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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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[民法・使用者責任]現場編 「勝手にやった従業員の責任です」の嘘。会社の看板で奪った八十万円と、社長を青ざめさせた民法七百十五条

挿絵(By みてみん)

 会社の看板は、都合が悪くなった瞬間に外せるものではありません。


 従業員が失敗した。


 だから、会社は関係ない。


 そんな理屈が通るなら。


 大きな会社ほど、責任を逃れるのが簡単になってしまいます。


 でも。


 民法は、そんなに甘くありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私が出会ったのは。


 一人の従業員に責任を押しつけ、八十万円を踏み倒そうとした運送会社の社長でした。


 そして私は、思い知ることになります。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


 この条文が怖いのは。


 社長が直接、悪いことをしていなくても。


 会社が責任を負う場合がある、ということなのです。


 ◇


「八十万円を返してほしいんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、膝の上で手を握りしめていました。


 名前は、野村澄江さん。


 五十八歳。


 駅前商店街で、小さな寝具店を営んでいます。


 ご主人を三年前に亡くし、今は一人暮らし。


「八十万円……ですか?」


 私が聞き返すと、澄江さんは頷きました。


「お布団の代金なんです」


「お布団?」


「はい。旅館に納める予定だったんです」


 事情を聞いて、私は驚きました。


 澄江さんの店に、山間の温泉旅館から注文が入ったそうです。


 掛け布団と敷き布団。


 合わせて四十組。


 代金八十万円。


 地元の寝具店にとっては、大口注文です。


「主人が生きていた頃から、お付き合いのある旅館でしてね」


 澄江さんが微笑みました。


「新しい客室を作るから、うちの布団を使いたいって」


「素敵ですね」


「ええ。本当に嬉しかったんです」


 ところが。


 その布団が、旅館に届かなかった。


「えっ?」


 私は首をかしげました。


「運送会社には渡したんですよね?」


「はい」


 澄江さんは鞄から一枚の伝票を取り出しました。


 ――東海急送株式会社。


 ――集荷受付票。


 ――寝具四十組。


 ――届け先・山吹温泉旅館。


 ――集荷担当・大野修一。


 会社の角印。


 担当者の認印。


 そして、集荷した日付。


 きちんと記入されています。


「これだけ揃っているのに、どうして届かなかったんでしょう?」


 私が尋ねると。


 澄江さんは、唇を震わせました。


「……売られてしまったんです」


「売られた?」


「運送会社の人が、勝手に」


 私は固まりました。


 布団四十組。


 八十万円分。


 それを。


 運送会社の従業員が、勝手に売った?


「そんな……!」


「旅館から電話があって、荷物が届いていないって。それで運送会社に尋ねたら……」


 澄江さんは、もう一枚の紙を取り出しました。


 東海急送から届いた回答書。


 私は読みました。


 ――当社集荷担当者大野修一が、独断で荷物を持ち出し、第三者へ売却したことが判明しました。


 ――本件は大野個人の不正行為であり、当社の業務として行われたものではありません。


 ――従って、当社に賠償義務はありません。


 ……。


 私は、三行目で止まりました。


「え?」


 もう一度読みます。


 ――当社に賠償義務はありません。


「いやいやいや!」


 思わず声が出ました。


 澄江さんがびくっとします。


「あ、すみません!」


 私は慌てました。


「でも、おかしいですよ。会社のトラックで、会社の人が集荷したんですよね?」


「はい」


「会社の伝票もあります」


「はい」


「それなのに、会社には責任がないって……」


「そうなんです」


 澄江さんは俯きました。


「社長さんに会いに行ったら、こう言われました」


 彼女は小さな声で続けました。


「泥棒に入られたのと同じだ。うちも被害者なんだ。文句があるなら本人に言ってくれって」


 私は、机を見つめました。


 泥棒。


 確かに、従業員が勝手に荷物を売ったのなら、その行為は犯罪にもなり得ます。


 でも。


 それだけで会社が免責される?


「大野さんという人は、今どこに?」


「会社を辞めたそうです」


「住所は?」


「分からないと……」


「八十万円は?」


「一円も返ってきません」


 澄江さんは、静かに言いました。


「私、旅館には別の布団を用意して、何とか納めました」


「えっ!」


「約束を破るわけにはいきませんから」


 なるほど。


 澄江さんは、旅館に迷惑をかけないため、もう一度布団を仕入れて納めたのです。


 その結果。


 最初の八十万円分の布団が、丸ごと消えた。


「貯金を崩しました」


 澄江さんは笑おうとしました。


 でも、うまく笑えませんでした。


「主人と二人で、少しずつ貯めたお金です」


 私は、胸が痛くなりました。


 八十万円。


 数字だけなら、試験問題にも出てきそうな金額です。


 でも。


 この八十万円には。


 亡くなったご主人と、何十年も働いてきた時間が詰まっている。


 それを。


「従業員が勝手にやった」


 その一言で、消していいはずがありません。


 ◇


「大丈夫です!」


 私は立ち上がりました。


「会社にも損害賠償を請求できます!」


 澄江さんが顔を上げます。


「本当ですか?」


「はい! 民法七百十五条です!」


 よし。


 今回は分かります。


 使用者責任。


 行政書士試験の重要論点です。


 私は勢いよく説明を始めました。


「従業員が業務中に第三者へ損害を与えた場合、使用者である会社も責任を負うことがあるんです!」


「会社も……?」


「そうです!」


 ここまでは完璧。


 さらに私は続けました。


「現在の民法でも七百十五条ですし、改正前からある制度です! しかも、従業員に賠償した会社は、その全額を従業員に求償できるわけでは――」


「おい」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「お前、何の話をしてる」


「使用者責任です」


「それは分かる」


「じゃあ、何ですか?」


「まだ会社が賠償するかも分からねえのに、会社と従業員の間で誰がいくら負担するかって話をするな」


「あっ」


「相談者が取り戻したいのは、八十万円だろ」


「……はい」


 そうでした。


 私の頭の中では、現代の行政書士試験の知識が高速回転しています。


 使用者責任。


 事業執行性。


 外形標準説。


 求償権の制限。


 最高裁昭和五十一年七月八日。


 重要判例!


 ……でも。


 相談者にとって必要なのは、暗記した判例の名前ではありません。


 失われた八十万円を、誰に請求できるのか。


 その答えです。


「こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「はい」


「七百十五条の成立要件を確認しろ」


「はい!」


 私は指を折りました。


「まず、使用者と被用者の関係があること」


「うん」


「次に、被用者に不法行為が成立すること」


「うん」


「そして、その行為が事業の執行について行われたこと」


「そうだ」


「さらに、会社が選任や監督について相当の注意をしていなかったこと……」


 そこで、所長が言いました。


「最後の点を、どう扱う?」


「え?」


「被害者が、会社の監督不十分を全部証明しないと請求できないのか」


 私は止まりました。


 あ。


 ここ。


 危ない。


「……違います」


「そうだ」


 所長は六法を開きました。


「条文を最後まで読め」


 民法七百十五条。


 ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。


 ただし。


 使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき。


 または、相当の注意をしても損害が生ずべきであったとき。


 この限りでない。


「つまり」


 私は言いました。


「会社側が、免責事由を主張して立証するんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「被害者に、会社の内部事情を全部調べろってのは無茶だろ」


「確かに……」


「採用時に何を確認したか。どんな監督をしていたか。そんなもの、普通は会社の中にある」


 なるほど。


 そこにも、民法の公平という考え方があるのです。


「ただし」


 片桐所長は続けました。


「使用者だから必ず責任を負う、とも書くな」


「はい」


「免責事由はある」


「はい」


「そして何より、今回の行為が『事業の執行について』といえるか。そこが争点になる」


 私は顔を上げました。


 事業の執行。


 ……あれ?


 従業員は、布団を運ぶ仕事をしていた。


 でも。


 勝手に売ったのは、明らかに仕事ではない。


 ということは。


「所長……」


「何だ」


「これ、会社が逃げられる可能性もあるんですか?」


「ああ」


「ええっ!」


 私は思わず叫びました。


 相馬先輩が鼻で笑います。


「だから調べるんだろうが」


 くっ。


 使用者責任。


 覚えるのは簡単だと思っていました。


 従業員が悪いことをした。


 会社も賠償する。


 それだけ。


 でも、違う。


 従業員の不正行為なら何でも会社の責任になるわけではない。


 仕事との関係を、具体的に判断しなければならない。


 そこに。


 今回の事件の壁があったのです。


 ◇


「会社は関係ないって、何度言わせるんだ!」


 翌日。


 東海急送株式会社。


 駅から車で十五分ほどの場所にある、運送会社の営業所です。


 事務所の応接室。


 私たちの前には、社長の黒田剛三が座っていました。


 五十二歳。


 太い腕。


 金色の腕時計。


 机の上には、灰皿と分厚い伝票の束。


 いかにも昔ながらの運送会社の社長です。


 片桐所長は、澄江さんから提供された資料の整理にあたり、会社側の事実関係を確認する目的で面会を申し込んでいました。


 私たちは、ここで澄江さんの代理人として賠償交渉をすることはできません。


 でも。


 どんな事実があったのか。


 それを確認することは、正確な書面を作るために欠かせません。


「集荷したのは大野さんですね」


 相馬先輩が尋ねました。


「ああ」


「会社の従業員でしたか」


「そうだ」


「集荷当日は勤務中だった」


「当然だろ」


「会社のトラックを使っていた」


「使っていたよ」


「会社の制服も着ていた」


「ああ」


「会社の集荷伝票を発行していた」


「そうだ」


 相馬先輩は頷きました。


 黒田社長が机を叩きます。


「だから何だ!」


 先輩は表情を変えません。


「事実の確認です」


「そんなことはどうでもいい!」


「どうでもよくはありません」


「大野が勝手に売ったんだぞ!」


 社長は身を乗り出しました。


「うちの仕事は荷物を運ぶことだ! 売ることじゃねえ!」


 ……。


 なるほど。


 そこですか。


「つまり」


 私は言いました。


「運送業務ではなく、大野さん個人の横領行為だから、会社に責任はないと?」


「そうだ!」


 社長は得意そうに笑いました。


「嬢ちゃん、よく分かってるじゃねえか」


 ……。


 褒められました。


 全然嬉しくありません。


「仕事と関係ねえことを勝手にやったんだ。会社が責任を取る理由がどこにある?」


 黒田社長は椅子にもたれました。


「法律だって、そこまで無茶は言わねえだろ」


 私は、すぐに反論しかけました。


 でも。


 相馬先輩の視線が、私を止めました。


 口で争うな。


 まず、事実。


 私は深呼吸しました。


「社長、一つ確認してもよろしいですか」


「何だ」


「大野さんは、どのような経緯で布団を預かったんですか?」


「店から依頼があって、普通に集荷したんだよ」


「配達予定先は?」


「山吹温泉旅館だ」


「その集荷依頼は、会社が受けたんですか?」


「そうだよ」


「会社の配車係が、大野さんに指示したんですか?」


「ああ」


 ……。


 私は、心の中で鉛筆を握りました。


 重要。


 非常に重要。


 大野さんは、勝手に澄江さんの店へ押しかけたのではない。


 会社が受けた依頼に従って。


 会社の指示で。


 会社の車を使って。


 会社の仕事として、布団を受け取った。


 そして。


 その布団を、届けずに売った。


「ところで」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「大野さんは、荷物をどこへ運んだんですか」


 黒田社長は眉をひそめました。


「……中古品の買い取り屋だ」


「どこの?」


「駅南の丸福商会」


「会社の車で?」


「ああ」


「集荷した当日に?」


「そうだ」


 所長は静かに頷きました。


「ありがとうございました」


 えっ。


 終わり?


 私は驚きました。


 もっと追及するのかと思ったのに。


 相馬先輩も、手帳を閉じました。


「確認したかった点は以上です」


「何だ、もう帰るのか」


 黒田社長が笑いました。


「行政書士ってのは、ずいぶん物分かりがいいんだな」


 私は奥歯を噛みました。


 でも。


 所長は、表情一つ変えません。


「本日の確認内容は、依頼者にお伝えします」


「勝手にしろ」


 社長は煙草をくわえました。


「ただし、言っとくぞ」


「はい」


「会社は一円も払わねえからな」


 私は、その言葉を忘れませんでした。


 会社は一円も払わない。


 果たして。


 内容証明を読んだあとでも、同じことが言えるでしょうか。


 ◇


「先輩!」


 会社を出た途端、私は口を開きました。


「今の話、完全に会社の業務じゃないですか!」


「どうだろうな」


「えっ?」


「布団を運ぶことは業務だ。だが、勝手に売ったことは?」


「……業務じゃありません」


「そうだ」


「でも!」


 私は立ち止まりました。


「事業執行性って、行為の外形から判断するんですよね!」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「ほう」


「最高裁昭和三十九年二月四日!」


 私は勢いよく言いました。


「外形から見て、被用者の職務の範囲に属する行為と認められる場合には、事業執行性が認められ得る!」


 先輩は、少しだけ口元を上げました。


「やっと出たな」


「何がですか?」


「使える知識だ」


 おお。


 褒められました。


 たぶん。


「いいか、こはる」


「はい」


「会社の仕事をしている人間が、仕事の機会を利用して不正をした。そんなとき、本人が私利私欲で動いたから会社は無関係だ、とは簡単にいえねえ」


「はい!」


「ただし、外形だけ見れば何でもいいって話でもねえ」


「え?」


「どんな職務を任され、どんな権限を持っていたのか。どこで、どうやって損害を与えたのか。それを調べなきゃならん」


 なるほど。


 今回なら。


 会社の正規の集荷依頼。


 配車係の指示。


 制服。


 社用トラック。


 会社の集荷伝票。


 預かった荷物。


 それを配達せず、第三者に売却。


 これらの事情を、全部つなげて考える。


「つまり」


 私は言いました。


「大野さんの行為が、会社の事業とどれだけ密接につながっていたか、ですね」


「そうだ」


 相馬先輩は頷きました。


「それとな」


「はい」


「会社が運送契約を結んで荷物を預かったなら、契約上の責任も別に問題になる」


「あ!」


 そうでした。


 債務不履行。


 荷物を届ける約束をしたのに、届けなかった。


 会社の運送契約上の責任も検討しなければならない。


「でも今回は、使用者責任を中心に組み立てるぞ」


「はい」


「一本の条文だけで全部片付けようとするな。だが、争点もぼかすな」


 私は頷きました。


 民法七百十五条。


 今回の中心は、そこ。


 誰が不法行為をしたか。


 誰がその人を使用していたか。


 そして、その行為は事業の執行について行われたものか。


 まるで。


 逃げようとする会社の足元に、一本ずつ杭を打つような作業です。


「先輩」


「何だ」


「もう一つ、気になることがあります」


「言ってみろ」


「大野さん、会社の従業員だったから分かりやすいですけど……」


「うん」


「もし、正社員じゃなかったらどうなるんですか?」


 先輩が足を止めました。


「いい質問だ」


 今度こそ。


 褒められた!


「民法七百十五条の『使用する者』ってのは、雇用契約書の有無だけで決まるわけじゃねえ」


「はい」


「実際に指揮監督する関係があれば、使用関係が認められる場合がある」


「なるほど……」


 正社員。


 アルバイト。


 日雇い。


 名目だけで決めつけない。


 実際に、誰の指示で動いていたか。


 誰の事業のために働いていたか。


 それを見るのです。


「でも今回は、もっと簡単だ」


 先輩が言いました。


「大野は正社員。配車係が指示した正規の集荷だった」


「はい」


「会社が自分で認めてる」


 私は目を丸くしました。


「……そういえば!」


 黒田社長。


 あの人。


 怒鳴りながら、重要な事実を全部認めていました。


 会社の従業員だった。


 勤務中だった。


 会社の指示だった。


 会社の車だった。


 会社の伝票だった。


 なんということでしょう。


 社長の大声が。


 そのまま、会社の責任を検討するための材料になっていたのです。


「先輩!」


「何だ」


「大きな声で喋る人って、案外親切ですね!」


「そんなこと言うな。次から警戒されるだろ」


 私は笑いました。


 でも。


 まだ足りません。


 会社の話だけでは、布団がどこへ行ったのか分からない。


 次に向かったのは。


 駅南の中古品店、丸福商会でした。


 ◇


「布団四十組? ああ、覚えてるよ」


 丸福商会の店主は、あっさり言いました。


 六十歳くらいの男性。


 店の奥には、古い箪笥や中古のテレビが積まれています。


「東海急送の兄ちゃんが持ってきたやつだろ」


「そうです!」


 私は身を乗り出しました。


「覚えているんですか?」


「そりゃ覚えてるさ。あんなに大量の新品の布団、滅多に入らないからな」


 店主は帳簿を取り出しました。


「この日だ」


 昭和六十三年六月十七日。


 集荷当日。


 記録には、こうありました。


 ――寝具四十組。


 ――買入金額 二十万円。


 ――持込人 大野修一。


「二十万円……!」


 私は思わず叫びました。


 八十万円の商品を。


 二十万円で売った?


「変だとは思わなかったんですか?」


 店主は顔をしかめました。


「いや、会社のトラックで来て、制服まで着てたからな。会社の余剰品だって言うんだよ」


「余剰品?」


「ああ。取引先から引き取った処分品だって」


 私は息を呑みました。


 大野は、自分の名前だけではなく。


 会社の信用まで利用して、布団を売ったのです。


「その布団は今もありますか」


「いや、もう売っちまった」


 店主は申し訳なさそうに言いました。


「ただ、帳簿と買い取り伝票は残ってる」


 相馬先輩が口を開きました。


「店主さん。野村さんが提出する資料として、取引記録の写しをいただくことはできますか」


「構わんよ。本人の許可も取っておいてくれ」


「ありがとうございます」


 丸福商会を出たとき。


 私は、手帳に大きな丸をつけました。


「先輩! これで証拠が揃いましたね!」


「まだだ」


「ええっ!」


「損害額を固めろ」


「損害額?」


「八十万円ってのは、何の金額だ」


 私は首をかしげました。


「布団の代金ですけど……」


「販売価格だろ」


「あ」


「仕入れ値は? 利益は? 再調達費用は? 旅館に二度目の布団を納めたとき、どんな支出があった?」


 ……。


 なるほど。


 損害賠償といっても、単に商品の販売価格を書けばよいわけではない。


 実際にどんな財産的損害が生じたか。


 それを、資料で裏づける必要があるのです。


 私は慌てて手帳を開きました。


「澄江さんに、仕入れ伝票を確認します!」


「それと、最初の布団の製造原価もな」


「はい!」


「店で作ったものなら、材料代や外注費の記録もあるだろ」


「はい!」


「曖昧な数字を入れるなよ」


 私は頷きました。


 八十万円。


 それは、澄江さんにとって大きな金額です。


 だからこそ。


 感情だけで請求してはいけない。


 証拠で支える。


 そのための書面なのです。


 ◇


 翌日。


 澄江さんの店で帳簿を確認すると、損害の輪郭がはっきりしました。


 布団四十組。


 旅館への販売価格八十万円。


 最初の四十組は、材料費や縫製の外注費などを含め、七十二万円の費用をかけて製作した商品でした。


 もちろん、完成品としての価値は、材料費だけでは決まりません。


 しかも今回。


 澄江さんは旅館との約束を守るため、同等品を急いで調達しています。


 その費用。


 八十万円。


 請求書。


 領収書。


 旅館への納品書。


 銀行の払戻記録。


 すべて揃っていました。


「八十万円、確かに支払っていますね」


 私が言うと、澄江さんは頷きました。


「ええ。急ぎの注文だったので、いつもより高くなってしまって」


 さらに。


 旅館への当初の代金請求は、そのまま八十万円。


 二重に売上げを得たわけではありません。


 相馬先輩は、帳簿を見ながら言いました。


「今回は、失われた布団の価値や再調達に要した費用を踏まえて、八十万円の請求を組み立てる。費用を二重に足すなよ」


「はい!」


「それから、会社との運送契約書と約款も確認だ」


 私は頷きました。


 事務所へ戻ると、今度は片桐所長が六法を開きました。


「こはる」


「はい」


「不法行為の要件はどうだ」


 私は答えました。


「大野さんが、預かった布団を無断で売却しました」


「うん」


「少なくとも故意によって、他人の財産的利益を侵害しています」


「うん」


「その結果、澄江さんに損害が生じました」


「そうだ」


 民法七百九条。


 不法行為。


 加害者本人の責任。


 そして七百十五条。


 使用者の責任。


「大野さん個人には、七百九条に基づく責任が問題になります」


「そうだ」


「会社には、七百十五条に基づく責任が問題になります」


「よし」


「つまり、加害者本人だけでなく、使用者に対しても請求できる可能性があるんですね」


 所長が頷きました。


 そのとき。


 相馬先輩が、一枚の書類を机に置きました。


「もう一つあるぞ」


「何ですか?」


「会社から取り寄せた運送約款の写しだ」


 私は読みました。


 そこには、荷物の受取りから引渡しまでの取扱いについて、運送会社側が負う義務が定められていました。


「先輩……」


「分かったか」


「そもそも会社自身が、布団を運ぶ契約をしていたんですね」


「そうだ」


 つまり。


 今回の会社には、使用者責任だけでなく、運送契約上の債務不履行責任も問題になる。


 相手が逃げようとしている道は、一つではありません。


 でも。


 その逃げ道をふさぐ法律も、一つではないのです。


「ただし、今回は七百十五条の要件を崩すな」


 相馬先輩が言いました。


「契約責任と不法行為責任をごちゃ混ぜにするなよ」


「はい!」


 私は深く頷きました。


 法律をたくさん知っているだけでは駄目。


 それぞれの法律が、どの事実に結びつくのか。


 そこを整理することが、実務なのです。


 ◇


「何だ、この書き方は」


 午後三時。


 片桐所長が、私の原案に赤鉛筆を入れました。


 嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「ここ」


 所長が指したのは、私の書いた一文でした。


 ――従業員が不法行為を行った以上、会社は当然に全額賠償する義務を負う。


「あ……」


「当然なのか」


「……当然とは限りません」


「だろう」


 赤線。


「使用者責任には、成立要件がある」


「はい」


「免責事由もある」


「はい」


「だから、事実を積み上げろ」


 私は書き直しました。


 大野は、東海急送株式会社の従業員である。


 会社の配車指示に従い、勤務時間中に集荷を行った。


 会社所有の車両を使用した。


 会社指定の制服を着用していた。


 会社の集荷伝票を発行し、荷物を受領した。


 その後、受領した荷物を無断で売却した。


「……これならどうですか?」


 所長が頷きました。


「続けろ」


 私は書きました。


 ――右行為は、貴社の運送事業における正規の集荷業務を通じて預かった荷物について行われたものであり、事業執行性が認められる事情が存在する。


 相馬先輩が覗き込みました。


「判例は?」


「はい!」


 私は、判例集を開きました。


 最高裁昭和三十九年二月四日。


 事業の執行についての行為かどうか。


 その判断では、職務との外形的な関係が重要になる。


「判例を使うなら、事案の違いも意識しろよ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「今回の具体的な事実から、なぜ事業執行性が認められると考えるのか。それを書け」


「分かりました!」


 私はさらに書きました。


 ――被用者が自己の利益を図る目的で不正を行ったことのみをもって、当然に使用者責任が否定されるものではない。


 所長が頷きました。


「よし」


 続いて。


 使用者の免責事由。


 私は鉛筆を走らせました。


 ――貴社において、被用者の選任及び事業の監督について相当の注意を尽くしたとする事情がある場合には、その具体的内容を明らかにされたい。


 ――また、相当の注意を尽くしても本件損害の発生を避けられなかったとする場合には、その根拠を示されたい。


「どうでしょう?」


 相馬先輩が笑いました。


「いいじゃねえか」


「本当ですか!」


「これなら、社長も『うちは関係ない』の一言では済ませにくい」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 所長は、まだ原案を見つめています。


「こはる」


「はい」


「最後の一文だ」


 私は読みました。


 ――本書到達後十四日以内に、損害賠償金八十万円を支払われたい。


 その後ろに、私はこう書いていました。


 ――支払わなければ直ちに会社の財産を差し押さえる。


「……あっ」


 所長が赤鉛筆を動かしました。


 大きなバツ。


「内容証明を送るだけで、差押えができるのか」


「できません……」


「そうだ」


 私は反省しました。


 内容証明郵便は、書面の内容と差出しなどを証明する制度です。


 それ自体が、裁判の判決になるわけではありません。


 強制執行には、原則として債務名義など、別の法的手続が必要です。


「では、どう書けばいいですか」


 私が尋ねると。


 所長は言いました。


「正確に」


 ……。


 短い。


 でも、重い。


 私は書き直しました。


 ――本件について任意の支払又は合理的な回答が得られない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、完成した原案を見つめました。


 事実。


 条文。


 判例。


 損害額。


 請求内容。


 そして、法的措置の可能性。


 相手を怒鳴る言葉は、一つもありません。


 それなのに。


 先ほど会社で聞いた黒田社長の怒鳴り声より、ずっと迫力がある。


「先輩」


「何だ」


「これ、社長が読んだら嫌でしょうね」


「だろうな」


「会社は関係ないって言っていたのに」


「自分で認めた事実が、全部並んでるからな」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は笑いました。


 また出ました。


 相馬先輩の口癖です。


 でも今回は。


 本当に、その意味が分かる気がしました。


 ◇


 翌日。


 澄江さんが事務所に来ました。


 私たちは、完成した内容証明郵便の原案を説明しました。


 差出人は、野村澄江さん本人。


 請求するのも、澄江さん本人です。


 私たちは弁護士ではありません。


 依頼人の代わりに、法律紛争の示談交渉を引き受けることはできません。


 だからこそ。


 本人の意思と確認した事実に基づき、書面を正確に作る。


 そこに、行政書士としての仕事があります。


「これを、私の名前で送るんですね」


 澄江さんが尋ねました。


「はい」


 私は頷きました。


「事実関係と請求内容をご確認ください」


 澄江さんは、ゆっくりと書面を読みました。


 会社の名前。


 集荷した日。


 大野の名前。


 失われた布団。


 八十万円。


 そして。


 民法七百十五条。


「……こんな法律があったんですね」


 澄江さんが言いました。


「はい」


「社長さんは、大野さんが勝手にやったことだから、会社は関係ないって……」


 私は答えました。


「でも、会社の仕事として預かった荷物です。従業員個人の不正だからというだけで、会社が責任を免れるとは限りません」


「そうなんですね……」


 澄江さんは、書面の最後を見つめました。


 そして。


 鞄から印鑑を取り出しました。


「お願いします」


 その手は、少し震えていました。


「主人と二人で守ってきたお店なんです」


 私は黙って聞きました。


「八十万円が戻らなかったら、もう店を畳もうかと思っていました」


 ……。


 胸が苦しくなりました。


「でも、もう少し頑張ってみたいんです」


 澄江さんは、静かに印鑑を押しました。


 朱肉の赤。


 紙の上に、小さな印影が残ります。


 私は、その印影を見つめました。


 たった一つのハンコ。


 でも。


 このハンコは、誰かを騙すためのものではありません。


 自分の財産を守るため。


 自分の生活を守るため。


 そして。


 もう一度、店を続けるためのものです。


 ◇


 内容証明郵便を発送してから、三日後。


 東海急送株式会社の社長室。


 黒田剛三は、届いた書面を机に叩きつけていました。


「……何だ、これは!」


 最初は、いつものように怒鳴ったそうです。


 しかし。


 読み進めるうちに、顔色が変わりました。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


 最高裁昭和三十九年二月四日。


 会社の指示による集荷。


 会社所有の車両。


 会社の集荷伝票。


 そして。


 預かった荷物の無断売却。


「……何で、こんなことまで分かってるんだ」


 黒田社長は、額の汗を拭いました。


 何より。


 書面には、こうありました。


 ――貴社が被用者の不正行為を業務外の行為と評価していることは承知している。しかし、その主観的評価のみで、民法第七百十五条における事業執行性が当然に否定されるものではない。


 社長は、しばらく黙っていたそうです。


 そして。


 知り合いの弁護士に、電話をかけました。


 翌日。


 その弁護士から、事務所へ連絡が入りました。


 相談者本人への連絡方法を確認したい、という内容でした。


 所長は、澄江さんに連絡を取り、会社側からの申入れがあることを伝えました。


 その後。


 澄江さん本人が、会社側の弁護士から説明を受けました。


 そして、その夕方。


 澄江さんが事務所に電話をかけてきたのです。


『朝比奈さん!』


「はい!」


『会社が、八十万円を払うって……!』


「……えっ!」


 私は思わず立ち上がりました。


『弁護士さんが、社長さんに説明したそうです』


「何と?」


『従業員が勝手にやったから会社は関係ない、とは言い切れないって』


 私は受話器を握りしめました。


『それに……』


「はい」


『会社の運送契約上の責任も、かなり問題になるって』


 ……。


 来ました。


 使用者責任。


 そして、債務不履行責任。


 会社が「従業員の個人的な不正」を理由に逃げようとしても、それだけで終わる話ではなかったのです。


『社長さん、裁判になったら困るって言っていたそうです』


「そうですか……!」


『会社の弁護士さんも、争い続けるより、資料を確認したうえで支払う方がいいって』


 私は、相馬先輩を見ました。


 先輩は、何も言わずに頷きました。


 電話口で、澄江さんが続けます。


『八十万円の支払について、書面が届きました』


「はい!」


『来週、振り込んでくれるそうです』


 私は、目を閉じました。


 よかった。


 本当によかった。


 でも。


 相馬先輩が、こちらに向かって指を一本立てました。


 私はすぐに分かりました。


 まだだ。


 入金を確認するまで、終わりではない。


「澄江さん」


『はい』


「会社からの書面は、大切に保管してください。それから、振込みがあったら、通帳で確認してくださいね」


『はい』


「もし支払われなかったり、内容に不安があったりしたら、弁護士さんへの相談も考えてください」


『分かりました』


 澄江さんは、少し笑いました。


『でも、私……』


「はい?」


『もう一度、お店を頑張れそうです』


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は、泣きそうになりました。


 ◇


 一週間後。


 東海急送から、八十万円が振り込まれました。


 澄江さんは通帳を持って、事務所に来ました。


「本当に、入っていました」


 八十万円。


 数字が、そこにありました。


「よかった……!」


 私は心から言いました。


 片桐所長も頷きました。


「まずは、一段落ですね」


「はい。本当にありがとうございました」


 澄江さんは深く頭を下げました。


 その後、会社が送ってきた支払確認書も、所長が確認しました。


 会社側は、本件の損害填補として八十万円を支払ったことを認めています。


 ただし。


 そこには、もう一つ気になる記載がありました。


 ――当社は、元従業員大野修一に対し、支払額全額の求償を予定している。


 ……。


 私は首をかしげました。


「先輩」


「何だ」


「これって、会社が払った八十万円を、全部大野さんに請求するってことですか?」


「そういう意味だろうな」


「でも……」


 私は、現代の受験勉強で覚えた判例を思い出しました。


 最高裁昭和五十一年七月八日。


 使用者から被用者への求償。


 損害の公平な分担。


 信義則上相当と認められる限度。


「あっ!」


 私は声を上げました。


「会社が払ったからって、従業員に必ず全額請求できるとは限りませんよね!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「でも今回は、大野さんが故意に布団を売っているんですよね」


「ああ」


「じゃあ、どうなるんですか?」


 所長が口を開きました。


「事情による」


 ……。


 またです。


 所長の得意技。


 事情による。


 でも。


 今回は、その言葉の意味が分かりました。


 使用者責任が成立して会社が賠償した場合、会社は従業員に求償できる。


 けれど。


 その範囲は、常に機械的に全額となるわけではない。


 事業の性格。


 規模。


 労働条件。


 損害の発生についての事情。


 その他、さまざまな要素を考える。


 そして、損害の公平な分担という観点から判断する。


「ただしな」


 相馬先輩が言いました。


「今回みたいに、従業員が故意に荷物を売り飛ばした場合と、仕事中の不注意で事故を起こした場合じゃ、事情がまるで違う」


「はい」


「大野にどこまで求償できるかは、別に検討が必要だ」


「そうですね」


 私は頷きました。


 使用者責任。


 会社に無条件で全責任を押しつける制度でもない。


 従業員に無条件で全額を押しつける制度でもない。


 それぞれの立場と事情を考え、公平に責任を分担する。


 そこまで見ているのです。


「でも先輩」


「何だ」


「大野さん、ひどいことをしましたよね」


「そうだな」


「それでも、法律はちゃんと条件を考えるんですね」


 先輩は、少しだけ黙りました。


 それから。


「法律ってのは、悪い奴を見つけて全部押しつけりゃ終わり、ってもんじゃねえからな」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 ◇


 数日後。


 澄江さんが、もう一度事務所を訪れました。


 今度は、相談ではありません。


 両手に、大きな紙袋を抱えていました。


「これ、よかったら」


 中には、白い布。


 柔らかな手触り。


「枕カバーなんです」


「えっ!」


「余った生地で作ったものですけど」


 私は慌てました。


「そんな、お気遣いなく!」


「いいんです」


 澄江さんは笑いました。


「また店を続けられるようになった、お礼です」


 私は、枕カバーを一枚手に取りました。


 丁寧な縫い目。


 丈夫な布。


 少しだけ、石鹸のような香りがします。


「ご主人と一緒に作られていたんですか?」


 私が尋ねると、澄江さんは頷きました。


「ええ。主人は布団作りが上手でね」


 そう言って、少し遠くを見るような目をしました。


「私は、縫うのが遅くて。いつも笑われていました」


「そうだったんですね」


「でも、主人がいなくなってからも、店だけは続けたかったんです」


 私は黙って聞きました。


「八十万円がなくなったときは、もう駄目だと思いました」


 澄江さんは、紙袋の持ち手を握りました。


「従業員がやったことだから会社は関係ない、って言われて……」


 その声が、少し震えました。


「誰も責任を取ってくれないのかと思って」


 私は胸が苦しくなりました。


 でも。


 澄江さんは、顔を上げました。


「法律があって、よかったです」


 ……。


 その言葉に。


 私は、何も返せませんでした。


 法律があって、よかった。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


 試験のテキストでは。


 使用関係。


 一般不法行為。


 事業執行性。


 免責事由。


 求償権。


 そんな言葉が並んでいます。


 覚えることが多くて。


 判例も難しくて。


 正直、受験生の頃は面倒だと思っていました。


 でも。


 あの条文がなければ。


 会社は、たった一人の従業員にすべてを押しつけて、逃げようとしたかもしれない。


 そして。


 澄江さんは、八十万円を失ったまま、店を畳んでいたかもしれない。


 そう考えると。


 法律の条文が、急に温かく感じられました。


 ◇


 澄江さんが帰ったあと。


 私は机に向かい、六法を開いていました。


 民法七百十五条。


 使用者責任。


「……先輩」


「何だ」


「会社って、便利ですよね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「従業員に仕事をしてもらって、利益を得られるじゃないですか」


「まあな」


「でも、従業員が失敗したら、全部本人の責任っていうのは、おかしいですよね」


「そうだな」


「会社は利益だけもらって、危険は全部従業員と被害者に押しつけることになります」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、使用者責任って制度があるんだろ」


 私は六法を見つめました。


 使用者は、従業員を使って事業を行う。


 その活動によって利益を得る。


 一方で。


 事業活動に伴って、第三者に損害が生じることもある。


 だから。


 その危険を、被害者だけに負わせてよいのか。


 そこを考える必要がある。


「でも、先輩」


「何だ」


「大野さんが休日に、まったく個人的な喧嘩をして誰かを怪我させた場合も、会社が責任を負うんですか?」


「普通はそう簡単にはいかねえな」


「ですよね」


「会社の事業の執行についての行為か、そこを見る必要がある」


 私は頷きました。


「じゃあ、業務中でも、仕事と無関係な行為なら?」


「事業執行性が否定される場合もある」


「でも今回みたいに、正規の集荷業務で預かった荷物を無断で売った場合は?」


「会社の事業との関係を、簡単には切り離せねえ」


 私は、ようやく腑に落ちました。


 使用者責任。


 会社に所属しているから責任。


 という単純な話ではない。


 会社の仕事と、加害行為がどう結びついているのか。


 それが重要なのです。


「ところで」


 相馬先輩が言いました。


「お前、今度は何を考えてる」


「え?」


「妙な顔してるぞ」


 私は、少し迷いました。


 でも。


 言ってしまいました。


「現代の民法でも、使用者責任って大事な制度なんですよ」


「……現代?」


 しまった。


 また、未来人の癖が。


「い、いえ! 今でも、です!」


「今って昭和六十三年だろ」


「そうです!」


「じゃあ、何でそんな言い方したんだ」


「あはは……」


 私は冷や汗をかきました。


 危ない。


 危ない。


 民法は、令和と昭和で大きく違います。


 契約不適合責任。


 消滅時効。


 成年後見制度。


 現代の用語をそのまま持ち込めば、また相馬先輩に怒られます。


 でも。


 民法七百十五条の基本的な仕組みは、昭和六十三年にも存在していました。


 そして。


 最高裁昭和三十九年二月四日の事業執行性。


 最高裁昭和五十一年七月八日の求償権。


 どちらも、この時代にすでに示されている判例です。


 つまり。


 今回ばかりは。


 未来の知識が、そのまま昭和の現場で役に立ったのです。


「……ふふふ」


 私は笑いました。


 相馬先輩が怪訝な顔をします。


「何だ、気持ち悪い」


「いえ、何でもありません!」


「お前、時々変なこと考えてるよな」


「法律のことです!」


「本当か?」


「本当です!」


 もちろん。


 未来のことも、少しだけ考えています。


 ◇


 夕方。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は、少し考えました。


 そして答えました。


「従業員が悪いことをしたからといって、会社が必ず責任を負うわけではありません」


「うん」


「でも、従業員が勝手にやったと言うだけで、会社が責任を免れるわけでもありません」


「そうだ」


「会社と従業員の使用関係、本人の不法行為、事業執行性、損害と因果関係。それらを具体的に確認する必要があります」


 所長が頷きました。


「それから?」


「会社側には、選任や監督について相当の注意を尽くした場合などの免責事由があります」


「うん」


「そして、会社が賠償したあと、従業員に求償する場合も、具体的な事情を考えて範囲を判断する必要があります」


 相馬先輩が言いました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


「完璧ですか?」


「まあまあだ」


「厳しい!」


 先輩は笑いました。


「じゃあ最後に一問」


「はい!」


「運送会社の従業員が、会社の指示で荷物を預かった。そいつが勝手に売り飛ばした。会社は『業務じゃない』と主張した。何を見る?」


 私は即答しました。


「行為の外形と、会社の事業との関係です!」


「よし」


「さらに、使用関係、不法行為、免責事由、損害額も確認します!」


「よし」


「そして、内容証明で法律と事実を整理します!」


「そうだ」


「でも、内容証明を送っただけで差押えはできません!」


「当たり前だ!」


 私は笑いました。


 片桐所長も、ほんの少しだけ口元を緩めました。


 私は、ノートを開きました。


 そこに、一行だけ書きます。


 ――使用者責任は、「誰がやったか」だけでなく、「誰の事業のために、どんな仕事の機会に行われたか」を問う。


 今日の教訓。


 これなら、忘れません。


 窓の外では、夕焼けが町を赤く染めていました。


 遠くから、トラックのエンジン音が聞こえます。


 荷物を運ぶ人。


 店を開く人。


 商品を作る人。


 誰かを雇って、仕事をする人。


 そのすべてが、民法の世界の中で暮らしています。


 会社の看板を信じて、荷物を預ける。


 制服を着た従業員を信じて、契約を結ぶ。


 それは、特別なことではありません。


 当たり前の日常です。


 だからこそ。


 その信頼が裏切られたとき。


 従業員個人の責任だけでなく、会社の責任も問題になる。


 民法七百十五条。


 それは。


 会社の看板を信じた人の生活を、守るための条文でもあるのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「明日の相談票、整理しとけよ!」


「はい!」


「それから、例の求償権の判例も読んどけ」


「分かりました!」


 私は、元気よく返事をしました。


 でも。


 少しだけ、気になることがありました。


「先輩」


「何だ」


「もし会社が従業員に八十万円全部を請求して、その従業員が払えなかったら……」


「うん」


「その従業員の家族まで、生活が苦しくなるかもしれませんよね」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 それから。


「だから、求償には求償の問題があるんだ」


 そう言いました。


「使用者責任で被害者を守ることと、会社と従業員の間で公平に損害を分担することは、別の問題だ」


「はい」


「誰かを守るために、別の誰かに何も考えず全部押しつければいいって話じゃねえ」


 私は頷きました。


 民法。


 難しい。


 ややこしい。


 例外も多い。


 でも。


 そこには、理由がある。


 人と人との間で。


 誰が、どこまで責任を負うべきなのか。


 その公平を考えるために、法律は細かくできているのです。


 私はノートを閉じました。


「先輩」


「今度は何だ」


「民法って、本当に面白いですね」


「またそれか」


「だって、会社が払えば終わりだと思ったら、今度は従業員との関係が出てくるんですよ!」


「そうだな」


「次は求償権を詳しく勉強したいです!」


「勝手に勉強しろ」


「先輩も付き合ってください!」


「何でだよ!」


「昭和五十一年七月八日です!」


「日付を叫ぶな!」


 私は笑いました。


 今日も、法律の勉強は続いています。


 ただ。


 もう、使用者責任を単なる暗記項目だとは思いません。


 あの八十万円。


 澄江さんの店。


 亡くなったご主人との思い出。


 会社の伝票。


 従業員の不正。


 そして、社長が青ざめた内容証明。


 そのすべてを思い出せば。


 民法七百十五条は、もう忘れないでしょう。


 会社は、利益だけを受け取るための看板ではない。


 その事業によって他人に損害を与えたとき、法律上の責任を問われることがある。


 そして。


 責任を負わせるときも、免れさせるときも。


 最後にものを言うのは。


 怒鳴り声ではなく。


 事実と、法律なのです。

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