[民法・不当利得]現場編 「もう使ってしまったから返せない」の嘘。二重払いされた百万円と、悪意の受益者を追い詰める内容証明の刃
人のお金は、使ってしまえば自分のものになるのでしょうか。
たとえば。
間違って百万円を受け取った人がいたとします。
その人は、こう言いました。
「もう全部使った。だから返せない」
……なるほど。
それで済むなら、世の中の借金取りも裁判所も、ずいぶん暇になりそうです。
でも。
民法は、そんなに甘くありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の中でも、少し不思議な制度に出会うことになります。
不当利得。
契約違反でもない。
不法行為とも少し違う。
それなのに。
受け取ったお金を返さなければならない。
そして。
知っていたか、知らなかったか。
たったそれだけの違いが、返還義務の重さを大きく変えてしまうのです。
◇
「百万円を、二回払ってしまったんです」
朝一番。
事務所を訪れた女性は、震える声でそう言いました。
「……二回?」
私は聞き返しました。
「はい」
「百万円を?」
「はい」
「合計、二百万円?」
女性は小さく頷きました。
私は思わず電卓を取り出しかけました。
必要ありませんね。
二百万円です。
相談者の名前は、高瀬文江さん。
五十八歳。
町外れで小さな時計修理店を営む夫と、二人暮らしをしているそうです。
その夫が、先月、倒れました。
脳梗塞。
幸い命は助かりましたが、右手に麻痺が残りました。
「主人は時計職人なんです」
文江さんは膝の上で手を握りました。
「四十年、時計を直してきました」
「そうなんですね」
「でも、もう細かい作業が難しくて……」
私は黙って聞きました。
そんな夫のために、文江さんは一つの古時計を買おうとしたのです。
スイス製の機械式時計。
夫が若い頃から憧れていた、古い懐中時計。
駅前の高級時計商、黒田時計商会に売り物として出ていたそうです。
「百万円でした」
「高いですね……」
「ええ。でも、主人が長年欲しがっていたものですから」
文江さんは少し笑いました。
「もう店を続けられないかもしれないでしょう。せめて、あの時計を眺めながら過ごしてほしいと思って」
……。
私は胸が詰まりました。
百万円。
決して軽い金額ではありません。
夫婦で少しずつ貯めたお金。
退職後の生活費。
その一部を使って、夫に時計を贈ろうとした。
ところが。
「最初の百万円は、ちゃんと払ったんです」
文江さんは通帳を取り出しました。
「銀行から振り込みました」
「はい」
「時計屋さんからも、代金を受け取ったという領収書が届きました」
ここまでは普通です。
問題は、その翌日。
文江さんは銀行へ行きました。
夫の入院費を支払うためです。
そのとき、鞄の中に入れていた古い振込依頼書の控えを、別の支払書類と取り違えてしまった。
「前の日に振り込んだことを、すっかり勘違いして……」
銀行の窓口で、もう一度、同じ時計店へ百万円を振り込んでしまったのです。
「気づいたのは、一週間後でした」
「どうして分かったんですか?」
「通帳を記帳したら、二回引き落とされていて」
私は通帳を確認しました。
確かに。
同じ受取人。
同じ金額。
二日続けて、百万円。
「それで、時計屋さんに連絡したんですか?」
「はい」
文江さんの顔が曇りました。
「最初は、返してくれると思ったんです」
「そうですよね」
「でも……」
文江さんは鞄から、一枚の紙を取り出しました。
黒田時計商会。
代表取締役、黒田源一。
その名前が印刷されています。
文面を見た私は、思わず眉をひそめました。
――当社は振込人の意思に基づいて送金された金員を受領したにすぎない。
――当該金員については既に営業経費として支出済みであり、現在返還に充てる資金は存在しない。
――よって返金には応じられない。
……。
「先輩」
「何だ」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「これ、すごいですね」
「何がだ」
「人のお金を間違って受け取って、全部使ったから返さないって言ってます」
「読めば分かる」
「分かるんですけど!」
私は紙を机に置きました。
「こんなの、通るんですか?」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「お前はどう思う」
「通りません!」
「理由は?」
「不当利得です!」
私は勢いよく答えました。
「法律上の原因なく利益を受けて、そのために他人に損失を与えているんですから、返還義務があります!」
よし。
民法七百三条。
現代の行政書士試験でも、基本中の基本。
受益。
損失。
因果関係。
法律上の原因がないこと。
全部揃っています。
「しかも!」
私は続けました。
「現代の民法七百四条でも、悪意の受益者には利息と、必要に応じて損害賠償の責任があります!」
「……現代?」
相馬先輩の目が細くなりました。
しまった。
また、やってしまいました。
「い、いえ! 今の民法でも!」
「当たり前だろ」
先輩は六法を取り出しました。
「七百三条と七百四条は、この昭和六十三年にもある」
「あっ」
「それどころか、不当利得の基本的な規定は、後の時代でも大きく変わらずに使われるような、民法の古い柱だ」
私は目を瞬かせました。
……え?
今回は。
未来の条文が使える?
「やった!」
「何がだ」
「やっと現代の民法知識が、そのまま役立ちそうです!」
「お前、いつも何を勉強してるんだ?」
未来の六法です。
言えませんけど。
しかし。
私が喜んだのも、束の間でした。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「もう一度、その手紙を読め」
「はい?」
「相手は、何を主張している」
「使ってしまったから返せない、と」
「そこだ」
所長は六法を開きました。
民法七百三条。
私は条文を目で追いました。
――法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。
……。
その利益の。
存する限度。
「……あれ?」
私は止まりました。
「所長」
「何だ」
「これって……」
「ああ」
「もしかして、相手が本当に全部使ってしまっていたら、返さなくていい場合があるんですか?」
所長は頷きました。
「善意の受益者なら、現存利益が問題になる」
……。
現存利益。
現実に残っている利益。
つまり。
民法は、法律上の原因なく利益を得た人に、常に受け取った額の全額を返せと命じているわけではない。
善意か悪意か。
利益が残っているか。
そこを考える必要があるのです。
「じゃあ、黒田という人は……」
私は手紙を見ました。
――既に営業経費として支出済み。
――返還に充てる資金は存在しない。
……まさか。
「そこを狙っている?」
相馬先輩がにやりとしました。
「ようやく気づいたか」
私は顔を上げました。
「でも、先輩!」
「何だ」
「営業経費に使ったからって、利益が消えたことになるんですか?」
「いい質問だ」
「えっ」
「珍しくな」
「余計な一言が!」
相馬先輩は六法を指で叩きました。
「生活費や営業経費に使ったってだけで、現存利益がなくなるわけじゃねえ」
「はい」
「本来、自分の金で払うはずだった費用を、人の金で払ったならどうなる」
私は少し考えました。
「……自分のお金が減らずに済む」
「そうだ」
「あ!」
そうか。
受け取った百万円の紙幣が残っているかどうか。
それだけではありません。
そのお金のおかげで。
自分の預金が減らずに済んだ。
支払うはずの経費を支払えた。
別の財産が残った。
そういう利益も考える必要がある。
「なるほど!」
私は思わず机を叩きました。
「お金がなくなったことと、利益がなくなったことは違うんですね!」
「そうだ」
所長が静かに頷きました。
「ただし、相手が悪意なら、もっと話は変わる」
私は六法をめくりました。
民法七百四条。
悪意の受益者。
受けた利益に利息を付して返還。
なお損害があるときは、損害賠償。
私は息を呑みました。
「所長」
「何だ」
「相手が、間違った入金だと知っていたら……」
「七百四条だ」
「使い切ったという言い訳だけでは逃げられない」
「そうだ」
ただし。
そこには一つ、大きな壁がありました。
黒田がいつ、二回目の百万円に法律上の原因がないと知ったのか。
それをどうやって証明するのか。
私は、ようやく理解しました。
今回の事件。
単に百万円の行方を追うだけではありません。
黒田の知っていた事実を、追い詰める必要があるのです。
◇
「そんなもの、こっちの知ったことじゃないね」
翌日。
黒田時計商会。
駅前商店街の一等地にある、立派な店舗でした。
ガラスケースには、金色の腕時計。
壁には外国製の掛時計。
奥の机には、革張りの椅子。
そこに座っていたのが、黒田源一。
五十二歳。
口ひげを蓄えた、いかにも商売慣れした男でした。
「百万円を二回振り込んだ?」
黒田は鼻で笑いました。
「間違えたのは、あの奥さんだろう」
「その点は、ご本人も認めています」
相馬先輩が答えました。
私たちは、文江さんの依頼で、事実関係を確認するために来ていました。
法的な示談交渉をするためではありません。
そこは、行政書士の仕事として越えてはいけない線です。
「だったら話は終わりだ」
黒田は椅子にもたれました。
「こっちは頼んでもいないのに振り込まれたんだ」
「はい」
「それを、後から返せと言われても困る」
「二回目の振込金について、何か契約上の根拠があるのでしょうか」
私が聞きました。
黒田はちらりと私を見ました。
「何だ、お嬢ちゃん」
「朝比奈こはるです」
「見習いか?」
「はい」
「じゃあ、まだ世の中を知らないんだな」
……。
来ました。
悪徳業者特有の、上から目線です。
「金ってものはな、入ってきたら使うもんなんだよ」
黒田は笑いました。
「うちは商売してるんだ。経費もかかる」
「それは分かります」
「もうない金を返せと言われても、返せるわけがない」
私は言いました。
「でも、二回目の百万円を受け取る法律上の原因が――」
「あるよ」
「え?」
黒田は机を叩きました。
「相手が自分の意思で振り込んできたんだ」
「それは……」
「俺が盗んだわけじゃない。騙して振り込ませたわけでもない」
確かに。
黒田が直接、二回目の振込を指示した証拠はありません。
文江さん自身が、勘違いして送金した。
その事実は動きません。
「それに」
黒田は引き出しから一冊の六法を取り出しました。
……え?
この人。
六法を持っている?
「民法七百五条だ」
私は固まりました。
黒田は得意げに言いました。
「債務がないと知りながら金を払った奴は、返せと言えない」
民法七百五条。
債務の不存在を知ってした弁済。
私は思わず六法の該当ページを思い出しました。
確かに。
自分に支払義務がないと知りながら、債務の弁済として給付した場合には、原則として返還請求ができない。
でも。
「文江さんは、二回払ったと知らなかったんです」
「本人がそう言ってるだけだろう」
「通帳にも――」
「振込依頼書は本人が書いたんだろ?」
「はい」
「金額も自分で書いた」
「はい」
「だったら、分かって払ったんじゃないのか?」
……。
嫌な理屈です。
黒田は薄く笑いました。
「七百三条だか七百四条だか知らんが、七百五条だってあるんだ」
私は唇を噛みました。
なるほど。
この男。
法律をまったく知らないわけではありません。
むしろ。
自分に都合のいい条文だけを拾って、盾にしている。
「それから」
黒田は続けました。
「俺は二重払いだなんて知らなかった」
私は顔を上げました。
「本当ですか?」
「当たり前だ」
「でも、同じ人から同じ金額が二回――」
「毎日いくら入金があると思ってるんだ?」
「……」
「いちいち確認してられるか」
黒田は煙草に火をつけました。
「善意の受益者ってやつだろ?」
……!
私は相馬先輩を見ました。
先輩の目が、すっと細くなりました。
「よくご存じですね」
「そりゃあな」
黒田は得意げでした。
「商売やってりゃ、それくらい覚える」
「では、帳簿を確認させていただけますか」
相馬先輩が言いました。
「何?」
「二回目の百万円が、どのような名目で入金処理されていたか、事実確認をしたいのですが」
「断る」
即答でした。
「会社の帳簿を、行政書士なんぞに見せる義務はない」
「そうですか」
「裁判でもするつもりか?」
「必要な事実を確認しているだけです」
「はっ」
黒田は大きく笑いました。
「だったら、弁護士でも連れてきな!」
そして。
最後に、こう言ったのです。
「どうせ裁判したって、使った金は戻らんよ」
私は思わず立ち上がりかけました。
その肩を。
相馬先輩が、軽く押さえました。
「こはる」
「……はい」
「もういい」
「でも!」
「相手の言い分は確認できた」
先輩は黒田を見ました。
「二回目の百万円について、売買代金以外の根拠は示さない」
「そうだ」
「重複入金とは知らなかった」
「ああ」
「既に使い切り、利益は残っていないと主張する」
「そのとおり」
「分かりました」
相馬先輩は立ち上がりました。
「失礼します」
私は慌てて後を追いました。
店を出ると、秋の冷たい風が頬を撫でました。
「先輩!」
「何だ」
「あの人、完全に逃げ切るつもりですよ!」
「ああ」
「しかも、七百五条まで持ち出して!」
「そうだな」
「何とか言い返さないと!」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「こはる」
「はい」
「七百五条が問題になるのは、いつだ?」
私は考えました。
「給付したとき、債務がないことを知っていた場合です」
「そうだ」
「文江さんは、二回目の振込時点では、最初の振込を済ませたことを勘違いしていた」
「うん」
「だから、単に自分で振込依頼書を書いたというだけでは、債務がないと知っていたことにはなりません」
「そのとおり」
私は頷きました。
「じゃあ、七百五条は――」
「相手の主張が通るかは、証拠次第だ」
「……証拠」
「問題は、何を知っていたかだ」
先輩は煙草に火をつけました。
「文江さんが、振込のとき何を知っていたのか」
「はい」
「黒田が、重複入金だといつ知ったのか」
「はい」
「その二つを押さえろ」
私は息を吸いました。
なるほど。
不当利得は。
お金の出入りだけを追う話ではない。
当事者の認識まで、証拠にする必要があるのです。
◇
「銀行に、記録が残っているかもしれません」
事務所へ戻った私は、そう言いました。
相馬先輩が顔を上げました。
「何の記録だ」
「二回目の振込に気づいた後、文江さんは銀行へ相談に行っていますよね」
「ああ」
「そのとき、銀行から黒田時計商会へ連絡したんじゃないでしょうか」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「調べよう」
翌日。
文江さん本人に同行してもらい、銀行へ向かいました。
窓口で事情を説明すると、担当していた行員が奥から出てきました。
「ああ、高瀬さんの件ですね」
三十代の男性行員。
名前は、森田さん。
「覚えていらっしゃいますか?」
私が聞くと、森田さんは頷きました。
「ええ。二回振り込まれていた件ですね」
「二回目の振込について、何か記録はありますか」
「振込依頼書の控えはあります」
行員は説明しました。
「ただ、相手先の入出金情報については、こちらから勝手にお見せできません」
「もちろんです」
私は頷きました。
昭和六十三年。
スマートフォンもありません。
銀行のアプリもありません。
ネットバンキングの取引履歴を、その場で画面に出すこともできません。
でも。
紙があります。
振込依頼書。
出納記録。
電話連絡の記録。
そして。
「ところで」
森田さんが言いました。
「高瀬さんからご相談を受けた日、先方には、重複送金の件を電話で伝えています」
私は顔を上げました。
「いつですか?」
「九月十二日です」
「記録はありますか?」
「行内の連絡記録には残っています」
……!
私は思わず相馬先輩を見ました。
先輩は静かに頷きました。
「その内容を、確認できる範囲で教えていただけますか」
森田さんは少し考えました。
「関係先との確認が必要ですが、先方への返還依頼に関する連絡経過なら、記録を調べます」
そして。
文江さん自身の申出内容について、本人の求めに応じて写しを用意してもらえることになりました。
そこには。
――振込人、前日送金済みであることを失念し、二重送金した旨申出。
――二回目の送金は誤送金につき返還を希望。
と記されていました。
「……これです!」
私は声を上げました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「文江さんが、二回目の振込を間違いだと考えていたことが分かります!」
「うん」
「しかも、銀行へ相談した経緯も残っています」
「そうだな」
ただし。
その記録だけで、振込時に文江さんが債務の不存在を知らなかったことや、黒田の悪意が完全に証明できるわけではありません。
当時の事情を、さらに積み上げる必要があります。
相馬先輩が言いました。
「こはる。もう一つ調べるぞ」
「何ですか?」
「黒田が、いつから二重払いだと知っていたかだ」
◇
意外な証拠は、文江さんの家にありました。
その日の午後。
文江さんが、もう一度事務所を訪れたのです。
「これ、関係あるでしょうか」
差し出されたのは、一枚の葉書でした。
黒田時計商会から届いたものです。
私は何気なく読みました。
――高瀬文江様。
――このたびはお買い上げありがとうございます。
――九月四日付にて、懐中時計代金百万円の入金を確認いたしました。
――時計は九月二十日に発送予定です。
日付は、九月五日。
「これは最初の入金確認ですね」
「はい」
文江さんが頷きました。
「でも、裏も見てください」
私は葉書を裏返しました。
そこには。
万年筆で、短い追記がありました。
――なお、九月五日にも同額の入金がございましたので、確認のうえ改めてご連絡申し上げます。
……。
「……え?」
私は止まりました。
相馬先輩が、私の手から葉書を受け取りました。
しばらく眺めて。
「……ほう」
低い声を出しました。
「所長」
先輩が呼びました。
片桐所長も葉書を確認しました。
そして。
「消印は?」
「九月六日です」
「二回目の振込日は?」
「九月五日です」
「銀行からの返還依頼は?」
「九月十二日です」
私は、ようやく理解しました。
黒田は。
銀行から連絡されるより前に。
二回目の入金に気づいていた。
しかも。
その事実を、自分の店の葉書に書いていた。
「……先輩」
「何だ」
「これって」
「ああ」
「知らなかったって言ってましたよね?」
「言ってたな」
「でも、知ってたじゃないですか!」
私は思わず立ち上がりました。
「しかも、最初の百万円が時計代金だって確認していた!」
「そうだ」
「その翌日に、同じ人から同じ百万円が来たことも把握していた!」
「そうだな」
片桐所長が静かに言いました。
「ただし、注意しろ」
「はい?」
「重複入金を知っていたことと、その金を受け取る法律上の原因がないと知っていたことは、厳密には同じではない」
私は口を閉じました。
「相手が別の支払名目だと信じていた可能性も、形式上は検討する必要がある」
「……はい」
「だが、売買契約書を見ろ」
私は契約書を開きました。
懐中時計一個。
代金百万円。
支払方法、銀行振込。
追加代金の条項はありません。
修理代もありません。
手数料もありません。
しかも最初の入金確認の葉書には、代金百万円を受領したと明記されている。
「所長」
「何だ」
「二回目の百万円について、別の債務があったという証拠がない」
「そうだ」
「黒田は二回目の入金を認識して、確認すると自分で書いている」
「うん」
「それなのに、後から知らなかったと説明している」
所長が頷きました。
「さらに、銀行から正式に誤送金だと連絡された後も、返さず使ったということだ」
……。
私は背筋が伸びました。
あの黒田の言葉。
――俺は二重払いだなんて知らなかった。
その主張が。
たった一枚の葉書によって、大きく揺らいだのです。
相馬先輩が、にやりとしました。
「こはる」
「はい」
「書類を作るぞ」
「はい!」
「今度は、相手が自分で書いた葉書を使う」
先輩は葉書を机に置きました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
「今回は葉書ですけどね」
「細けえこと言うな」
◇
その夜。
片桐行政書士事務所には、遅くまで明かりが灯っていました。
机の上に並んだのは、何枚もの紙。
売買契約書。
領収書。
通帳の写し。
振込依頼書の控え。
銀行への申出記録。
黒田からの葉書。
返還拒絶の通知。
全部、日付順に並べます。
私は原稿用紙を前に、鉛筆を握りました。
「まず、何を書く?」
相馬先輩が聞きました。
「不当利得返還請求通知書です!」
「中身は?」
「受益、損失、因果関係、法律上の原因がないことを整理します」
「よし」
私は書き始めました。
まず。
文江さんは、懐中時計の代金として百万円を支払った。
これは有効な売買契約に基づく支払です。
問題ありません。
次に。
翌日、誤って同額の百万円を重複送金した。
この二回目の送金。
黒田時計商会は、百万円の利益を受けている。
文江さんは、百万円の損失を受けている。
両者は同じ送金によって結びついている。
そして。
二回目の百万円を支払う債務は存在しない。
「四つ、揃いました!」
私は言いました。
「これが不当利得の成立要件ですね!」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「次」
「現存利益です」
私は続きを書きました。
黒田は、既に営業経費として支出したと主張している。
しかし。
本来自己資金で負担すべき営業経費に充てたのであれば、自己財産の減少を免れた利益が残存していると評価され得る。
「どうでしょう!」
相馬先輩は原稿を読みました。
「悪くねえ」
「やった!」
「だが、これだけじゃ終わらねえ」
先輩は六法を開きました。
「七百四条だ」
私は頷きました。
悪意の受益者。
法律上の原因がないと知りながら、利益を受けていた人。
その場合。
受けた利益について、利息を付して返還する義務がある。
さらに、損害があれば、その賠償責任も問題になる。
私は鉛筆を走らせました。
――貴社は、昭和六十三年九月六日付葉書において、同月五日の重複入金を認識し、その確認を行う旨を自ら通知している。
――また、同月十二日には銀行を通じて誤送金である旨の連絡を受けている。
――それにもかかわらず、返還を拒絶している。
――したがって、少なくとも右連絡を受けた時点以降、貴社が本件金員について法律上の原因がないことを認識していたことは強く推認される。
私は息を吸いました。
「これで悪意の受益者だと主張できますね」
「ああ」
「利息も請求できます」
「そうだ」
ただし。
私は現代の受験生として、一つ気になることがありました。
「先輩」
「何だ」
「利息って、何パーセントですか?」
「法定利率を確認しろ」
「はい!」
私は思わず言いかけました。
「民法四百四条なら、年三パーセントを出発点として――」
「何?」
……あ。
しまった。
私は固まりました。
「……三パーセント?」
相馬先輩が、嫌な顔をしました。
「どこの金利の話だ」
「あ、いえ、その」
「昭和六十三年の民事法定利率は、原則年五分だ」
年五分。
つまり。
年五パーセント。
私は額を押さえました。
現代では、二〇二〇年施行の改正によって、法定利率は変動制に改められ、当初の法定利率は年三パーセント。
でも。
昭和六十三年。
民事法定利率は、年五パーセントが原則です。
「また未来の民法を持ち込んだな」
「すみません!」
「数字を間違えると、請求書が台無しになるぞ」
「はい!」
危ない。
条文そのものが同じでも。
関連する制度が変わっている。
これも、転生者には恐ろしい落とし穴です。
私は書き直しました。
昭和六十三年。
民事法定利率、年五分。
「ただし」
片桐所長が口を開きました。
「今回は、いつから悪意だったと認められるかが問題だ。確実な認識が確認できる九月十二日を基準に請求を構成する」
「はい」
「それ以前から知っていたと認められるかは、葉書や取引記録をもとに検討する」
私は頷きました。
法律の書面は、欲張れば強くなるわけではありません。
証明できることを、証明できる範囲で書く。
そこが重要です。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「七百五条はどうする」
「あっ」
私は顔を上げました。
そうでした。
黒田が得意げに持ち出した条文。
債務の不存在を知ってした弁済。
「反論します!」
私は別の段落を書きました。
――民法七百五条は、給付者が債務の不存在を知りながら、債務の弁済として給付した場合について定めるものである。
――通知人は、既に売買代金を支払済みであることを失念し、誤って重複送金したものである。
――したがって、本件送金は、債務が存在しないことを認識したうえで行われた弁済ではない。
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は得意になりました。
「これで七百五条も封じました!」
「待て」
「え?」
「書面では、勝った負けたなんて書くなよ」
「分かってます!」
「それと、本人が本当に勘違いしていたことを裏付ける資料を付けろ」
「はい!」
私は銀行の申出記録を取り出しました。
文江さんは、二回目の送金に気づいてすぐ、銀行へ相談していました。
送金時の勘違いについて、一貫した説明をしている。
これに、二回分の振込記録。
最初の代金受領確認。
そして、二回目の振込に対応する追加契約がないこと。
全部を合わせます。
片桐所長が静かに言いました。
「七百五条は、払う義務がないことを知っていたというだけで問題になる規定だ」
「はい」
「だが、二回振り込んだという事実だけでは、知っていたことの証明にはならん」
「そうですね」
「受益者の悪意と、給付者の認識は、別々に考えろ」
私は頷きました。
黒田が知っていたか。
文江さんが知っていたか。
同じ「知っていた」という言葉でも。
問題にしている人が違います。
適用される条文も違います。
……なるほど。
不当利得。
思った以上に、頭を使います。
◇
三時間後。
机の上には、完成した内容証明郵便の原案がありました。
差出人。
高瀬文江。
宛先。
黒田時計商会代表者、黒田源一。
表題。
――不当利得返還請求通知書。
私は、ゆっくりと読み上げました。
「貴社との昭和六十三年九月三日付懐中時計売買契約につき、通知人は同月四日、代金百万円を支払い、貴社もこれを受領した」
「うん」
「その後、通知人は同月五日、代金未払であると誤信し、重ねて百万円を送金した」
「うん」
「しかしながら、右重複送金に対応する売買代金その他の債務は存在しない」
私は、一度息を吸いました。
「よって、右二回目の送金により貴社が取得した百万円は、民法第七百三条の定める法律上の原因を欠く利益に当たる」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「貴社は既に本件金員を費消した旨主張するが、営業経費等の支払に充当したという一事をもって、直ちに現存利益が消滅したとはいえない」
「よし」
「さらに、貴社は少なくとも昭和六十三年九月十二日の誤送金連絡により、右利益に法律上の原因がないことを認識していたと考えられる」
私は、少し声を強めました。
「したがって、民法第七百四条に基づき、右百万円に対する利息の返還義務も生じる」
そして。
「貴社が主張する民法第七百五条については、通知人が債務の不存在を知りながら給付した事実はなく、その適用を受けない」
最後です。
――ついては、本書到達後十四日以内に、金百万円及び民法第七百四条に基づく利息を、通知人指定の口座へ返還されたい。
――期限内に返還がなされない場合、通知人は弁護士に相談のうえ、返還請求訴訟その他の法的措置を検討する。
読み終わりました。
私は、ふうっと息を吐きました。
「……どうですか?」
相馬先輩は原稿を眺めました。
片桐所長も、黙って確認しています。
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
……怖い。
試験の採点を待っている気分です。
「こはる」
所長が言いました。
「はい!」
「悪くない」
「本当ですか!」
「ああ」
私は思わず拳を握りました。
「ただし」
「……はい」
「利息の起算日については、確実に立証できる日を明確にしろ。損害賠償も、具体的な損害が確認できない段階で安易に金額を上乗せするな」
「はい!」
「それから、証拠書類の原本は保管し、必要な写しを整理する」
「はい!」
相馬先輩が笑いました。
「どうだ、こはる」
「何がですか?」
「七百三条、七百四条、七百五条」
「はい」
「全部、使えたな」
私は頷きました。
七百三条。
法律上の原因がない利益を返す。
七百四条。
悪意の受益者は、利息も付けて返す。
七百五条。
債務がないことを知って弁済した場合、原則として返還を求められない。
三つの条文。
それぞれが、別の角度から事件を照らしている。
「でも、先輩」
「何だ」
「不思議ですね」
「何がだ」
「法律は、不当利得を受けた人を、何が何でも悪者扱いするわけじゃないんですね」
相馬先輩は黙りました。
「知らずに受け取った人には、現存利益という考え方がある」
「うん」
「でも、返すべきだと知っていながら持ち続ける人には、厳しくなる」
「そうだな」
「そして、払う義務がないと知りながら払った人についても、別のルールがある」
先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「民法ってのはな」
「はい」
「誰かが得をしたから、必ず取り上げる法律じゃねえ」
「……」
「その得を、法律上の理由もなく持っていていいのか。そこを見るんだ」
私は、ゆっくり頷きました。
そうか。
不当利得の「不当」は。
単に、ずるいとか、気に入らないとか。
そういう意味ではない。
法律上の原因がない。
そこが出発点なのです。
◇
内容証明郵便が発送されたのは、翌朝でした。
そして。
その三日後。
黒田時計商会から電話が入りました。
「……片桐先生は、いらっしゃいますか」
私は受話器を握ったまま、首をかしげました。
あの黒田です。
でも。
声が、まるで違いました。
「少々お待ちください」
片桐所長が電話に出ました。
「片桐です」
『……あの、先日の通知書ですが』
「はい」
『弁護士に見てもらいまして』
私は耳を澄ませました。
『その……民法七百四条の件で』
黒田の声は、ひどく歯切れが悪い。
『悪意の受益者と認められると、利息も付くんですね』
「通知書に記載したとおり、そうした問題があります」
『それで……』
少し沈黙。
『うちから出した葉書が、あるとか』
「はい」
『九月六日の……』
「そうですね」
黒田は黙り込みました。
きっと今頃。
あの葉書を思い出しているのでしょう。
自分で書いた一文。
――同額の入金がございましたので、確認のうえ改めてご連絡申し上げます。
あれです。
『……先生』
「はい」
『もう、あの百万円は使ってしまっているんです』
「その点については、通知人からの書面に記載されています」
『でも、弁護士には……』
声が、さらに小さくなりました。
『営業経費に使ったからって、現存利益がなくなったとは限らない、と』
所長は黙って聞いています。
『それに、二重払いと知っていたことが認められたら、使ってしまったことでは返還を免れないとも……』
私は思わず相馬先輩を見ました。
先輩は、何も言わずに笑いました。
『七百五条も、難しいそうです』
「そうですか」
『奥さんが、二回払ったと知っていた証拠はないだろうって』
黒田は、大きく息を吐きました。
『……裁判になったら、まずいですよね』
片桐所長は、短く答えました。
「具体的な見通しについては、弁護士にご相談ください。当事務所から代理交渉を行うことはできません」
黒田はしばらく黙りました。
そして。
『……分かりました』
声が震えています。
『百万円、返します』
私は、思わず息を呑みました。
『利息の件も……こちらの弁護士と相談して、本人に回答します』
「承知しました。お返事は通知人ご本人に書面でお願いします」
『はい……』
電話が切れました。
私は勢いよく立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「返すって!」
「ああ」
「百万円!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が笑いました。
「まだだ」
「え?」
「金が戻ってから喜べ」
……。
そうでした。
前にも似たことを言われた気がします。
法律の世界。
返すと言っただけでは、まだお金は戻っていない。
「でも、先輩!」
「何だ」
「顔色、真っ青だったでしょうね!」
「電話だから見えねえよ」
「想像です!」
「くだらねえこと考えてねえで、記録を書け」
「はい!」
私は電話記録用紙を取り出しました。
昭和六十三年。
スマートフォンの録音機能なんてありません。
だから。
いつ。
誰から。
何を言われたか。
一つずつ、紙に残します。
それが、この時代の実務なのです。
◇
十日後。
文江さんが、通帳を抱えて事務所へ来ました。
「先生……!」
声が震えています。
「戻ってきました!」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい!」
通帳には、黒田時計商会からの振込が記載されていました。
百万円。
そして。
別に、利息相当額も振り込まれていました。
文江さんが、涙を拭います。
「黒田さんから、手紙も届きました」
私は受け取りました。
そこには、こう書かれていました。
――本件重複送金に係る金百万円及び利息相当額を返還いたしました。
――今後、本件重複送金について、当社が取得すべき代金その他の権利がある旨の主張はいたしません。
黒田源一。
署名。
押印。
私は、思わず笑いました。
「先輩」
「何だ」
「ハンコ、押してあります」
「ああ」
「今回は、向こうの社長が」
相馬先輩は、にやりとしました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて――」
「書面にハンコを押させた奴が勝つ!」
私が先に言いました。
「お前、俺の台詞取るなよ」
「何回も聞きましたから!」
文江さんが、小さく笑いました。
そして。
急に、深く頭を下げました。
「本当に、ありがとうございました」
「そんな、頭を上げてください!」
「主人の治療費に充てるつもりだったお金なんです」
私は言葉を止めました。
「百万円がなくなったと分かったとき、もうどうしたらいいか分からなくて……」
文江さんの声が震えます。
「主人には、言えませんでした」
「……」
「自分が間違えたんです。自分が悪いんです」
私は首を横に振りました。
「文江さん」
「はい」
「間違えたことと、そのお金を相手が返さなくていいことは、別です」
文江さんが顔を上げました。
「え……?」
「振込を間違えたのは、確かに文江さんです」
「はい……」
「でも、間違いだからといって、相手に百万円をあげることにはなりません」
私は少し笑いました。
「民法は、そこをちゃんと区別しているんです」
文江さんの目から、涙が落ちました。
「……そうなんですね」
「はい」
私は頷きました。
誰だって、間違えます。
勘違いすることもあります。
お金を払いすぎることもあるでしょう。
でも。
間違えた人が、必ずすべての損失を背負わなければならない。
そんな法律ではないのです。
◇
「そういえば」
文江さんが、少し照れたように言いました。
「時計、届いたんです」
「あっ!」
私は顔を上げました。
そうでした。
そもそも。
百万円の懐中時計を買ったことが、事件の始まりです。
「ご主人、喜ばれましたか?」
文江さんは、ゆっくり頷きました。
「ええ」
そして、鞄から一枚の写真を取り出しました。
病室。
窓際の椅子に座った男性。
膝には、小さな木箱。
その手の中に。
銀色の懐中時計がありました。
「右手は、まだうまく動かないんです」
「……はい」
「でも、左手で時計を持って」
文江さんは笑いました。
「耳に当てて、ずっと音を聞いていました」
私は写真を見つめました。
時計の音。
小さな歯車が動く音。
四十年間、時計を直してきた職人にとって。
それは、きっと。
誰よりも親しい音なのでしょう。
「主人が言ったんです」
「何て?」
「いい音だな、って」
文江さんは目を細めました。
「それから、私に」
少しだけ、声が詰まりました。
「お前、無理して買ったんじゃないのか、って」
私は黙りました。
「だから、ちゃんと話しました」
「はい」
「二回払ってしまったことも」
「……はい」
「でも、法律の先生たちが助けてくれて、お金が戻ってきたことも」
文江さんは、小さく笑いました。
「そしたら主人が」
言葉を切って。
「時計ってのは、狂ったら直せばいいんだ、って」
私は息を呑みました。
「人間だって、間違えることはある。だから、直せる仕組みが必要なんだって」
……。
私は、しばらく何も言えませんでした。
時計。
狂ったら、直す。
お金。
間違って渡したら、戻す。
それは。
とても単純なことのように思えます。
でも。
その単純なことを。
当たり前に実現するために。
民法は、何百もの条文を用意しているのです。
◇
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、今日の事件をノートにまとめていました。
「先輩」
「何だ」
「不当利得って、面白いですね」
「また始まったな」
「だって、最初は単純に思ったんです」
「何がだ」
「間違って受け取ったお金は返す。それだけだって」
「うん」
「でも、違いました」
私はノートを開きました。
受益。
損失。
因果関係。
法律上の原因がないこと。
そして。
善意の受益者。
悪意の受益者。
現存利益。
利息。
債務の不存在を知ってした弁済。
「全部、必要な理由があるんですね」
私は言いました。
相馬先輩は煙草をくわえました。
「そりゃそうだ」
「知らずに利益を受けた人と、知っていながら持ち続けた人を、同じようには扱わない」
「うん」
「でも、知らなかったからって、受け取ったお金を全部自由に使っていいわけでもない」
「そうだ」
「しかも、払った側が、義務がないと知っていた場合には、また別の問題になる」
私は鉛筆を止めました。
「……民法って」
「何だ」
「人の心の中まで、考えなきゃいけないんですね」
相馬先輩は笑いました。
「心の中を読むわけじゃねえよ」
「え?」
「行動を見るんだ」
先輩は机の上の葉書を指しました。
黒田が書いた、あの一枚。
――同額の入金がございましたので、確認のうえ改めてご連絡申し上げます。
「何を知っていたかは、言葉だけじゃ分からねえ」
「はい」
「だから、何をしたか、何を書いたか、いつ連絡を受けたかを見る」
「……なるほど」
「法律は、人の心を直接覗けねえからな」
私は頷きました。
そうです。
相手が悪意だったのか。
善意だったのか。
口で何と言おうと、それだけでは決まりません。
客観的な事情を積み重ねる。
帳簿。
葉書。
領収書。
振込記録。
通知書。
そうしたものが、人の認識を推認する手掛かりになる。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今回、何が決め手だった」
私は考えました。
「黒田が、二回目の百万円を受け取る法律上の原因を示せなかったことです」
「うん」
「それから、誤送金だと知っていたと推認できる証拠が残っていたこと」
「そうだ」
「そして、文江さんが、債務がないと知りながら払ったわけではないことも重要でした」
所長が頷きました。
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
所長は最後に、こう言いました。
「こはる」
「はい」
「不当利得の目的は、相手を罰することじゃない」
「……はい」
「法律上の理由なく生じた財産の偏りを、正すことだ」
私は、鉛筆を握り直しました。
なるほど。
悪い人を懲らしめる。
それだけではない。
本来、その人のものであるべき財産を守る。
理由もなく移ってしまった利益を、正しい場所へ戻す。
だから。
不当利得なのです。
◇
帰り支度をしていたとき。
私は、ふと気になって相馬先輩に尋ねました。
「先輩」
「何だ」
「もし、黒田さんが本当に二回目の入金を知らなくて、しかも、そのお金を全部使っていたら、どうなったんでしょう?」
「何に使ったかによるな」
「何に?」
「ああ」
先輩は椅子にもたれました。
「たとえば、いつも払っている家賃や仕入代金に使ったなら、どうだ」
「自分のお金で払うはずのものを払っているので、利益が残っていると考えられます」
「そうだ」
「じゃあ、知らずに受け取って、突然の旅行で全部使っちゃった場合は?」
「普段なら絶対にしなかったような浪費で、財産的利益が何も残っていないと認められるなら、現存利益がないという話になり得る」
「……なるほど」
「ただし、旅行したから必ずゼロってわけじゃねえぞ」
「はい」
私は頷きました。
同じ百万円でも。
事情によって、返還義務の範囲が違う。
善意か悪意か。
利益が残っているか。
そこが重要なのです。
「じゃあ、先輩」
「今度は何だ」
「私が先輩から百万円を間違ってもらったら?」
「返せ」
「即答!」
「当たり前だろ」
「でも、現存利益が――」
「お前は今、間違ってもらったと知ってるじゃねえか」
……あ。
「悪意の受益者ですね」
「そうだ」
「利息も?」
「そういう問題になるな」
「ひええ……」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「法律を知ってる奴が、知らねえふりして得しようとするな」
「しませんよ!」
「だったら、余計なこと考えるな」
「勉強です!」
「お前の勉強は、たまに物騒だな」
私は笑いました。
そして。
ノートの最後に、一行だけ書きました。
――不当利得は「理由なき利益を戻す制度」。知らずに得た利益は現存利益、知って得た利益は利息も問題になる。
今日の教訓。
これなら、忘れません。
◇
窓の外。
昭和の町に、夕暮れが広がっていました。
商店街の時計店。
病室の懐中時計。
そして。
戻ってきた百万円。
そのどれにも。
人の暮らしが結びついています。
百万円。
単なる数字ではありません。
誰かが働いて貯めたお金。
誰かの治療費。
誰かへの贈り物。
誰かの、これからの生活。
間違った場所へ移ってしまったお金が、戻ってきた。
その理由は。
大声で怒鳴ったからでも。
相手を脅したからでもありません。
民法七百三条。
七百四条。
七百五条。
そして、日付の入った紙の証拠。
それらが。
百万円の帰る場所を、示してくれたのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「帰るなら、机を片付けろ!」
「分かりました!」
「六法も戻せ!」
「はい!」
私はノートを閉じました。
そして。
少しだけ、いたずら心が湧きました。
「先輩!」
「何だ!」
「今日、私、残業しましたよね?」
「したな」
「じゃあ、先輩がお菓子を買ってくれてもいいんじゃないですか?」
「何でだよ」
「私の労務によって、事務所に利益が発生しました!」
「は?」
「民法七百三条です!」
相馬先輩は、呆れた顔で私を見ました。
「お前な」
「はい!」
「七百三条の続き、言ってみろ」
「法律上の原因なく、他人の財産または労務によって利益を受け――」
「そうだ」
「……あ」
「お前が見習いとして事務所の仕事をするのには、ちゃんと理由があるだろ」
「……ありますね」
「不当利得じゃねえ」
「ぐっ……!」
私は肩を落としました。
そうでした。
利益を受けた。
損失がある。
それだけでは、不当利得になりません。
法律上の原因がないこと。
そこが大事。
「じゃあ、先輩」
「何だよ」
「お菓子は?」
「自分で買え」
「冷たい!」
「法律を使って菓子をせびるな!」
私は笑いながら、六法を棚へ戻しました。
でも。
今日、ひとつだけ、確信したことがあります。
人は、間違えます。
お金を払いすぎることもある。
振込先を間違えることもある。
誰かの言葉を信じて、損をすることもある。
だからこそ。
間違った財産の移動を、正す仕組みが必要なのです。
知らずに得た人には、事情に応じた公平を。
知っていて持ち続けた人には、相応の責任を。
そして。
間違って失った人には、取り戻すための権利を。
民法は。
お金の持ち主を、間違えたままにはしておかない。
少なくとも。
「もう使ってしまったから返せない」
そんな一言だけで、百万円を奪われるほど。
民法は、薄っぺらい法律ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




