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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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542/701

[民法・不法行為]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 人を傷つけたら、責任を取る。


 当たり前のことに思えます。


 でも。


 法律の世界では、その「当たり前」を証明するのが、いちばん難しいのです。


 誰が悪かったのか。


 何が傷つけられたのか。


 どんな損害が生じたのか。


 そして、その損害は本当に相手の行為によって生じたのか。


 さらに。


 どれほど正当な請求でも、時間が経てば権利を失うことがあります。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かって、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 今日のテーマは、不法行為。


 民法七百九条から始まる、損害賠償の世界です。


「……三年と五年」


 私は呟きました。


「たった二年の違いで、人の人生が変わるなんて」


「何をぶつぶつ言ってる」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「時効です」


「ああ」


「高瀬春江さんの事故ですよ」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


 高瀬春江さん。


 四十六歳。


 駅前で洋裁店を営む女性。


 三年前、配送会社のトラックに巻き込まれ、左足を骨折しました。


 長い入院。


 後遺障害。


 減ってしまった仕事。


 それなのに、配送会社は十分な賠償に応じなかった。


 最後には、


「もう三年だから、時効になる」


 とまで言い出したのです。


「私、最初は五年あると思ったんですよ」


「言ってたな」


「現代の民法七百二十四条の二です」


「また、その存在しない条文か」


「未来には存在するんです!」


「未来の六法で昭和の依頼人を救えるか?」


「……救えません」


「なら、まず今の法律を覚えろ」


 ぐうの音も出ません。


 でも。


 あの事件のおかげで、私は一つだけ確信しました。


 法律は、条文を知っているだけでは足りない。


 その条文が、いつの時代のものなのか。


 どんな要件で使えるのか。


 何を証明しなければならないのか。


 そこまで理解して、初めて人を守れるのです。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は不法行為を、完全に整理します!」


「昨日も同じことを言ってなかったか」


「昨日は実務です! 今日は試験対策です!」


「お前、本当に試験が好きだな」


「合格しないと行政書士になれませんから!」


 すると奥から、片桐所長の声がしました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……またですか」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。



「まず、民法七百九条です!」


 私は六法を開きました。


 ところが。


「……読みにくい」


「またそれか」


「だって先輩!」


 私は条文を指差しました。


 ――故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス。


「カタカナだらけです!」


「昭和の民法なんだから仕方ねえだろ」


「令和の民法は、もっと読みやすいんですよ」


「未来の話は後にしろ」


「はい……」


 昭和六十三年の民法七百九条。


 故意または過失によって他人の権利を侵害した者は、それによって生じた損害を賠償する責任を負う。


 これが、不法行為の基本です。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「高瀬さんの事故に当てはめてみろ」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――一般不法行為の成立要件。


 まず、一つ目。


 故意・過失。


「故意は、わざとやることです」


「うん」


「過失は、必要な注意を怠ることです」


 今回のトラック事故は、わざと春江さんをひいた事件ではありません。


 問題となったのは、過失。


 運転手が、安全運転のための注意を尽くしていたか。


 さらに、配送会社は車両の異常を指摘されながら、適切な対応をしていたか。


「整備工場の記録が見つかったんですよね」


「ああ」


「事故の三日前、ブレーキ系統の点検が必要だと指摘されていた」


「そうだ」


「それなのに、修理を延期して運行を続けていた」


 私は鉛筆を止めました。


「ただ、整備上の問題があっただけで、事故との因果関係まで自動的に証明できるわけではないんですよね」


「そのとおり」


 相馬先輩が頷きました。


「運転手の操作ミスだったのか、整備不良が影響したのか。そこは証拠で判断する必要がある」


「はい」


 私は書きました。


 ――過失は「結果が起きたから」ではなく、「尽くすべき注意を怠ったか」で考える。


「次は二つ目です」


 責任能力。


「ここがちょっとややこしいです」


「何がだ」


「加害者が悪いことをしたとしても、誰でも必ず本人が賠償責任を負うとは限らないんです」


 民法七百十二条。


 未成年者が他人に損害を加えた場合、自分の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなければ、賠償責任を負いません。


「たとえば六歳の子供が石を投げて窓を割った場合ですね」


「ああ。昨日電話があった相談だな」


「はい」


 六歳だから絶対に責任能力がない、と年齢だけで機械的に決めるものではありません。


 具体的な知能の発達や行為の内容を考えます。


「でも、高瀬さんの事故では?」


 相馬先輩が聞きました。


「成人の運転手で、責任能力を欠く事情はありませんでした」


「そうだな」


「だから、責任能力は争点にならなかったんです」


 私は続けました。


「三つ目は、権利侵害です」


 昭和の七百九条には、「他人ノ権利ヲ侵害」とあります。


 春江さんの場合。


 身体が傷つけられました。


 店の設備も壊されました。


 だから権利侵害は明らかです。


「ただし!」


 私は赤鉛筆を取りました。


「ここには、昭和と現代の違いがあります!」


 相馬先輩が嫌な顔をしました。


「またか」


「重要なんです!」


 現代の民法七百九条では、


 ――他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者。


 という表現になっています。


「昭和では『他人の権利』。現代では『権利又は法律上保護される利益』なんですね」


「だから昭和には、権利として名前がついていない利益は一切守られなかった、とでも言うのか?」


「いいえ!」


 私は首を振りました。


 ここが重要です。


 明文に「法律上保護される利益」という言葉が加わったのは、平成十六年の民法現代語化に伴う改正です。


 それ以前から、判例や学説は、不法行為の保護対象を形式的な権利だけに限らず考えていました。


「つまり、言葉が変わったから突然守られるようになったわけではないんです」


「そういうことだ」


「それまでの法解釈を、分かりやすく条文に反映した面があるんですね」


 所長が頷きました。


「条文の変化と、法理の変化を混同するな」


「はい!」


 私はノートに二重線を引きました。


 次。


 四つ目。


 損害の発生。


「被害者に損害が生じていることです」


 春江さんの場合。


 治療費。


 休業による収入の減少。


 後遺障害に伴う損害。


 慰謝料。


 店の設備の破損。


「いろいろありますね」


「ああ」


「ただし、請求額は何となく決めてはいけない」


「そうだ」


 領収書。


 診断書。


 事故前後の帳簿。


 後遺障害に関する資料。


 こうした記録から、損害の内容と額を検討します。


「そして五つ目!」


 私は力を込めました。


 因果関係。


「加害行為と損害がつながっていなければなりません!」


 春江さんの足の骨折。


 これは、事故直後の診療記録によって、事故との関係を示しやすい。


 でも。


 売上の減少はどうでしょう。


 事故の翌年に売上が減った。


 それだけでは、全部が事故による損害とは限りません。


 景気が悪かったのかもしれない。


 競合店ができたのかもしれない。


 お客さんの好みが変わったのかもしれない。


「だから、注文控えが重要だったんですね」


「ああ」


「春江さんは、事故のあとに受けられなくなった注文を一件ずつ残していました」


「そうだな」


「それで、事故によって仕事が制限されたことを、具体的に示せたんです」


 相馬先輩が頷きました。


「不法行為の請求では、ここで揉めることが多い」


 私は五つの言葉を丸で囲みました。


 故意・過失。


 責任能力。


 権利侵害。


 損害。


 因果関係。


「これが一般不法行為の基本なんですね!」


「そうだ。ただし、覚え方に一つ注意だ」


「何でしょう?」


「責任能力は、未成年者などについて問題になる。条文の免責規定とあわせて考えろ。それから、損害賠償を請求する側が何を主張立証すべきかも、事案によって整理が必要だ」


「はい」


 私はノートを見直しました。


 ……なるほど。


 不法行為は、ただ「相手が悪い」と叫ぶ制度ではありません。


 法律が責任を認めるための条件を、事実でつないでいく仕組みなのです。



「次は、損害賠償の方法です」


 私はノートをめくりました。


 ――金銭賠償の原則。


「高瀬さんの足は、賠償金を受け取っても元には戻りませんでした」


「ああ」


「でも、法律は金銭による賠償を原則にしています」


 昭和の民法七百二十二条第一項。


 そして、四百十七条。


 不法行為による損害賠償にも、金銭賠償の原則が適用されます。


「でも所長」


「何だ」


「骨折した足を、お金に換算するって、難しいですよね」


「難しい」


「失った三年間だって、買い戻せません」


「そうだ」


 所長は静かに言いました。


「金銭賠償は、過去を消すものではない」


「……はい」


「損害を受けた人が、これから生活を続けるための手段でもある」


 私は春江さんの言葉を思い出しました。


 賠償金で、作業台を替える。


 足に負担の少ない椅子を買う。


 店に手すりをつける。


 そして。


 もう一度、洋裁の仕事を続ける。


「なるほど……」


 私は小さく頷きました。


 損害賠償。


 それは必ずしも、すべてを元どおりにすることではない。


 失われた利益や生じた損害を、法律が認める範囲で金銭によって埋め合わせることなのです。


「それから!」


 私は赤鉛筆を持ちました。


「民法七百十条!」


「何だ?」


「慰謝料です!」


 財産以外の損害。


 精神的苦痛。


 財産を傷つけられた場合でも、身体を傷つけられた場合でも、要件を満たせば財産以外の損害について賠償が認められます。


「ただし、何か壊されたら必ず慰謝料が認められるわけではありません」


「そうだな」


「たとえば、ただ普通の皿が割れただけで、当然に高額の慰謝料が出るとは限らない」


 でも。


 春江さんの場合は、身体の傷害を受けています。


 長期間の入通院。


 残った痛み。


 生活への影響。


 こうした事情が、精神的損害の評価にも関わります。


「先輩」


「何だ」


「お金には換算できない苦しみだからこそ、裁判所は具体的な事情を見て評価するんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 人の痛みは、一律の値札では決められない。


 でも、何も賠償しなくていいわけではない。


 民法は、その難しい間に立っているのです。



「ところで先輩」


「何だ」


「一つ、気になるんです」


「何だよ」


「損害賠償は金銭が原則ですよね」


「ああ」


「でも、お金だけじゃ困る事件もありますよね?」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「たとえば?」


「名誉毀損です」


 私はノートに書きました。


 ――民法七百二十三条。


 名誉毀損における原状回復。


「たとえば」


 私は説明を始めました。


「町の商店街で、ある店について事実に反する悪い噂を広めた人がいたとします」


「うん」


「その噂のせいで、お客さんが来なくなった」


「うん」


「そこで損害賠償金を払ってもらったとしても……」


 私は少し考えました。


「町の人たちは、まだその噂を信じているかもしれません」


 相馬先輩が頷きました。


「金を払ったからって、噂が勝手に消えるわけじゃねえな」


「そうなんです!」


 民法七百二十三条。


 他人の名誉を毀損した場合。


 裁判所は、被害者の請求により、損害賠償に代えて、または損害賠償とともに、名誉を回復するのに適当な処分を命じることができます。


「たとえば、事案によっては謝罪広告などが問題になります」


「そうだな」


「ただし、被害者が望めば必ず謝罪広告が認められるという意味ではありません」


 その方法が適切か。


 必要性はあるか。


 どのような内容なら許されるか。


 裁判所が判断します。


「つまり!」


 私はノートに二つの矢印を書きました。


 金銭賠償に代えて、名誉回復に適当な処分。


 または。


 金銭賠償とともに、名誉回復に適当な処分。


「この二つがあるんですね」


「そうだ」


「でも、これってちょっと面白いです」


「何が?」


「金銭賠償だけでは回復できない損害があることを、民法自身が認めているみたいで」


 所長が口を開きました。


「名誉は、人が社会の中で生きるための大切な利益だからな」


「……はい」


 私はノートに線を引きました。


 身体。


 財産。


 名誉。


 民法は、目に見える物だけを守っているわけではありません。


 人が人として生活するために必要なものを、守ろうとしているのです。



「さて、次の条文です!」


 私はページをめくりました。


 ――民法七百十一条。


 近親者に対する損害の賠償。


「これは、ちょっと悲しい話になります」


「何だ?」


 相馬先輩が聞きました。


「もし、高瀬さんがあの事故で亡くなっていたら、どうなったでしょう」


 先輩の表情が、少し真剣になりました。


「娘さんがいたな」


「はい」


 春江さんには、娘さんがいます。


 女手一つで育ててきた、大切な家族です。


「もしお母さんが亡くなっていたら、娘さんも大きな悲しみを受けます」


「そうだな」


「でも、娘さん自身は、トラックにはねられていないかもしれません」


「ああ」


「財産を直接壊されたわけでもないかもしれません」


 私は鉛筆を止めました。


「それでも、慰謝料を請求できるんでしょうか?」


 片桐所長が答えました。


「七百十一条を読んでみろ」


「はい!」


 民法七百十一条。


 他人の生命を侵害した者は、被害者の父母、配偶者及び子に対し、その財産権が侵害されなかった場合でも、損害を賠償しなければならない。


「つまり、被害者が亡くなった場合、その父母、配偶者、子は、自分自身の精神的損害について慰謝料を請求できるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここで重要なのは。


 亡くなった本人の損害賠償請求権を相続する話とは、別だということです。


「たとえば、被害者本人に生じた慰謝料請求権を相続する場合と、娘さん自身が悲しみに対する慰謝料を請求する場合は、区別するんですね」


「そのとおり」


「同じ事故から発生しても、法律上の性質が違う」


 私は大きく丸をつけました。


 ところが。


 ここで相馬先輩が、少し意地悪そうな顔をしました。


「じゃあ、こはる」


「はい!」


「亡くなった人を、ずっと育ててきた祖母だったらどうする?」


「え?」


「父母、配偶者、子には入ってねえな」


「……確かに」


「血のつながらない人が、何十年も一緒に暮らして、実の親子みたいな関係だったら?」


 私は黙りました。


 条文に名前がない。


 だから、絶対に保護されない。


 そんな答えでいいのでしょうか。


「……先輩」


「何だ」


「最高裁判例があります」


「ほう」


 私はノートに日付を書きました。


 ――昭和四十九年十二月十七日。


 最高裁判決。


「民法七百十一条に列挙された人以外でも、被害者との間に特別に密接な関係があれば、固有の慰謝料が認められることがあるんです」


「どういう関係だ?」


「父母や配偶者、子と実質的に同じと評価できるような関係です」


 長年同居し、被害者の庇護のもとで生活を維持していた。


 将来も、その関係が続くことを期待していた。


 そんな場合には、形式的な親族の名前だけで判断しない。


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「戸籍上の関係だけじゃ、人のつながりは測れねえからな」


「はい!」


 私は少し嬉しくなりました。


 民法の条文には、父母、配偶者、子と書かれている。


 でも、判例は現実の家族関係も見ている。


 そこに、法律の柔らかさがあるのです。


「ただし、ここも注意ですね」


 私は続けました。


「仲のよかった知人なら誰でも当然に請求できるわけではありません」


「そうだ」


「また、七百十一条は生命侵害についての規定です。死亡していない傷害事故でも、近親者に独自の慰謝料が認められる場合はありますが、重大な被害など、具体的な事情が問題になります」


 所長が頷きました。


「条文に書かれている場合と、判例で保護が認められてきた場合を区別することだ」


「はい!」


 私は一行を書きました。


 ――家族の悲しみも損害になる。ただし、誰にでも無条件に認められるわけではない。


 ……。


 うん。


 これなら忘れません。



「さて!」


 相馬先輩が腕を組みました。


「昨日の電話相談、覚えてるな」


「もちろんです!」


 六歳の男の子。


 隣の家の窓ガラスに石を投げてしまった事件です。


 隣人は激怒。


「親なんだから全額払え!」


 そう言っているらしいのです。


「ここで問題になるのが、民法七百十二条と七百十四条ですね」


「そうだ」


 私はノートに二つの名前を書きました。


 責任無能力者。


 監督義務者。


「まず、責任能力です!」


 私は説明しました。


 自分の行為について、法律上の責任を判断できるだけの知能があるか。


 不法行為の責任能力は、契約のときに問題になる意思能力とも、制限行為能力とも違います。


「似た名前ばっかりですね……」


「文句を言うな」


「民法って、能力という言葉が好きすぎません?」


「お前が混同しなきゃいいだけだ」


「それが難しいんです!」


 私は咳払いしました。


「民法七百十二条では、未成年者が自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかった場合、その行為について賠償責任を負いません」


「うん」


「では、六歳の子が責任無能力と判断されたら、割られた窓は泣き寝入りですか?」


「どう思う?」


「そこで七百十四条です!」


 私は勢いよくページをめくりました。


 責任無能力者の監督義務者の責任。


「責任無能力者本人が賠償責任を負わない場合、原則として、その人を監督する法定の義務を負う者に責任が生じます」


「そうだ」


「六歳の子なら、通常は親権者である親が問題になりますね」


「うん」


「ただし!」


 私は大きく赤線を引きました。


 ――例外あり。


「親が絶対に賠償するわけではありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「その理由は?」


「監督義務者が、その義務を怠らなかったときです」


「もう一つ」


「義務を怠らなくても、その損害が生じたはずだったときです!」


 民法七百十四条一項ただし書。


 私はそこに二重線を引きました。


「監督義務をちゃんと果たしていたなら、免責される余地があるんですね」


「そうだ」


「でも、単に『うちは普通に育てています』と言えば免責されるわけじゃない」


「もちろんだ」


 具体的に、どのような監督が必要だったのか。


 どんな行為をしたのか。


 監督義務を尽くしていたといえるのか。


 そうした事情を確認します。


 私は昨日の相談票を見ました。


「ちなみに、この子の場合は、どうだったんでしょう」


 相馬先輩が書類を手に取りました。


「庭で遊んでいたときに石を投げたらしい」


「はい」


「親は家の中にいた」


「それだけでは、直ちに監督義務違反とは断定できませんね」


「そうだ」


「石を投げた事情も、普段の行動も、周囲の状況も確認しないといけない」


 私は頷きました。


 責任無能力者だから、本人は払わない。


 だから、親が絶対に払う。


 そう単純ではないのです。


「それから先輩」


「何だ?」


「子供に責任能力があったら、どうなるんですか?」


「本人の七百九条の責任が問題になるな」


「そうですよね」


 さらに、親自身に監督上の過失があり、それと損害との間に因果関係が認められる場合には、親自身の七百九条の責任が問題になることもあります。


「つまり、七百十四条だけを覚えて終わりじゃないんです」


「いいところに気づいたな」


「褒めました?」


「まだだ」


「またですか!」


 私はノートに書きました。


 ――責任能力がなければ本人は免責され得る。監督義務者の責任には例外があり、親自身の過失も別に検討する。


 ここまで書いて。


 私は、ふと考えました。


「所長」


「何だ」


「民法って、子供を守るだけじゃなくて、親も無条件には責めないんですね」


 所長は頷きました。


「責任は、法律上の根拠があって初めて負うものだ」


 なるほど。


 被害者の保護。


 子供の保護。


 親の公平。


 不法行為法は、それぞれを考えながら責任を配分しているのです。



「さて」


 相馬先輩が時計を見ました。


「いよいよ本題だな」


「はい!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 民法七百二十四条。


 不法行為による損害賠償請求権の消滅時効。


 今回の高瀬春江さんの事件で、最も恐ろしかったところです。


「まず、昭和六十三年の法律を説明してみろ」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――昭和六十三年・民法七百二十四条。


 被害者または法定代理人が、損害及び加害者を知った時から三年間。


 そして。


 不法行為の時から二十年間。


「この二つです」


「そうだな」


「ただし、昭和の条文では、後ろの二十年について『時効ニ因リテ消滅ス』とは別に、『不法行為ノ時ヨリ二十年ヲ経過シタルトキ亦同シ』と定めています」


 相馬先輩が頷きました。


「それで?」


「昭和六十三年当時、この二十年の法的性質には議論があります」


 私は一度、息を吸いました。


 ここは少し難しいところです。


 昭和六十三年の時点では、二十年の期間について、後の最高裁判例による整理がまだ示されていません。


 その翌年。


 平成元年十二月二十一日の最高裁判決で、旧七百二十四条後段の二十年は、除斥期間と解されることになります。


 しかし。


 今は昭和六十三年。


 私は、その未来の最高裁判決を、当然のように実務で引用することはできません。


「……また未来を知っているせいで、混乱します」


「勝手に混乱するな」


「だって先輩、現代では二十年も消滅時効として条文が整理されているんですよ!」


「今は昭和だ」


「はい……」


 私はノートの余白に、


 ――時代によって、条文だけでなく判例法理も変化する。


 と書きました。


 そして。


「次は、現代の民法です!」


 私は別の欄を作りました。


 ――令和・民法七百二十四条。


 一般の不法行為については、損害及び加害者を知った時から三年。


 不法行為の時から二十年。


「ここまでは、期間の数字だけ見ると似ています」


「そうだな」


「でも、現代では七百二十四条の二があります!」


 私は少し得意になりました。


「また未来の条文だな」


「今回は比較のためです!」


 民法七百二十四条の二。


 人の生命又は身体を害する不法行為による損害賠償請求権。


 この場合、損害及び加害者を知った時からの期間は、三年ではなく五年になります。


 私は表を書きました。


 | 不法行為の種類 | 昭和63年 | 現代 |

 | ------------- | -------- | -------- |

 | 一般の不法行為 | 知った時から3年 | 知った時から3年 |

 | 生命・身体を害する不法行為 | 知った時から3年 | 知った時から5年 |

 | 不法行為の時からの期間 | 20年 | 20年 |


「ただし、この二十年は、昭和と現代で法的な扱いが同じとは限らないんですよね」


「そうだ」


「それに、現代の制度を過去の事件にそのまま当てはめていいわけでもありません」


 私は大きく頷きました。


 ここも大切です。


 令和二年に民法が改正されたからといって、すべての昔の事故が無条件に五年へ延長されるわけではありません。


 改正法の経過措置や、改正時点で旧法の期間が経過していたかなども確認しなければなりません。


「現実の相談では、事故が起きた日も、損害と加害者を知った日も、法改正の施行日も大事なんですね」


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「法律は、適用される時点を間違えると、結論まで変わる」


 私は春江さんを思い出しました。


 事故発生日。


 昭和六十年十月十九日。


 相談日。


 昭和六十三年十月十四日。


 もし。


 あのとき私が、


「身体の事故だから五年あります!」


 と言ったまま、何もしなかったら。


 春江さんは時効完成の危険にさらされていたのです。


「……怖いですね」


「怖いな」


「先輩」


「何だ?」


「どうして現代では、身体の損害だけ五年に延長されたんでしょう」


 相馬先輩は少し考えました。


「お前はどう思う?」


 私はノートを見つめました。


 骨折。


 手術。


 入院。


 リハビリ。


 後遺障害。


 仕事に戻れるかどうかも分からない。


 治療に追われるうちに、時間が過ぎてしまうことがあります。


「……生命や身体を傷つけられた人には、より厚い保護が必要だからでしょうか」


「そうだろうな」


「治療や生活の立て直しに時間がかかることもありますし」


 私は春江さんの姿を思い浮かべました。


 杖をついて、事務所へ来た女性。


 足の値段を知りたいと言った女性。


 三年間、ずっと補償を待っていた女性。


「そういう人が、権利を行使できる期間を少しでも長くするためなんですね」


 所長が静かに言いました。


「法律は、社会の事情に合わせて変わることがある」


「はい」


「だが、今ある事件に適用するのは、その事件に適用される法律だ」


「……分かりました」


 私は赤鉛筆で、ひときわ大きく書きました。


 ――昭和の身体事故は三年。令和の身体事故は五年。ただし適用関係の確認が必要。



「ところで、こはる」


 相馬先輩が聞きました。


「はい!」


「高瀬さんの事故は、昭和六十年十月十九日だったな」


「はい」


「じゃあ、三年経ったら必ず終わりなのか?」


「……違います」


 私は少し考えて答えました。


「まず、損害及び加害者を知った時が重要です」


「そうだ」


 たとえば。


 事故が起きても、誰が加害者なのか分からない場合があります。


 あるいは。


 損害が、後になって初めて分かる場合もあります。


「つまり、単純に事故の日から三年を数えるとは限らないんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――三年の起算点は、原則として損害及び加害者を知った時。


「ただし、春江さんの場合は、事故の日に加害者も分かっていました」


「そうだな」


「骨折という損害も、事故直後に分かっています」


「うん」


「だから、時効の問題が非常に切迫していたんです」


 私はさらに書き足しました。


 なお、後から明らかになる別の損害や後遺障害については、損害を知った時期が個別に問題となることがあります。


 しかし、後遺障害の診断が後日されたからといって、事故に関するすべての請求権の起算点が当然にその日へずれるわけではありません。


「ここも簡単ではありませんね」


「簡単だったら弁護士の仕事も減るだろうな」


「それはそうですけど……」


 私は苦笑しました。


「では先輩、時効を止める方法は?」


「言ってみろ」


「昭和六十三年では、時効の中断が問題になります」


 私は六法を開きました。


 旧民法百四十七条。


 請求。


 差押え、仮差押え又は仮処分。


 承認。


「ただし、ここでいう請求には注意が必要です」


 私は大きく書きました。


 ――内容証明郵便を送れば、それだけで永久に時効が中断するわけではない。


 相馬先輩が頷きました。


「そこを間違えたらどうなる?」


「危険です!」


 旧民法百五十三条。


 催告。


 催告をした場合でも、その後六か月以内に裁判上の請求など、法律で定められた措置を取らなければ、時効中断の効力が生じない。


「だから、高瀬さんの事件では?」


「内容証明を出しただけで安心せず、弁護士に引き継ぎました」


「そうだ」


「そして、期限内に必要な裁判上の請求手続を取ってもらったんです」


 私は深く頷きました。


 行政書士。


 内容証明郵便。


 事実証明書類。


 契約書。


 そうした書類を作ることは、大切な仕事です。


 でも。


 依頼人の代理人として法律紛争の示談交渉を行うことや、訴訟代理をすることはできません。


 弁護士法七十二条。


 非弁行為の禁止。


 法律上の紛争について、報酬を得る目的で、法律に特別の定めがないのに法律事務を取り扱うことには制限があります。


「先輩」


「何だ?」


「行政書士が内容証明を作るだけでなく、弁護士へ正確に資料を渡すことも重要なんですね」


「当たり前だ」


「自分たちで全部解決しようとして、時効を完成させてしまったら……」


「最悪だな」


 相馬先輩は静かに言いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「出ました。先輩の決め台詞」


「何か文句あるか」


「でも、それだけじゃありませんよね」


「ほう?」


 私は笑いました。


「ハンコを押した書面があっても、必要な裁判手続を忘れたら駄目です」


 相馬先輩は一瞬黙りました。


 そして。


「……生意気になったな」


「成長したんです!」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「相馬」


「はい」


「今回は、こはるの言うとおりだ」


「……所長まで!」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


 相馬先輩に一本取りました!


 ……もっとも。


 実務では、一本取ったところで依頼人の権利は守れません。


 大事なのは、正しい手続を、正しい期限までに行うこと。


 そこなのです。



「ところで先輩」


「まだあるのか」


「あります!」


 私はノートに書きました。


 ――時効の中断。


 ――時効の完成猶予・更新。


「……何だ、その後ろの言葉は」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「未来の法律用語です!」


「また未来か!」


「でも、これが大事なんです!」


 昭和六十三年の民法では、「時効の中断」という制度が中心でした。


 一方。


 現代の民法では、二〇二〇年の債権法改正によって、「完成猶予」と「更新」という考え方に整理されています。


「なぜ分けたんだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「効果が違うからです!」


 私は説明しました。


 完成猶予。


 一定の事由がある間や、法律で定められた期間中、時効の完成を猶予する。


 更新。


 それまで進んでいた時効期間をリセットし、新たに時効期間が進み始める。


「現代では、この二つを区別することで、効果が分かりやすくなったんです」


「なるほどな」


「たとえば、現代でも催告だけで何年も安心できるわけではありません」


 現代の民法百五十条では、催告によって原則六か月間、時効の完成が猶予されます。


 でも。


 催告だけでは、時効は更新されません。


 さらに、催告による完成猶予期間中に催告を繰り返しても、それによって新たな完成猶予の効力が生じるわけではありません。


「つまり」


 私は言いました。


「催告を何通も送り続ければ永遠に時効を防げる、ということにはならないんです」


「そりゃそうだ」


 相馬先輩が笑いました。


「そんなことができたら、内容証明を毎月出す商売ができちまう」


「それは嫌ですね……」


 私はノートに大きく書きました。


 昭和。


 時効の中断。


 現代。


 時効の完成猶予・更新。


「昔の法律では一つの言葉で扱っていた効果を、現代では整理しているんですね」


「そういうことか」


 所長が静かに言いました。


「名前が変わっても、何が起こるかを理解しなければ意味がない」


「はい!」


 私は、ふと思いました。


 法律が難しいのは、専門用語が多いからだけではありません。


 同じ言葉でも、時代によって意味や使い方が変わる。


 だからこそ。


 古い条文と新しい条文を比べることには、意味があるのです。



「よし」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「最後に問題を出してやる」


「望むところです!」


「高瀬さんがトラックにはねられた。運転手に過失があった。これだけで七百九条の損害賠償が当然に認められるか?」


「いいえ!」


「なぜだ?」


「損害と因果関係なども必要だからです!」


「よし。じゃあ、骨折したという診断書がある。それだけで、事故後に減った売上が全部損害になるか?」


「なりません!」


「なぜだ?」


「その売上減少と事故との因果関係を、具体的に検討する必要があるからです!」


「次」


 先輩が指を立てました。


「故意じゃなければ、不法行為は成立しないか?」


「成立する場合があります! 過失でも七百九条の責任を負います!」


「じゃあ、責任能力のない子供が窓を割ったら、子供本人が必ず賠償するか?」


「いいえ!」


「親が必ず払うか?」


「それも違います! 七百十四条の監督義務者責任には免責事由があります!」


「いいねえ」


 相馬先輩がにやりとしました。


「では、死亡事故で、亡くなった人の子が悲しみを受けた。子自身の慰謝料は?」


「民法七百十一条です!」


「父母、配偶者、子以外は絶対に駄目か?」


「いいえ! 昭和四十九年十二月十七日の最高裁判決などにより、実質的に同視できる関係にある人にも固有の慰謝料が認められる場合があります!」


「よし」


 私は得意になりました。


「先輩! もっと出してください!」


「調子に乗るな」


「まだまだいけます!」


 片桐所長が口を開きました。


「では、私からも一問」


「はい!」


「名誉毀損の場合、裁判所は金銭賠償しか命じられないか」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「民法七百二十三条により、名誉回復に適当な処分を、損害賠償に代えて、または損害賠償とともに命じることができます!」


「うん」


「次です!」


 所長が続けました。


「昭和六十三年。交通事故で身体を傷つけられた人が、損害と加害者を事故当日に知った。原則として何年か」


「三年です!」


「令和なら?」


「五年です! 民法七百二十四条の二です!」


「では、昭和六十三年に、その条文はあるか」


「ありません!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 完璧です。


「では、最後だ」


 所長が静かに言いました。


「時効の完成直前に、行政書士が内容証明を作成した。それだけで依頼人は安心してよいか」


 私は即答しました。


「いけません!」


「理由は?」


「昭和の催告には、六か月以内に裁判上の請求などの措置を取らなければ、時効中断の効力が生じないという制限があるからです」


「そのために?」


「弁護士と連携し、必要な手続を期限内に行います!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は、ほっと息を吐きました。


 ……終わった。


 今日の不法行為。


 かなり整理できた気がします。



 窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。


 商店街の明かりが、一つずつ灯り始めています。


 私は机の上のハンカチを手に取りました。


 白い花の刺繍。


 春江さんが、足の痛みをこらえながら縫ってくれたものです。


「……先輩」


「何だ」


「私、最初は不法行為って、悪いことをした人にお金を払わせる法律だと思ってました」


「まあ、間違っちゃいねえな」


「でも、それだけじゃないんですね」


 私はハンカチを見つめました。


 人の身体。


 財産。


 名誉。


 家族との関係。


 そうしたものが傷つけられたとき。


 どのように責任を負わせるか。


 どこまで損害を認めるか。


 誰に請求権があるか。


 法律は、一つずつ考えている。


「民法七百九条だけじゃないんですね」


「そうだな」


「七百十条の慰謝料も、七百十一条の近親者も、七百十二条の責任能力も、七百十四条の監督義務者も……」


「うん」


「全部、つながっているんです」


 相馬先輩が頷きました。


「そのとおりだ」


「しかも時効がある」


「ああ」


「権利があっても、行使しなければ失うことがある」


「そうだ」


 私は小さく息を吐きました。


「高瀬さん、本当に間に合ってよかったです」


 先輩は、しばらく黙っていました。


 そして。


「あの人は、よく記録を残してたな」


「はい」


「診断書も、帳簿も、断った仕事も」


「そうですね」


「記録がなけりゃ、あそこまで具体的な損害の説明はできなかった」


 私はハンカチを握りました。


「記録って、大事ですね」


「大事だ」


「法律って、記憶だけでは戦えないんですね」


「そうだな」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「不法行為の事件で、何より大切なことは何だと思う」


 私は少し考えました。


 条文。


 判例。


 損害額。


 時効。


 責任能力。


 いろいろな言葉が頭を巡ります。


 でも。


 最後に浮かんだのは、春江さんの顔でした。


「……被害を受けた人の生活を、きちんと見ることです」


 所長は何も言いません。


「何が壊されたのかだけじゃなくて」


 私は続けました。


「その人が、事故のあと何をできなくなったのか。何を失ったのか。今、何に困っているのか」


「うん」


「そこを知らなければ、損害を正しく整理できません」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行。


 ゆっくり書きます。


 ――不法行為は「過失・責任能力・権利侵害・損害・因果関係」を確かめ、金銭を原則に賠償し、時効の前に権利を守る。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みます。


「長えな」


「えっ」


「一行に詰め込みすぎだ」


「だって、全部大事なんです!」


「試験の答案じゃねえんだから、もう少し短くしろ」


「うう……」


 私は少し考えました。


 そして、もう一度書き直しました。


 ――不法行為は、傷つけた責任を証拠でつなぎ、時効の前に賠償を求める。


「これなら!」


 相馬先輩が頷きました。


「いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 なぜなら。


 そこには、春江さんの三年間が詰まっているからです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強は終わったな」


「はい!」


「じゃあ、掃除だ」


「……またですか?」


「当たり前だろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「ちょっと考えたんですけど」


「嫌な予感がするな」


「もし、私が掃除中に転んで怪我をしたら、先輩に損害賠償請求できるんでしょうか?」


 相馬先輩が、ぴたりと止まりました。


「……は?」


「だって先輩が掃除しろって言ったんですよ」


「だから?」


「それで私が転んだら、先輩の責任では?」


 私は得意げに言いました。


 すると。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「こはる」


「はい!」


「七百九条の要件を言ってみろ」


「故意・過失、責任能力、権利侵害、損害、因果関係です!」


「で、俺にどんな過失がある?」


「……え?」


「普通に掃除しろって頼んだだけだぞ」


「それは……」


「俺が床に油でも撒いたか?」


「撒いてません」


「危険な掃除道具を渡したか?」


「普通の箒です」


「じゃあ、お前が勝手に足をもつれさせて転んだら、何で俺が当然に賠償しなきゃならねえんだ?」


 ……。


 私は黙りました。


 たしかに。


 掃除を頼んだ。


 転んだ。


 だから損害賠償。


 そんな単純な因果関係ではありません。


「……先輩」


「何だ」


「私は今、不法行為の難しさを実感しました」


「よかったな」


「でも掃除は嫌です」


「それは不法行為じゃねえ!」


 所長が、奥から静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「こはるに手伝ってやれ」


「……俺もですか?」


「そうだ」


 私は思わず笑いました。


「先輩!」


「何だよ」


「共同で掃除しましょう!」


「共同不法行為みたいに言うな!」


「民法七百十九条ですね!」


「掃除と関係ねえだろ!」


 私は箒を手に取りました。


 窓の外。


 秋の風が、商店街を吹き抜けています。


 駅前のどこかで。


 春江さんは、今日も洋裁店の灯りをともしているのでしょう。


 まだ足は痛むかもしれません。


 できなくなった仕事も、あるかもしれません。


 でも。


 新しい作業台で、布を裁ち。


 ミシンを踏み。


 一針ずつ、また誰かの服を縫っている。


 そんな姿が、目に浮かびました。


 民法七百九条。


 不法行為。


 教科書では、無機質な言葉です。


 でも。


 その条文の向こうには、必ず人がいます。


 傷ついた人。


 責任を負うべき人。


 大切な家族を失った人。


 そして。


 もう一度、自分の生活を取り戻そうとする人。


 民法は。


 失ったものを、すべて元どおりにできる法律ではありません。


 けれど。


 その損害を、被害者だけに背負わせないための法律なのです。


 私は掃除の手を止め、ノートの一行をもう一度読みました。


 ――不法行為は、傷つけた責任を証拠でつなぎ、時効の前に賠償を求める。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「またノート見てるな!」


「今、重要事項を復習してたんです!」


「掃除しろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「法律の勉強を邪魔されたことで、精神的苦痛を受けました!」


「ほう?」


「民法七百十条の慰謝料を請求します!」


 相馬先輩は、ゆっくりこちらを向きました。


「こはる」


「はい!」


「七百九条の責任が成立するか、まず考えろ」


「……!」


「俺が掃除しろって言っただけで、違法な権利侵害になるのか?」


「それは……」


「損害は?」


「勉強時間が減ります!」


「掃除当番を頼まれただけで、当然に法律上の損害になると思うか?」


「……思いません」


 先輩は勝ち誇った顔をしました。


「よし。分かったら掃除だ」


 ぐぬぬ。


 完全に論破されました。


 しかし。


 そのとき。


 片桐所長が静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「お前もさっきから口ばかり動かしているな」


「……はい?」


「掃除の分担を決めたのは私だ。お前もやれ」


「……!」


 私は思わず吹き出しました。


「先輩!」


「笑うな!」


「法律は公平ですね!」


「これは法律じゃなくて所長の業務命令だ!」


「でも、先輩だけ免責されませんでしたね!」


「七百十四条みたいに言うな!」


 私は笑いながら箒を動かしました。


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 ただし。


 少なくとも、私はもう間違えません。


 傷つけた。


 だから、すぐ損害賠償。


 ではない。


 故意や過失はあったのか。


 誰が責任を負うのか。


 どんな権利が侵害されたのか。


 損害は生じたのか。


 因果関係はあるのか。


 そして。


 時効は完成していないか。


 そこまで確かめて、初めて民法七百九条を使えるのです。


 ――人の傷には、値札がない。


 けれど。


 その傷をつけた責任まで、消していいわけではありません。


 私は、春江さんのハンカチを大切に鞄へしまいました。


 白い花の刺繍は、今日も綺麗でした。


 一本一本の糸がつながって、ようやく一輪の花になる。


 それは、どこか不法行為の要件に似ています。


 そして私は、最後にもう一度だけ心の中で唱えました。


 ――昭和の身体事故は三年。令和では五年。


 でも。


 法律がどれだけ変わっても。


 誰かの傷ついた生活を守りたいという思いは、変わらない。


 それが、今日の私が覚えた、民法の一番大切なところなのでした。

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