[民法・不法行為]現場編 「三年前の事故だから、もう払わない」の罠。壊された足、奪われた商売、そして時効寸前に突きつける内容証明の刃
傷が治っても、損害が消えるわけではありません。
骨がくっついても。
包帯が取れても。
病院を退院しても。
事故の前と、同じ生活に戻れるとは限らないのです。
そして。
人を傷つけた側が、最後に頼るものがあります。
それは。
――時間。
「三年も前の事故だろ。今さら金なんか払えるか」
そう言われたとき。
あなたなら、どうしますか。
昭和六十三年。
十月十四日。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法七百九条の恐ろしさと、七百二十四条の冷酷さを、同時に思い知ることになります。
不法行為。
損害賠償。
消滅時効。
そして。
あと五日。
たった五日で、ある女性の三年間の苦しみが、法律上の請求権を失う危険にさらされようとしていたのです。
「この足の値段を、教えてください」
朝。
事務所の扉を開けた女性は、そう言いました。
「……足の値段?」
私は思わず聞き返しました。
女性は四十代半ば。
紺色のカーディガン。
古びた革靴。
そして、右手には一本の杖。
歩くたびに、左足を少し引きずっていました。
「この足が、いくらなのか知りたいんです」
女性は、悲しそうに笑いました。
「三年前までは、普通に歩けたんですよ」
片桐所長が椅子を勧めました。
「まず、お名前から」
「高瀬春江と申します。四十六歳です」
春江さんは、駅前で小さな洋裁店を営んでいました。
店の名前は、
――洋裁たかせ。
婦人服の仕立て直し。
学校の制服の寸法直し。
ズボンの裾上げ。
そして、結婚式用のドレスの仕立て。
決して大きな店ではありません。
それでも。
夫を早くに亡くした春江さんは、ミシン一台で娘を育ててきたそうです。
「ところが、三年前に……」
春江さんは、鞄から一枚の写真を取り出しました。
道路。
倒れた自転車。
曲がった街灯。
そして、店先に突っ込んだ一台のトラック。
「昭和六十年十月十九日です」
春江さんが言いました。
「配送会社のトラックが、歩道に乗り上げてきたんです」
「歩道に?」
「はい。私は店の前を掃除していました」
朝八時。
開店前。
いつものように箒を持っていた。
そこへ。
交差点を曲がりきれなかったトラックが突っ込んできた。
店の看板をなぎ倒し。
軒先の植木鉢を砕き。
春江さんを巻き込んだ。
「左足を、二か所骨折しました」
私は息を呑みました。
「二か所……」
「入院は四か月です。そのあとも通院しました」
「今も痛むんですか?」
「雨の日は、特に」
春江さんは左膝に手を置きました。
「長い時間、立っていられないんです」
洋裁店。
ミシン仕事。
採寸。
布の裁断。
アイロンがけ。
立ったり座ったりを繰り返す仕事です。
「事故のあと、お客さんが減ってしまって」
春江さんの声が小さくなりました。
「制服の仕立て直しも、前みたいには受けられません」
私は写真を見つめました。
壊れた看板。
倒れた自転車。
傷ついた足。
そして。
その事故から続く、三年間の生活。
「相手は、何も払ってくれなかったんですか?」
「最初に、二十万円だけ」
「二十万円?」
「お見舞金だと言って」
春江さんは封筒を取り出しました。
そこには、配送会社の名前。
――東栄運送株式会社。
そして、一枚の領収書。
但し書き。
――見舞金として。
「治療費の一部は自動車保険から支払われました。でも、休業した分や、今も残っている足の不自由については、話がまとまらなくて……」
「それで三年間?」
「はい」
春江さんは頷きました。
「最初は社長さんが、きちんと補償すると言ってくれたんです」
ところが。
半年後。
一年後。
二年後。
会社からの返事は、だんだん冷たくなっていった。
最後には。
「証拠がない」
「もともと足が悪かったんじゃないか」
「仕事が減ったのは店の経営が悪いからだろう」
そんな言葉まで浴びせられたそうです。
「それで、昨日……」
春江さんが一通の手紙を差し出しました。
私は開きました。
そこには、こう書かれていました。
――本件事故から既に約三年が経過している。
――当社としては、十分な見舞金を支払っている。
――これ以上の損害賠償には応じられない。
さらに。
最後の一文。
――なお、本件は近日中に民法上の消滅時効の問題が生じるものと認識している。
……。
私は、手紙を持つ指に力を込めました。
近日中。
ということは。
「春江さん」
「はい」
「事故の日は、昭和六十年十月十九日で間違いないですね?」
「はい」
「相手が誰か分かったのは?」
「事故の日です。運転手さんも会社の社長さんも、その日に病院へ来ましたから」
私は壁のカレンダーを見ました。
昭和六十三年。
十月十四日。
事故から。
まもなく三年。
「……まずい」
思わず、声が漏れました。
相馬先輩が私を見ました。
「気づいたか」
「はい」
「何だ」
「時効です」
私は立ち上がりました。
「でも、大丈夫です!」
春江さんが顔を上げました。
「え?」
「身体を傷つける不法行為ですから、損害と加害者を知ってから五年間あります!」
私は勢いよく言いました。
「まだ三年です! 請求できます!」
……よし。
民法。
不法行為。
これは、行政書士試験で何度も勉強したところです。
生命・身体侵害の損害賠償請求権。
知った時から五年。
通常の不法行為は三年。
きっちり区別して覚えました。
だから。
今回は大丈夫。
そう思った瞬間。
「こはる」
相馬先輩の声が、低くなりました。
「はい?」
「何年だって?」
「五年です!」
「誰が決めた」
「民法七百二十四条の二です!」
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり六法を開きました。
「……七百二十四条の二?」
「はい!」
「そんな条文、どこにある」
「ここに……」
私は六法を覗き込みました。
七百二十四条。
その次は。
七百二十五条。
……。
ない。
「……あれ?」
「ねえだろ」
「え、でも!」
「昭和六十三年の民法に、そんな条文はねえ」
私は固まりました。
しまった。
またです。
また、未来の民法を持ち込んでしまいました。
令和の民法。
二〇二〇年施行の改正。
生命・身体侵害の不法行為について、主観的な時効期間が三年から五年に延長された。
でも。
今は昭和六十三年。
つまり。
「……三年」
私が呟くと。
相馬先輩は頷きました。
「そうだ」
民法七百二十四条。
損害及び加害者を知った時から三年。
「じゃあ……」
私は春江さんを見ました。
「あと、五日……?」
片桐所長が静かに言いました。
「まずは、時効の起算点と、それまでに時効を中断させる事由があったかを調べる」
「はい」
「だが、時間はない」
春江さんが、不安そうに私たちを見ました。
「あの……」
「はい」
「私は、もう請求できなくなるんでしょうか」
私は答えられませんでした。
三年間。
痛みに耐えて。
仕事を失って。
それでも、相手が誠実に対応してくれると信じていた。
その人に。
あと五日。
そんな残酷な言葉を、どう伝えればいいのでしょう。
すると。
片桐所長が言いました。
「高瀬さん」
「はい」
「まだ、終わっていません」
春江さんが顔を上げました。
「まず、事故について残っている資料を、すべて集めましょう」
所長は私たちに向き直りました。
「相馬。事故の資料」
「はい」
「こはる。医療記録と損害の整理」
「はい!」
「それから、今日中に弁護士へ連絡を入れる」
所長は、カレンダーを見つめました。
「今回は一日も無駄にできん」
「そもそも、相手は何を根拠に払わないと言っているんでしょう」
昼前。
私は机の上に資料を並べていました。
交通事故証明書。
診断書。
入院費の領収書。
洋裁店の帳簿。
事故現場の写真。
そして。
東栄運送から届いた手紙。
相馬先輩は、会社からの過去の回答書を読んでいました。
「見ろ」
「はい」
「向こうは、三つのことを言ってる」
先輩が指で示しました。
「まず、運転手の過失は小さかった」
「はい」
「次に、春江さんにも不注意があった」
「はい」
「最後に、今も残る足の不自由や売上減少は、事故が原因とは限らない」
私は眉をひそめました。
「ずいぶん都合のいい主張ですね」
「だが、怒るだけじゃ駄目だ」
「はい」
「民法七百九条を見ろ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の条文です。
そこには、古い文語体で、
――故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス。
とありました。
「……読みにくい!」
思わず叫びました。
「何だ、その感想は」
「だって先輩! 令和の民法なら、もっと読みやすいんですよ!」
「また未来の話か」
「それだけじゃありません!」
私は条文を指差しました。
「現代の七百九条には『権利又は法律上保護される利益』ってあるんです!」
「ほう」
「でも、この時代は『他人の権利』なんですね」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ。ただし、条文の言葉だけを狭く読んで、保護される利益を全部切り捨てるようなもんじゃねえ。判例の積み重ねもある」
「なるほど……」
「それより、今は春江さんだ」
先輩が診断書を叩きました。
「身体を傷つけられた。ここは分かりやすい権利侵害だ」
私は頷きました。
「故意か過失」
「運転手は、わざと突っ込んだのか?」
「違います」
「なら過失だ。何を怠ったか」
「安全な速度で走行することや、適切な運転操作です」
「証拠は?」
「警察の事故記録、目撃者の証言、現場写真です」
「次」
「損害」
私は資料をめくりました。
「治療費、休業による損害、後遺障害に関する損害、慰謝料、それから店舗設備の破損です」
「次」
「因果関係です」
私は事故の写真と診断書を並べました。
事故直後。
左足の骨折。
入院。
通院。
症状固定の診断。
そして、現在まで続く歩行障害。
「事故と足のけがについては、診療記録でつながります」
「うん」
「でも、売上の減少は……」
「簡単じゃねえだろ」
「はい」
事故後に売上が落ちた。
それだけでは、すべてが事故のせいとは限りません。
景気。
競合店。
客足。
商売には、いろいろな事情があります。
「だから帳簿を見る」
相馬先輩が言いました。
「事故前の売上と、事故後の売上。どの仕事が受けられなくなったか。具体的に示せ」
「はい!」
「治療費を並べるだけじゃ、生活の損害は見えねえからな」
私は春江さんの帳簿をめくりました。
昭和五十九年。
昭和六十年。
事故前の月。
そして、事故後。
毎年春になると、制服の仕立て直しの注文が増えていた。
でも。
事故翌年の春。
その欄は、ほとんど空白でした。
「……これ」
私は一冊の注文控えを見つめました。
――採寸依頼、辞退。
――急ぎの裾上げ、受注できず。
――卒業式用礼服、他店紹介。
春江さんが、一つずつ書き残していたのです。
「先輩」
「何だ」
「この人、仕事を断るたびに記録してます」
「そうか」
「きっと、悔しかったんですね」
相馬先輩は少しだけ黙りました。
「……その悔しさを、数字と事実にするんだ」
私は頷きました。
不法行為。
損害賠償。
条文の中では、短い言葉です。
でも。
その一つ一つを証明するために、被害者はこんなにも苦労する。
「こはる」
「はい」
「七百九条は、かわいそうだから払えって法律じゃねえ」
「……はい」
「誰が、何をして、何を壊し、そのせいでどんな損害が出たか。それをつなぐ法律だ」
私は鉛筆を握り直しました。
なるほど。
ここが、今回の事件の急所なのです。
午後。
東栄運送の社長から、電話が入りました。
「片桐事務所か」
太い声。
いかにも威張り慣れた口調でした。
相馬先輩が受話器を取りました。
「はい」
『高瀬の件で、あんたらが書類を調べてるそうだな』
「事実関係を整理しています」
『行政書士だろ?』
「そうですが」
『弁護士じゃないんだな?』
「はい」
『だったら、余計なことをするなよ』
私は隣で聞いていて、むっとしました。
またです。
民法の事件になると、必ず出てくる。
行政書士を舐める人。
『もう三年だぞ。こっちは時効になるまで余計な金を払う気はない』
……!
この人。
自分で言いました。
時効になるまで。
つまり。
最初から時間切れを狙っていた可能性がある。
相馬先輩は声を荒らげませんでした。
「そのようなお考えなのですね」
『ああ』
「承りました」
『何だ、文句も言わねえのか』
「法律上の争いについて、私がご本人の代理人として交渉する立場ではありませんので」
『へっ。やっぱり代書屋か』
相馬先輩は、静かに答えました。
「ええ。書類を作るのが仕事です」
電話が切れました。
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「あんな言い方、許せません!」
「そうだな」
「しかも時効になるまで払わないって!」
「言ったな」
「悪質じゃないですか!」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「こはる」
「はい!」
「相手が悪質だからって、時効の時計が止まるわけじゃねえ」
「……!」
「腹を立てるなら、書類を仕上げてからにしろ」
私は口を閉じました。
そのとおりでした。
相手の態度が悪い。
だから勝てる。
そんな単純な話ではありません。
どれほどひどい事故でも。
どれほど苦しんでいても。
法的手続を怠れば、権利を失うことがある。
それが、時効なのです。
「でも先輩」
「何だ」
「内容証明を出せば、時効は止まりますよね?」
相馬先輩の手が止まりました。
「……お前、また雑なことを言ったな」
「え?」
「内容証明を送れば、それで永久に安心だと思ってるのか」
「いえ、その……」
「催告だけじゃ足りねえ」
私は六法を開きました。
民法百五十三条。
昭和六十三年の規定。
催告は、それだけでは完全な時効中断の効力を生じさせるものではありません。
催告後六か月以内に、裁判上の請求など、法律で定められた手続を取る必要があります。
「……あっ」
「気づいたか」
「内容証明だけ送って、半年間何もしなかったら……」
「それじゃ救えねえ」
私は背筋が冷たくなりました。
危なかった。
内容証明郵便。
行政書士の武器。
でも。
送れば何でも解決する魔法の紙ではないのです。
「だから所長は、弁護士に連絡したんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「裁判になりそうなら、最初から弁護士と組む。行政書士が勝手に訴訟代理人の真似をして、依頼人の権利を失わせたら本末転倒だ」
「はい……!」
私は深く頷きました。
そのとき。
奥から片桐所長が出てきました。
「弁護士と話がついた」
「どうでした?」
「明日、資料を持って相談に行く。必要なら、時効完成前に適切な法的手続を取る」
私はほっと息を吐きました。
よかった。
まだ間に合う。
でも。
所長は続けました。
「その前に、相手の過失を裏づける資料がもう一つ欲しい」
「何でしょう」
「事故当時のトラックの整備状況だ」
私は首をかしげました。
「整備状況?」
「高瀬さんの話では、事故の直前、トラックから異常な音がしていたそうだ」
「え?」
相馬先輩が顔を上げました。
「ブレーキか」
「その可能性がある」
所長は、事故の写真を指差しました。
「運転手は警察に、急ブレーキを踏んだが止まりきれなかったと説明している」
「じゃあ、ブレーキが故障していた可能性が?」
「断定はできん」
所長は静かに言いました。
「だから調べる」
翌日。
私と相馬先輩は、事故現場の近くにある自動車整備工場を訪れました。
もちろん。
相手方との示談交渉をするためではありません。
事故当時の事実を確認するためです。
工場の主人は、五十代の男性でした。
「東栄運送のトラック?」
「はい。三年前の事故についてです」
主人は眉をひそめました。
「ああ……あれか」
「覚えていらっしゃいますか?」
「忘れられるかよ」
主人は奥から古い整備台帳を取り出しました。
油の染みた紙。
黒いボールペンの文字。
そして。
昭和六十年十月十六日。
事故の三日前。
そこに、東栄運送のトラックの車両番号がありました。
私は台帳を覗き込みました。
――制動時異音。
――ブレーキ系統点検要。
――早急な修理推奨。
「……先輩」
「ああ」
主人が言いました。
「あの会社には、修理した方がいいって言ったんだ」
「それで?」
「社長がな」
主人は顔をしかめました。
「今週は荷物が多い。来週まで待ってくれって」
……。
私は言葉を失いました。
修理が必要。
それを知っていた。
でも、運行を続けた。
「その話、記録に残っていますか?」
相馬先輩が尋ねました。
「ほら、ここ」
主人が台帳の余白を指差しました。
――社長連絡済。修理延期希望。
日付。
担当者の印。
私は息を呑みました。
「……これ」
「どうした」
「先輩、これって……」
「重要な資料だ」
ただし、整備工場の主人の説明だけで、事故原因が確定するわけではありません。
ブレーキの状態。
運転速度。
事故時の操作。
道路状況。
それらを総合して判断する必要があります。
それでも。
事故前に危険を指摘されていたこと。
修理を先送りしたこと。
その事実には、大きな意味がありました。
「ご主人」
相馬先輩が言いました。
「この台帳の該当部分について、事実を確認する書面を作らせていただけませんか」
「いいよ」
「内容を確認して、ご自身の記憶と一致する範囲で署名をお願いしたいんです」
「ああ。嘘は書かねえからな」
「もちろんです」
私は胸が熱くなりました。
昭和六十三年。
スマートフォンもありません。
車載カメラの映像もありません。
電子メールもありません。
でも。
整備台帳がある。
修理記録がある。
人の記憶がある。
そして。
その記憶が消える前に、書面として残せる。
行政書士の仕事。
それは、法律用語を並べることだけではない。
裁判になったとき、事実を確認できる資料を残すことなのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「これで相手の過失について、検討すべき材料が増えた」
「はい!」
「だが、まだ勝った気になるなよ」
「……分かってます」
先輩は少し笑いました。
「分かってるならいい」
十月十七日。
事故から三年となる日が、もう目前に迫っていました。
片桐行政書士事務所。
机の上には、厚い資料の束。
診断書。
交通事故証明書。
整備台帳の写し。
整備工場の主人が確認した事実証明書。
過去の売上帳簿。
注文を断った記録。
そして、春江さん自身が書いた陳述書。
私は、それらを一つずつ整理しました。
「所長」
「何だ」
「不法行為って、ものすごく証拠が必要なんですね」
「そうだな」
「事故があっただけじゃ駄目なんですね」
「そうだ」
「故意・過失、権利侵害、損害、因果関係……」
私は指を折りました。
「それから責任能力の問題もあります」
相馬先輩が言いました。
「今回の運転手は成人で、事故時に責任を判断できなかったという事情も見当たらねえ。そこは争点になってない」
「はい」
「だが、子供が事故を起こした事件なら話は変わる」
私は頷きました。
民法七百十二条。
責任を弁識する能力のない未成年者は、その行為について賠償責任を負わない。
その場合。
民法七百十四条。
一定の要件の下で、監督義務者の責任が問題になる。
ただし、監督義務者が義務を怠らなかった場合などには、免責される余地もある。
私は少し考えました。
「つまり、子供が何か壊したからって、必ず親が無条件で払うわけでもないんですね」
「そうだ」
「今回のように大人が事故を起こした場合とは、見るべきところが違う」
「そのとおり」
片桐所長が言いました。
「法律は、誰かを責めればそれで終わりという仕組みではない」
私は頷きました。
誰が責任を負うのか。
どんな要件を満たすのか。
そこを間違えれば、請求する相手さえ間違ってしまう。
今回も。
運転手本人の不法行為責任。
配送会社の使用者責任。
事案によっては、車両の運行供用者としての責任。
そうした責任の根拠を、弁護士とともに整理する必要があります。
私は書類の表紙に、
――東栄運送事故関係資料。
と記しました。
「相馬」
片桐所長が言いました。
「通知書を確認するぞ」
「はい」
いよいよ。
内容証明郵便です。
春江さん本人の意思を確認したうえで、事故による損害賠償を請求する通知書を作成しました。
私は原案を読み上げます。
「通知人は、昭和六十年十月十九日、貴社従業員の運転する貨物自動車による事故により、左下肢骨折等の傷害を負った」
「うん」
「本件事故については、貴社従業員の運転上の過失に加え、車両の整備状況に関する問題も認められ、関係資料を保全している」
「うん」
「通知人は、本件事故により、治療費、休業損害、後遺障害に関する損害及び精神的苦痛等を被った」
私は一度、息を吸いました。
「よって、通知人は、民法七百九条その他の関係法令に基づく損害賠償請求権を行使し、既払金を考慮した未払損害について賠償を請求する」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「本通知は、民法百五十三条の催告として行うものであり、通知人は、必要に応じて弁護士を通じ、裁判上の請求その他の法的措置を講ずる」
私は顔を上げました。
「……以上です」
片桐所長が、原案を読みました。
しばらく沈黙。
そして。
「こはる」
「はい」
「ここは直せ」
赤鉛筆。
来ました。
「『整備不良が事故の唯一の原因である』という説明を別紙に書いているな」
「はい」
「断定するな」
「……はい」
「整備上の問題があったことと、それが事故を引き起こしたことは、別に証明する必要がある」
「なるほど」
「相手に反論できる隙を、自分で作るな」
私は慌てて修正しました。
事故前の修理勧告。
修理の延期。
事故状況。
それぞれを、確認できる事実として記載する。
因果関係の評価は、資料を踏まえて行う。
それが、精緻な書面です。
「それから」
所長が続けました。
「賠償額も、根拠のない数字を載せるな」
「はい」
「治療費のうち支払済みのもの、まだ支払われていないもの、逸失利益の算定に必要な事情。混同するな」
「はい!」
「慰謝料も、気持ちの大きさをそのまま金額にできるわけではない。裁判例と具体的な事情を確認しろ」
私は深く頷きました。
苦しみは、本物です。
でも、書面に書く数字には、根拠が必要です。
そして。
民法七百二十二条。
損害賠償は、原則として金銭で行われます。
春江さんの足を、事故前の状態に戻すことはできない。
失った三年間を、取り返すこともできない。
だからこそ。
法律は、金銭による賠償という形で、その損害を埋めようとするのです。
「……何だか」
私は呟きました。
「足の痛みを、お金に換算するって、少し悲しいですね」
片桐所長が顔を上げました。
「そうだな」
「でも、何もしなかったら、春江さんは全部自分で背負うことになる」
「そうだ」
「だったら……」
私は通知書を見つめました。
「払うべき人に、払ってもらわなきゃいけないんですね」
所長は静かに頷きました。
「そういうことだ」
翌日。
春江さん本人が差出人となる内容証明郵便を発送しました。
同時に。
弁護士には事故関係資料一式を引き継ぎ、時効中断に必要となる裁判上の手続を準備してもらいました。
これで終わり。
ではありません。
内容証明は、裁判の判決でもなければ、強制執行できる書類でもありません。
相手が無視すれば、さらに法的手続が必要です。
しかも、旧民法の催告だけで、無期限に時効が止まるわけではありません。
私たちは、そこを間違えないようにしました。
そして。
十月十九日を迎える前に、弁護士が必要な裁判上の請求手続を取りました。
その日の夕方。
東栄運送の社長から、事務所に電話が入りました。
『……片桐さんはいるか』
妙に小さい声でした。
私が受話器を所長へ渡します。
「片桐です」
『あの書面、受け取った』
「はい」
『整備工場の記録まで持ってるのか』
「ご本人から提供を受けた資料に基づいて、通知書を作成しています」
『……そうか』
沈黙。
『こっちも弁護士に見せた』
「はい」
『時効が近いからって、黙っていれば終わると思ってたんだが……』
所長は何も言いません。
『もう裁判の手続まで取られたそうだな』
「その件は、担当弁護士にお問い合わせください」
『……分かった』
私は隣で、息を潜めていました。
社長の声には、以前のような余裕がありません。
『ブレーキの修理を延ばした記録が残ってたとはな……』
小さな声。
『運転手の不注意だけなら、まだ言い分もあったんだが』
所長は静かに答えました。
「法的な評価については、弁護士から説明を受けてください」
『ああ……』
しばらくして。
『高瀬さんに、申し訳なかったと伝えたい』
私は、思わず顔を上げました。
……今さら。
三年も経って。
時効になるまで待つと言っていた人が。
それでも。
片桐所長は、短く答えました。
「お気持ちは、ご本人へ直接お伝えください」
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「社長、完全に態度が変わりましたね!」
「ああ」
「内容証明が効いたんですね!」
所長は少し考えました。
「内容証明だけではない」
「え?」
「診断書、帳簿、整備記録、本人の陳述書。それに、期限内の法的手続だ」
私は黙りました。
「一枚の紙が相手を変えたんじゃない」
所長は言いました。
「その紙に書いた事実を、裏づけられることが大事なんだ」
……。
なるほど。
民法。
七百九条。
たった一つの条文。
でも、その条文を本当に働かせるためには。
これだけの準備が必要なのです。
その後。
東栄運送は、弁護士を通じて損害賠償についての協議に応じる姿勢を示しました。
訴訟手続の中で、事故状況や後遺障害、既払金、損害額について資料の確認が進められました。
会社側は当初、
「事故と売上減少の関係は分からない」
と主張しました。
しかし。
事故前後の帳簿。
受注できなかった仕事の記録。
医師の診断書。
整備工場の資料。
それらが一つずつ示されるにつれ、争いのある部分は絞られていきました。
そして数週間後。
弁護士から、連絡が入りました。
東栄運送が、相当額の賠償金を支払う内容で和解することに応じたというのです。
金額は、春江さんの請求した全額ではありませんでした。
それでも。
治療や休業に関する未払損害。
後遺障害に関する損害。
慰謝料。
既払金を考慮したうえで、双方が合意できる内容にまとまりました。
何より。
会社は書面で、事故についての責任を認めました。
私は、その知らせを聞いた瞬間、机から立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「よかったですね!」
「ああ」
「春江さん、やっと……!」
相馬先輩が言いました。
「まだ振込みがあるまで気を抜くなよ」
「……分かってます!」
「和解書だって、書けば終わりじゃねえ。約束が履行されて初めて意味がある」
「はい!」
先輩は少しだけ笑いました。
「まあ、今回はよくやった」
……。
え?
「先輩」
「何だ」
「今、褒めました?」
「聞き間違いだ」
「絶対褒めましたよね!」
「うるせえ」
私は笑いました。
でも。
本当に嬉しかったのです。
ただ。
その嬉しさは、すぐに別の気持ちへ変わりました。
もし。
春江さんが、一週間遅く相談に来ていたら。
もし。
私が令和の五年という時効期間を信じたまま、何もしなかったら。
もし。
内容証明を送るだけで安心して、弁護士への引継ぎをしなかったら。
この結果は、なかったかもしれません。
法律の勉強。
条文の暗記。
過去問。
それらが、初めて怖いものに思えました。
一つの間違いで。
誰かの財産を失わせることがある。
だからこそ。
正確でなければならないのです。
一か月ほどして。
春江さんが、事務所に来ました。
杖をついています。
でも。
最初に来たときとは、顔つきが違いました。
「ありがとうございました」
春江さんは深く頭を下げました。
「お金も、無事に振り込まれました」
「よかったです!」
私は笑いました。
すると、春江さんは鞄から小さな包みを取り出しました。
「これ、皆さんに」
「え?」
「お礼です」
包みを開けると。
中には、三枚のハンカチがありました。
白い布。
丁寧な縁取り。
そして隅には、小さな花の刺繍。
「私が縫ったんです」
春江さんが言いました。
「少し時間はかかりましたけど」
私は、ハンカチを手に取りました。
細かい針目。
整った刺繍。
きっと、何度も糸を通したのでしょう。
「すごく綺麗です……!」
「昔は、もっと早く縫えたんですよ」
春江さんは、少し笑いました。
「今は長く座っていると足が痛むので、一日に少しずつです」
「……はい」
「でもね」
春江さんは、静かに続けました。
「もう、店を閉めなくてもよさそうなんです」
私は顔を上げました。
「本当ですか?」
「はい。賠償金で、作業台を低いものに替えようと思って」
座ったまま裁断できる作業台。
足への負担が少ない椅子。
そして、店の入り口に小さな手すり。
「前と同じようには、できません」
春江さんが言いました。
「でも、私にはまだ、できる仕事があるんです」
私は胸が熱くなりました。
三年前。
トラックが突っ込んできた日。
春江さんは、足を傷つけられました。
仕事を失いました。
生活が変わりました。
でも。
すべてを失ったわけではなかった。
「……よかった」
私は小さく呟きました。
春江さんは、私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「私ね」
少し、間がありました。
「最初は、足の値段を知りたいって言いましたよね」
「……はい」
「でも、分かったんです」
春江さんは、自分の左足に手を置きました。
「この足に、値段なんてつけられないんです」
私は黙っていました。
「三年前の足は、もう戻らない」
「はい」
「でも、賠償してもらえたことで、これからの生活を少し変えられる」
春江さんは笑いました。
「それだけでも、私には大きなことなんです」
片桐所長が頷きました。
「それが、損害賠償の役割の一つです」
春江さんは、もう一度頭を下げました。
「ありがとうございました」
その背中を見送りながら。
私は、しばらく動けませんでした。
夕方。
私は事務所の机に向かっていました。
手元には、春江さんが縫ってくれたハンカチ。
白い花。
細い糸。
そして、丁寧な針目。
「相馬先輩」
「何だ」
「不法行為って、思っていたより難しいですね」
「そうか」
「はい」
私は六法を開きました。
「民法七百九条。故意・過失で他人の権利を侵害して損害を与えたら、賠償責任を負う」
「うん」
「文字だけなら、簡単に見えるんです」
「そうだな」
「でも、現実では……」
私は今日の書類を思い出しました。
誰に過失があったのか。
何が侵害されたのか。
どんな損害が発生したのか。
その損害は、本当に事故によって生じたのか。
責任を負うのは誰か。
時効はいつ完成するのか。
そして。
証拠は残っているのか。
「一つでも見落とすと、駄目なんですね」
「そうだ」
相馬先輩は煙草を消しました。
「それと、もう一つ」
「何ですか?」
「金で払うのが原則だからって、金さえ払えば全部元どおりになると思うなよ」
私はハンカチを見つめました。
「……はい」
春江さんの足。
三年間の苦しみ。
失った仕事。
できなくなったこと。
全部をお金で元に戻すことはできません。
でも。
法律は、その損害を被害者一人に背負わせないための仕組みを用意している。
それが、不法行為による損害賠償です。
「ところで先輩」
「何だ」
「不法行為って、財産を壊した場合だけじゃないんですよね」
「当たり前だ」
「名誉を傷つけた場合にも、損害賠償が問題になりますよね」
「ああ」
「しかも、名誉毀損の場合は、民法七百二十三条で名誉回復に適当な処分を裁判所が命じることもある」
「そうだな」
たとえば。
嘘の噂を広められた。
信用を失った。
商売ができなくなった。
そういう事件なら、金銭賠償だけでなく、名誉を回復するための措置が問題になることもあります。
「さらに、人が亡くなった場合には……」
私は言いかけて、止まりました。
民法七百十一条。
被害者の父母、配偶者、子に対する慰謝料。
そして、一定の場合には、それらの近親者と実質的に同視できる人への保護。
昭和四十九年十二月十七日の最高裁判決も、思い出しました。
法律は、被害者本人だけでなく、その人とともに生きてきた家族の苦しみも考えている。
……。
「先輩」
「何だ」
「民法って、思っていたより、人の生活を細かく見ていますね」
相馬先輩は、少しだけ笑いました。
「そうだな」
「それなのに、時効は厳しい」
「そりゃそうだ」
「どうしてですか?」
先輩は、窓の外を見ました。
「いつまでも昔の出来事を争えるようにすると、証拠は失われるし、権利関係も不安定になる」
「……はい」
「だから、期限がある」
私は頷きました。
「でも、春江さんみたいに、ずっと苦しんでいる人もいます」
「ああ」
「だから、難しいんですね」
「そういうことだ」
時効。
不法行為。
被害者保護。
法律関係の安定。
どちらにも、理由がある。
ただ。
昭和六十三年の三年という期間を知らなければ、春江さんの権利は危険にさらされていました。
令和の民法なら、生命・身体を害する不法行為について、知った時から五年という特別の期間があります。
でも。
今の私が使えるのは、昭和六十三年の民法です。
未来の条文は、春江さんを助けてくれません。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「不法行為は、被害があっただけでは成立しない」
「うん」
「故意・過失、権利侵害、損害、因果関係などを、事実と証拠で確認する必要がある」
「そうだ」
「そして、損害賠償請求権には時効がある」
「うん」
「昭和六十三年は、身体の損害でも原則として知った時から三年。現代の五年と混同してはいけない」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートを開きました。
今日の教訓。
短く。
忘れないように。
――不法行為は「悪いことをしたか」だけでなく、「誰が、何を、どれだけ傷つけたか」を証拠でつなぎ、期限内に権利を守る法律。
「……できた!」
私は鉛筆を置きました。
「先輩!」
「何だ」
「これなら忘れません!」
「毎回そう言ってるな」
「今回は本当です!」
「そうかよ」
私は笑いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『うちの息子が、隣の家の窓ガラスを割ってしまいまして……』
「窓ガラスですか?」
『はい。石を投げたみたいで』
「お子さんは何歳ですか?」
『六歳です』
私は、鉛筆を止めました。
六歳。
未成年者。
責任能力。
民法七百十二条。
そして。
七百十四条。
『相手の方から、子供がやったことなんだから親が全額払えって言われてるんです』
「なるほど……」
『やっぱり、親は絶対に責任を取らないといけないんでしょうか?』
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ています。
「先輩」
「何だ」
「次は、責任無能力者の監督義務者です」
「聞こえてるよ」
「六歳です」
「だから聞こえてるって」
「親は必ず責任を負うわけじゃないですよね!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「いいところに気づいたな」
私は受話器を握り直しました。
民法は、人を傷つけたからといって、誰にでも同じように責任を負わせる法律ではありません。
自分の行為の責任を理解できたのか。
監督する立場の人は、義務を果たしていたのか。
何を確認しなければならないのか。
それによって、答えは変わります。
「お電話ありがとうございます。まず、石を投げたときの状況を詳しく教えていただけますか?」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
民法の世界は、今日も簡単には終わりません。
そして。
私は机の上のハンカチを見つめました。
春江さんが縫ってくれた、小さな白い花。
一本一本の糸が、丁寧につながっています。
不法行為も、同じなのかもしれません。
過失。
権利侵害。
損害。
因果関係。
証拠。
そして時効。
その一本が切れれば、法律上の請求が認められなくなることがある。
だからこそ。
私たちは、一つずつ確認するのです。
誰かの足を、元に戻すことはできなくても。
誰かの失った時間を、取り返すことはできなくても。
せめて。
その人が明日も、自分の仕事を続けられるように。
法律は、損害を加えた者に、その責任を問うことができるのです。
――そして私は、二度と忘れないでしょう。
昭和六十三年の不法行為。
時効は、原則として三年。
未来の五年を信じて、のんびりしている暇はありません。
だって。
傷が治るより先に、時効の時計が止まってくれるとは限らないのですから。
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