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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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536/701

[民法・事務管理]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 頼まれていないから、払わなくていい。


 その理屈が通るなら。


 世の中から、親切な人はいなくなってしまうかもしれません。


 台風で屋根が壊れた。


 家主は旅行中。


 雨水が家に流れ込んでいる。


 隣人が見かねて修理業者を呼んだ。


 ところが、帰ってきた家主は言いました。


「誰が頼んだ! 修理代なんか払わん!」


 さて。


 この場合、法律は誰の味方をするのでしょうか。


 善意で助けた隣人でしょうか。


 それとも。


 自分の財産を勝手に修理された家主でしょうか。


 答えは、実は単純ではありません。


 民法は、善意だから何でも許すわけではないのです。


 他人のために行動すること。


 他人の財産に勝手に干渉すること。


 この二つの間に、慎重に線を引いています。


 その仕組みこそが。


 ――事務管理。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は、机の上にノートを広げていました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


 そして、今日の見出し。


 ――事務管理。


「……先輩」


「何だ」


「今日の民法、すごく不思議です」


 相馬先輩は新聞から顔を上げました。


「またか」


「だって、契約してないのに、お金を請求できるんですよ?」


「条件を満たせばな」


「しかも、相手から頼まれてもいないんです」


「そうだな」


「なのに勝手に人の名前で契約したら、今度は無権代理になるんです!」


「当たり前だろ」


「その『当たり前』が難しいんです!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、これを完全に理解します!」


「昨日もそう言ってたな」


「昨日は現場です。今日は法理です!」


「便利な言い訳だな」


 奥で帳簿を整理していた片桐所長が、静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……またですか」


 よし。


 本日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、事件を振り返ります!」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 杉浦ハル。


 七十二歳。


 隣人。


 黒田源三。


 六十二歳。


 家主。


 そして、修理業者の瓦屋さん。


「今回、ハルさんは何をしましたか?」


 私が聞くと、相馬先輩が眉を上げました。


「お前が俺に問題を出すのか?」


「復習です!」


「台風で壊れた黒田の屋根を、瓦屋に修理させた」


「正解!」


「偉そうだな」


 私は続けました。


「黒田さんは旅行中でした。連絡も取れませんでした」


「そうだ」


「屋根瓦が飛んで、雨水が家に入り込んでいた」


「うん」


「ハルさんは自分の名で瓦屋に応急修理を依頼しました」


「そうだな」


「修理代は十二万八千円」


「うん」


「ところが黒田さんは、頼んでいないから払わないと主張しました」


 私は鉛筆を止めました。


 ここです。


 この事件で一番大切なのは。


 ハルさんと黒田さんの間に、契約がなかったこと。


「もし黒田さんが、ハルさんに『留守の間、屋根を見ておいてくれ』と頼んでいたら?」


 相馬先輩が言いました。


「その依頼の内容によっては、委任などの契約関係が問題になります!」


「そうだ」


「でも、今回は頼まれていません」


「うん」


「それでも、法律上の関係が生じることがある」


 私は大きく書きました。


 ――事務管理は、契約がなくても成立し得る。


「つまり、事務管理は契約そのものではないんですね」


「そういうことだ」


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「では、何でも勝手にやれば事務管理になるか」


「なりません!」


「なぜだ」


 私はノートをめくりました。


「成立するための条件があるからです!」


 よし。


 ここからが本番です。


 ◇


「事務管理の中心になるのは、民法六百九十七条です!」


 私は六法を開きました。


 ――義務なく他人のために事務の管理を始めた者は、その事務の性質に従い、最も本人の利益に適合する方法によって、その事務の管理をしなければならない。


「ここでまず、登場人物の呼び方が変わります」


 私は二人の名前を囲みました。


 ハルさん。


 ――管理者。


 黒田さん。


 ――本人。


「管理者って、不動産管理会社みたいですね」


「そういう意味だけじゃねえぞ」


「はい」


 管理者とは、義務なく他人の事務を管理する人。


 本人とは、その事務の本来の持ち主です。


「では、事務管理が成立するためのポイントを整理します!」


 私はノートに四つ書きました。


 一つ目。


 法律上の義務がないこと。


 二つ目。


 他人のためにする意思があること。


 三つ目。


 実際に他人の事務を管理すること。


 四つ目。


 本人の意思や利益に明らかに反するものではないこと。


「これが基本です!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、一つずつやってみろ」


「はい!」


 まず。


 法律上の義務がないこと。


 ハルさんには、黒田さんの屋根を修理する法律上の義務はありません。


 隣人だからといって、他人の建物を修理する義務まで負うわけではないからです。


「じゃあ、屋根の修理を請け負った業者はどうだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「その業者は、請負契約によって修理する義務を負います」


「うん」


「だから、契約で約束した工事をすること自体は、普通は事務管理ではありません」


「そうだ」


 次。


 他人のためにする意思。


「これは、他人の利益を図る意思があることです」


 たとえば。


 ハルさんが、黒田さんの建物を守ろうとして瓦屋を呼んだ。


 これは、他人のための行動です。


 でも。


「自分の家の壁を塗り替えるついでに、隣の壁も勝手に塗って、あとから金を請求したら?」


 相馬先輩が聞きました。


「それだけで、当然に費用を請求できるわけではありません」


「何でだ?」


「本当に本人のためだったのか、本人の意思や利益に適合していたのか、確認しないといけないからです」


 そう。


 自分が親切だと思った。


 それだけでは足りません。


 次。


 他人の事務を管理すること。


「今回は屋根の応急修理を手配しました」


「そうだ」


「これは、本来なら建物所有者が対応する事柄ですね」


「うん」


「だから、他人の事務を現実に処理したことになります」


 そして。


 四つ目。


 本人の意思や利益との関係。


 私は鉛筆を止めました。


「……これ、一番難しくありませんか?」


「ほう」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「何でだ?」


「親切だと思っても、本人が望んでいないことがありますよね」


「あるな」


「たとえば、勝手に古い家を壊して、新しい家を建てたら?」


「そりゃ困るだろ」


「ですよね!」


 いくら本人のためだと言い張っても。


 財産の持ち主の意思は無視できません。


 民法六百九十七条二項は、本人の意思を知っているとき、または推知できるときには、その意思に従うよう求めています。


「ただし、先輩」


「何だ」


「本人の意思に反したら、どんな場合でも絶対に事務管理が成立しない、と単純に覚えてはいけませんね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 本人の意思に反する管理についても、民法七百二条三項は、本人が現に利益を受けている限度で費用等の請求を認める規定を置いています。


 つまり。


 本人の意思との関係は、成立や管理の適否、費用償還の範囲を考えるうえで重要です。


 でも、何もかも一律にゼロになるわけではありません。


「法律って、例外まで考えると本当に複雑ですね……」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「だから現場で使うんだよ」


「え?」


「丸暗記だけなら、黒田みたいな奴に『頼んでない』の一言で負けるぞ」


 ……確かに。


 今回の事件。


 黒田さんは、頼んでいないことを盾にしていました。


 でも、事務管理は、まさに頼まれていない場合を想定した制度。


 その事実こそが。


 法律上の検討の出発点だったのです。


 ◇


「次は、緊急事務管理です!」


 私は勢いよくページをめくりました。


 相馬先輩が、にやりと笑います。


「何条だ?」


「民法六百九十八条です!」


「本当か?」


「六百九十八条!」


「六百八十九条じゃなくて?」


「違います!」


 私は大きく胸を張りました。


「もう間違えません!」


「昨日は間違えたけどな」


「過去の失敗を掘り返さないでください!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法六百九十八条・緊急事務管理。


「これは、本人の身体、名誉、財産に対する急迫の危害を避けるために事務管理をした場合です」


「そうだな」


「今回なら、台風で屋根が壊れ、雨水が家に入り込んでいた状況ですね」


 そのまま放置すれば。


 天井が腐る。


 壁が傷む。


 家具も濡れる。


 被害がどんどん広がる。


 そういう危険があった。


「だから、ハルさんは緊急で瓦屋を呼んだんです」


「うん」


「そして、緊急事務管理では、管理者の損害賠償責任が軽減されます」


 私は赤線を引きました。


 ――悪意または重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない。


 相馬先輩が頷きます。


「ここは重要だな」


「はい」


 たとえば。


 火事になりかけた家を助けるため、緊急に消火活動をした。


 その際、やむを得ず窓ガラスを割った。


 そんな場合。


 助けようとした人に、結果だけを見て簡単に損害賠償責任を負わせたら。


 誰も他人を助けられなくなるかもしれません。


「ただし!」


 私は鉛筆を立てました。


「何でも免責されるわけではありません!」


「説明してみろ」


 相馬先輩が言いました。


「悪意、つまりこの場合は故意に損害を生じさせるような場合や、重大な過失がある場合は、保護されません」


「そうだ」


 私は続けました。


「それから、事務管理だから絶対に不法行為にならない、というわけでもありません」


 事務管理として適切な行為なら、他人の財産に手を加えたというだけで、直ちに違法な侵害になるとは限らない。


 しかし。


 管理方法が不適切だったり、必要のない損害を与えたりした場合には、責任を問われることがあります。


 通常の事務管理では、事務の性質などに応じて求められる注意を尽くす必要があります。


「要するに」


 私は言いました。


「民法は、善意の行動を保護するけれど、無責任な行動まで許すわけではないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「ハルさんは、専門の瓦屋を呼んで、必要な応急処置だけを依頼した」


「うん」


「危険な屋根に自分で上がって、無茶な修理をしたわけではありません」


「そうだな」


 だから今回。


 ハルさんの行動には、緊急事務管理として保護される十分な理由があったのです。


 ◇


「さて、ここからが事務管理の本当の怖さです」


 私はノートをめくりました。


 ――民法六百九十九条。


 管理者の通知義務。


「ハルさんは、黒田さんに何度も電話をかけました」


「ああ」


「でも、旅行中で連絡が取れませんでした」


「そうだな」


「それでも修理を始めた」


「うん」


 私は六法を指さしました。


「事務管理を始めた人は、遅滞なく本人に通知しなければなりません」


 ただし。


 本人が既に事務管理の開始を知っている場合は、通知する必要がありません。


「つまり、頼まれていなくても、勝手に何をしたか黙っていていいわけじゃないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ問題だ」


「はい!」


「ハルさんが修理を始めた直後、黒田から電話があったとする」


「はい」


「黒田が『もう知ってる。瓦屋を呼んでくれたんだな』と言った」


「その場合は、既に本人が知っていますから、改めて通知する必要はありません!」


「正解」


「やった!」


「じゃあ、電話も手紙も出さず、黒田が帰ってくるまで一週間黙っていたら?」


「通知義務違反が問題になります」


「そうだ」


 私は頷きました。


 もちろん。


 通知できなかった事情も考慮する必要があります。


 今回のように、旅行先が分からず、通信手段も限られた昭和六十三年。


 連絡を試みた事実は重要です。


「でも先輩」


「何だ」


「連絡できなかったからといって、屋根の穴を一週間放置するのも変ですよね」


「そのとおり」


 相馬先輩が頷きました。


「だから事務管理は、通知だけを見て判断するもんじゃねえ」


 私は鉛筆を走らせました。


 通知すること。


 本人の利益を守ること。


 どちらも大切。


 しかし、急迫した危険があれば、本人の返事を待てない場合もある。


 なるほど。


 ここでも、現場の事情が重要になるのです。


 ◇


「そして、次は民法七百条!」


 私はページをめくりました。


 ――事務管理の継続義務。


「これ、少し不思議です」


「何がだ」


「頼まれてもいないのに始めたことを、途中で投げ出してはいけない場合があるんですよね?」


「そうだ」


「親切で始めただけなのに?」


「そうだ」


「……大変じゃないですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、お前に問題だ」


「はい!」


「ハルさんが瓦屋を呼んだ。屋根の穴を塞ぐ作業が始まった」


「はい」


「そこでハルさんが急に言った。『もう面倒だから、あとは知りません』」


「……」


「瓦屋への連絡もせず、現場を放置した」


「それは困ります!」


「だろ?」


 私は頷きました。


 管理を始めたことで、本人や関係者が、その管理を前提に動き始めることがあります。


 だから、途中で勝手に放り出せば、かえって本人に損害を与えるかもしれません。


「民法七百条は、原則として、本人またはその相続人、法定代理人が管理できるようになるまで、事務管理を継続することを求めています」


「うん」


「でも例外もあります」


 私は赤線を引きました。


 ――継続が本人の意思に反し、または本人に不利であることが明らかな場合。


「この場合は、継続義務がありません」


「そうだ」


 たとえば。


 黒田さんが旅行先から帰ってきた。


 自分で屋根の修理を手配できるようになった。


 そして、


「ここから先は私が管理する」


 と言った。


「だったら、ハルさんがいつまでも勝手に工事を指図する必要はありません」


「そうだな」


「むしろ、続けたら問題になる場合もありますね」


 所長が頷きました。


「本人のために始めた管理だからな」


「はい」


「管理者自身が、いつまでも主導権を握るための制度ではない」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 事務管理は、他人の財産を自分のもののように扱う権利ではない。


 あくまでも。


 本人の利益のために行う、例外的な管理なのです。


 ◇


「次は、いよいよお金です!」


 私はノートの真ん中に、大きく書きました。


 ――民法七百二条。


 費用償還請求。


「ここが、ハルさんの事件の決定打でしたね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きます。


「まず、ハルさんが修理代十二万八千円を自分で支払っていたら、どうなる?」


「本人のために有益な費用を支出した場合ですから、民法七百二条一項に基づいて、費用の償還を請求できます!」


「正解」


 私は勢いよく書きました。


 ――支出済みなら、償還請求。


「でも、ハルさんはまだ払っていませんでした」


「そうだ」


「修理業者に対して、支払債務を負担した状態でした」


「うん」


「だから、七百二条二項が重要になるんですね!」


 民法七百二条二項。


 民法六百五十条二項の準用。


 私はノートに書き加えました。


 ――有益な債務を負担した場合、本人に対して、自分に代わって弁済するよう請求できる。


 これです。


 今回の事件では、ハルさんはまだ修理代を支払っていません。


 ただし。


 自分の名前で瓦屋に工事を頼み、十二万八千円を支払う義務を負っていた。


 そこで。


 黒田さんに対し、ハルさんに代わって修理業者へ支払うことを求めた。


「所長!」


「何だ」


「払った場合と、まだ払っていない場合で、使う規定が違うんですね!」


「そうだ」


「これ、試験でひっかけられそうです!」


 相馬先輩が笑いました。


「お前は何でも試験の問題にするな」


「受験生ですから!」


「じゃあ、もう一問」


「はい!」


「ハルさんが十二万八千円払ったあと、黒田に『十八万円返せ』と言ったら?」


「駄目です!」


「なぜだ」


「事務管理だからといって、好きな金額を請求できるわけではありません。本人のために有益な費用だったか、支出額がどうだったかが問題になるからです!」


「そうだ」


 私は続けました。


「それに、事務管理をしたというだけで、報酬を請求する権利が発生するわけでもありません」


 相馬先輩が頷きました。


「そこも忘れるなよ」


 今回、ハルさんは修理代の負担から解放されました。


 でも。


 深夜に電話をかけた苦労代。


 心配した精神的な負担。


 人助けをしたお礼。


 そうしたものについて、事務管理だから当然に報酬を請求できるわけではありません。


「つまり」


 私は言いました。


「事務管理は、善意を利用して利益を得るための制度ではないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「でも、他人のために負担した有益な費用まで、全部自己負担にするのも不公平」


「うん」


「だから、費用償還請求がある」


 私は、ようやく納得しました。


 この法律。


 誰かを助けたらご褒美がもらえる、という制度ではありません。


 必要な人助けによって生じた費用を、誰が負担するのが公平なのか。


 それを考える制度なのです。


 ◇


「ただし!」


 私は赤鉛筆を持ち直しました。


「ここで、もう一つ大切な問題があります!」


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「本人の意思に反して事務管理をした場合です!」


 私は民法七百二条三項を開きました。


 管理者が本人の意思に反して事務管理をしたときは、本人が現に利益を受けている限度において、費用償還等の規定を適用する。


「これ、難しいですよね」


「そうだな」


 たとえば。


 本人が明確に、


「その倉庫は修理しないでくれ。来週取り壊す予定なんだ」


 と伝えていたとします。


 それなのに隣人が、


「いや、修理してあげた方が親切だ!」


 と言って、勝手に高額な工事をした。


「その修理費を全部請求されたら、本人は困りますよね」


「当然だ」


「しかも、来週取り壊すなら、修理による利益はほとんど残らないかもしれません」


 私は頷きました。


 本人の意思を無視してまで行動した管理者を、無条件に保護するわけにはいかない。


 だから。


 本人が現に利益を受けている限度。


 この制限があるのです。


「でも今回の黒田さんは?」


 相馬先輩が聞きました。


「修理を拒絶する意思が事前に明らかだったわけではありません」


「うん」


「しかも、屋根の応急処置によって、実際に被害の拡大を防ぐ利益を受けています」


「そうだ」


「だから、『頼んでない』だけで、費用負担を全部拒絶するのは難しかったんですね」


「そのとおり」


 私は、大きく丸をつけました。


 ――本人の意思と、現に受けた利益を確認する。


 これも、忘れてはいけないポイントです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「いよいよ、一番間違えやすいところだな」


「……来ましたね」


 私は身構えました。


「事務管理と代理です!」


「ああ」


 相馬先輩が机の上に三枚の紙を置きました。


 一枚目。


 ハル。


 二枚目。


 黒田。


 三枚目。


 瓦屋。


「じゃあ、こはる」


「はい」


「ハルさんが自分の名で瓦屋と契約した場合、修理代を払う契約上の義務を負うのは誰だ?」


「ハルさんです!」


「そうだ」


 相馬先輩が、ハルと瓦屋の間に線を引きました。


「これは契約上の関係だ」


「はい」


「じゃあ、事務管理による費用負担の関係は?」


「ハルさんと黒田さんの間です!」


「正解」


 先輩は、ハルと黒田の間に別の線を引きました。


 二本の線。


 私は、それを見つめました。


「なるほど……」


 同じ修理工事なのに。


 法律関係が二つある。


 一つは。


 修理業者との契約。


 もう一つは。


 事務管理者と本人との関係。


 ここを混同すると、結論を間違えます。


「では、次だ」


 相馬先輩が言いました。


「ハルさんが、黒田の代理人だと名乗って瓦屋と契約していたら?」


「……無権代理が問題になります」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――本人の名でした契約でも、事務管理だけでは本人に効果が帰属しない。


「これは、昭和三十六年十一月三十日の最高裁判決ですね」


「ああ」


 私は判例集を開きました。


 最高裁判所は、事務管理者が本人の名で法律行為をしても、その効果は当然には本人に及ばないと判断しています。


 本人に契約の効果を帰属させるには、代理その他の別個の法律関係が必要になる。


 ここが核心です。


「つまり」


 私は言いました。


「他人のために行動したことと、他人の代理人になる権限があることは違う!」


「そうだ」


「本人の名で契約しても、勝手に本人を契約当事者にできるわけではない!」


「そのとおり」


 私は鉛筆を握りしめました。


「これ、すごく重要ですね!」


 たとえば。


 隣人が留守中の家を守ろうとして、修理業者にこう言ったとします。


「私は家主の代理人です。代金は家主に請求してください」


 しかし。


 家主から代理権を与えられていなかった。


 表見代理も成立しない。


 家主による追認もない。


 そんな場合。


 事務管理が成立するからといって、修理業者との契約の効果が当然に家主へ帰属するわけではありません。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「もし黒田さんが、あとからその代理契約を追認したら?」


「その場合は、無権代理行為の追認として、契約の効果が本人に帰属し得る」


「ですよね!」


 私は頷きました。


 そうです。


 代理権がなかったから、絶対に本人に効果が帰属しない。


 というわけではありません。


 本人が追認すれば、別の結論になり得ます。


 また。


 表見代理の要件を満たす場合にも、本人に法律効果が帰属する可能性があります。


 ただし、それらは事務管理とは別の仕組みです。


「だから、事務管理の成立と代理権の有無を、きちんと分ける必要があるんですね」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――事務管理は、代理権を生まない。


 そして、その下にもう一行。


 ――自己名義の契約なら、管理者自身が契約当事者となる。


「……よし!」


 私は拳を握りました。


「これで、ようやく頭の中が整理されました!」


 相馬先輩が笑いました。


「やっとか」


「やっとです!」


 この違い。


 試験問題で読むと、似たような文章に見えます。


 でも。


 ハルさんの顔を思い出せば、忘れません。


 自分の名で修理を頼んだ。


 自分で支払義務を負った。


 それでも、黒田さんに対して費用負担を求めることができた。


 事務管理と代理。


 それぞれの役割が、まったく違うのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「昭和六十三年と、今のお前が知っている民法はどう違う?」


 ……来ました。


 時代錯誤チェック。


 私は少し考えました。


「今回の事務管理については、基本となる条文や仕組みに、大きな違いはありません」


「そうか」


「はい!」


 私は勢いよく続けました。


「でも、民法全体で見ると、現代では大きな改正が行われているんです!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「また未来の話か」


「少しだけです!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 民法の債権法には、古い用語や複雑な制度が数多く残っている。


 現代。


 債権法の大改正によって、契約不適合責任や消滅時効などの規律が見直されている。


「たとえば、昔は瑕疵担保責任と呼んでいた制度が、現代では契約不適合責任という形で整理されています」


「なんだ、その言葉は」


 相馬先輩が言いました。


「だから未来の話です!」


「今の仕事に持ち込むなよ」


「分かってます!」


 私は笑いました。


 でも。


 事務管理は少し違います。


 契約不適合責任のように、制度の骨格が大きく組み替えられたわけではありません。


 民法六百九十七条から七百二条までの基本的な仕組みは、昭和六十三年と現代で共通する部分が大きい。


「どうしてでしょうね」


 私は呟きました。


 片桐所長が静かに言いました。


「法律が必要としている問題が、昔から変わらないからだろう」


「……え?」


「隣人が困っている。本人は不在だ。誰かが助けなければならない」


 所長は窓の外を見ました。


「そういうことは、いつの時代にも起こる」


 私は黙りました。


 確かに。


 明治でも。


 昭和でも。


 令和でも。


 台風は来る。


 火事も起きる。


 突然、人が倒れることもある。


 そして。


 誰かが、頼まれる前に手を差し伸べることがある。


「……なるほど」


 私は鉛筆を握りました。


「時代が変わっても、人助けと財産権の調整は必要なんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 民法は、時代によって変わる。


 でも。


 人と人の公平を図るという根本的な考え方は、長く受け継がれている。


 今回は、そこがよく分かりました。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「最後に確認問題だ」


「望むところです!」


「第一問」


「はい!」


「頼まれていないのに、他人のために必要な事務を処理した。何が問題になる?」


「事務管理です!」


「第二問。根拠条文は?」


「民法六百九十七条!」


「第三問。台風で屋根が壊れ、急迫した危険を避けるために応急修理をした」


「緊急事務管理! 六百九十八条です!」


「第四問。管理を始めたら、本人に何をしなければならない?」


「原則として、遅滞なく通知します! 六百九十九条です!」


「第五問。本人が自分で管理できるようになるまで?」


「原則として事務管理を継続します! 七百条です!」


「第六問。管理者が本人のために有益な費用を支出したら?」


「七百二条一項で、費用償還請求です!」


「第七問。有益な債務を負担した場合は?」


「七百二条二項、六百五十条二項の準用で、自分に代わって弁済するよう請求できます!」


「第八問。本人の意思に反して管理した場合は?」


「本人が現に利益を受けている限度で、費用償還等が認められます!」


「第九問。本人の名前で契約したら、事務管理だけで当然に本人に効果が帰属するか?」


「しません!」


「理由は?」


「事務管理は、管理者と本人との関係であって、代理権を当然に生じさせる制度ではないからです!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


「やった!」


 ところが。


 所長が、最後の問題を出しました。


「こはる」


「はい!」


「ハルさんが黒田さんの屋根を修理して、黒田さんが利益を受けた」


「はい」


「なら、どんな修理費でも全額請求できるか」


 私は即答しかけました。


 でも。


 止まりました。


 ……違う。


「できません」


「なぜだ」


「本人のために有益な費用だったか、管理方法が適切だったかなどを検討する必要があります」


「うん」


「本人の意思に反する管理なら、現に利益を受けている限度という制限もあります」


「そうだ」


「だから、事務管理が成立したというだけで、あらゆる費用を無制限に請求できるわけではありません」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は胸を撫で下ろしました。


 危なかった。


 丸暗記だけなら。


 事務管理成立。


 費用請求できる。


 それで終わっていたかもしれません。


 でも。


 実際の事件では、それでは足りません。


 何のために行動したのか。


 どんな利益があったのか。


 本人の意思はどうだったのか。


 誰が誰と契約したのか。


 そして、どんな費用を負担したのか。


 一つずつ整理する必要があるのです。


 ◇


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 事務管理。


 最初は、少し変わった制度だと思っていました。


 頼まれていないのに、他人のために行動する。


 それだけで法律関係が生じる。


 何だか、不思議です。


 でも。


 ハルさんの事件を思い出すと、全部つながります。


 台風。


 屋根の破損。


 旅行中の家主。


 十二万八千円の修理代。


 そして。


「頼んでない!」


 と怒鳴った黒田さん。


 私はノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――事務管理は「頼まれずに助けること」、費用償還は「公平な負担」、代理権は「別問題」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 法律は。


 人助けをした人に、何でも好き勝手にしていいと言っているわけではない。


 一方で。


 助けられた人に、何の負担もしなくていいと言っているわけでもない。


 その間に。


 事務管理という制度がある。


 助ける側の善意。


 助けられる側の財産権。


 そして。


 どちらにも不公平が生じないようにするための仕組み。


 そう考えると。


 民法六百九十七条から七百二条までの条文が、急に身近になりました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「そのノート、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、ちょっと頼みがある」


「……何ですか?」


「俺の机の上、整理しといてくれ」


 ……。


 私は、ゆっくり顔を上げました。


「先輩」


「何だ」


「それは事務管理ではありません」


「ほう」


「先輩が、私に頼みましたから」


「そうだな」


「だから、事務管理の『義務なく他人のために』という場面とは違います!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、頼まなかったことにする」


「え?」


「俺は何も頼んでねえ。お前が親切心で片付けてくれ」


「そんな都合のいい話がありますか!」


「他人のためだろ?」


「本人の意思を尊重する必要があります!」


「俺は片付けてほしいぞ」


「……!」


 私は言葉に詰まりました。


 そこへ、片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「書類整理は、今日の業務だ」


 ……。


 私は固まりました。


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「先輩!」


「何だ!」


「それじゃあ、事務管理じゃないじゃないですか!」


「そうだよ」


「じゃあ、今日勉強したことが使えません!」


「仕事に使うな!」


 ……なるほど。


 民法は、何でも自分に都合よく使える魔法ではないようです。


 私は渋々、机の上の書類を揃え始めました。


 そのとき。


 片桐所長が、ぽつりと言いました。


「こはる」


「はい?」


「杉浦さんのような人が、また誰かを助けられる世の中であってほしいな」


 私は手を止めました。


 所長は帳簿を閉じました。


「善意が、いつも報われるとは限らない」


「……はい」


「だが、善意だけを理由に損を押しつけられるのも、おかしな話だ」


 私は頷きました。


 あの台風の夜。


 ハルさんは、誰かに褒められたくて屋根を修理したわけではありません。


 報酬が欲しかったわけでもない。


 ただ。


 隣の家が壊れていくのを、見ていられなかった。


 それだけです。


 そして。


 法律は、その行動を正しく評価するための道筋を用意していた。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――事務管理は「頼まれずに助けること」、費用償還は「公平な負担」、代理権は「別問題」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで、書類を片付けろ!」


「今、学習内容を復習してたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私が先輩の机を勝手に片付けて、書類をなくしたらどうなると思います?」


「お前の責任だ!」


「ですよね!」


「だったら、なくすな!」


「はいっ!」


 私は笑いながら書類を揃えました。


 窓の外。


 夕暮れの町には、家々の明かりが灯っています。


 あのどこかで。


 ハルさんは、また誰かのために手を差し伸べているのかもしれません。


 頼まれていなくても。


 契約がなくても。


 助けなければならない瞬間が、人にはある。


 事務管理。


 名前は地味です。


 試験では、条文番号や要件が少し面倒です。


 でも。


 その奥にある考え方は、とても人間らしい。


 私はそう思いました。


 法律は、人に親切を強制するものではありません。


 けれど。


 誰かが勇気を出して他人を助けたとき。


 その行動を、ただの「勝手なこと」で終わらせない仕組みがある。


 それが、事務管理です。


 そして。


 私は今日、もう一つ確信しました。


 民法は、契約書があるときだけ人を守る法律ではない。


 契約書がなくても。


 ハンコがなくても。


 約束が交わされていなくても。


 人と人の間には、守るべき公平が生まれることがあるのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり民法って、面白いですね!」


「面白がってる暇があったら仕事しろ!」


「はいっ!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も私は、法律の条文の向こうにある、人の暮らしを学んでいます。


 ただし。


 頼まれていない親切と。


 頼まれた仕事は。


 きちんと区別しなければならないようです。


 残念ながら。


 事務管理をどれだけ勉強しても、相馬先輩の机の整理から逃れることはできないのでした。

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