[行政手続法9条・情報の提供]現場編 「審査中ですから、それ以上は答えられません」の罠。黙る窓口と、進み具合を聞く申請者
役所の「審査中です」は、ときどき便利すぎます。
便利すぎて、
どこまで進んでいるのか。
何が残っているのか。
いつ終わりそうなのか。
その全部を、きれいに包んで見えなくしてしまいます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所で見習いをしている私は、その日も朝から書類の山に埋もれていました。
「朝比奈」
「はい」
「電話」
相馬先輩が受話器をこちらへ差し出します。
「またですか」
「まただ」
「内容は?」
「役所が何も教えてくれないらしい」
「またですか」
「今度は種類が違う」
「役所の“教えない”にも種類があるんですね」
「行政法は細かいからな」
そう言いながら自分は受話器を持たない。
実務派、仕事の振り方だけは豪快です。
私は受話器を受け取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『あの……以前、建設業の許可でお世話になった土岐です』
低い男性の声でした。
五十代くらいでしょうか。
かなり疲れています。
「どうされました?」
『また市役所で止まってまして』
また。
この町、駅前再整備が始まってから申請がよく止まります。
道路。
建築。
露店。
営業。
補助金。
許可。
申請書という名の紙が、町のあちこちで人の人生をせき止めています。
『今度は補助金なんです』
「補助金?」
『駅前の店舗改修のです。市が出してるやつです』
なるほど。
駅前再整備に合わせて、古い店舗の外観や設備を改修する商店に補助を出す制度が始まったと聞いています。
「申請はいつ?」
『一か月半前です』
「結果は?」
『まだです』
「役所には聞きました?」
電話の向こうで、土岐さんがため息をつきました。
『それが……何を聞いても、“審査中です”って』
出ました。
万能煙幕、再登場。
「書類の不足とかは?」
『最初に一回だけ、見積書を出し直しました。それからは何も』
「いつ頃結果が出るかも?」
『聞きましたよ』
「何て?」
『“現時点では申し上げられません”』
私は受話器を持ったまま、眉間を押さえました。
硬い。
ひたすら硬い。
「審査がどこまで進んでるかは?」
『それも、“審査中です”』
役所、情報量を一語に圧縮しすぎです。
「分かりました。一度、事務所に来られますか」
『すぐ行きます』
電話を切った私は、相馬先輩を見ました。
「一か月半待ちだそうです」
「長いな」
「しかも、どこまで進んでるかも分からない」
「担当課は?」
「商工振興課」
その名前を聞いた相馬先輩が少しだけ嫌そうな顔をしました。
「倉田のところか」
「また倉田係長?」
「あいつも災難だな」
「私たちに?」
「再開発に」
それはそうかもしれません。
最近、市役所側の問題が起きるたびに倉田係長が出てきます。
たぶん本人も、
どうして全部俺のところへ来るんだ、
と思っているでしょう。
私もです。
◇
土岐正一さんは、昼前に事務所へ来ました。
駅前で金物店を営んでいる人です。
昔ながらの店。
工具。
釘。
金具。
看板。
店先にはいつも、何に使うのか分からない金属製品がぶら下がっています。
「改修するんですか?」
私が聞くと、土岐さんは頷きました。
「表を直せって言われましてね」
「市に?」
「いや、商店会です。駅前がきれいになるから、うちも少し見栄えよくしろって」
「なるほど」
「そしたら市が補助出すって言うから」
それで申請した。
改修工事費は百八十万円。
補助対象になれば、その一部が出る。
でも、採択されるかどうかが分からないまま工事へ入るのは怖い。
「工事業者から、いつ始めるのかって毎週電話が来るんですよ」
「契約は?」
「まだ正式には」
「補助が決まってから?」
「そうです」
筋は通っています。
補助が出ると思って工事を始めた。
でも不採択。
それでは困る。
「ただ」
土岐さんが顔をしかめました。
「業者も暇じゃない。今月中に決めないなら、次の仕事へ行くって言われて」
「それは困りますね」
「だから市役所に聞いたんですよ」
土岐さんは、役所でのやり取りを再現しました。
「今、どこまで審査が進んでるんですか」
『審査中です』
「いや、それは分かってます。書類審査なのか、現地確認なのか、それとも上の決裁待ちなのか」
『審査中ですので』
「いつ頃決まりそうですか」
『現時点では申し上げられません』
「今月中ですか。来月ですか」
『申し上げられません』
「何か足りないものがありますか」
『必要があればこちらから連絡します』
私は思わず天井を見ました。
すごい。
質問が全部、役所の壁に吸い込まれている。
「それで帰った?」
相馬先輩が聞きます。
「帰るしかないでしょう」
土岐さんは苦笑しました。
「向こうがそれ以上喋らないんだから」
片桐所長が書類を一枚ずつ確認していました。
「申請時に、審査の流れについて説明はありましたか」
「ないです」
「書類審査のあと、現地確認があるとか」
「聞いてません」
「申請書に必要な添付書類の一覧は?」
「最初にもらいました」
「書き方の説明は?」
「ほとんどありません」
「見積書を出し直した理由は?」
「工事項目を細かく分けろと言われました」
「最初から、その書き方が必要だと説明されていた?」
「いいえ」
私はそこで、少し引っかかりました。
申請後の進み具合。
処分時期の見通し。
それだけじゃない。
申請前や申請時に、
どう書けばいいのか。
何を添付すればいいのか。
そういう情報も問題になる。
頭の中で、令和の行政手続法がぬるっと出てきました。
第九条。
情報の提供。
未来では、
申請者が求めたら、
審査の進行状況。
処分時期の見通し。
それを示すよう努める。
さらに、
申請しようとする人や申請者が求めたら、
申請書の記載方法。
添付書類。
その他、申請に必要な情報。
その提供にも努める。
ただし。
努力義務。
絶対ではない。
ここ、大事。
そして今。
昭和六十三年。
その法律はまだない。
でも。
問題だけは、見事なくらい先に存在している。
「こはる」
所長がこちらを見ました。
「何だ」
「いや」
私は少し考えました。
「申請が止まってることより、“今どこにいるか分からない”ことの方が問題かもって」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「また時計か?」
「今回は場所です」
「場所?」
「書類の現在地」
私は土岐さんの申請書控えを指さしました。
「審査中って言っても、何をしてる最中なのかで全然違いますよね」
「そりゃそうだ」
「担当者が書類を見てる最中なのか」
「うん」
「現地確認の予定待ちなのか」
「うん」
「上司の決裁待ちなのか」
「うん」
「他の部署に照会して返事待ちなのか」
「うん」
「それ全部、“審査中”で済ませていいんですかね」
相馬先輩が少し笑いました。
「よし」
「何がです」
「役所行くぞ」
「またですか」
「お前が論点見つけたんだろ」
「昭和の職場、発見者責任が重すぎるんですよ」
◇
商工振興課へ行くと、案の定、倉田係長がいました。
私たちの顔を見た瞬間。
「……今度は何ですか」
第一声がそれでした。
かなり疲れています。
「こんにちは」
「朝比奈さん」
「はい」
「あなたが来ると、何か起きる」
「私、疫病神みたいになってません?」
「最近は少し」
「係長!」
相馬先輩が笑いました。
「安心しろ。今日は貼り紙じゃない」
「それで安心していいんですか」
倉田係長は額を押さえました。
でも土岐さんの名前を出すと、顔つきが変わります。
「ああ……駅前店舗改修補助金」
「覚えてるんですね」
「申請件数が少ないので」
「じゃあ話は早い」
相馬先輩が言いました。
「今どこまで進んでる」
「審査中です」
全員が黙りました。
倉田係長も、言ったあとで気づいたらしい。
「……いや、その」
私は思わず吹き出しそうになりました。
反射なんですね。
役所の「審査中です」。
電話の「もしもし」くらい反射になってる。
「係長」
私は言いました。
「その“審査中”の中身を聞きに来たんです」
「中身?」
「土岐さんの申請、今どの段階です?」
倉田係長が少し警戒します。
「段階と言われても」
「書類審査?」
「それは終わっています」
相馬先輩がすぐ反応しました。
「終わってる?」
「はい」
「じゃあ不足は?」
「今のところありません」
「現地確認?」
「それも済んでいます」
今度は私が目を丸くしました。
「済んでる?」
「ええ」
「いつ?」
「先週です」
「土岐さん、知ってました?」
「いや」
土岐さんが横で首を振ります。
「店の外を見ただけなら、誰か来たかもしれんけど」
「では今は?」
所長が聞きました。
倉田係長が、少し言いづらそうに答えます。
「庁内協議です」
「どこと?」
「都市計画課と建築指導担当です」
「なぜ?」
「駅前再整備区域内なので、改修内容が再整備計画と抵触しないか確認しています」
はい。
出ました。
一気に情報が増えました。
書類審査、済み。
現地確認、済み。
今は庁内協議。
都市計画課と建築担当の回答待ち。
これだけ聞けば、
土岐さんの申請が、
暗い穴の底で永久に眠っているわけではないと分かります。
「それ」
私は聞きました。
「土岐さんに説明しました?」
「……してません」
「どうしてです?」
「内部の処理状況なので」
「内部だから、申請者には言えない?」
「そういう意味ではありませんが」
倉田係長が少し詰まります。
「途中経過をいちいち説明していると、確定前の話が一人歩きすることがあります」
なるほど。
役所側の事情も分かります。
「都市計画課が大丈夫と言ったら採択されます」
そんなふうに受け取られたら困る。
まだ決裁が残っている。
予算枠もある。
審査途中の評価が外へ出れば、誤解も起きる。
でも。
「係長」
私は言いました。
「採択の見込みを教えてください、とは言ってないです」
「え?」
「採択されるかどうかじゃなくて、今どこまで進んでるかです」
倉田係長が黙りました。
「書類審査は終わった」
「はい」
「現地確認も終わった」
「はい」
「今は庁内協議」
「はい」
「その後、決裁?」
「そうです」
「それくらいなら、言っても問題ないですよね」
「……まあ」
相馬先輩が続けます。
「じゃあ、いつ頃決まりそうだ」
「それは……」
来ました。
第二の壁。
「分かりません?」
私が聞く。
「確定的なことは言えません」
「確定じゃなくていいです」
「しかし」
「見通しです」
私は言いました。
倉田係長が、少し眉をひそめます。
「見通し?」
「今の協議が普通に終われば、いつ頃になりそうですか」
「……」
「明日か」
「いえ」
「一週間か」
「そこまでは」
「一か月か」
「それほどはかからないと思います」
「じゃあ?」
倉田係長は少し考えてから、
「今週中に照会先から返事が来れば、来週半ばには結論を出せると思います」
言えた。
私は心の中で拍手しました。
見通し、出ました。
しかも別に、
採択します、
とは言っていません。
来週半ばには結論を出せると思う。
それだけです。
でも土岐さんの顔が変わりました。
「来週半ば?」
「はい。ただし」
倉田係長は指を立てました。
「協議で追加確認が必要になれば延びます」
「それでもいいんです」
土岐さんが即答しました。
「今月中に何も分からないのかと思ってたんで」
「そんなにはかかりません」
「じゃあ業者に、来週半ばまで待ってくれって言えます」
「それなら……」
倉田係長の顔にも、少しだけ納得が浮かびました。
情報を出したら責任を取らされる。
そんな怖さが役所にはあるのかもしれません。
でも、
確定した結論。
と、
現在の進捗。
と、
処理時期の見通し。
これは全部別です。
混ぜるから、
「何も言えません」
になる。
「もう一ついいですか」
私は言いました。
「申請時の説明です」
「説明?」
「土岐さん、見積書を一度出し直してますよね」
「ええ」
「工事項目を細かく分ける必要があるって、最初に説明しました?」
倉田係長の顔が固まりました。
「申請案内には……」
書棚から薄い紙を取り出します。
見ます。
読んでいます。
止まりました。
「あまり詳しく書いてないですね」
「ですよね」
「窓口では説明したと思うんですが」
土岐さんが首を振ります。
「私は聞いてません」
倉田係長が困った顔をしました。
「担当によって、説明の仕方が違うのかもしれません」
昭和の行政。
また出ました。
担当者ガチャ。
「じゃあ」
私は聞きました。
「どう書けばいいか、何を添付すればいいか、申請前に聞かれたら教えます?」
「それは教えます」
「なら、最初から分かるようにした方がよくないですか」
「全部書くと紙が増えるんですよ」
「役所が紙の量を理由に情報を減らすの、ちょっと面白いですね」
「朝比奈さん」
「すみません」
相馬先輩が肩を震わせています。
笑うなら代わってください。
「でも」
私は続けました。
「少なくとも、よく出し直しになるところだけでも案内に入れたら、窓口も楽になると思います」
倉田係長が少し考えます。
「見積書の内訳」
「はい」
「工事前の写真」
「それも分かりにくいです」
「図面」
「どこまで必要か書いてないですね」
倉田係長が案内書を見つめました。
だんだん自分で穴を見つけ始めています。
こうなると、もう強い。
「……改訂します」
「おお」
「ただし今年度分は、今すぐ全部刷り直す予算がありません」
予算はいつの時代も同じでした。
◇
事務所へ戻る途中、土岐さんはかなり表情が明るくなっていました。
「別に、採択してくれって無理を言ってるわけじゃないんですよ」
「分かってます」
「駄目なら駄目で、工事内容を変えるか考える」
「はい」
「でも、いつまで待つか分からないと、業者にも話ができない」
前にも似た話を聞きました。
森田さんの営業許可。
でも今回は少し違います。
あのときは、
普通ならどれくらいかかるか。
その目安が見えない問題でした。
今回は、
自分の申請が今どこまで進んでいるのか。
そして、
いつ頃結論が出そうなのか。
その情報が見えない問題。
似ている。
でも同じではない。
未来のテキストなら、
標準処理期間と、
情報の提供。
別の条文です。
昨夜までなら、
「六条と九条、数字離れてるなあ」
くらいにしか思わなかったでしょう。
でも今は違います。
六条は、
普通なら何日くらい。
九条は、
あなたの申請は今どこまで行っていて、いつ頃終わりそうか。
ああ。
急に顔が見える。
行政法。
人間が絡むと、本当にずるい。
眠かった単語が、勝手に起きます。
「何ニヤついてる」
相馬先輩が言いました。
「またですか」
「役所から帰るとたまにその顔するな」
「法律がつながった時の顔です」
「気持ち悪いな」
「受験生に謝ってください」
所長が前を歩きながら言いました。
「混同するなよ」
「え?」
「普通どれくらいかかるかと、今どこまで進んでるかは別だ」
私は少し驚きました。
「所長、今ちょうどそれ考えてました」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「かなり」
恥ずかしい。
行政法理解フェイス、封印したい。
◇
三日後。
片桐行政書士事務所に一本の電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『倉田です』
「係長」
『土岐さんの件ですが』
「はい」
『庁内協議、終わりました』
「おお」
『明日、決裁に回します。問題がなければ、その翌日には通知できます』
私は受話器を持ち直しました。
「土岐さんには?」
『さっき電話しました』
「直接?」
『ええ』
少し意外でした。
『……朝比奈さん』
「はい」
『ああいうの、言っていいんですね』
「何がです?」
『“今ここまで進んでます”って』
私は少し笑いました。
「言える範囲なら」
『今までは、途中の話をすると責任になると思ってました』
「確定した結論みたいに言わなければいいんじゃないですか」
『まあ……そうなんでしょうね』
電話の向こうで、倉田係長が小さく息を吐きました。
『土岐さん、かなり安心してましたよ』
「でしょうね」
『こっちも、電話で何度も“まだですか”って聞かれるより楽かもしれません』
「それ、かなり大事な発見では?」
『調子に乗らないでください』
「はい」
『それと』
「はい?」
『申請案内、直しました』
「もう?」
『見積書の内訳と、必要な写真、それから図面の説明を足しました』
「仕事早いですね」
『同じ問い合わせを十回受けるより、一回書いた方が早い』
なるほど。
住民のため。
だけじゃない。
情報を出すことは、
役所自身の手間も減らす。
「係長」
『何です』
「だんだんこっち側に来てません?」
『来てません』
「即答」
『役所側です』
「はいはい」
『それでは』
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
「倉田?」
相馬先輩が聞きます。
「はい」
「どうだった」
「庁内協議、終了。明日決裁。問題なければ翌日通知」
「ずいぶん詳しく言うようになったな」
「案内書も直したそうです」
「やればできるじゃねえか」
奥で片桐所長が一言。
「言わせればな」
重い。
でも、その通りです。
◇
翌々日。
土岐さんが事務所へ来ました。
「通りました!」
手に通知書。
顔は晴れ晴れしています。
「採択?」
「はい」
「よかったですね」
「いやあ、助かりました」
土岐さんは大きな紙袋を机に置きました。
「これ、店にあったやつ」
「何です?」
「軍手」
「軍手?」
紙袋いっぱいの軍手。
白。
灰色。
滑り止めつき。
大量。
「そんなに?」
「うちは金物屋だから」
「差し入れの概念が職業に忠実すぎません?」
相馬先輩が一組取り出しました。
「使えるぞ」
「何にです?」
「段ボール運ぶ時」
「この事務所、そんなに肉体労働ありましたっけ」
「役所から書類箱持って帰る時」
「行政書士、思ったより腕力必要ですね」
土岐さんが笑いました。
「カステラとか団子の方がよかったかな」
「いえ、これはこれで」
「丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
ものすごく実用的な余韻です。
土岐さんは帰り際、少しだけ立ち止まりました。
「あの」
「はい」
「今回、結果が通ったから言うわけじゃないんですけど」
「はい」
「途中で一回でも、“今ここです”って教えてくれれば、それでよかったんですよ」
私は黙って聞きました。
「不採択かもしれない。それは分かってる」
「はい」
「でも、書類が机の下に落ちて忘れられてるんじゃないか、とか」
「そこまで?」
「一か月半も何も分からんと、考えますよ」
確かに。
人は情報がないと、
空白をだいたい悪い想像で埋めます。
「審査は進んでます」
と分かる。
今は庁内協議です。
来週半ばには結論が出そうです。
それだけで、
待つ側の不安はずいぶん変わる。
「結果より途中が知りたいこともあるんですね」
私が言うと、土岐さんは頷きました。
「途中が分かれば、待てます」
そう言って帰っていきました。
◇
夕方。
事務所が静かになります。
机の上には軍手。
法律事務所っぽさ、ゼロ。
私は一組手にはめてみました。
「何してる」
相馬先輩が言います。
「今日の復習です」
「軍手で?」
「気分です」
「外せ」
「はい」
私は軍手を外してノートを開きました。
白いページ。
ペンを持ちます。
今日の事件。
土岐さんの補助金申請。
一か月半。
役所から返ってくる答えは、
「審査中です」
だけ。
でも聞いてみれば、
書類審査は終わっていた。
現地確認も終わっていた。
庁内協議中だった。
その後は決裁。
来週半ばには結論が出る見込み。
つまり。
役所は何も知らなかったわけじゃない。
言っていなかっただけです。
そしてもう一つ。
申請書の書き方。
必要な添付書類。
見積書の内訳。
写真。
図面。
その情報も、最初から十分に出てはいなかった。
後の時代。
行政手続法第九条は、
こんな問題に名前をつけます。
情報の提供。
申請者が求めたら、
審査の進行状況。
処分時期の見通し。
それを示すよう努める。
そして、
申請しようとする人や申請者が求めたら、
申請書の記載方法。
添付書類。
その他、申請に必要な情報。
その提供にも努める。
でも。
今は昭和六十三年。
私は未来の条文を、そのまま口にはできません。
だから今日は、
もっと単純な問いだけを使いました。
今、どこまで進んでいますか。
いつ頃、結論が出そうですか。
何を書けばいいですか。
何を添えればいいですか。
たったそれだけ。
でも、その質問で、
「審査中です」
という一枚板みたいな壁が、
いくつもの段階に分かれました。
書類審査。
現地確認。
庁内協議。
決裁。
通知。
分ければ、見える。
見えれば、待てる。
待てれば、次の予定を立てられる。
「書かないのか」
相馬先輩が言いました。
「まだです」
「またかよ」
「今日はちょっと引っかかってて」
「何が」
「役所は、何でもかんでも教えればいいわけじゃないですよね」
相馬先輩が少しだけ真面目な顔になります。
「当たり前だ」
「審査途中の評価とか、他人の情報とか、確定してないこととか」
「ああ」
「だから、“教えろ”で終わらせたくないんです」
「じゃあ何だ」
私は少し考えました。
「言える情報と、言えない情報を分ける?」
「それだろ」
所長が奥から言いました。
私は振り向きます。
「所長」
「何でも開示しろ、ではない」
「はい」
「だが、何も言わない理由にもならん」
短い。
今日も全部入っています。
私はノートの一番上に題名だけ書きました。
――情報の提供。
そして、その下は空けておきました。
「また明日まとめます」
「今日やれ」
「ですよね!」
この流れ、もう定番です。
相馬先輩が笑います。
「所長、お前を逃がす気ないな」
「先輩も手伝ってください」
「嫌だ」
「情報提供を求めます」
「努力する」
「うわ!」
私は思わず指をさしました。
「それです!」
「何が」
「今のやつ!」
「何だよ」
「“努力する”。絶対に答える義務じゃない感じ!」
「知らん」
私は笑いました。
未来の第九条もそうです。
審査の進行状況や処分時期の見通しを、
必ず示さなければならない。
ではない。
示すよう努めなければならない。
申請に必要な情報についても、
提供するよう努める。
努力義務。
だから試験では、
「必ず示さなければならない」
と書かれたら危ない。
でも。
現場では、
努力義務だから何もしなくていい、
という話でもない。
今日の倉田係長は、
少し情報を出した。
その結果、
土岐さんは安心した。
業者と予定を調整できた。
役所への問い合わせも減った。
案内書まで改善された。
情報を出すことは、
権利を確定することではありません。
採択を約束することでもない。
審査の結論を先に漏らすことでもない。
ただ、
今どこにいるのか。
いつ頃になりそうなのか。
何を用意すればいいのか。
そこまで全部、秘密にする必要はない。
私はノートの余白に、小さく一行だけ書きました。
――「何も決まっていない」と「何も教えられない」は、同じではない。
相馬先輩が覗き込みます。
「珍しくいいこと書くな」
「珍しく、は余計です」
「じゃあもう一個」
「何です?」
「今日の軍手、俺二組な」
「どうしてです」
「重い書類箱を持つのは俺だから」
「その情報、今初めて提供されました」
「だから二組」
「因果関係が雑!」
所長が新聞を畳みました。
「一人一組」
「所長」
「残りは事務所用」
「合理的!」
相馬先輩が不満そうに軍手を一組だけ取ります。
私は自分の分を机の引き出しへしまいました。
窓の外では、駅前再整備の工事が終わり、夕方の町が静かになりつつあります。
町が変われば、申請が増える。
申請が増えれば、
人は役所の中へ自分の書類を預けます。
その瞬間から、
書類は見えなくなる。
見えなくなるから、不安になる。
役所の中では動いていても、
外から見えなければ、
止まっているのと同じに感じる。
だから、
進んでいるなら、進んでいると伝える。
今どこなのかを伝える。
いつ頃になりそうなのかを、言える範囲で伝える。
申請前なら、
何を書けばいいか。
何を付ければいいか。
それを伝える。
それだけのことです。
でも、
その「それだけ」がないために、
人は何度も窓口へ行き、
何度も電話をし、
何度も不安になる。
法律は、後からそれに名前をつけます。
情報の提供。
ずいぶん地味な名前です。
でも今日の土岐さんに必要だったのは、
派手な救済ではありませんでした。
ただ、
自分の申請が、
今どこにいるのか。
それを知ることでした。
制度の冷たさは、
人を番号や申請書に変えることがあります。
でも。
情報を少し外へ出すだけで、
その番号の向こうに、
待っている人がいることを思い出せる。
今日の教訓は、たぶんこれです。
「審査中です」と言われたら、
そこで終わらず、
「今、何をしているところですか」
と聞いてみる。
答えそのものはまだ出なくても、
道筋が見えることはある。
私はノートを閉じました。
机の端には、土岐さんの軍手。
相馬先輩がもう一組取ろうとしていました。
「先輩」
「何だ」
「今、何をしているところですか」
「軍手を取るところ」
「処分時期の見通しは?」
「三秒後」
「阻止します」
「努力しろ」
「そこだけ覚えないでください!」
どうやらこちらの情報提供は、
必要以上に充実していました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




