[民法・工作物責任]現場編 「塀が崩れたのは台風のせいだ」の嘘。逃げる借家人、知らぬ顔の地主、そして所有者に突きつけられた無過失責任の刃
人を傷つけたのが、ただの古い塀だったとしても。
責任まで、崩れて消えるわけではありません。
たとえば。
道を歩いていたら、突然、隣家のブロック塀が倒れてきた。
腕を骨折した。
仕事も休まなければならなくなった。
治療費もかかる。
ところが。
その家に住んでいる人は言うのです。
「俺の塀じゃない。大家に言ってくれ」
大家は言います。
「住んでいる人が管理していた。私の責任じゃない」
さらに、塀を工事した業者は言います。
「工事が終わったのは三年前だ。今さら知らん」
……。
全員、逃げる気満々です。
では。
被害者は、誰に損害賠償を請求すればいいのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私が向き合うことになったのは。
民法第七百十七条。
土地の工作物責任。
そして。
法律の世界では、知らなかったという言い訳が、必ずしも通用しないという現実でした。
◇
「うちの娘が、塀の下敷きになったんです!」
朝九時。
事務所の引き戸が勢いよく開きました。
入ってきたのは、四十代の女性。
名前は高橋澄江さん。
手には、大きな封筒。
その隣には、右腕を三角巾で吊った少女がいました。
十二歳。
小学六年生の美香ちゃん。
「大丈夫!?」
私は思わず立ち上がりました。
美香ちゃんは、少し困ったように笑いました。
「腕だけだから」
「腕だけって……」
その腕には、白いギプス。
痛々しい姿です。
澄江さんが説明しました。
「先週の金曜日、学校から帰る途中だったんです」
美香ちゃんは、いつもの通学路を歩いていました。
駅裏の住宅街。
古い貸家が並ぶ細い道。
そのうちの一軒。
長谷川家のブロック塀が、突然崩れたのです。
「風が吹いた瞬間でした」
美香ちゃんが言いました。
「がらがらって音がして……」
逃げようとした。
でも間に合わなかった。
崩れたブロックが右腕を直撃。
転倒した際、膝にも深い擦り傷。
病院では右前腕の骨折と診断されました。
澄江さんの声が震えます。
「あと一歩、歩くのが遅かったら……頭に当たっていたかもしれません」
私は息を呑みました。
たしかに。
腕の骨折だけで済んだのは、不幸中の幸いかもしれません。
でも。
だからといって、事故が軽いわけではありません。
「それで、塀の持ち主には?」
私が尋ねると、澄江さんは封筒から一枚の紙を取り出しました。
「連絡しました。でも……」
私は紙を受け取りました。
そこには、こう書かれていました。
――本件事故は突風による不可抗力であり、当方に損害賠償義務はありません。
差出人。
長谷川不動産。
私は眉をひそめました。
「突風……?」
「その日は、少し風が強かったんです」
「台風だったんですか?」
「いいえ。雨も降っていませんでした」
え?
台風でもない。
暴風警報もない。
それなのに、ブロック塀が倒壊した?
「おかしくないですか?」
私は思わず言いました。
「普通の塀って、ちょっと風が吹いただけで倒れませんよね」
奥の机で新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。
「そこだ」
「え?」
「今、お前が言ったことだ」
「普通の塀は、簡単には倒れない……?」
「そうだ」
先輩は新聞を畳みました。
「こはる。民法七百十七条を開け」
「はい!」
民法。
第七百十七条。
土地の工作物等の占有者及び所有者の責任。
私は六法を開きました。
そして。
「……あれ?」
思わず声が漏れました。
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「これ……」
「何だ」
「現代と、ほとんど同じです」
「何を言ってる」
「あ、いえ!」
しまった。
また未来人発言です。
民法は、時代によって大きく変わっています。
契約不適合責任。
債務不履行。
消滅時効。
制限行為能力者。
現代の知識を持ち込むと、昭和の条文に足をすくわれる。
だから今回も、覚悟していたのです。
ところが。
民法七百十七条。
土地の工作物責任。
この基本構造は、昭和六十三年でも、令和の民法でも変わっていません。
「よかった……」
私は思わず呟きました。
「何がよかったんだ」
「いえ、歴史の壁を一つ越えた気がして」
「訳の分からんこと言ってねえで読め」
「はい!」
私は条文に目を落としました。
土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があることによって他人に損害を生じたとき。
その工作物の占有者は、被害者に損害を賠償する責任を負う。
ただし。
占有者が、損害の発生を防止するのに必要な注意をしたときは。
所有者が、その損害を賠償しなければならない。
……。
なるほど!
「つまり、まず住んでいる人の責任ですね!」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「住んでいる人が、必ず占有者とは限らねえ。誰がその工作物を管理支配していたのか、そこを調べろ」
「あ……」
「それと、占有者と所有者をごちゃ混ぜにするな」
私はもう一度条文を見ました。
占有者。
所有者。
似ているようで、違います。
そして。
この二つの言葉の間に、恐ろしい仕組みが隠れていたのです。
◇
「まず、誰の塀なのか確認するぞ」
片桐所長が言いました。
所長は、澄江さんから受け取った資料を机に並べました。
事故現場の写真。
病院の診断書。
治療費の領収書。
学校の担任からの連絡メモ。
そして、塀のある貸家についての資料。
「この家、長谷川不動産が所有しているんですか?」
私が尋ねると、澄江さんが頷きました。
「ええ。あの家は、長谷川不動産の社長さんの持ち物です」
「住んでいる人は?」
「木村さんという方です。もう十年以上、借りて住んでいます」
なるほど。
家の所有者は長谷川。
借家人は木村。
塀も貸家の敷地内にある。
「ということは……」
私はノートに書きました。
所有者A。
占有者B。
被害者X。
教科書に出てきそうな構図です。
……いえ。
本当に教科書で見た構図です。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「顔がにやけてるぞ」
「にやけてません!」
「事件を問題集みたいに見るな」
「すみません……」
そうです。
ここには、実際に腕を骨折した美香ちゃんがいる。
記号ではない。
人間です。
私は表情を引き締めました。
「それで、木村さんは何と?」
澄江さんは、もう一枚の紙を取り出しました。
「これです」
そこには、木村さんの手書きの返事。
――塀は貸家に元々あったものです。
――私は所有者ではありません。
――以前から塀のひび割れについて大家に連絡していました。
――したがって、私に責任はありません。
私は首をかしげました。
「ひび割れ……?」
「そうなんです」
澄江さんが言いました。
「近所の人も、前から危ないと言っていたそうです」
相馬先輩の目つきが変わりました。
「いつからだ」
「去年の秋ごろから、塀に斜めのひびが入っていたそうで……」
「写真は?」
「あります」
澄江さんが写真を出しました。
事故の二か月前。
町内会の清掃活動で撮影された集合写真。
その背景に、長谷川家の塀が写っていました。
私は写真を覗き込みました。
「……あ」
はっきり見えます。
ブロック塀の中央。
斜めに走る、大きな亀裂。
しかも。
塀が、道路側へ少し傾いているようにも見えました。
「これ、事故の前から……」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「事故の原因を考えるうえで、重要な証拠だ」
私は写真を見つめました。
壊れたから危険だった。
ではありません。
壊れる前から、危険な状態だった可能性がある。
そこが大切なのです。
片桐所長が口を開きました。
「現場を見よう」
「はい!」
「木村さんにも話を聞く。ただし、争いの代理交渉をするんじゃない。事実関係の確認だ」
「分かりました!」
そうして。
私たちは、事故現場へ向かいました。
◇
駅裏の住宅街。
古い木造家屋が並ぶ道。
その一角に、長谷川不動産所有の貸家がありました。
そして。
「……ひどい」
私は足を止めました。
道路沿いのブロック塀。
長さ、およそ八メートル。
高さ、一メートル八十センチほど。
そのうち、約三メートルが崩れていました。
残った部分にも、ひび割れがあります。
地面には、撤去しきれていないブロックの破片。
白い粉。
むき出しになった鉄筋。
「ここに美香ちゃんが……」
私は呟きました。
「ああ」
相馬先輩は、メジャーを取り出しました。
「こはる。残っている部分を測れ」
「はい!」
私は高さを測りました。
塀の厚さ。
傾き。
亀裂の位置。
先輩はポラロイドカメラで写真を撮ります。
昭和です。
スマホはありません。
事故直後の映像もありません。
あるのは。
写真。
現物。
目撃者。
そして、記録。
「先輩、これ」
私は倒れた塀の断面を指差しました。
「鉄筋が……」
「ああ」
一部の鉄筋には、赤茶色の錆。
コンクリートの内部も、ところどころ脆くなっていました。
「これだけで施工不良だとは断定できねえ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「だが、調査する価値はある」
私は頷きました。
そこへ。
「何してるんだ!」
大きな声が飛んできました。
振り返ると、作業着姿の男性。
五十歳くらい。
木村さんです。
「勝手に塀を調べてもらっちゃ困る!」
相馬先輩が名刺を差し出しました。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
「はい。事故について、事実関係を確認しています」
「弁護士じゃねえのか」
「違います」
木村さんは鼻を鳴らしました。
「だったら、俺に責任なんか押しつけられねえぞ」
……。
また、この展開です。
行政書士と聞いた瞬間、相手が強気になる。
どうやら昭和の民間トラブルでは、定番らしいですね。
「俺は借りてるだけだ!」
木村さんは言いました。
「塀なんか、俺が建てたわけじゃねえ!」
「承知しています」
相馬先輩は落ち着いて答えました。
「ただ、木村さんが普段どのように塀を管理し、異常を発見した後どう対応したか、確認させてください」
「管理?」
「はい」
「そんなの大家の仕事だろ!」
私は口を開きかけました。
でも。
先輩が私を手で制しました。
「ひび割れを発見されたのは、いつですか」
「去年の十月だ」
「大家には連絡しましたか」
「したよ!」
「どのように?」
「手紙を出した!」
私は顔を上げました。
手紙。
証拠が残っているかもしれません。
「控えはありますか?」
木村さんは少し驚いた顔をしました。
「……あるよ」
「拝見できますか」
しばらくして。
木村さんが家の中から、古い封筒と便箋の控えを持ってきました。
そこには。
――塀の亀裂が広がっており、通行人に危険が及ぶおそれがあります。
――早急に修理をお願いします。
日付。
昭和六十二年十月十二日。
その下には、長谷川不動産からの返信。
――現時点で修理の必要性は認められません。
――現状のまま使用してください。
……。
私は思わず息を止めました。
「先輩……」
「ああ」
しかも。
木村さんは続けました。
「今年の春にも連絡したよ!」
「春にも?」
「また手紙を出した」
さらに一通。
昭和六十三年四月七日。
――塀が道路側に傾いているように見えます。
――事故防止のため、補修を再度お願いします。
大家からの回答。
――修理は次回の建物改修時に検討します。
……。
私は呆れました。
検討。
検討。
検討。
そして。
塀は倒れたのです。
「木村さん」
相馬先輩が尋ねました。
「その後、何か対策はしましたか」
「したよ」
「どんな?」
「町内会長に相談して、道の反対側を通るよう子供たちに声をかけてもらった。危ないところには赤い紐を張った」
「それはいつですか」
「五月だ」
「今も記録はありますか」
「町内会の回覧板の控えがある」
木村さんは、さらに紙を取り出しました。
危険箇所注意。
ブロック塀の亀裂について。
通学児童への注意喚起。
そして。
事故前に撮影した、赤い紐の写真。
「これだけやったんだ!」
木村さんは声を荒らげました。
「それでも俺が悪いって言うのか!」
私は、すぐには答えられませんでした。
なぜなら。
ここで民法七百十七条の、あの一文が問題になるからです。
――損害の発生を防止するのに必要な注意をしたとき。
木村さんは。
大家へ何度も通知した。
町内会にも相談した。
危険を知らせる措置も講じた。
もちろん。
それだけで法的に十分な注意だったと、直ちに決まるわけではありません。
紐は適切だったのか。
歩行者を安全な場所へ誘導できていたのか。
もっと取るべき措置がなかったのか。
そこは、具体的に検討しなければならない。
でも。
木村さんが何もしていなかったわけではない。
それは明らかでした。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「分かったか」
「……はい」
「何がだ」
「占有者だから、必ず賠償しなければならないわけじゃない」
「そうだ」
私は六法を握りしめました。
工作物責任。
一次的には占有者。
でも、必要な注意をした占有者は免責され得る。
では。
その場合、誰が責任を負うのか。
答えは。
次の一文にありました。
――所有者がその損害を賠償しなければならない。
◇
「ふざけるな!」
翌日。
片桐事務所に怒鳴り込んできた男がいました。
長谷川不動産の社長。
長谷川剛三。
五十八歳。
濃紺の背広。
金色の腕時計。
高そうな革靴。
そして、いかにも不機嫌そうな顔。
「うちの塀のことで、木村が騒いでるそうじゃないか!」
事前に木村さんから事故の資料確認をしたことが、耳に入ったようです。
剛三は応接机に一枚の紙を叩きつけました。
「契約書を見ろ!」
貸家賃貸借契約書。
そこには、こう書かれていました。
――借家人は、建物及び付属設備を善良な管理者の注意をもって使用し、保管するものとする。
剛三は勝ち誇ったように言いました。
「ほら見ろ! 管理責任は木村にある!」
私は契約書を見ました。
……なるほど。
いかにも使えそうな条項です。
でも。
「それ、被害者には関係ありませんよね?」
私は思わず口にしました。
剛三が私を睨みました。
「何だと?」
「その契約書は、長谷川さんと木村さんの間の約束ですよね」
「だから何だ!」
「通行人の美香ちゃんは、契約の当事者じゃありません」
「……!」
私は続けました。
「契約書で管理義務を決めたからといって、第三者に対する民法上の責任が当然になくなるわけではありません」
剛三の顔が歪みました。
「小娘が偉そうに!」
うわ。
怒りました。
でも、ここは譲れません。
被害者は、塀の賃貸借契約なんて知りません。
まして、契約条項の作成に関わっていません。
それなのに。
所有者と借家人が、
「責任はそっち」
「いや、そっち」
と押しつけ合うだけで、被害者の権利が消える。
そんなことになったら。
民法七百十七条は、何のためにあるのでしょうか。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい」
「そこまでだ」
「……はい」
所長は剛三を見ました。
「本日は、書類の内容についての事実確認にとどめます。当事務所が代理人として賠償交渉をすることはありません」
剛三が鼻で笑いました。
「そうだろうな。行政書士に何ができる」
相馬先輩の眉が、ぴくりと動きました。
「長谷川さん」
「何だ」
「塀の補修について、木村さんから二度、書面で連絡があったことは確認できますか」
「……ああ」
「返事も出されていますね」
「出したよ」
「では、補修を見送ったのは事実ですね」
「金がかかるからな!」
剛三は胸を張りました。
「古い塀だぞ! 多少ひびが入るのは当たり前だ!」
「その認識だったんですね」
「ああ!」
「承知しました」
相馬先輩は記録用紙に書き込みました。
私は思いました。
……あ。
自分で認めましたね。
危険を知らせる通知を受け取った。
修理を見送った。
そして。
事故が起きた。
もちろん、それだけで賠償責任が確定するわけではありません。
でも。
所有者の対応を示す重要な事実です。
「それにな!」
剛三は続けました。
「あの塀は、三年前に業者に直させたんだ!」
「業者?」
「大黒建設だ!」
剛三は机を叩きました。
「もし欠陥があったなら、工事した業者が悪いだろ!」
……。
今度は工事業者ですか。
まさに責任のたらい回し。
私は聞きました。
「工事の記録はありますか?」
「ある!」
「どんな工事だったんですか?」
「塀の一部を積み直したんだ!」
剛三が鞄から工事の請求書を取り出しました。
昭和六十年。
ブロック塀補修工事。
施工業者。
大黒建設。
私は請求書を見ました。
なるほど。
もし施工自体に問題があったなら。
その業者の責任も、別に問題になりそうです。
「所長」
私は小声で言いました。
「第三項ですね」
片桐所長が頷きました。
民法七百十七条第三項。
損害の原因について、ほかに責任を負う者があるとき。
賠償した占有者や所有者は、その者に対して求償できる。
……これです。
でも。
私はそこで、少し考えました。
工事業者が悪いかもしれない。
だから所有者は払わなくていい。
本当に、そうなのでしょうか。
違います。
被害者に対する責任と。
責任を負った者が、原因を作った第三者に後で請求できるか。
それは、別の問題です。
「長谷川さん」
私は言いました。
「仮に工事業者に問題があったとしても、それだけで被害者に対する責任がなくなるとは限りません」
剛三が目を剥きました。
「何だと!」
「民法七百十七条第三項には、求償権の規定があります」
「求償?」
「責任を負って賠償した人が、事故の原因について別に責任を負う人に、負担を求めることです」
「……?」
剛三は、少し黙りました。
私は続けようとしました。
しかし。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「もういい」
「でも、まだ説明が……」
「必要な事実は確認できた」
先輩は剛三に向き直りました。
「本日はありがとうございました」
剛三は不満そうに立ち上がりました。
「何だ、もう終わりか」
「はい」
「覚えておけよ。俺は一銭も払わんぞ!」
そう言い残して、事務所を出ていきました。
引き戸が閉まります。
静寂。
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「何で、もっと言い返さないんですか!」
「またそれか」
「だって、あんなに偉そうに!」
相馬先輩は、机に置かれた資料を指差しました。
「こはる」
「はい」
「声がでかい奴が勝つと思うか?」
「思いません」
「じゃあ、何が勝負を決める?」
私は答えました。
「……事実と、書面です」
「そうだ」
相馬先輩はにやりと笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
出ました。
先輩の口癖。
でも今日は。
その意味が、いつも以上に重く感じられました。
◇
その日の午後。
私たちは、事故について資料を整理しました。
まず。
塀が、通常備えるべき安全性を欠いていたか。
これが重要です。
私は最初、少し勘違いしていました。
「所長」
「何だ」
「これ、工事の契約不適合責任も問題になりますよね?」
所長の手が止まりました。
「契約……何だ?」
「あっ」
しまった。
またです。
「契約不適合責任……」
相馬先輩がこちらを見ました。
「何だ、その言葉は」
「ええと……」
「売買や請負の話なら、瑕疵担保の問題だろ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ!」
私は慌てて六法を閉じかけました。
現代の民法では、契約内容に適合しない場合の責任が整理されています。
でも。
昭和六十三年。
まだ契約不適合責任という現在の用語はありません。
当時は、瑕疵担保責任などの古い制度が使われています。
しかも。
今回の被害者は、工事業者と契約した人ではない。
塀の下敷きになった、通行人です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「まず、何について請求するのか整理しろ」
「……はい」
「工事契約の責任と、通行人に対する工作物責任は別だ」
「はい」
「条文の『瑕疵』という言葉が同じでも、契約上の責任と不法行為上の責任を混同するな」
私は頷きました。
なるほど。
同じ塀の欠陥でも。
誰が、誰に、何を請求するのか。
そこが変われば、使う法律も変わります。
そして今回。
中心になるのは。
民法七百十七条。
土地の工作物責任なのです。
「よし」
相馬先輩が資料を広げました。
「事故の原因を固めるぞ」
まず、写真。
事故前から大きな亀裂。
道路側への傾き。
次に、木村さんの通知。
二度の補修要請。
大家からの修理見送りの返信。
そして、事故当日の天候。
近くの測候所の記録を確認しました。
風はあった。
しかし、その地域で建物や塀が広範囲に倒壊するような異常な暴風が記録されていたわけではありません。
「これだけで不可抗力ではない、と断定はできませんよね」
私は言いました。
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「だから、塀自体の状態を調べる」
先輩は専門家に現場の確認を依頼しました。
数日後。
建築士から届いた所見書には、次のような内容が記されていました。
――残存部分及び事故直後の写真から、塀には従前から著しい亀裂と傾斜が存在したと認められる。
――鉄筋の腐食及び接合状態に問題があった可能性が高い。
――事故当日の風だけを原因とするのではなく、工作物自体の安全性が損なわれていた可能性が高い。
私は目を見開きました。
「これなら……!」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「塀が通常備えるべき安全性を欠いていた、という主張を裏づける資料になる」
そして。
木村さんが事故防止のために行った措置についても、資料を集めました。
大家への通知。
町内会への相談。
危険箇所の掲示。
赤い紐による注意喚起。
ただし、木村さんの免責については慎重に扱いました。
必要な注意を尽くしたかどうかは、単に通知した回数だけでは決まりません。
危険の程度や、実際に取れた対策も問題になります。
しかし少なくとも。
木村さんが危険を放置していた、という単純な話ではありませんでした。
「所長」
私は尋ねました。
「仮に木村さんが必要な注意をしていたと認められたら……」
「うん」
「長谷川さんが賠償責任を負うんですよね」
「そうだ」
「でも長谷川さんは、知らなかったと言ってました」
「知らなかった?」
所長が顔を上げました。
「はい。塀がそこまで危険だとは思わなかったと」
すると。
相馬先輩が、静かに笑いました。
「こはる」
「はい」
「七百十七条の怖いところは、そこだ」
「え?」
「所有者の責任だ」
私は条文を見ました。
占有者が必要な注意をしたとき。
所有者が賠償する。
「これって……」
「ああ」
先輩が言いました。
「所有者については、過失がなくても責任を負う仕組みだ」
私は息を呑みました。
無過失責任。
つまり。
自分は知らなかった。
自分は注意していた。
自分が直接壊したわけではない。
それでも。
工作物に瑕疵があり、その瑕疵によって損害が生じた以上、占有者が必要な注意を尽くして免責される場合には、所有者が賠償責任を負う。
その仕組みなのです。
「……すごい」
私は呟きました。
「何がだ」
先輩が聞きます。
「被害者からすると、ありがたい仕組みです」
「ああ」
「だって、通行人は塀の持ち主の管理事情なんて知りません」
「そうだな」
「知らなかったから払わない、という言い訳だけで所有者が逃げられたら、被害者は困ります」
片桐所長が頷きました。
「危険な工作物を所有することには、それに伴う責任がある」
私は、もう一度条文を読みました。
民法七百十七条。
古い条文です。
でも。
その中には、今の時代にも通じる考え方がありました。
危険なものによって利益を得たり、それを所有したりする立場の者に、一定の責任を負わせる。
被害者に、すべての負担を押しつけない。
それが、工作物責任の大切な役割なのです。
◇
そして。
いよいよ、内容証明郵便の作成です。
私は机に向かいました。
宛先。
長谷川剛三。
差出人。
高橋澄江。
未成年の美香ちゃんの親権者としての通知です。
片桐所長が言いました。
「こはる。書いてみろ」
「はい!」
私は勢いよく万年筆を走らせました。
――貴殿の所有するブロック塀が倒壊し、当方の娘に重大な損害を与えた。
――貴殿には民法七百十七条に基づく損害賠償責任がある。
――直ちに賠償金を支払われたい。
「できました!」
私は原案を差し出しました。
片桐所長が読みます。
そして。
赤鉛筆を手に取りました。
……。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「雑だ」
「ええっ!」
「誰の責任を、どの順番で検討した」
「所有者です!」
「なぜ最初から所有者だけなんだ」
「あ……」
私は固まりました。
そうでした。
民法七百十七条は、まず占有者の責任を定めています。
占有者が必要な注意をした場合に、所有者が責任を負う。
その順序が重要なのです。
「最初から長谷川さんだけが当然に責任を負う、という書き方では不正確ですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「木村さんが必要な注意を尽くしたといえるか。その資料と評価を明確にしろ」
「はい!」
「それと、損害額だ」
私は資料を確認しました。
治療費。
通院交通費。
治療に伴う必要な費用。
慰謝料。
将来の治療見込み。
後遺障害については、現時点では判断できません。
「所長、全部まとめて請求していいんですか?」
「確認できた損害と、まだ確定していない損害を分けろ」
「はい」
「将来の損害を勝手に決めつけるな。必要なら弁護士に引き継ぐ」
私は頷きました。
行政書士は、裁判の代理人にはなれません。
紛争の示談交渉を業務として引き受けることもできません。
けれど。
依頼人本人が行う意思表示や事実関係を、適切な範囲で書面にまとめることはできます。
その書面が、相手に現実を直視させることもある。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「大事なのは、脅すことじゃねえ」
「はい」
「反論するなら、何を争わなきゃいけないのか。相手が一目で分かるようにするんだ」
私は頷きました。
そして。
もう一度、原案を書き直しました。
◇
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案がありました。
私は読み上げました。
「第一。本件事故は、昭和六十三年某月某日、貴殿所有の貸家敷地内に設置されたブロック塀が道路側へ倒壊したことにより発生した」
「うん」
「第二。本件塀には事故以前から亀裂及び傾斜が認められ、専門家の所見に照らしても、通常備えるべき安全性を欠いていたことが強く疑われる」
「続けろ」
「第三。本件塀を管理していた借家人木村氏は、事故以前から修理を繰り返し要請し、危険箇所についての注意喚起等を実施していた」
私は息を吸いました。
「第四。民法第七百十七条第一項は、土地の工作物の設置又は保存に瑕疵がある場合、第一次的に占有者の責任を定める一方、占有者が損害防止に必要な注意をしたときは、所有者が賠償責任を負う旨を規定している」
相馬先輩が頷きました。
「第五。本件では、木村氏の講じた措置及び貴殿への修繕要請の経過から、同氏が必要な注意を尽くしたと評価される相当の根拠があり、その場合、貴殿が所有者として賠償責任を負う」
そして。
次の一文。
「第六。所有者の右責任は、過失の存在を要件としない。したがって、貴殿が塀の危険性を十分認識していなかったことのみをもって、責任を免れることはできない」
私は顔を上げました。
「……ここです」
相馬先輩が笑いました。
「ああ」
剛三は言いました。
知らなかった。
俺は壊していない。
修理が必要だとは思わなかった。
でも。
それらは、所有者の無過失責任を否定する決定的な理由にはなりません。
しかも。
今回は危険性を知らせる通知まで受け取っている。
私は続けました。
「第七。仮に本件塀の補修工事を担当した業者に事故原因について別途責任がある場合には、民法第七百十七条第三項に基づく求償が問題となり得るが、そのことは、当然に被害者に対する賠償責任を消滅させるものではない」
先輩が机を指で叩きました。
「そこも重要だ」
「はい」
私は頷きました。
工事業者の問題は、別に追及できる。
でも、それだけで被害者を放り出していいわけではない。
最後に。
「通知人は、既に発生し資料により確認できる損害について、別紙明細のとおり賠償を請求する。未確定の損害については、今後の治療経過を踏まえ、別途検討する」
さらに。
――本通知に対する見解を書面で回答されたい。
――合理的な対応がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。
私は読み終えました。
事務所は静かでした。
相馬先輩が、書面を手に取ります。
「まあ、形にはなったな」
「本当ですか!」
「ただし、木村が必要な注意を尽くしたかは、相手に争われる余地がある」
「はい」
「そこは断定するな」
私は頷きました。
塀の所有者だから、無条件でどんな場合でも責任を負う。
そういう制度ではありません。
塀に瑕疵があったこと。
その瑕疵が事故を引き起こしたこと。
占有者が必要な注意を尽くしたと認められること。
そうした要件を押さえる必要があります。
「それと」
片桐所長が口を開きました。
「古い裁判例も確認しておけ」
「はい!」
所長は判例集を開きました。
「工作物の瑕疵は、単に壊れたという結果だけで決めるものではない。通常備えるべき安全性を欠いていたかどうかが問題になる」
「はい」
「だから、事故前の亀裂、傾斜、補修の経過、事故時の状況を整理した」
私は頷きました。
「すべて、瑕疵を裏づけるためですね」
「そうだ」
所長は続けました。
「そして今回、過失についての考え方を間違えるな」
「はい」
「普通の不法行為責任と、この工作物責任は、同じではない」
私は条文を見ました。
民法七百九条。
一般不法行為。
故意または過失。
それに対して。
民法七百十七条。
占有者には、必要な注意を尽くした場合の免責がある。
しかし、所有者の責任には、そのような免責がない。
……なるほど。
これは。
かなり強烈な違いです。
「所長」
私は言いました。
「怖い法律ですね」
「そうか」
「はい。所有者が、知らなかっただけでは逃げられないなんて」
所長は書面を机に置きました。
「怖いのは、法律じゃない」
「え?」
「危険な塀を放置したまま、人が通る道に立たせておくことだ」
私は黙りました。
……確かに。
美香ちゃんは、ただ学校から帰っていただけです。
塀の持ち主を知らなくても。
塀の施工業者を知らなくても。
塀の修理費を誰が負担するか知らなくても。
安全に道を歩けるはずだった。
その当たり前を守るための法律なのです。
◇
内容証明郵便は、澄江さん本人に内容を確認してもらい、本人名義で発送されました。
そして。
三日後。
長谷川不動産から、澄江さん宛てに返事が届きました。
澄江さんは、その書面を持って事務所に来ました。
「先生、これ……」
私は受け取りました。
差出人。
長谷川剛三。
私は読み始めました。
――貴通知書を受領し、当方顧問弁護士と協議した。
――当方所有の塀について、事故以前から補修要請があったことは確認した。
――事故により生じた損害について、賠償に向けた対応を行う意向である。
……。
「えっ」
私は声を上げました。
「これ……!」
澄江さんが頷きました。
「昨日、長谷川さんから電話があったんです」
「何て?」
「弁護士さんに、あの書面を見せたそうで……」
私は息を呑みました。
「それで?」
「最初は、借家人が責任を負うはずだと言っていたらしいんです」
「はい」
「でも、木村さんが何度も補修を頼んでいたことや、危険を知らせる措置をしていたことを確認して……」
澄江さんは、一度言葉を切りました。
「占有者が必要な注意を尽くしたと認められれば、所有者として責任を負う可能性が高いと説明されたそうです」
私は思わず拳を握りました。
やはり。
そこです。
一次的には占有者。
占有者が必要な注意を尽くしていれば、所有者。
民法七百十七条の仕組みです。
「それから……」
澄江さんが続けました。
「長谷川さん、自分には過失がないから大丈夫だと思っていたみたいで」
私は頷きました。
「でも、所有者の責任は……」
「ええ。弁護士さんから、過失がなくても賠償しなければならない場合があると説明されたそうです」
……。
私は、あの強気な剛三の顔を思い出しました。
俺は一銭も払わん。
そう言い切っていた男です。
それが。
民法七百十七条。
ただ一つの条文によって。
自分が思っていたほど簡単には逃げられないと知った。
そして、事故前の通知書が、その責任をさらに具体的なものにしていた。
「それで、どうなりました?」
私が尋ねると、澄江さんは小さく笑いました。
「治療費の領収書を全部確認したい、と。これから発生する費用も含めて、きちんと話をしたいと言ってくれました」
私は、胸が熱くなりました。
もちろん。
まだ終わりではありません。
賠償の範囲。
金額。
今後の治療。
後遺障害の有無。
そうした問題があります。
だから片桐所長は、澄江さんに弁護士を紹介しました。
具体的な賠償交渉は、弁護士と本人が進めることになります。
行政書士の仕事は、ここまで。
でも。
書類によって、相手の態度を変えることはできたのです。
◇
その後。
美香ちゃんの治療が続くなか、長谷川不動産は弁護士を通じ、事故についての賠償責任を認めました。
治療費。
通院交通費。
慰謝料。
その他、事故と相当因果関係のある損害。
双方の弁護士を通じて金額と支払条件が整理され、最終的に合意書が取り交わされました。
長谷川不動産は、合意に従って賠償金を支払いました。
そして。
あのブロック塀は、全面的に撤去されることになりました。
工事の日。
私は相馬先輩と一緒に、現場を通りかかりました。
「……きれいになりましたね」
「ああ」
以前は、道路側に傾いた古い塀がありました。
今は。
低い安全柵。
その向こうに、小さな庭。
道が、少し明るくなった気がします。
木村さんも出てきました。
「あんたらか」
「こんにちは」
私が挨拶すると、木村さんは頭を下げました。
「いろいろ、ありがとう」
「いえ」
「正直、俺も賠償しなきゃいけないと思ってた」
私は頷きました。
「占有者には、第一次的な責任がありますからね」
「でも、俺は俺なりに危ないと思って、何度も大家に言ってたんだ」
「はい」
「それでも事故が起きちまった」
木村さんは、新しい柵を見ました。
「もっと早く、塀を直してもらえていればな……」
私は、何も言えませんでした。
誰だって、事故が起きる前に防ぎたい。
責任を追及することも大切です。
でも。
本当は、事故が起きないことが一番いい。
それを、改めて思いました。
「ところで」
木村さんが言いました。
「長谷川さん、今度は工事業者に連絡してるらしいよ」
「工事業者?」
「三年前に補修した大黒建設だ」
私は、はっとしました。
民法七百十七条第三項。
求償権。
「そうなんですね」
「ああ。工事に問題がなかったか、改めて調べてもらうそうだ」
相馬先輩が頷きました。
「原因について業者にも責任があるなら、求償が問題になりますからね」
ただし。
工事をしたというだけで、当然に業者が責任を負うわけではありません。
施工不良があったのか。
それが事故の原因になったのか。
業者に法的な責任が認められるのか。
そこは、別に調べなければならない。
私は思いました。
民法七百十七条。
被害者への賠償で終わらない。
最後には、事故の原因を作った者に、負担を求める道まで用意している。
なるほど。
責任の順番が、きちんと設計されているのです。
◇
一週間後。
美香ちゃんが、久しぶりに事務所へ来ました。
右腕のギプスは、まだ外れていません。
でも。
表情は、ずいぶん明るくなっていました。
「お姉ちゃん!」
「あ、美香ちゃん!」
私は笑顔で迎えました。
「どう? 腕は?」
「もうちょっとで外れるって!」
「よかった!」
澄江さんも、嬉しそうに笑っています。
「本当に、ありがとうございました」
私は首を振りました。
「私たちは、書類を作っただけですから」
「でも、その書類がなかったら、きっと今でも責任の押しつけ合いだったと思います」
私は、少し照れました。
「それは……」
すると。
美香ちゃんが言いました。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「塀が悪いのに、どうして人がお金を払うの?」
……。
私は、思わず言葉に詰まりました。
確かに。
十二歳の子供からすれば、不思議かもしれません。
塀が倒れた。
塀がぶつかった。
塀が人を傷つけた。
なのに。
責任を負うのは、人間です。
私は少し考えました。
「塀はね、自分で立っていられるように、修理したり、管理したりできないでしょう?」
「うん」
「だから、その塀を持っている人や、管理している人が、危険にならないように気をつける必要があるんだよ」
「ふうん」
「そして、危険な塀のせいで誰かがケガをしたら、法律は一定の人に責任を負わせるんだよ」
美香ちゃんは首をかしげました。
「じゃあ、塀が悪いんじゃなくて、直さなかった人が悪いの?」
「それも問題になるけどね」
私は言いました。
「法律では、その人が悪いことをしたかどうかだけじゃなくて、危険なものを持っている立場に責任を負わせる場合もあるんだ」
「へえ……」
美香ちゃんは、自分の腕を見ました。
「じゃあ、私が誰の家の塀か知らなくても、守ってもらえるんだね」
私は頷きました。
「そうだよ」
その瞬間。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じました。
工作物責任。
占有者。
所有者。
無過失責任。
求償権。
試験のテキストでは、難しい言葉ばかりです。
でも。
その仕組みが守っているのは。
何も知らずに道を歩いていた、十二歳の女の子。
ただ、それだけなのです。
◇
夕方。
事務所に戻ると、相馬先輩が机を片付けていました。
「こはる」
「はい」
「今日の事件、分かったか」
「はい!」
「言ってみろ」
私はノートを開きました。
「まず、土地の工作物に瑕疵があることによって、他人に損害が生じた場合です」
「うん」
「第一次的には、占有者が責任を負います」
「そうだ」
「でも、占有者が損害防止に必要な注意をしていた場合は、所有者が責任を負います」
「うん」
「しかも、所有者は過失がなかったというだけでは免責されません」
先輩が頷きました。
「それで?」
「損害の原因について別に責任を負う人がいれば、賠償した占有者や所有者は、その人に求償できる場合があります」
「よし」
私は得意になりました。
「完璧ですね!」
「まだだ」
「ええっ!」
相馬先輩が指を一本立てました。
「じゃあ、問題だ」
「はい!」
「塀じゃなくて、庭の大木が倒れて通行人をケガさせたら?」
私は固まりました。
「……木?」
「ああ」
「土地の工作物……ではないですよね?」
「普通の樹木は、建物や塀とは違うな」
私は六法を開きました。
民法七百十七条。
第一項。
工作物。
第二項。
――前項の規定は、竹木の栽植又は支持に瑕疵がある場合について準用する。
「あっ!」
私は声を上げました。
「第二項!」
「そうだ」
「竹や木も、栽植や支持に瑕疵があれば、同じような責任の仕組みが適用されるんですね!」
「そのとおり」
私は思わず笑いました。
「なるほど! 塀だけじゃないんだ!」
「当たり前だ。危険なものは塀だけじゃねえ」
「たしかに!」
私はノートに書き込みました。
塀。
建物。
その他の土地の工作物。
そして。
竹木。
それぞれ、条文の適用場面を確認する必要がある。
「先輩!」
「何だ」
「これ、試験に出たら間違えません!」
「そうか」
「だって、塀が崩れた事件を思い出せばいいんです!」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「じゃあ、もう一問」
「はい!」
「塀に瑕疵がなく、誰にも予想できないほど異常な自然現象だけで崩れた場合は?」
「え……」
私は考えました。
工作物責任。
土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があること。
その瑕疵によって損害が生じたこと。
つまり。
「……瑕疵がなければ、七百十七条の責任が当然に成立するわけではありません」
「そうだ」
「ただ倒れたという結果だけで、必ず賠償責任が発生するわけじゃないんですね」
「そこだ」
相馬先輩が頷きました。
「無過失責任って言葉だけ覚えると、何でも責任を負うと勘違いする」
私は頷きました。
なるほど。
法律は、被害者を守る。
でも。
誰にでも、無条件に責任を押しつけるわけではない。
必要な要件を満たしているか。
そこを丁寧に確認する。
それが、法的に考えるということなのです。
◇
「ところで」
私は、ふと思いつきました。
「相馬先輩」
「何だ」
「もし、事務所の看板が落ちて通行人に当たったら、どうなります?」
相馬先輩が顔を上げました。
「は?」
「看板も、設置状況によっては土地の工作物に当たりますよね?」
「まあな」
「つまり、工作物責任が問題になる可能性があります!」
「……おい」
「そして、占有者が必要な注意をしていたなら、所有者に責任が移ることも!」
「こはる」
「はい!」
相馬先輩は、ゆっくりと窓の外を指差しました。
「だったら、まず見てこい」
「何をですか?」
「うちの看板だよ」
……。
私は窓の外を見ました。
片桐行政書士事務所。
古い木製の看板。
軒先に吊るされています。
少し、斜めです。
「……先輩」
「何だ」
「あれ、傾いてません?」
「ああ」
「大丈夫なんですか?」
「知らん」
「知らんじゃ駄目ですよ!」
私は慌てて立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「看板が傾いてます!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「そうか」
「そうか、じゃないですよ!」
「相馬」
「はい」
「点検しろ」
「……俺ですか?」
「そうだ」
相馬先輩が、露骨に嫌そうな顔をしました。
「所長、俺は今、書類の整理を……」
「看板が落ちたら困る」
「そりゃそうですが……」
「民法七百十七条だ」
……。
沈黙。
私は思わず吹き出しました。
「先輩!」
「何だよ!」
「工作物責任ですよ!」
「分かってるよ!」
「損害が出てからじゃ遅いんですよ!」
「お前まで言うな!」
相馬先輩は、ぶつぶつ言いながら脚立を取りに行きました。
私は笑いをこらえながら、ノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きました。
――工作物責任は、まず占有者。必要な注意を尽くしたなら所有者。原因を作った第三者には求償。
うん。
これなら忘れません。
でも。
もっと大事なことがあります。
美香ちゃんは、ただ道を歩いていただけでした。
何も悪いことはしていません。
それなのに、古い塀が崩れ、腕を骨折した。
誰も責任を取らなければ。
治療費も。
通院の負担も。
痛い思いも。
全部、被害者が背負うことになってしまう。
だから民法は、考えたのです。
危険な工作物を管理する人。
所有する人。
そして、事故の原因を作った人。
それぞれの責任を、どう負担させるべきか。
そこには。
ただ誰かを罰するためではない。
被害者に一方的な犠牲を強いないための仕組みがありました。
私は、窓の外を見ました。
相馬先輩が脚立に上り、看板の金具を確認しています。
「こはる!」
「はい!」
「下から看板押さえろ!」
「はいっ!」
私は駆け出しました。
昭和六十三年。
民法七百十七条。
百年近い歴史を持つ法律の考え方が。
今日も、町の小さな暮らしを守っています。
古い塀。
古い看板。
古い民法。
でも。
古いからといって、全部が役に立たないわけではありません。
むしろ。
昔から変わらず、人を守ってきた法律もあるのです。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「看板、ちゃんと直してくださいね!」
「分かってる!」
「落ちたら工作物責任ですよ!」
「うるせえ!」
「所有者は、過失がなくても責任を負う場合がありますから!」
「だから分かってるって!」
……。
なるほど。
法律を覚えると。
危ない看板まで、気になるようになるんですね。
ちょっと困ります。
でも。
看板が落ちて、誰かがケガをするよりは。
ずっと、いい。
私は看板を支えながら、もう一度心の中で唱えました。
占有者。
所有者。
求償権。
そして。
民法七百十七条の、本当の教訓。
壊れた物の責任は、壊れた瞬間に消えない。
誰かの生活を壊したのなら。
その損害を、誰が負担すべきなのか。
法律は、そこまで見届けようとするのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




