[民法・不当利得]法理編 こはるノート
人のお金を使ってしまえば、返さなくてよくなるのでしょうか。
答えは、そんなに単純ではありません。
知らずに受け取った百万円。
間違いだと知りながら使った百万円。
そして。
払う必要がないと知りながら、わざと渡した百万円。
同じ百万円でも。
法律上の扱いは、まったく同じではないのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「百万円って、怖いですね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だよ」
「だって、同じ百万円なのに、返さなくていい場合と、利息まで付けて返さなきゃいけない場合があるんですよ」
「そりゃそうだ」
「しかも、使い切ったかどうかだけでは決まらない」
「ああ」
「民法って、意外と細かいですね」
「意外と、じゃねえ。最初から細けえんだよ」
私は苦笑しました。
昨日の事件。
高瀬文江さん。
五十八歳。
病気で倒れた夫のために、百万円の懐中時計を購入した女性です。
ところが。
代金百万円を銀行から振り込んだ翌日。
支払済みであることを勘違いして、もう一度、同じ百万円を振り込んでしまった。
合計二百万円。
時計は一個。
当然、二回目の百万円は返してもらえると思った。
しかし。
黒田時計商会の社長は、こう言ったのです。
「もう使ってしまったから返せない」
しかも。
「払う義務がないと知って払ったんだろう。民法七百五条だ」
とまで言い出した。
私は鉛筆を握りました。
「今日は、この事件を完全に整理します!」
「昨日もそんなこと言ってたな」
「昨日は現場です!」
「今日は?」
「法理です!」
「大層な名前つけやがって」
私はノートの最初のページに、大きく書きました。
――不当利得。
そして。
その下に、四つの言葉を並べました。
受益。
損失。
因果関係。
法律上の原因がないこと。
「まずは、ここからです!」
◇
「先輩、不当利得って何ですか?」
「人の財産や労務によって、法律上の理由なく利益を受けて、その人に損失を与えることだ」
「そうです!」
「知ってるなら聞くな」
「復習です!」
私は六法を開きました。
民法第七百三条。
不当利得の返還義務。
――法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。
「これ、昭和でも令和でも、基本的な条文の内容は同じなんですよね」
「ああ」
「ありがたい……!」
「何がだ」
「今回、未来の民法をうっかり持ち込まずに済むところです!」
「お前は本当に何と戦ってるんだ」
未来です。
もちろん言えません。
私はノートに書きました。
不当利得の成立要件は四つ。
一つ目。
受益。
二つ目。
損失。
三つ目。
受益と損失の因果関係。
四つ目。
法律上の原因がないこと。
「まず、受益です」
私は言いました。
「黒田時計商会は、二回目の振込で百万円を受け取りました」
「そうだな」
「だから、利益を受けています」
「うん」
「次に損失です」
文江さんの預金は、二回目の振込によって百万円減りました。
「これが損失ですね」
「そうだ」
「そして因果関係」
黒田時計商会が受け取った百万円。
文江さんが失った百万円。
これは、同じ送金によって生じています。
「つまり、利益と損失が対応している」
「そうだな」
「ここまでは簡単です!」
私は得意げに頷きました。
ところが。
相馬先輩は新聞を畳みました。
「じゃあ、問題だ」
「はい!」
「文江さんが最初に振り込んだ百万円は、不当利得か?」
「え?」
私は止まりました。
最初の百万円。
黒田時計商会が受け取った。
文江さんの預金は減った。
因果関係もある。
つまり、最初の三つは揃っています。
でも。
「あ!」
「気づいたか」
「法律上の原因があります!」
「何だ」
「懐中時計の売買契約です!」
そうです。
文江さんは、時計を百万円で購入する契約を結びました。
その売買代金として、最初の百万円を支払った。
だから。
黒田時計商会には、百万円を受け取る法律上の原因がある。
「最初の百万円は、不当利得ではありません!」
「正解」
私はノートに大きく丸をつけました。
でも。
二回目は違います。
時計は一個。
代金は百万円。
最初の振込で、代金債務は弁済されています。
追加の時計を買ったわけでもありません。
別の支払義務があったわけでもありません。
「だから、二回目の百万円には、法律上の原因がない!」
「そうだ」
私は思わず笑いました。
「なるほど!」
不当利得は。
単に、誰かが得をしたから成立する制度ではありません。
売買。
贈与。
賃貸借。
その他、法律上正当な原因に基づいて利益を受けることは、いくらでもあります。
問題は。
その利益を受け取ってよい法律上の理由があるか。
そこなのです。
「つまり、先輩」
「何だ」
「不当利得の四つの要件で、一番見落としやすいのは、法律上の原因がないことですね」
「事案によるが、重要なのは確かだ」
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「金が動いた理由を確認しろ」
「理由、ですか?」
「ああ」
「最初から最後まで?」
「そうだ。受け取ったときに理由があっても、後から失われる場合がある」
私は首をかしげました。
後から、失われる?
すると所長は、机の上に一枚の紙を置きました。
――売買契約解除通知書。
「あ!」
私は声を上げました。
「解除!」
たとえば。
百万円の時計を買った。
代金を支払った。
時計も受け取った。
しかし、後に売買契約が適法に解除された。
時計は売主に返された。
ところが、売主が代金百万円を返さない。
「この場合も、売主が百万円を持ち続ける法律上の根拠がなくなるんですね」
「そうだ」
「ただし、解除の場合には、民法五百四十五条の原状回復義務も直接問題になる」
所長が頷きました。
私は慌てて書き加えました。
解除後の返還は、原状回復義務の規定も確認する。
不当利得の考え方と関連するが、個別の規定を無視してはいけない。
「危ない!」
私は言いました。
「何でも七百三条だけで処理するところでした!」
相馬先輩が笑いました。
「条文を一つ覚えると、何でもそれで解決したくなるんだよな」
「あります!」
「だから、事実を先に見ろって言ってるだろ」
「はい!」
◇
「さて」
私はノートをめくりました。
「ここからが、昨日の黒田社長の言い訳です」
私は少し声を低くしました。
「もう使ってしまったから返せない!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえな」
「物真似じゃありません!」
「じゃあ何だ」
「再現です!」
「同じだろ」
私は咳払いしました。
「民法七百三条には、こうあります」
――その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。
「ここです!」
私は赤鉛筆で線を引きました。
その利益の存する限度。
つまり。
現存利益。
「先輩、現存利益って何ですか?」
「今も残っている利益のことだ」
「現金が残っているか、という意味ですか?」
「それだけじゃねえ」
そうです。
ここが、今回の大事なところ。
現存利益とは、受け取った現金そのものが手元に残っていることだけではありません。
受け取った利益によって、財産が増えた。
あるいは。
本来なら減るはずだった財産が減らずに済んだ。
そうした経済的な利益も考えます。
「たとえば!」
私はノートに書きました。
百万円を間違って受け取った人がいた。
その人は、その百万円で家賃を払った。
「この場合、どうですか?」
相馬先輩が聞きました。
「本来、自分のお金で払わなければならなかった家賃を、間違って受け取ったお金で払ったんです」
「うん」
「だから、自分の財産が減らずに済んでいます」
「そうだ」
「利益が残っていると評価されます!」
私は大きく丸をつけました。
これが、黒田時計商会の事件でも重要になりました。
黒田は言いました。
「営業経費に使った」
でも。
営業経費は、本来、会社が負担するものです。
従業員の給料。
店舗の家賃。
仕入代金。
電気代。
そうしたものを、重複入金された百万円で支払ったなら。
本来使うはずだった会社のお金を、使わずに済んでいる可能性があります。
「だから、営業経費として使ったというだけでは、現存利益がないとは言えないんですね!」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、実際にどんな利益が残っているかは、個別に見る必要がある」
「はい」
私は書きました。
――現存利益は、現金の残高ではなく、財産的利益が残っているかで判断する。
よし。
覚えやすい。
ところが。
「じゃあ、こはる」
相馬先輩が言いました。
「百万円を間違って受け取った人が、その金で突然、豪華な旅行に行ったら?」
「旅行ですか?」
「ああ」
「普段なら絶対に行かない旅行だ」
「なるほど……」
「旅先で全部使って、手元には何も残らなかった」
私は考えました。
百万円。
豪華な旅行。
本人は、間違って受け取ったことを知らなかった。
そして。
もともと旅行をする予定もなかった。
そのお金がなければ、絶対に旅行へ行かなかった。
「……現存利益がない場合があります!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
もちろん。
旅行代金に使ったから、必ず現存利益がなくなるわけではありません。
もともと予定していた旅行の費用を肩代わりしたなら、財産の支出を免れた利益が残っていると評価される可能性があります。
また、何か価値のある財産を購入して残しているなら、その財産も考慮されます。
でも。
本当に、そのお金があったからこそ行った予定外の浪費で。
財産的な利益が何も残っていない。
そんな場合には、現存利益がないと判断されることがある。
「つまり!」
私は言いました。
「使ったかどうか、だけじゃない!」
「そうだ」
「何に使ったか!」
「うん」
「それによって、財産的利益が残ったか!」
「そのとおり」
私は、勢いよくノートに書きました。
――使ったお金と、消えた利益は、同じではない。
これは大事です。
試験でも。
実務でも。
単に、
「もう使った」
という言葉だけで、判断してはいけないのです。
◇
「でも、先輩」
「何だ」
「ここまでの話だと、受け取った人が得しすぎる場合もありませんか?」
「どういう意味だ」
「だって、間違って受け取った百万円で豪華な旅行をして、利益が残っていないなら返還義務がないこともあるんですよね」
「ああ」
「渡した側は、百万円を失ったままなのに」
私は首をかしげました。
「ちょっと不公平な気もします」
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「知らなかった人に、どこまで負担させるべきかを考えろ」
「……知らなかった人」
「そうだ」
百万円が自分のものではないと知らず、使ってしまった人。
その人に。
現実には残っていない利益まで、必ず自分の財産から補填させるのか。
そこには、公平の問題があります。
「民法七百三条は、受益者に利益が残っている限度での返還を定めている」
「はい」
「だから、受益者の悪意がない場合には、現存利益が重要になる」
私は頷きました。
なるほど。
不当利得は、制裁のための制度ではない。
法律上の原因なく生じた財産的な利益を、返還させる制度。
だから。
原則として、残っている利益を返す。
でも。
もし受益者が、最初から返すべきものだと知っていたら?
私は六法をめくりました。
民法七百四条。
悪意の受益者の返還義務等。
「来ました!」
私は声を上げました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「黒田社長を青ざめさせた条文です!」
「大げさな言い方すんな」
「でも本当でしょう?」
「まあな」
私は条文を読みました。
――悪意の受益者は、その受けた利益に利息を付して返還しなければならない。この場合において、なお損害があるときは、その賠償の責任を負う。
「ここです!」
悪意の受益者。
利息。
さらに損害賠償。
「先輩、悪意っていうのは、性格が悪い人ですか?」
「違う」
「ですよね!」
私は頷きました。
法律でいう悪意。
これは、日常会話の「悪い気持ち」とは違います。
不当利得でいう悪意の受益者とは。
自分が利益を受けることについて、法律上の原因がないと知っている人。
つまり。
受け取ってよい理由がないと知っている人です。
「だから、黒田社長が嫌な性格だったかどうかは、関係ないんですね」
「そうだ」
「関係するのは、重複入金に法律上の原因がないと知っていたかどうか」
「そこだ」
私はノートに書きました。
善意。
法律上の原因がないことを知らない。
悪意。
法律上の原因がないことを知っている。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「黒田社長が、二回目の振込に本当に気づいていなかったら?」
「その段階では、悪意とはいえねえな」
「でも、九月十二日に銀行から誤送金だと連絡されました」
「ああ」
「その時点で、二回目の百万円を受け取る理由がないと分かった」
「そう評価できる事情が揃えばな」
私は頷きました。
ここで、昨日の証拠が重要になります。
九月六日付の葉書。
同額の入金に気づいていたことを示す記載。
さらに。
九月十二日の銀行からの誤送金連絡。
その後も、返還を拒絶。
そして。
「使ってしまった」
という説明。
「だから、少なくとも九月十二日以降については、悪意を強く主張できたんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「ただし、悪意を主張するなら、いつから知っていたかを明確にしろ」
「はい」
「利息の起算点に関わるからな」
私は鉛筆を握り直しました。
なるほど。
悪意かどうか。
それだけでは足りません。
いつ悪意になったのか。
そこも重要なのです。
◇
「次は、利息です!」
私はノートに大きく書きました。
――民法七百四条。
悪意の受益者は、利息を付して返還。
「先輩」
「何だ」
「昭和六十三年の法定利率は?」
「民事なら原則年五分だ」
「正解です!」
「何で俺が採点されてんだよ」
私は笑いました。
でも。
ここは、本当に重要です。
昭和六十三年の民法四百四条。
民事法定利率は、年五分。
つまり年五パーセントです。
一方。
私が現代で勉強していた改正民法では、法定利率は変動制になっています。
二〇二〇年施行の改正によって、当初の法定利率は年三パーセントとされました。
ただし、その後は三年ごとに見直しの仕組みがあります。
「昭和で、うっかり年三パーセントって書いたら危険ですね」
「何でそんな数字が出てくるんだ?」
「……夢で見ました」
「変な夢だな」
私は慌てて話を戻しました。
「たとえば、悪意の受益者が百万円を返さず、年五パーセントの利息が一年分発生したら?」
私は紙に書きました。
百万円。
掛ける、五パーセント。
答えは。
五万円。
「一年分の利息は五万円です!」
「そうだ」
「返還する元本が百万円なら、元本と利息で百五万円ですね」
「一年分の利息が発生する条件ならな」
私は頷きました。
もっとも。
実際には、悪意になった時期。
利息の計算期間。
適用される利率。
そうした事情を具体的に確認する必要があります。
昨日の事件では、黒田社長が少なくとも九月十二日には誤送金だと認識したと考えられました。
だから。
その日以降の利息について、民法七百四条を根拠として請求したのです。
「ここで、もう一つあります!」
私は六法を指しました。
――なお損害があるときは、その賠償の責任を負う。
「悪意の受益者には、損害賠償責任もあるんですよね」
「ああ」
「でも、何でも請求していいわけではありません」
私は書きました。
実際に損害が生じたこと。
その損害が、悪意の受益者の行為とどのようにつながっているか。
損害額はいくらか。
それらを、きちんと確認する必要があります。
「たとえば」
私は言いました。
「間違って渡した百万円が返らなかったために、別の資金調達を余儀なくされた場合など、具体的な損害が問題になることがあります」
「そうだな」
「ただし、利息と同じ損害を二重取りするわけにはいきません」
「そこは大事だ」
私は大きく丸をつけました。
悪意だから、何でも払わせられる。
これは間違い。
法律上認められる範囲で、返還と損害賠償が問題になる。
「民法七百四条って、怖いけど、やっぱり筋が通ってますね」
私が言うと、所長が頷きました。
「知っていて返さない者には、それに応じた責任を負わせる」
そういうことなのです。
◇
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「一番厄介なのが残ってるな」
「七百五条ですね」
「ああ」
私はノートをめくりました。
――民法七百五条。
債務の不存在を知ってした弁済。
「黒田社長が、得意げに持ち出した条文です」
「そうだったな」
私は条文を読みました。
――債務の弁済として給付をした者は、その時において債務の存在しないことを知っていたときは、その給付したものの返還を請求することができない。
「これ、最初に読んだとき、ちょっと意地悪だと思ったんです」
「何でだ」
「だって、払う必要がないお金なら、返してもらえてもよさそうじゃないですか」
相馬先輩は腕を組みました。
「じゃあ、こんな話はどうだ」
「はい?」
「お前が俺に百万円を渡したとする」
「はい」
「お前は、俺に借金なんかしてねえ」
「はい」
「しかも、それを知っている」
「はい」
「それなのに、わざわざ『借金の返済です』と言って、百万円を渡した」
「……はい」
「で、一週間後に言うんだ」
先輩はにやりとしました。
「本当は借金なんてなかった。不当利得だから返せ」
私は顔をしかめました。
「……それ、変ですね」
「だろ」
「最初から払う義務がないと知っていたのに、債務の弁済として渡してるんですから」
「そうだ」
「それを後から一方的に返せというのは、相手にとって迷惑な場合もあります」
なるほど。
民法七百五条は、まさにそういう場面を問題にしているのです。
払う必要がないと知っている。
それなのに、債務の弁済として給付する。
その場合、後から返還を求めることは、原則として認められません。
「つまり」
私はノートに書きました。
――知らずに払ったか、知って払ったか。
「そこが大きな分かれ道ですね!」
「そうだ」
では。
文江さんの場合は?
私は昨日の資料を思い出しました。
最初の百万円。
九月四日。
時計代金として支払った。
二回目の百万円。
九月五日。
前日に払ったことを失念して、もう一度振り込んだ。
つまり。
「文江さんは、二回目の振込時に、債務がないことを知っていたわけではない」
「そうだ」
「だから七百五条の返還請求制限には当たらないんですね」
「そのとおり」
私は頷きました。
ところが。
ここで、少し疑問が湧きました。
「先輩」
「何だ」
「でも、七百五条って、要するに払う必要がないと知って払った場合ですよね」
「ああ」
「じゃあ、いつでも絶対に返還請求できないんですか?」
相馬先輩は少し考えました。
「そこまで言い切るな」
「え?」
「条文だけ読んで、事情を飛ばすなよ」
先輩は続けました。
「たとえば、相手から不当な圧力を受けて支払ったような場合だ」
「……はい」
「形式的には債務がないと知っていても、返還請求が一切できないと単純に決めつけるべきじゃねえ」
私は頷きました。
そうです。
民法七百五条の適用には、給付当時の認識と、具体的な事情を確認する必要があります。
裁判例でも、単に債務が存在しないと知っていたという一点だけで、あらゆる場合に機械的な結論を出すわけではありません。
不当な強制など、特別な事情がある場合には、別途検討が必要となります。
「つまり」
私は書きました。
――七百五条は、債務がないことを知ってした弁済について、原則として返還請求を認めない。ただし、具体的事情を無視して機械的に当てはめない。
「よし」
所長が頷きました。
「条文の原則を覚えたら、次は事実との関係を見ろ」
「はい!」
◇
「ところで、所長」
私は六法を眺めました。
「不当利得って、昭和と現代で大きく変わっていないんですよね」
「ああ」
「だったら、今回の時代錯誤ポイントは少なめですね」
すると。
相馬先輩が笑いました。
「そう思うなら、甘いぞ」
「えっ」
「民法ってのは、条文一つだけで動いてるわけじゃねえ」
「……はい」
「関連する規定が変われば、実務も変わる」
私は思い出しました。
昨日。
利息を年三パーセントと書きそうになったこと。
「法定利率!」
「そうだ」
私はノートを開きました。
昭和六十三年。
民事法定利率は原則年五パーセント。
現代。
二〇二〇年施行の改正民法で、変動制。
当初は年三パーセント。
「でも、それだけじゃありませんね」
私は続けました。
「契約解除の場面でも、関連する規定や用語が改正されています」
たとえば。
古い民法では、売買した物に隠れた瑕疵があった場合、瑕疵担保責任という制度が重要でした。
現代では、契約不適合責任という考え方に整理されています。
そのほか、債務不履行や契約解除に関する規定も見直されました。
「だから」
私は言いました。
「不当利得の七百三条から七百五条が基本的に同じでも、関連する民法の規定を確認しなければいけないんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「今使う法を確認しろ」
「はい」
私は少し笑いました。
「でも所長」
「何だ」
「昔の民法と今の民法って、根っこは同じなんですね」
「どういう意味だ」
「誰かが法律上の理由なく得をして、別の誰かが損をしたとき、それを公平に調整する」
私はノートを指しました。
「その考え方は、時代が変わっても残っている」
所長は、静かに頷きました。
「そういうことだ」
私は、少し嬉しくなりました。
未来の法律を知っていること。
昭和の法律を学ぶこと。
その二つは、必ずしも対立するわけではありません。
昔の制度を知ると、現代の制度がどうして変わったのか分かる。
変わらなかった条文を知ると、民法が長く守ってきた考え方が分かる。
そして。
数字や用語が変わったところは、きちんと区別する。
「民法って、歴史があるんですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「当たり前だろ。お前が生まれる前からあるんだからな」
……。
いえ。
生まれる前どころか。
今の私は、未来から来ているんですけど。
もちろん、黙っておきました。
◇
「じゃあ、最後に確認問題です!」
私は鉛筆を持ち直しました。
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「まだやるのか」
「やります!」
「お前、勉強好きだな」
「試験に合格したいんです!」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「問題を出す」
「お願いします!」
所長は静かに言いました。
「甲が乙に百万円を贈与した」
「はい」
「乙は百万円を受け取った。甲の財産は百万円減った。これは不当利得か」
「いいえ!」
「理由は」
「有効な贈与契約に基づく給付であり、法律上の原因があるからです!」
「よし」
私は拳を握りました。
次。
「甲は乙に百万円を貸すつもりで、誤って二百万円を送金した」
「はい」
「乙は、返済義務のない追加の百万円を受け取った」
「法律上の原因がなければ、その追加の百万円について不当利得が成立し得ます!」
「よし」
次。
「乙は、追加の百万円が誤送金だと知らず、本来自己資金で支払う予定だった家賃に使った」
「家賃の支出を免れた利益が残っていると評価されるので、現存利益が認められ得ます!」
「よし」
次。
「乙は、誤送金だと知りながら百万円を使った」
「悪意の受益者として、民法七百四条の返還義務が問題になります!」
「内容は」
「受けた利益に利息を付して返還し、なお損害があれば賠償責任も負います!」
次。
「甲は、自分に債務がないことを知りながら、債務の弁済として乙に百万円を渡した」
「民法七百五条により、原則として返還請求できません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
「完璧です!」
ところが。
相馬先輩が、にやりとしました。
「じゃあ俺からも一問」
「はい!」
「甲が乙に百万円を貸した」
「はい」
「返済期限が来た」
「はい」
「乙は百万円を返した」
「はい」
「そのとき甲は、百万円の利益を受けてるな?」
「はい」
「乙は百万円の財産を失ってるな?」
「はい」
「因果関係もあるな?」
「はい」
「じゃあ、不当利得か?」
私は即答しました。
「違います!」
「理由は?」
「貸金返還債務の弁済だからです!」
「そうだな」
「法律上の原因があります!」
相馬先輩が笑いました。
「よし。少しは分かってきたな」
「少しは、ですか!」
「調子に乗るなよ」
「ひどい!」
私は笑いました。
でも。
今回は、もう間違えません。
不当利得は、利益が生じれば成立するわけではない。
誰かが損をしたから成立するわけでもない。
法律上の原因がないこと。
そこが重要なのです。
◇
窓の外は、すっかり薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
受益。
損失。
因果関係。
法律上の原因がないこと。
善意の受益者。
現存利益。
悪意の受益者。
利息。
損害賠償。
債務の不存在を知ってした弁済。
最初は、どれも似たような言葉に思えました。
でも。
高瀬文江さんの事件を思い出すと。
一つずつ、意味が分かります。
最初の百万円には、売買契約という法律上の原因があった。
二回目の百万円には、それがなかった。
黒田時計商会は、百万円の利益を受けた。
文江さんは、百万円の損失を受けた。
しかも。
黒田は、重複送金に気づいていたことを示す葉書を残していた。
その後、銀行から誤送金だと知らされても、返還を拒んだ。
だから。
悪意の受益者として、民法七百四条が問題になった。
一方。
文江さんは、二回目の振込時に債務がないと知っていたわけではなかった。
だから、七百五条を持ち出した黒田の言い分は通らなかった。
「……なるほど」
私は小さく呟きました。
片桐所長が顔を上げました。
「どうした」
「所長」
「何だ」
「昨日の事件って、三つの条文が全部つながっていたんですね」
「そうだな」
「七百三条で、返還義務の基本を考える」
「うん」
「七百四条で、悪意だった場合の責任を考える」
「うん」
「七百五条で、払った側が債務の不存在を知っていたかを考える」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は鉛筆を握りました。
そして。
最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
――不当利得は「法律上の原因なき利益の返還」。善意は現存利益、悪意は利息付き、知ってした弁済は原則返還なし。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
百万円の懐中時計。
二回の振込。
黒田社長の嘘。
そして。
文江さんの手元に戻ってきた百万円。
全部、覚えています。
民法は。
ただ人のお金を取り返すための道具ではありません。
誰に、どんな理由で利益が移ったのか。
その利益を、持ち続けてよいのか。
返すとしたら、どこまで返すべきなのか。
そういうことを、公平に考える法律なのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「勉強会、終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「ついでに、給湯室の湯呑みも洗ってこい」
「……先輩」
「何だ」
「それ、私の仕事ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だよ」
「私が湯呑みを洗うと、先輩は利益を受けますよね?」
「……は?」
「先輩が洗わなくて済むんですから!」
「まあな」
「そして、私は労務を提供します!」
「おう」
「つまり!」
私は六法を指差しました。
「民法七百三条! 他人の労務によって利益を受けています!」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
そして。
「お前な」
「はい!」
「その続き、言ってみろ」
「……え?」
「七百三条の続きだ」
私は固まりました。
法律上の原因なく。
……あ。
「私、見習いです」
「そうだな」
「事務所の仕事として、湯呑みを洗うように頼まれています」
「そうだな」
「……不当利得じゃないですね」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「残念だったな」
「ぐぬぬ……!」
私は肩を落としました。
まさか。
今日学んだ法律で、先輩をやり込めようとして。
自分で自分を論破するとは。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい……」
「勉強したことを、すぐ使ってみるのはいい」
「本当ですか!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
しかし。
所長は、続けました。
「ただし、要件を全部確認してから使え」
「……はい」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「笑わないでください!」
「七百三条の四つ目、忘れてただろ!」
「忘れてません!」
「じゃあ何だ!」
「ちょっと期待しただけです!」
「何をだ!」
「湯呑み洗いから解放されることです!」
「そんな権利はねえ!」
私は笑いながら、湯呑みを集めました。
給湯室に立つと、窓の向こうに夕暮れの商店街が見えました。
遠くで、時計台の鐘が鳴っています。
あのどこかで。
文江さんのご主人は、銀色の懐中時計を眺めているのでしょう。
小さな歯車の音を聞きながら。
これからの生活を、少しずつ考えているのかもしれません。
私は湯呑みを洗いながら、ノートの最後の一行を思い出しました。
――不当利得は「法律上の原因なき利益の返還」。善意は現存利益、悪意は利息付き、知ってした弁済は原則返還なし。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「湯呑み、まだか!」
「今、洗ってます!」
「早くしろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私が湯呑みを洗うことで、先輩は利益を受けているんですよ!」
「また七百三条か!」
「違います!」
「じゃあ何だ!」
「感謝してください!」
相馬先輩は、一瞬黙りました。
そして。
「……ありがとな」
……。
私は止まりました。
え?
今。
感謝しました?
「先輩」
「何だよ」
「もう一回言ってください」
「嫌だ」
「お願いします!」
「二度と言わねえ!」
私は笑いました。
なるほど。
法律上の返還義務は発生しなくても。
感謝の言葉くらいは、受け取れるようです。
もっとも。
その感謝にも、法律上の原因が必要かどうかは。
……考えないことにしましょう。
だって。
何でも不当利得にしていたら。
人から親切にされるたびに、民法七百三条を開かなければならなくなります。
それでは、少し味気ない。
法律は。
人の暮らしを守るためにある。
暮らしのすべてを、法律問題にするためにあるわけではないのです。
私は最後の湯呑みを洗い終えました。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「湯呑み、洗い終わりました!」
「おう」
「これで私の労務による利益の提供は終了です!」
「普通に終わったって言え!」
……。
どうやら。
不当利得を覚えたばかりの見習いには。
まだ少し、民法を使いたくなる病気が残っているようです。
でも。
今日の勉強は、間違いなく身につきました。
受益。
損失。
因果関係。
法律上の原因がないこと。
そして。
善意と悪意。
現存利益と利息。
知ってした弁済。
これらを区別できるだけで。
人の財産を守るための判断が、ずっと正確になります。
百万円を間違って振り込んだ人に。
「あなたが間違えたのだから、もう諦めなさい」
と簡単に言わずに済む。
そして。
間違って受け取った人についても。
事情を確かめず、一方的に悪人扱いせずに済む。
誰が悪いかを決めつける前に。
誰に、どんな利益が、どんな理由で移ったのか。
そこを見る。
それが。
民法のリーガルマインドなのです。
私は給湯室の明かりを消しました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた、六法の中の難しい言葉が、一つ、私の知っている人の顔に変わりました。
不当利得。
もう、忘れません。
法律上の理由なく誰かの手に渡った利益には。
本来、帰るべき場所があるのです。
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