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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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464/701

[民法・即時取得と占有改定]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 お金を払った。


 契約書にもハンコを押した。


 それなのに、買った物が自分のものにならない。


 そんなことが、本当にあるのでしょうか。


 あります。


 しかも、反対に。


 本当の持ち主から買っていないのに、自分のものになってしまうこともあるのです。


 その境界線を決めるのが、民法百九十二条。


 ――即時取得。


 そして。


 この即時取得には、受験生が必ず覚えておきたい落とし穴があります。


 占有改定。


 たった四文字。


 これを間違えるだけで。


 一本の腕時計の所有者が、まるで変わってしまうのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……納得できません」


 私が呟くと、新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。


「今度は何だ」


「即時取得です」


「ああ?」


「人の物を勝手に売ったのに、買った人が所有者になれることがあるなんて」


「またその話か」


「だって、ひどくないですか?」


 私は鉛筆を握りました。


「本当の持ち主が泣き寝入りすることもあるんですよ!」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「じゃあ、お前はどうしたいんだ」


「どうって?」


「人の物を売った場合は、買った奴が必ず返さなきゃならねえ。そういう法律にするか?」


「それが普通じゃないですか?」


「じゃあ、時計屋で時計を買うたびに、店主が本当の持ち主か調べるんだな」


「……え?」


「その店主が、別の奴から買ったなら?」


「その前の持ち主を……」


「その前の持ち主も、別の奴から買ってたら?」


「……」


「何人さかのぼって調べるんだ?」


 私は止まりました。


 確かに。


 それは大変です。


「こはる」


 奥から片桐所長が声をかけました。


「はい」


「取引の安全という言葉を知っているな」


「はい!」


「なら、そこから考えろ」


 私はノートに書きました。


 ――即時取得は、取引の安全を守る制度。


 よし。


 今日の勉強会。


 始めましょう。


「まずは、昨日の時計事件を整理します!」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 藤井澄江。


 黒田栄作。


 大西修一。


「藤井澄江さんは、お父様の形見の腕時計を所有していました」


「うん」


「それを修理手配のため、黒田さんに預けた」


「そうだ」


「ところが黒田さんは、勝手に大西さんへ三十万円で売ってしまった」


「うん」


「しかも、時計は店に置いたまま、占有改定による引渡しをしたんです」


 相馬先輩が頷きました。


「で、黒田は何と言っていた?」


 私は胸を張りました。


「民法百八十三条で占有改定した! 百九十二条で即時取得した! だから時計は大西さんのものだ!」


「似てねえな」


「物真似じゃありません!」


 私は続けました。


「でも、最高裁昭和三十五年二月十一日判決によれば、占有改定だけでは即時取得は成立しません」


「そうだ」


「だから黒田さんの理屈は通らなかった」


 私はノートに大きく丸を描きました。


 ――占有改定のみでは即時取得できない。


「これだけ覚えておけば、試験で一問取れます!」


「おい」


「はい?」


「それじゃ丸暗記だろ」


 相馬先輩が言いました。


「なぜ駄目なのか、説明してみろ」


「……えっ」


 私は固まりました。


 なぜ。


 占有改定では、即時取得できないのか。


 判例がそう言っているから。


 では、いけません。


 なぜ判例がそう判断したのか。


 そこを理解しないと、少し問題を変えられただけで間違えてしまう。


「分かりました!」


 私は鉛筆を握り直しました。


「今日は、理由から理解します!」


「最初からそうしろ」


「まず、即時取得とは何か」


 私はノートに書きました。


 ――民法第百九十二条。


 取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する。


「長い!」


 私は思わず叫びました。


「条文が長いです!」


「読める長さだろ」


「でも条件が多すぎませんか!?」


 相馬先輩は笑いました。


「それだけ簡単に人の所有権を奪えねえってことだ」


「……あ」


 なるほど。


 条件が多いことには、意味がある。


 私は頷きました。


「じゃあ、一つずつ分けます!」


 私は指を三本立てました。


「即時取得の基本的な要件は、大きく三つ!」


 第一。


 目的物が動産であること。


 第二。


 有効な取引行為によること。


 第三。


 平穏、公然、善意無過失で、即時取得を認めるに足りる占有を取得すること。


「これです!」


「うん」


「まず動産!」


 私は昨日の腕時計を思い出しました。


 小さな銀色の腕時計。


 手に持てる。


 持ち運べる。


 だから動産。


「動産なら、即時取得の対象になり得ます」


「そうだ」


「じゃあ、土地だったら?」


 相馬先輩が聞きました。


「即時取得できません!」


「なぜだ?」


「不動産だからです!」


「それだけか?」


 私は少し考えました。


「あっ。土地や建物には登記制度があります」


「そうだ」


「動産と不動産では、権利を公示する仕組みが違うんですね」


 動産の場合。


 誰が持っているか。


 誰が占有しているか。


 それが、取引相手にとって重要な手掛かりになります。


 でも不動産では。


 一般に、登記が重要な公示方法になります。


「だから、動産の占有を前提とした即時取得の仕組みを、そのまま不動産には使えないんですね」


「そういうことだ」


 私は書きました。


 ――動産は即時取得の対象。不動産は対象外。


「よし!」


 まず一つ。


 覚えました。


「次は、有効な取引行為です」


 私は鉛筆を動かしました。


 売買。


 贈与。


 質権設定。


 こうした取引行為によって、権利を取得する場合です。


「たとえば」


 私は言いました。


「黒田さんが、大西さんに時計を売った」


「うん」


「黒田さんは所有者ではありませんが、他人物売買だからといって、売買契約が当然に無効になるわけではありません」


「そうだな」


「ここ、昨日間違えました!」


「胸を張るな」


「反省しています!」


 私はノートに書きました。


 ――売買契約が有効であることと、売主が所有権を持っていることは別問題。


 黒田には、藤井さんの時計を勝手に処分する権限がありませんでした。


 でも。


 売買契約そのものが当然に無効になるわけではない。


 問題は、その契約によって買主が所有権を取得できるか。


「そこで、即時取得が登場するんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、相続は?」


「え?」


「相続で他人の動産を占有することになった場合、即時取得は成立するか?」


 私は即答しました。


「成立しません!」


「なぜ?」


「相続は取引行為ではないからです!」


「よし」


 私はノートに書きました。


 ――相続は取引行為ではない。相続を原因として即時取得することはできない。


 ここは重要です。


 売買や贈与のように、取引によって取得する場合とは違います。


「それから」


 私は続けました。


「取引行為自体が無効なら、原則として即時取得も成立しません」


 意思能力を欠いた人の契約。


 無権代理で、本人に効果が帰属しない取引。


 取消しによって遡及的に無効となった取引。


 こうした場合には、取引そのものの効力を検討する必要があります。


「ただし!」


 私は赤鉛筆を取りました。


「取り消すことができる行為だから、直ちに全部無効というわけではありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ。取消しと無効を混同するな」


「はい!」


 取消しの対象となる契約でも、取り消される前と後では効力の扱いが違う。


 また、無権利者から取得するという問題と、契約自体の効力に欠陥があるという問題も区別しなければなりません。


「即時取得は、あらゆる契約の欠陥を治してくれる魔法じゃないんですね」


「そういうことだ」


 なるほど。


 取引行為という条件にも、ちゃんと意味がある。


 私は大きく頷きました。


「さて」


 相馬先輩が煙草を置きました。


「次が本番だ」


「はい!」


「平穏、公然、善意無過失」


 私はノートを見ました。


「これ、漢字が多いんですよね」


「法律だからな」


「もっと分かりやすく言えないんですか?」


 相馬先輩は笑いました。


「じゃあ、お前が説明しろ」


「分かりました!」


 私は指を立てました。


「平穏とは、暴行や強迫などによらず、穏やかに占有すること!」


「うん」


「公然とは、隠れてこそこそ占有するのではなく、外から分かる形で占有すること!」


「うん」


「善意とは、法律上の問題があることを知らないこと!」


 私はそこで止まりました。


「あ、違いますね」


「何がだ」


「今回の即時取得では、売主に処分権限がないことを知らない、という意味ですね」


「そうだ」


「善意って、優しい人という意味じゃないんですよね」


 私は苦笑しました。


 法律を勉強し始めた頃。


 善意。


 悪意。


 この二つには、ずいぶん苦労しました。


 善意だから善人。


 悪意だから悪人。


 そう考えると、必ず間違えます。


「法律上の善意は、基本的に『知らない』こと」


「そうだ」


「悪意は『知っている』こと」


「うん」


「そして、無過失は?」


 相馬先輩が尋ねました。


「知らなかったことについて、注意を尽くしても気づけなかったことです!」


「よし」


 私は腕時計事件を思い出しました。


 もし大西さんが、黒田さんを本当の所有者だと信じていたとしても。


 不自然な事情があるのに確認しなかった場合。


 過失が問題になる可能性があります。


「たとえば」


 私は言いました。


「高価な腕時計を、極端に安い値段で買おうとした場合」


「うん」


「売主が『本当は他人から預かった物だ』と話していた場合」


「うん」


「そんな事情があれば、買主が本当に善意無過失だったか問題になります」


「そうだな」


 ここで片桐所長が口を開きました。


「ただし、こはる」


「はい」


「知らなかったと本人が言えば、それだけで足りるわけでもない」


「はい!」


「具体的な事情を見るんだ」


 私は頷きました。


 善意無過失。


 たった五文字。


 でも、その中には。


 どんな店だったのか。


 どんな値段だったのか。


 どんな説明を受けたのか。


 不自然な点がなかったのか。


 そうした事実の積み重ねがあるのです。


「ところで、先輩」


「何だ」


「即時取得って、善意無過失を買主が全部証明しないといけないんですか?」


 相馬先輩は、にやりとしました。


「いい質問だ」


「褒めましたね!」


「最後まで聞け」


「はい!」


 先輩は六法を開きました。


「民法百八十六条一項」


「はい」


「占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有するものと推定される」


 私は頷きました。


「つまり、善意・平穏・公然は推定されるんですね」


「そうだ」


「じゃあ、無過失は?」


「民法百八十八条だ」


 私はページをめくりました。


 占有者が占有物について行使する権利は、適法に有するものと推定される。


「これと判例が関係するんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩は判例集を取り出しました。


「最高裁昭和四十一年六月九日判決」


 私は身を乗り出しました。


「また最高裁!」


「好きだな、お前」


「試験に出ますから!」


 最高裁は、即時取得の善意無過失に関して、民法百八十八条の推定を踏まえ、占有取得者が自分に過失のなかったことまで立証する責任を負うわけではないと判断しています。


「ということは……」


 私は考えました。


「買主が、自分は無過失だったと一から証明しなければならないわけではない」


「そうだ」


「即時取得を否定する側が、買主に過失があった事情を立証することが問題になるんですね」


「そういうことだ」


 私は赤線を引きました。


 ――善意・平穏・公然は民法百八十六条一項によって推定される。


 ――無過失についても、民法百八十八条と最高裁昭和四十一年六月九日判決に注意。


「これ、重要ですね!」


「重要だ」


「だから、昨日の事件でも、買主が怪しい人だから即時取得は無効、なんて単純には言えない」


「そうだ」


「でも、そもそも占有改定だけだった」


「うん」


「だから、善意無過失を争う前に、占有取得の方法で決着がついたんですね!」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと事件の急所が分かったな」


 私は拳を握りました。


 よし。


 これで、昨日の事件の意味がはっきりしました。


「じゃあ、いよいよ占有です!」


 私はノートの中央に大きく書きました。


 ――占有。


 物を事実上支配している状態。


「占有って、持っていることですよね?」


 私が言うと、相馬先輩が首を振りました。


「それだけじゃねえ」


「え?」


「手に握ってる場合だけが占有じゃねえんだ」


 私は頷きました。


 そうでした。


 占有には、いくつかの形があります。


 自分で物を持つ場合。


 人を介して占有する場合。


 すでに持っている人が、持ち続けたまま法律上の占有の関係を変える場合。


「そこで占有の移転方法が出てくるんですね」


「そうだ」


 私はノートに四つ書きました。


 現実の引渡し。


 簡易の引渡し。


 占有改定。


 指図による占有移転。


「これです!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、時計を使って説明してみろ」


「はい!」


 私は机に、所長の万年筆を置きました。


「時計の代わりに、これを使います!」


 所長が顔を上げました。


「壊すなよ」


「大丈夫です!」


 相馬先輩が小さく笑いました。


「まず、現実の引渡しだ」


「はい!」


 私は万年筆を手に取りました。


「私が持っている万年筆を、先輩に売ります!」


「うん」


「はい、どうぞ!」


 私は万年筆を先輩に手渡しました。


「これが現実の引渡しです!」


「そうだ」


 目に見える形で、物が移動します。


 売主から買主へ。


 占有が移る。


 分かりやすいですね。


「じゃあ、次は簡易の引渡し!」


 私は先輩を見ました。


「先輩、その万年筆を私から借りていたことにしてください」


「分かった」


「その万年筆を、先輩に売ります!」


「うん」


「先輩はすでに持っているので、改めて手渡さなくても、当事者の意思表示だけで引渡しが成立します!」


「そうだ」


 これが民法百八十二条二項。


 簡易の引渡し。


 すでに譲受人が物を所持している場合です。


「次は占有改定!」


 私は万年筆を受け取りました。


「今度は私が万年筆を持っています」


「うん」


「先輩に売ります」


「うん」


「でも、私が引き続き預かります」


 万年筆は動きません。


「これからは先輩のために持つ、という意思表示をします」


「それが?」


「民法百八十三条。占有改定です!」


 私は万年筆を机に置きました。


「物は動かない。でも、法律上は引渡しが成立する」


「そうだ」


「ところが!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「即時取得では、これだけでは駄目!」


 相馬先輩が笑いました。


「そこだ」


 そうです。


 占有改定は、引渡しとして無効なのではありません。


 一般的な動産の占有移転方法としては、有効です。


 しかし。


 即時取得の成立には足りない。


 この違いが、昨日の事件の決定打でした。


「では、最後!」


 私は続けました。


「指図による占有移転です!」


 所長が万年筆を指差しました。


「俺が使おう」


「はい!」


 私は状況を設定しました。


 万年筆の所有者は、私。


 万年筆を預かっているのは、片桐所長。


 そして。


 買主は、相馬先輩。


「私が先輩に万年筆を売ります」


「うん」


「でも、現物は所長が預かっています」


「そうだ」


「そこで私は、所長に対して、これからは相馬先輩のために万年筆を持ってください、と指示します」


 所長が頷きました。


「うん」


「そして、先輩がそれを承諾する」


「そうだ」


「これが、民法百八十四条!」


 指図による占有移転。


 第三者が物を占有している場合、その第三者に対する指図と譲受人の承諾によって占有を移転する方法です。


「所長が預かっている万年筆を、実際に動かさなくても成立するんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 でも。


 ここで一つ、気になりました。


「先輩」


「何だ」


「占有改定も、指図による占有移転も、物は動きませんよね?」


「そうだな」


「じゃあ、指図による占有移転でも、即時取得はできないんですか?」


 相馬先輩は、にやりとしました。


「いいところに気づいたな」


「褒めましたね!」


「まだだ」


「またですか!」


 先輩は言いました。


「ここを混同すると、試験で引っかかるぞ」


 私は身を乗り出しました。


 占有改定。


 指図による占有移転。


 どちらも、現物を動かさずに占有を移すことがある。


 でも。


 同じものではありません。


「占有改定では、譲渡人自身が物を持ち続ける」


「はい」


「指図による占有移転では、第三者が物を占有している」


「はい」


「この違いがある」


 私は頷きました。


 最高裁判例の考え方では、指図による占有移転は、所定の要件を満たせば即時取得を成立させ得るものとされています。


「つまり!」


 私は書きました。


 ――現実の引渡しは、即時取得の占有取得方法となる。


 ――簡易の引渡しも、要件を満たせば即時取得が成立し得る。


 ――指図による占有移転も、即時取得が成立し得る。


 ――占有改定のみでは、即時取得は成立しない。


「なるほど!」


 私は手を叩きました。


「占有改定だけが、ここで特別な落とし穴になるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 これです。


 試験で引っかかるところ。


 四つの引渡し方法を覚えた。


 だから、四つとも即時取得に使える。


 そう考えると間違える。


「占有の移転として有効なことと、即時取得の要件を満たすことは違う!」


「正解」


 私はノートに大きく赤丸をつけました。


「じゃあ、なぜ占有改定だけ駄目なのか」


 私はもう一度、昨日の時計事件を思い出しました。


 藤井さんの腕時計。


 黒田古美術店。


 大西社長。


 三十万円。


 売買契約書。


 そして。


 時計は金庫の中に置かれたまま。


「……分かりました」


 私は言いました。


「占有改定では、売主がそのまま物を持ち続けるからですね」


「そうだ」


「外から見れば、何も変わらない」


「うん」


「なのに、契約書だけで即時取得を認めたら、元の持ち主の所有権を奪うことが簡単になってしまう」


 片桐所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 私は鉛筆を握りました。


 民法百九十二条。


 即時取得。


 元の所有者には、財産を失うという重大な結果が生じる。


 だから。


 買主が物を取得したという事実について、外形上の変化が重要になる。


「占有改定は、譲渡人が持ったままですからね」


「そうだ」


「物の占有の外観が変わらない」


「うん」


「だから、その方法だけでは即時取得が認められない」


 相馬先輩が笑いました。


「よし。理解したな」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――昭和三十五年二月十一日最高裁判決。


 ――占有改定による占有取得のみでは、即時取得は成立しない。


 これで。


 判例の理由も。


 昨日の事件の結論も。


 きれいにつながりました。


「でも、先輩」


「何だ」


「これ、もし時計が盗まれた物だったら、また違う問題になるんですよね?」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「民法百九十三条と百九十四条だ」


 私はページをめくりました。


 いよいよ。


 盗品と遺失物です。


「まず、百九十三条!」


 私は声に出しました。


 盗品又は遺失物については、被害者又は遺失者は、盗難又は遺失の時から二年間、占有者に対してその物の回復を請求することができる。


「これです!」


「うん」


「つまり、盗まれた物や落とした物については、通常の即時取得とは別の保護があるんですね」


「そうだ」


 私は昨日の藤井さんを思い出しました。


「でも、藤井さんは時計を自分で黒田さんに預けた」


「そうだ」


「だから、黒田さんが勝手に売ったとしても、それだけで百九十三条の盗品になるわけではない」


「正解」


 ここ。


 非常に重要です。


 元の所有者が、自分の意思で占有を他人に移した場合。


 その相手が、預かった物を無断で売却した。


 そんな事案では、盗品・遺失物の特則を当然には使えません。


 一方。


 泥棒に盗まれた物。


 落として失くした物。


 そうした物には、百九十三条の回復請求という特別な保護があります。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「盗まれた時計を買った人が、善意無過失だったら?」


「即時取得の要件を満たすことはあり得る」


「でも百九十三条で、被害者が二年間は回復を請求できるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 取引の安全を守る。


 でも、盗まれた人や落とした人も守る。


 だから。


 特別な回復請求権を認めている。


「しかも、原則として代価の弁償は不要!」


「そうだ」


 私は書きました。


 ――盗品・遺失物の回復請求は、原則として代価弁償不要。


 ところが。


 ここにも例外がありました。


「民法百九十四条です!」


 私は次の条文を開きました。


「盗品や遺失物を、競売や公の市場、または同種の物を販売する商人から善意で買った場合」


「うん」


「元の持ち主が回復するには、買主が支払った代価を弁償しなければなりません!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「でも、先輩」


「何だ」


「これって、ちょっと不公平じゃありませんか?」


「どこがだ?」


「盗まれた人は、何も悪くないんですよ?」


「そうだな」


「それなのに、時計を取り戻すためにお金を払うなんて……」


 私は眉をひそめました。


 すると。


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「買った人も考えてみろ」


「買った人?」


「普通の時計店で、時計を買ったとする」


「はい」


「店には商品が並んでいる。買主は代金を支払い、時計を受け取った」


「はい」


「あとから盗品だと分かった」


「……はい」


「買主には何の落ち度もなく、盗品だとも知らなかった」


 私は黙りました。


「その買主から、何の補償もなく時計を取り上げてよいか」


「……」


 なるほど。


 ここでも。


 二人の利益がぶつかっている。


 盗まれた人。


 そして。


 知らずに買った人。


 どちらも被害を受けた人です。


「だから百九十四条は、一定の場所や商人から善意で買った人について、代価弁償を条件にしているんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 市場や専門の商人から買う場合。


 一般の買主は、そこで扱われている商品について、ある程度安心して取引します。


 そうした取引の安全も保護する。


 でも。


 元の持ち主の回復請求を、完全に排除するわけではありません。


 代価を弁償すれば、取り戻せる。


「なるほど……」


 私は小さく呟きました。


「法律って、どちらか一方だけの味方じゃないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「それが民法だ」


 私はノートに書きました。


 ――百九十三条は、盗品・遺失物の回復請求。


 ――百九十四条は、特定の取引による善意の買主を代価弁償によって保護。


「これで、百九十二条から百九十四条までつながりました!」


「さて」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、一つ問題だ」


「はい!」


「藤井さんが、時計を道で落としたとする」


「はい」


「拾った男が、時計を友人に売った」


「はい」


「友人は事情を知らず、過失もなく、実際に時計を受け取った」


「はい!」


「その友人が即時取得の要件を満たした場合、藤井さんはどうする?」


 私は即答しました。


「民法百九十三条! 遺失の時から二年間、回復請求ができます!」


「よし」


「代価弁償も原則不要です!」


「正解」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、その友人が時計専門店で善意で買った場合は?」


「民法百九十四条です!」


「で?」


「代価を弁償しなければ、回復できません!」


「よし」


 私は得意になりました。


 すると。


「じゃあ、時計を拾った本人がそのまま持っていた場合は?」


「え?」


 私は止まりました。


 拾った本人。


 つまり。


 取引行為によって取得したわけではない。


「……即時取得は成立しません!」


「そうだ」


「相続と同じで、拾ったこと自体は取引行為ではありませんから!」


 私は続けました。


「しかも、拾った人が勝手に所有者になれるわけでもありません!」


 相馬先輩が笑いました。


「よし」


「やった!」


 でも。


 ここで私は気づきました。


 即時取得の問題。


 どれも。


 事実が一つ変わるだけで、結論が変わる。


 売買なのか。


 相続なのか。


 盗品なのか。


 遺失物なのか。


 預けた物なのか。


 現実の引渡しなのか。


 占有改定なのか。


「……民法って、怖いですね」


 私が言うと、先輩が笑いました。


「だから事実を確認しろって言ってるんだよ」


 なるほど。


 条文を覚えるだけでは駄目。


 どんな事実に、その条文を使うのか。


 そこが重要なのです。


 窓の外は、すっかり夕方になっていました。


 私はノートを見直しました。


 ここまで整理すると。


 昭和六十三年と現代の民法について、一つ気づくことがあります。


「所長」


「何だ」


「今回の即時取得って、令和の民法でも基本的な条文の仕組みは同じなんですよね」


「令和?」


「あっ!」


 しまった。


 また未来の話です。


 私は慌てました。


「えっと、その、将来の民法改正について考えていまして!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前、また妙なこと言い始めたな」


「すみません!」


 でも。


 今回のテーマは、私にとって少し珍しいものでした。


 これまで。


 民法を勉強するたびに、昭和の古い制度に驚かされてきました。


 成年後見制度がない。


 禁治産者という言葉が使われている。


 契約不適合責任という用語がまだない。


 消滅時効の期間や仕組みも、現代とは違う。


 そのたびに。


 未来の知識を持つ私は、相馬先輩に怒られてきたのです。


 ところが。


 今回の即時取得は違います。


 民法百九十二条。


 百九十三条。


 百九十四条。


 それらの基本的な仕組みは、現代でも引き継がれています。


 そして。


 占有改定だけでは即時取得できないという最高裁判例の考え方も、現代の学習で重要です。


「……何だか嬉しいです」


 私が呟くと、相馬先輩が首をかしげました。


「何がだ?」


「時代が変わっても、大切な考え方が残るってことです」


 相馬先輩は少し考えました。


「まあ、そうだな」


 片桐所長も頷きました。


「法律は、すべてを一度に作り替えるものではない」


「はい」


「改めるべきところは改める。守るべき原則は守る」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 そうです。


 法律は、時代によって変わります。


 けれど。


 すべてが変わるわけではありません。


 取引の安全。


 所有者の保護。


 占有の外観。


 そして。


 他人の権利を奪うためには、相応の厳しい要件が必要だという考え方。


 これらは、長い年月を越えて受け継がれているのです。


「では、最後に確認問題です!」


 私はノートを閉じました。


「所長、お願いします!」


 片桐所長が顔を上げました。


「いいだろう」


 よし。


 即時取得。


 総仕上げです。


「第一問。動産を無権利者から買い受け、即時取得の要件を満たした場合、所有権を取得できるか」


「できます!」


「第二問。不動産について、民法百九十二条による即時取得は認められるか」


「認められません!」


「第三問。相続によって即時取得は成立するか」


「成立しません! 相続は取引行為ではないからです!」


「第四問。占有改定だけで即時取得は成立するか」


「成立しません!」


「理由は?」


「譲渡人がそのまま物を占有し続け、外観上の占有状態に変更がないためです!」


 所長が頷きました。


「第五問。指図による占有移転では?」


「要件を満たせば即時取得が成立し得ます!」


「第六問。即時取得の善意・平穏・公然は推定されるか」


「はい! 民法百八十六条一項です!」


「無過失は?」


「民法百八十八条と最高裁昭和四十一年六月九日判決が重要です!」


「第七問。盗品や遺失物についての回復請求期間は?」


「盗難又は遺失の時から二年間です!」


「第八問。盗品を同種の物を販売する商人から善意で買った場合、所有者が回復するためには?」


「原則的な回復請求と違い、買主が支払った代価を弁償する必要があります!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は拳を握りました。


「やった!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、最後に俺から一問」


「はい!」


「昨日の黒田は、何を間違えた?」


 私は少し考えました。


 黒田は、契約書を作った。


 三十万円で売った。


 占有改定による引渡しをした。


 だから即時取得した。


 そう主張した。


 でも。


「……占有改定による引渡しが有効なことと、即時取得が成立することを混同しました」


 私は答えました。


 相馬先輩が頷きます。


「そうだ」


「民法百八十三条の占有改定は有効です」


「うん」


「でも、百九十二条の即時取得には、それだけでは足りません」


「正解」


 先輩は笑いました。


「これを忘れなきゃ、同じ罠には引っかからねえ」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 机の上には、藤井澄江さんから届いた一枚の写真が置かれていました。


 修理中の腕時計。


 文字盤の針が、少しだけ動いている。


 そして。


 写真の裏には、手書きの言葉。


 ――父の時計が戻りました。ありがとうございました。


 私はそれを見つめました。


 民法百九十二条。


 即時取得。


 難しい法律です。


 善意無過失。


 平穏公然。


 占有の移転。


 盗品・遺失物。


 代価弁償。


 そして。


 占有改定。


 覚えることがたくさんあります。


 でも。


 その一つ一つに、理由がある。


 元の持ち主を守る。


 取引の安全を守る。


 善意の買主を守る。


 そして。


 法律を都合よく利用して他人の財産を奪おうとする人を、簡単には許さない。


「……民法って、よくできていますね」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「今さらかよ」


「だって!」


 私はノートを掲げました。


「昨日までは、即時取得って、持ち主が損をする理不尽な制度だと思ってたんです!」


「うん」


「でも、そうじゃないんですね」


 私は続けました。


「安心して物を買える社会を守りながら、元の所有者の権利も無条件には奪わせない」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「だから、要件が厳しい」


「うん」


「だから、占有改定だけでは足りない」


「そういうことだ」


 私は深く息を吸いました。


 そして。


 今日の一行を書きました。


 ――即時取得は「動産・有効な取引・平穏公然善意無過失の占有取得」。ただし、占有改定だけでは成立しない。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「覚えられたならな」


「もちろんです!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 だって。


 あの時計を思い出せばいいのです。


 黒田の金庫。


 三十万円の売買契約書。


 占有改定。


 そして。


 最高裁昭和三十五年二月十一日判決。


 時計は、動かなかった。


 だから。


 即時取得も成立しなかった。


 そして。


 時計は元の持ち主に戻り、再び時を刻み始めた。


 その出来事が。


 難しい条文を、忘れられない記憶に変えてくれたのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「さっきの万年筆、欲しいか?」


「え?」


 先輩は所長の万年筆を指差しました。


「百円で売ってやろうか」


「またですか!」


「安いぞ」


「所長のものですよね!?」


「ああ」


「じゃあ買いません!」


 私は即答しました。


 相馬先輩が笑いました。


「即時取得を考えろよ」


「私はもう、所長のものだって知っています!」


「善意じゃねえな」


「そうです!」


「無過失でもねえな」


「そもそも、売主に権限がないことを知っています!」


 私は腕を組みました。


「そんな罠には引っかかりません!」


 相馬先輩は笑いながら万年筆を置きました。


「よし」


「何がよしですか!」


「勉強の成果が出てるじゃねえか」


 私は少し得意になりました。


 ところが。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい?」


「その万年筆を俺から買うならどうだ」


「え?」


「百円で譲ってもいい」


「本当ですか!?」


 私は目を輝かせました。


「買います!」


 すると所長は、万年筆を机に置いたまま言いました。


「ただし、しばらく俺が預かろう」


 私は固まりました。


「……所長」


「何だ」


「それ、占有改定ですよね?」


「そうだ」


 私は考えました。


 所長は本当の所有者。


 私に万年筆を売る。


 その後も所長が預かる。


 占有改定。


 では。


 即時取得は成立するのでしょうか。


「……あっ!」


 私は叫びました。


「これ、即時取得の問題じゃありません!」


 相馬先輩が笑いました。


「おお?」


「所長は本当の所有者です!」


「そうだな」


「だから、私が所長から有効に買うなら、無権利者から取得する問題ではありません!」


 私は勢いよく続けました。


「即時取得は、売主に所有権がない場合などに問題になる制度です!」


 所長が頷きました。


「そのとおり」


「占有改定でも、普通の所有者からの売買なら話は別です!」


 私は拳を握りました。


「つまり!」


 相馬先輩が先を促しました。


「つまり?」


「占有改定では即時取得できないからといって、占有改定そのものが無効なわけではない!」


 所長が静かに頷きました。


「正解だ」


「やった!」


 私は思わず万歳しました。


 相馬先輩が吹き出しました。


「そこまで分かりゃ十分だな」


「はい!」


 私は笑いました。


 今度こそ。


 占有改定。


 完全に理解できた気がします。


 ただし。


「所長」


「何だ」


「本当に百円で売ってくださるんですか?」


「ああ」


「じゃあ、お願いします!」


 私は財布から百円玉を取り出しました。


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「おい、こはる」


「何ですか?」


「その万年筆、なかなか高いぞ」


「え?」


「所長が昔、奮発して買ったやつだ」


 私は手を止めました。


 所長を見る。


 所長は静かに頷きました。


「そうだ」


「……!」


 私は百円玉を引っ込めました。


「所長!」


「何だ」


「そんな大切な万年筆、百円で買えません!」


 所長は少し笑いました。


「そうか」


「はい!」


 私は万年筆を見つめました。


 長年使い込まれた黒い軸。


 少し擦れた金色のペン先。


 毎日、片桐所長が依頼人の書類に向かうとき、使っている万年筆。


 きっと。


 そこには、値段以上の価値がある。


 藤井さんの時計と同じです。


「……やっぱり、所長が使ってください」


 私が言うと、所長は万年筆を手に取りました。


「そうする」


 相馬先輩が笑いました。


「何だよ。買わねえのか」


「買いません!」


「百円なのに?」


「百円だからこそです!」


 私は胸を張りました。


「大切なものの価値は、売買代金だけじゃ決まりません!」


 相馬先輩は少し黙りました。


 それから。


「……まあな」


 短く言いました。


 私は嬉しくなりました。


 即時取得。


 動産。


 取引行為。


 善意無過失。


 占有改定。


 法律の仕組みは、少し複雑です。


 でも。


 そこにあるのは。


 誰かが大切にしている物を、どんな条件で他人が取得できるのか。


 その線引きです。


 だから。


 条件を一つ間違えれば、結論が変わる。


 でも。


 条件を正しく理解すれば、守れるものがある。


 私は最後に、もう一度ノートを開きました。


 そして。


 今日の一行を、ゆっくり読み返しました。


 ――即時取得は「動産・有効な取引・平穏公然善意無過失の占有取得」。ただし、占有改定だけでは成立しない。


 よし。


 完璧。


 これなら忘れません。


 そのとき。


 事務所の柱時計が、午後六時を告げました。


 ボーン。


 ボーン。


 古い時計の音が、静かな事務所に響きます。


 私は窓の外を見ました。


 商店街の灯り。


 帰宅する人たち。


 そのどこかで。


 藤井澄江さんは、お父さんの腕時計を眺めているのでしょう。


 小さな針が。


 カチ、カチと。


 再び時を刻んでいる。


 私は思いました。


 民法は。


 物の持ち主を決める法律です。


 けれど。


 その物に詰まった思い出まで、軽く扱っていいとは言っていません。


 だからこそ。


 他人の所有権を奪うほど強い制度には、厳しい要件がある。


 即時取得。


 その制度を理解することは。


 誰かの財産を奪う方法を覚えることではありません。


 誰の権利が、どのような条件で守られるのかを知ることなのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「勉強が終わったなら、机を片付けろ!」


「はいっ!」


「万年筆も所長に返しておけ!」


「もう返しました!」


「よし!」


 私は笑いながら、六法を閉じました。


 今日もまた。


 昭和の民法に、一本取られました。


 でも。


 そのおかげで。


 現代のテキストを読んでいた頃より、ずっと深く理解できた気がします。


 占有改定。


 紙の上では動いたことになる。


 でも。


 即時取得では、それだけでは足りない。


 一本の時計を守った、その違い。


 私はきっと、一生忘れないでしょう。


 だって。


 法律が守ろうとしているのは。


 単なる物の値段だけではなく。


 その物とともに生きてきた、人の暮らしでもあるのです。

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