親切と相続権も、違うのです。


 片桐所長は、それまで整理した資料を、奈津子さんの了解を得て弁護士に引き継ぎました。


 婚姻届の資料。


 日記。


 病状の記録。


 妙子の事実確認書。


 証人に関する記録。


 そして、判例と争点をまとめた一覧。


 私たち行政書士が担当できる仕事は、ここまで。


 その後、奈津子さんは弁護士の支援を受け、家庭裁判所で正式な手続を進めました。


 妙子も、婚姻届が正一さんの意思に基づくものではなかったことを争いませんでした。


 必要な手続を経て、婚姻の無効が確認されました。


 そして。


 戸籍の記載も、正式に訂正されることになったのです。


 単なる口約束ではありません。


 電話の謝罪でもありません。


 法的な手続を踏んで、ようやく。


 正一さんの意思が、戸籍の上でも守られたのです。


 ◇


「父が、帰ってきた気がします」


 一か月ほど後。


 奈津子さんは、再び事務所を訪れました。


 手には、訂正後の戸籍を確認した資料。


 そして。


 小さな写真が一枚。


「これ、父と母なんです」


 私は受け取りました。


 若い男女。


 製材所の前。


 男性は作業着姿。


 女性は白いブラウス。


 二人とも、少し照れくさそうに笑っています。


「結婚したばかりのころの写真だそうです」


 奈津子さんが言いました。


「父、母が亡くなったあとも、ずっとこの写真を飾っていたんです」


「そうだったんですね」


「妙子さんには、確かにお世話になりました」


 奈津子さんは、写真を見つめました。


「父も、感謝していたと思います」


「はい」


「でも、結婚したかったかどうかは、別だったんですね」


 私は頷きました。


「そうですね」


 奈津子さんは、小さく笑いました。


「父が、最後まで大切にしていた気持ちを守れた気がします」


 その言葉を聞いたとき。


 私は胸が少し熱くなりました。


 民法。


 婚姻の無効。


 婚姻の取消し。


 相続。


 戸籍。


 どれも、硬い言葉です。


 受験生だったころは、条文番号を覚えるだけで精一杯でした。


 七百四十二条。


 七百四十七条。


 七百四十八条。


 無効。


 取消し。


 将来効。


 追認。


 正直、似たような言葉ばかりだと思っていました。


 でも。


 今は違います。


 婚姻は、ただの財産契約ではない。


 誰と人生を共にするか。


 誰を家族として迎えるか。


 その人自身が決めることです。


 たとえ相手が親切な人でも。


 何年も世話をしてくれた人でも。


 財産を分けてほしいと望む人でも。


 本人の意思を飛び越えて、勝手に結婚させることはできません。


 戸籍の一行には。


 一人の人間の人生が詰まっているのです。


 ◇


 夕方。


 私は机に向かって、六法を開いていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、やっと分かりました」


「何がだ」


「婚姻の無効と取消しです」


「ほう」


 私は鉛筆を握りました。


「結婚する意思がなかったなら、無効が問題になる」


「うん」


「でも、騙されて自分の意思で結婚を決めた場合には、詐欺による取消しが問題になる」


「そうだ」


「そして婚姻の取消しは、原則として過去にさかのぼらない」


「よし」


 私は少し得意になりました。


「しかも、昭和六十三年には婚姻適齢が男女で違います!」


「そこまで聞いてねえ」


「女性の再婚禁止期間も六か月です!」


「だから聞いてねえ!」


「でも、現代の知識をそのまま使うと間違えるんですよ!」


「分かったから静かにしろ!」


 ……。


 私は少し笑いました。


 でも、今回の事件で。


 一番印象に残ったのは、条文番号ではありません。


 亡くなった正一さんの日記です。


 ――再婚など考えていない。


 あの震えた文字。


 右手が思うように動かなくなっても。


 自分の気持ちを、懸命に書き残していた。


 その一行が。


 婚姻届の立派な署名と向き合うための、大切な証拠になりました。


「所長」


 私は尋ねました。


「何だ」


「婚姻届に本人の署名があっても、婚姻意思がなければ無効になり得るんですよね」


「そうだ」


「逆に、署名の方式に不備があるだけなら、それだけで当然に無効とはならない」


「そうだ」


「でも、婚姻意思がなかった届出でも、あとから追認して有効になる場合がある」


 所長は頷きました。


「昭和四十七年の最高裁判決だな」


「はい」


「ただし、届出時の夫婦としての実質的生活関係や、本人が届出を知って追認したことが重要になる」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 難しい。


 本当に難しい。


 でも。


 不思議です。


 最初は複雑に見えた民法が、少しずつ一本の線でつながっていきます。


 その線の真ん中にあるのは。


 本人の意思。


 それを守ること。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 それから。


 ノートの最後に、一行を書きました。


 ――婚姻の無効は「結婚する意思があったか」、取消しは「成立した婚姻を取り消せるか」。紙より先に、人の意思を見よ。


「できました!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあ、悪くねえ」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 すると。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声。


『娘の結婚について、相談したいんですが……』


「はい。どうされましたか?」


『娘が十六歳なんです』


「はい」


『相手は二十二歳の男性で……』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


 十六歳。


 昭和六十三年。


 女性の婚姻適齢には達しています。


 でも。


 それだけで、すべての要件を満たすわけではありません。


『本人たちは結婚したいと言っているんですが、親の私たちは反対していて……』


 私はノートを開きました。


 未成年者の婚姻。


 父母の同意。


 そして、当時の婚姻適齢。


 また。


 現代と昭和の制度が違う問題です。


「相馬先輩」


「何だ」


「次も婚姻ですね」


「ああ」


「しかも未成年者です」


「聞こえてる」


「昭和の民法、まだまだ罠がいっぱいですね!」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい!」


「罠だと思ってるうちは、まだ半人前だ」


「え?」


「法律は人を引っかけるためにあるんじゃねえ」


 先輩は、少しだけ真面目な顔になりました。


「誰の、どんな利益を守る規定なのか。それを考えろ」


 私は黙りました。


 そして。


 今日見た写真を思い出しました。


 製材所の前で笑う、若い夫婦。


 長い年月。


 病気。


 別れ。


 それでも残っていた、結婚した日の思い出。


「……はい」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、娘さんご本人のお気持ちと、これまでの経緯を詳しく教えていただけますか?」


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 婚姻届にハンコがある。


 戸籍にも載っている。


 だから結婚は有効だ。


 そんな単純な話ではないのです。


 誰かを好きになること。


 誰かと暮らすこと。


 誰かに感謝すること。


 そして。


 その人と結婚すること。


 それぞれ、違います。


 民法は。


 その違いを、ちゃんと知っている。


 だからこそ。


 本人の意思を無視して書かれた婚姻届一枚に、人生を奪わせてはいけないのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――婚姻の無効は「結婚する意思があったか」、取消しは「成立した婚姻を取り消せるか」。紙より先に、人の意思を見よ。


 うん。


 これは忘れません。


「こはる!」


 相馬先輩が叫びました。


「はい!」


「電話中にノート読むな!」


「復習してたんです!」


「相談者の話を先に聞け!」


「はいっ!」


 私は慌てて受話器に向き直りました。


 ……どうやら。


 民法の勉強も大切ですが。


 相談者の話を最後まで聞くことも、行政書士見習いには大切なようです。


 そして。


 人の意思を確かめるという仕事は。


 六法を開くより、ずっと前から始まっているのでした。

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