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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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463/652

[民法・即時取得と占有改定]現場編 「金を払ったから俺のもの」の罠。預けた父の形見が他人に売られた日、最高裁判例が暴いた「動かない時計」の嘘

挿絵(By みてみん)

 人のものを買ったのに、自分のものになる。


 そんな不思議な法律があります。


 たとえば。


 あなたが大切な腕時計を、友人に貸したとします。


 ところが、その友人が勝手に時計を売ってしまった。


 買った人は、時計が他人のものだと知らなかった。


 しかも、知らなかったことに落ち度もない。


 さて。


 時計は誰のものでしょうか。


 当然、元の持ち主のもの。


 そう思いますよね。


 ところが。


 民法には、一定の条件を満たした買主に所有権を認める仕組みがあります。


 その名も。


 ――即時取得。


 そして、この制度には、もう一つ恐ろしい落とし穴がありました。


 買っただけでは、足りない。


 お金を払っただけでも、足りない。


 では。


 何が必要なのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、一本の古い腕時計をめぐって、民法の思いがけない怖さを知ることになります。


「父の時計を、返してもらえないんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


 三十四歳。


 名前は、藤井澄江さん。


 小さな紙箱を、両手で抱えています。


 その箱の中には、時計がありませんでした。


 代わりに。


 一枚の古い写真。


 作業着姿の男性が、幼い女の子を抱いて笑っています。


 男性の左腕には、銀色の腕時計。


「この時計です」


 澄江さんが写真を指差しました。


「父が、ずっと使っていたものなんです」


 私は写真を覗き込みました。


 丸い文字盤。


 細い針。


 使い込まれた革のベルト。


「お父様は?」


「三年前に亡くなりました」


「あ……」


「父は町工場の旋盤工で、三十年以上働いていました」


 澄江さんは少し笑いました。


「毎朝、この時計を見て出勤していたんです」


 私は写真を見つめました。


 腕時計。


 単に時間を知るための道具ではありません。


 それを身につけていた人の人生まで、刻まれていることがあります。


「それで、時計は今どちらに?」


「駅前の古美術店です」


「古美術店?」


「はい。父の友人だった人に、しばらく預けていたんです」


 話は、こうでした。


 父親が亡くなったあと。


 澄江さんは時計を形見として受け取った。


 けれど、しばらくすると時計が動かなくなった。


 修理に出そうと考えたものの、古い機械式時計なので、普通の時計店では部品がない。


 困っていたところに現れたのが、父親の昔の知人。


 駅前で古美術商を営む黒田栄作。


 五十八歳。


「黒田さんが言ったんです。古い時計の修理職人を知っているから、預かってやるって」


「預けたんですね」


「はい」


「預り証は?」


「あります」


 澄江さんが封筒を取り出しました。


 中には一枚の紙。


 ――腕時計一個を修理手配のため預かる。


 ――所有者 藤井澄江。


 ――預り人 黒田栄作。


 日付。


 署名。


 そして。


 黒田古美術店の角印。


「ちゃんと書面がありますね!」


 私は思わず声を上げました。


 これは大きい。


 単に口約束で渡したわけではありません。


 預けた目的も明確。


 しかも所有者が誰なのかまで書いてある。


「それなのに、返してくれないんですか?」


「……売ったと言われました」


「え?」


「三十万円で、別の人に売ったって」


 私は固まりました。


「ちょっと待ってください」


「はい」


「預かっただけの時計ですよね?」


「そうです」


「それを勝手に売った?」


「はい」


 ……。


 駄目でしょう。


 それは駄目でしょう。


「黒田さんは何と言っているんですか?」


 澄江さんの表情が暗くなりました。


「法律で、もう買った人のものになったって」


「法律で?」


「民法百九十二条だそうです」


 私は息を呑みました。


 百九十二条。


 即時取得。


 ……来ました。


 民法の中でも、受験生を混乱させる厄介な制度です。


「分かりました!」


 私は勢いよく六法を開きました。


「でも大丈夫です! お父様の時計ですよね! しかも無断で売られたんですよね!」


「はい!」


「でしたら、取り返しましょう!」


 澄江さんの顔が明るくなります。


「本当ですか?」


「はい! 民法百九十三条です!」


 私は条文を指差しました。


 盗品又は遺失物。


 盗まれた物や、なくした物については、一定期間、元の持ち主が取り戻せる。


「盗まれた時計なら、二年間は回復請求できるんです!」


 よし。


 完璧。


 民法百九十二条だけではありません。


 百九十三条。


 百九十四条。


 この三つはセット。


 行政書士試験でも重要なところです。


「しかも、お店で善意で買った場合でも、代価を弁償すれば――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「誰が盗んだ?」


「……黒田さんです」


「どうやって?」


「いや、その……勝手に売って」


「その前だ」


「え?」


「時計は、どうやって黒田の手に渡った?」


 私は澄江さんを見ました。


「……預けました」


「そうだな」


「はい」


「本人が、自分の意思で渡したんだな?」


「……はい」


 先輩は六法を指で叩きました。


「だったら、盗品だと決めつけるな」


「えっ?」


「預かった物を勝手に売ったのは悪質だ。だが、所有者の意思に基づいて占有が移った物と、盗まれて占有を奪われた物は、同じじゃねえ」


 私は固まりました。


 あ。


 そうでした。


 法律上、ここは重要です。


 盗まれた物。


 落とした物。


 そして。


 自分で他人に預けた物。


 これらは、即時取得との関係で区別されます。


 もちろん、預かった物を横領する行為は別の法的責任を生じ得ます。


 でも。


 だからといって、民法百九十三条の「盗品」に当然に当たるわけではない。


「じゃあ……」


 私は恐る恐る尋ねました。


「本当に、買った人のものになってしまう可能性があるんですか?」


「ああ」


 相馬先輩は即答しました。


「あります」


 澄江さんの顔が青ざめました。


「そんな……」


 私は慌てて先輩を見ました。


「でも、それじゃあ!」


「何だ」


「預かった人が勝手に売っただけで、元の持ち主が泣き寝入りするんですか!?」


「条件を満たせばな」


「ひどい!」


「民法に文句を言う前に、条件を見ろ」


 先輩が六法を開きました。


「即時取得は、買った奴を何でも守る制度じゃねえ」


 そして。


 一言。


「まだ時計が、どこにあるか聞いてねえだろ」


 私は澄江さんを見ました。


「あっ!」


「時計ですか?」


「はい! 今、誰が持っているんですか?」


「……黒田さんです」


「え?」


「お店の金庫にあるそうです」


 相馬先輩の手が止まりました。


「何だと?」


「買った人が、しばらく店で保管してほしいと言ったらしくて」


 先輩はゆっくり顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「面白くなってきたぞ」


 その顔には。


 いつもの嫌な笑みが浮かんでいました。


 午前十一時。


 私たちは黒田古美術店を訪れました。


 駅前商店街の外れ。


 古い木造二階建て。


 ガラス戸には、


 ――古美術・骨董・時計売買。


 と書かれています。


 店内には掛け軸。


 陶器。


 柱時計。


 そして、ガラスケースに並んだ懐中時計。


「いらっしゃい」


 奥から男が出てきました。


 白髪交じりの髪。


 紺色の背広。


 金色の腕時計。


 黒田栄作です。


「片桐行政書士事務所の相馬です。藤井さんの時計について、事実関係を確認したく伺いました」


 黒田は鼻で笑いました。


「行政書士?」


「はい」


「弁護士じゃないのか」


「そうですが」


「だったら何もできんだろう」


 ……。


 また出ました。


 弁護士じゃないなら何もできない理論。


 全国の行政書士事務所で、何度聞かれているのでしょうか。


「時計は売却済みだ」


 黒田が言いました。


「三十万円で、ちゃんと売買契約を結んでいる」


「買主は?」


「大西商事の社長だ」


「時計は?」


「ここにある」


「現物の引渡しは?」


 相馬先輩が聞きました。


 黒田は得意げに笑いました。


「法律を知らんのか?」


「と、おっしゃいますと」


「物は渡さなくても、引渡しは成立するんだよ」


 私は首をかしげました。


「……どういうことですか?」


 黒田は机の引き出しを開けました。


 そして。


 一枚の契約書を見せました。


 ――腕時計売買契約書。


 売主。


 黒田栄作。


 買主。


 大西修一。


 売買代金。


 三十万円。


 そして、契約書の最後に、こう書かれていました。


 ――売主は、本契約締結後、買主のために本件腕時計を保管するものとする。


 ――本契約締結をもって、占有改定による引渡しを完了する。


 私は目を見開きました。


「占有改定……!」


 黒田がにやりと笑います。


「知ってるようだな」


「はい」


「民法百八十三条だ」


 占有改定。


 物を譲った人が、その物を手元に置いたまま、以後は買主のために占有するという形で、占有を移転する方法。


 つまり。


 時計を売った。


 けれど、時計は店に置いたまま。


 売主が買主のために保管する。


 これでも、法律上は占有の移転が認められる。


「どうだ?」


 黒田は胸を張りました。


「民法百八十三条で引渡し済み。さらに百九十二条で即時取得。もう大西社長の所有物だ」


 私は息を呑みました。


 なるほど。


 契約書まで作っている。


 しかも、条文番号まで知っている。


 この男。


 ただの素人ではありません。


「藤井さんには気の毒だがな」


 黒田は肩をすくめました。


「法律は、正しく買った者を守るんだよ」


 私は唇を噛みました。


 悔しい。


 でも。


 占有改定は確かに、動産の引渡しの一方法です。


 現代の民法でも。


 昭和六十三年の民法でも。


 その基本的な仕組みは存在する。


 だったら。


 即時取得は成立してしまうのでしょうか。


「相馬先輩……」


 私が小声で呼ぶと。


 先輩は契約書を見つめていました。


「黒田さん」


「何だ」


「大西社長は、時計を一度でも持ち帰りましたか」


「いや」


「実物を受け取ったことは?」


「ない」


「時計は、ずっとこの店に?」


「そうだ」


「売買代金は?」


「現金で受け取った」


「契約した日付は、こちらですね」


「ああ」


 先輩は頷きました。


「分かりました」


「分かったなら、もう帰ってくれ」


 黒田は笑いました。


「法律を知らん客に、余計な期待を持たせるなよ」


 私は思わず口を開きかけました。


 でも。


「こはる」


 相馬先輩が止めました。


「はい」


「帰るぞ」


「えっ!?」


「必要な事実は確認した」


 先輩は黒田に一礼しました。


「ご対応ありがとうございました」


 そして店を出たのです。


「先輩!」


 商店街を歩きながら、私は抗議しました。


「何であんな簡単に引き下がったんですか!」


「何がだ」


「完全に馬鹿にされてましたよ!」


「そうだな」


「時計を買ったって契約書まであるんですよ!」


「あるな」


「しかも占有改定!」


「そうだ」


「どうするんですか!」


 相馬先輩は立ち止まりました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「お前、何を勘違いしてる?」


「え?」


「民法百八十三条と百九十二条は、同じ条文か?」


「……違います」


「だったら、同じことを定めてると思うな」


 私は固まりました。


「占有改定で占有を移せることと、即時取得が成立することは別だ」


「……え?」


「昭和三十五年二月十一日」


 先輩が言いました。


「最高裁判決だ」


 私は目を見開きました。


「最高裁……?」


「即時取得と占有改定について、真正面から判断した判例だ」


 先輩は私を見ました。


「こはる」


「はい」


「黒田の店で、時計は動いたか?」


「……いいえ」


「大西は実物を受け取ったか?」


「受け取っていません」


「じゃあ、外から見た時計の占有状態は?」


「……何も変わっていません」


 その瞬間。


 私の頭の中で、何かがつながりました。


「あっ!」


 相馬先輩が笑いました。


「そういうことだ」


 時計は。


 ずっと黒田の店にあった。


 契約書だけが作られた。


 紙の上では、持ち主が変わったことになっている。


 でも。


 外から見える占有状態は、何も変わっていない。


「即時取得はな」


 先輩が言いました。


「取引の安全を守るために、他人の所有権を奪うことすら認める強力な制度だ」


「はい」


「だからこそ、ただ書面にそう書いただけで成立するわけじゃねえ」


 私は拳を握りました。


 これです。


 この違いです。


 民法百八十三条の占有改定。


 そして。


 民法百九十二条の即時取得。


 どちらにも「占有」という言葉が登場する。


 でも。


 同じように扱ってはいけない。


「先輩!」


「何だ」


「最高裁は、占有改定だけでは即時取得を認めないんですね!」


「そうだ」


「じゃあ!」


「まだ決めつけるな」


「え?」


「契約の当事者、売買代金、現物の所在。それぞれ確認して、書面を固める」


 先輩は歩き始めました。


「法律の急所が分かっても、証拠がなきゃ仕事にならねえ」


 私は慌てて追いかけました。


 なるほど。


 最高裁の判例を知っているだけでは足りない。


 その判例を使える事実が、ちゃんとあるか。


 そこが重要なのです。


 事務所へ戻ると、片桐所長が六法を開いていました。


「聞いたぞ」


「所長!」


「占有改定だそうだな」


「はい!」


 私は机に契約書の写しと、聞き取りメモを並べました。


「買主は三十万円を支払ったそうです」


「うん」


「売買契約書もあります」


「うん」


「でも、時計は一度も買主に引き渡されていません!」


 所長が顔を上げました。


「正確に言え」


「……あっ」


 私は言い直しました。


「占有改定による引渡しはされています。でも、現実の引渡しはありません」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「そこを混同するな」


 私はノートを開きました。


 ――占有改定は、引渡しの一方法。


 ――しかし、占有改定だけでは即時取得は成立しない。


 なるほど。


「所長、現代でもこの判例は重要なんです」


「そうか」


「はい! 即時取得って、民法の受験勉強でも引っかけ問題が多くて!」


「受験?」


「あ、いえ!」


 危ない。


 また未来の行政書士受験生であることが口から出そうになりました。


「とにかく、非常に重要な判例です!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前、時々妙に詳しいな」


「勉強熱心なので!」


「その割に、さっきは盗品だって騒いでたけどな」


「うっ……」


 痛いところを突かれました。


 でも。


 私は気になっていたことを尋ねました。


「所長」


「何だ」


「どうして、即時取得なんて制度があるんでしょうか」


 所長は私を見ました。


「なぜ、そう思う」


「だって……」


 私は澄江さんの写真を手に取りました。


「持ち主が何も悪いことをしていないのに、勝手に売られた物を取り戻せなくなることがあるんですよね」


「そうだ」


「不公平じゃないですか」


 所長はしばらく黙りました。


 それから。


「では、逆に考えてみろ」


「逆?」


「お前が古時計店で腕時計を買うとする」


「はい」


「店主が時計を持っている。代金を払って、時計を受け取った」


「はい」


「ところが翌日、知らない人が現れる」


「……はい」


「その時計は私のものだ。店主には売る権利がなかった。返せ」


 私は黙りました。


「お前は、店主が本当の所有者かどうか、どうやって完全に調べる?」


「……難しいですね」


「時計には、不動産のような登記制度がない」


「あ……」


 そうです。


 土地や建物なら、登記を確認することができます。


 でも。


 普通の腕時計。


 家具。


 カメラ。


 自転車。


 こうした動産には、所有者をすべて公示する一般的な登記制度はありません。


「だから、取引の安全を守る仕組みが必要になる」


 所長が言いました。


「ただし、買主に何の落ち度もなく、法律上必要な占有を取得していることなどが条件になる」


 私は頷きました。


 なるほど。


 元の持ち主の財産を守ること。


 安心して物を買える社会を守ること。


 この二つが、ぶつかっている。


 即時取得は、その衝突を調整する制度なのです。


「でも所長」


「何だ」


「占有改定だけでは駄目なのは、どうしてですか?」


「物の外観が変わらんからだ」


 所長は机の上に、一本の万年筆を置きました。


「これは俺の万年筆だ」


「はい」


「相馬に売ったことにする」


「はい」


「ただし、これからも俺が相馬のために預かる」


 万年筆は動きません。


 机の上に置かれたまま。


「外から見て、何が変わった?」


「……何も変わっていません」


「そうだ」


 所長は万年筆を指差しました。


「無権利者から買っただけで、他人の所有権を奪う即時取得まで認めるなら、通常の占有移転より慎重でなければならん」


 私は深く頷きました。


 なるほど。


 紙の上で売ったことにするだけなら、いくらでも作れてしまう。


 でも、即時取得が成立すると、元の持ち主の所有権が失われる。


 それほど強い効果を、外観上何も変わらない取引だけに認めていいのか。


 最高裁は。


 そこに、線を引いたのです。


「さて」


 相馬先輩が机に座りました。


「もう一つ調べてある」


「何ですか?」


「大西商事だ」


 先輩は一枚の調査メモを差し出しました。


 大西商事。


 町で機械工具の販売業を営む会社。


 社長は大西修一。


 四十六歳。


 黒田とは長年の取引関係がある。


「黒田は大西から、以前に借金してるらしい」


「借金?」


「ああ。だから時計を買ったという話にも、別の事情があるかもしれん」


「じゃあ、実際には売買していない可能性も?」


「可能性はある」


 先輩は頷きました。


「だが、証拠もなく仮装売買だと決めつけるな」


「はい」


「今回は、仮に売買が有効だったとしても、占有改定だけでは即時取得できない。その点を中心にする」


 なるほど。


 相手が本当に三十万円を払ったのか。


 買主が善意無過失だったのか。


 それも問題にはなり得ます。


 でも。


 そこを争わなくても、決定的な要件が欠けている可能性がある。


 だったら。


 確実なところから攻める。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「原案を作れ」


「はい!」


「名宛人は黒田と大西、それぞれだ」


「分かりました!」


「藤井さん本人の意思を確認し、本人名義で通知する」


「はい!」


「我々が相手方との示談交渉を引き受けるわけではない。紛争が続くなら弁護士に引き継ぐ」


「了解です!」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 さあ。


 反撃開始です。


 武器は。


 昭和の民法。


 そして。


 最高裁の判例です。


 書面を書く作業は、思った以上に難しいものでした。


 最初の原案を、所長が読みます。


「ここ」


「はい」


「『時計は藤井さんの所有物だから、売買契約は無効』」


「……はい」


「消せ」


「ええっ!」


「他人の物を売る契約だからといって、当然に無効になるわけではない」


「あっ!」


 そうでした。


 他人物売買。


 売主に所有権がなくても、売買契約自体が当然に無効になるとは限らない。


 問題は。


 売主が相手に所有権を移転できるか。


 そして、買主が即時取得できるか。


 そこを区別しなければなりません。


「では、ここを……」


 私は書き直しました。


 ――黒田栄作には、本件腕時計について所有権その他の処分権限がない。


 ――したがって、同人と大西修一との売買契約のみをもって、通知人の所有権が当然に失われるものではない。


「よし」


 所長が頷きました。


「次」


「はい」


「『占有改定は法律上無効』」


「……違いますね」


「違う」


 赤線。


 また赤線です。


「占有改定自体は、民法百八十三条で認められています」


「そうだ」


「ただし、即時取得の要件を満たすためには足りない」


「そこを正確に書け」


 私は深呼吸しました。


 なるほど。


 法律文書は難しい。


 相手が間違っているからといって、こちらも大雑把なことを書いていいわけではない。


 一つでも不正確な箇所があれば。


 相手はそこを突いてくる。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「悪党を黙らせたきゃ、こっちの書面に逃げ道を作るな」


「はい!」


「事実と法律を分けろ。推測を事実のように書くな」


「分かりました!」


 私は原稿用紙を新しく取りました。


 二時間後。


 机の上に、内容証明郵便の原案が完成しました。


 黒田栄作宛て。


 差出人。


 藤井澄江。


 私は読み上げました。


「第一。本件腕時計は通知人が所有する動産であり、昭和六十三年某月某日、修理手配を目的として貴殿に預託したものである」


「うん」


「第二。右預託に際し、貴殿は通知人を所有者と明記した預り証を作成し、署名押印している」


「うん」


「第三。通知人は貴殿に対し、本件腕時計の売却又は第三者への所有権移転を承諾した事実はない」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。貴殿は、本件腕時計を大西修一に売却し、占有改定の方法により引き渡した旨を主張している」


「うん」


「第五。しかし、民法第百九十二条による即時取得については、最高裁判所昭和三十五年二月十一日判決に照らし、占有改定による占有取得のみでは、その成立は認められない」


 私は息を吸いました。


 ここです。


 決定的な一文。


「第六。本件腕時計は、現在も貴殿の店舗内に保管されており、大西修一に対する現実の引渡し等、外観上の占有状態に変更を生じさせる占有移転がなされた事実は確認されていない」


 所長が頷きました。


「よし」


「第七。したがって、貴殿の主張する占有改定のみを理由として、大西修一が本件腕時計の所有権を即時取得したとすることはできない」


 私は、少し声を強くしました。


「第八。通知人は、貴殿に対し、預託の目的に反する無断売却及び返還拒絶を理由として、本件預託関係を終了させ、本件腕時計の返還を求める」


 そして。


 最後。


「本通知到達後七日以内に、本件腕時計の所在及び返還について書面により回答されたい。返還がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、所有権に基づく返還請求その他の法的措置を検討する」


 読み終わりました。


 静寂。


 片桐所長が書面を確認します。


 そして。


「相馬」


「はい」


「判例の出典も確認したな」


「民集十四巻二号、百六十八頁です」


「よし」


 所長は頷きました。


「これでいい」


 私は思わず拳を握りました。


「やった!」


 相馬先輩が笑いました。


「何を喜んでる」


「だって、所長から赤線なしです!」


「散々直したあとだろ」


「それは言わないでください!」


 でも。


 私は書面を見つめました。


 怖い。


 本当に怖い書面です。


 黒田は、民法百八十三条を知っていた。


 占有改定という仕組みも知っていた。


 だから。


 百九十二条の即時取得まで成立すると、勝手に考えた。


 しかし。


 昭和三十五年の最高裁判例が、そこに立ちはだかる。


 契約書がある。


 代金を払った。


 占有改定もした。


 それでも。


 即時取得に必要な占有取得とは認められない。


 これでは。


 黒田の主張の中心が、崩れてしまいます。


 ただし。


 片桐所長は、もう一つ指示しました。


「大西にも送れ」


「はい」


「内容は少し変える」


「どう変えるんですか?」


「大西に対しては、所有者が藤井さんであることと、占有改定だけでは即時取得が成立しないことを明確に通知する」


「なるほど」


「そして、今後の現物の受領や転売にも注意を促す」


 私は頷きました。


 なぜなら。


 ここで重要なことがあります。


 黒田は、まだ時計を持っている。


 今後、大西が実際に時計を受け取ったらどうなるのか。


 即時取得の可能性が改めて問題になります。


 しかし。


 この通知を受け取れば。


 少なくとも大西は、


「藤井澄江という本来の所有者がいる」


 という事情を知ることになる。


 その後に現実の引渡しを受けたとしても、所有者について何も知らなかったと主張するのは困難になります。


「先輩!」


「何だ」


「これ、先に通知しておく意味が大きいですね!」


「そうだ」


「時計を実際に渡されてからでは、問題が複雑になる可能性があります」


「だから急ぐんだ」


 相馬先輩は言いました。


「書面は、過去の事実を整理するだけじゃねえ」


「はい」


「これから相手が何を知って、どう動くか。その記録にもなる」


 私は息を呑みました。


 なるほど。


 内容証明郵便。


 ただの警告文ではない。


 相手に、何を、いつ通知したか。


 その記録を残す武器でもあるのです。


 もっとも、内容証明そのものが記載内容の真実を証明してくれるわけではありません。


 また、相手方の受領については配達証明も併用して記録する。


 片桐所長は、そこまで指示しました。


「こはる」


「はい」


「書類は、送れば終わりじゃない」


「……はい」


「後で見返したとき、何が起きたか分かるようにしておけ」


 私は頷きました。


 この時代。


 電子メールもありません。


 スマートフォンもありません。


 相手が何を言ったか、その場で簡単に録音できる環境でもない。


 だからこそ。


 紙に残す。


 日付を残す。


 署名を残す。


 証拠を残す。


 昭和の法律実務は。


 思っていた以上に、泥臭い世界でした。


 内容証明郵便が届いた翌日。


 黒田古美術店では、小さな騒ぎが起きていました。


「……何だ、これは」


 黒田は郵便局から届いた封筒を開きました。


 白い紙。


 整然と並ぶ文章。


 そして。


 昭和三十五年二月十一日。


 最高裁判所判決。


「……最高裁?」


 黒田の額に汗が浮かびます。


「占有改定による占有取得のみでは、即時取得は認められない……?」


 もう一度読みます。


 何度読んでも。


 同じことが書いてある。


「そんな馬鹿な……」


 黒田は机を叩きました。


「民法百八十三条には、占有改定があるだろう!」


 しかし。


 百八十三条と百九十二条は、別の問題でした。


 そのとき。


 電話が鳴ります。


 大西商事の社長、大西修一からでした。


『黒田さん!』


「お、大西さん」


『こっちにも変な書面が来たぞ!』


「は、はい」


『あの時計、本当にあんたの物じゃなかったのか!?』


「いや、その……」


『預り証があるって書いてあるじゃないか!』


 黒田は黙りました。


『しかも最高裁の判例までついてる!』


「……」


『うちの顧問に確認したら、占有改定だけでは即時取得できないって言われたぞ!』


「で、ですが……」


『ですがじゃない!』


 大西の声が響きます。


『これから現物を受け取っても、もう元の所有者がいることを知ってるんだ! そんな状態で即時取得なんか主張できるわけがないだろう!』


 黒田の顔から血の気が引きました。


『俺は三十万円払ったんだぞ!』


「……はい」


『元の持ち主には返せ! 俺との金の問題は、別に片付けてもらうからな!』


 電話が切れました。


 黒田は、ゆっくり椅子に座り込みました。


 金庫の中。


 銀色の腕時計。


 小さな針は、止まったままです。


 時計は。


 最初から最後まで。


 一度も店の外へ出ていません。


 それなのに。


 所有権だけが、都合よく移ったことにしようとした。


 黒田はようやく気づきました。


 自分が頼りにしていた契約書は。


 本当の所有者の権利を消し去る、魔法の紙ではなかったのです。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所に電話が入りました。


「……黒田ですが」


 受話器を取った私は、一瞬固まりました。


 あの古美術店の主人。


 黒田栄作。


 昨日まで、こちらを馬鹿にしていた男です。


「片桐所長をお願いします」


「少々お待ちください」


 所長が受話器を取りました。


「片桐です」


『あの……例の時計の件なんですが』


「はい」


『大西さんとも話しまして……』


「はい」


『……返すことにしました』


 私は思わず顔を上げました。


 相馬先輩もこちらを見ています。


『あの時計は、藤井さんに返します』


 所長は静かに答えました。


「返還のご意向については承りました。具体的な方法は、藤井さんご本人に文書でお知らせください」


『分かりました』


「現物の状態についても、確認が必要です」


『はい……』


 黒田の声は、すっかり小さくなっていました。


『それで、できれば裁判には……』


 所長は落ち着いた声で答えました。


「今後の対応は藤井さんご本人のご判断です。必要があれば弁護士にご相談いただきます」


『……分かりました』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「……返すって言いましたよね?」


「ああ」


「やりましたね!」


 相馬先輩が笑いました。


「まだだ」


「え?」


「現物が戻ってから喜べ」


「あっ」


 そうでした。


 口約束だけで安心してはいけない。


 私たちが作った内容証明も。


 相手に届いたというだけで、物が戻ってくるわけではありません。


 最終的には。


 時計そのものの返還。


 状態の確認。


 そして。


 再び同じ権利を主張されないための書面。


 そこまで必要なのです。


 三日後。


 黒田は藤井澄江さん宛てに、返還日時を記した書面を送りました。


 大西も、自分の名義で確認書を作成しました。


 ――本件腕時計について、占有改定のみによって所有権を即時取得したとの主張は維持しない。


 ――本件腕時計の返還に異議を述べない。


 黒田からは、別の確認書。


 ――本件腕時計が藤井澄江の所有物であることを確認する。


 ――同人の承諾なく第三者に売却した事実を認める。


 ――本件腕時計を返還し、今後所有権を主張しない。


 そして。


 親族の立会いのもと。


 時計は澄江さんの手に戻りました。


 小さな紙箱。


 その中に。


 銀色の腕時計。


 革のベルトには、使い込まれた跡。


 文字盤のガラスには、小さな傷。


 澄江さんは、それをそっと持ち上げました。


「……お父さん」


 誰に聞かせるでもなく。


 小さく呟きました。


 時計の針は、まだ止まっています。


 けれど。


 その時計を持つ澄江さんの手は、震えていました。


 しばらくして。


 ぽたり。


 涙が、文字盤に落ちました。


「よかった……」


 澄江さんは、そう言いました。


「本当に、よかった……」


 一週間後。


 藤井澄江さんが事務所に来ました。


 今日は、少し明るい表情です。


「時計、修理できそうなんです」


「本当ですか!」


 私は身を乗り出しました。


「はい。昔からある時計店で、部品を探してくださるそうで」


「よかった!」


「それで……」


 澄江さんは、鞄から例の腕時計を取り出しました。


「少しだけ、動いたんです」


「え?」


 耳を近づけます。


 かすかに。


 カチ。


 カチ。


 小さな音。


 私は思わず笑いました。


「……動いてる!」


「まだ時間は狂うんですけどね」


 澄江さんも笑いました。


「でも、父が使っていた時計が、また動いたんです」


 私は胸が温かくなりました。


「よかったですね」


「はい」


 澄江さんは時計を掌に載せました。


「父は、時間に厳しい人でした」


「そうなんですか?」


「私が子供の頃、学校に遅刻しそうになると、いつもこの時計を見せて叱るんです」


 私は笑いました。


「厳しいお父様ですね」


「そうなんです」


 澄江さんは微笑みました。


「でも、私が初めて就職した日も、この時計を見ながら駅まで送ってくれました」


 そして。


 少しだけ目を伏せました。


「私にとっては、三十万円より、ずっと大切なものなんです」


 私は頷きました。


 財産には。


 値段がつくものがあります。


 市場価値。


 売買代金。


 査定額。


 でも。


 その人にとっての価値は、数字だけでは測れません。


 父親と過ごした時間。


 一緒に歩いた道。


 叱られた記憶。


 褒められた思い出。


 そんなものまで詰まった腕時計。


 それを。


 勝手に売っていいはずがありません。


 ただし。


 民法は、時として善意の買主を守るため、元の持ち主の所有権が失われることも認める。


 その厳しさも。


 私は今回、知りました。


「でも、不思議ですね」


 澄江さんが言いました。


「何がですか?」


「黒田さん、ずっと時計を持っていたんですよね」


「はい」


「それなのに、売ったからもう自分には返す権利がないって言っていた」


「そうですね」


「でも結局、それが駄目だったんですよね」


 私は少し考えました。


「正確には、占有改定という方法で引き渡しただけでは、即時取得が成立しなかったんです」


「占有改定……」


「はい」


 私は机の上に、消しゴムを置きました。


「たとえば、この消しゴムを黒田さんが持っていたとします」


「はい」


「黒田さんが別の人に売って、これからはその人のために預かります、と約束する」


「はい」


「でも、消しゴムは黒田さんの手元にあるまま」


 私は消しゴムを動かしませんでした。


「こんなふうに、外から見ても占有状態が何も変わらない方法だけでは、即時取得は認められないんです」


 澄江さんは少し驚いた顔をしました。


「なるほど……」


 そして笑いました。


「何だか、当たり前のことみたいですね」


「そうなんです!」


 私は頷きました。


「法律って、難しい言葉が並んでいますけど、ちゃんと理由があるんです」


 そう。


 占有改定。


 即時取得。


 条文だけ見ると、ややこしい。


 でも、具体的な時計の動きを考えると。


 分かります。


 なぜ最高裁が、占有改定だけでは足りないと判断したのか。


 なぜ即時取得には、厳しい条件があるのか。


 そして。


 なぜ黒田の契約書だけでは、澄江さんの時計を奪えなかったのか。


 澄江さんが帰ったあと。


 私は六法を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「即時取得って、怖いですね」


「そうか?」


「はい」


 私は言いました。


「だって、元の所有者が何も悪くなくても、第三者が所有権を取得してしまう場合があるんですよ」


「ああ」


「しかも、盗品や遺失物じゃなくて、本人が預けた物なら、民法百九十三条の二年間の回復請求を当然には使えない」


「そうだ」


「今回だって、もし黒田さんが本当に善意無過失の買主に時計を現実に引き渡していたら……」


「結果は違ったかもしれねえな」


 私は頷きました。


 そうです。


 今回は。


 時計が動かなかった。


 占有改定だけだった。


 だから、即時取得が成立しなかった。


 でも。


 同じ時計でも。


 相手が誰か。


 どんな取引をしたか。


 買ったときに何を知っていたか。


 どんな方法で占有を始めたか。


 そこが変われば、法律上の結論も変わる可能性がある。


「……何だか、一本の時計なのに、ずいぶん大きな話になりましたね」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「民法ってのは、そういうもんだ」


「そういうものですか」


「ああ」


 先輩は机の上の万年筆を手に取りました。


「人の財産が動くんだ。簡単に決めていい話じゃねえ」


 私は少し考えました。


 そして。


「先輩」


「何だ」


「でも、今回一つ分かりました」


「ほう」


「即時取得は、買った人を無条件で守る制度じゃないんですね」


「そうだ」


「元の所有者の権利を奪うほど強い制度だから、条件も重要なんです」


 相馬先輩が頷きました。


「いいじゃねえか」


「褒めました?」


「少しな」


「やった!」


「調子に乗るな」


 私は笑いました。


 でも。


 本当に、そう思います。


 民法は。


 正直な人だけが登場する世界を想定しているわけではありません。


 人の物を勝手に売る人もいる。


 それを知らずに買う人もいる。


 事情を知りながら、都合よく法律を利用しようとする人もいる。


 そんな複雑な社会で。


 誰の権利を守るのか。


 どうすれば安心して取引できるのか。


 その両方を考えている。


 だからこそ。


 簡単な結論にはならないのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今回の時計、もし盗まれた物だったらどうなる?」


「え?」


「藤井さんが自分で預けたんじゃなくて、泥棒に盗まれた時計だったら」


 私は答えました。


「民法百九十三条です! 盗難の時から二年間、被害者は占有者に回復請求ができます!」


「よし」


「それから、民法百九十四条!」


「ほう」


「盗品を善意で、競売や公の市場、または同種の物を販売する商人から買った場合には、代価の弁償が必要になります!」


「そうだ」


「でも、それ以外なら、回復請求に当たって買主が払った代金を弁償する必要はありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし。じゃあ次」


「まだあるんですか!?」


「ある」


 先輩は万年筆を指差しました。


「俺が所長から借りた万年筆を、お前に売った」


「はい」


「お前は、俺の物だと信じて、何も疑わず買った」


「はい」


「俺がお前に万年筆を手渡した」


「はい」


「即時取得は?」


 私は少し考えました。


「有効な売買契約で、平穏、公然に占有を始めていて、善意無過失などの要件を満たせば、成立し得ます!」


「そうだ」


「万年筆は動産ですからね!」


「よし」


 先輩が笑いました。


「じゃあ今度は、手渡さずに俺がそのまま預かったら?」


「占有改定!」


「で?」


「それだけでは即時取得は成立しません!」


「正解」


 私は嬉しくなりました。


 よし。


 理解できています。


 今回の事件。


 ちゃんと身についています。


 ところが。


「じゃあ、これはどうだ」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「俺が持っているこの万年筆、実は所長から盗んだ物だったとする」


「……はい」


「お前は事情を知らずに、俺から買った」


「はい」


「そのあと、所長が返せと言ってきた」


 私は六法を開きました。


「盗品ですから、民法百九十三条の問題になります!」


「そうだな」


「二年間の回復請求!」


「うん」


「でも、私が古物商から善意で買った場合なら、百九十四条で代価弁償が必要になることがあります!」


 私は笑顔で言いました。


「完璧です!」


 相馬先輩はにやりとしました。


「じゃあ、その万年筆を盗んだ本人から買ったら?」


「……え?」


「店で買った場合と、扱いが違うのはなぜだ?」


 私は止まりました。


 なぜ。


 お店で買ったときは、代価弁償が必要になることがある。


 でも、普通の個人から買った場合には、そうとは限らない。


 つまり。


 法律は、買った場所や相手まで見ている。


「……先輩」


「何だ」


「即時取得って、思ったより奥が深いですね」


「今さらかよ」


 相馬先輩が笑いました。


 私はノートを開きました。


 よし。


 今日の教訓を書きましょう。


 即時取得。


 占有改定。


 盗品。


 遺失物。


 そして。


 最高裁昭和三十五年二月十一日判決。


 それらを、頭の中で整理します。


 黒田の古美術店。


 金庫に入ったままの腕時計。


 三十万円の売買契約書。


 占有改定。


 それでも成立しなかった即時取得。


 私は、鉛筆を握りました。


 そして。


 一行。


 ――即時取得は、買っただけでは成立しない。占有改定だけでは、他人の所有権を奪えない。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか、先輩!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「やった!」


「ただし」


「はい?」


「即時取得に必要なほかの要件も忘れるなよ」


「もちろんです!」


 私は胸を張りました。


「動産!」


「うん」


「有効な取引行為!」


「うん」


「平穏、公然、善意無過失!」


「よし」


「そして占有取得!」


「そうだ」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を学んだ」


 私は少し考えました。


「法律は、契約書に書いてあることだけを見ているわけじゃない、ということです」


「うん」


「物が実際にどう扱われているか、誰が持っているか、どうやって占有が移ったかも重要なんですね」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は嬉しくなりました。


 すると。


 相馬先輩が、机の上の万年筆を持ち上げました。


「じゃあ、こはる」


「はい?」


「この万年筆、お前に売ってやろうか」


「え?」


「百円でいいぞ」


「安い!」


「どうだ?」


 私は万年筆を見ました。


 黒い軸。


 金色のペン先。


 なかなか立派なものです。


「買います!」


「よし」


 先輩が頷きました。


「ただし、万年筆は俺がそのまま預かる」


「……え?」


「占有改定だ」


「ちょっと待ってください!」


 私は慌てて立ち上がりました。


「その万年筆、さっき所長のものだって言ってましたよね!?」


「ああ」


「本当に先輩のものなんですか!?」


 相馬先輩はにやりと笑いました。


「どう思う?」


「……!」


 私は所長を見ました。


 所長は帳簿を整理しながら、静かに言いました。


「俺のだ」


「やっぱり!」


「相馬に貸している」


「完全に今回の事件じゃないですか!」


 相馬先輩が大笑いしました。


「おお、よく気づいたな!」


「気づきますよ!」


「で、買うか?」


「買いません!」


「何でだ」


「そもそも先輩に処分権限がないじゃないですか!」


「即時取得があるだろ」


「占有改定だけじゃ駄目です!」


「おお」


「しかも、もう所長のものだって知ってます!」


 私は腕を組みました。


「善意じゃありません!」


 相馬先輩は笑いながら万年筆を所長に返しました。


「よし。合格だ」


「勝手に試験しないでください!」


 所長が、珍しく小さく笑いました。


 私は頬を膨らませました。


 まったく。


 この事務所は油断も隙もありません。


 でも。


 少しだけ、誇らしい気持ちにもなりました。


 民法百九十二条。


 即時取得。


 最初は。


 他人の物を買っても、自分のものになってしまう不思議な制度。


 そんなふうにしか思っていませんでした。


 けれど。


 今回の事件で分かりました。


 法律は、買った人だけを守るためにあるわけではない。


 元の持ち主の権利と、取引の安全。


 その両方を見ながら、厳しい条件を設けている。


 そして。


 黒田が見落としたように。


 一つの条文だけを知っていても、法律を理解したことにはならない。


 百八十三条。


 百九十二条。


 百九十三条。


 百九十四条。


 それぞれの役割を知って、初めて全体が見えてくるのです。


 窓の外。


 夕暮れの商店街。


 時計屋の前を、親子が歩いていきます。


 どこか遠くで、踏切の警報機が鳴りました。


 私は、藤井澄江さんのことを思いました。


 お父さんの時計。


 ようやく動き始めた、小さな針。


 あの時計は、きっとこれからも澄江さんの人生を刻んでいくのでしょう。


 そして私は、もう一度ノートを見ました。


 ――即時取得は、買っただけでは成立しない。占有改定だけでは、他人の所有権を奪えない。


 法律の勉強は、暗記ばかりだと思っていました。


 条文を読んで。


 要件を覚えて。


 判例を覚えて。


 過去問を解く。


 でも。


 実際の事件に触れると、違って見えます。


 占有改定。


 たった四文字。


 それだけで。


 父親の形見を守れるかどうかが、変わることもある。


 最高裁判例。


 たった一つの判断。


 それが、何十年も後の町の小さな事件で、人を救うことがある。


 私は六法を閉じました。


「相馬先輩!」


「何だ!」


「民法って、やっぱり面白いですね!」


「またそれか!」


「だって、時計が動かないことが勝負の決め手になるなんて!」


 先輩は呆れた顔をしました。


「こはる」


「はい!」


「今回、時計は最後に動いたんだろ」


「……あっ」


 そうでした。


 澄江さんの時計。


 修理が始まって。


 止まっていた針が、少しずつ動き出した。


 私は思わず笑いました。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「時計が動かなかったから、持ち主の権利を守れた」


「うん」


「そして、持ち主の元に戻ったから、時計がまた動き始めた」


 相馬先輩は一瞬黙りました。


 それから。


「……うまいこと言ったつもりか?」


「えへへ」


「調子に乗るな」


「ひどい!」


 でも。


 片桐所長は、静かに頷いていました。


 昭和六十三年。


 民法百九十二条。


 即時取得。


 買っただけでは、自分のものにならない。


 そして。


 契約書に何を書いても、法律の要件を満たさなければ、他人の財産を奪うことはできない。


 今日の私は。


 そのことを、一本の腕時計から教わりました。


 カチ。


 カチ。


 止まっていた時間が、また動き出す。


 法律は、時として財産の持ち主を変えてしまう。


 けれど同時に。


 誰かの大切な時間を、取り戻す力にもなるのです。


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