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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政立法

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[行政立法]現場編 「省令に書いてあるから、法律と同じです」の罠。法律を埋める命令と、法律を勝手に増やす命令

挿絵(By みてみん)

 法律は、ときどき肝心なところで「細かいことは後で」と言います。


 その「後で」を誰が決めるのか。


 そこを雑にすると、法律より下にいるはずのルールが、いつの間にか法律より偉そうな顔をし始めます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所の朝は、今日も電話のベルと紙の山から始まりました。


「朝比奈。これ、市役所へ持ってけ」


 相馬先輩が茶封筒を投げてよこします。


「おはようございますの前に仕事を投げる文化、廃止しません?」


「おはよう」


「順番!」


「これで文句ないだろ」


「そういう問題じゃありません」


 私は封筒の宛名を見ました。


 建築指導課。


 中身は駅前再整備に絡む仮設店舗の確認資料らしい。


 このところ、この町では駅前の工事話が増えています。


 道路を広げる。


 商店街を整える。


 観光客を呼ぶ。


 行政の書類だけ見ていると、未来はだいたい明るい。


 ただし、その未来の下敷きになる人たちは、あまり明るい顔をしていません。


「ついでに倉田係長のところ寄ってこい」


「また倉田係長ですか」


「向こうもたぶん同じこと思ってる」


 それは申し訳ない。


 最近、私は市役所へ行くたび、倉田係長の眉間の皺を一本ずつ増やしている気がします。


 そんな会話をしていたときでした。


 入口の引き戸が勢いよく開きました。


「先生、これ、どういうことですか」


 入ってきたのは、四十代くらいの男性でした。


 作業着姿。


 日に焼けた顔。


 手には折りたたまれた紙。


 そして、かなり困った人特有の、怒るべきなのか泣くべきなのか決めかねている表情をしています。


 片桐所長が奥から出てきました。


「どうされました」


「大西です。大西工務店の」


「ああ」


 所長はすぐ分かったようでした。


 大西工務店。


 町で親子二代続く小さな建築業者です。


 以前、建設業許可の更新を片桐事務所で手伝ったことがあるらしい。


 大西さんは紙を机の上へ置きました。


「昨日、市役所で言われたんです」


「何を」


「駅前の仮設店舗の仕事、うちじゃ受けられないって」


 相馬先輩の目が細くなります。


「理由は?」


「それが、これです」


 紙を広げる。


 市役所の建築指導課から渡された説明文でした。


 駅前仮設店舗整備事業に関する施工業者の取扱いについて。


 以下の条件を満たす施工業者に限り、市施策に関連する仮設店舗建設への参入を認める。


 一、過去五年間に市発注工事の実績が三件以上あること。


 二、市内に本店を有する法人であること。


 三、常勤従業員を十名以上有すること。


 私は一度読みました。


 もう一度読みました。


「……大西さんのところは?」


「市内です。ずっと市内です。でも法人じゃない。親父の代から個人でやってます。職人も俺入れて六人です」


「市の工事実績は?」


「一件だけです」


 全部外れている。


 きれいなくらい全部です。


「この条件、何の条件なんですか?」


 私が尋ねると、大西さんは首を振りました。


「それが分からんのです。役所では『新しい基準です』って」


「条例ですか?」


「知らんです」


「法律ですか?」


「そんなことまで聞けませんよ」


 大西さんは苦笑しました。


 その笑い方が、ちょっと痛かった。


「こっちは仕事を回してもらう立場ですからね。役所に細かいこと言って、面倒な業者と思われたくない」


 ああ。


 これです。


 役所と住民が対等じゃなくなる瞬間。


 法律上どうかとは別に、現実では相手に嫌われたくない。


 許可をもらう。


 仕事をもらう。


 申請を見てもらう。


 だから、聞きたいことがあっても聞けない。


 書面に「新しい基準です」と書いてあれば、たいていの人はそこで止まります。


「で、問題はこっからなんです」


 大西さんが続けました。


「俺も納得できなくて、担当の人に聞いたんです。『そんな条件、前からありましたか』って」


「ええ」


「そしたら、『省令の考え方に合わせたものです』って」


 私の頭の中で、何かが引っかかりました。


「省令?」


「そう言ってました」


 相馬先輩が紙を取り上げます。


「何の省令だ」


「建設省の何とかだとか」


「紙には?」


「書いてありません」


 嫌な感じがします。


 とても嫌な感じです。


 省令。


 政令。


 規則。


 行政立法。


 昨夜までだったら、試験テキストの中で私を眠らせる四天王でした。


 でも今、その一つが大西さんの仕事を止めています。


 眠気どころじゃありません。


 私は説明文の最後まで目を通しました。


 法令名なし。


 条文番号なし。


 根拠規定なし。


 ただ、


 「関係法令および国の指導方針を踏まえ」


 とあるだけです。


「所長」


「うん」


「これ、省令そのものじゃないですよね」


 大西さんがこちらを見ます。


 相馬先輩も見る。


 片桐所長だけは、私の先を待っていました。


「続けろ」


「だって、省令そのものなら、省令名とか条文が出るはずです。これは市が作った条件です」


「そうだな」


「それなのに担当者は、“省令の考え方”って言った」


 私は紙を指で押さえました。


「たぶん、ここを分けないとまずいです」


「何を」


「国が法律を実施するために細かいルールを決めたものと、市が勝手に新しい参入条件を作ったものです」


 大西さんが首を傾げます。


「同じじゃないんですか」


「そこが、たぶん同じじゃないんです」


 言ってから、私は少し不安になりました。


 たぶん。


 今の私は、そこまでしか言えません。


 でも引っかかりはある。


 法律がある。


 その法律を実施するために政令や省令がある。


 そこまでは分かる。


 でも、だからといって、役所が


 「省令の考え方を踏まえて」


 という一言で、市民に新しい条件を好き勝手に足せるのか。


 そこは別問題でしょう。


「市役所行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「またですか」


「今日はお前から言い出した」


「最近その理屈で全部同行させられてません?」


 片桐所長も立ちました。


「大西さん。市役所へ確認します」


「先生」


 大西さんが少し身を乗り出しました。


「役所と喧嘩にはしないでくださいよ」


「しません」


 所長は短く言いました。


「喧嘩と確認は違います」


 その一言で、大西さんの肩が少し下がりました。


 市役所の建築指導課へ着くと、案の定、倉田係長がいました。


 私たちを見るなり、眉間に一本増えました。


「今日は何ですか」


「その言い方、もう定期訪問みたいになってません?」


「朝比奈さんが来ると、仕事が増えるんですよ」


「私のせいですか?」


「だいたい」


 否定できないのが悔しい。


 相馬先輩が大西さんの紙をカウンターへ置きました。


「これ」


 倉田係長の顔が変わりました。


「ああ……」


「知ってるんですね」


「駅前再整備関係の施工業者基準です」


「何に基づく?」


 相馬先輩は今日も直球です。


「駅前再整備は、市として安全性と施工能力を重視していまして」


「理由じゃない。根拠」


「……またそれですか」


 係長が私を見ました。


「今回はあなたですか」


「今回はまだ何も言ってません」


「顔がもう言ってる」


 どういう顔ですか。


 でもまあ、言いますけど。


「この三条件、条例ですか」


「違います」


「規則ですか」


「市の規則ではありません」


「国の省令に、そのまま書いてありますか」


「……そのままではありません」


 はい。


 少しずつ輪郭が出てきました。


 相馬先輩が腕を組みます。


「じゃあ何だ」


 倉田係長は一瞬、奥を見ました。


「国から、施工体制の適正化について通知が来てまして」


「通知?」


「ええ。その中で、一定の施工能力や組織体制を確保するように、と」


「それを市で具体化した?」


「そうです」


「法人限定、従業員十人以上、市工事三件以上に?」


「安全な事業のためには必要です」


 私は思わず口を挟みました。


「その三つ、本当に国の省令に書いてあるんですか」


「だから、省令や通知の趣旨を踏まえて――」


「趣旨じゃなくて」


 自分でもびっくりするくらい、声が出ました。


 倉田係長が黙ります。


 私は少しだけ息を整えました。


「すみません。でも、大西さんは昨日、“省令に合わせた基準だから仕方ない”みたいに説明されています」


「担当者の説明は確認します」


「もし省令そのものに書いてあるなら、その条文を示してほしいです」


「……」


「書いてないなら、市が別に作った基準ですよね」


 倉田係長の眉が動きました。


「市の裁量で一定の基準を設けること自体が、直ちにおかしいとは言えません」


 なるほど。


 そこは逃げませんか。


 確かにそうです。


 市が事業者選定の基準を持つことそれ自体が、全部駄目とは限らない。


 でも。


「だったら、なおさら分けて説明しないと駄目じゃないですか」


「何をです」


「国の法令で決まっている部分と、市が政策上決めた部分です」


 私は机の上の紙を指しました。


「今の説明だと、全部まとめて“省令の考え方”に見えます」


 相馬先輩が横から入ります。


「もっと言えば、国が決めたルールみたいな顔をさせてる」


「そんな意図では」


「意図の話はしてない」


 相馬先輩、容赦がない。


「受け取った業者がどう思うかだ」


 倉田係長は黙りました。


 そこで片桐所長が口を開きました。


「係長」


「はい」


「確認したいのは三つです」


 短い。


 いつもの所長です。


「まず、法令上、大西工務店のような個人事業者が、この種の工事を行うこと自体が禁止されているのか」


「……禁止まではされていません」


「次に、従業員十人以上という要件が、法令上定められているのか」


「いえ」


「市工事三件以上は」


「それも法令上の要件ではありません」


 はい。


 三つとも出ました。


 大西さんの顔が変わります。


「じゃあ、昨日の話は何だったんです?」


「大西さん」


 倉田係長が向き直ります。


「説明が不十分だった点は申し訳ありません。ただ、市としては駅前事業ですから、一定の施工能力を確認する必要があるんです」


「それは分かりますよ」


 大西さんの声は静かでした。


「俺だって、誰でもやらせろなんて言ってない」


 手の甲が少し震えています。


「でも、“法律みたいなもんだから無理です”って言われたら、こっちは帰るしかないでしょう」


 その一言で、場が静かになりました。


 大西さんは怒鳴りませんでした。


 だから余計に重かった。


「うちは六人しかいません」


 彼は続けました。


「法人でもない。市の仕事も一件しかない。でも、店舗も住宅も二十年以上やってきた。去年の台風で商店街の屋根直したのも、うちです」


「……」


「それでも市の仕事に向かないなら、そう言ってくれればいい。でも、“省令で決まってます”みたいに言われたら、腕が悪いかどうか以前に入口にも立てないじゃないですか」


 私は、昨日まで文字で見ていた「行政立法」という言葉を思い出していました。


 法律。


 政令。


 省令。


 規則。


 訓令。


 通達。


 全部、同じような紙の言葉です。


 でも、その紙一枚で人を止められる力は、同じじゃない。


 そこを混ぜた瞬間。


 行政の説明は、とても強くなります。


 強くなりすぎます。


「係長」


 私は言いました。


「この基準、誰が決めたんですか」


「市の駅前再整備連絡会議です」


「正式な決裁は?」


「部長決裁です」


「いつから?」


「先月です」


「公表は?」


「関係業者には窓口で配布しています」


 相馬先輩が呆れたように息を吐きます。


「それで“新しい基準です”か」


「必要な基準です」


「必要かどうかと、法令上の義務かどうかを混ぜるな」


 倉田係長の顔が少し険しくなりました。


「では、あなた方は市に基準を設けるなと言うんですか」


「言ってません」


 私が答えました。


「むしろ、基準を作るなら、その正体を書いてほしいんです」


「正体?」


「何に基づくのか」


 私は紙を持ち上げます。


「法律が直接求めている条件なのか」


 一つ。


「法律から委任を受けた政令や省令が定めている条件なのか」


 二つ。


「それとも、市が内部の判断基準として設けた条件なのか」


 三つ。


「それで、大西さんの側から見える景色が全然違います」


 倉田係長が、少し黙りました。


 所長が言います。


「法令上の義務なら、こちらは条文を確認する」


「はい」


「市独自の基準なら、その必要性と適用方法を確認する」


「……はい」


「違うものを同じ顔で出すから揉める」


 短い。


 そして逃げ道がない。


 倉田係長は大西さんの紙をもう一度見ました。


「確かに……この書き方では、全部が法令上の要件に見えますね」


 認めた。


 私は内心で小さく拳を握りました。


 でもまだ終わりじゃありません。


「それと」


 片桐所長が続けます。


「大西工務店は、現時点で排除が確定しているんですか」


「この基準をそのまま適用すれば、対象外です」


「例外や代替確認は」


「ありません」


「それは、市が自分で決めた運用ですね」


「……そうなります」


「なら、少なくとも法令だから変更不能、という説明はやめた方がいい」


 倉田係長はしばらく考え込みました。


 役所にも事情はあるのでしょう。


 駅前再整備。


 安全性。


 工期。


 事故が起きたときの責任。


 知らない業者を入れたくない。


 実績のある法人の方が管理しやすい。


 その気持ちは分かります。


 分かるからこそ、雑に「法律です」で固めてはいけない。


 役所の都合は、役所の都合として説明しなければならない。


「分かりました」


 倉田係長が言いました。


「今日中に担当課で確認します」


 相馬先輩がすぐ返します。


「何を」


「まず説明文です。法令上の要件と、市独自の選定条件を分けます」


「それから?」


「基準自体も、必要性を再確認します」


 大西さんが顔を上げました。


「それで、うちも候補に入れるんですか」


「今ここで約束はできません」


 倉田係長は首を振ります。


「ただ、従業員十人未満だから法令上駄目、法人でないから省令上駄目、という話ではありません」


 大西さんは、ゆっくり息を吐きました。


「それだけでもいいです」


「いいんですか」


 思わず私が聞くと、大西さんは苦笑しました。


「仕事取れると思って来たわけじゃないですよ」


「……」


「最初から勝てる話じゃない。大きな会社も来てる。でも、法律で門前払いなのか、市の判断で落とされるのかは違うでしょう」


 はい。


 違います。


 ものすごく。


「市の判断なら」


 大西さんは続けました。


「うちの実績を持っていって、見てくれって言える」


 その瞬間。


 私はようやく、今日の事件が何だったのか分かりました。


 大西さんが欲しかったのは、


 特別扱いでも。


 必勝でも。


 役所を屈服させることでもない。


 入口です。


 話をする入口。


 法律上無理だから終わり。


 ではなく、


 市が決めた基準なら、その理由を聞ける。


 必要なら見直しを求められる。


 自分たちの実績を出せる。


 同じ「駄目です」でも、その後ろにあるものが違えば、次にできることも違う。


 市役所を出ると、大西さんは階段の途中で立ち止まりました。


「先生」


「はい」


 所長が振り返ります。


「ありがとうございます」


「まだ仕事は取れてません」


「分かってます」


 大西さんは笑いました。


「でも昨日は、もう終わったと思ってたんで」


 外はまだ明るい。


 駅前では工事車両が行き交っています。


 再開発予定地には、古い商店の看板が並び、その向こうで新しい道路の測量杭が立っていました。


 新しくする人。


 残る人。


 入りたい人。


 選ぶ人。


 街が変わるときには、誰かが必ずルールを作ります。


 そしてルールを作る人は、ときどき忘れます。


 その一本の線の外側に、生活している人がいることを。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「ぼーっとすんな」


「今ちょっと行政法がつながりかけてたんです」


「歩きながらやれ」


「事故りますよ」


「行政法より道路交通法を守れ」


「それは正しい」


 事務所へ戻って一時間ほどしたころ、市役所から電話が入りました。


 嫌な予感と良い予感が半々です。


「片桐行政書士事務所です」


『倉田です』


「お疲れさまです」


『朝比奈さんですか』


「はい」


『……やっぱりあなたか』


「何ですかその反応」


『説明文、差し替えることになりました』


 思わず背筋が伸びました。


「本当ですか」


『“関係法令等を踏まえた基準”という書き方はやめます』


「どう書くんです?」


『法令上必要となる資格や許可と、市が事業者選定上設けた評価基準を分けます』


「いいですね」


『まだあります』


「はい」


『従業員十人以上と市工事三件以上については、絶対条件から外す方向です』


「え」


『施工実績、資格者の配置、工期対応能力などを個別に確認する形にできないか、上と相談しています』


 そこまで動いたんですか。


『ただし、誰でも参加できるという意味じゃありません』


「分かってます」


『大西工務店にも、実績資料を出してもらってください』


「はい!」


 思わず声が大きくなりました。


 相馬先輩がこちらを見る。


 電話の向こうで倉田係長が少し笑いました。


『元気ですね』


「今日は仕事した感じがするので」


『仕事を増やされた感じはしますけどね、こっちは』


「すみません」


『まあ』


 一拍。


『今回の紙は、こちらも雑でした』


 それだけ言って、倉田係長は電話を切りました。


 私は受話器を置きます。


「どうだった」


 相馬先輩が聞きます。


「大西さん、実績資料を出せることになりました」


「ほう」


「あと、十人以上と市工事三件以上は絶対条件から外す方向です」


「やるじゃねえか、倉田」


「そこは係長を褒めるんですね」


「直したやつは褒める」


 相馬先輩、口は悪いけど、このへんは公平です。


 夕方、大西さんがもう一度事務所へ来ました。


 電話で事情を伝えたら、十分もしないうちに飛んできたのです。


 そして紙袋を持っていました。


「これ、嫁からです」


「何ですか」


「たい焼き」


 私は思わず相馬先輩を見ました。


「先輩」


「何だ」


「今回は一人一個ですよ」


「まだ何もしてねえ」


「前科があります」


「団子は時効だ」


「短すぎる」


 大西さんが笑いました。


 朝に来たときとは、ずいぶん違う顔でした。


「朝比奈さん」


「はい」


「俺、昨日ずっと考えてたんです」


「何をですか」


「役所に法律で駄目って言われたら、何を持っていっても意味ないなって」


「……はい」


「でも市の基準なら、俺らが駄目かどうか、見てもらう余地はあるんですよね」


「あります」


 少なくとも今日、それは戻りました。


「じゃあ、写真持ってきます」


「写真?」


「今まで造った店です。駅前の喫茶店も、松田さんのパン屋も、去年直した商店街の屋根も」


 大西さんの目が少し明るくなりました。


「十人はいませんけど、六人でやってきた仕事なら見せられます」


 片桐所長が頷きました。


「それでいい」


 たった四文字。


 でも大西さんには、それで十分だったようです。


「お願いします」


 深く頭を下げて帰っていきました。


 事務所には、たい焼きの甘い匂いが残りました。


 相馬先輩が一つ取ります。


「今日は粒あんか」


「まだ誰も種類を聞いてません」


「見れば分かる」


「透視能力ですか」


「匂いだ」


「犬ですか」


「食うぞ」


「どうぞ」


 私は自分の分を取りながら、机の上のノートを見ました。


 行政立法。


 昨日までなら。


 法規命令。


 政令。


 省令。


 執行命令。


 委任命令。


 行政規則。


 訓令。


 通達。


 このあたりまで並んだところで、脳が静かに寝室へ向かっていました。


 でも今日は少し違います。


「所長」


「何だ」


「省令って、何でも細かく決めていいわけじゃないんですよね」


「そうだ」


「法律を実施するために細かい手続を決めるのと、国民に新しい義務を足すのは、同じじゃない」


「そうだな」


「新しい義務を足すなら、ちゃんと法律側から委任されているかを見る」


 所長がこちらを見ました。


「そこまで分かったなら、今日は十分だ」


「珍しく褒めました?」


「褒めてない」


「ですよね」


 相馬先輩がたい焼きをかじりながら言います。


「じゃあ今日の市役所の紙は何だった」


「市の内部で作った選定基準です」


「省令か?」


「違います」


「法律か?」


「違います」


「じゃあ無視していいのか?」


 私は口を開きかけて、止まりました。


「……それも違いますね」


「ほう」


「市が実際に業者を選ぶときの基準なんだから、現実には影響する」


「うん」


「でも、それ自体が法律と同じ力で、大西さんに義務を課していたわけではない」


「そこだ」


 片桐所長が言いました。


 短い。


 今日はそこ。


 本当にそこでした。


 役所の中で使われる基準だから、意味がないわけではない。


 でも。


 役所が使っているからといって、全部が国民を直接縛る法律になるわけでもない。


 その区別が崩れると、


 市の都合。


 内部基準。


 通知。


 通達。


 そんなものまで全部、


 「法律で決まってます」


 の一言に化けてしまう。


 法律は冷たいです。


 誰が決めた。


 何に基づく。


 どこまで委ねられた。


 誰を拘束する。


 そんな話ばかり。


 人情なんて、一文字もありません。


 でも。


 その冷たい線があるから、


 役所が自分で作った便利な基準を、


 国会が決めた法律と同じ顔で差し出すことを止められる。


 大西さんは、まだ仕事を取ったわけではありません。


 結局、別の大きな会社に決まるかもしれない。


 審査の結果、


 経験不足。


 人員不足。


 工期対応が難しい。


 そう判断されるかもしれません。


 でも今度は、


 「法律で最初から駄目です」


 ではない。


 自分たちの二十年を紙にして、


 写真にして、


 実績として机の上へ置ける。


 その違いは大きい。


「朝比奈」


「はい」


「何書いてる」


 相馬先輩が私のノートを覗きます。


「まだ題名だけです」


「何でだ」


「今日は現場で分かった気になっただけなので」


「またそれか」


「大事なんです」


 私はノートの上に、


 ――行政立法。


 とだけ書きました。


 その下に、


 法規命令。


 行政規則。


 と二つ並べて。


 でも、説明は書かない。


 まだ頭の中には疑問がいっぱいあります。


 政令と省令は誰が作るのか。


 執行命令と委任命令は、何が違うのか。


 委任ならどこまで許されるのか。


 法律が、


 「後は行政で好きに決めて」


 みたいな丸投げをしていいのか。


 今日出てきた市の内部基準は、行政規則なのか。


 役所の内部ルールに違反したら、行政の判断は直ちに違法になるのか。


 通達に従った処分なら、それだけで適法なのか。


 考え始めると、たい焼きが冷めそうなくらい疑問が増えます。


 私はノートを閉じました。


「明日整理します」


「今日やれ」


 所長が即答しました。


「この流れ前にもありましたよね?」


「忘れる前にやれ」


「たい焼き食べてからでも?」


「それは許す」


「所長!」


「何だ」


「ありがとうございます!」


 相馬先輩が呆れた顔をします。


「安いな、お前」


 安くて結構。


 法律の勉強は糖分を要求します。


 窓の外では、駅前の工事現場に夕方の光が当たっています。


 あそこにはこれから、新しい店が建つ。


 新しい道路ができる。


 新しい決まりも増えていくでしょう。


 でも。


 決まりが増えるほど、聞かなければいけないことも増える。


 それは法律なのか。


 法律を実施するための細かいルールなのか。


 法律から委ねられて作ったルールなのか。


 それとも。


 役所が自分たちの仕事のために決めた内部の基準なのか。


 同じ紙。


 同じ活字。


 同じ「決まりです」。


 でも、中身は違う。


 今日、私が覚えたのはそこでした。


 「省令に書いてあります」


 そう言われたら、終わりじゃない。


 何という省令の。


 何条に。


 何が書いてあるのか。


 そして、その省令には、


 そこまで決める権限が本当にあるのか。


 行政法。


 相変わらず面倒です。


 でも、昨日より少しだけ面白い。


「先輩」


「何だ」


「このたい焼き、二個目食べていいですか」


「駄目だ」


「根拠は?」


「一人一個という事務所内基準だ」


「それ、誰が制定したんです?」


「俺」


「無効です」


「何でだよ」


「自分が二個食べたい人に制定権限を与えると危険だからです」


「そんな法律あるか」


 奥から所長の声がしました。


「一人一個だ」


 私は黙りました。


「……制定権者が出てきた」


「従え」


 相馬先輩が笑います。


 私は残ったたい焼きを見ました。


 内部ルールというものは。


 法的拘束力がなくても。


 ときに、とても現実的な力を持つらしい。


 この続きは、ちゃんとノートにまとめた方がよさそうです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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