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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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546/701

[民法・工作物責任]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 塀が崩れたとき、責任まで一緒に崩れてなくなるわけではありません。


 家を借りている人。


 家を持っている人。


 塀を工事した人。


 そして。


 何も知らずに、その前を歩いていた人。


 事故が起きたとき、民法は誰に責任を負わせるのでしょうか。


 答えは。


 単純に「悪いことをした人」だけではありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・民法編。


「……民法って、不思議ですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また始まったな」


「まだ何も言ってません!」


「お前が『不思議ですよね』って言うときは、面倒な質問が始まるんだよ」


「失礼ですね!」


「で、今日は何だ」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――民法第七百十七条。


 ――工作物責任。


「今日は、塀が崩れた事件の復習です!」


「ああ。高橋さんの娘さんの件か」


「はい!」


 私は、あの事故を思い出しました。


 小学六年生の美香ちゃん。


 学校から帰る途中、古いブロック塀が倒れてきた。


 右腕を骨折。


 治療費もかかり、学校生活にも支障が出た。


 ところが。


 借家人の木村さんは、


「俺は塀の持ち主じゃない」


 と言い。


 大家の長谷川剛三は、


「住んでいる奴が管理する約束だ」


 と言い。


 さらに。


「工事が悪かったなら、大黒建設に言え」


 と、責任を押しつけようとした。


 でも。


 民法七百十七条に基づく事実関係を整理し、内容証明郵便を送ったことで、長谷川は態度を変えました。


 最終的には、弁護士を通じて賠償の合意が成立したのです。


「先輩」


「何だ」


「最初、全員が逃げようとしていましたよね」


「ああ」


「でも、七百十七条を読むと、責任を考える順番が決まっていたんです」


「そうだ」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、その順番を完全に覚えます!」


「よし」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「じゃあ、昨日の事件を最初から説明してみろ」


「任せてください!」


 こうして。


 片桐行政書士事務所の、夕方の民法勉強会が始まりました。


 ◇


「まず、工作物責任とは何かです」


 私はノートに書きました。


 ――土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があり、それによって他人に損害が生じた場合に、占有者または所有者が負う損害賠償責任。


「長いな」


 相馬先輩が言いました。


「法律ですから!」


「もっと簡単に言え」


「ええと……」


 私は少し考えました。


「危ない状態の塀や建物などが原因で人に損害が出たら、その管理や所有に関わる人が責任を負う制度です」


「まあ、そんなところだ」


 私は頷きました。


 工作物。


 耳慣れない言葉です。


「先輩、工作物って、図工で作る工作とは違いますよね?」


「当たり前だろ」


「ですよね!」


「紙で作った風車に七百十七条を使うつもりか」


「使いません!」


 工作物とは、土地に接着して人工的に設置された物などをいいます。


 建物。


 塀。


 門。


 擁壁。


 橋。


 そうしたものが典型例です。


 もちろん、何でも工作物になるわけではありません。


 土地との関係や構造などを見て判断します。


「今回のブロック塀は?」


「工作物ですね!」


「そうだ」


 私はノートに丸をつけました。


 ここまでは簡単。


 でも。


 本当に大切なのは、次の言葉でした。


 ――設置又は保存の瑕疵。


「瑕疵……」


 私は呟きました。


「どうした」


「昭和の民法って、この言葉が大好きですよね」


「何だ、その言い方は」


「だって、瑕疵担保責任にも出てきますし」


「そりゃ、法律用語だからな」


 私は苦笑しました。


 瑕疵。


 日常生活では、あまり使わない言葉です。


 でも。


 ここでいう瑕疵とは、単に見た目が悪いという意味ではありません。


 その工作物が通常備えるべき安全性を欠いていること。


 それが問題になるのです。


「先輩、例えば新品の塀でも、作り方が悪くて簡単に倒れるなら?」


「設置の瑕疵が問題になるな」


「では、最初は安全だったけど、何十年も放置して危険になったら?」


「保存の瑕疵だ」


 私は二重線を引きました。


 設置の瑕疵。


 最初から、必要な安全性に問題がある。


 保存の瑕疵。


 その後の維持管理によって、必要な安全性が失われている。


「今回の塀は?」


 相馬先輩が聞きました。


「事故前から亀裂や傾きがありました」


「うん」


「鉄筋の腐食も疑われていました」


「そうだ」


「だから、通常備えるべき安全性を欠いていたと評価する根拠があったんです」


「正解」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


「ただし!」


 自分で言いました。


 先輩が顔をしかめます。


「何だよ」


「塀が倒れたからといって、必ず瑕疵があるとは限りません!」


「そうだ」


 例えば。


 通常想定される風雨に耐えられるよう、適切に設置・管理されていた塀。


 そこへ、想定を大きく超える異常な自然現象が起きた。


 その結果、倒壊した。


 そういう場合には、工作物が通常備えるべき安全性を欠いていたといえるか、慎重に判断する必要があります。


「つまり」


 私は言いました。


「事故が起きたという結果だけで、七百十七条の責任が自動的に決まるわけではありません」


「うん」


「瑕疵があったことと、その瑕疵によって損害が生じたことが必要です」


「そこだ」


 片桐所長が、奥から静かに言いました。


「結果と原因を混同するな」


「はい!」


「塀が倒れた。だから瑕疵があった。そう短絡するな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 法律は、壊れた物を見ているだけではない。


 なぜ壊れたのか。


 どういう危険があったのか。


 その危険が、損害につながったのか。


 そこまで確認するのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「次が本題だ」


「はい!」


「今回、誰が責任を負う?」


 私は勢いよく答えました。


「長谷川さんです!」


「不正解」


「ええっ!」


「結果だけ言うな」


 私は固まりました。


 ……そうでした。


 今回の事件では、最終的に所有者が賠償しました。


 でも。


 民法七百十七条の仕組みは、そこから始まるわけではありません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「条文の最初を読め」


「はい」


 私は六法を開きました。


 民法七百十七条第一項。


 土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があることによって他人に損害を生じたときは、その工作物の占有者は、被害者に対してその損害を賠償する責任を負う。


「……占有者です」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――第一次的責任は、占有者。


 相馬先輩が頷きました。


「今回の占有者は?」


「借家人の木村さんです」


「どうしてそう考えた?」


「塀を含む貸家敷地を、普段から使用・管理していたからです」


「そうだ。ただし、そこも具体的な管理支配の状況を確認する必要がある」


「はい」


 所有者と占有者。


 この違いが重要です。


 所有者とは、物を所有している人。


 占有者とは、実際にその物を支配している人。


 もちろん。


 所有者自身が占有者である場合もあります。


 自分の家に自分で住んでいる場合などです。


 でも。


 貸家なら、所有者と占有者が別になることがあります。


「今回の場合、所有者は長谷川さん」


「うん」


「占有者は木村さん」


「そうだ」


「そして被害者は美香ちゃん」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 長谷川剛三。


 木村。


 高橋美香。


「でも、先輩」


「何だ」


「なんで最初に責任を負うのは、占有者なんですか?」


 相馬先輩は、少し考えました。


「普段、その物を管理しているのは誰だ?」


「占有者です」


「危険に気づいて、日常的に対策を取れる立場にいることが多いのは?」


「占有者です」


「そういうことだ」


 なるほど。


 所有者は遠くに住んでいるかもしれません。


 賃貸物件なら、普段の状態を直接見ているのは借家人かもしれません。


 だから。


 工作物を現実に管理している占有者に、まず責任を負わせる仕組みになっている。


「でも、占有者に全部押しつけるわけじゃないんですよね」


「そうだ」


 そこで登場するのが。


 あの、ただし書。


 私は赤鉛筆を取りました。


 ◇


「ただし!」


 私は声に出しました。


 相馬先輩が顔を上げました。


「急に何だ」


「民法七百十七条第一項ただし書です!」


「普通に読め」


「はい……」


 私は咳払いをしました。


 ――ただし、占有者が損害の発生を防止するのに必要な注意をしたときは、所有者がその損害を賠償しなければならない。


 私は大きく丸をつけました。


「ここです!」


「ああ」


「占有者が必要な注意を尽くした場合、免責されるんです」


「そうだ」


 今回の木村さん。


 古い塀に、大きなひび割れがあった。


 道路側に傾いていた。


 だから大家へ修理をお願いした。


 一度ではありません。


 二度も。


 しかも、書面で。


 そして。


 町内会へ注意を呼びかけ、赤い紐で危険箇所を示した。


「先輩、これだけしていれば、絶対に免責されるんですか?」


「絶対とは言えねえ」


「ですよね」


「もっと安全な措置が取れなかったか。危険の程度に対して注意が足りていたか。具体的に見なきゃならねえ」


 私は頷きました。


 ここが、試験でも実務でも大切なところです。


 単に、


「大家に連絡しました」


 と言えば免責。


 そういうわけではありません。


 その工作物の危険性や、占有者にできたことを考えます。


「でも今回、木村さんが必要な注意を尽くしたと評価する根拠は、かなりありました」


「ああ」


「それで所有者の責任が問題になったんですね」


「そうだ」


 私は、ノートに大きく矢印を書きました。


 占有者。


 ↓


 必要な注意を尽くした?


 ↓


 尽くしていなければ、占有者が責任を負う。


 ↓


 尽くしていれば、所有者が責任を負う。


「なるほど!」


 私は手を叩きました。


「順番に考えるんですね!」


「そうだ」


「いきなり所有者に飛びついちゃ駄目なんです!」


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、もう一問」


「はい!」


「木村が危険な塀を知っていたのに、何もしなかったら?」


「占有者として責任を負う可能性が高いです!」


「では、その場合、七百十七条第一項ただし書を使って、長谷川に責任が移るか?」


「いいえ。木村さんが必要な注意を尽くしたとはいえませんから」


「よし」


 私は得意になりました。


 でも。


 片桐所長が、そこで口を開きました。


「こはる」


「はい」


「占有者と所有者が同じ人だったら?」


「え?」


 私は少し考えました。


 自分の家。


 自分の塀。


 自分で管理。


 この場合。


「同じ人が所有者でもあり、占有者でもあります」


「そうだ」


「占有者として必要な注意を尽くしていたとしても、所有者としての責任が問題になります」


 所長が頷きました。


「つまり?」


「注意したから必ず免責、とは言えません!」


「そうだ」


 なるほど。


 所有者と占有者の区別は、単に名前の違いではない。


 責任の性質が違うのです。


 ◇


「では、ここで最大の論点です」


 私はノートの中央に、大きく書きました。


 ――無過失責任。


 相馬先輩が頷きました。


「来たな」


「はい!」


 私は、あの長谷川剛三の顔を思い出しました。


 高そうな腕時計。


 偉そうな態度。


 そして。


「俺は悪くない!」


「知らなかった!」


「修理するつもりだった!」


 ……。


 ずいぶん自信満々でしたね。


「でも、先輩」


「何だ」


「普通の不法行為責任って、故意や過失が重要ですよね?」


「そうだ」


 民法七百九条。


 一般不法行為責任。


 原則として、故意または過失が問題になります。


 でも。


 工作物責任は、少し違う。


「まず、占有者です」


 私は書きました。


 占有者には、損害防止に必要な注意をしたことによる免責が認められる。


「つまり、占有者の責任は、注意を尽くしたかどうかが重要なんですね」


「そうだ」


「では、所有者は?」


 私は一呼吸置きました。


「無過失責任です!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 所有者は、占有者が必要な注意を尽くして免責される場合、工作物の瑕疵によって生じた損害について、過失がないことだけを理由に免責されることはできません。


 知らなかった。


 気づかなかった。


 自分は何もしていない。


 そうした主張だけでは、責任を免れられないのです。


「……恐ろしい」


 私は呟きました。


「何がだ」


「所有者にとっては、かなり重い責任ですよね」


「そうだな」


「でも、被害者にとっては大切です」


 私は美香ちゃんを思い出しました。


 通学路を歩いていた。


 突然、塀が崩れた。


 骨折した。


 それなのに。


 被害者が、


「所有者が危険を知っていたか」


「修理する意思があったか」


「過失がどこにあったか」


 それらを全部明らかにできなければ救済されないとしたら。


 あまりに酷です。


「だから、特別な責任の仕組みがあるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「工作物は、それ自体が危険を生じさせることがある」


「はい」


「そして、その危険を生じさせる物を所有する者には、一定の責任を負わせる必要がある」


 私は書きました。


 ――所有者の無過失責任は、被害者保護のための重要な仕組み。


 でも。


「先輩、無過失責任ってことは、どんな事故でも所有者が払うんですか?」


「違う」


 相馬先輩が即答しました。


「瑕疵が必要だ」


「あっ!」


「瑕疵によって損害が生じたことも必要だ」


「はい!」


「無過失責任と、無条件の責任は違う」


 私は赤線を引きました。


 これは重要です。


 所有者の無過失責任。


 だからといって。


 瑕疵の存在も。


 因果関係も。


 不要になるわけではありません。


「つまり」


 私は言いました。


「無過失責任とは、過失がなくても責任を負うということ。瑕疵や因果関係を調べなくていい、という意味ではないんですね」


「そのとおり」


 よし。


 覚えました。


 ◇


「ところで、先輩」


「何だ」


「今回、長谷川さんは工事業者の名前も出していましたよね」


「ああ。大黒建設だな」


 私はノートに書きました。


 ――民法七百十七条第三項。


 ――求償権。


「この求償って、少し分かりにくいですよね」


「そうか?」


「だって、被害者への賠償と、工事業者への請求が別なんですから」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、整理してみろ」


「はい!」


 私は、三人の名前を書きました。


 被害者。


 所有者。


 工事業者。


「仮に、大黒建設の施工不良が事故の原因だったとします」


「うん」


「でも、占有者が必要な注意を尽くしていたなら、所有者の長谷川さんが民法七百十七条に基づいて賠償責任を負います」


「そうだ」


「その後、施工不良について大黒建設にも法的責任があると認められるなら、長谷川さんは大黒建設に求償できる場合があります」


「正解」


 私は嬉しくなりました。


 そして。


「つまり!」


 私は声を上げました。


「被害者への責任を果たす話と、最終的に誰が損害を負担するかという話は、分けて考えるんですね!」


「そうだ」


 例えば。


 所有者が百万円を賠償した。


 その事故の原因について、工事業者にも責任があると分かった。


 この場合。


 所有者は、責任関係に応じて工事業者へ負担を求めることが考えられます。


 ただし、求償の範囲が常に賠償額の全額になるとは限りません。


 具体的な責任の内容や原因への関与などが問題になります。


「先輩、じゃあ工事業者が何も悪くなかったら?」


「求償の前提になる責任がねえだろ」


「ですよね!」


 私はノートに書きました。


 ――工事しただけでは、当然に求償できるわけではない。


 ――事故原因について、第三者にも法的責任が必要。


「今回、長谷川さんは最初から工事業者へ責任を押しつけていました」


「ああ」


「でも、それで美香ちゃんへの責任が消えるわけではなかった」


「そうだ」


「だから、まず被害者への賠償を考え、そのうえで別の責任者への求償を検討するんですね」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと分かったか」


「分かりました!」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――賠償と求償は、別の問題。


 ◇


「さて」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「第二項も忘れるな」


「あ、はい!」


 私は六法を開きました。


 民法七百十七条第二項。


 ――前項の規定は、竹木の栽植又は支持に瑕疵がある場合について準用する。


「竹木です!」


 私は言いました。


「そうだ」


 土地の工作物だけではありません。


 竹や木についても、その植え方や支え方などに瑕疵があって他人に損害を与えた場合、同じ責任の仕組みが準用されます。


「例えば」


 私は考えました。


「庭の大木が、支えを失って道路へ倒れてきた場合ですか?」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「ただし、その木にどんな瑕疵があったか、きちんと確認しろよ」


「はい!」


 例えば。


 木が大きく傾いている。


 支柱が腐っている。


 根元の状態が危険。


 そうした事情があって、必要な安全性が保たれていない。


 その結果、木が倒れて通行人に損害が生じた。


 そんな場合に、七百十七条第二項が問題になります。


「先輩、竹木の責任も、基本的には占有者と所有者の順番を考えるんですね」


「そうだ」


「だから第二項は、第一項を準用するんですね」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 なるほど。


 条文は三項までありますが、それぞれ役割が違います。


 第一項。


 土地の工作物の瑕疵による責任。


 第二項。


 竹木の栽植または支持の瑕疵への準用。


 第三項。


 ほかに責任を負う者がいる場合の求償。


「これで、七百十七条が全部つながりました!」


 私は嬉しくなりました。


 相馬先輩は笑いました。


「じゃあ、確認問題だ」


「はい!」


「古い木が倒れて通行人がケガをした。ただ、それだけで所有者の責任が決まるか?」


「決まりません!」


「なぜだ」


「栽植や支持に瑕疵があったこと、その瑕疵によって損害が生じたことなどを確認する必要があるからです!」


「よし」


「では、その木を管理していた占有者が、必要な注意を尽くしていたら?」


「所有者が責任を負う場合があります!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 よし。


 もう迷いません。


 ◇


「ところで」


 私は、ふと疑問を覚えました。


「先輩」


「何だ」


「この七百十七条って、現代でもほとんど同じなんですよね」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「現代?」


「あ、いえ!」


 しまった。


 また未来の話です。


 でも。


 今回は、少しだけ言いたいことがあります。


「民法って、大改正でいろいろ変わりましたよね」


「また妙なこと言い始めたな」


「た、例えば!」


 私は慌てて話を続けました。


「契約の責任については、時代が進むと用語や仕組みが変わることもあるじゃないですか」


「まあ、法改正はあるだろうな」


 私は頷きました。


 現代。


 令和の民法。


 契約不適合責任。


 新しい消滅時効の制度。


 成年後見制度。


 そして成年年齢の引下げ。


 昭和六十三年の民法と比べると、多くの違いがあります。


 でも。


 民法七百十七条の基本的な責任構造は、現代でも維持されています。


「所長」


 私は言いました。


「民法って、変わる部分と、変わらない部分があるんですね」


 片桐所長が頷きました。


「当然だ」


「でも、どうして七百十七条のような仕組みは、今も残っているんでしょう」


 所長は少し考えました。


 そして、言いました。


「必要だからだろう」


「必要……」


「工作物が壊れて、人が傷つく。そのとき、誰が責任を負うか」


 所長は窓の外を見ました。


「それは、昔も今も考えなければならん問題だ」


 私は、はっとしました。


 なるほど。


 法律が改正されるのは、古い法律が全部間違っていたからではありません。


 社会の変化に合わせて、見直す必要があるから。


 でも。


 変える必要のない基本的な考え方もあります。


 工作物の瑕疵によって生じた損害を、被害者だけに押しつけない。


 占有者と所有者の責任を区別する。


 さらに、原因について別の責任者がいれば、求償の道を残す。


 そうした仕組みは、時代を超えて意味を持ち続けているのです。


「先輩」


 私は言いました。


「今回、未来の条文を持ち込んで怒られずに済みました!」


「途中で契約不適合責任って言ってただろ」


「……!」


「忘れたのか」


「忘れてません!」


「じゃあ、昭和六十三年の民法で仕事しろ」


「はい……」


 やっぱり怒られました。


 でも。


 今回は、少しだけ嬉しいです。


 昭和の民法にも、現代の民法にも。


 共通する、人を守るための考え方がある。


 それを実感できたからです。


 ◇


「よし」


 相馬先輩が言いました。


「最後に、試験形式で確認するぞ」


「はい!」


 私は背筋を伸ばしました。


 相馬先輩は、紙を一枚取り出しました。


「第一問」


「はい!」


「Aが所有する貸家をBが借りている。Bが管理する塀に瑕疵があり、それが倒れて通行人Xがケガをした。まず責任を負うのは誰だ?」


「占有者Bです!」


「第二問」


「はい!」


「Bが損害防止に必要な注意を尽くしていたら?」


「所有者Aが責任を負います!」


「第三問」


「はい!」


「そのとき、Aに過失がなかったら?」


「過失がないことだけでは免責されません!」


「第四問」


「はい!」


「塀が倒れた原因について、施工業者Cに法的責任がある場合は?」


「賠償した占有者または所有者は、Cに対して求償できる場合があります!」


「第五問」


「はい!」


「塀に瑕疵がなかった場合は?」


「七百十七条の工作物責任は、当然には成立しません!」


「第六問」


「はい!」


「危険な状態の竹が倒れて通行人がケガをした場合は?」


「竹木の栽植または支持の瑕疵について、第二項が準用されます!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は思わず両手を上げました。


「全問正解!」


「まだだ」


「ええっ!」


「最後の問題だ」


 先輩が、にやりと笑いました。


「被害者が、借家人と大家の間の契約書に署名していなかったら、七百十七条の責任はなくなるか?」


「なくなりません!」


「理由は?」


「工作物責任は、契約関係がなくても成立し得る不法行為責任だからです!」


「正解」


 私は胸を張りました。


「どうですか!」


「まあ、合格だな」


「やった!」


 でも。


 私は、ふと思いました。


 今回の事件。


 最初、長谷川剛三は賃貸借契約書を振りかざしていました。


 借家人が管理する約束だ。


 だから俺には責任がない。


 でも。


 被害者の美香ちゃんは、その契約を結んでいません。


 美香ちゃんにとって重要なのは。


 塀が危険な状態だったこと。


 その塀が崩れてケガをしたこと。


 そして。


 その損害について、法律上誰が責任を負うのか。


 それだけです。


「先輩」


「何だ」


「今回、契約書に書いてあるからって、すべてが決まるわけじゃなかったんですね」


「そうだ」


「当事者同士の契約で、第三者に対する法定の責任を勝手に消すことはできない」


 相馬先輩が頷きました。


「それを覚えておけ」


 私は、ノートに大きく書きました。


 ――契約書の約束だけで、被害者に対する工作物責任は消えない。


 ◇


 窓の外は、すっかり夕暮れでした。


 私はノートを見直しました。


 工作物。


 瑕疵。


 占有者。


 所有者。


 無過失責任。


 求償権。


 最初は、どれも難しい言葉でした。


 でも。


 あの塀の事件を思い出すと、きれいにつながります。


 古いブロック塀。


 大きな亀裂。


 危険を知らせる手紙。


 補修を見送った大家。


 突然の倒壊。


 右腕を骨折した美香ちゃん。


 そして。


 責任を押しつけ合う大人たち。


 あの事件が、七百十七条の意味を教えてくれました。


「所長」


 私は言いました。


「一つ、分かったことがあります」


「何だ」


「民法七百十七条って、被害者を守るために、責任を負う人を順番に決めているんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「そして、必要な注意を尽くした占有者は免責されることがある」


「うん」


「でも、所有者は過失がないというだけでは逃げられない」


「そうだ」


「さらに、事故の原因について別に責任者がいれば、求償できる」


 私は笑いました。


「だから、被害者を放り出したまま、責任の押しつけ合いをする必要はないんですね」


 片桐所長は、静かに頷きました。


「大切なのは、誰にどんな責任があるかを、事実と法律で確かめることだ」


「はい」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 法律は、単なる暗記科目ではありません。


 誰が悪い。


 誰が払う。


 それを感情だけで決めるものでもありません。


 必要な安全性。


 管理の実態。


 事故との因果関係。


 そして、責任の順番。


 そうしたものを整理して、初めて結論にたどり着く。


 それが、民法の考え方なのです。


 ◇


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――工作物責任は「まず占有者、注意を尽くせば所有者、原因を作った者には求償」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あの古い塀を思い出せばいい。


 借家人の木村さん。


 何度も大家に補修を頼んでいた。


 大家の長谷川さん。


 修理を先延ばしにしていた。


 工事業者の大黒建設。


 もし施工に問題があったなら、別に責任が問われる可能性がある。


 そして。


 何より。


 被害者の美香ちゃん。


 ただ学校から帰る途中だった。


 何も悪くなかった。


 それなのにケガをした。


 民法七百十七条は、そんな被害者に対して、誰が責任を負うべきかを考える法律なのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、外の看板を確認してこい」


「え?」


「この前、傾いてただろ」


「ああ!」


 私は窓の外を見ました。


 片桐行政書士事務所。


 古い木製の看板。


 先輩が金具を締め直したので、今はまっすぐになっています。


「もう直したじゃないですか」


「ああ」


「じゃあ、大丈夫ですよね?」


「それを確認するんだよ」


 私は少し考えました。


「先輩」


「何だ」


「もしかして、工作物責任を勉強してから、看板が気になって仕方ないんですか?」


「……別に」


「本当ですか?」


「うるせえ」


 私は、にやりと笑いました。


「先輩も、民法七百十七条が怖くなったんですね!」


「怖くねえよ!」


「でも、落ちたら大変ですよ!」


「分かってる!」


「占有者として必要な注意を尽くしたか、問題になりますよ!」


「だから点検しろって言ってるだろ!」


 私は笑いながら立ち上がりました。


 でも。


 ふと、気づきました。


「所長」


「何だ」


「この看板、誰のものですか?」


 所長が顔を上げました。


「事務所のものだ」


「じゃあ、所有者は所長ですか?」


「そうだ」


「占有者も、事務所側ですよね」


「ああ」


 私は、少し考えました。


 そして。


「あれ?」


 首をかしげました。


「じゃあ、先輩がちゃんと点検して、必要な注意を尽くしていたとしても……」


 相馬先輩が、嫌な顔をしました。


「おい」


「所有者としての責任は、別に問題になりますよね?」


「……」


「無過失責任!」


「こはる!」


「はい!」


「嬉しそうに言うな!」


 私は吹き出しました。


 片桐所長も、口元をわずかに緩めました。


「相馬」


「はい」


「点検記録を残しておけ」


「……分かりました」


「それから、古い金具は交換だ」


「はい」


 相馬先輩は、ため息をつきました。


「まったく、法律を勉強すると仕事が増えるな」


 私は笑いました。


「でも先輩」


「何だ」


「事故が起きてから賠償するより、事故が起きないようにする方がいいですよね」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 それから。


「……まあな」


 短く答えました。


 私は、窓の外を見ました。


 夕暮れの町。


 学校帰りの子供たち。


 買い物袋を提げたお母さん。


 自転車で走る学生。


 誰もが、当たり前のように道を歩いています。


 その道の脇には。


 塀があり。


 建物があり。


 大きな木があり。


 看板があります。


 普段は、誰も気にしません。


 でも。


 もし、それらが危険な状態になっていたら。


 誰かの生活が、一瞬で変わってしまうかもしれない。


 だからこそ。


 民法は、事故が起きたときの責任を定めています。


 そして。


 その責任を知ることは、事故を防ぐための注意にもつながるのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――工作物責任は「まず占有者、注意を尽くせば所有者、原因を作った者には求償」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「看板見てこい!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日から危ない塀を見つけたら、全部気になりそうです!」


「それでいいだろ!」


「でも、通学路を歩くたびに七百十七条を思い出しそうで!」


「だったら危ない場所を避けろ!」


「先輩!」


「今度は何だ!」


「民法って、覚えると日常生活の見え方まで変わるんですね!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「……そういうもんだ」


 少しだけ、優しい声で言いました。


 私は笑いました。


 法律の勉強は、まだまだ続きます。


 覚える条文も。


 覚える判例も。


 山ほどあります。


 でも。


 今日、私は一つだけ確信しました。


 民法七百十七条は、試験で正解するためだけの条文ではない。


 古い塀の下敷きになった女の子が。


 自分の治療費まで、一人で背負わなくて済むように。


 責任を負うべき人が、責任から逃げ切れないように。


 そして。


 次の事故が起きないように。


 私たちの暮らしのすぐそばで、働いている法律なのです。


「こはる!」


「はい!」


「いつまでノート見てる!」


「今行きます!」


 私はノートを閉じました。


 その表紙には。


 夕暮れの光が、静かに落ちていました。


 工作物責任。


 民法第七百十七条。


 今日の勉強は、これで終わり。


 ただし。


 危ない塀を見つけたときだけは。


 この条文を、思い出すことにします。


 だって。


 法律を知るということは。


 誰かがケガをした後に、責任を考えられるようになるだけではありません。


 誰かがケガをする前に、危険に気づけるようになることでもあるのです。

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