[婚姻の基本]法理編 こはるノート
結婚するのに、誰かの許可が必要なのでしょうか。
親の許可。
後見人の許可。
親戚の許可。
それとも。
本人たちが、お互いに結婚したいと思えば、それだけで夫婦になれるのでしょうか。
答えは。
どちらも、少し違います。
婚姻には、本人の意思が必要です。
けれど、それだけで法律上の夫婦になるわけではありません。
年齢。
親族関係。
既に配偶者がいないこと。
そして、婚姻届。
いくつもの条件があるのです。
ただし。
その条件の中に、他人が勝手に作り出した「許可」は含まれません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一枚の写真を見つめていました。
写真に写っているのは、高瀬美咲さんと松岡修一さん。
先日、無事に結婚した二人です。
美咲さんは、禁治産宣告を受けていました。
叔父の源三が後見人。
そして源三は、
「俺が許可しなければ結婚できない」
と言い張っていたのです。
しかも。
結婚を認める代わりに、美咲さんの家を自分の名義にしろ、と。
ところが。
民法七百三十八条。
その条文を示した途端、源三の態度は一変しました。
婚姻には、後見人の同意が不要だったからです。
「……たった一条で、あんなに変わるんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何の話だ」
「美咲さんの結婚です」
「ああ。あの叔父の件か」
「はい」
私は写真を裏返しました。
そこには、美咲さんの字で、
――私、自分で選んだ人と、家族になれました。
と書かれています。
「これ、何度読んでも嬉しくなります」
「そうか」
「でも先輩」
「何だ」
「私、婚姻の条文で、まだ混乱しているところがあるんです」
「……またか」
「またです!」
私はノートを開きました。
表紙には、
――こはるノート・民法編。
と書かれています。
「今日は、婚姻の基本を全部整理します!」
「全部?」
「婚姻適齢、後見人の同意、再婚禁止期間、近親婚、婚姻届!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「ずいぶん欲張ったな」
「だって、全部つながっているんです!」
そこへ。
奥から片桐所長の声が聞こえました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、婚姻適齢です!」
私はノートに大きく書きました。
――民法第七百三十一条。
「結婚できる年齢ですね」
「ああ」
「現代の民法では、男女とも十八歳から結婚できます」
相馬先輩が顔を上げました。
「……男女とも?」
「はい!」
「こはる」
「はい?」
「今は昭和六十三年だぞ」
……。
あ。
またです。
私は慌てて六法を開きました。
昭和六十三年の民法七百三十一条。
そこには。
――男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。
と書かれていました。
「……男十八歳、女十六歳」
「そうだ」
「男女で違うんですね」
「ああ」
私は額を押さえました。
現代では男女とも十八歳。
でも昭和では。
男性十八歳。
女性十六歳。
「じゃあ、先日相談に来た十七歳の女の子は……」
「年齢だけなら婚姻できる」
「そうですね!」
私は大きく頷きました。
ところが。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「十七歳なら、まだ未成年者だ」
「あっ」
そうでした。
昭和六十三年。
成年年齢は二十歳。
だから、十七歳の女性は婚姻適齢に達していても、未成年者です。
「そこで民法七百三十七条ですね!」
「そうだ」
私はページをめくりました。
――未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。
「原則として、父母の同意が必要なんですね」
「ああ」
「でも、父母の一方が反対していたら?」
相馬先輩がにやりとしました。
「いい質問だ」
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
先輩は続けました。
「父母の一方が同意しない場合は、他方の同意だけで足りる」
「はい」
「父母の一方が死亡している場合なども、同じだ」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
男性十八歳、女性十六歳から婚姻可能。
ただし、二十歳未満は未成年者。
未成年者の婚姻には、原則として父母の同意が必要。
父母の一方が同意しない場合には、他方の同意で足りる。
「なるほど!」
私は鉛筆を止めました。
「婚姻できる年齢と、親の同意がいらなくなる年齢は、別なんですね!」
「そうだ」
たとえば。
十七歳の女性。
婚姻適齢には達しています。
でも未成年者。
したがって、父母の同意が問題になります。
一方。
二十七歳の美咲さん。
当然、成年者です。
だから、父母の同意は必要ありません。
まして。
叔父の許可など、一般的な婚姻の要件にはなっていないのです。
「じゃあ、現代はどうなるんですか?」
私は思わず尋ねました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「また未来の話か」
「比較すると覚えやすいんです!」
現代では、令和四年、つまり二〇二二年四月一日から成年年齢が十八歳に引き下げられます。
同時に、婚姻適齢も男女とも十八歳に統一。
未成年者の婚姻についての父母の同意規定も削除されました。
「つまり」
私は書きました。
現代。
男女とも十八歳から婚姻可能。
十八歳は既に成年者。
父母の同意は不要。
「すっきりしましたね!」
「何がだ」
「年齢が揃ったんです!」
私は笑いました。
昭和では。
女性十六歳。
男性十八歳。
成年二十歳。
だから、婚姻適齢と成年年齢の間にずれがありました。
現代では。
男女とも十八歳。
成年年齢も十八歳。
そのずれがなくなったのです。
「どうして改正されたんでしょう?」
私が聞くと、片桐所長が口を開きました。
「時代によって、何歳から自分の人生を決める責任を負わせるか、考え方も変わる」
「はい」
「法制度は、社会と無関係ではない」
私は頷きました。
男女の平等。
若者の自己決定。
成年年齢との整合性。
そうした考え方から、現代の制度が整えられていったのです。
「でも先輩」
「何だ」
「昭和では、十七歳の女性が結婚できるのに、同じ十七歳の男性は結婚できないんですよね」
「そういう法律だ」
「男女で違うって、今の感覚だと不思議ですね」
「だからって、お前の感覚で今の条文を書き換えるなよ」
「……はい」
耳が痛いです。
転生者にとって。
未来の常識ほど、危険なものはありません。
◇
「次は、今回の事件の核心です!」
私はノートをめくりました。
――民法第七百三十八条。
禁治産者の婚姻。
「美咲さんの事件ですね」
「ああ」
「叔父の源三さんは、後見人の許可が必要だと言っていました」
「そうだな」
「でも、実際の条文は……」
私は六法を読みました。
――禁治産者が婚姻をするには、その後見人の同意を要しない。
私は大きく丸をつけました。
「これです!」
相馬先輩が頷きました。
「源三が知らなかった条文だな」
「知っていたら、あんなこと言えませんよね」
「知ってて騙そうとしてた可能性もあるがな」
……。
それはそれで、ひどい話です。
「でも先輩、どうして後見人の同意はいらないんでしょう?」
「考えてみろ」
私は少し考えました。
禁治産者。
当時の制度では、判断能力に重大な問題がある人の財産を保護するために、後見人が設けられます。
でも。
婚姻は、普通の売買契約とは違う。
「……結婚って、財産を売る契約ではないから?」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「婚姻は、本人の身分に関する行為だ」
「身分行為……」
「誰と夫婦になるかを、後見人の都合で決めさせるわけにはいかねえ」
私は美咲さんの写真を見ました。
美咲さんは、自分の言葉で答えていました。
修一さんと一緒に暮らしたい。
病気になっても助け合いたい。
家族になりたい。
そう言っていました。
「つまり」
私は言いました。
「本人が結婚の意味を理解して、自分の意思で婚姻することが大切なんですね」
「そうだ」
ただし。
ここには、大事な注意点があります。
「後見人の同意が不要だからといって、本人に婚姻意思がなくてもよいわけじゃありません」
「そのとおり」
片桐所長が頷きました。
「婚姻の意味を理解し、自ら婚姻する意思を持っていることが必要だ」
「はい」
「禁治産宣告を受けているというだけで、婚姻できないと決めつけてはいけない」
「はい」
「だが、宣告を受けていても、どんな状態でも必ず婚姻が有効になる、ということでもない」
私はノートに二本の線を引きました。
後見人の同意。
不要。
本人の婚姻意思と、それを形成するための判断能力。
必要。
「これ、絶対に混同しちゃ駄目ですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「七百三十八条は、後見人が勝手に結婚を決める権限を持つって条文じゃねえ」
「むしろ逆ですね」
「ああ」
「本人の意思を守る条文なんですね」
私は大きく頷きました。
では、現代はどうなっているのでしょうか。
私はノートの右側に書きました。
――現代の民法第七百三十八条。
成年被後見人が婚姻をするには、その成年後見人の同意を要しない。
「名前が変わっています!」
「何にだ」
「禁治産者が、成年被後見人に!」
相馬先輩が首をかしげました。
「相変わらず、お前の話は妙な名前が出てくるな」
「未来では、こっちが普通なんです!」
禁治産制度。
準禁治産制度。
それらは平成十一年の民法改正によって、新たな成年後見制度へと改められ、平成十二年から施行されます。
現代では、保護を受ける本人について、成年被後見人、被保佐人、被補助人という区分があります。
「昔の制度より、本人の意思や必要な支援の程度を重視する方向に変わったんですね」
私は書きました。
昭和。
禁治産者。
後見人の同意は不要。
現代。
成年被後見人。
成年後見人の同意は不要。
「名前が変わっても、婚姻について大切な原則は引き継がれているんです!」
片桐所長が頷きました。
「法律の言葉が変わっても、守るべきものが変わらない場合もある」
「はい」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
人を保護する制度。
けれど、その人の人生を奪う制度ではない。
美咲さんの事件は、まさにその違いを教えてくれたのです。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「次は、婚姻届だな」
「はい!」
私はノートに書きました。
――民法第七百三十九条。
婚姻の届出。
「これも、美咲さんの事件で大事でしたね」
「ああ」
「叔父が折れただけでは、二人は夫婦になれなかった」
「そうだ」
婚姻は、戸籍法の定めに従って届け出ることで効力を生じます。
つまり。
結婚したい。
愛している。
一緒に暮らしている。
そういう気持ちや生活があっても、それだけで法律上の婚姻が成立するわけではありません。
「じゃあ、結婚式を挙げたら?」
相馬先輩が聞きました。
「それだけでは法律上の婚姻は成立しません!」
「婚約指輪を交換したら?」
「それだけでも駄目です!」
「十年間一緒に暮らしていたら?」
「事実婚として法的保護が問題になる場合はありますが、それだけで届出婚が成立するわけではありません!」
「よし」
私は得意になって続けました。
「法律上の夫婦になるには、適法な婚姻届が必要なんです!」
「そうだ」
では。
その婚姻届には、誰の署名が必要なのでしょうか。
私は条文を開きました。
民法七百三十九条第二項。
当事者双方。
そして、成年の証人二人以上。
書面による届出のほか、法律上は口頭による届出も規定されています。
「ここで、美咲さんの叔父さんです!」
「また源三か」
「はい!」
私は思い出しました。
源三は言っていました。
――俺が判を押さなければ、婚姻届は出せない。
けれど。
証人は、叔父である必要がありません。
後見人である必要もありません。
成年者で、婚姻の証人となる人が二人以上いればよいのです。
「じゃあ、美咲さんの場合は?」
先輩が聞きました。
「修一さんの職場の上司と、仕立屋の店主さんが証人になりました!」
「そうだな」
「二人とも成年者です!」
「そうだ」
「だから、源三さんの署名は必要なかったんです!」
私は大きく頷きました。
でも。
片桐所長が言いました。
「証人が二人いるだけで、婚姻が成立するわけでもない」
「あ、はい」
「当事者双方の婚姻意思も必要だ」
「はい」
「重婚や近親婚など、法律が禁止する婚姻であってもいけない」
私は六法を見ました。
民法第七百四十条。
婚姻届を受理する際には、婚姻適齢や近親婚の禁止など、法律上の要件に反しないことを確認する仕組みがあります。
「つまり」
私は言いました。
「婚姻届って、ただ役所に紙を出せば何でも成立するわけではないんですね」
「そうだ」
婚姻する意思。
婚姻の法律上の要件。
届出。
この三つを、きちんと考える必要があります。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「これ、行政書士らしいですね」
「何がだ」
「本人の意思を確認して、要件を整理して、正しい書類を整える」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
美咲さんたちの場合も。
法律上の問題を確認し。
本人の意思を確かめ。
戸籍窓口に必要な確認を行い。
届出を整えました。
そして、婚姻届が受理された。
そこで初めて、二人は法律上の夫婦になったのです。
「紙一枚なのに、重いですね」
私が言うと、所長が静かに答えました。
「紙が重いんじゃない」
「え?」
「そこに書かれた意思と、法律上の効果が重いんだ」
私は、しばらく黙りました。
なるほど。
婚姻届。
ただの紙ではありません。
人生を共にするという二人の意思を、法律上の身分関係に結びつける書類なのです。
◇
「次は、再婚禁止期間です!」
私はノートをめくりました。
――民法第七百三十三条。
「……先輩」
「何だ」
「これは、かなり大きく改正されていますよね」
「何の話だ」
「再婚禁止期間です」
私は思い出しました。
現場編の最後に、相談票がありました。
離婚して二か月の女性。
再婚したい。
ところが。
昭和六十三年の民法では、女性について原則六か月の再婚禁止期間が定められていました。
「六か月……」
私は呟きました。
「長いですよね」
「当時の法律だ」
「でも、どうして女性だけだったんでしょう?」
相馬先輩は、六法を開きました。
「子供の父親をめぐる法律関係が問題になるからだ」
「……父親?」
「嫡出推定だ」
私は顔を上げました。
民法七百七十二条。
子供が誰の法律上の父親の子と推定されるか。
その問題です。
当時の民法では、婚姻成立から二百日を経過した後に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定される仕組みがありました。
また、離婚から三百日以内に生まれた子についても、前の婚姻中に懐胎したものと推定されます。
「……あ!」
私は気づきました。
「離婚して、すぐに再婚したら!」
「どうなる」
「生まれた子について、前の夫と新しい夫の推定が重なってしまう場合がある!」
「そうだ」
私は紙に線を引きました。
前婚の解消。
三百日以内に生まれた子。
前夫の子と推定される。
一方。
再婚成立から二百日経過後に生まれた子。
新しい夫の子と推定される。
「だから、その重複を避けようとしたんですね!」
「そういう趣旨だ」
なるほど。
最初は、ただ女性の再婚を制限しているだけの条文に見えました。
でも、背景には子供の父親を法律上どう定めるかという問題があったのです。
もっとも。
「それでも、女性だけが再婚を待たなければならないのは、負担が大きいですよね」
私は言いました。
相馬先輩が頷きました。
「制度には目的がある。だが、その目的に対して制限が重すぎないかは、別の問題だ」
私は、その言葉を書きました。
そうです。
法律の目的が正しくても。
そのために、必要以上に人の自由を制限してよいわけではありません。
ここで私は、現代の改正を思い出しました。
「先輩、未来では再婚禁止期間が短くなるんです」
「また未来か」
「大事なんです!」
平成二十八年。
二〇一六年。
女性の再婚禁止期間は、原則として六か月から百日に短縮されます。
また、離婚時に懐胎していなかった場合や、離婚後に出産した場合について、適用除外が明文化されます。
「百日……」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
原則六か月。
ただし、前婚の解消前から懐胎していた女性が出産した場合には、その出産の日から禁止期間の規定を適用しない。
二〇一六年改正後。
原則百日。
離婚時に懐胎していなかった場合などには、百日待たずに再婚できる。
「でも、それで終わりじゃないんですよね」
私は続けました。
令和六年。
二〇二四年四月一日。
再婚禁止期間そのものが廃止されます。
「……廃止?」
相馬先輩が聞き返しました。
「はい!」
「父親の推定はどうするんだ?」
「そこも変わるんです!」
私は鉛筆を握り直しました。
現代では、嫡出推定制度が見直されました。
離婚から三百日以内に子が生まれた場合でも、母親が再婚した後に生まれた子については、原則として再婚後の夫の子と推定されるようになります。
「つまり」
私は言いました。
「再婚を禁止して父親の推定の重複を避けるのではなく、推定のルールそのものを整えたんです!」
相馬先輩は少し考えました。
「なるほどな」
「だから、女性だけに再婚禁止期間を設ける必要がなくなった」
「そういうことか」
私は大きく頷きました。
昭和。
六か月。
二〇一六年以降。
百日。
二〇二四年以降。
廃止。
「これ、試験勉強では絶対に注意ですね!」
「何がだ」
「古い教材だと、百日って書いてあることがあります!」
「そうなのか」
「でも、今の法律では廃止されているんです!」
私はノートに赤線を引きました。
昔の教材に書かれた条文が、そのまま現行法とは限らない。
今回ほど、この言葉が身に染みたことはありません。
法律は。
覚えたら終わりではありません。
なぜ、その制度があるのか。
そして、なぜ改正されたのか。
そこまで理解すると、条文の変化にも意味が見えてくるのです。
「……ところで」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっきから、お前は未来の法律をずいぶん詳しく知ってるな」
「……!」
しまった。
「え、ええと……」
「何か言えない事情でもあるのか?」
「べ、勉強熱心なので!」
「未来の勉強か?」
「そ、それは……」
危ない。
ここで転生の秘密がばれたら、婚姻どころの話ではありません。
「先輩!」
「何だ」
「次に行きましょう!」
「誤魔化したな」
「誤魔化してません!」
……はい。
思いきり誤魔化しました。
◇
「次は、近親婚の禁止です」
私はノートに書きました。
――民法第七百三十四条。
直系血族と三親等内の傍系血族の間では、原則として婚姻できません。
「直系血族って何だ」
相馬先輩が聞きました。
「親子、祖父母と孫など、直接つながる血族です」
「うん」
「傍系血族は、兄弟姉妹や叔父と姪のように、共通の祖先から枝分かれした血族です」
「そうだな」
私は家系図を描きました。
祖父。
父。
子。
孫。
「これは直系血族です」
「うん」
「そして、兄弟姉妹は二親等の傍系血族」
「そうだ」
「叔父と姪は三親等の傍系血族」
「うん」
私は丸で囲みました。
直系血族。
婚姻禁止。
三親等内の傍系血族。
原則として婚姻禁止。
「ただし、養子と養方の傍系血族については例外があります」
「そこも大事だな」
たとえば。
養子と、養親の実子。
法律上は兄弟姉妹という関係になります。
しかし、民法七百三十四条は、養子と養方の傍系血族の間には婚姻禁止を適用しないとしています。
「……ややこしい!」
私は頭を抱えました。
「法律上は兄弟姉妹なのに、例外があるんですね」
「そうだ」
「でも、養親と養子の間は?」
相馬先輩が聞きました。
「それは駄目です!」
私は七百三十六条を開きました。
――養親子等の間の婚姻禁止。
ここは、現場編の最後に先輩から問題を出されたところです。
養親と養子。
養親と養子の配偶者。
養子の直系卑属やその配偶者と、養親またはその直系尊属。
こうした法律で定められた関係の間では、婚姻が禁止されます。
「しかも!」
私は勢いよく言いました。
「離縁して養親子関係が終了しても、婚姻できません!」
「そうだ」
「これが七百三十六条ですね!」
私はノートに大きく書きました。
養親子等の婚姻禁止。
離縁後も続く。
「どうしてでしょう?」
私は考えました。
養親子。
血のつながりがあるとは限りません。
でも、親子として法律上の関係を結びます。
その後、離縁したからといって。
かつて親子だった関係が、何もなかったことになるわけではありません。
「家族関係の秩序を守るためなんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「そして、七百三十五条もありましたね!」
直系姻族間の婚姻禁止。
たとえば。
夫と妻の母。
妻と夫の父。
こうした直系姻族の間では、婚姻できません。
「しかも、離婚して姻族関係が終了しても禁止が続くんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「つまり」
私はノートを見直しました。
「親族関係が終了したから、どんな相手とでも婚姻できるわけではない!」
「そのとおり」
よし。
整理できました。
でも。
ここまで来ると、頭が少し痛くなってきます。
「先輩」
「何だ」
「民法って、家系図を描かないと分からなくなりますね」
「描けばいいだろ」
「簡単に言いますね!」
「分からねえなら、紙に書け」
……。
確かに。
法律は、難しい言葉を頭の中だけで回すより、具体的な家族関係を図にしたほうが分かりやすいことがあります。
養親。
養子。
実子。
配偶者。
直系尊属。
直系卑属。
それぞれの関係を整理すれば、条文の意味が見えてくる。
「なるほど」
私は鉛筆を握り直しました。
「暗記より、理解ですね!」
相馬先輩が笑いました。
「やっと分かったか」
「最初から分かってました!」
「嘘つけ」
「ひどい!」
◇
「さて、最後に確認問題だ」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
「昭和六十三年。十八歳の男性は婚姻できるか」
「年齢の要件は満たしています!」
「ただし?」
「二十歳未満なので、未成年者の婚姻に関する父母の同意が問題になります!」
「よし」
所長は続けました。
「十六歳の女性は?」
「婚姻適齢に達しています。ただし、未成年者なので父母の同意が必要です!」
「父母の一方が同意しない場合は?」
「他方の同意だけで足ります!」
「よし」
私は拳を握りました。
順調です。
「禁治産者が婚姻するには、後見人の同意が必要か」
「不要です!」
「本人の婚姻意思は?」
「必要です!」
「婚姻は、いつ効力を生じる?」
「戸籍法に従った届出によってです!」
「書面による婚姻届には?」
「当事者双方と、成年の証人二人以上の署名が必要です!」
「よし」
片桐所長が頷きました。
「では、昭和六十三年に離婚した女性の再婚禁止期間は?」
「原則六か月です!」
「例外は?」
「離婚前から懐胎していた場合、出産の日から禁止期間の規定が適用されなくなります!」
「よし」
「現代では?」
「令和六年四月一日から再婚禁止期間は廃止されています!」
所長が一瞬、眉を上げました。
「……何?」
「い、いえ、その……」
相馬先輩が吹き出しました。
「また未来の法律か!」
「比較学習です!」
「便利な言葉だな!」
私は慌ててノートを閉じかけました。
でも。
「まだ終わっていない」
所長が言いました。
「……はい?」
「養親と養子が離縁した後、婚姻できるか」
「できません!」
「直系姻族関係が終了した後は?」
「婚姻禁止が続きます!」
「養子と養方の傍系血族は?」
「七百三十四条の婚姻禁止の例外です!」
所長は頷きました。
「よし」
私は思わず両手を上げました。
「やりました!」
婚姻の基本。
一通り、整理できました。
ただ。
民法の条文を一つずつ覚えるだけでは、今日の事件の本当の意味は分からなかったと思います。
◇
私は、美咲さんの写真をもう一度取り出しました。
写真の中の二人は、少し緊張した顔で並んでいます。
派手な結婚式ではありません。
豪華な衣装でもありません。
それでも。
二人の表情は、どこか誇らしげでした。
「所長」
「何だ」
「今日、一番大事なことが分かりました」
「言ってみろ」
私は少し考えました。
「婚姻って、本人の意思を大切にする制度なんですね」
「うん」
「でも、好きだからという理由だけで、何でも認められるわけじゃない」
「そうだ」
「年齢や親族関係など、法律上の条件もある」
「うん」
「そして、必要な届出をすることで、法律上の夫婦になる」
所長は静かに頷きました。
「それでいい」
私は続けました。
「でも、今回の源三さんは、法律上必要のない同意を、自分の権限だと思わせていました」
「ああ」
「婚姻と財産管理の問題を一緒にして、美咲さんから家を奪おうとした」
「そうだな」
「つまり……」
私は言いました。
「法律を知らないと、存在しない義務まで押しつけられてしまうんですね」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
そして、いつもの言葉を口にしました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
「でも先輩」
「何だ」
「今回の源三さんは、必要ないハンコを押させようとして負けましたよね」
「……そうだな」
「だから、法律で必要なハンコなのかどうか、確認することが大事なんですね」
相馬先輩が苦笑しました。
「お前、最近よく言い返すようになったな」
「成長してますから!」
「口だけはな」
「ひどい!」
私は笑いながらノートを開きました。
今日の最後のページ。
ここに、一行の覚え書きを書きます。
婚姻適齢。
後見人の同意。
婚姻意思。
婚姻届。
再婚禁止期間。
近親婚の禁止。
全部を一行にするのは、少し難しい。
でも。
美咲さんの事件を思い出せば、答えは見えてきます。
私は鉛筆を走らせました。
――婚姻は「本人の意思」と「法律の要件」と「届出」で成立し、他人の勝手な許可では決まらない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
でも。
この一行は、きっと忘れません。
禁治産者だから、結婚できない。
後見人が反対しているから、結婚できない。
財産を渡さなければ、結婚できない。
そんな理屈は、民法七百三十八条の前では通用しませんでした。
もちろん。
婚姻意思がなければ、婚姻は成立しません。
法律上の禁止がある場合にも、婚姻は認められません。
そして、適法な届出も必要です。
けれど。
その条件を満たしている人から、誰かが自分の都合で結婚の自由を奪うことはできないのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、結婚するならどんな相手がいいんだ?」
「……え?」
私は鉛筆を止めました。
突然、何ですか。
「今、婚姻の勉強してるんだろ」
「してますけど!」
「法律の要件は覚えた。じゃあ本人の意思はどうなんだ?」
私は少し考えました。
「そうですね……」
優しい人。
真面目な人。
一緒にいて楽しい人。
それから。
「法律の話を聞いてくれる人がいいです!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「……何?」
「行政書士試験の勉強に付き合ってくれる人!」
「結婚してまで六法を読ませる気か」
「もちろんです!」
「相手が気の毒だな」
「ひどい!」
私は腕を組みました。
「じゃあ先輩は、どんな人がいいんですか?」
「俺か?」
「はい!」
相馬先輩は少し考えました。
「……静かな奴」
「静かな人?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「一日中、法律の話をしねえ奴」
……。
私は固まりました。
「それ、私への嫌味ですよね?」
「自覚あるじゃねえか」
「先輩!」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「相馬」
「はい」
「こはるをからかうのは、そのくらいにしろ」
「はい」
私は胸を張りました。
「ほら! 所長も言ってます!」
ところが。
「こはる」
「はい!」
「明日の相談票は整理したか」
「……あ」
「十七歳の婚姻の件だ」
「はい……」
「父母の同意関係を確認し、必要な資料を揃えておけ」
「……分かりました」
相馬先輩がにやりとしました。
「ほらな」
「何がですか!」
「結婚の自由を勉強しても、見習いの仕事は減らねえんだよ」
「それとこれとは別問題です!」
「そうだな」
私はため息をつきました。
まったく。
民法って、人生の大切な自由を守ってくれるのに。
見習いの雑用までは、なくしてくれないようです。
……残念。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
美咲さんと修一さんは、今日も一緒に夕飯を食べているのでしょう。
修一さんが作業服を脱ぎ。
美咲さんが食卓にお椀を並べる。
そんな、何でもない時間。
それを、自分たちで選んだのです。
婚姻適齢。
成年者。
禁治産者。
後見人。
届出。
近親婚。
再婚禁止期間。
試験のテキストでは、どれも硬い言葉です。
でも。
その一つ一つには、理由があります。
本人の意思を尊重するため。
家族関係の秩序を守るため。
子供の身分関係を安定させるため。
そして、婚姻という法律上の関係を明確にするため。
時代によって、制度は変わります。
婚姻適齢も変わりました。
成年年齢も変わりました。
再婚禁止期間も、短縮され、やがて廃止されました。
禁治産という言葉も、成年後見制度へと改められました。
けれど。
誰かの人生を、本人抜きで勝手に決めてはいけない。
その大切な考え方は、昔の民法にも存在していたのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――婚姻は「本人の意思」と「法律の要件」と「届出」で成立し、他人の勝手な許可では決まらない。
よし。
これなら忘れません。
美咲さんの写真を思い出せばいい。
叔父の源三が、あんなに偉そうに言っていた言葉。
――俺が許可しなければ、結婚できない。
それに対して、民法は静かに答えていました。
――後見人の同意は要しない。
たった一行。
でも。
その一行が、一人の女性の人生を守ったのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで、明日の資料を作れ!」
「今、今日の学習内容を確認していたんです!」
「確認は終わっただろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、民法七百三十八条が大好きです!」
「知ってるよ!」
「だって、自分の幸せを自分で選べるって、素敵じゃないですか!」
相馬先輩は少しだけ黙りました。
そして。
「……まあな」
と、小さく答えました。
私は笑いました。
昭和六十三年。
古い民法。
古い条文。
古い制度。
けれど。
その中にも、人が自分の人生を選ぶ自由を守る仕組みがありました。
私は鉛筆を置き、婚姻届の資料を手に取りました。
次の相談者にも。
きっと、守りたい生活があるのでしょう。
誰かと家族になりたい。
誰かと人生を歩みたい。
そんな願いを、法律の知識で支える。
それが、私たちの仕事です。
そして。
今日の教訓。
結婚は、他人から買い取る許可ではない。本人の意思と、法律が定める条件によって成立するものなのです。
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