[婚姻の基本]現場編 「後見人が許さなければ結婚できない」の嘘。花嫁の戸籍を人質にした叔父と、民法七百三十八条の逆襲
結婚とは、誰の許可をもらうものでしょうか。
父親でしょうか。
母親でしょうか。
それとも。
財産を管理している、親戚のおじさんでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一枚の婚姻届を前にして、考え込んでいました。
婚姻届。
人生で最も幸福な書類の一つ。
好きな人と、家族になる。
それを役所に届け出るための紙です。
ところが。
その紙一枚を出させないために、他人の人生を人質に取る男がいたのです。
しかも、その男は言いました。
「法律で決まっている。俺が許可しなければ、あの娘は結婚できない」
……なるほど。
法律ですか。
それなら。
こちらも法律で、お相手しましょう。
ただし。
私が最初に開いた民法は、三十八年ほど未来の民法だったのですが。
……また、やってしまいました。
◇
「私、結婚してはいけないんでしょうか」
朝九時。
事務所に入ってきた女性は、そう言いました。
二十七歳くらいでしょうか。
薄い水色のワンピース。
胸元には、小さな桜のブローチ。
両手で、白い封筒を握りしめています。
その隣には、作業服姿の男性。
こちらは二十九歳。
日に焼けた顔に、真面目そうな目。
「結婚したいんです。でも、彼女の叔父さんが許してくれなくて」
男性が頭を下げました。
「どうか、力を貸してください」
片桐所長が椅子を勧めました。
「お名前から伺いましょう」
「高瀬美咲です。二十七歳です」
「松岡修一です。二十九歳です」
二人は、来月の結婚を予定しているそうです。
修一さんは町工場の旋盤工。
美咲さんは近所の仕立屋で、ボタン付けや裾直しをしています。
出会ったのは四年前。
美咲さんが、修一さんの破れた作業服を直したのがきっかけでした。
「最初は、ボタン一つだったんです」
美咲さんが少し笑いました。
「修一さん、何度も服を破ってくるから」
「仕事が仕事だからな」
「でも、最後のほうは、破れてもいない服を持ってきたんですよ」
「おい、それは言わなくていいだろ」
修一さんが照れます。
私は思わず笑いました。
いいですね。
こういう話。
法律相談でなければ、ずっと聞いていたいくらいです。
けれど。
美咲さんの笑顔は、すぐに消えました。
「叔父が、結婚を認めないと言うんです」
「叔父さんが?」
「はい」
私は首をかしげました。
二十七歳。
成人しています。
親の同意も、叔父の同意も、原則として必要ありません。
「美咲さん。叔父さんは、どうして反対しているんですか?」
美咲さんは封筒を開きました。
中から出てきたのは、一通の通知書。
私は読みました。
――高瀬美咲の婚姻については、後見人高瀬源三の同意を必要とする。
――同意のない婚姻届の提出は認めない。
――なお、同意を希望する場合は、亡父所有の不動産について、所定の名義変更書類を提出すること。
……。
最後の一文。
何ですか、これ。
「名義変更?」
私が聞くと、修一さんが拳を握りました。
「美咲の父親が残した家です」
「お父様の?」
「はい。美咲の名義になっています」
美咲さんが小さく答えました。
「叔父は、その家を自分の名義にしたいんです」
私は通知書を見直しました。
後見人。
財産。
婚姻の同意。
そして、不動産の名義変更。
……嫌な予感しかしません。
「叔父さんは、具体的に何と言っているんですか?」
美咲さんはうつむきました。
「家を譲れば、結婚を許してやるって」
その瞬間。
相馬先輩の鉛筆が、ぴたりと止まりました。
「……何だと?」
「私の家を、叔父のものにする書類に判を押せば、婚姻届にも判を押してやるって」
私は思わず立ち上がりそうになりました。
ちょっと待ってください。
結婚したければ、家を差し出せ?
それはもう。
結婚のお祝いではなく、財産の取り立てです。
「美咲さん!」
「は、はい」
「家なんか渡す必要ありません!」
私は勢いよく言いました。
「成年者の婚姻に、親族の同意は不要です!」
よし。
今回は簡単です。
民法七百三十一条。
婚姻適齢。
男女とも十八歳以上。
美咲さんは二十七歳。
修一さんは二十九歳。
当然、年齢の条件を満たしています。
しかも!
「成年被後見人の婚姻には、成年後見人の同意は不要なんです!」
私は胸を張りました。
「民法七百三十八条です!」
相馬先輩が顔を上げました。
「……何?」
「七百三十八条です!」
「いや、条文番号じゃねえ」
「はい?」
「今、何て言った?」
「成年被後見人です」
「……せいねん、ひこうけんにん?」
先輩は怪訝な顔をしました。
そして、机の上の六法を開きました。
「こはる」
「はい!」
「お前、また妙な言葉を使ったな」
……あ。
しまった。
この感覚。
最近、何度も味わっています。
現代の民法。
昭和の民法。
同じ法律なのに。
名前が違う。
制度が違う。
条文の中身まで違う。
「お前が言ってるのは、禁治産者のことか?」
相馬先輩が言いました。
「……きんちさんしゃ」
「そうだ」
出ました。
昭和の民法。
禁治産者。
現在の成年後見制度ができる前の、古い制度です。
先輩は六法を私の前に置きました。
「七百三十八条を読め」
「はい……」
私は条文を覗き込みました。
そこには。
――禁治産者が婚姻をするには、その後見人の同意を要しない。
と書かれていました。
私は目を瞬かせました。
「……あれ?」
「何だ」
「言葉は違うけど」
「ああ」
「結論は同じですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「禁治産者でも、結婚に後見人の同意はいらねえ」
私は美咲さんを見ました。
「ということは……」
「ただし」
片桐所長が口を開きました。
「先に確認することがある」
「何でしょう?」
「美咲さん。差し支えなければ、禁治産宣告を受けた事情を教えてください」
美咲さんは、しばらく黙っていました。
そして。
「十八歳のときです」
静かに話し始めました。
◇
九年前。
美咲さんは、重い病気を患いました。
長期間の入院。
意識がはっきりしない時期もあり、判断力が大きく損なわれたそうです。
そのころ、裁判所で禁治産宣告を受けました。
父親は既に亡くなっていました。
母親も、幼いころに他界しています。
そこで後見人となったのが、叔父の高瀬源三でした。
現在、五十三歳。
不動産の仲介や管理を営む男です。
「病気は、ずいぶん良くなりました」
美咲さんは言いました。
「でも、まだ難しい話が続くと、混乱してしまうことがあります」
私は頷きました。
「そうなんですね」
「仕事も、少しずつできるようになりました」
「はい」
「お金の計算も練習しています」
美咲さんは膝の上で手を握りました。
「でも、叔父はいつも言うんです」
その声が震えました。
「お前は一人じゃ何も決められない。結婚も、仕事も、住む場所も、全部俺が決めるんだって」
私は唇を噛みました。
……。
後見制度。
本来は、判断能力に問題を抱える人の財産や生活を守るための制度です。
その制度を盾にして。
本人の人生を、全部支配する。
そんなことが許されるのでしょうか。
「美咲さん」
片桐所長が静かに尋ねました。
「修一さんと結婚するというのは、どういうことだと思いますか」
美咲さんは顔を上げました。
「……家族になることです」
「はい」
「二人で、一緒に暮らすこと」
「はい」
「楽しいときだけじゃなくて、病気のときも助け合うことです」
所長は頷きました。
「修一さんは、あなたの財産を管理するために結婚したいと言っているのですか」
「違います」
美咲さんは、はっきり答えました。
「修一さんは、私の家なんかいらないって」
修一さんが頷きます。
「俺の給料は多くありません。でも、二人で暮らすだけなら何とかなります」
「……はい」
「美咲が病気になったら、俺が病院に連れていきます。俺が倒れたら、美咲が助けてくれるって言っています」
美咲さんが少し笑いました。
「お粥くらいなら、作れますから」
修一さんも笑いました。
私は胸が熱くなりました。
片桐所長は、さらに幾つか質問しました。
結婚すると生活がどう変わるか。
相手を夫として迎える意思があるか。
誰かに強制されていないか。
美咲さんは、自分の言葉で答えていきました。
所長は最後に、静かに言いました。
「分かりました。ただ、法律上の婚姻意思があるかどうかは大切な問題です。今日のお話だけで、すべてが証明されたと決めつけることはできません」
「……はい」
「ですが、禁治産宣告を受けているという事実だけで、結婚できないと決まるわけでもありません」
美咲さんの目が、大きくなりました。
「本当ですか?」
「本当です」
私は六法を握りしめました。
そうです。
ここが今回の急所。
婚姻は、本人の意思が大切。
後見人が決めることではない。
けれど。
後見人の同意が不要だからといって、本人に婚姻の意味を理解する力がなくてもよいわけではありません。
そのとき本人に、婚姻の意味を理解し、結婚する意思があること。
それが必要なのです。
「……なるほど」
私は呟きました。
財産の契約と、結婚。
同じ法律行為でも、同じようには扱えない。
ここに民法の面白さがあります。
そして。
その考え方を悪用している叔父には。
どうやら、法律を読み直してもらう必要がありそうでした。
◇
「馬鹿なことを言うな」
翌日。
高瀬不動産。
応接室に、男の怒鳴り声が響きました。
高瀬源三。
五十三歳。
太い金縁眼鏡。
高そうな背広。
机には、不動産の契約書が山積みになっています。
私と相馬先輩は、美咲さんたちに同行し、事情を確認しに来ていました。
美咲さん本人が、叔父に自分の意思を伝えたいと希望したのです。
「結婚したいだと?」
源三は鼻で笑いました。
「お前は禁治産者なんだぞ」
美咲さんの肩が震えます。
「……分かっています」
「分かっているなら、勝手なことをするな」
源三は修一さんを睨みました。
「お前もお前だ。うちの財産が目当てなんだろ」
「違います」
修一さんが答えました。
「俺は美咲と結婚したいだけです」
「だったら、家の名義を俺に移してからにしろ」
「どうしてですか」
「財産を守るためだ」
源三は胸を張りました。
「後見人の俺には、財産を守る義務がある」
……。
財産を守るために。
本人の家を、後見人自身の名義に移す?
ものすごい理屈です。
「源三さん」
私は思わず言いました。
「その不動産は、美咲さんのものですよね」
「そうだ」
「それを、どうして源三さんの名義にする必要があるんですか?」
「お前には関係ない」
「でも――」
「行政書士の見習いだか何だか知らんが、法律を知らんのか」
源三は机を叩きました。
「禁治産者の法律行為には、後見人が必要なんだ!」
私は言い返そうとしました。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が低い声で言いました。
「はい」
「聞くだけにしろ」
「……はい」
先輩は源三を見ました。
「確認ですが、婚姻そのものについても、後見人の同意が必要だというお考えですね」
「当たり前だ」
「その同意と引き換えに、不動産の名義変更を求めている」
「そうだ」
「分かりました」
相馬先輩は手帳を閉じました。
「確認は以上です」
源三が笑いました。
「何だ。もう帰るのか?」
「はい」
「結局、何もできないじゃないか」
……。
またです。
行政書士を舐めている人間の、典型的な反応。
「裁判でも何でもやればいい」
源三は椅子に深く座りました。
「どうせ、俺が後見人なんだ。あいつの財産も、結婚も、俺が決める」
相馬先輩は何も言いませんでした。
ただ。
帰り際に、一言だけ残しました。
「民法七百三十八条は、ご存じですか」
「何?」
「いえ。確認です」
そして。
私たちは店を出ました。
◇
「先輩!」
商店街を歩きながら、私は声を上げました。
「何であそこで反論しなかったんですか!」
「何をだ」
「七百三十八条ですよ!」
「知ってる」
「後見人の同意は不要なのに!」
「だから何だ」
「言ってやればよかったじゃないですか!」
相馬先輩は足を止めました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代理人として、財産の譲渡条件を争ったり、示談交渉を引き受けたりはできねえ」
「それは分かっています」
「分かってるなら、口喧嘩で勝とうとするな」
先輩は手帳を叩きました。
「相手が何を主張しているか、確認できた。それで十分だ」
「……はい」
「それに、俺たちが言い負かしても、婚姻届が受理されるわけじゃねえ」
「え?」
「婚姻は、どうやって成立する?」
私は即答しました。
「婚姻届です!」
「そうだ」
「民法七百三十九条!」
「よし」
先輩が頷きました。
「だったら、必要なのは何だ」
「……届出に必要な条件を、一つずつ確認すること」
「そうだ」
私は考えました。
婚姻適齢。
婚姻意思。
重婚でないこと。
法律で禁止された親族間の婚姻でないこと。
そして。
婚姻届。
「婚姻届には、当事者双方と成年の証人二人以上の署名が必要です」
「そうだな」
「……あ!」
「気づいたか」
「叔父さんが証人になる必要もありません!」
相馬先輩がにやりとしました。
「やっと分かったか」
そうです。
源三は、
「俺が判を押さなければ結婚できない」
と言っていました。
でも。
美咲さんは成人しています。
後見人の同意は不要。
証人も、叔父でなければならないという決まりはない。
本人たちが婚姻する意思を持ち、必要な要件を満たし、適法な届出をすればよい。
それなら。
「叔父さんの判なんて、最初から必要ないじゃないですか!」
「そういうことだ」
私は思わず笑いました。
恐ろしいですね。
知らない法律を盾にする人間は。
相手が、その法律を本当に調べるとは思っていないのです。
◇
事務所へ戻ると、片桐所長が六法と戸籍関係の資料を机に並べました。
「こはる。まず、婚姻の要件を確認しろ」
「はい!」
私は相談票を読み直しました。
美咲さん、二十七歳。
修一さん、二十九歳。
どちらも現在配偶者はいない。
二人の間に、婚姻が禁止されるような親族関係もない。
婚姻の意思については、美咲さん本人から確認した。
「問題は、禁治産宣告ですね」
「そうだ」
私は民法七百三十八条を開きました。
――禁治産者が婚姻をするには、その後見人の同意を要しない。
「これです!」
私は指差しました。
「源三さんの『許可が必要』という主張は、条文と反対です!」
「うん」
「なのに、あんなに偉そうに……」
「こはる」
所長が言いました。
「相手が間違っているからといって、こちらが何でも正しいとは限らん」
「……はい?」
「本人に婚姻意思があるかどうかを、慎重に確認する必要がある」
私は頷きました。
禁治産宣告。
財産管理について、本人を保護する制度。
しかし。
婚姻は、単純な財産取引ではありません。
本人の人格と生活そのものに関わる行為です。
だから、後見人の同意を一律に要求するのではなく、本人の意思を尊重する。
ただし。
婚姻の意味を理解できない状態なら、別の問題が生じる。
「美咲さんは、今日の質問にも、自分の言葉で答えていました」
「そうだな」
「でも、それだけで絶対に有効だと決めつけてはいけない」
「そうだ」
所長は頷きました。
「婚姻意思や判断能力に疑義が生じれば、事情に応じて慎重な確認が必要だ」
私はノートに書きました。
後見人の同意が不要。
ただし、本人の婚姻意思は必要。
……よし。
ここは絶対に混同してはいけません。
「次に、婚姻届です」
私は続けました。
「民法七百三十九条。婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることで効力が生じます」
「うん」
「つまり、婚約しただけでは法律上の夫婦にはならない」
「そうだ」
「式を挙げただけでも、法律上の婚姻が当然に成立するわけではない」
「そのとおり」
所長は机を指で軽く叩きました。
「では、届出の証人は?」
「成年者二人以上です!」
「源三である必要は?」
「ありません!」
私は勢いよく答えました。
相馬先輩が笑います。
「そこでやっと、叔父の判が不要だって分かったわけだ」
「先輩、さっきも言いましたよね!」
「二度言わねえと忘れるだろ」
「忘れません!」
……たぶん。
「ただし」
所長が言いました。
「婚姻届が受理されるまでは、法的な婚姻は成立しない。書類に署名しただけで安心するな」
「はい」
「そして、美咲さんの財産管理については、婚姻とは別に確認する必要がある」
私は頷きました。
そのとおりです。
結婚できることと。
後見人が管理している財産を、直ちに本人が自由に処分できること。
これは別問題。
結婚したら禁治産宣告が当然に消える、ということでもありません。
だからこそ。
源三が自分の財産にしようとしている家については、別の手当てが必要です。
「所長」
「何だ」
「婚姻の件と、不動産の件を分けるんですね」
「そうだ」
「源三さんは、わざと二つを一緒にしていた」
「その可能性が高い」
相馬先輩が腕を組みました。
「結婚するなら家をよこせ、ってな」
「ひどい話です」
「だが、切り離してみろ」
「はい」
「結婚の許可という切り札は、そもそも持ってねえ」
私は思わず笑いました。
そうです。
源三は、持っていない権限を売ろうとしていたのです。
しかも。
代金は、家一軒。
……高すぎるにもほどがあります。
◇
その日の午後。
私たちは、美咲さん本人から依頼を受けた通知書の原案を作成しました。
美咲さんの意思を確認し、内容を一つずつ読み上げます。
難しい言葉は、できるだけ分かりやすく説明しました。
「美咲さん。この書面は、あなたが叔父さんに結婚の許可をお願いするものではありません」
「……はい」
「あなたの意思と、法律上の立場を明確に伝えるものです」
美咲さんは頷きました。
「私、ちゃんと伝えたいです」
「何をですか?」
「修一さんと、結婚したいって」
私は頷きました。
「分かりました」
相馬先輩が原案を取り上げます。
「こはる。読め」
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
宛先。
高瀬源三。
差出人。
高瀬美咲。
――通知書。
第一。
通知人は、松岡修一との婚姻を希望しており、その意思を自ら表明している。
第二。
貴殿は、通知人が禁治産宣告を受けていることを理由として、婚姻には後見人の同意を要すると主張している。
第三。
しかし、民法第七百三十八条は、禁治産者の婚姻について、後見人の同意を要しない旨を明確に定めている。
第四。
婚姻は、民法第七百三十九条に基づく適法な届出によって効力を生じるものであり、後見人の同意を婚姻成立の一般的要件とするものではない。
第五。
通知人は、婚姻の同意と引き換えに自己所有不動産の名義を貴殿へ移転するとの提案には応じない。
第六。
通知人の財産管理に関する問題は、婚姻の成立要件とは区別されるべきものである。
私は息を吸いました。
最後の一文。
――なお、通知人の意思に反する財産処分その他の行為が確認された場合には、関係資料を整理したうえで、家庭裁判所への相談及び弁護士による適切な法的措置を検討する。
読み終わりました。
しん、と静まり返る事務所。
「……どうでしょう」
相馬先輩は黙って紙を見ています。
片桐所長も、しばらく何も言いませんでした。
そして。
「悪くない」
所長が言いました。
「本当ですか!」
「ただし、直すところがある」
……ですよね。
所長は赤鉛筆を取りました。
「ここ。『本人に完全な婚姻能力がある』という断定は削れ」
「あっ、はい」
「判断能力については、具体的な事情と資料を積み重ねる。安易に保証するものではない」
「はい」
「それから、財産処分の違法性も、現時点で断定するな。後見人がどんな行為をしたか、登記や資料で確認する必要がある」
「はい」
私は赤線の入った原案を見つめました。
勢いだけでは駄目。
怒りだけでも駄目。
法律の書面は、相手を罵倒するためのものではありません。
相手が逃げられないほど、事実と法理を正確に並べるものなのです。
「でも、所長」
「何だ」
「源三さんには、かなり効きそうですね」
片桐所長は静かに言いました。
「相手に効くかどうかは、相手が決める」
「……はい」
「こちらは、正しい書面を作るだけだ」
私は頷きました。
その後、通知の内容を本人と確認し、美咲さん名義で内容証明郵便を発送する準備を整えました。
同時に。
美咲さんの病状の経過や生活状況について、本人の了解を得たうえで必要な資料を整理。
婚姻意思の確認に慎重を期すため、これまでの診療先にも相談するよう案内しました。
戸籍窓口には、禁治産宣告を受けている場合の婚姻届の取扱いと必要書類について確認。
婚姻意思に疑義が生じた場合の対応についても、事前に相談することにしました。
そして。
婚姻届の証人には、修一さんの職場の上司と、二人を昔から知る仕立屋の店主が協力してくれることになりました。
もちろん、二人とも成年者です。
叔父の源三は。
必要ありません。
「先輩」
「何だ」
「これ、すごく気持ちいいですね」
「何がだ」
「叔父さんが絶対必要だって言っていた判子が」
「ああ」
「最初から、いらなかったんですから」
相馬先輩が笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「でも今回は、叔父さんのハンコはいらないんですよね?」
「……そうだな」
先輩は少し考えました。
「じゃあ、訂正だ」
「はい?」
「必要のねえハンコを、押させようとする奴に騙されるな」
私は吹き出しました。
それ。
今日の教訓として、かなりいいかもしれません。
◇
三日後。
高瀬不動産に、内容証明郵便が届きました。
源三は封筒を開きました。
最初は、いつもの調子だったそうです。
「何だ、またくだらん手紙か」
ところが。
民法第七百三十八条。
その文字を見た瞬間。
源三の顔色が変わりました。
翌日。
源三は知り合いの弁護士に電話しました。
「先生、禁治産者が結婚するには、後見人の許可がいるんでしょう?」
電話の向こうから、返事がありました。
『いいえ』
「……は?」
『民法七百三十八条に、後見人の同意は不要とあります』
「いや、でも、財産を管理しているのは私ですよ!」
『財産管理の問題と、婚姻の同意の問題は別です』
「……」
『ただし、本人に婚姻意思を形成する能力があるかどうかは、別途問題になります』
「そ、それは……」
『それから、通知書にある不動産の話ですが』
「……はい」
『婚姻への同意と引き換えに、本人の不動産をあなたの名義に移すというのは、どういう事情ですか』
「いや、その……」
『後見人と本人との利益が対立する取引なら、非常に慎重な検討が必要です。あなたが自由に自分の名義にできるものではありません』
「……」
『裁判所での後見人の適格性にも関わり得ます。実際にどのような管理をしてきたのか、資料を確認する必要がありますね』
源三は受話器を握りしめました。
背中に、冷たい汗。
婚姻の許可権。
あると思っていた。
自分にしか決められないと思っていた。
だから。
家を譲らせる条件にした。
ところが。
その許可権そのものが、なかった。
しかも。
婚姻を人質に取ったことで、今度は自分の財産管理のほうが調べられるかもしれない。
源三は、ようやく気づいたのです。
法律を盾にしていたつもりが。
法律に、背後から肩を叩かれていたことに。
◇
その日の夕方。
事務所に電話が入りました。
「片桐行政書士事務所です」
『……高瀬だ』
低い声。
源三でした。
「はい」
『あの、通知書の件だが……』
私が所長に受話器を渡すと、源三は妙に小さな声で話し始めました。
『弁護士に確認した』
「そうですか」
『……婚姻に、私の同意はいらないそうだな』
「民法七百三十八条の規定は、そのとおりです」
『……』
沈黙。
それから。
『家の名義変更の話は、取り下げる』
私は思わず顔を上げました。
所長は表情を変えません。
「その件は、美咲さんご本人に書面で伝えてください」
『分かった』
『それから……』
源三は少し間を置きました。
『結婚は、もう止めない』
所長は静かに答えました。
「婚姻するかどうかは、法律上の要件を満たすことを前提として、ご本人たちが決めることです」
『……ああ』
「なお、財産管理についての問題は別に残ります。その点については、必要な確認を続けることになります」
『分かった……』
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「源三さん、折れましたね!」
「ああ」
「結婚を止めないって!」
「そうだな」
私は思わず拳を握りました。
でも。
相馬先輩が言いました。
「こはる。まだ終わってねえぞ」
「……はい?」
「婚姻届は受理されたのか?」
「あ」
「まだだろ」
「……はい」
「だったら、勝った勝ったと騒ぐな」
私は頷きました。
そうでした。
民法七百三十九条。
婚姻は、届出によって効力を生じる。
いくら叔父が折れても。
いくら結婚する気持ちが固まっていても。
法律上の要件を満たした婚姻届が受理されなければ、夫婦にはなれません。
「所長」
「何だ」
「最後まで確認します」
「そうしろ」
片桐所長が頷きました。
そして。
「もう一つ」
「はい?」
「美咲さんの家の件は、必要な登記資料を取り寄せ、後見人の財産管理状況について弁護士につなぐ」
「はい」
「婚姻できたからといって、財産の問題が全部解決するわけではない」
「分かりました!」
そうです。
法律は、一つ解決したら終わりではありません。
守るべきものが、まだ残っているのです。
◇
二週間後。
片桐行政書士事務所に、一枚の写真が届きました。
神社の境内。
小さな白い花束。
紺色の背広を着た修一さん。
そして。
淡いピンク色のワンピースを着た美咲さん。
二人とも、少し緊張した顔です。
でも。
幸せそうでした。
写真と一緒に、一通の手紙。
――婚姻届が受理されました。
――私たち、夫婦になれました。
私は思わず声を上げました。
「所長!」
「何だ」
「受理されたそうです!」
片桐所長が顔を上げます。
「そうか」
「はい!」
美咲さんたちは、事前に戸籍窓口へ相談し、必要な確認を進めていました。
美咲さんの婚姻意思についても、本人の受け答えや生活の状況などが慎重に確認されました。
そして。
必要な書類を整え、二人の意思に基づいて婚姻届を提出。
正式に受理されたのです。
叔父の源三は、証人にもなっていません。
婚姻への同意書も出していません。
そもそも。
必要なかったのです。
「よかったですね……!」
私は写真を見つめました。
すると、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「その写真、裏も見ろ」
「え?」
私は裏返しました。
そこには、美咲さんの字で。
――私、自分で選んだ人と、家族になれました。
と書かれていました。
私は、しばらく何も言えませんでした。
自分で選んだ人。
家族になれた。
その言葉が、胸に残りました。
禁治産者。
後見人。
法律の用語は難しくて、古めかしい。
そして、ときには冷たく聞こえます。
でも。
民法七百三十八条。
その短い条文は。
財産の管理を他人に委ねているからといって、人生の伴侶まで他人に選ばせる必要はない。
そういう大切な考え方を、守っていたのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が机に一枚の相談票を置きました。
「はい?」
「次の相談だ」
「何でしょう」
「結婚関係だ」
「またですか!」
私は相談票を覗きました。
そこには。
――十七歳女性。婚姻希望。父親が反対。
と書かれていました。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
十七歳。
婚姻。
確か。
現代の民法では、男女とも十八歳。
「先輩!」
「何だ」
「十七歳は、結婚できません!」
「……は?」
「民法七百三十一条です!」
相馬先輩が、ゆっくり六法を開きました。
そして。
私の目の前に置きました。
「読め」
「はい?」
私は条文を読みました。
――男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。
……。
私は固まりました。
「……女は、十六歳?」
「そうだ」
「男は十八歳?」
「そうだ」
「……違うんですか?」
「何とだ」
未来の民法です。
言えません。
「こはる」
「はい……」
「昭和六十三年だぞ」
「はい……」
「十七歳の女は、年齢だけなら婚姻できる」
「……はい」
「ただし、未成年者だから父母の同意が問題になる」
「……はい」
先輩は続けました。
「父母の一方が同意しない場合でも、他方の同意があれば足りる。七百三十七条だ」
私は机に突っ伏しました。
「……また法律が違う」
「何だって?」
「何でもありません!」
現代と昭和。
民法の婚姻制度。
想像以上に違います。
それだけではありませんでした。
「もう一件あるぞ」
相馬先輩が別の相談票を見せます。
――離婚後二か月の女性。再婚希望。
「これもですか!」
「ああ」
「でも、今の法律なら再婚禁止期間は廃止されていますし……」
「何?」
しまった。
また言ってしまいました。
相馬先輩が六法を開きます。
「こはる」
「はい……」
「七百三十三条」
「はい……」
「この時代、女の再婚禁止期間は六箇月だ」
「六か月!」
私は思わず叫びました。
「ひゃ、百日じゃないんですか!」
「百日? 何を言ってる」
「……何でもありません!」
そうでした。
昭和六十三年。
当時の民法では、原則として女性の再婚禁止期間は六か月。
後の改正で百日となり、さらに現代では廃止される制度です。
しかも、当時の例外は現在の古い教材にある規定と同じではありません。
……。
危ない。
危なすぎます。
私は六法を抱えました。
「先輩」
「何だ」
「民法って、同じ条文番号でも時代によって中身が違うんですね」
「当たり前だろ」
「でも、七百三十八条は、名前が変わっても考え方が残っている」
「ああ」
「七百三十一条は年齢が違う」
「そうだ」
「七百三十三条は、再婚禁止期間が違う」
「そうだな」
「七百三十九条は、届出によって婚姻が成立する」
「そこは変わらねえ」
私は大きく息を吐きました。
「……すごいですね」
「何がだ」
「婚姻って、一枚の届出だけで終わる話じゃないんですね」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
誰が結婚できるのか。
何歳から結婚できるのか。
本人の意思はあるのか。
他人の同意が必要なのか。
法律が婚姻を禁止している関係ではないか。
そして、必要な届出がされているか。
それらを、一つずつ確認する。
民法は、単に「好きなら結婚していい」と書いているわけではありません。
けれど。
だからといって。
他人が、好き勝手に結婚を支配してよいとも書いていないのです。
◇
夕方。
私は、美咲さんたちの写真をもう一度見ました。
修一さんの背広。
美咲さんの花束。
そして。
写真の裏の、あの言葉。
――私、自分で選んだ人と、家族になれました。
「所長」
「何だ」
「今日、ひとつ分かりました」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「言ってみろ」
「後見人が財産を管理しているからといって、結婚まで許可する立場になるわけじゃない」
「うん」
「でも、本人に結婚する意思があることは必要」
「そうだ」
「それから、婚姻は届出によって成立する」
「うん」
「そして、結婚できることと、財産管理の問題は別」
所長は頷きました。
「よし」
私は少し考えました。
「……それと」
「何だ」
「婚姻届のハンコって、誰でも押せばいいわけじゃないんですね」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「でも、今回の叔父さんは、自分のハンコが絶対に必要だと思わせていた」
「ああ」
「本当は必要ないのに」
「そうだな」
私は写真を机に置きました。
法律を知らない人を騙す方法は、いろいろあります。
難しい言葉を使う。
偉そうに怒鳴る。
契約書を見せる。
後見人だからと威張る。
そして。
「俺の許可がなければ、何もできない」
と言う。
けれど。
本当に法律を調べてみれば。
その人には、最初からそんな権限がないこともあるのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「源三さん、あんなに偉そうだったのに、最後は静かでしたね」
「そうだな」
「何が一番効いたんでしょう」
先輩は少し考えました。
そして。
「自分の言うことが法律じゃねえって、分かったんだろ」
短く言いました。
私は頷きました。
そうかもしれません。
法律は。
声の大きな人の味方ではありません。
財産を持つ人の味方でもありません。
後見人という肩書のある人を、何でも正しいことにする制度でもありません。
それぞれの人に。
守るべき権利がある。
その権利を、他人が勝手に奪わないようにする。
民法には、そういう役割があるのです。
私はノートの最後に、一行を書きました。
――婚姻は本人の意思と法律上の要件で決まり、後見人の許可で決まるものではない。
よし。
今日の教訓。
これなら、忘れません。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「次の相談票、整理したか?」
「今からです!」
「十七歳の婚姻の件は?」
「昭和六十三年は女性十六歳、男性十八歳から!」
「よし」
「未成年者なので父母の同意も確認!」
「よし」
「禁治産者の婚姻は後見人の同意不要!」
「よし」
「ただし、本人の婚姻意思は必要!」
「そうだ」
「婚姻は届出によって効力が発生!」
「よし!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「先輩!」
「何だ!」
「今日の私、完璧じゃないですか!」
相馬先輩は、もう一枚の相談票を差し出しました。
「じゃあ、最後に問題だ」
「はい!」
「養親と養子が離縁したら、結婚できるか?」
「……え?」
私は固まりました。
養親。
養子。
離縁。
親族関係が終わる。
だったら。
……いや、待ってください。
確か。
民法七百三十六条。
私は慌てて六法を開きました。
「……できません!」
「正解」
「養親子等の間の婚姻は禁止! 離縁して親族関係が終了しても駄目!」
「そうだ」
先輩がにやりとしました。
「じゃあ、元の配偶者の父親とは?」
「……ええっ!」
「離婚したら姻族関係は終了するよな?」
「そ、それは……」
私は再び六法をめくりました。
民法七百三十五条。
直系姻族間の婚姻禁止。
姻族関係が終了した後も、婚姻できない。
「できません!」
「正解」
「先輩!」
「何だ」
「婚姻の基本って、全然基本じゃないですね!」
相馬先輩が笑いました。
「基本ってのは、簡単って意味じゃねえよ」
「……確かに」
私はノートを閉じました。
窓の外。
夕暮れの町に、明かりが灯り始めています。
あのどこかで。
美咲さんと修一さんは、今日も一緒に夕飯を食べているのでしょう。
豪華な料理ではないかもしれません。
大きな家でもないかもしれません。
それでも。
二人が自分たちの意思で選んだ暮らしです。
誰かの許可を買うために、家を差し出す必要なんてありません。
結婚とは。
財産を奪うための取引ではない。
人が、自分の人生を誰と歩むか。
その選択を、法律上の夫婦という形にすることなのです。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「私、今日の民法七百三十八条、好きになりました!」
「また条文に惚れたのか」
「だって、素敵じゃないですか!」
「何がだ」
「財産の管理を任せていても、好きな人まで他人に決められなくていいんですよ!」
先輩は少しだけ黙りました。
そして。
「……まあな」
と答えました。
私は笑いました。
昭和六十三年。
古い民法。
古い言葉。
禁治産者という、今では使われなくなった制度。
けれど。
その七百三十八条には、時代を超えて受け継がれる大切な考え方がありました。
誰かを守るための制度が。
その人の幸せを奪う道具になってはいけない。
私は、美咲さんたちの写真をそっと封筒に戻しました。
そして、最後にもう一度、ノートの一行を読みました。
――婚姻は本人の意思と法律上の要件で決まり、後見人の許可で決まるものではない。
法律は。
人を縛るためだけにあるのではありません。
誰かに奪われそうになった人生を。
その人自身の手に、取り戻すためにもあるのです。
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