[民法・占有権]現場編 「鍵を持っている俺が持ち主だ」の嘘。貸した倉庫を奪われた老職人と、四つの引渡しが暴く悪徳業者の二重売買
鍵を持っている人が、持ち主とは限りません。
逆に。
鍵を持っていないからといって、その人の権利が消えてしまうわけでもありません。
たとえば。
自分の倉庫を人に貸した。
その倉庫の中には、大切な機械がある。
ところが、ある日突然。
「鍵は俺が持っている」
「機械も俺が預かっている」
「だから、全部俺のものだ」
そんなことを言い出す人が現れたら。
どうすればいいのでしょうか。
所有権。
占有権。
この二つは、似ているようで違います。
そして、もっと厄介なのは。
物を実際に持っている人と、法律上、その物を占有している人が、一人とは限らないことです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの事件を通じて知ることになります。
民法は、鍵の持ち主だけを見ているわけではない。
物を動かさなくても、占有が移ることがある。
そして。
悪人がどれほど巧妙な契約書を作っても。
たった一通の手紙がなかったために、すべての計算が崩れることがあるのです。
◇
「わしの旋盤を、盗られました」
朝九時。
事務所を訪れた老人は、そう言いました。
「……旋盤?」
私は聞き返しました。
「鉄を削る機械じゃ。知らんかね」
「あ、はい! 工場で使う、あの大きな機械ですね!」
老人は頷きました。
名前は、村瀬源蔵さん。
七十一歳。
駅から少し離れた町工場で、四十年以上、金属加工の仕事を続けてきた職人です。
小柄な身体。
節くれだった指。
爪の間には、落としきれない機械油の黒い跡が残っています。
「わしの工場には、古い旋盤が二台あった」
「はい」
「一台は、もう仕事では使わん。だが、亡くなった倅が若い頃に使っていた機械でな」
私は顔を上げました。
「息子さんの?」
「ああ」
源蔵さんは、ゆっくり頷きました。
「息子は五年前に死んだ。工場を継ぐと言っておったが、病気には勝てなんだ」
……。
「だから、あの旋盤だけは捨てられんかった」
老人の声が、少しだけ震えました。
「倅が最後に削った真鍮の部品が、まだ機械の横に置いてある」
私は黙って聞いていました。
古い機械。
金銭的な価値だけではない。
親子で過ごした時間そのものが、そこに残っている。
「でも、どうしてその機械が盗られたんですか?」
「それが……」
源蔵さんは、鞄から三枚の紙を取り出しました。
一枚目。
倉庫賃貸借契約書。
二枚目。
旋盤売買契約書。
そして三枚目。
――所有権及び占有権移転確認書。
「……占有権?」
私は、その文字を見つめました。
嫌な予感がしました。
民法の中でも、ややこしいところです。
「順番に聞かせてください」
私は相談票を開きました。
源蔵さんの話は、こうでした。
半年ほど前。
工場を縮小することになり、古い倉庫を知人の業者に貸した。
相手は、黒田商事という中古機械の売買業者。
社長は黒田修一。
四十五歳。
倉庫の賃貸借契約は一年間。
ただし、倉庫の奥に置いてある古い旋盤については、源蔵さんの所有物であり、黒田商事は動かしてはいけないという約束でした。
「つまり」
私は整理しました。
「倉庫は黒田さんに貸した。でも、旋盤は源蔵さんのものだったんですね」
「そうじゃ」
「黒田さんは、倉庫を使っていた?」
「ああ。中古の工具や機械を置いておった」
「旋盤は?」
「奥の区画に置いたままじゃ。わしも、ときどき見に行っておった」
なるほど。
ところが、一か月前。
黒田社長が突然、こう言い出したそうです。
――あの旋盤を売ってくれ。
提示された代金は三十万円。
源蔵さんは最初、断りました。
思い出の機械です。
手放したくなかった。
でも、工場の資金繰りが厳しくなり、最終的には売却を承諾しました。
「ただし、条件をつけたんじゃ」
「条件?」
「支払いが済むまでは、機械を動かさんこと。それから、倅の名前が刻まれた銘板だけは、わしに返してもらうこと」
私は頷きました。
「それで、代金は?」
「一円も払われとらん」
「えっ」
「それどころか、黒田は、もう別の会社に売ったと言い出した」
「……二重売買?」
私は思わず呟きました。
源蔵さんは、首を横に振りました。
「わしには、よく分からん。ただ、あいつはこう言った」
老人は、苦しそうに顔を上げました。
「機械は最初から俺の倉庫にある。占有も移っている。だから、もうお前には何の権利もない、と」
……。
私は思いました。
待ってください。
倉庫を借りていたのは黒田社長。
旋盤を現実に管理していたのも黒田社長。
でも。
旋盤の所有権まで、当然に黒田社長のものになるわけではありません。
しかも、代金は未払い。
第三者への売却?
これは、かなり嫌な事件です。
「所長!」
私は奥を振り返りました。
「はいはい、民法の出番です!」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「朝からうるせえな」
「占有権です!」
「聞こえてる」
「所有権と占有権を混同している悪徳業者ですよ!」
「お前も混同しそうな顔してるぞ」
「してません!」
「じゃあ、先に契約書を読め」
私は口を閉じました。
そうでした。
法律は、勢いで振り回すものではありません。
事実。
契約。
引渡し。
その順番です。
◇
私は売買契約書を読み始めました。
売主。
村瀬源蔵。
買主。
黒田商事株式会社。
目的物。
村瀬式普通旋盤一台。
製造番号。
MS―二四一七。
代金三十万円。
支払期限。
昭和六十三年六月三十日。
そして。
第五条。
――本件機械の所有権は、売買契約成立と同時に買主に移転する。
第六条。
――買主は現に本件機械を所持しているため、売主及び買主は意思表示をもって占有権の移転を確認する。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
「これ、もしかして……」
「何だ」
相馬先輩が聞きました。
「簡易の引渡しですか?」
「ほう」
「すでに買主が物を持っているから、意思表示だけで占有を移す」
「そうだ」
私は少し嬉しくなりました。
民法百八十二条第二項。
簡易の引渡し。
現代でも使われる制度です。
「だったら所長、占有は確かに移っているんですよね?」
「その可能性はある」
「えっ」
「契約書の文言と、従前の占有関係を確認したうえで判断する」
所長は私の前に書類を置きました。
「こはる。源蔵さんは、黒田に倉庫を貸していた」
「はい」
「黒田は、倉庫の中の旋盤を管理していた」
「はい」
「では、黒田が所有者だったのか」
「違います!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「占有と所有は別だ」
ここで私は、現代の民法の勉強を思い出しました。
自己占有。
代理占有。
自主占有。
他主占有。
この四つ。
名前が似ています。
似すぎです。
試験勉強でも、毎回頭が混乱しました。
「でも所長」
「何だ」
「占有権って、物を実際に支配している人を守るものですよね?」
「そうだ」
「黒田さんは、実際に機械を持っていたんですよね?」
「そうだな」
「じゃあ、黒田さんにも占有権があったんですか?」
「あったと考えられる」
「悪徳業者なのに!?」
私は思わず叫びました。
相馬先輩が笑いました。
「出たな」
「何がですか!」
「占有権は善人だけのものだと思ってる受験生」
「うっ」
「民法百八十条を読め」
私は六法を開きました。
――占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。
私は黙りました。
自己のためにする意思。
物の所持。
そこには。
善人でなければならない。
正当な所有者でなければならない。
そんな条件は書いていません。
「……つまり」
私は恐る恐る言いました。
「盗んだ人にも、占有権は成立し得る?」
「ああ」
「何て理不尽な!」
「所有権を認めるって話じゃねえぞ」
相馬先輩が言いました。
「他人の物を持っているからって、勝手に所有者にはなれねえ。ただ、現実の支配状態そのものを法律が扱うってことだ」
「どうしてですか?」
「お前が盗人から物を取り返すとき、何でも好き勝手に殴って奪っていいことにしたらどうなる?」
「……喧嘩になります」
「それが町中で起きたら?」
「大変なことになります」
「だから、現実の占有を保護する仕組みがある。権利のない占有者から取り戻すにも、法の手続があるんだ」
なるほど。
占有権。
それは、持っている人が正義だという法律ではない。
自分が正義だと思った人が、勝手に力ずくで物を奪うことを防ぐ仕組みでもある。
「ただし」
相馬先輩が続けました。
「今回の黒田が、旋盤を持っているから所有権まである、と言い張るなら別問題だ」
「はい!」
「その勘違いを、きっちり突いてやれ」
私は頷きました。
よし。
まずは所有権と占有権を分ける。
そこからです。
◇
「源蔵さん」
片桐所長が尋ねました。
「旋盤を黒田に売ったとき、機械は動かしましたか」
「いや」
「引渡しの儀式のようなことは?」
「何も。最初からあいつの使う倉庫にあったからな」
「では、売買後も黒田が保管を続けた」
「そうじゃ」
所長は頷きました。
「次に、黒田が第三者へ売った件です」
源蔵さんが顔を曇らせました。
「それが一番困っとる」
「相手の会社名は?」
「東海機械販売という会社じゃ」
「契約書はありますか」
「黒田から届いた紙なら……」
源蔵さんは、三枚目の書類を差し出しました。
そこには、黒田商事から東海機械販売への売買が記載されていました。
代金四十五万円。
所有権移転。
そして。
――引渡しは占有改定による。
私は目を見開きました。
「占有改定!」
相馬先輩が顔を上げます。
「また声がでけえ」
「だって先輩! これ、民法百八十三条ですよ!」
「知ってる」
「黒田さんが、機械を持ったまま、今度は東海機械販売のために占有するってことですよね!」
「その合意があればな」
私は契約書を見ました。
なるほど。
黒田社長は、旋盤を動かしていない。
ずっと同じ倉庫に置いてある。
なのに。
最初は源蔵さんから黒田商事へ、簡易の引渡し。
次に黒田商事から東海機械販売へ、占有改定。
書類上は、占有の移転が二度も行われたことになる。
「……機械、一センチも動いてないのに」
私は呟きました。
「そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「民法の引渡しは、いつでもトラックで運ぶことじゃねえ」
「すごいですね……」
「感心するな。今はそこを悪用しようとしてる奴がいる」
私は慌てて頷きました。
「でも先輩。もう東海機械販売に売ってしまったなら、源蔵さんは機械を取り戻せないんですか?」
「早まるな」
「え?」
「東海機械販売が、本当に所有権を取得したかは別の問題だ」
「でも、売買契約書もありますし、占有改定も……」
そのとき。
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「動産の即時取得を思い出せ」
……。
私は固まりました。
即時取得。
民法百九十二条。
取引行為によって、平穏かつ公然に動産の占有を始めた者が、善意無過失である場合に問題となる制度です。
所有者でない人から物を買っても、一定の要件を満たせば所有権を取得できる。
そういう仕組み。
「所長!」
「何だ」
「東海機械販売が善意無過失なら、即時取得で守られる可能性が……!」
「そうだ」
「じゃあ、もう駄目じゃないですか!」
「まだだ」
所長は契約書を指差しました。
「引渡しの方法は何だ」
「占有改定です」
「そうだ」
「……あっ!」
私は思い出しました。
判例です。
占有改定による引渡しだけでは、動産の即時取得は成立しない。
最高裁判例の考え方。
物を売ったと称する人が、その物を持ち続ける。
外から見れば、占有状態は何も変わっていない。
それだけで、真の所有者の権利を失わせてよいのか。
答えは、否。
「つまり!」
私は立ち上がりました。
「東海機械販売は、占有改定だけを根拠に即時取得を主張できないんですね!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
「でも、黒田さんが源蔵さんから有効に所有権を取得していた場合は……」
「その場合は、別だな」
先輩は言いました。
「だから、最初の売買契約をちゃんと調べる必要があるんだ」
私は源蔵さんを見ました。
代金未払い。
だから当然に所有権が戻る。
そう単純にはいきません。
契約書には、所有権は売買成立と同時に移転すると書かれている。
つまり。
支払いがまだだからといって、直ちに黒田が無権利者になるとは限らない。
ここが、今回の本当の壁でした。
「先輩……」
「何だ」
「もし最初の売買が有効なら、黒田さんには所有権が移っていた可能性があります」
「そうだな」
「すると、東海機械販売への売買も、単なる無権利者からの取得とは限りません」
「やっと分かってきたか」
私は唇を噛みました。
占有改定の判例だけでは、まだ勝てない。
源蔵さんを守るには。
最初の売買契約そのものを、どう扱うか。
そこまで見なければならないのです。
◇
「黒田社長に会ってきます」
翌日。
私は相馬先輩と一緒に、黒田商事へ向かいました。
駅前通りから一本入ったところ。
二階建ての事務所。
玄関には大きな看板。
――黒田商事株式会社。
社長室へ通されると、黒田修一が革張りの椅子に座っていました。
太い金の腕時計。
白いワイシャツ。
そして、いかにも人を見下したような笑顔。
「行政書士さん?」
黒田は鼻で笑いました。
「村瀬の爺さんが頼んだのか」
「契約の経緯について、事実関係の確認に伺いました」
相馬先輩が言いました。
「何を確認するんだ?」
「代金の支払状況と、機械の現在の保管状況です」
「契約書に書いてあるだろ」
黒田は机の上に書類を放りました。
「旋盤は俺が買った。所有権も占有権も移転済みだ」
「代金は?」
「資金繰りの都合で遅れてる」
「支払期限は六月三十日ですね」
「ああ」
「現在、七月二十日です」
「だから何だ」
黒田は笑いました。
「商売には都合ってもんがあるんだよ」
私は思わず口を開きました。
「でも、三十万円を支払っていないんですよね!」
「そうだよ」
「それなら契約不適合責任……じゃなくて!」
しまった。
違う!
そもそも今回の中心は、売主の契約不適合責任ではありません。
買主の代金支払義務違反です!
時代錯誤以前に、論点を間違えました!
相馬先輩が冷たい目を向けました。
「こはる」
「はい……」
「何でも新しい言葉を出せば勝てると思うな」
「すみません……」
黒田は腹を抱えて笑いました。
「何だ、見習いか!」
くっ。
悔しい。
でも。
ここで言い返せば、ますます相手の思うつぼです。
「で?」
黒田が言いました。
「金が遅れているから何だっていうんだ?」
私は答えました。
「売買契約の解除が問題になります」
「解除?」
黒田の笑みが深くなりました。
「もう売った機械を、後から勝手に取り戻せるとでも思ってるのか?」
私は言葉に詰まりました。
黒田は机の上の契約書を指で叩きました。
「所有権は契約成立と同時に移転。ここに書いてある」
「……はい」
「俺は、もう東海機械販売に売った」
「はい」
「代金が遅れてるなら、その三十万円を請求すればいいだけだろ?」
……。
確かに。
支払いが遅れたから、何の手続もなく売買契約が消える。
そんなことはありません。
黒田の態度は許せません。
でも。
法律を知らないのは、こちらも同じではいけない。
「それに」
黒田は笑いました。
「東海機械販売は善意の第三者だ」
私の眉が動きました。
「善意?」
「ああ。俺と村瀬の間で代金がどうなってるかなんて、知らねえよ」
黒田は椅子にもたれました。
「第三者が買ったんだから、もう爺さんには関係ない」
そして、決定的な一言を放ちました。
「機械は俺の倉庫にある。誰も持ち出せねえ。裁判でも何でもやってみろよ」
私は拳を握りました。
その瞬間。
「確認は以上です」
相馬先輩が立ち上がりました。
「えっ」
「帰るぞ、こはる」
「でも先輩!」
「帰るぞ」
黒田は余裕たっぷりに笑いました。
「何だ、もう終わりか?」
相馬先輩は振り返りません。
私たちは事務所を出ました。
◇
「先輩!」
外に出るなり、私は叫びました。
「何であんなに簡単に引き下がるんですか!」
「引き下がってねえ」
「だって!」
「行政書士が、依頼人に代わって法律紛争の示談交渉をするわけにはいかねえだろ」
「……はい」
「俺たちができることを考えろ」
先輩は煙草を取り出しました。
「本人の事実関係を整理し、書面を作る。その書面で相手に何を示すかだ」
私は黙りました。
「それに、黒田は面白いことを言った」
「面白い?」
「第三者が善意だ、ってな」
「はい」
「でも、善意って何についての善意だ?」
……。
私は固まりました。
相馬先輩が続けます。
「源蔵さんへの代金が未払いだと知らなかったことと、売主が所有者でないと知らなかったことは同じか?」
「あっ!」
「即時取得で問題になるのは、原則として処分者の権利についての善意無過失だ。代金の支払事情を知らなかっただけで、何でも即時取得になるわけじゃねえ」
「そうか……!」
「しかも、引渡しは占有改定だろ」
「はい!」
「そのうえ、黒田が有効に所有権を取得していたなら、そもそも即時取得に頼る話じゃねえ」
私は頷きました。
善意。
第三者。
占有。
所有権。
言葉だけを並べると、いかにも正しそうに聞こえる。
でも。
何についての善意なのか。
何を根拠に所有権を取得したのか。
どの方法で引渡しを受けたのか。
そこを分けなければ、正しい答えにはたどり着けません。
「こはる」
「はい」
「もう一つ調べろ」
「何でしょう」
「東海機械販売って会社だ」
「え?」
「黒田が機械を売った相手が、どんな会社なのか」
先輩は、少しだけ笑いました。
「どうも、きな臭い」
◇
翌朝。
私は会社登記簿と、関係者から得た資料を机に並べていました。
「先輩!」
「何だ」
「東海機械販売の代表取締役、黒田社長の弟さんです!」
「やっぱりな」
東海機械販売株式会社。
代表取締役。
黒田俊二。
黒田修一の実弟。
事務所所在地も、黒田商事から歩いて五分。
さらに。
四十五万円で売却したという旋盤の代金についても、支払済みの領収書は確認できませんでした。
「怪しいですね……」
「怪しいだけじゃ駄目だ」
相馬先輩は書類を指差しました。
「親族会社同士の売買が、全部無効になるわけじゃねえ」
「はい」
「代金未払いでも、売買が直ちに無効になるわけじゃねえ」
「はい」
「だから、客観的な証拠で固める」
そのとき。
源蔵さんから電話が入りました。
『あのう、朝比奈さん』
「はい!」
『大事なことを思い出したんじゃ』
「何でしょう?」
『黒田に旋盤を売ったとき、あいつは手紙を寄越しとった』
「手紙?」
『倉庫の奥を片付けたいから、支払いが済むまで機械を動かさないと書いてある』
私は息を呑みました。
「その手紙、まだありますか?」
『ある。帳面に挟んであった』
「ぜひ持ってきてください!」
電話を切ると、私は相馬先輩を見ました。
「先輩!」
「ああ」
「証拠が一つ増えました!」
「よし」
先輩が頷きました。
「物を動かしていない事実と、動かさない約束は別だ。両方押さえろ」
私は机に向かいました。
ここからが、書類の仕事です。
誰が。
いつ。
どんな約束をしたのか。
そして、今も何を所持しているのか。
全部、時系列で並べ直します。
◇
その日の午後。
片桐所長は、私がまとめた資料を静かに読みました。
源蔵さんと黒田商事の売買契約。
代金三十万円。
支払期限経過。
支払実績なし。
旋盤は倉庫内に残存。
黒田商事と東海機械販売の売買契約。
引渡しは占有改定。
東海機械販売の代表者は黒田社長の実弟。
そして、機械を動かさない旨の手紙。
「所長」
「何だ」
「これなら、すぐ内容証明で契約解除できますか?」
「まだだ」
「ええっ!」
私は思わず机に突っ伏しました。
「また壁ですか!」
「当然だ」
所長が言いました。
「代金の支払いが遅れたことは明らかだ。しかし、原則として、相当の期間を定めて履行を催告し、その期間内に履行がなければ解除する、という手順を考えなければならん」
「あ……」
旧民法五百四十一条。
履行遅滞による解除。
私は頷きました。
「相当期間を定めて催告、ですね」
「そうだ」
「それで払わなければ、解除の意思表示をする」
「うん」
「でも所長。解除すれば、必ず旋盤が戻るんですか?」
所長は少し間を置きました。
「必ずとは言えん」
「……やっぱり」
「解除によって第三者の権利を害することはできない、という問題もある」
旧民法五百四十五条第一項ただし書。
解除と第三者。
私は顔を上げました。
「じゃあ、東海機械販売の権利は?」
「そこが争点になる」
所長は契約書を指差しました。
「黒田が所有権を取得した後、東海機械販売へ有効に譲渡していたなら、解除だけでその権利を簡単に消せると考えるな」
「はい……」
「ただし、東海機械販売への売買が実体のない仮装取引なら、話は違う」
「つまり、本当に売ったのかを調べる必要があるんですね」
「そうだ」
ここで相馬先輩が口を開きました。
「それに、あの二社の契約書には占有改定とある」
「はい」
「即時取得のための引渡しとしては使えねえ。だが、占有改定そのものが無効ってわけでもねえ」
私は頷きました。
「所有権を持つ人が売ったなら、占有改定によって引き渡すこと自体はできます」
「そうだ」
「でも、無権利者からの即時取得を主張するときには、占有改定だけでは足りない」
「よし」
相馬先輩が満足そうに頷きました。
「少しは頭が整理されたか」
「はい!」
私はノートに書きました。
――占有改定は引渡しの方法。でも、即時取得のためには足りない。
よし。
この違いは忘れません。
ただし。
事件はまだ終わりません。
むしろ。
本当の敵はここからでした。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「もう一つ、面白いことを教えてやる」
「何でしょう!」
「黒田は、鍵を持ってるから自分が占有者だと言ったな」
「はい」
「じゃあ、源蔵さんは、黒田に倉庫を貸した時点で占有を全部失ったのか?」
私は考えました。
「倉庫については、黒田さんが直接占有しています」
「うん」
「でも、源蔵さんは賃貸人として、黒田さんを通じて間接占有していると考えられます」
「そうだ」
民法百八十一条。
代理占有。
物を自分の手で持っていなくても、他人を通じて占有することがある。
そして。
自分が直接持っている場合が、自己占有。
「ここで、もう一つ」
先輩は古い腕時計を外しました。
「これをお前に貸す」
「はい」
私は腕時計を受け取りました。
「今、誰が直接占有している?」
「私です」
「俺は?」
「先輩は、私を通じて間接占有しています」
「じゃあ、俺がお前に『その時計を売る』と言って、お前が承諾したら?」
「……簡易の引渡し!」
「そうだ」
先輩は時計を指差しました。
「今度は、その時計を俺に返せ」
「はい」
私は返しました。
「で、俺がお前に売る。ただし、今日一日は俺が預かる」
「あ!」
「俺が以後お前のために持つと意思表示する。それを占有改定という」
「なるほど!」
私は、時計を見つめました。
同じ時計。
同じ場所。
でも、法律上の占有関係が変わっている。
「先輩!」
「何だ」
「じゃあ、指図による占有移転は?」
「お前、全部やる気か」
「やります!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
でも、付き合ってくれました。
「俺が時計をお前に貸しているとする」
「はい」
「その時計を所長に売る。俺がお前に『これからは所長のために持ってくれ』と命じる」
「はい」
「所長がそれを承諾する」
奥から片桐所長が言いました。
「承諾する」
「……所長まで!」
私は思わず笑ってしまいました。
「それが指図による占有移転、民法百八十四条ですね!」
「そうだ」
「私が時計を直接持っているのは同じなのに、間接占有する人が先輩から所長に変わる!」
「やっと分かったか」
相馬先輩は時計を腕にはめ直しました。
「現実の引渡し。簡易の引渡し。占有改定。指図による占有移転」
私は四つを繰り返しました。
「物を動かすのは、現実の引渡しだけなんですね」
「そういう理解でいい」
先輩は頷きました。
「だが、勘違いするな」
「はい?」
「占有を移せることと、所有権を正当に取得できることは、別の話だ」
私は顔を上げました。
「そこを混同した奴が、黒田だ」
なるほど。
四つの引渡し。
便利な仕組みです。
でも。
それを知っているだけで、他人の財産を自由にできるわけではありません。
◇
翌日。
片桐所長の机に、一通の内容証明郵便の原案が置かれました。
差出人は、村瀬源蔵。
宛先は、黒田商事株式会社。
私は読み上げました。
「第一。本件売買契約に基づく旋盤代金三十万円は、昭和六十三年六月三十日を支払期限としていたが、現在まで支払われていない」
「うん」
「第二。通知人は、貴社に対し、本書面到達後十日以内に、右代金三十万円を支払うよう催告する」
「続けろ」
「第三。右期間内に支払いがない場合、通知人は、本件売買契約を解除する旨の意思表示をする予定である」
相馬先輩が頷きました。
「今回は、まず催告だ。解除の意思表示は、必要な時期に明確に行う」
「はい!」
私は続けました。
「第四。貴社から東海機械販売株式会社への本件旋盤の譲渡について、売買日、引渡し方法及び現在の保管状況に関する記録を保存されたい」
「うん」
「第五。本件旋盤の第三者への搬出又は再譲渡は、通知人の権利保全に重大な影響を及ぼすおそれがあるため、これを控えられたい」
私は息を吸いました。
「第六。本件に関する所有権及び占有権の帰属、契約解除の効力並びに第三者の権利について紛争が解消しない場合、通知人は弁護士への相談のうえ、必要な法的措置を検討する」
読み終えました。
静かな事務所。
時計の音だけが響きます。
「所長」
「何だ」
「これ、脅迫になりませんか?」
「ならん」
所長は落ち着いて答えました。
「確認された事実と、法的に取り得る措置を節度をもって示しているだけだ」
「はい」
「ただし、必ず勝てるなどと書くな。第三者の権利関係には、まだ確認すべきことがある」
私は頷きました。
相馬先輩が、もう一枚の書類を取り出しました。
「こっちは東海機械販売に送る通知だ」
「東海機械販売にも?」
「ああ」
そこには、源蔵さんと黒田商事の契約関係、未払いの事実、契約解除が問題となっていること、そして第三者への譲渡について権利関係の確認を求める旨が整理されていました。
「相手は、別会社ですよね」
「そうだ。だからこそ、黒田の言い分だけで決めつけるな」
所長が言いました。
「どちらの会社にも、事実と法律を正確に知らせる」
「はい」
「その先で争いになれば、弁護士の仕事だ」
私は頷きました。
そして、源蔵さんに原案を説明しました。
「これを出せば、旋盤は戻るんでしょうか」
老人が尋ねました。
私は少し迷いました。
でも。
嘘はつけません。
「必ず戻るとは、お約束できません」
「……そうか」
「ただ、代金の支払いを正式に催告し、これまでの経緯を記録に残すことができます。権利関係の争いについても、相手に問題を明確に知らせられます」
源蔵さんは、しばらく書面を見つめていました。
そして。
「それでええ」
静かに言いました。
「倅の旋盤を守るために、できることをせにゃならん」
老人は、ゆっくりと署名しました。
村瀬源蔵。
震える文字。
でも。
最後の一画だけは、驚くほど力強かったのです。
◇
内容証明が届いてから五日目。
黒田商事に動きがありました。
最初に連絡してきたのは、黒田社長ではありません。
東海機械販売の担当者でした。
『あの、通知書を受け取ったんですが……』
電話を取った私は、姿勢を正しました。
「はい」
『旋盤の件で、確認したいことがありまして』
話を聞くと、東海機械販売の社内で問題になっているとのことでした。
黒田商事から旋盤を買ったことにはなっている。
しかし。
現物は一度も搬出されていない。
代金四十五万円も、まだ支払っていない。
そして、元の売主への代金三十万円が未払いだったことも、今回の書面で初めて担当者が把握した。
『うちとしては、そんな揉め事のある機械を買うつもりはなかったんです』
担当者は困り果てた声でした。
『社長同士は兄弟ですが、会社は別ですから……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は黙って頷きました。
電話を切ったあと。
「先輩」
「何だ」
「東海機械販売、困ってます」
「そりゃそうだろ」
「どうしてですか?」
相馬先輩は、私の前に二つの契約書を並べました。
「黒田は、源蔵さんから旋盤を買った」
「はい」
「代金を払っていない」
「はい」
「それを別会社に売った」
「はい」
「そして、占有改定で引き渡したことにしている」
「はい」
「だが、源蔵さんからの解除が有効になれば、元の売買関係について原状回復が問題になる。東海機械販売の権利がどうなるかも、争点になる」
私は頷きました。
「それに、東海機械販売が即時取得を主張しようとしても……」
「占有改定だけじゃ足りねえ」
「はい!」
「だからって第三者の権利が必ず否定されるわけじゃねえが、少なくとも『書類があるから絶対安全』とは言えなくなったわけだ」
なるほど。
東海機械販売にとっては、危険な取引です。
代金四十五万円を支払い、後から機械の権利をめぐって訴訟になるかもしれない。
しかも、黒田商事は元の代金すら払っていない。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「世の中、金を出す奴ほど慎重になる」
「……はい」
「危ない取引だと分かれば、自分から身を引くこともある」
そして。
まさに、そのとおりになったのです。
◇
さらに三日後。
東海機械販売から、書面が届きました。
――本件旋盤売買について、黒田商事株式会社との合意により契約を解消した。
――本件旋盤につき、所有権その他の権利を主張しない。
署名。
代表取締役、黒田俊二。
会社の実印。
「……!」
私は書面を二度読みました。
「先輩!」
「何だ」
「東海機械販売が手を引きました!」
「そうだな」
「これで黒田さん、第三者を盾にできませんね!」
「少なくとも、あの会社が権利を主張し続ける障害はなくなった」
私は思わず拳を握りました。
やった!
でも、相馬先輩が言いました。
「まだ終わりじゃねえぞ」
「えっ」
「最初の売買契約だ」
そうでした。
源蔵さんと黒田商事。
代金三十万円。
催告期間。
そして解除。
まだ最後の手続が残っています。
通知した十日間が経過しても、黒田商事から代金の支払いはありませんでした。
そこで。
源蔵さん本人の意思を改めて確認したうえで、売買契約を解除する旨の内容証明郵便が発送されました。
解除。
原状回復。
旋盤の返還。
相手が応じなければ、弁護士に引き継ぎ、訴訟を含む法的手続を検討する。
もう、黒田に残された選択肢は多くありません。
支払期限を破った事実は明らか。
催告も受けている。
解除の通知も届いた。
転売先の会社は、自ら契約を解消した。
そして。
争えば、契約書だけでなく、支払記録や機械の所在、当事者の説明まで調べられる。
黒田が隠しておきたかった事実が、全部表に出ることになるのです。
◇
翌朝。
黒田商事から電話がありました。
『……片桐さんは』
聞き覚えのある声。
黒田修一です。
でも。
以前のような威勢はありません。
「片桐です」
所長が受話器を取りました。
『あの、旋盤の件なんですが』
「はい」
『弁護士に相談しまして……』
所長は黙っています。
『代金の支払遅延と解除の手続を見たうえで、東海機械販売ももう権利を主張しないとなると、これ以上旋盤を抱えて争うのは得策じゃないと……』
「そうですか」
『それで、その……』
黒田の声が小さくなりました。
『機械を返そうと思っています』
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩もこちらを見ました。
『もう、契約書のことでは争いません。返還する旨を、こちらから村瀬さんに書面で伝えます』
所長は静かに答えました。
「そのご意向は承りました。返還の具体的な日時と方法については、村瀬さんご本人へ書面でお知らせください」
『分かりました』
「なお、当事務所では、紛争の代理交渉はお受けしておりません」
『……はい』
電話が切れました。
私は息を吐きました。
「所長……!」
「何だ」
「返すって!」
「ああ」
「返すって言いましたよね!」
「言ったな」
「やりましたね!」
相馬先輩が笑いました。
「まだ現物を見てねえだろ」
「あっ」
「言葉だけで安心するな」
私は頷きました。
そうでした。
民法の世界では。
書面を作った。
相手が謝った。
それだけでは、完全に終わったとは限りません。
最後は。
機械そのものが、源蔵さんのもとに戻ること。
そこまで確かめなければならないのです。
◇
三日後。
源蔵さんから電話が入りました。
『戻ってきたよ』
「……!」
『旋盤が、戻ってきた』
私は受話器を握りしめました。
「本当ですか!」
『ああ』
源蔵さんの声は、少し震えていました。
『倅の名前が刻まれた銘板も、そのままだった』
私は目を閉じました。
よかった。
本当によかった。
後日、源蔵さんが事務所へ来ました。
手には一枚の写真。
工場の片隅。
黒い古い旋盤。
そして、その横に置かれた小さな真鍮の部品。
「倅が最後に削った部品じゃ」
老人は写真を見つめました。
「機械が戻ってきて、最初にそれを見た」
私は頷きました。
「よかったですね」
「ああ」
源蔵さんは、ゆっくり笑いました。
「わしはもう、あの旋盤を使って仕事をすることはないかもしれん」
「はい」
「でも、あれが工場にあるだけでな」
老人は少しだけ目を細めました。
「まだ、倅と一緒に仕事をしておる気がするんじゃ」
……。
私は何も言えませんでした。
民法。
占有権。
所有権。
契約解除。
即時取得。
どれも難しい言葉です。
でも。
その言葉の向こうにあったのは。
亡くなった息子の思い出を守りたいという、一人の父親の願いでした。
「朝比奈さん」
「はい」
「わしは、最初、法律なんて金持ちのためにあると思っとった」
「……はい」
「黒田みたいな奴は、契約書を何枚も作って、難しい言葉を並べるじゃろ」
私は黙って頷きました。
「こっちは、そんな言葉を知らん」
「はい」
「だから、負けるしかないと思った」
源蔵さんは写真を鞄にしまいました。
「でも、違ったんじゃな」
老人は、静かに笑いました。
「法律は、持っている奴が偉いって決めてるわけじゃなかった」
私は胸が熱くなりました。
「そうです」
私は答えました。
「誰が持っているのかも大事です。でも、どうして持っているのか、どんな権利があるのか、それも調べなければいけないんです」
「そうか」
「はい」
源蔵さんは立ち上がりました。
「ありがとう」
深く頭を下げました。
私は慌てて立ち上がりました。
「そんな! 頭を上げてください!」
「いや」
老人は言いました。
「倅の旋盤を、もう一度見られるとは思わなんだ」
その声が、ほんの少し震えていました。
◇
夕方。
源蔵さんが帰ったあと。
私は机に座り、ノートを開きました。
表紙には、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「先輩」
「何だ」
「占有権って、不思議ですね」
「今さらか」
「だって、最初は『物を持っている人を守る権利』だと思ってました」
「間違いじゃねえ」
「でも、それだけじゃないんですね」
私は鉛筆を握りました。
「自分で持っている人と、他人を通じて持っている人がいる」
「ああ」
「所有する意思がある人と、借りているだけの人もいる」
「そうだ」
「しかも、物を一度も動かさなくても、占有が移ることがある」
「そのとおり」
私は頷きました。
自主占有。
他主占有。
自己占有。
代理占有。
現実の引渡し。
簡易の引渡し。
占有改定。
指図による占有移転。
そして、即時取得。
たくさんの言葉。
でも。
源蔵さんの旋盤事件を思い出せば、少しだけ整理できそうです。
「ところで先輩」
「何だ」
「黒田さん、もし東海機械販売に旋盤を現実に引き渡していたら、もっと大変だったんですよね?」
「そうだな」
相馬先輩は真顔になりました。
「相手が善意無過失で、即時取得の要件を満たすかどうか。解除との前後関係や第三者の権利も含めて、慎重な検討が必要になる」
「……怖いですね」
「ああ」
「じゃあ、今回は機械が倉庫に残っていたことが、大きかった」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「だが、覚えとけ」
「はい」
「物を現実に持っている奴が、いつでも法律上勝つわけじゃねえ」
私は頷きました。
相馬先輩は続けました。
「逆に、物を持っていない奴が、何でも勝手に取り返していいわけでもねえ」
「はい」
「それが占有の法律だ」
なるほど。
私はノートに一行を書きました。
――占有権は「持っている事実」を守る。でも、「持っていること」と「自分の物であること」は違う。
「できました!」
私はノートを掲げました。
「今日の教訓です!」
相馬先輩がちらりと見ました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「一つ聞く」
「何でしょう!」
「お前は今、その鉛筆を占有しているな」
「はい!」
「では、その鉛筆は誰のものだ」
「……え?」
私は手元を見ました。
黄色い鉛筆。
毎日、相談票を書くときに使っているものです。
「私の……」
と言いかけて。
止まりました。
あれ?
これ。
事務所の備品です。
「所長の事務所の鉛筆です……」
「そうだ」
「私が直接占有していても、所有者は私じゃないんですね」
「そのとおり」
相馬先輩が笑いました。
「分かりやすいだろ」
「はい……」
私は鉛筆を机に置きました。
ところが。
相馬先輩が、その鉛筆をひょいと取り上げたのです。
「あっ!」
「何だ」
「先輩!」
「何だよ」
「私が使っていた鉛筆です!」
「事務所の備品だろ」
「そうですけど!」
「じゃあ、お前の所有物じゃねえな」
「でも!」
私は立ち上がりました。
「今まで私が使っていたんです!」
「だから?」
「占有していたんです!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「ほう」
私は一瞬、言葉に詰まりました。
……しまった。
今まさに、占有を乱暴に奪われる側の気持ちを味わっています。
「先輩!」
「何だ」
「所有権がないからって、他人が持っているものを勝手に奪っていいわけじゃありません!」
先輩は笑いながら鉛筆を返しました。
「正解だ」
「……!」
「ようやく占有の意味が分かってきたな」
私は鉛筆を受け取りました。
そして、所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「これ、授業料ですか?」
「そうだな」
「悪質です!」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前が一番うるせえよ!」
私は鉛筆を握り直しました。
でも。
少し嬉しかったのです。
たった一本の鉛筆でも。
それが誰のものか。
誰が持っているか。
何のために持っているか。
それぞれ、違う問題がある。
そして。
その区別を間違えると。
古い旋盤も。
大切な思い出も。
他人に奪われてしまうことがある。
私はノートの最後に、もう一度書きました。
――持っていることと、持ち主であることは、違う。
よし。
これなら、もう忘れません。
窓の外。
昭和六十三年の町には、夕暮れが訪れていました。
どこかの小さな工場では、古い旋盤が静かに佇んでいるのでしょう。
もう回ることのない機械。
でも。
その機械には、確かに人の人生が刻まれている。
法律が守っているのは、鉄の塊だけではありません。
それを持つ人の生活。
そこに積み重なった時間。
そして、誰かが勝手に奪ってはいけないという、社会の秩序です。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「明日は占有権の復習をします!」
「好きにしろ!」
「自主占有と他主占有、自己占有と代理占有、それから四つの引渡し!」
「分かったよ!」
「さらに果実の取得と占有権の消滅も!」
「お前、全部一日でやる気か!」
「もちろんです!」
私は笑いました。
まだまだ覚えることは山ほどあります。
善意の占有者。
悪意の占有者。
果実の返還。
占有の承継。
そして、占有権の消滅。
今回の事件でも、まだ触れていない論点がたくさんあります。
でも、今なら。
ただ条文を丸暗記するだけではなく。
あの倉庫を思い浮かべながら、考えることができそうです。
「先輩!」
「まだあるのか!」
「やっぱり民法って面白いですね!」
相馬先輩は天井を仰ぎました。
「所長……」
「何だ」
「こいつ、占有権の勉強を始めたら、机から動かなくなりました」
片桐所長は帳簿を閉じました。
そして、静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「その机を、ずっと占有するつもりか」
「えっ」
「掃除の時間だ」
「……!」
私は固まりました。
相馬先輩が笑いました。
「ほら、占有を解け」
「先輩!」
「何だ!」
「私、まだ占有の意思を放棄してません!」
「掃除しろ!」
「占有権は、意思を放棄しなければ――」
「物を所持しなくなっても消滅するだろうが!」
「うっ!」
……。
民法二百三条。
自己占有の消滅。
占有の意思を放棄する。
または、物の所持を失う。
ただし、占有回収の訴えに関する例外もある。
なるほど。
机の前に座り続ければ、いつまでも勉強できるというわけではありません。
私は仕方なく立ち上がりました。
「分かりました! 掃除します!」
「最初からそうしろ!」
相馬先輩が笑っています。
私は箒を手に取りました。
でも。
今日、ようやく分かったことがあります。
占有とは、単に物を握りしめることではない。
誰が。
誰のために。
どんな意思で。
どのように物を支配しているのか。
民法は、そこまで見ている。
だからこそ。
他人の物を持っている人にも占有権があり。
物を直接持っていない人にも、占有権が成立することがある。
そして、占有の移転方法を知っているからといって、当然に他人の所有権を奪えるわけではないのです。
私は箒を動かしながら、小さく呟きました。
「……持ってるだけじゃ、勝てないんですね」
相馬先輩が答えました。
「当たり前だ」
少し間を置いて。
「勝負を決めるのは、持っている理由と、その証拠だ」
私は笑いました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日の民法も、なかなか手強い相手でした。
でも。
あの老職人の旋盤が戻ってきたのなら。
この難しい法律を勉強した意味は、確かにあったのだと思います。
もっとも。
私が机を占有する権利については。
残念ながら、片桐所長に認めてもらえそうにありませんでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




