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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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544/701

[民法・使用者責任]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 従業員がやったことだから、会社は関係ありません。


 この言葉。


 一見すると、正しいように聞こえます。


 悪いことをした本人が責任を取る。


 それは当然です。


 でも。


 その従業員が、会社の制服を着て。


 会社のトラックに乗り。


 会社の指示で仕事をしている最中に。


 誰かの財産を奪ってしまったとしたら。


 本当に、会社は何の責任も負わないのでしょうか。


 そして。


 会社が被害者に損害賠償をした場合。


 今度は、その従業員に全額を請求してもよいのでしょうか。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は、机の上に六法と判例集を広げていました。


 今日のテーマは。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


 そして。


 最高裁昭和三十九年二月四日。


 最高裁昭和五十一年七月八日。


 この二つの判例です。


「……先輩」


「何だ」


「使用者責任って、二回もひっくり返る法律なんですね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がひっくり返るんだ」


「最初は、悪いことをした従業員が責任を取ると思うじゃないですか」


「ああ」


「でも、会社にも責任がある場合がある」


「そうだな」


「ところが今度は、会社が従業員に求償できる」


「うん」


「じゃあ結局、従業員が全部払うのかと思ったら、それも必ずしもそうじゃない!」


 私は両手を広げました。


「責任が、行ったり来たりするんです!」


 相馬先輩は、しばらく私を見つめました。


 そして。


「……お前、法律を何だと思ってるんだ」


「責任のキャッチボールです!」


「投げて遊ぶな!」


 怒られました。


 でも。


 これ、意外と大事な話なのです。


 ◇


「まず、昨日の事件を思い出せ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートを開きました。


 野村澄江さん。


 五十八歳。


 駅前の寝具店を営む女性です。


 山吹温泉旅館から、布団四十組の注文を受けました。


 販売価格八十万円。


 商品を運ぶことになったのは、東海急送株式会社。


 その従業員、大野修一。


 大野は、会社のトラックに乗り、会社の制服を着て、正規の集荷業務として布団を預かりました。


 ところが。


 届け先の旅館へ運ばず、中古品店に二十万円で売却してしまった。


 当然。


 澄江さんは大損害です。


 旅館との約束を守るため、別の布団を急いで調達しなければならなくなりました。


 その費用、八十万円。


 ところが、運送会社の黒田社長は言いました。


「従業員が勝手にやったことだ。会社は関係ない!」


 私は、昨日の社長の顔を思い出しました。


「……腹が立ちますね」


「今さらか」


「だって、会社の仕事で預かった荷物ですよ!」


 相馬先輩が頷きました。


「だから七百十五条が問題になった」


 そう。


 使用者責任。


 従業員が事業の執行について第三者に損害を与えた場合、一定の要件のもとで使用者にも損害賠償責任を負わせる制度です。


 私はノートに、大きく書きました。


 ――民法七百十五条。


 そして、その下に。


 ――使用者責任=被用者の不法行為について、使用者にも賠償責任を負わせる制度。


「先輩」


「何だ」


「これ、会社じゃなくても成立しますよね」


「ああ」


「個人商店の店主が従業員を雇っている場合も?」


「当然、問題になる」


「法人だけの制度じゃないんですね」


 私は赤鉛筆を握りました。


 使用者。


 つまり、ある事業のために他人を使用する者。


 会社に限らない。


 個人事業主でもよい。


「で、誰が守られるんだ?」


 相馬先輩が尋ねました。


「被害を受けた第三者です」


「そうだ」


 今回なら、澄江さん。


 会社の内部事情なんて知りません。


 大野がどんな人間だったか。


 会社がどんな教育をしていたか。


 荷物をどんな方法で管理していたか。


 普通のお客さんには、分からないのです。


 なのに。


「従業員が勝手にやりました。あとは本人を探してください」


 それだけで会社が逃げられるとしたら。


 被害者は、行方不明になった従業員を探し回らなければなりません。


 しかも。


 見つかったとしても、賠償するだけのお金を持っているとは限らない。


「……確かに、それじゃ困ります」


 私が言うと、片桐所長が静かに頷きました。


「事業によって生じる危険を、誰が負担すべきか。それを考えるんだ」


 なるほど。


 法律の言葉でいうなら。


 報償責任。


 危険責任。


 使用者は、被用者を使って事業を行い、利益を得る。


 また、その事業活動を組織し、一定の危険を生み出す立場でもある。


 だから、一定の場合には、その事業活動から生じた損害について責任を負う。


 もちろん、これは制度を理解するための考え方です。


 実際に責任が成立するかは、民法七百十五条の要件で判断しなければなりません。


「所長」


「何だ」


「利益だけ会社、損害だけ従業員と被害者、では不公平なんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 よし。


 ここは、もう忘れません。


 ◇


「じゃあ、使用者責任の成立要件を整理します!」


 私はノートの中央に、五つの項目を書きました。


 一つ目。


 使用関係。


 二つ目。


 被用者の不法行為。


 三つ目。


 事業執行性。


 四つ目。


 使用者の免責事由の有無。


 五つ目。


 第三者の損害と因果関係。


「……多いですね」


「五つくらいで泣くな」


 相馬先輩が言いました。


「泣いてません!」


「顔が泣いてるぞ」


「民法は、覚えることが多いんです!」


「だったら昨日の事件に当てはめろ」


 あ。


 そうでした。


 丸暗記ではなく。


 事件に当てはめて理解する。


 私は、最初の項目に丸をつけました。


 ――第一。使用関係。


「大野さんは、東海急送の正社員でした」


「そうだな」


「だから使用関係があります」


「うん。だが、正社員じゃなかったらどうだ?」


「……え?」


 相馬先輩は、机を指で叩きました。


「日雇いだったら?」


「ええと……」


「雇用契約書がなかったら?」


「……」


「給料じゃなく、出来高払いだったら?」


 私は少し考えました。


 そして、顔を上げました。


「あ!」


「何だ」


「使用者責任って、雇用契約の有無だけで決めるわけじゃありません!」


「そうだ」


 私は勢いよく書きました。


 ――事実上の指揮監督関係が重要。


 使用関係。


 これは、形式的な雇用契約だけを意味するわけではありません。


 実際に、ある人が別の人を自分の事業のために使用し、指揮監督する関係があるか。


 そこを見ます。


 たとえば。


 運送会社が、短期の作業員を雇ったとします。


 正式な雇用契約書は作っていない。


 でも。


 会社が仕事を割り振り。


 車両を指定し。


 集荷先を指示し。


 作業の進め方も監督していた。


 そうした場合。


「契約書がないから使用関係もない」


 とは、簡単には言えません。


「逆に、先輩」


「何だ」


「個人事業主という契約書があれば、使用関係は絶対に否定されるんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 契約書にどう書いてあるか。


 それも資料の一つです。


 でも、それだけで決まるとは限らない。


 実際の指揮監督の状況が大切なのです。


「東海急送の場合は?」


「会社が配車指示を出して、大野さんが従っていました!」


「よし」


「会社の業務として、会社のトラックで荷物を集めていました!」


「そうだ」


 私はノートに丸をつけました。


 第一関門。


 使用関係。


 今回の事件では、明らかな事情が揃っています。


 ――第二。被用者の不法行為。


「ここは民法七百九条ですね!」


 私は勢いよく言いました。


「大野さん本人が、故意に澄江さんの布団を売却しました」


「そうだな」


「他人の財産的利益を侵害し、損害を生じさせています」


 相馬先輩が頷きました。


「七百十五条は、何もしていない従業員について、会社に賠償させる制度じゃねえ」


「はい」


 ここが重要です。


 使用者責任を考える前提として、被用者の行為について、一般不法行為の要件を検討します。


 故意または過失。


 権利または法律上保護される利益の侵害。


 損害の発生。


 因果関係。


 こうしたものです。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「会社の車が、台風で倒れた木に押し流されて、たまたま他人の家を壊した場合は?」


「それだけじゃ判断できねえな」


「ですよね」


 従業員に不法行為が成立するかどうか、具体的な事情を見なければなりません。


 事故が起きたというだけで、当然に七百九条の不法行為が成立するわけではない。


 したがって。


 使用者責任も、何でも成立するわけではないのです。


「今回の大野さんは?」


「故意に他人の荷物を売ったので、不法行為が成立すると考えられます!」


「よし」


 私は二つ目にも丸をつけました。


 使用関係。


 被用者の不法行為。


 ここまで、順調です。


 でも。


 次が、昨日の事件の最大の争点でした。


 ――第三。事業執行性。


「来ました!」


 私は赤鉛筆を握りました。


「これが今回の主役ですね!」


 相馬先輩が笑いました。


「使用者責任の主役は七百十五条だろ」


「でも、黒田社長が必死に逃げようとしたのは、ここです!」


 そう。


 東海急送の黒田社長。


 あの人は言いました。


 ――うちの仕事は荷物を運ぶことだ! 売ることじゃねえ!


 確かに、その言葉だけを聞けば筋が通っているようにも思えます。


 運送会社の仕事は運送です。


 荷物を盗んで売ることではありません。


 では。


 従業員が仕事中に荷物を盗んだ場合。


 それは、当然に業務外の行為になるのでしょうか。


「先輩!」


「何だ」


「ここで、最高裁昭和三十九年二月四日ですね!」


「そうだ」


 私は判例集を開きました。


 そして、ノートに書きました。


 ――事業執行性は、行為の外形から客観的に判断する。


「外形……」


 私は呟きました。


「つまり、見た目ですか?」


「見た目だけで決めるって意味じゃねえぞ」


「えっ」


「制服を着ていれば、どんな悪事でも会社の責任になると思うか?」


「……なりません」


「そうだろ」


 私は頷きました。


 ここは、きちんと理解しなければなりません。


 最高裁昭和三十九年二月四日の判例は、事業の執行についての行為かどうかを、行為の外形から客観的に判断する考え方を示しています。


 そのため。


 従業員が内心では自分の利益を得ようとしていた。


 会社から許されていないことをした。


 そういう事情だけで、直ちに事業執行性が否定されるわけではありません。


「でも、先輩」


「何だ」


「どこまでが仕事の範囲なんでしょう?」


「具体例で考えろ」


 私はノートを開きました。


「まず、運送会社の従業員が、配達中に不注意で他人の荷物を壊した場合」


「うん」


「これは、事業の執行についての行為と考えやすいですね」


「そうだな」


「じゃあ、仕事中に会社の車を使って、勝手に私用の買い物へ行った場合は?」


「状況による」


「むむ……」


「運転していた理由、仕事とのつながり、会社の車をどう使っていたか。いろいろ見る必要がある」


「はい」


「じゃあ、休日に自分の家で知人と喧嘩して怪我をさせたら?」


「通常は、会社の事業執行性が認められません!」


「そうだ」


 私は、さらに書きました。


 今度は今回の事件です。


 東海急送の大野。


 会社の指示を受けて集荷。


 会社のトラック。


 会社の制服。


 会社の伝票。


 正規の運送契約に基づいて布団を受領。


 ところが、その布団を無断で売却。


「これは……」


 私は鉛筆を止めました。


「仕事として預かったことと、勝手に売ったことが、つながっていますね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きます。


「単に従業員が勤務時間中に悪さをした、というだけじゃねえ」


「はい」


「運送業務で預かった荷物について、不正をしたんだ」


 なるほど。


 会社の信用と業務上の立場を利用して、被害者から荷物を預かった。


 その荷物を横流しした。


 だからこそ、会社の事業との客観的な関係を、慎重に検討する必要がある。


 もちろん、荷物を預かったあとの不正行為すべてについて、自動的に使用者責任が認められるわけではありません。


 職務の内容や行為の態様によって、結論は変わり得ます。


 でも。


「勝手にやったから、業務外」


 それだけで決着する話でもないのです。


「所長」


「何だ」


「外形標準説って、言葉だけ覚えていたら危なかったですね」


 片桐所長が頷きました。


「何をしたか。その行為が、どんな職務と結びついているか。そこを見ろ」


「はい!」


 私は、大きく赤線を引きました。


 ――業務命令違反や私利目的があっても、それだけで事業執行性は否定されない。


 よし。


 これは試験でも使える。


 それ以上に。


 昨日の黒田社長の主張が、なぜ簡単には通らなかったのか。


 はっきり分かりました。


 ◇


「次は、使用者の免責事由です」


 私はノートの四つ目を指差しました。


 そして、少し考えました。


「先輩」


「何だ」


「私、ここで間違えかけたんです」


「知ってる」


「まだ何も言ってません!」


「昨日、所長に直されてただろ」


 ……。


 見られていました。


 私は咳払いしました。


「使用者責任の成立要件を考えるとき、会社が監督について相当の注意をしていなかったこと、って覚えたくなるんです」


「うん」


「でも、被害者が会社の監督不十分を全部証明しなければならない、という整理は違うんですよね」


「そうだ」


 私は六法を開きました。


 民法七百十五条一項のただし書。


 使用者が、被用者の選任と事業の監督について相当の注意をしたとき。


 または。


 相当の注意をしても、損害が生ずべきであったとき。


 その場合には、使用者は責任を免れることがあります。


「つまり!」


 私は言いました。


「免責を求める使用者側が、その事情を主張し、立証するんですね!」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、お前が澄江さんだったら考えてみろ」


「はい?」


「運送会社の従業員が、どうやって採用されたか知ってるか?」


「知りません」


「会社が、どんな教育をしていたかは?」


「知りません」


「上司が、普段どんな監督をしていたかは?」


「……それも知りません」


「だろ」


 なるほど。


 被害者は、会社の内部に入れません。


 採用記録も。


 教育記録も。


 勤務管理の資料も。


 基本的には、会社側が持っています。


 それなのに。


「会社がきちんと監督していなかったことを、被害者が証明しなさい」


 と一方的に求められたら。


 被害者は、とても不利になります。


「だから、免責事由として会社側に立証を求めるんですね」


「そうだ」


 私は、大きく丸をつけました。


 ――相当の注意を尽くしたことなどは、使用者側の免責事由。


 ここ。


 行政書士試験でも、引っかけられそうです。


「でも、先輩」


「何だ」


「会社が従業員に『悪いことをするな』って言っていたら、相当の注意をしたことになりますか?」


「それだけで足りると思うか?」


「……思いません」


「だろ」


 ただ注意した。


 就業規則に禁止事項を書いた。


 朝礼で指導した。


 そうした事情は、監督の状況を考える材料にはなります。


 しかし。


 それだけで必ず免責されるわけではありません。


 事業の性質。


 危険の内容。


 実際の管理体制。


 具体的な損害発生の事情。


 それらを考えなければならない。


 そもそも、使用者の免責は、実務上簡単に認められるものではありません。


「東海急送ならどうでしょう?」


 私は尋ねました。


「荷物を預かる会社だから、集荷品の管理や配送状況の確認が大切ですよね」


「そうだな」


「もし会社が、荷物の行方をまったく確認していなかったら?」


「監督の相当性を判断するうえで問題になるだろうな」


「なるほど……」


 私は、少しだけ怖くなりました。


 会社にとって。


 従業員を雇うことは、給料を払うことだけではない。


 事業を適切に管理し、監督することも大切なのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「七百十五条には、二項もある」


「あっ!」


 私は六法を確認しました。


 民法七百十五条二項。


 使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。


「つまり、現場の監督者も責任を負う場合があるんですね!」


「そうだ」


 今回なら、配車係や営業所長などが問題になる可能性があります。


 ただし。


 単に肩書があるだけで、誰もが当然に責任を負うわけではありません。


 実際に、使用者に代わって事業を監督する立場にあったのか。


 その点を確認する必要があります。


「じゃあ、東海急送の営業所長も、必ず責任を負いますか?」


「必ずとは言えん」


 所長が答えました。


「肩書だけで判断するな」


「はい」


「実際の権限と役割を確認するんだ」


 私は頷きました。


 使用者責任。


 会社だけを見ればよいわけではない。


 現実の事業運営では、使用者に代わって監督する人がいることもあります。


 民法は、そのことも考えているのです。


「なるほど……」


 私はノートに書き足しました。


 ――七百十五条二項。代理監督者にも責任が生じる場合がある。


 そして。


 いよいよ、最後の要件です。


 ――第五。第三者の損害と因果関係。


「これは、澄江さんの八十万円ですね!」


 私は言いました。


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、八十万円って数字は、どうやって出した?」


「帳簿と領収書を確認しました!」


「そうだ」


 被害者が、


「八十万円の損害を受けました!」


 と叫ぶだけでは足りません。


 何を失ったのか。


 どんな費用が生じたのか。


 その損害が、問題となった行為によって発生したのか。


 具体的に検討し、資料で裏づける必要があります。


 今回なら。


 最初に預けた布団四十組が失われた。


 旅館への納品義務を果たすため、同等品を再調達した。


 その費用が八十万円だった。


 そして、販売代金を二重に受け取ったわけではありません。


「先輩」


「何だ」


「再調達費用と、最初に失われた布団の価値を、何も考えずに足したら駄目ですね」


「そうだ」


 同じ損害を二重に請求することはできません。


 また、再調達費用がすべてそのまま認められるとも限りません。


 必要性や相当性を検討します。


 だからこそ。


 片桐所長は、最初に私が書いた八十万円を、そのまま信用しなかったのです。


「事実を確かめろ」


 あの言葉。


 今なら意味が分かります。


 法律の条文を知っていても。


 損害額を証明できなければ、請求は弱くなる。


 反対に。


 資料がきちんと揃っていれば、相手も簡単には否定できません。


「所長」


「何だ」


「やっぱり、書面作成って大変ですね」


「そうだな」


「ただ文字を書く仕事じゃないんですね」


 所長は静かに答えました。


「事実を、法律に結びつける仕事だ」


 私は、その一言をノートに書きました。


 ◇


「よし!」


 私は六法を閉じました。


「これで、使用者責任の成立要件は整理できました!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「じゃあ、質問だ」


「はい!」


「使用者責任が成立すると、従業員本人は責任を免れるのか?」


「免れません!」


 私は即答しました。


「従業員本人には、民法七百九条の不法行為責任があります!」


「そうだ」


「使用者にも、七百十五条による責任が成立する場合があります!」


「よし」


 そう。


 ここは重要です。


 使用者責任は、従業員の責任を会社に移して、本人を無責任にする制度ではありません。


 被害者は、要件を満たせば、従業員本人にも使用者にも賠償を求めることができます。


 もちろん。


 同じ損害について、二重に賠償金を受け取れるわけではありません。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「澄江さんが大野さんから八十万円全部を受け取っていた場合、会社にも同じ八十万円を請求して、合わせて百六十万円を受け取れるんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 損害賠償は、失われた利益を補うためのもの。


 同一の損害について、二重に利益を得る仕組みではありません。


 私は、ノートに書きました。


 ――被用者本人は七百九条。使用者は七百十五条。同じ損害を二重取りはできない。


「……なるほど」


 私は頷きました。


 それなら。


 次の問題も、少し見えてきます。


「先輩!」


「何だ」


「会社が八十万円を払ったら、その負担は最終的に誰がするんですか?」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「やっと、そこまで来たか」


 私はノートをめくりました。


 使用者責任。


 最大の後半戦。


 求償権です。


 ◇


「まず、七百十五条三項を読め」


 相馬先輩が言いました。


 私は六法を開きました。


 民法七百十五条三項。


 使用者や代理監督者から被用者に対する求償権の行使は、妨げられません。


「つまり、会社が被害者に賠償したら、従業員に対して求償できるんですね」


「そうだ」


「じゃあ、東海急送が八十万円払ったから、大野さんに八十万円を請求できる……」


 私はそこで止まりました。


 あれ?


 確か。


 重要判例がありました。


「先輩!」


「何だ」


「昭和五十一年七月八日!」


「また日付を叫ぶな!」


 私は判例集を開きました。


 最高裁昭和五十一年七月八日。


 使用者から被用者への求償権。


 その範囲について重要な考え方を示した判例です。


「これです!」


 私は指で押さえました。


 使用者が、被用者の行為によって生じた損害を賠償した場合。


 使用者は、被用者に対して求償することができます。


 しかし。


 その範囲は、無制限ではありません。


 事業の性格。


 規模。


 施設の状況。


 被用者の業務内容。


 労働条件。


 勤務態度。


 加害行為の態様。


 損害発生についての事情。


 こうした事情を考慮し。


 損害の公平な分担という観点から。


 信義則上相当と認められる限度で、求償が認められる。


「……長い!」


 私は叫びました。


「覚えることが多すぎます!」


 相馬先輩が笑いました。


「全部丸暗記しようとするからだ」


「じゃあ、どうすればいいんですか!」


「理由を考えろ」


 先輩は、机の上に二枚の紙を置きました。


 一枚目。


 会社。


 二枚目。


 従業員。


「会社は、従業員の働きで利益を得る」


「はい」


「でも、仕事に危険はつきものだ」


「そうですね」


「従業員がミスをしたからといって、会社が払った金を毎回全額押しつけたらどうなる?」


 私は少し考えました。


「従業員が、とても大きな負担を負うことになります」


「そうだ」


「しかも、会社が管理体制を整えずに、危険な仕事を従業員に押しつけていた場合もあります」


「そのとおり」


 たとえば。


 運送会社の運転手。


 毎日、何時間も車を運転している。


 会社は、その仕事で利益を得る。


 でも。


 交通事故の危険は、完全にはゼロにできません。


 もし、従業員が不注意で事故を起こしたとき。


 会社が被害者へ賠償した金額を、常にすべて従業員へ請求できるとしたら。


 運転手は、人生を失うほどの負担を負うかもしれない。


 一方で、会社は事業の利益を得ながら、危険に伴う損失だけを従業員へ押しつけられることになってしまう。


「……それは不公平ですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「だから、信義則上相当な範囲という考え方がある」


 なるほど。


 損害の公平な分担。


 これは、ただ従業員を甘やかすための制度ではありません。


 会社と従業員の双方が、どんな立場で、どんな事情のもとで損害を発生させたか。


 そこを考えるための仕組みなのです。


「でも、先輩」


「何だ」


「今回の大野さんは、うっかり事故を起こしたわけじゃありません」


「そうだな」


「故意に布団を売っています」


「そうだ」


「それでも、全額求償できないんですか?」


 相馬先輩は頷くでもなく、首を振るでもなく言いました。


「そこを決めつけるな」


「え?」


「昭和五十一年の判例は、どんな場合でも求償額を必ず減らせ、という意味じゃねえ」


「はい」


「故意に不正をした場合は、その行為の悪質さが重要な事情になる」


「なるほど……」


「結果として全額の求償が認められることもあり得る。反対に、会社の管理や損害発生の事情も検討しなければならない」


 私は、ゆっくり頷きました。


 つまり。


 使用者が払ったから、当然に全額求償できる。


 これも駄目。


 求償権には制限があるから、絶対に全額は請求できない。


 これも駄目。


 具体的な事情を考えて判断する。


「所長」


「何だ」


「民法って、『絶対』って言いたくなると危険ですね」


「そうだな」


 所長が頷きました。


「例外と要件を忘れるからな」


 私は、大きく書きました。


 ――求償は可能。ただし、その範囲は損害の公平な分担から判断する。


 よし。


 これで、最高裁昭和五十一年七月八日も忘れません。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、昭和五十一年の判例を、どうしてそんなに詳しく知ってるんだ?」


 ……。


 私は固まりました。


 しまった。


 またです。


 現代の行政書士受験生だった私は、判例を何度も勉強しています。


 でも。


 昭和六十三年の十八歳の見習いとしては、知りすぎているかもしれません。


「え、ええと……」


「何だ?」


「勉強しました!」


「いつ?」


「……夢の中で!」


 相馬先輩が、しばらく黙りました。


 そして。


「お前、寝てるときまで六法読んでるのか」


「そ、そうなんです!」


「変な奴だな」


 危ない。


 危ない。


 何とか誤魔化せました。


 私は慌てて話題を変えました。


「そういえば先輩!」


「何だ」


「民法七百十五条って、私が知っている現代の民法でも、ほとんど同じ考え方なんですよ!」


「……また現代?」


「あっ」


 しまった。


 二回目。


「いえ、その!」


「何だ」


「将来も使えそうな、基本的な考え方ですよね!」


 相馬先輩が首をかしげました。


「そりゃそうだろ」


 私は、ほっと息をつきました。


 でも。


 ここは、実際に大切なことなのです。


 民法は、時代によって変わってきました。


 債権法の大改正。


 成年後見制度への転換。


 消滅時効の見直し。


 契約不適合責任という用語。


 現代の私が当たり前に使う言葉の中には、昭和六十三年では通用しないものがあります。


 しかし。


 使用者責任の基本的な仕組みを定める民法七百十五条は、昭和六十三年にも存在しています。


 今回の中心となった二つの最高裁判例も、すでに示されています。


「……面白いですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「民法って、変わるところと、変わらないところがあるんです」


 片桐所長が顔を上げました。


「当然だ」


「え?」


「改正の必要がある制度は改める。だが、積み重ねてきた考え方を、何でも捨てるわけじゃない」


 私は頷きました。


 なるほど。


 昭和の民法と令和の民法。


 まったく別の法律ではありません。


 長い時間をかけて、制度や考え方が整理されてきたものです。


 そして。


 現代の使用者責任も、基本的には同じ民法七百十五条によって規律されています。


 昭和三十九年の判例。


 昭和五十一年の判例。


 これらを理解することは、現代の民法を理解することにもつながります。


「今回ばかりは、未来の条文を持ち込んで怒られずに済みました……」


 私は小声で呟きました。


「何だって?」


「何でもありません!」


 相馬先輩が不審そうな顔をしました。


 危ない。


 三回目はありません。


 ◇


「さて、最後に確認問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私は姿勢を正しました。


「第一問。従業員が仕事中に不法行為をした。会社は必ず責任を負うか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「使用関係、被用者の不法行為、事業執行性、損害と因果関係などを検討します。使用者に免責事由がある場合もあります!」


「よし」


「第二問。正社員でなければ、使用者責任は成立しないか?」


「成立する場合があります!」


「理由は?」


「形式的な雇用契約の有無だけではなく、事実上の指揮監督関係が重要だからです!」


「よし」


「第三問。従業員が会社の命令に違反して、自分の利益のために行動した。事業執行性は当然に否定されるか?」


「否定されません!」


「判例は?」


「最高裁昭和三十九年二月四日です! 行為の外形から客観的に判断します!」


 相馬先輩が頷きました。


「第四問。使用者が『うちは十分に監督していた』と主張した場合、それだけで免責されるか?」


「されません!」


「どうする?」


「相当の注意を尽くしたことなどについて、使用者側が具体的な事情を主張立証する必要があります!」


「よし」


「第五問。会社が被害者に八十万円を賠償した。従業員には必ず八十万円全額を求償できるか?」


「必ずではありません!」


「判例は?」


「最高裁昭和五十一年七月八日!」


「結論は?」


「事業の性格や規模、業務内容、労働条件、加害行為の態様などの事情を考慮し、損害の公平な分担という観点から、信義則上相当と認められる限度で求償できます!」


 私は、言い終わると同時に拳を握りました。


「どうですか!」


 相馬先輩は、少し驚いたような顔をしました。


「……覚えてるじゃねえか」


「当然です!」


「昨日まで、事業執行性で混乱してたくせに」


「昨日の私と、今日の私は違うんです!」


「一晩で偉そうになりやがって」


 私は笑いました。


 でも。


 本当に、昨日とは違います。


 使用者責任。


 最初は。


 従業員が悪いことをしたら、会社も責任を負う。


 ただ、それだけだと思っていました。


 でも、今は違います。


 会社と従業員の関係。


 本人の不法行為。


 事業執行性。


 使用者の免責。


 損害と因果関係。


 監督者の責任。


 そして、求償権。


 それらが、一本の線でつながっています。


「所長」


「何だ」


「この条文って、よくできていますね」


 所長が頷きました。


「どういう意味だ」


「被害者を守るだけじゃなく、会社や従業員の立場も考えているんです」


「うん」


「被害者が請求できるかという問題と、会社と従業員の最終的な負担をどうするかという問題を、分けて考えている」


「そうだ」


 私は、少し胸を張りました。


「だから、使用者責任は公平のための制度なんですね」


 片桐所長が、短く答えました。


「それでいい」


 ◇


 窓の外は、もう暗くなっていました。


 事務所の裸電球が、机の上の六法を照らしています。


 私は、今日のノートを見返しました。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


 昭和三十九年二月四日。


 事業執行性。


 昭和五十一年七月八日。


 求償権の範囲。


 それぞれ、別々の論点だと思っていました。


 でも。


 あの八十万円の事件を思い出すと、自然につながります。


 澄江さんは、会社の看板を信じて布団を預けた。


 従業員は、仕事として預かった荷物を売った。


 会社は、従業員個人の不正だから関係ないと主張した。


 しかし、民法七百十五条による責任が問題になった。


 そして会社が賠償したあとには、今度は従業員への求償が問題になる。


 誰か一人が悪いから。


 全部その人の責任。


 それだけでは、解決しない場合があるのです。


「……よし」


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――使用者責任は「使用関係・不法行為・事業執行性・損害」を確認し、免責は使用者側、求償は公平に判断する。


「できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「……長くねえか?」


「えっ?」


「一行って言うには、長すぎるだろ」


「大事なところを全部入れたんです!」


「欲張るな」


「じゃあ、先輩ならどう書きます?」


 相馬先輩は、少し考えました。


 それから。


「会社の仕事で生じた損害なら、会社も責任を負うことがある。だが、最後の負担は公平に決める」


 私は、思わず目を丸くしました。


「……先輩」


「何だ」


「分かりやすいです!」


「当たり前だろ」


「悔しい!」


「何で悔しがるんだよ!」


 私は笑いました。


 でも。


 その言葉は、頭にすっと入りました。


 会社の仕事で生じた損害。


 会社も責任を負う場合がある。


 ただし。


 会社だから何でも責任を負うわけではない。


 事業執行性などの要件が必要。


 そして。


 会社が賠償したあとの求償も、事情を考えて判断する。


 完璧です。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりだ」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「……はい」


「六法を棚に戻せ」


「はい」


「それから、床も掃いとけ」


「……」


 私は、少し考えました。


 そして。


「先輩」


「何だ」


「一つ質問していいですか?」


「嫌な予感しかしねえな」


「私、片桐事務所の仕事をしていますよね」


「してるな」


「所長から指示を受けていますよね」


「そうだな」


「つまり、指揮監督関係がありますよね!」


 相馬先輩が、怪訝な顔をしました。


「……何が言いたい」


 私は胸を張りました。


「もし私が掃除中に、先輩の大事な湯呑みを割ったら、所長にも使用者責任があるんですか!」


 相馬先輩が、一瞬固まりました。


 そして。


「お前な……」


「はい!」


「七百十五条を何だと思ってるんだ!」


「使用者責任です!」


「掃除中に湯呑みを割れば何でも会社の責任になるってわけじゃねえぞ!」


「分かってます!」


 私は、さらに言いました。


「私に過失があるか、所長との使用関係があるか、事業執行性が認められるか、誰にどんな損害が生じたか。それに免責事由も検討します!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「……全部言えるじゃねえか」


「はい!」


 私は得意になりました。


 すると。


 奥から、片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「湯呑みは割るな」


「……はい」


「それから、掃除をしろ」


「はい……」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「何がですか!」


「使用者責任を勉強したからって、掃除を免除されるわけじゃねえ」


「そんなこと、分かってます!」


「じゃあ、早く掃け」


「はいっ!」


 私は箒を手に取りました。


 事務所の床を、ゆっくり掃き始めます。


 窓の外には、帰宅する人たちの姿が見えました。


 商店街の店主。


 配達を終えた運転手。


 工場帰りの作業員。


 会社から帰る事務員。


 誰もが、誰かの仕事に支えられて生活しています。


 そして。


 仕事の中で、誰かに損害を与えてしまうこともあります。


 そんなとき。


 誰が責任を負うのか。


 どこまで負うのか。


 どんな事情を考えるべきなのか。


 それを決めるのが、民法です。


 私は箒を止めて、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――使用者責任は「使用関係・不法行為・事業執行性・損害」を確認し、免責は使用者側、求償は公平に判断する。


 よし。


 今日も、一つ賢くなりました。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「またノート見てるだろ!」


「確認です!」


「掃除中だろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「これも事業の執行についての行為ですよね!」


「そうだよ!」


「じゃあ、使用者責任の勉強になります!」


「勉強は終わりだ!」


 私は笑いながら、再び箒を動かしました。


 民法七百十五条。


 その条文が守っていたのは。


 ただの八十万円ではありません。


 澄江さんの店。


 亡くなったご主人との思い出。


 もう一度働こうとする気持ち。


 そうした、数字には表れない生活も含まれていました。


 そして。


 会社と従業員の間でも。


 責任を一方的に押しつけるのではなく、公平に分担することを考える。


 民法は。


 誰かを無条件に罰するためだけの法律ではありません。


 人と人との間で生じた損害を、どう引き受けるべきか。


 その答えを探すための法律なのです。


 私は、箒を壁に立てかけました。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「使用者責任、もう間違えません!」


「本当だろうな!」


「はい!」


 私は、胸を張りました。


「会社の看板は、責任から逃げるための飾りじゃないんです!」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「……まあ、それは覚えとけ」


 昭和六十三年。


 夕暮れの片桐行政書士事務所。


 また一つ。


 六法の中の難しい言葉が。


 誰かの暮らしを守る、生きた知識に変わったのでした。

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