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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政組織

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[行政機関]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ賢そうに見えます。


 電話が鳴らない。


 来客もいない。


 相馬先輩も、珍しく怒鳴っていない。


 つまり、法律の話をするには絶好の時間です。


「……で」


 私は机の上にノートを広げました。


「今日のあれ、結局なんだったんでしょう」


「何が」


 相馬先輩が聞きます。


「全部です」


「雑だな」


「だって、人が多すぎるんですよ」


 私はノートに書いた名前を指で追いました。


 窓口職員。


 課長。


 倉田係長。


 駅前仮設店舗選考会。


 市長。


「全員、市役所側なのに、言っていいことと決めていいことが違う」


「当たり前だ」


「その当たり前が、昨日まで全然分かってなかったんです」


 私は正直に言いました。


 昨夜までの私は、


 行政庁。


 諮問機関。


 参与機関。


 監査機関。


 執行機関。


 補助機関。


 この辺りを、ほぼ暗記用語として見ていました。


 試験前の脳内では、全員が同じ制服を着ています。


 行政機関一族。


 顔と役職だけ違う。


 そんな感じです。


 でも今日。


 永井さんが、


「選考委員会で駄目と決まりました」


 と言われて、店を畳むことまで考えていた。


 ところが実際には。


 その選考会は最終決定をするところではなかった。


 市の正式な意思決定は、まだ終わっていなかった。


 だったら、この違いは暗記じゃありません。


 人一人が諦めるか、踏みとどまるかの違いです。


 私はノートの一番上に、大きく書きました。


 ――行政機関。


「所長」


 私は奥へ声をかけました。


「そもそも行政機関って、何ですか」


 片桐所長は帳簿から目を上げました。


「行政主体のために働く機関だ」


「もう少し受験生向けに」


「意思を決める。意見を出す。補助する。監査する。実際に執行する」


「つまり?」


「役割ごとに分かれている」


 短い。


 でも、今日の事件そのままでした。


 私はノートに書きます。


 行政主体そのものが、手足も口も持って動くわけではない。


 国や地方公共団体のために、


 決定する人。


 意見を述べる人。


 事務を補助する人。


 監査する人。


 決められたことを実力で執行する人。


 そういう機関が、それぞれ役割を担う。


「じゃあ、まず行政庁からですね」


 私が言うと、相馬先輩が椅子を少し後ろへ引きました。


「嫌な予感しかしない」


「付き合ってください」


「俺は行政書士だぞ」


「だからです」


「説得力があるようでないな」


 私は無視して続けます。


「行政庁って、“役所のトップ”でいいんですか」


 所長が言いました。


「イメージとしてはそれでいい。ただし、役職の偉さそのものが基準じゃない」


「というと?」


「行政主体の法律上の意思を決定し、それを外部に表示する権限があるかどうかだ」


 私はその言葉をノートに囲みました。


 行政主体の法律上の意思を決定し、外部に表示する権限を有する機関。


「これ、そのまま覚えた方がいいやつですよね」


「ああ」


「じゃあ今日の件だと」


 私は永井さんの申込書を思い出します。


「仮設店舗への出店について、市として最終的に決める権限が市長にあるなら、市長が行政庁」


「そう考えればいい」


「倉田係長は?」


「少なくとも、その件の最終意思決定権者ではない」


「窓口職員も?」


「同じだ」


 なるほど。


 肩書が役所っぽいから行政庁。


 ではない。


 課長でも係長でも職員でも、行政庁の職務を補助しているだけなら、それは行政庁そのものではない。


 ここ、かなり大事です。


「行政庁の例って」


 私は記憶を引っ張りました。


「都道府県知事、市町村長、大臣、税務署長、警察署長、建築主事とか」


「そうだな」


「一人で決めるタイプが多いですね」


「それが独任制だ」


 出ました。


 また行政法が名前を増やします。


「独任制」


 私は書きます。


 一人の機関が意思決定をする行政庁。


 知事。


 市町村長。


 大臣。


 警察署長。


 税務署長。


 など。


「じゃあ反対は?」


 相馬先輩が聞きました。


「合議制」


「例は?」


「……教育委員会?」


「他」


「公安委員会。公正取引委員会。人事院。会計検査院」


「覚えてるじゃねえか」


「昨日の私を舐めないでください」


「寝てただろ」


「半分は」


 合議制の行政庁。


 これは複数人で構成され、合議して意思決定をする。


 一人のトップが単独で決めるのではなく、委員会などが機関として決める。


 ここで私はペンを止めました。


「所長」


「何だ」


「じゃあ、今日の“選考会”って、複数人で話し合ってましたよね」


「ああ」


「合議制の行政庁じゃないんですか」


「違う」


 即答でした。


「なぜです?」


「複数人で話し合えば全部、合議制の行政庁になるわけじゃない」


「あ」


 たしかに。


 それだったら町内会の役員会まで行政庁になってしまいます。


「見るのは何をしている機関かだ」


 所長が言いました。


「最終的な行政上の意思を決定し、外に表示する権限があるのか。それとも、意見を出しているだけなのか」


「今日の選考会は」


「意見を出していた」


「だから行政庁ではない」


「そうだ」


 ここ、危ない。


 名前に「委員会」が付いている。


 複数人で話している。


 それだけで合議制行政庁だと思ったら負けです。


「じゃあ今日の選考会は、諮問機関に近い?」


 私が聞くと、所長は少し考えました。


「性質としてはそう考えると分かりやすい。ただし、今日の選考会が法律上の正式な諮問機関だとまで断定するな」


「はい」


 そこは慎重に。


 教材的な整理と、現実の組織の法的性質を混ぜない。


 今日の選考会は、


 商工会。


 観光協会。


 大学の先生。


 建築関係者。


 そうした人たちが出店者の選考について意見を出していた。


 でも最終決定権はない。


 市長を法的に拘束する仕組みでもない。


 だから少なくとも、


 「選考会がそう言ったから、それで市として決定済み」


 とはならない。


「諮問機関って、要するに相談相手ですか」


「乱暴に言えばな」


 相馬先輩が答えます。


「行政庁から意見を求められて、調査したり審議したりして答申する」


「でも、その意見に行政庁は必ず従う必要はない」


「そう」


 私は大きく書きました。


 諮問機関。


 行政庁の諮問に応じて、調査・審議し、意見を述べる。


 その意見は、原則として行政庁を拘束しない。


「今日の事件、そのままですね」


 私は言いました。


「選考会で“観光性が弱い”という意見が出ても、それ自体で永井さんの出店不可が確定するわけじゃない」


「そういうことだ」


「しかも実際には、“靴修理は不可”とまで言ってなかった」


「人間は勝手に要約するからな」


 相馬先輩が言います。


「“観光物販を中心とするのが望ましい”が、窓口を三つ通ると、“靴屋は駄目”になる」


「伝言ゲームが行政作用に混ざってるの怖すぎません?」


「だから書類がいる」


 所長の一言が重い。


 なるほど。


 口頭だけだと、


 意見。


 方針。


 決定。


 全部が混ざりやすい。


 そこで私は次の見出しを書きました。


 ――参与機関。


「これは諮問機関と何が違うんでしたっけ」


 分かっているつもりなのに、言葉にしようとすると怪しい。


 受験勉強あるあるです。


 相馬先輩が言いました。


「意見に従わなきゃならない」


「そうそう」


 私は書きます。


 参与機関。


 専門的立場から行政庁の意思決定に関与する。


 そして、その意見が行政庁を拘束する。


「つまり」


 私は考えました。


「もし今日の選考会が、法律上の参与機関として位置づけられていて、その意見に行政庁が従わなければならない仕組みだったら、話は違う」


「違うな」


「市長が自由に無視できない」


「そういうことだ」


 ここは諮問機関との最大の違いです。


 諮問機関。


 聞く。


 参考にする。


 ただし、原則として拘束されない。


 参与機関。


 意思決定に関与し、その意見が行政庁を拘束する。


「字面だと、どっちも賢い人が集まって意見してるようにしか見えないんですよね」


「試験はそこを狙うんだろ」


「ですよね」


 私はノートに大きく矢印を書きました。


 諮問機関 → 行政庁を拘束しない。


 参与機関 → 行政庁を拘束する。


「これだけは、かなり素直に覚えてよさそう」


「ああ」


「行政法にしては珍しい」


「失礼だな」


 誰に対してでしょう。


 行政法でしょうか。


 次です。


「監査機関」


 私が言うと、相馬先輩が伸びをしました。


「地味だな」


「そういうこと言わないでください」


「じゃあ説明してみろ」


「行政の事務や会計が適正に行われてるかチェックする機関」


「例」


「地方公共団体の監査委員。国なら会計検査院」


 私は書きながら思いました。


 今日の事件には、監査機関は直接出ていません。


 でもシリーズ全体で駅前再整備が進んでいるなら。


 補助金。


 契約。


 市有地。


 予算。


 この辺りが出てくれば、いずれ監査の話も出てきそうです。


 町はだんだん、行政法の教科書みたいになってきました。


 嫌です。


 でもちょっと面白い。


「次、執行機関」


 私は言いました。


「これが一番、動きがあるやつですね」


「動きがある?」


「行政庁が決めたことを、実際に実力行使する」


「そうだ」


 例えば。


 税金を滞納した人の財産を差し押さえる徴税職員。


 火事の現場で放水する消防官。


 現行犯を逮捕する警察官。


 行政庁が意思決定するだけでは現実は変わらない。


 決定されたことを、現場で実際に遂行する機関が必要になります。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、“決める人”と“実際に動く人”も別なんですね」


「当たり前だ」


「いや、この当たり前が今日めちゃくちゃ大事に見えるんです」


 もし市長が何かを決めても。


 市長本人が毎回現場へ出ていって、差押えしたり、道路封鎖したりするわけではない。


 意思を決める機関と。


 執行する機関。


 そこも分かれている。


「行政庁が頭」


 私は呟きました。


「執行機関が手足」


「雑だが、イメージとしては分かりやすいな」


「じゃあ補助機関は?」


「事務方」


 相馬先輩が答えました。


「行政庁やほかの行政機関の職務を補助する」


「今日だと、倉田係長とか窓口職員ですね」


「そう考えればいい」


 これが一番、今日の事件に刺さります。


 補助機関。


 行政庁などの職務を補助する機関。


 副知事。


 副市長。


 課長。


 一般職員。


 日常の事務を処理し、資料を集め、原案を作り、窓口対応をする。


「つまり」


 私はノートに書きます。


 補助機関は、実務上ものすごく重要。


 でも、補助していることと、行政庁として最終意思を決定することは別。


「これ、今日の永井さんが一番混乱してたところですね」


「ああ」


「窓口職員に駄目と言われて、課長にも厳しいと言われて、係長にも選考会で決まったと言われた。だから“市としてもう終わった”と思った」


「実際は違った」


「最終決定はまだだった」


 ここで私は、今日の事件を一本の線にしてみました。


 選考会。


 専門的立場から、候補者について意見を述べる。


 市役所の担当職員。


 その意見や申請内容を整理する。


 倉田係長や課内。


 原案を作る。


 最終的に権限を持つ行政庁。


 市としての意思を決定する。


「人の流れで考えると、急に分かりやすい」


「試験では人の顔は出てこないぞ」


 相馬先輩が言います。


「だから脳内で永井さんを出します」


「毎回?」


「毎回」


 行政法の問題を解くたびに、作業着の靴屋さんが現れる。


 悪くない。


「でも所長」


 私は少し気になりました。


「補助機関が窓口で言ったことって、全部無意味なんですか」


「そんなことはない」


「ですよね」


「実務では、行政庁の権限を補助機関が補助し、決裁の仕組みに従って処理する。担当者の説明も、行政活動の一部だ」


「でも」


「担当者個人が、権限もないのに勝手に最終決定をしたことにはできない」


 そこです。


 今日の話は、


 窓口職員の言うことなんて全部無視していい。


 という話ではありません。


 それだと役所が回らない。


 実際、ほとんどの人は担当職員としか話さずに行政手続を終えます。


 でも、


 その言葉は説明なのか。


 内部での見込みなのか。


 正式な決定なのか。


 そこを混同してはいけない。


「あと」


 私は言いました。


「補助機関と執行機関、似てません?」


「違う」


「分かってますけど、試験で並べられると一瞬迷いそうです」


「なら今日の場面で覚えろ」


 相馬先輩が机を指で叩きます。


「倉田係長は、申請内容を確認して資料を作る。補助機関」


「はい」


「差押え現場へ行って財産を押さえる徴税職員。執行機関」


「なるほど」


「紙を作るのが補助、腕を動かすのが執行」


「ものすごく乱暴ですけど分かりやすい」


「試験でそう書くなよ」


「書きませんよ」


 私はノートに、小さく注意書きを足しました。


 補助機関。


 行政庁等の職務を補助する。


 原案作成や事務処理など。


 執行機関。


 行政庁が決定した事項を、実力行使によって執行する。


 そこまで書いて。


 私はふと、今日の最初の場面を思い出しました。


「所長」


「何だ」


「じゃあ、“役所”っていう言い方が一番危ないんですかね」


「便利ではある」


「でも雑」


「そうだな」


 役所が決めた。


 役所が言った。


 役所に止められた。


 日常会話では、それで十分です。


 でも法律の目で見ると、


 誰が。


 どんな立場で。


 どの権限を使って。


 何をしたのか。


 そこまで分けないと、意味が変わる。


 今日の永井さんは、


 「市役所が出店不可を決定した」


 のではなく。


 「選考会で厳しい意見が出て、担当者側がそれを事実上の結論のように扱っていた」


 状態でした。


 しかも大事な事情が資料から抜けていた。


 だから私たちがしたのは、


 市に永井さんを優遇させたことではありません。


 決定前なのに決定済み扱いされていたものを、


 本来の決定手続へ戻しただけです。


「制度の冷たさって」


 私はペンを回しながら言いました。


「こういうところでは、わりと優しいですね」


 相馬先輩が怪訝な顔をします。


「何だそれ」


「だって、“かわいそうだから通してあげる”じゃなかったじゃないですか」


「ああ」


「誰がかわいそうかじゃなくて、誰に決定権があるか。今はどの段階か。選考会の意見に拘束力があるのか。それだけ整理した」


「そうだな」


「その冷たい整理のおかげで、永井さんはもう一度ちゃんと審査してもらえる」


 所長が帳簿を閉じました。


「行政法は、人情で権限を変えない」


「はい」


「だから、人情で押し切られることも防げる」


 私は少し黙りました。


 たぶん、このシリーズで何度も出てくる話なんでしょう。


 条文は冷たい。


 権限も冷たい。


 機関の区別だって、びっくりするほど無機質です。


 でも。


 その人はかわいそうだから通す。


 その人は気に入らないから落とす。


 上司がそう言ったから駄目。


 委員会でそんな雰囲気だったから終わり。


 そういう曖昧さを止めるには、


 冷たい線が必要になる。


「試験対策として整理してみます」


 私はノートに線を引きました。


 まず、行政庁。


 行政主体の法律上の意思を決定し、外部に表示する権限を持つ機関。


 独任制。


 一人の行政庁。


 知事、市町村長、大臣など。


 合議制。


 複数人による合議で意思決定する行政庁。


 各種委員会など。


 ただし、複数人で話し合う組織だからといって、すべて合議制行政庁とは限らない。


 次に諮問機関。


 専門的な審議・調査を行い、行政庁へ意見を述べる。


 原則として、その意見は行政庁を拘束しない。


 参与機関。


 行政庁の意思決定に専門的に関与する。


 その意見は行政庁を拘束する。


 監査機関。


 行政の事務や会計等を検査し、適正に行われているか監査する。


 執行機関。


 行政庁が決定した事項について、実力行使をする。


 補助機関。


 行政庁その他の行政機関の職務を補助する。


 私は書き終えて、うん、と頷きました。


「だいぶ見えるようになりました」


「じゃあ問題」


 相馬先輩が急に言います。


「市役所の課長は行政庁である。丸か罰か」


「一般的には罰」


「なぜ」


「行政庁は肩書の偉さじゃなく、その件について行政主体の意思を決定して外部に表示する権限を持つ機関だから。課長は通常、補助機関として行政庁の職務を補助する立場」


「よし」


「次ください」


「選考委員会は複数人で話し合っているので、当然に合議制行政庁である」


「罰」


「なぜ」


「複数人で構成されているだけでは足りない。最終的な行政上の意思決定権を持っているかを見る。今日の選考会は意見を出すだけで、最終決定権はなかった」


「諮問機関の答申は行政庁を拘束する」


「罰」


「参与機関の意見は?」


「拘束する」


「執行機関は行政庁の事務を補助するだけの機関である」


「罰。実力行使を担う」


「補助機関は?」


「行政庁等の職務を補助する」


 相馬先輩が少し口元を上げました。


「昨日よりはマシだな」


「もっと褒めてもいいですよ」


「調子に乗るから嫌だ」


「そこは人事評価として不合理です」


「所長、こいつどうにかしてください」


「権限外だ」


「所長まで!」


 私は笑いました。


 そして、今日の一番大事なことを考えます。


 試験では、


 行政庁。


 諮問機関。


 参与機関。


 監査機関。


 執行機関。


 補助機関。


 と、平べったく並んで出てきます。


 でも現場では、平べったくありません。


 それぞれの言葉の後ろに、人がいます。


 倉田係長がいる。


 窓口職員がいる。


 委員会の専門家がいる。


 市長がいる。


 その人たちの誰もが「行政」の一部だけれど、


 同じ力を持っているわけではない。


 誰が意見を言うのか。


 誰が支えるのか。


 誰が監査するのか。


 誰が動くのか。


 そして、誰が最終的に決めるのか。


 そこを区別する。


 それが行政機関という単元なんだ。


 私はノートの最後に、一行の覚え書きを書きました。


 ――「役所が決めた」で止まらない。誰が、どの立場で決めたのかを見る。


「まともだな」


 相馬先輩が言いました。


「今日は二回目ですよ、その感想」


「じゃあもう一行」


「まだですか」


「諮問機関と参与機関」


 私は考えます。


 そして書きました。


 ――相談は聞くだけ。参与は無視できない。


「雑」


「でも覚えやすいでしょう」


「まあな」


 そのとき、事務所の扉が開きました。


「こんばんは」


 永井さんでした。


 手には紙袋。


「どうしたんですか」


「近くまで来たからな」


 紙袋から出てきたのは、小さな革のキーホルダーでした。


 靴の形をしています。


「また作ったんですか?」


「端革が余ってるから」


 永井さんは照れたように笑いました。


「今日、市役所から連絡が来たよ」


「どうでした?」


「まだ結果は出てない」


「はい」


「でも、今度はちゃんと、“正式決定は後日です”って言われた」


 その一言に、私は少しだけ笑いました。


 結果はまだ分からない。


 出店できるかもしれない。


 できないかもしれない。


 でも。


 今どの段階なのか。


 誰が決めるのか。


 まだ何が決まっていないのか。


 それが分かるだけで、人はずいぶん落ち着ける。


「前よりいいですか」


 私が聞くと、永井さんは頷きました。


「駄目なら駄目で仕方ない」


 そして少し笑う。


「でも、誰が決めたか分からんまま諦めるよりいい」


 所長が短く言いました。


「それでいい」


 永井さんが帰ったあと。


 私は靴の形のキーホルダーを机に置きました。


 小さい。


 地味。


 でもよくできています。


「売れると思うんですけどね」


「俺もそう思う」


 相馬先輩が言います。


「だから先輩に決定権はありません」


「まだ言うか」


「今日の復習です」


 外はすっかり暗くなっていました。


 昭和六十三年の町の向こうでは、駅前の工事灯が白く光っています。


 行政機関。


 昨夜までなら、名前を見ただけで欠伸が出そうな単元でした。


 でも今は。


 一つ一つの言葉に、今日の人たちの顔があります。


 決める人。


 意見する人。


 支える人。


 確かめる人。


 実際に動く人。


 行政という大きな一枚岩の中にも、役割の境界がある。


 その境界を知っていれば、


 誰かの一言が必要以上に大きな力を持つのを防げる。


 制度は冷たい。


 行政機関の分類なんて、特に冷たい。


 でも、その冷たさのおかげで、


 「偉そうに言われたから」


 だけで人が諦めなくて済むこともある。


 私はノートを閉じました。


 明日また、


 誰かが「役所に駄目と言われました」と来たら。


 たぶん私は、少しだけ前より早く聞けると思います。


 ――誰に言われました?


 ――その人は、何を決められる人ですか?


 それが分かるだけで。


 「もう終わりです」


 だった話が、


 「まだ、誰も決めていません」


 に変わることがあるのです。

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