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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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539/701

[民法・不法原因給付]現場編 「違法な金だから返さなくていい」の罠。悪党が振りかざした民法708条と、最高裁判例が暴く本当の不法者

挿絵(By みてみん)


 悪いことに使われたお金は、返してもらえない。


 そんな法律があるとしたら。


 あなたは、どう思いますか。


 悪いことをした人間を、法律が助けない。


 それなら、分かります。


 でも。


 その法律を、もっと悪い人間が利用したら?


 騙して。


 脅して。


 お金を巻き上げて。


 最後に、こう言うのです。


「違法な金だろ? 法律じゃ返さなくていいんだよ」


 ……。


 ちょっと待ってください。


 そんな理屈が通るなら。


 世の中、悪党の勝ち放題ではありませんか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は初めて知ることになります。


 民法には。


 自分から汚れた手を差し出した人間を、救わない規定がある。


 けれど。


 その規定は、悪党に好き勝手させるためのものではない。


 民法第七百八条。


 不法原因給付。


 今回は、この一条を逆手に取った男との戦いです。


 そして。


 私が受験生時代に覚えた、たった一行の条文が。


 ある女性の八十万円を、地獄の底から引き上げることになるのです。


 ◇


「お金を貸した私が、悪いことになるんでしょうか」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


 年齢は四十代半ば。


 紺色のカーディガン。


 膝の上には、使い込まれた布の手提げ袋。


 指先には、細かな傷がありました。


「まず、お名前をお願いします」


 私が相談票を差し出すと、女性は小さく頭を下げました。


「西村澄江と申します。四十六歳です」


「西村さんですね」


「はい」


「どのようなご相談でしょうか」


 澄江さんは、しばらく黙っていました。


 それから。


 手提げ袋から、一枚の紙を取り出しました。


「八十万円、返してもらえないんです」


「八十万円……!」


 私は思わず声を上げました。


 昭和六十三年。


 八十万円は、もちろん小さな金額ではありません。


「誰に貸したんですか?」


「駅前で、飲食店を経営している男です」


「お名前は?」


「黒崎源治」


 その名前を聞いた瞬間。


 相馬先輩の手が止まりました。


「……黒崎?」


「ご存じですか?」


「駅裏の『クラブ黒崎』か」


「はい」


 先輩は煙草を灰皿に置きました。


「面倒な野郎が出てきたな」


 え。


 知っているんですか。


「どういう人なんです?」


「表向きは飲食店の経営者だ」


「表向き?」


「裏じゃ、賭場みてえなことをやってるって噂だ」


 私は眉をひそめました。


 賭場。


 つまり、賭博です。


「西村さん。その男に、どうしてお金を?」


 澄江さんは目を伏せました。


「私、駅前で小さな仕出し屋をしているんです」


 夫を七年前に亡くし、一人で弁当や惣菜を作っているそうです。


 黒崎の店にも、時々料理を納めていた。


「三か月前、黒崎さんが店に来まして」


「はい」


「急にまとまったお金が必要になった。来月には必ず返せるから、貸してくれないかって」


「それで八十万円を?」


「最初は断ったんです」


 澄江さんの声が震えました。


「でも、仕入れ代金の支払いが迫っていると言われて」


「仕入れ代金?」


「はい。店を閉めることになったら、私のところへの注文も止まるって」


 なるほど。


 取引先の経営が傾けば、自分の仕事にも影響が出る。


 澄江さんは、困っている相手を助けるつもりだったのでしょう。


「それに……」


 澄江さんは言いにくそうに続けました。


「少し、変だとは思っていたんです」


「何がですか?」


「黒崎さんが、お金を帳簿に載せたくないって」


 私は顔を上げました。


「帳簿に?」


「ええ。店の裏の支払いに使うから、銀行を通さずに現金で貸してくれと言われました」


 ……嫌な予感がします。


「それで?」


「私も、何か後ろ暗いお金なんだろうとは思いました。でも、まさか賭博の胴元に渡すお金だなんて……」


「賭博?」


 片桐所長が、そこで初めて口を開きました。


「後から分かったんですか」


「はい」


 澄江さんは頷きました。


「貸した翌週、黒崎さんの店に警察が入ったんです」


 店の奥で、常習的に賭博が行われていた。


 黒崎はその運営に深く関わっていた。


 澄江さんが貸した金も、賭博場の運営資金に回されたらしい。


「それで、私……」


 澄江さんは紙を握りしめました。


「返してくださいって言いに行ったんです」


「はい」


「そしたら、あの人……」


 澄江さんの目から、涙が落ちました。


「笑ったんです」


 ◇


『西村さんよお』


 黒崎は、事務所の椅子にふんぞり返っていたそうです。


『あんた、金が何に使われるか、薄々分かってたんだろ?』


『そんな……』


『帳簿に載せない金だって説明したじゃねえか』


『でも、私は貸したんです! 返してもらう約束で!』


『だから何だ?』


 黒崎は机を叩きました。


『法律ってもんを知らねえのか?』


 そう言って。


 一冊の六法全書を取り出した。


『民法七百八条』


 澄江さんは、その言葉を覚えていました。


『不法な原因で渡した金は、返せって言えねえんだよ』


『……え?』


『俺が賭博に使うって、あんたも多少は分かってたんだろ。だったら不法原因給付だ』


『でも、借用書が……』


『そんなもん、法律の前じゃ役に立たねえ』


 そして。


 黒崎は、最後にこう言ったそうです。


『裁判でも何でもやってみろ。違法な金を貸したって自分で認めることになるぜ』


 ……。


 私は、思わず机を叩きそうになりました。


 何ですか、その理屈!


 自分が賭博に使っておいて。


 お金を貸した人間に責任を押しつける。


 しかも。


 民法の条文まで持ち出している。


「ひどい……!」


 私が呟くと、澄江さんが顔を上げました。


「やっぱり、返してもらえるんでしょうか」


「もちろんです!」


 私は勢いよく答えました。


「貸したお金でしょう? 返す約束があるなら――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「今、何を根拠に『もちろん』と言った」


「え?」


「貸金だから返す。それだけか?」


「……はい」


 先輩は、机に置かれた借用書を指差しました。


「相手は民法七百八条を持ち出してるんだぞ」


「でも、貸金返還請求権がありますよね?」


「それが有効に成立して、行使できるならな」


 私は固まりました。


 あ。


 そうか。


 契約そのものが公序良俗に反して無効だとしたら。


 普通の貸金返還請求はできない可能性がある。


 しかも。


 民法七百八条。


 不法原因給付。


 私は、受験生時代のテキストを思い出しました。


 たしか。


 不法な原因に基づく給付は、原則として返還を請求できない。


 つまり。


 お金を渡した側にも、不法がある場合。


 返還を認めないことがある。


「……あれ?」


 私は嫌な汗をかきました。


 ひょっとして。


 黒崎の言っていることは、完全な出鱈目ではない?


「所長」


「何だ」


「これ、ちょっと危なくありませんか?」


「ああ」


 片桐所長は頷きました。


「だから、事実を調べる」


 私は六法を開きました。


 民法第七百八条。


 そこにあったのは。


 たった二つの文章でした。


 ――不法な原因のために給付をした者は、その給付したものの返還を請求することができない。


 ――ただし、不法な原因が受益者についてのみ存したときは、この限りでない。


 私は、最後の一文を見つめました。


 ただし。


 不法な原因が。


 受益者についてのみ存したとき。


 ……。


「所長!」


「何だ」


「例外があります!」


「あるな」


「これです!」


 私は条文を指差しました。


「受け取った側にだけ不法がある場合なら、返還請求できます!」


「そうだ」


「じゃあ、今回も!」


「落ち着け」


 相馬先輩が言いました。


「澄江さん自身が、帳簿に載せない金だと知って貸している」


「あ……」


「その認識がどこまでだったのか、まだ分からねえ」


 確かに。


 完全に何も知らなかった、と決めつけるわけにはいきません。


「それに」


 先輩は続けました。


「帳簿に載せないってだけで、すぐ七百八条の『不法』になるとも限らねえ」


「……え?」


「何でもかんでも、違法だ、不法原因給付だ、って話にはならねえんだよ」


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「この条文は、誰を守るためにある」


 私は少し考えました。


「……社会の秩序、でしょうか」


「そうだ」


「不法な行為をした人が、法律の力で利益を取り戻すことを認めない」


「うん」


「でも、それなら……」


 私は顔を上げました。


「自分の悪事を利用して、他人のお金を奪った人まで守ることになりませんか?」


 所長が頷きました。


「そこを考えろ」


 ◇


 まず、私たちは借用書を確認しました。


 昭和六十三年六月十五日。


 金額、八十万円。


 借主、黒崎源治。


 貸主、西村澄江。


 返済期日、同年七月十五日。


 黒崎の署名と実印。


 印鑑証明書まで添えられています。


「しっかりした借用書ですね」


 私が言うと、澄江さんが頷きました。


「お金を渡すとき、近所の文房具屋さんに書き方を教えてもらったんです」


「受領したことも書いてありますね」


「はい」


 借用書の末尾には、


 ――右金員を確かに受領した。


 と記されていました。


 なるほど。


 金銭の授受そのものは、かなり明確です。


「西村さん」


 片桐所長が尋ねました。


「渡したのは現金ですか」


「はい」


「どこで?」


「私の店です」


「誰か見ていましたか」


「娘がいました」


「何歳ですか」


「十九歳です」


 所長が頷きました。


「では、娘さんにも事実を確認しましょう」


 私は相談票に書き込みました。


 金銭交付。


 借用書。


 目撃者。


 ここまでは、いい。


 でも。


 問題は、その先です。


「西村さん」


 私は尋ねました。


「黒崎さんが賭博に使うと、貸す時点で知っていたんですか?」


「いいえ」


「本当に?」


「はい。ただ……」


 澄江さんは苦しそうに言いました。


「まともな支払いじゃないかもしれないとは思いました」


「どうしてですか?」


「黒崎さんが、裏の連中への支払いだと言っていたからです」


 裏の連中。


 その言葉が気になりました。


「どんな人たちだと思いました?」


「怖い人たちなのかなって……」


「それでも貸したんですか?」


 澄江さんは俯きました。


「怖かったんです」


 ……え?


「断ったら、店への注文を全部止めるって」


 私は鉛筆を止めました。


「それだけじゃありません」


 澄江さんは続けます。


「ほかの飲食店にも、うちから弁当を買うなって言うぞ、と」


 ……。


 それは。


 ただの借金のお願いではありません。


「それ、脅されてませんか?」


「でも、最後は私が自分で貸したんです」


 澄江さんの声が震えました。


「だから、私にも責任があるんじゃないかって……」


 私は何も言えませんでした。


 貸した。


 たしかに、本人の意思で現金を渡した。


 でも。


 それが本当に、黒崎と対等な立場で決めたことだったのか。


 私は、もう一度相談票を見ました。


 そこには。


 別の問題が隠れている気がしました。


「所長」


「何だ」


「貸した側にも多少の落ち度があったとして……」


「うん」


「受け取った側の悪質さが、比較にならないくらい大きかったら?」


 片桐所長が、ゆっくり顔を上げました。


「相馬」


「はい」


「あの判例を出せ」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「来ましたね」


「え?」


「こはる」


「はい」


「最高裁判所はな」


 先輩は古い判例集を棚から抜きました。


「お前と同じことを、ずっと昔に考えてる」


 ◇


 昭和二十九年八月三十一日。


 最高裁判所第三小法廷。


 相馬先輩が開いた判例は、貸金請求に関する事件でした。


「こはる。よく聞け」


「はい」


「金を貸すまでの経緯に、貸主にも多少の不法があった」


「はい」


「だが、借主の側にも不法がある」


「はい」


「そして、貸主の不法性が、借主のそれに比べて極めて微弱だった」


 私は身を乗り出しました。


「それで?」


「最高裁は、民法九十条と七百八条を適用せず、貸金返還請求を認めたんだ」


 ……!


「認めたんですか!」


「ああ」


「貸した側にも多少の不法があったのに?」


「そうだ」


 私は判例集を見つめました。


 民法七百八条。


 不法原因給付。


 原則として、不法な原因で給付した人間は返還を請求できない。


 でも。


 誰に、どれほどの不法があったのか。


 そこまで見て判断する。


「つまり……」


 私は言いました。


「少しでも不法があったら、問答無用で返還請求できなくなるわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きます。


「ただし、勘違いするな」


「はい?」


「不法性が少し小さけりゃ必ず勝てるって話じゃねえ」


「……はい」


「比較にならねえほど、一方の不法性が小さい。そこまでの事情が必要なんだ」


 なるほど。


 単に、


「相手のほうが悪い!」


 と叫べばいいわけではありません。


 客観的な事実で。


 どちらが何を知っていたのか。


 どちらが主導したのか。


 どんな目的でお金を渡したのか。


 それらを明らかにしなければならない。


「所長!」


「何だ」


「今回、黒崎の不法性のほうが圧倒的に大きい可能性があります!」


「あるな」


「脅して貸させて、自分の賭博に使って、さらに七百八条を盾に返さない!」


「うん」


「こんなの、ひどすぎます!」


 所長は静かに言いました。


「なら、それを証明できる形にしろ」


 ……。


 またです。


 法律上の正しさ。


 それだけでは足りません。


 証拠。


 書類。


 事実。


 そこまで揃えて初めて、法律は刃になる。


「相馬」


「はい」


「まず黒崎の主張を確認する。直接の交渉はしない」


「了解です」


 先輩は私を見ました。


「こはる」


「はい!」


「相手は民法を知ってるつもりだ」


「はい」


「なら、民法で返してやれ」


 ……。


 その言葉。


 ちょっと格好いいです。


 ◇


 翌日。


 私たちは駅裏のクラブ黒崎を訪れました。


 昼間なのに、店の前には黒塗りの車。


 入口には分厚い赤い扉。


 いかにも。


 近づきたくない場所です。


「先輩」


「何だ」


「ここ、本当に入るんですか?」


「事実確認だけだ」


「怖いです」


「俺もだ」


「えっ」


「怖くねえ奴は、大抵ろくな仕事しねえ」


 ……なるほど。


 相馬先輩でも、怖いものは怖いんですね。


 少し安心しました。


 店内には、甘ったるい香水の匂いが漂っていました。


 奥のソファには、大柄な男。


 白いスーツ。


 太い金の指輪。


 そして、口元に浮かぶ余裕たっぷりの笑み。


「何だ、あんたら」


 黒崎源治。


 五十二歳。


 私たちを見るなり、鼻で笑いました。


「西村のババアが、誰か寄越したのか?」


「片桐行政書士事務所の相馬です」


 先輩は名刺を差し出しました。


「貸金について、事実関係を確認したい」


「行政書士?」


 黒崎は笑いました。


「弁護士じゃねえのか」


「そうです」


「じゃあ、裁判もできねえな」


「はい」


 相馬先輩は平然と答えました。


「私どもは法律紛争の代理交渉を引き受ける立場ではありません。今日は事情の確認だけです」


「ふん」


 黒崎は名刺を机に放り投げました。


「だったら帰れよ」


「一点だけ確認させてください」


「何だ」


「西村さんから、八十万円を借り受けた事実はありますか」


「ああ、ある」


 あっさり認めました。


「返済期日が七月十五日だったことも?」


「ああ」


「まだ返していないことも?」


「そうだよ」


 ……。


 全部認めるんですか。


 私は少し驚きました。


 ところが。


 黒崎は、にやりと笑いました。


「だが、返す義務はねえ」


「理由は?」


「民法七百八条だ」


 出ました。


 例の条文。


「西村は、俺が裏の仕事に使うって知ってたんだよ」


 黒崎は煙草に火をつけました。


「違法なことに使う金だって、承知で貸した」


「西村さんが、賭博の具体的な内容まで知っていたということですか?」


「そんな細けえことは関係ねえ」


「関係ない?」


「ああ」


 黒崎は、机を叩きました。


「不法な原因で金を渡したら、返せって言えねえんだよ!」


 私は思わず言いました。


「でも!」


「あ?」


「七百八条には、ただし書があります!」


 黒崎がこちらを見ました。


「何だ、小娘」


「受益者にのみ不法な原因がある場合には、返還を請求できるんです!」


「はっ!」


 黒崎は声を上げて笑いました。


「西村も裏金だと分かってたんだぞ!」


「それでも、不法性の程度によっては――」


「おいおい」


 黒崎は私を指差しました。


「女が泣けば、法律も曲がるってか?」


 ……!


 腹が立ちます。


 ものすごく。


 ですが。


 そこで、相馬先輩が私の前に手を出しました。


「こはる」


「はい」


「もういい」


「でも!」


「確認できた」


 先輩は黒崎を見ました。


「借入れと未返済の事実は認める。一方で、七百八条によって返済義務を免れるとお考えなんですね」


「ああ、そのとおりだ」


「分かりました」


 先輩は手帳を閉じました。


「本日の確認は以上です」


「おう。二度と来るなよ」


 黒崎は余裕たっぷりに笑いました。


「裁判やりたきゃ、勝手にやれ。自分で違法な金を貸したって言うことになるぞ」


 ……。


 店を出た私は、唇を噛みました。


「先輩!」


「何だ」


「あんな言い方、許せません!」


「だろうな」


「七百八条を都合よく使って!」


「ああ」


「もっと言ってやればよかったのに!」


 相馬先輩は立ち止まりました。


「こはる」


「はい」


「口論で勝って、金が戻るのか?」


「……」


「俺たちは弁護士じゃねえ。代理で示談交渉する仕事じゃない」


「はい」


「本人が使える書類を、完璧に作るんだ」


 先輩は煙草を取り出しました。


「それに、もう一つ収穫があった」


「何ですか?」


「黒崎は、貸した金を受け取った事実を認めた」


「はい」


「返してないことも認めた」


「はい」


「つまり争点を、自分から絞り込んでくれたわけだ」


 ……あ。


 そうか。


 黒崎は。


 八十万円を借りたことは争っていない。


 問題は、七百八条が適用されるかどうか。


 そこに集中できる。


「先輩」


「何だ」


「これ、もしかして……」


「ああ」


 先輩が笑いました。


「相手は、自分で首を絞め始めてる」


 ◇


 事務所に戻ると、さらに重要な証拠が見つかりました。


 澄江さんの娘。


 西村美代さん。


 十九歳。


 彼女が、黒崎とのやり取りを覚えていたのです。


「母がお金を貸した日、私も店にいたんです」


「はい」


「黒崎さん、最初は普通に頼んでいました」


「それで?」


「でも、母が断ったら急に怒り始めて」


 美代さんは、紙に書いたメモを差し出しました。


 そこには、当日の会話が記されていました。


 ――金を貸さないなら、店への注文を全部止める。


 ――駅前のほかの店にも、西村の弁当を買うなと言ってやる。


 ――八十万くらい出せるだろ。旦那の保険金があるんだから。


 ……。


 私は息を呑みました。


「こんなことまで……」


「母は、震えていました」


 美代さんは言いました。


「父が亡くなってから、一生懸命働いて貯めたお金なんです」


 その八十万円。


 もともとは。


 仕出し屋の古くなった冷蔵庫を買い替えるための資金でした。


「夏になると、今の冷蔵庫じゃ危ないんです」


 美代さんの声が小さくなりました。


「でも、お金が戻らないから、買い替えられなくて」


 ……。


 私は手元の借用書を見ました。


 八十万円。


 ただの数字。


 受験勉強なら、そうです。


 貸金債権八十万円。


 返済期日。


 債務不履行。


 それだけ。


 でも。


 その八十万円には、生活がありました。


 母娘二人の仕出し屋。


 毎朝四時に起きて作る弁当。


 夏場の食品を守る冷蔵庫。


 そして。


 亡くなった夫が残した店を、守り続けるためのお金。


「……絶対に」


 私は呟きました。


「こんな使われ方、許したくありません」


「なら、証拠を揃えろ」


 相馬先輩が言いました。


「感情は分かる。だが、書類には事実を書け」


「はい!」


 私は美代さんから、目撃した事実を確認する書面を作りました。


 日時。


 場所。


 黒崎の発言。


 母親の様子。


 現金を渡した経緯。


 そして。


 美代さん自身が、見聞きした範囲だけを記載しました。


 推測は書きません。


 聞いていないことも書きません。


 怒りも、悪口も書きません。


 ただ。


 事実だけ。


 それが、相手を追い詰める材料になるのです。


 ◇


「こはる」


 夕方。


 片桐所長が、私の作った通知書の原案を読みました。


「はい」


「ここは駄目だ」


 赤鉛筆。


 来ました。


 所長の赤鉛筆。


 嫌な予感です。


「『本件契約は無効であるため、民法百二十一条の二により返還を請求する』」


「はい!」


「……百二十一条の二?」


 所長が眉をひそめました。


 ……。


 しまった。


 やりました。


 またです。


 現代民法の知識が、飛び出しました。


 民法百二十一条の二。


 無効な行為などに基づく給付の原状回復義務。


 令和の改正民法では、きちんと条文があります。


 でも。


 昭和六十三年には。


 まだ、ありません。


「こはる」


 相馬先輩が横から覗き込みました。


「何だ、その条文」


「あ、いえ……」


「今の六法にねえぞ」


「そうですよね!」


「何が『そうですよね』だ!」


 私は慌てて頭を下げました。


「すみません!」


 未来の民法。


 また地雷を踏みました。


「それに」


 片桐所長は続けました。


「無効なら何でも返還できる、と考えるな」


「……はい」


「今回の相手は、そこを突いている」


 私は民法七百八条を見ました。


 そうでした。


 たとえ公序良俗違反で契約が無効でも。


 不法な原因で既に給付した場合には、返還が制限される。


「つまり……」


 私は呟きました。


「無効だから返せる、というだけでは駄目なんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「まず、契約と給付の性質を確かめる。そのうえで七百八条の適用を検討する」


「はい」


「今ある条文で書け」


「はい……」


「それと」


 所長は原案の別の部分を指差しました。


「『黒崎は悪質な犯罪者である』」


「……はい」


「削れ」


「ええっ!」


「刑事事件について、確定していないことを断定するな」


「でも、賭博をやっていたんですよ!」


「その事実と、本人の刑事責任がどう確定するかは別だ」


「……はい」


「黒崎が何を言い、何をしたか。確認できたことを書け」


 私は赤鉛筆で消しました。


 悪質な犯罪者。


 その言葉を消して。


 代わりに。


 貸付けの具体的な経緯を記載しました。


 契約の成立。


 八十万円の現金交付。


 返済期限。


 黒崎による取引停止の示唆。


 帳簿外の資金を求めた事情。


 澄江さんが賭博場の具体的な運営目的を知らなかったこと。


 さらに。


 昭和二十九年八月三十一日の最高裁判決。


 その考え方。


 当事者双方に不法な点があっても。


 貸主側の不法性が、借主側と比較して極めて微弱であるならば。


 民法九十条及び七百八条を適用せず、貸金返還請求を認める余地がある。


「……所長」


「何だ」


「この判例、強いですね」


「そうだな」


「七百八条の条文をそのまま読んだだけでは、分からない結論です」


「うん」


 私は少し考えました。


「でも、どうして最高裁は、こういう判断をしたんでしょう?」


 所長は短く答えました。


「不公平だからだ」


「不公平?」


「自分のほうがはるかに悪質なことをしておきながら、相手の小さな不法を理由に利益を独占する」


「はい」


「そんな結論を、法律が当然に認めるわけではない」


 私は頷きました。


 民法七百八条。


 不法原因給付。


 社会の秩序を守るための規定。


 その規定を使って。


 もっと大きな不法を働いた人間を守ってしまったら。


 本末転倒です。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「覚えとけ」


「はい」


「条文はな、悪党の言い訳を作るためにあるんじゃねえ」


 先輩は判例集を閉じました。


「どこまで適用するのが公平なのか。それを考えるために判例があるんだ」


 ◇


 翌朝。


 完成した内容証明郵便が、机の上に置かれました。


 差出人。


 西村澄江。


 宛先。


 黒崎源治。


 表題。


 ――貸金返還請求通知書。


 私は、ゆっくり読み上げました。


「第一。本通知人は、昭和六十三年六月十五日、貴殿に対し金八十万円を貸し付け、同日、現金にて交付した」


「うん」


「第二。貴殿は、右金員を受領したこと及び昭和六十三年七月十五日を返済期日とすることについて、署名押印のある借用書を作成した」


「続けろ」


「第三。貴殿は返済期日を経過しても返済せず、民法第七百八条を理由として返還義務を否定している」


 私は息を吸いました。


 ここからです。


「第四。しかしながら、本件貸付けは、貴殿が事業上の支払いに必要である旨を説明して求めたものであり、通知人が賭博場の具体的な運営目的を認識して資金提供を約したものではない」


「うん」


「第五。また、貴殿は貸付けの依頼に際し、取引の停止及び他の取引先への働きかけを示唆するなどして通知人に強い圧力を加えている」


 相馬先輩が頷きました。


「次だ」


「第六。仮に本件貸付けの成立経緯に通知人側の不法性が問題となる余地があるとしても、貴殿の行為との比較において、それが極めて微弱である場合には、民法第九十条及び第七百八条の適用が否定され得る」


 ここで。


 私は一度、所長を見ました。


 所長が頷きました。


「続けろ」


「第七。最高裁判所昭和二十九年八月三十一日判決は、貸金消費貸借成立の経緯に当事者双方の不法な点が存する場合において、貸主の不法性が借主のそれに比して極めて微弱なときは、民法第九十条及び第七百八条の適用を否定し、貸金返還請求を認めている」


 私は、最後の一文を読みました。


「よって通知人は、貴殿に対し、金八十万円の返還を請求する。本通知到達後七日以内に、通知人指定の方法により返済されたい」


 そして。


 その下に。


 ――期限内に返済がなされない場合、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。


 と記されていました。


 私は原稿を置きました。


「……できました」


「まだだ」


 相馬先輩が言いました。


「えっ」


「本人の確認だ」


「あ」


 そうでした。


 私たちは、依頼者の代わりに勝手に権利を行使するわけではありません。


 通知する内容を澄江さん本人に確認してもらい、本人名義で送る。


 争いが訴訟へ進むなら、弁護士へ引き継ぐ。


 その線引きが大切です。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「この書面で、勝訴が確定するわけじゃない」


「はい」


「黒崎側にも反論はできる。事実認定は、最終的には裁判所の仕事だ」


「分かっています」


「だが、相手の主張が法的に盤石ではないことは示せる」


 私は頷きました。


 確かに。


 黒崎が最初に言っていたのは。


 七百八条がある。


 だから絶対に返さなくていい。


 それだけでした。


 でも。


 そんな単純な話ではない。


 不法の内容。


 双方の認識。


 貸付けの経緯。


 相手の脅迫的な言動。


 そして。


 不法性の比較。


 そこまで説明しなければならない。


「所長」


「何だ」


「この内容証明、黒崎にとって相当嫌な書面ですね」


「そうだろうな」


「だって、自分が都合よく使った七百八条に、最高裁判例で反論されてるんですから」


 相馬先輩が笑いました。


「それだけじゃねえ」


「え?」


「もっと嫌なのは、書面に書かれた事実だ」


「事実?」


「取引停止の脅し。金の使途。借用書。未返済」


 先輩は一つずつ指を折りました。


「裁判になれば、そういう事情を具体的に調べられる」


 私は息を呑みました。


「……黒崎は、それを嫌がる」


「ああ」


「自分の賭博の話まで、民事事件で問題になりますもんね」


「だからといって、こっちから脅していいわけじゃねえぞ」


「はい」


「淡々と、必要なことだけを書く」


 先輩は完成した通知書を指差しました。


「これが、俺たちの仕事だ」


 ◇


 内容証明郵便を発送して、三日後。


 黒崎から、澄江さんの店に電話が入りました。


 そして。


 その日の午後。


 澄江さんが、片桐事務所へ駆け込んできたのです。


「先生!」


「どうされました?」


「黒崎さんが……!」


 私は立ち上がりました。


「何かされたんですか?」


「違うんです!」


 澄江さんは、興奮した様子で封筒を取り出しました。


「返すって!」


「……え?」


「八十万円、返すって言ったんです!」


 私は目を丸くしました。


「本当ですか!」


「はい!」


 澄江さんは、黒崎から渡された手紙を見せてくれました。


 ――先日の借入金について、返済する用意がある。


 ――返済方法について、確認したい。


 黒崎源治。


 署名押印。


 ……。


 あの男が。


 あの、七百八条を振りかざしていた男が。


「……折れた?」


 私は呟きました。


 相馬先輩が笑いました。


「どうやらな」


「でも、どうして急に?」


 澄江さんは言いました。


「黒崎さん、弁護士さんに相談したらしいんです」


「弁護士に?」


「はい」


 黒崎は、内容証明を持って法律事務所を訪ねたそうです。


 おそらく。


 自分の主張が正しいと確かめるつもりだったのでしょう。


 七百八条。


 不法原因給付。


 違法な金は返さなくていい。


 その一言で、勝てると。


 ところが。


 弁護士から返ってきた答えは、違ったようです。


『黒崎さん』


『何だよ』


『この最高裁判例を確認しましたか』


『……判例?』


『昭和二十九年八月三十一日です』


『知らねえよ』


『あなたの主張する七百八条が、必ず適用されるとは限りません』


『何だと?』


『それに、この内容証明に書かれている貸付けの経緯が事実なら、かなり問題があります』


『……』


『相手は単に、あなたの賭博を支援したかったわけではないのでしょう』


『……』


『取引を止めると圧力を加えたんですか?』


『それは……』


『八十万円を受け取ったことは認めているんですね?』


『ああ』


『では、返済を拒否し続けることには相応の訴訟リスクがあります』


 黒崎は。


 そこで初めて気づいたのでしょう。


 自分が振りかざした条文は。


 絶対に返済しなくてよいという、魔法の札ではない。


 しかも。


 もし貸金返還請求が認められ、判決が確定し、それでも支払わなければ。


 適切な手続を経て、財産の差押えを受ける可能性だってある。


 ……。


「所長!」


 私は言いました。


「七百八条で勝ったつもりだった黒崎が、七百八条の判例で青ざめたんですね!」


「そういうことだな」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「法律を半分だけ覚えた奴の末路だ」


 ……。


 いや。


 これ。


 ものすごく怖い話です。


 条文を知っている。


 それだけで、自分は法律に強いと思ってしまう。


 でも。


 条文には例外がある。


 そして。


 判例がある。


 何より。


 法律は、現実の人間関係を見て判断する。


 そこまで理解していなければ。


 知識は、簡単に自分を裏切る。


 ◇


 ただし。


 相馬先輩は、すぐには喜びませんでした。


「こはる」


「はい」


「まだ金は戻ってねえ」


「あ……」


「返すと言っただけだ」


「そうですね」


「現物を確認するまで、終わりじゃねえ」


 先輩の言うとおりでした。


 それから二日後。


 澄江さんは、黒崎から八十万円の返済を受けました。


 返済の際には、日付と金額を記載した受領証が作成されました。


 借用書についても、完済の事実が分かるよう処理されました。


 澄江さんは、返済された現金をその日のうちに銀行へ預けたそうです。


 そして。


 翌日。


 澄江さんは、もう一度事務所にやってきました。


「本当に、ありがとうございました」


 深々と頭を下げます。


「おかげで、冷蔵庫が買えます」


「よかったです!」


 私は笑いました。


 でも。


 澄江さんは、少し申し訳なさそうな顔になりました。


「あの……」


「はい?」


「私にも、悪いところはあったんですよね」


 私は言葉を止めました。


「帳簿に載せないお金だって聞いていたのに、貸してしまった」


「……はい」


「怖かったとはいえ、もっと考えるべきだったんです」


 その声は、小さく震えていました。


 私は、どう答えればいいか迷いました。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「西村さん」


「はい」


「今回の件で、ご自身の判断を振り返ることは大切です」


「はい」


「ですが、それと黒崎さんが返済義務を免れるかどうかは、別の問題です」


 澄江さんが顔を上げました。


「別……ですか」


「そうです」


 所長は続けました。


「相手の説明を十分に確かめずにお金を貸したことは、今後の教訓にしてください」


「はい」


「けれど、その事情を利用して、相手が当然に八十万円を自分のものにできるわけではありません」


 澄江さんの目から、涙が落ちました。


「……ありがとうございます」


 私は、その様子を見ていました。


 民法七百八条。


 不法原因給付。


 たしかに、厳しい規定です。


 不法な行為に関わった人は、法律上の救済を受けられないことがある。


 でも。


 その厳しさは。


 法律を使って弱い人を食い物にすることまで、許すものではありません。


 少しの落ち度があった人間と。


 その弱みにつけ込んで、意図的に利益を奪おうとする人間。


 同じように扱っていいのか。


 最高裁判例は、そこに目を向けていたのです。


 ◇


 一週間後。


 西村さんの仕出し屋に、新しい冷蔵庫が入りました。


 私は、相馬先輩と一緒に店を訪れました。


「わあ……!」


 厨房の奥に、銀色の業務用冷蔵庫。


 ぴかぴかです。


「新しくなったんですね!」


 澄江さんが笑いました。


「はい。これで、夏も安心して仕込みができます」


 美代さんも嬉しそうでした。


「母が、ずっと欲しがっていたんです」


 冷蔵庫の中には。


 新鮮な野菜。


 卵。


 下ごしらえした煮物。


 そして。


 明日の弁当用の食材が、きれいに並んでいました。


「こはるちゃん」


 澄江さんが言いました。


「これ、持っていって」


 差し出されたのは、小さな包み。


「お弁当です」


「えっ!」


「今日、余分に作ったから」


 包みを開くと。


 卵焼き。


 鶏の照り焼き。


 きんぴらごぼう。


 彩りのいい、手作り弁当でした。


「おいしそう!」


 私は思わず笑いました。


 澄江さんが、優しく言いました。


「お金が戻ったことも嬉しいけどね」


「はい」


「こうして、また安心して仕事ができることが、一番嬉しいんです」


 ……。


 私は、何も言えなくなりました。


 八十万円。


 その数字には。


 冷蔵庫がありました。


 弁当がありました。


 朝早くから働く母娘の生活がありました。


 民法は。


 その八十万円の向こうにあるものまで、直接書いているわけではありません。


 でも。


 財産を守るということは。


 その人の暮らしを守ることでもある。


 私は、そんなふうに思いました。


 ◇


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机に向かって、六法を開いていました。


 民法第七百八条。


 不法原因給付。


「……難しいですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「この条文です」


「ああ」


「最初は単純だと思いました」


「どういうふうに?」


「悪いことのために渡したものは、返してもらえない」


「基本はな」


「でも、そんなに単純じゃなかったです」


 私はノートを開きました。


「そもそも、どんな原因でも『不法』になるわけじゃない」


「そうだ」


「それから、実際に給付があったかどうかも問題になる」


「うん」


「さらに、不法の原因がどちらにあるのか」


「そうだな」


「双方に不法があっても、その程度が極端に違う場合には、判例上、返還請求が認められることがある」


 相馬先輩が頷きました。


「よく覚えたな」


「今回は忘れません!」


 私は胸を張りました。


 でも。


 先輩は、そこでにやりと笑いました。


「じゃあ、問題だ」


「はい!」


「不法な原因で、建物を贈与したらどうなる?」


「建物?」


「ああ」


「給付したら、原則として返還を請求できなくなります!」


「ほう」


「民法七百八条です!」


 先輩は、さらに笑いました。


「じゃあ、その建物にまだ登記がなかったら?」


「……え?」


「未登記の建物を引き渡した場合だ」


 私は止まりました。


 未登記。


 引渡し。


 給付。


 ……。


「えっと……」


「じゃあ、登記済みの建物なら?」


「ええっ!」


「鍵を渡して、相手に住ませた。だが、所有権移転登記はしていない」


 私は六法を見つめました。


「……それも給付じゃないんですか?」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「さてな」


「ちょっと!」


「最高裁判例を調べてみろ」


「えええっ!」


 私は頭を抱えました。


 不法原因給付。


 単に不法な原因があるだけでは足りない。


 給付があったかどうか。


 つまり。


 相手に、終局的な利益を与えたといえるかどうか。


 そこも重要になる。


「先輩!」


「何だ」


「これ、土地とか建物になると、もっと面倒じゃないですか!」


「そうだな」


「動産なら引渡しでいいとしても、不動産は登記が絡みます!」


「ああ」


「しかも、未登記か既登記かで違うんですよね!」


「よく分かってるじゃねえか」


「分かってませんよ! だから聞いてるんです!」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長も、帳簿から顔を上げました。


「こはる」


「はい!」


「今日は何を覚えた」


 私は少し考えました。


 黒崎源治。


 八十万円。


 民法七百八条。


 そして。


 昭和二十九年の最高裁判例。


 法律を知ったつもりの悪党が。


 自分の悪事を正当化しようとした。


 けれど。


 法律は、そんなに薄っぺらいものではなかった。


 私は答えました。


「不法原因給付は、悪いことをした人を守らないための規定です」


「うん」


「でも、もっと悪い人が、それを利用して他人の財産を奪うことまで、当然に認めるわけじゃありません」


「そうだ」


「だから、不法の原因と給付の有無、そして当事者双方の不法性を、きちんと調べなければいけないんですね」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートに、一行を書きました。


 ――不法原因給付は「不法な給付者を守らない」規定であって、「より悪質な受益者を必ず守る」規定ではない。


 ……よし。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


「しかし、先輩」


「何だ」


「今回の黒崎、本当にずるかったですね」


「そうだな」


「条文の前半だけ覚えて、後半も判例も無視して」


「まあな」


「法律を知らない人を脅すために使ってました」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい」


「法律を知ってる奴が、いつも正しいとは限らねえ」


「……はい」


「だから、条文を覚えるだけで終わるな」


 先輩は、私のノートを指差しました。


「誰に、何のために、その条文を適用するのか。そこまで考えろ」


 私は大きく頷きました。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい! 片桐行政書士事務所です!」


『あの……』


 男性の声でした。


『ちょっと、相談したいことがありまして』


「はい、どうされました?」


『知り合いの女性に、建物をあげる約束をしたんです』


 ……。


 私は、ゆっくり相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


『ところが、妻に知られまして……』


 ……妻?


『女性との関係を続けるつもりで渡した建物なんですが、返してもらえるでしょうか』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 不法原因給付の、ど真ん中です。


「えっと……」


 私は慎重に尋ねました。


「建物は、もう相手の方に引き渡したんですか?」


『はい。住んでいます』


「登記は?」


『登記?』


「その建物は、もともと登記されていましたか?」


『ええ。私の名義で登記されています』


「所有権移転登記は?」


『いや、まだ私の名義のままです』


 ……。


 私は息を呑みました。


 既登記の建物。


 引渡し済み。


 移転登記は未了。


 不法な目的。


 そして。


 返還請求。


 さっき相馬先輩が出した問題、そのままじゃありませんか!


「先輩!」


「何だ」


「今度は建物です!」


「聞こえてる」


「しかも、登記済みなのに移転登記してません!」


「そうだな」


「民法七百八条の『給付』があったかどうか、問題になりますよね!」


「なるな」


 私は受話器を握り直しました。


 さっきまで。


 不法原因給付なんて、難しい法律用語だと思っていました。


 でも。


 お金を貸す。


 建物を渡す。


 誰かに財産を贈る。


 そんな身近な行為の裏にも。


 人間の欲望や、弱さや、ずるさが隠れています。


 そして。


 民法は、その一つ一つに向き合わなければならない。


「すみません」


 私は電話の相手に言いました。


「まず、建物を渡したときの事情を、詳しく教えていただけますか?」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、民法の勉強は終わりそうにありません。


 ただ。


 一つだけ、はっきりしたことがあります。


 法律は。


 悪いことをした人を、何でも助けるわけではない。


 でも。


 悪いことをした人間が、もっと悪いことをするための道具でもない。


 民法七百八条。


 不法原因給付。


 たった一条。


 けれど。


 その向こうには。


 誰に法律上の救済を認めるべきかという、深い問題がある。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり民法って、奥が深いですね!」


「だったら、もっと判例を読め!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、相談票を開きました。


 次の依頼人は。


 どうやら、自分の浮気の後始末を、法律に頼もうとしているようです。


 ……。


 困りました。


 今度は、簡単に助けてあげるわけにはいかないかもしれません。


 だって。


 民法七百八条は。


 何でも返してもらえる、便利な法律ではないのですから。


 そして。


 自分の欲望のために財産を渡した人間が。


 あとから都合よく「無効だから返せ」と言ったとき。


 法律が必ず味方をするとは限らない。


 私は、さっき書いたノートの一行を見ました。


 ――不法原因給付は「不法な給付者を守らない」規定であって、「より悪質な受益者を必ず守る」規定ではない。


 うん。


 今度の事件でも。


 まず、誰が何をして、どこまで給付したのか。


 そこから考えよう。


 民法は。


 声の大きな人間の味方でも。


 条文を振りかざす人間の味方でもありません。


 事実を見て。


 不法の程度を見て。


 そして、公平を考える。


 その積み重ねの中にこそ。


 人の財産と生活を守る、民法の本当の強さがあるのです。

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