[民法・不法原因給付]法理編 こはるノート
悪いことのために渡したお金は、返してもらえない。
では。
もっと悪いことをした人間が、そのお金を受け取っていたら?
それでも、返してもらえないのでしょうか。
そして。
お金ではなく、土地や建物だったら?
鍵を渡しただけで、もう取り戻せないのでしょうか。
実は。
民法には、こんな恐ろしい条文があります。
――不法な原因のために給付をした者は、その給付したものの返還を請求することができない。
民法第七百八条。
不法原因給付。
たった一条。
しかし。
この一条を読み間違えると。
自分の財産を失うだけでなく。
悪党の言い分を、法律で正当化してしまうことになるのです。
◇
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
「……民法って、時々、悪党の味方に見えますよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「不法原因給付ですよ」
「ああ」
「悪いことのためにお金を渡したら、返してもらえないんですよね」
「原則としてな」
「それって、受け取った側が得をしませんか?」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「昨日の黒崎みてえにな」
「そうです!」
私は勢いよく頷きました。
黒崎源治。
駅裏の飲食店経営者。
仕出し屋を営む西村澄江さんから、八十万円を借りた男です。
ところが。
借りたお金を賭博場の運営資金に使い、返済期限が過ぎても返さなかった。
それどころか。
「民法七百八条だ! 違法な金だから返さなくていい!」
などと言い始めたのです。
……。
いや。
あなたが、その違法な使い道を決めたんでしょう。
しかも。
澄江さんが貸付けを断ろうとすると、取引停止をちらつかせて圧力までかけていた。
「本当に腹が立ちました」
「そうだな」
「でも、黒崎は条文を知っていたんですよね」
「ああ」
「私、最初はそれで焦ったんです」
七百八条。
不法原因給付。
確かに、条文の前半だけを読めば、黒崎の主張にも一見もっともらしいところがあります。
しかし。
片桐所長と相馬先輩が持ち出したのは、昭和二十九年八月三十一日の最高裁判決。
当事者双方に不法な点があっても、貸主側の不法性が借主側に比べて極めて微弱な場合には、民法九十条と七百八条の適用を否定し、貸金返還請求を認めるという判断でした。
私たちは、その判例と事実関係を整理した内容証明郵便を作成。
澄江さん本人の名義で発送しました。
すると。
黒崎は弁護士に相談したあと、態度を一変させたのです。
そして、八十万円を全額返済。
澄江さんの仕出し屋には、新しい業務用冷蔵庫が入りました。
「……よかったですよね」
私が言うと、相馬先輩は頷きました。
「ああ」
「でも、先輩」
「何だ」
「私、まだ分からないことがあるんです」
「何だよ」
私はノートを開きました。
そこには、三つの疑問を書いていました。
不法な原因って、どこまで?
給付したって、どこから?
双方が悪い場合、どうなる?
「この三つを整理したいんです!」
相馬先輩は、新聞を畳みました。
「……また勉強会か」
「もちろんです!」
「俺の休憩時間は?」
「民法に休憩時間はありません!」
「俺にはあるんだよ!」
そこへ。
奥から、片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、不法原因給付の意味です!」
私はノートに大きく書きました。
――民法第七百八条。
不法な原因のために給付をした者は、その給付したものの返還を請求することができない。ただし、不法な原因が受益者についてのみ存したときは、この限りでない。
「先輩。この条文、昭和六十三年と令和で同じなんですよね?」
「ああ。少なくとも今日使っている七百八条の文言は、昔からのものだ」
「やった!」
「何がだ」
「今回は未来の条文を持ち込まずに済みます!」
「お前は毎回、何と戦ってるんだ」
未来の民法です。
もちろん、口には出せません。
「では、不法原因給付とは何でしょう!」
私は鉛筆を持ち直しました。
「不法な原因に基づいて、財産などを給付することです」
「そのまんまだな」
「まずは定義です!」
たとえば。
殺人を依頼し、その報酬として百万円を支払う。
あるいは。
賭博のために、金銭を交付する。
また。
法律上の配偶者がいる人が、愛人関係を継続することを条件として、不動産を贈与する。
「こういう場合、まず民法九十条が問題になります」
私は六法を開きました。
――公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
「昭和六十三年の民法九十条ですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「令和の条文と、言い回しが少し違うんだっけ?」
「そうなんです!」
私は説明しました。
現代の民法九十条では、
――公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。
と規定されています。
昔の条文にあった「事項を目的とする」という部分が整理されています。
「でも、公序良俗に反する法律行為を無効とする考え方は、基本的に同じです」
「そういうことだな」
ここで私は、二つの条文を並べました。
民法九十条。
公序良俗違反の法律行為は無効。
民法七百八条。
不法な原因のために給付したものは、原則として返還請求できない。
「この二つが組み合わさると、面白いことになるんです」
「面白い?」
「いえ、怖いことです!」
たとえば。
AがBに、違法な行為を依頼した。
その報酬として百万円を支払った。
ところが、Bは約束した行為をしなかった。
Aは怒って言います。
「約束を守らないなら、百万円を返せ!」
でも。
その約束自体が公序良俗違反で無効だったら?
普通なら。
無効な契約に基づいて渡したお金は、返してもらえそうです。
しかし。
「そこで七百八条です」
私は赤鉛筆で囲みました。
Aは、自分から不法な目的のためにお金を渡している。
だから。
原則として、そのお金の返還を請求できない。
「……ひどくないですか?」
私が言うと、相馬先輩が首をかしげました。
「何がだ」
「Bが得するじゃないですか」
「結果として、そういう場合はある」
「でも、どうして?」
相馬先輩は少し考えてから言いました。
「じゃあ、お前が裁判官だったとする」
「はい」
「人を殺してもらうために百万円払った奴が、裁判所に来た」
「はい」
「『殺人を実行してくれなかったので、報酬を返してください』ってな」
……。
私は固まりました。
「……それ、裁判所に頼むことですか?」
「そういうことだ」
なるほど。
法律は。
不法な目的を実現しようとした人間に、当然に救済の手を差し伸べるわけではない。
自分で社会秩序に反する取引に関わったのなら、その結果として生じた不利益を自分で負うべき場合がある。
「つまり」
私は言いました。
「不法原因給付の制度には、不法な行為をした給付者を法律で保護しない、という考え方があるんですね」
「そうだ」
片桐所長が静かに言いました。
「裁判所を、不法な取引の後始末をする道具にさせない」
私は、その言葉を書き留めました。
ただし。
ここで、一つ重要なことがあります。
「先輩。法律に違反していたら、何でも七百八条になるんですか?」
「ならねえ」
「ですよね!」
七百八条の「不法」は、単なる法令違反すべてを意味するわけではありません。
問題になるのは、公序良俗に反するような不法性です。
「たとえば、帳簿に載せずに現金を貸したら、それだけで七百八条ですか?」
「そんな単純な話じゃねえ」
「そうですよね」
記帳していないことと、貸付けの目的そのものが公序良俗に反することは別の問題です。
相手が後から違法な使い方をしたというだけでも、当然に貸付けが不法原因給付になるわけではありません。
契約の目的。
当事者の認識。
給付に至った事情。
そこを調べる必要があります。
「だから黒崎の『賭博に使ったから返さない』は、最初から乱暴だったんですね」
「そうだ」
「でも先輩」
「何だ」
「実際に不法原因給付になった場合でも、どんなときに『給付した』といえるか、問題になるんですよね?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「やっとそこまで来たか」
……。
その顔。
嫌な予感しかしません。
◇
「では、二つ目の論点です!」
私はノートに大きく書きました。
――給付とは何か。
「先輩。給付って、お金や物を渡すことでしょう?」
「まあ、そうだな」
「だったら簡単じゃないですか」
「本当にそうか?」
「……え?」
相馬先輩は、机の上に一本の万年筆を置きました。
「これを、お前にやる」
「えっ!」
「高級品だぞ」
「本当ですか!」
「ただし、不法な約束の報酬だとする」
「……急に怪しくなりましたね」
「俺が渡すから、受け取れ」
私は万年筆を手に取りました。
「はい」
「それで、給付は終わったか?」
「終わりました!」
「そうだな」
万年筆。
つまり動産です。
動産の場合は、原則として引渡しによって給付が完了したと考えられます。
「じゃあ、これは七百八条の問題になるんですね」
「不法な原因に基づく給付ならな」
「はい!」
私はノートに書きました。
――動産は、引渡しが重要。
「でも、先輩」
「何だ」
「さっきの西村さんのお金も、給付ですよね」
「ああ。現金を実際に渡してるからな」
「ですよね」
澄江さんは、黒崎に八十万円を交付しました。
だから、金銭の給付自体はありました。
しかし。
それだけで七百八条が適用されるわけではない。
給付の原因が、本当に公序良俗に反する不法なものだったのか。
そこを別に検討する必要があります。
「なるほど」
私は頷きました。
「給付があったことと、不法原因給付が成立することは別なんですね」
「そうだ」
ここまでは、何とか理解できました。
ところが。
相馬先輩は、さらに言いました。
「じゃあ、建物をやる」
「……え?」
「今度は建物だ」
「また急に大きくなりましたね!」
「例えばだ」
先輩は白紙に、四角い家を描きました。
……。
これ。
家ですか?
どう見ても、段ボール箱です。
「何だ、その顔」
「いえ、独創的な建物だなと」
「文句言うなら自分で描け!」
「すみません!」
先輩は咳払いをしました。
「ある男が、不法な目的で女に家を贈ったとする」
「はい」
「鍵を渡して、住ませた」
「はい」
「これで給付は終わりか?」
私は勢いよく答えました。
「引渡しがあったので、終わりです!」
「本当に?」
「……あ」
しまった。
さっきの万年筆と、同じように考えてしまいました。
建物。
不動産。
そして。
登記。
「先輩」
「何だ」
「不動産は、登記が問題になりますよね」
「そうだ」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「では、ここからが本番だ」
◇
「こはる」
片桐所長が、古い判例集を開きました。
「はい」
「不法原因給付でいう『給付』は、単に物を一時的に預けたり、使わせたりすることとは違う」
「はい」
「相手に、終局的な利益を与えたといえることが重要だ」
私はノートに書きました。
――給付=終局的な利益を与えること。
「終局的……」
難しい言葉です。
でも、意味は分かります。
たとえば。
家の鍵を渡して、一晩泊めた。
それだけで、家を贈与したことにはなりません。
逆に。
家を完全に譲るつもりで引き渡し、必要な手続まで済ませた。
それなら、相手に終局的な利益が移ったと考えやすい。
「つまり、相手に利益が最終的に渡ったかどうかを考えるんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「ただし、不動産は登記の有無で結論が変わることがある」
「そこです!」
私は鉛筆を握り直しました。
「未登記と既登記ですね!」
「そうだ」
所長は判例集の一ページを開きました。
昭和四十五年十月二十一日。
最高裁判所大法廷判決。
「こはる。まず、未登記建物だ」
「はい!」
ある男が、不法な原因によって、未登記の建物を女性に贈与した。
建物は、まだ誰の名義でも登記されていない。
男は、その建物を女性に引き渡した。
女性は住み始めた。
ところが、男は後になって気が変わりました。
「やっぱり返せ!」
……。
何とも身勝手な話です。
「さて」
相馬先輩が聞きました。
「この場合、男は建物を取り返せるか?」
私は考えました。
未登記。
建物を引き渡した。
不法な目的。
……。
「給付があったので、原則として返還請求できない?」
「正解だ」
「やった!」
私は思わず拳を握りました。
未登記建物については、判例上、引渡しだけで七百八条の給付があったと認められます。
だから。
不法な原因によって建物を贈与し、引渡しを済ませた男は。
原則として、その建物の返還を請求できないのです。
「でも所長」
「何だ」
「不法な贈与契約なら、民法九十条で無効ですよね」
「そうだ」
「無効なら、建物の所有権は男に残っているんじゃないですか?」
所長が頷きました。
「いい疑問だ」
おお。
褒められました。
「契約が無効だから、所有権に基づいて返還を請求する。そう考えたくなるな」
「はい!」
「だが、それを許すとどうなる」
私は少し考えました。
「七百八条の返還禁止を、所有権という別の理屈で回避できてしまいます」
「そうだ」
なるほど。
不当利得として返せない。
でも所有権に基づけば返せる。
そんなことになったら。
七百八条の意味がなくなってしまう。
「最高裁は、そこを許さなかったんですね」
「そうだ」
未登記建物を不法な原因で贈与し、引渡しを終えた場合。
判例は、贈与者が所有権に基づいて返還を請求することも認めません。
さらに。
その反射的効果として、建物の所有権は受贈者に帰属するとしています。
「……ええっ!」
私は思わず声を上げました。
「無効な贈与なのに、所有権が受け取った人に帰属するんですか!」
「判例はそういう処理をしている」
「すごいですね……」
法律は、単に契約が有効か無効かだけでは終わらない。
既に行われた給付を、どのように扱うのか。
そこまで考えているのです。
「ちなみに」
相馬先輩が言いました。
「その後、贈与した男が勝手に自分名義で保存登記をしたらどうなると思う?」
「えっ」
「未登記建物を引き渡した後だ」
私は考えました。
給付は既に終わっている。
七百八条によって返還請求できない。
所有権も、判例上は受け取った側に帰属する。
「……後から保存登記しても、取り戻せない?」
「そうだ」
最高裁は、贈与者が後から自分名義の所有権保存登記をしても、それによって権利を取り戻せるわけではないとしています。
むしろ、受贈者から保存登記の抹消を求められ得る。
「怖っ!」
「何がだ」
「一度引き渡したら、後から登記しても駄目なんですね!」
「そういう場合があるってことだ」
私はノートに大きく書きました。
――未登記建物は、引渡しで給付。
――後から給付者名義の保存登記をしても、原則として取り戻せない。
「これは試験に出ますね!」
「お前は何でも試験に結びつけるな」
「受験生ですから!」
私は胸を張りました。
しかし。
相馬先輩は、そこで人差し指を立てました。
「じゃあ次だ」
「はい!」
「既登記建物」
……。
来ました。
昨日の電話相談。
まさに、この論点です。
◇
「今度は、最初から登記されている建物だ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「男が不法な目的で、女に建物を贈与した」
「はい」
「鍵を渡した」
「はい」
「女は住み始めた」
「はい」
「だが、所有権移転登記はしていない」
私は頷きました。
つまり。
建物の登記名義は、まだ贈与者の男のまま。
しかし。
現実には、受贈者の女性が住んでいる。
「これ、昨日の相談と同じですね」
「そうだ」
片桐所長が、別の判例集を開きました。
昭和四十六年十月二十八日。
最高裁判所第一小法廷判決。
「この判例が重要だ」
私は身を乗り出しました。
「結論は?」
「既登記建物については、引渡しだけでは、七百八条の給付があったとはいえない」
……!
「登記が必要なんですか!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「所有権移転登記まで済ませる必要がある」
私はノートに書きました。
――既登記建物は、引渡し+所有権移転登記。
「つまり、引渡しだけなら?」
「七百八条の給付は、まだ完了していない」
「だから、返還を求められる余地があるんですね!」
「そうだ」
私は、思わず両手を上げました。
「分かりました!」
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「昨日の相談者が、必ず建物を取り戻せると決まったわけじゃねえぞ」
「あ……」
「そもそも贈与の不法性はどうだったのか。他の権利関係はないのか。事実を調べる必要がある」
「はい」
「それに、七百八条の給付が未完成というだけで、建物明渡しのすべての要件が自動的に揃うわけじゃねえ」
なるほど。
判例の結論だけを暗記して。
「既登記で移転登記がないから、絶対に返せ!」
そんなふうに言ってはいけないのですね。
「ただ」
私は言いました。
「少なくとも、七百八条の給付が成立したかどうかについては、未登記建物と既登記建物を区別する必要があります」
「そうだ」
私はノートを整理しました。
未登記建物。
引渡しで給付。
既登記建物。
引渡しと移転登記で給付。
動産。
引渡しで給付。
「これなら覚えられます!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ、確認するぞ」
「はい!」
「既登記建物。移転登記済み。まだ鍵は渡してない」
「……給付は完了していません!」
「なぜだ」
「引渡しがないからです!」
「よし」
「では逆に!」
私は言いました。
「既登記建物。鍵を渡して、相手が住んでいる。でも移転登記がない」
「どうなる?」
「七百八条の給付は未完成です!」
「正解」
「未登記建物なら?」
「自分で答えろ」
「引渡しで給付です!」
私は得意になりました。
ふふふ。
不法原因給付。
少しずつ見えてきました。
ところが。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「では、なぜ未登記と既登記で違うと思う」
……。
私は止まりました。
「えっと……」
なぜ。
確かに。
どちらも建物です。
鍵を渡して住ませる。
現実の利用状況は同じ。
それなのに。
なぜ、給付の判断が違うのでしょう。
「……登記があると、所有権を移す手続が残っているから?」
所長が頷きました。
「そうだ」
既登記建物では、贈与者名義の登記が残っている。
したがって、引渡しだけで、受贈者に終局的な利益を与え終わったとは評価しない。
一方。
未登記建物では、もともと移転すべき既存の登記名義がない。
そのため、引渡しによって給付が完了したと考える。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「単なる形式の違いじゃないんですね」
「そうだ」
「相手に終局的な利益が移ったかどうか。その判断に、登記が関係してくる」
片桐所長が頷きました。
「そこを覚えておけ」
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「次が一番大事だな」
「はい!」
「西村さんの八十万円だ」
私は姿勢を正しました。
あの事件。
私たちが内容証明を作った理由。
そして。
民法七百八条を振りかざす黒崎に対して、最高裁判例を示した理由。
「先輩」
「何だ」
「七百八条には、ただし書がありますよね」
「ああ」
私は読み上げました。
――ただし、不法な原因が受益者についてのみ存したときは、この限りでない。
「これは、不法な原因が受け取った側にだけある場合ですね」
「そうだ」
例えば。
AがBにお金を渡した。
しかし、その不法な仕組みを作ったのはBであり、A自身には不法な原因が認められない。
そのような場合には、七百八条による返還禁止は働かない。
「では」
私は質問しました。
「Aにも少し不法な点があったら、どうなります?」
相馬先輩は、例の判例集を開きました。
「昭和二十九年八月三十一日だ」
「はい!」
最高裁判所の判決。
貸金消費貸借契約の成立経緯に、不法な点があった事案です。
貸主側にも、多少の不法があった。
借主側にも、不法があった。
しかし。
貸主の不法性は、借主の不法性と比べて極めて微弱だった。
「そこで最高裁は?」
相馬先輩が聞きました。
「民法九十条と七百八条の適用を否定しました!」
「そうだ」
「そして、貸主からの貸金返還請求を認めました!」
「正解」
私は頷きました。
ここ。
今回の事件の最大のポイントです。
単純に、
「貸主にも不法がある!」
と言うだけでは足りない。
当事者双方の不法性を比較する。
そして。
貸主側の不法性が、借主側と比べて極めて小さいならば。
貸主を保護すべき場合がある。
「でも、先輩」
「何だ」
「それって、七百八条のただし書を広く解釈しているんですか?」
相馬先輩が顔を上げました。
「いい質問だ」
おお。
今日は、よく褒められます。
「厳密には、昭和二十九年の判例は、九十条と七百八条の適用を否定して、貸金返還請求を認めている」
「はい」
「だから、ただし書の文言にそのまま当てはめるだけじゃねえんだ」
私はノートに書きました。
――ただし書。
受益者のみに不法な原因がある場合。
――昭和二十九年判例。
双方に不法な点があっても、給付者側の不法性が受益者側より極めて微弱な場合には、九十条・七百八条の適用を否定する。
「なるほど!」
私は頷きました。
「試験でも、この二つを区別したほうがよさそうですね」
「そういうことだ」
「それから!」
私は続けました。
「貸主の不法性が少し小さいだけでは、駄目なんですよね」
「ああ」
相馬先輩が頷きます。
「極めて微弱、だ」
この言葉。
重要です。
例えば。
AとBが共同で違法な事業を計画した。
二人とも十分に事情を理解し、積極的に関わった。
そこでAがBに百万円を交付した。
後になって、Aが、
「Bのほうが少し悪いから返せ!」
と主張した。
これだけで、返還請求が認められるわけではありません。
「不法の程度が、少し違う程度では足りないんですね」
「そうだ」
「給付者側の不法性が、受益者側に比べて極めて小さいことが重要」
私は赤線を引きました。
極めて微弱。
極めて微弱。
極めて微弱。
「……三回書いたな」
相馬先輩が呆れました。
「試験に出そうですから!」
「紙がもったいねえ」
「合格のための投資です!」
私は胸を張りました。
そして。
西村さんの事件を思い出しました。
澄江さんは、帳簿外の資金だと知りながら貸しました。
その点について、どの程度の不法性が認められるかは慎重に考える必要があります。
一方で。
黒崎は、貸付けを求める際に取引停止をちらつかせた。
受け取ったお金を、賭博場の運営資金に使った。
そのうえ、返済を拒むために七百八条を持ち出した。
「だから、事情を丁寧に整理したんですね」
「そうだ」
「黒崎のほうが悪い、と叫ぶだけではなく」
「うん」
「誰が何を知っていたか。どのようにお金を貸すことになったか。どちらにどんな不法な事情があったのか」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
そして、私たちは思い出さなければなりません。
内容証明を送ったからといって、裁判での勝訴が確定したわけではない。
まして、すべての貸金について、この判例が当然に使えるわけでもない。
重要なのは。
具体的な事実に、判例の判断枠組みを当てはめること。
黒崎は、その危険を理解したからこそ、自分の意思で返済に応じたのです。
◇
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「民法九十条と七百八条の関係は整理できたか」
「はい!」
私はノートを開きました。
「九十条は、公序良俗に反する法律行為を無効とする規定です」
「うん」
「七百八条は、不法な原因によって既に給付したものの返還を、原則として認めない規定です」
「そうだ」
「つまり、契約が無効かどうかと、給付したものを取り戻せるかどうかは、別の問題なんです!」
片桐所長が頷きました。
「その区別が重要だ」
私は思いました。
受験生の頃。
無効という言葉を聞くと、つい考えてしまいました。
無効。
つまり、初めから効力がない。
だったら、全部元に戻る。
そういうイメージです。
でも。
不法原因給付は違います。
契約が無効だからといって、常に元どおりにできるとは限らない。
「ここで、現代民法との違いもあります!」
私は勢いよく言いました。
「また未来の話か」
相馬先輩が顔をしかめました。
「大事なんです!」
現代の民法には、百二十一条の二があります。
無効な行為や、取り消された行為に基づいて給付を受けた場合の原状回復義務。
この規定です。
「でも、昭和六十三年には、まだ百二十一条の二がありません!」
「そうだな」
「当時は、不当利得などの規定や判例上の考え方によって、原状回復を検討していたんですね」
「そうだ」
そして。
現代の百二十一条の二があっても、七百八条が消えたわけではありません。
無効な契約について原状回復を考える場合にも、不法原因給付による返還制限が問題になることがある。
「つまり!」
私は言いました。
「令和の民法では、原状回復の一般的なルールが明文化されました」
「うん」
「でも、不法な原因による給付については、七百八条の特別な問題が残っている」
「そのとおりだ」
私は赤鉛筆で線を引きました。
令和の知識を、そのまま昭和に持ち込まない。
でも。
昭和の判例を理解すると、現代の民法も見えてくる。
「民法改正って、昔の法律を全部捨てたわけじゃないんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「昔から積み重ねられてきた考え方を、明文化したり整理したりしている部分もある」
「うん」
私は、少し嬉しくなりました。
転生してから。
何度も、現代の条文を使いそうになりました。
契約不適合責任。
消滅時効。
意思能力。
成年後見制度。
そして今回の、百二十一条の二。
そのたびに、相馬先輩に怒られました。
でも。
昔と今の違いを知ることで。
法律の仕組みが、前よりずっと分かるようになってきた気がします。
◇
「では、確認問題です!」
私は勢いよく立ち上がりました。
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「何でお前が出題するんだよ」
「勉強会ですから!」
「勝手に決めるな!」
私は構わず続けました。
「第一問!」
不法な目的で、AがBに現金百万円を実際に交付した。
双方が、その不法な目的を十分に理解していた。
Aは後から返還請求できるでしょうか。
「原則として、できねえ」
「正解!」
「俺が間違えると思うなよ」
「では第二問!」
AがBに、未登記建物を不法な原因で贈与した。
建物は引渡し済み。
移転登記は存在しない。
給付は完了しているでしょうか。
「している」
「正解!」
昭和四十五年十月二十一日の最高裁大法廷判決。
未登記建物は、引渡しによって七百八条の給付があったと認められます。
「第三問!」
既登記建物を不法な原因で贈与した。
引渡しは済んでいる。
しかし、所有権移転登記は未了。
七百八条の給付は完了しているでしょうか。
「してねえ」
「正解!」
昭和四十六年十月二十八日の最高裁判決。
既登記建物については、引渡しだけでは足りません。
所有権移転登記も必要です。
「第四問!」
私はノートをめくりました。
「双方に不法な事情があります。でも、貸主側の不法性は借主側と比べて極めて微弱です。貸金返還請求は、必ず七百八条によって禁止されるでしょうか?」
「禁止されるとは限らねえ」
「正解!」
昭和二十九年八月三十一日の最高裁判決。
貸主の不法性が借主と比較して極めて微弱である場合、民法九十条と七百八条の適用が否定され、貸金返還請求が認められることがあります。
「第五問!」
私は満面の笑みで言いました。
「昭和六十三年の民法百二十一条の二には、何が書いてあるでしょう!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「そんな条文はねえ!」
「正解です!」
「お前が昨日間違えたやつだろ!」
「復習は大事です!」
私は笑いました。
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「最後に、私から一問」
……。
来ました。
所長の問題。
これは、気を抜けません。
「不法原因給付を考えるうえで、一番大切なのは何だ」
私は少し考えました。
条文。
判例。
給付。
登記。
不法性の比較。
いろいろな知識が頭の中を駆け巡りました。
でも。
最後に思い浮かんだのは。
新しい冷蔵庫の前で、嬉しそうに笑っていた澄江さんの姿でした。
「……その法律が、何のためにあるのかを考えることです」
私は答えました。
所長が、少しだけ顔を上げました。
「続けろ」
「七百八条は、不法な行為をした給付者を、法律が安易に保護しないための規定です」
「うん」
「でも、受け取った側の不法性が圧倒的に大きい場合にまで、機械的に返還を拒むのは、公平ではありません」
「そうだ」
「だから、条文の言葉だけでなく、具体的な事実と判例を確認する必要があります」
所長は、ゆっくり頷きました。
「それでいい」
私は、ほっと息を吐きました。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートの最後のページを開きました。
今日のまとめです。
不法原因給付。
最初は、怖い制度だと思いました。
悪いことのために渡したものは返せない。
それだけ聞くと、受け取った側が得をする、理不尽な法律に見えることもあります。
でも。
人を殺すために払った報酬を、裁判所が当然に取り戻してくれる。
そんな社会も、おかしい。
かといって。
弱い立場の人間に圧力をかけ、不法な目的に関係する金を貸させておきながら。
「違法だから返さない」
という理屈を、無条件に認めるのもおかしい。
民法は。
その両方を考えているのです。
「……よし」
私は鉛筆を握りました。
そして、最後に一行を書きました。
――不法原因給付は「不法な原因」と「終局的な給付」を確認し、返還の可否は受益者側の不法性も見て判断する。
「できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「……長えな」
「えっ!」
「一行に詰め込みすぎだ」
「大事なことが多いんです!」
「もっと短くしろ」
私は考えました。
そして。
もう一行、書き直しました。
――不法な給付は原則返らず。ただし、給付の完成と不法性の比較を忘れるな。
「これならどうですか!」
相馬先輩は、しばらく見つめました。
「……まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
黒崎の八十万円。
未登記建物。
既登記建物。
そして、最高裁判例。
全部、この一行につながっているからです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりだな」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「……え?」
「六法も棚に戻せ」
「はい」
「床も掃け」
……。
またですか。
「先輩!」
「何だ」
「私、今すごく大事なことを勉強したんですよ!」
「だから?」
「不法原因給付です!」
「知ってるよ」
「ということは!」
私は箒を指差しました。
「もし先輩が、私に不法な目的で掃除をさせた場合!」
「……は?」
「私は、その給付について返還請求できない可能性があるんです!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……何を返してもらうんだ?」
……。
私は止まりました。
「えっと……」
「床から、掃除した埃でも返してもらうのか?」
「……!」
盲点。
それは盲点でした。
「そもそも、事務所の掃除のどこが不法なんだよ」
「それは……」
「俺に掃除を頼まれたのが嫌だってだけだろ」
「ぐっ……!」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「七百八条を使う前に、不法な原因があるのか確認しろ」
「……はい」
「なければ、問題にならん」
……。
完敗です。
相馬先輩が大笑いしました。
「ほらな!」
「何ですか!」
「条文を覚えたばかりの奴ほど、何にでも当てはめたがるんだよ!」
……。
その言葉。
どこかで聞いたことがあります。
あ。
黒崎です。
民法七百八条を覚えたから。
自分の借金にも使えると思い込んだ。
私も今。
掃除をしたくないから。
七百八条を使おうとしていました。
……。
規模は違いますが。
発想は、ちょっと似ています。
「……分かりました」
私は箒を手に取りました。
「掃除します」
「最初からそうしろ」
「でも先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「先輩が私に万年筆をくれるって言った件!」
「あ?」
「さっき、動産の給付の例で渡しましたよね!」
「例え話だろ!」
「でも、実際に引渡しを受けました!」
「だから何だ!」
「返す必要があるか、民法を調べてみます!」
相馬先輩が、慌てて万年筆を見ました。
「待て待て!」
「何ですか?」
「俺は不法な目的でお前に万年筆をやるつもりなんかねえぞ!」
「じゃあ、七百八条は使えませんね!」
「当たり前だ!」
「では、普通の贈与として有効かどうかを検討しましょう!」
「勘弁してくれ!」
私は笑いました。
相馬先輩も、最後には笑いました。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「法律を使って人を困らせるな」
「……はい」
「人を守るために使え」
私は、万年筆を相馬先輩に返しました。
「分かりました」
その言葉が、胸に残りました。
民法七百八条。
不法原因給付。
決して、優しいだけの条文ではありません。
ときには、財産を失った人に対しても、返還を認めない。
厳しい法律です。
でも。
その厳しさが、社会の秩序を守っている。
そして。
その厳しさを悪用しようとする人間に対しては、判例の積み重ねが歯止めになることもある。
私は、ノートを閉じました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っています。
そのどこかで。
西村澄江さんは、明日の弁当の仕込みをしているのでしょう。
新しい冷蔵庫の前で。
娘さんと一緒に。
いつものように。
民法は、教科書の中だけにあるわけではありません。
八十万円の借金にも。
一軒の建物にも。
一本の万年筆にも。
そして、人の弱さにつけ込もうとする悪意にも。
その効力が及びます。
だからこそ。
条文を一つ知っただけで、すべてを理解したつもりになってはいけない。
民法九十条。
民法七百八条。
昭和二十九年八月三十一日。
昭和四十五年十月二十一日。
昭和四十六年十月二十八日。
それぞれの条文と判例が、少しずつ違う角度から、公平とは何かを問いかけているのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートを眺めてねえで、掃除しろ!」
「今、復習してたんです!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、今日ようやく分かりました!」
「何がだ!」
「法律って、悪い人を罰するだけじゃないんですね!」
相馬先輩が、少しだけ真面目な顔になりました。
「……ああ」
「悪いことに関わった人を、どこまで救うべきなのか。その線引きも考えているんですね」
「そうだな」
私は笑いました。
そして、箒を動かし始めました。
不法原因給付。
返せないものがある。
取り戻せるものもある。
その違いは、単に相手が悪人かどうかでは決まらない。
給付は終わったのか。
不法な原因はどこにあったのか。
当事者双方の不法性は、どれほど違うのか。
それを一つずつ調べる。
法律とは、そういうものなのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度思い出しました。
――不法な給付は原則返らず。ただし、給付の完成と不法性の比較を忘れるな。
よし。
完璧。
……と思った、その瞬間。
「こはる!」
「はい!」
「その万年筆、まだお前の机にあるぞ!」
私は、そっと振り返りました。
机の上。
黒い万年筆。
……。
「あっ」
「返したんじゃねえのか!」
「返したつもりだったんです!」
「引渡しが終わってねえじゃねえか!」
……。
なるほど。
法律上の給付も。
掃除も。
口で終わったと言うだけでは、終わらないことがあるようです。
私は慌てて万年筆を手に取りました。
「先輩!」
「何だ!」
「今度こそ、お返しします!」
「最初からそうしろ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日の民法も、なかなか手強い相手でした。
でも。
これだけは、もう間違えません。
不法原因給付。
その条文は、悪党に財産を与えるためのものではない。
不法な取引に法律の力を貸すべきかどうか。
その難しい問いに、向き合うための規定なのです。
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