[民法・消滅時効]法理編 こはるノート
十年経てば、借金は消える。
五年経てば、もう返さなくていい。
そう聞くと、消滅時効は簡単な制度に思えます。
でも。
法律の時計は、普通の時計とは少し違います。
いつから動き始めたのか。
何年間、動き続けたのか。
途中で振り出しに戻ったことはないか。
そして。
そもそも、その時計は誰の、どんな権利を数えているのか。
そこを間違えると。
返してもらえるはずの百万円を諦めたり。
消えたと思った借金を、突然請求されたり。
人生が大きく変わってしまうのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きな文字。
――こはるノート・民法編。
今日のテーマは。
消滅時効。
そして、私は今。
たった一万円が九十九万円を救った、あの事件を思い出していました。
◇
「……先輩」
「何だ」
「私、消滅時効って、数字を覚えれば終わりだと思ってました」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「ほう」
「五年とか十年とか二十年とか」
「ああ」
「でも、違ったんですね」
「ようやく気づいたか」
「ひどい!」
私はノートを開きました。
そこには、三つの日付が書かれていました。
昭和五十六年五月十日。
昭和五十六年十一月三十日。
昭和六十年十二月二十日。
最初は、ただの年月日でした。
でも今なら分かります。
それぞれ、まったく違う意味がある。
「まず、森下澄江さんの事件を振り返ります!」
「また始まったな」
「復習は大事です!」
澄江さん。
五十八歳。
洋裁店を営む女性。
昔からの知り合いだった河野修一に、百万円を貸しました。
貸したのは、昭和五十六年五月十日。
返済期限は、同年十一月三十日。
ところが河野は、期限になっても返済しませんでした。
そして七年後。
こんな手紙を送ってきたのです。
――五年以上経過したので、借金は時効により消滅した。
――消滅時効を援用する。
「嫌な手紙でしたね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「でも、先輩。あの人、五年という数字だけは知っていたんですよね」
「そうだ」
「商事債権の短期消滅時効です」
「よく覚えてたな」
「忘れませんよ!」
私はノートに大きく書きました。
――昭和の民法と商法。
民事債権は原則十年。
商事債権は原則五年。
そして。
――令和の改正民法。
知った時から五年。
権利を行使できる時から十年。
この違い。
今回の事件で、私が最初に踏んだ地雷でした。
「先輩」
「何だ」
「現代の民法百六十六条では、債権の消滅時効に二つの起算点があるんです」
「二つ?」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
「一つは、権利を行使できることを知った時から五年」
「うん」
「もう一つは、権利を行使できる時から十年」
「……知っているかどうかで変わるのか」
「そうです!」
私は大きく丸をつけました。
主観的起算点。
客観的起算点。
「でも、昭和六十三年には、まだこの仕組みはありません」
「そうだな」
「当時の民法百六十六条は、消滅時効がいつから進むかを定める条文でした」
私は、この時代の六法を開きます。
旧民法百六十六条一項。
――消滅時効ハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス。
「……カタカナ!」
私は思わず叫びました。
「うるせえな」
「だって、先輩! 条文がカタカナなんですよ!」
「昔からそうだろ」
「私の知ってる民法は、もっと読みやすいんです!」
「また妙なこと言ってるな」
そうでした。
民法の口語化は、平成十六年の改正です。
この昭和六十三年では、まだ古い文語体の条文が並んでいます。
時代を間違えると。
内容だけでなく、条文の見た目まで変わるのです。
「それで、こはる」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「今回の貸金は、いつから時効が進む」
「はい!」
私は日付を指さしました。
「返済期限を定めた貸金ですから、原則として、その期限が到来し、権利を行使できるようになった時からです」
「そうだ」
「お金を貸した五月十日から、機械的に数えるわけではありません」
ここが重要です。
昭和五十六年五月十日。
貸付日。
昭和五十六年十一月三十日。
返済期限。
貸した日と、返すべき日は違います。
「お金を貸した瞬間から、どんな貸金でも時効が進むわけじゃないんですね」
「そのとおり」
所長が頷きました。
「まず、いつ請求できる権利なのかを見ろ」
私はノートに書きました。
――時効の起算点は、契約した日とは限らない。
よし。
最初の落とし穴、突破です。
◇
「では、そもそも消滅時効とは何か!」
私はノートの中央に、大きく書きました。
――消滅時効。
一定期間、権利を行使しない状態が続いた場合に、法律の定める要件のもとで、その権利を時効によって消滅させる制度。
「なんでそんな制度があるんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「え?」
「百万円貸したなら、百年経っても返してもらえばいいだろ」
「それは……」
私は言葉に詰まりました。
確かに。
お金を貸した人からすれば、いつまでも返してもらいたい。
けれど。
百年前の貸金を突然請求されたら?
借用証書はなくなっているかもしれない。
当時の関係者は亡くなっているかもしれない。
返済済みだったとしても、領収書が残っていないかもしれない。
「……証拠がなくなります」
「そうだ」
「それに、昔の法律関係をいつまでも不安定なままにすると、困ることがあります」
所長が頷きました。
「そういうことだ」
私は書きました。
長期間続いた事実状態の尊重。
証拠が散逸することへの対応。
権利の上に長く眠る者を保護し続けるべきかという問題。
「つまり、時効には理由があるんですね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「借金を踏み倒す奴を喜ばせるための制度じゃねえ」
「ですよね!」
「だが、長い間放置した権利を、いつまでも同じ条件で請求できるとも限らねえ」
私は頷きました。
ここが民法の難しいところです。
債権者を守る。
でも、債務者の生活や取引の安定も守る。
どちらか一方だけを見ているわけではありません。
「ところで、先輩」
「何だ」
「時効の期間が経過したら、裁判所が勝手に『はい、借金消滅!』って判断するんですか?」
「しねえよ」
「ですよね!」
私はノートに書きました。
――時効の援用。
民法百四十五条。
当事者が時効を援用しなければ、裁判所は時効によって裁判することができない。
「河野さんは、手紙に書いてましたね」
「ああ」
「『消滅時効を援用する』って」
「そこだけはきっちりしてたな」
先輩が苦笑しました。
「でも、時効期間が完成していなければ、援用しても意味がありません」
「そういうことだ」
私は頷きました。
時効期間。
起算点。
中断事由。
援用。
全部そろえて、初めて判断できる。
「それから、援用という言葉にも注意ですね」
私は書き足しました。
時効の利益を受ける立場の人が、その利益を受ける意思を示すこと。
ただし、誰でも他人の時効を好き勝手に援用できるわけではありません。
昭和の判例では、時効によって直接利益を受ける者かどうかが重要な判断基準になっています。
「なるほど」
相馬先輩が言いました。
「時間が経っただけで、全部終わりじゃねえんだな」
「そうなんです!」
私は少し得意になりました。
でも。
この先に、もっと厄介な論点が待っていたのです。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「今度は、五年と十年の違いだ」
「はい!」
「森下さんの貸金が、なぜ商事債権の問題になった?」
私はノートを見ました。
河野修一。
金物屋の経営者。
借りた百万円は、商品の仕入れ資金。
「河野さんが、営業のために借りたお金だったからです」
「そうだ」
「昭和六十三年には、商法五百二十二条があるんですよね」
「ああ」
商行為によって生じた債権。
原則として五年間で消滅時効にかかる。
ただし、ほかの法令に、それより短い時効期間が定められていれば、その規定が優先されることもある。
「でも、先輩」
「何だ」
「貸した澄江さんは、商売としてお金を貸していたわけじゃありませんよね」
「そうだな」
「だったら、普通の民事債権になりませんか?」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「いい質問だ」
「褒めました?」
「まだだ」
「またですか!」
先輩は六法を開きました。
「商法三条を見ろ」
「三条……」
私はページをめくります。
そこには、一方的商行為についての規定がありました。
「一方のために商行為となる行為については、原則として双方に商法が適用されるんですね」
「そうだ」
「じゃあ、貸した側が商人じゃなくても、借りた側の営業のための行為なら、商事債権になることがある」
「ああ。ただし、具体的な契約の性質は確認する必要がある」
私は頷きました。
ここも、ややこしい。
貸主が個人だから、必ず民事債権。
借主が商人だから、必ず商事債権。
そんな単純な判断ではありません。
契約が、商行為によって生じたものといえるのか。
その点を調べる必要がある。
「つまり、河野さんの件では、五年の商事消滅時効が適用される可能性があったんですね」
「そういうことだ」
「でも、結局は時効が完成していなかった」
「なぜだ?」
私は大きく息を吸いました。
「昭和六十年十二月二十日に、債務を承認したからです!」
よし。
ここはもう忘れません。
たった一万円。
しかし、その一万円が、事件をひっくり返したのです。
◇
「次は、昭和の民法がいかに恐ろしかったかです!」
私は新しいページを開きました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「何だ、その言い方」
「だって、先輩! 昔の消滅時効、種類が多すぎます!」
「そうか?」
「多いですよ!」
私は六法を指さしました。
「一般債権は十年」
「うん」
「商事債権は五年」
「うん」
「でも、それだけじゃないんです!」
私はページをめくりました。
旧民法百六十九条。
定期給付債権の五年。
旧民法百七十条。
三年の短期消滅時効。
旧民法百七十二条。
二年の短期消滅時効。
旧民法百七十三条にも、二年の規定。
さらに。
旧民法百七十四条。
一年!
「……一年ですよ、先輩!」
「そうだな」
「一年経っただけで、時効になる債権があるんです!」
私は頭を抱えました。
昭和の民法。
容赦がありません。
「例えば、旅館の宿泊料や飲食店の飲食代などですね」
「ああ」
「昔は、そうした債権に一年の短期消滅時効が定められていた」
「そうだ」
「商品代金や、職人さんの仕事に関する報酬などには、二年のものもあった」
「うん」
「医師の診療に関する債権などには、三年のものがあった」
私はノートに書きました。
昭和の消滅時効。
権利や職業によって、期間が細かく違う。
「……何でこんなに分けたんですか?」
私は聞きました。
片桐所長が答えました。
「取引の性質が違うからだ」
「性質?」
「日々の飲食代と、大きな金銭貸借では、取引の頻度も記録の残し方も違う」
「なるほど」
「小さな取引を、何十年も争わせることが適切とは限らん」
私は頷きました。
確かに。
昔の商売では、すべての取引が現在のように電子記録に残るわけではありません。
小さな伝票。
手書きの帳簿。
口約束。
そうした取引では、長い年月が経つほど証拠が失われやすい。
だから、短い時効期間を定めることにも理由があった。
「でも、所長」
「何だ」
「職業によって時効が違うって、実務では大変ですよね」
「大変だ」
「だって、同じお金の請求でも、誰が何のために請求しているかで、期間が変わるんですよ」
「そうだな」
「しかも、古い制度では分類が分かりにくい!」
私は机を叩きました。
相馬先輩が眉をひそめます。
「机を叩くな」
「はい……」
でも。
ここが、現代の改正につながるのです。
令和二年施行の債権法改正。
職業別の短期消滅時効は廃止。
商法五百二十二条の商事消滅時効も廃止。
原則として、民法百六十六条の統一的な仕組みに整理されました。
「先輩!」
「何だ」
「未来では、商人だから五年、普通の人だから十年、っていう大きな区別がなくなるんです!」
「ほう」
「しかも、職業別の一年、二年、三年という複雑な分類もなくなる!」
「そりゃ、随分変わるな」
「はい!」
私はノートに書きました。
――改正の方向。
複雑で分かりにくい短期消滅時効を整理する。
取引の種類による不合理な違いを減らす。
一般の人にも分かりやすいルールにする。
「ただし、すべての債権が五年になったわけではありません」
私は自分で付け加えました。
「そこが大事です」
相馬先輩が笑いました。
「自分で質問して、自分で答えてやがる」
「勉強です!」
現代の民法でも。
十年という期間は残っています。
さらに。
生命や身体の侵害。
不法行為。
定期金債権。
確定判決による権利。
こうしたものには、特別な規定があります。
「結局、全部五年って覚えたら間違いなんですね」
「当たり前だ」
私はため息をつきました。
昭和は複雑。
令和は整理された。
でも。
令和だって、決して単純ではありません。
法律。
どの時代でも、油断できませんね。
◇
「さて、一番大事なところに行くぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「森下さんの事件で、何が時効を中断させた?」
「河野さんの承認です!」
「その承認って、何だ?」
私はノートを開きました。
――債務の承認。
債務者が、相手方の権利や自分の債務が存在することを認めること。
「河野さんは、昭和六十年に一万円を返しました」
「ああ」
「さらに、残り九十九万円を返すと書面に書きました」
「そうだ」
「だから、債務の承認があったと判断できたんです」
私は六法を指さしました。
旧民法百四十七条。
時効の中断事由。
請求。
差押え、仮差押え又は仮処分。
承認。
「この三つが、当時の代表的な中断事由なんですね」
「ああ」
「でも先輩。どうして『中断』なのに、最初から数え直すんですか?」
「何?」
「普通、中断って言ったら、いったん止めるだけじゃないですか」
私は鉛筆を机の上に置きました。
「例えば、五年の時効が三年進んだところで中断したら」
「ああ」
「普通の言葉なら、残り二年から再開する気がするんです」
相馬先輩が頷きました。
「だが、法律上の中断は違う」
「そうなんです!」
旧民法百五十七条。
中断した時効は、中断の事由が終了した時から、新たに進行を始める。
つまり。
三年進んだものを、残り二年にするのではありません。
それまでの時効期間をリセットする。
そこから新しく数え直す。
「じゃあ、河野さんの事件で考えてみます!」
私はノートに時間の流れを書きました。
昭和五十六年十一月末。
返済期限。
時効の進行開始。
昭和六十年十二月二十日。
一万円の一部弁済と残債務の承認。
時効中断。
そして。
昭和六十三年。
現在。
「商事債権の五年が適用されるとしても、昭和六十年の承認によって、それまで進んだ時効期間はリセットされる」
「そうだ」
「だから、昭和六十三年にはまだ五年経っていない!」
「正解」
私は大きく丸をつけました。
――承認は、時効の時計を振り出しに戻す。
「それから!」
私は続けました。
「承認って、必ずしも『私は借金を認めます』って明確に言わなきゃいけないわけではないんですよね」
「そうだ」
「一部弁済や利息の支払なども、事情によっては債務の承認になります」
河野さんは、一万円を返しました。
そして、残額を明記した書面を残しました。
だから今回、強い証拠になった。
「逆に言えば、ただ一万円が動いたというだけで、必ずすべての借金について承認が成立するわけではありません」
私は書き足しました。
複数の借金があった場合。
どの債務について支払ったのか。
どの範囲の債務を認めたのか。
その判断が問題になります。
「よく覚えとけ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「何でもかんでも一部弁済があれば全部リセット、じゃねえぞ」
「はい!」
私は頷きました。
今回、河野さんの領収書には、
――百万円のうち一万円。
――残金九十九万円。
と書かれていました。
これが重要だったのです。
「でも、先輩」
「何だ」
「時効が完成したあとで一万円を返した場合は、どうなるんですか?」
先輩が、ぴたりと止まりました。
「……ほう」
私は身を乗り出しました。
「今度こそ褒めました?」
「いいところに気づいたな」
「やった!」
先輩は六法を閉じました。
「時効完成前の承認と、完成後の承認は分けて考えろ」
「はい」
「完成前なら、時効中断の問題だ」
「そうです」
「完成後なら、時効の利益を受ける立場の者が、どんな行動をしたかが問題になる」
私は頷きました。
時効が完成した後であっても。
債務者が債務を承認するような行動を取った場合。
その後に消滅時効を援用することが、信義則上許されないと判断されることがあります。
最高裁昭和四十一年四月二十日の大法廷判決。
時効完成後の債務承認と、時効援用の可否に関する重要な判例です。
「つまり!」
私は言いました。
「時効完成後に借金を認めたら、事情によっては、もう時効を援用できなくなることがあるんですね」
「そうだ」
「でも、今回の河野さんは、そもそも五年が完成する前に承認していました」
「ああ」
「だから、時効中断が直接の問題だった」
「そういうことだ」
私はノートに二本の線を引きました。
――完成前の承認。
時効中断。
――完成後の承認。
時効援用が信義則上許されない場合がある。
「……危ない」
私は呟きました。
「何がだ?」
「どっちも『借金を認めた』という出来事なのに、時効の完成前か後かで、法律上の説明が違うんです」
「だから日付を調べるんだよ」
私は深く頷きました。
日付。
本当に大切です。
何年何月何日。
その一行を間違えれば、法律上の結論まで変わる。
だから所長は、最初に返済期限と一部弁済の日を確認したのですね。
◇
「さて、次」
片桐所長が口を開きました。
「はい!」
「内容証明を送れば、時効は必ず中断するか」
私は即答しました。
「いいえ!」
「なぜだ」
「内容証明郵便という形式だけで、確定的な時効中断の効力が生じるわけではないからです!」
私は、あの日の赤鉛筆を思い出しました。
私の原案。
――内容証明を送ったので、時効は中断した。
所長に真っ赤に直された一文です。
「旧民法百五十三条ですね」
「ああ」
「催告をしても、その後六か月以内に法律上必要な措置を取らなければ、時効中断の効力は生じない」
裁判上の請求。
支払督促。
当時の法令で定められた仮差押えなどの手続。
催告だけで終わらせてはいけない。
「ここ、本当に大切ですね」
「そうだな」
「内容証明を出したから、もう安心だと思って放置したら……」
「時効が完成する危険がある」
私は頷きました。
内容証明郵便は、送った文書の内容や差出しの事実を証拠として残すために役立ちます。
配達証明も利用すれば、相手方への配達の事実を示す資料になります。
けれど。
内容証明郵便が、裁判の判決になるわけではありません。
それだけで財産を差し押さえることもできません。
「所長」
「何だ」
「だから行政書士は、時効が迫っていたら弁護士につなぐ必要があるんですね」
「そうだ」
「裁判上の請求などが必要になるなら、そこで役割を分ける」
片桐所長が頷きました。
「書類で整理できることは整理する。だが、訴訟や法律紛争の代理交渉を引き受けるわけにはいかん」
「はい!」
私は書きました。
――行政書士の武器は、事実を整理し、正確な書類にすること。
――時効が迫る紛争では、必要な法的手段を見誤らないこと。
相馬先輩が鼻で笑いました。
「声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「出ました!」
「何がだ」
「先輩の決め台詞です!」
「うるせえ」
私は笑いました。
でも、本当に。
今回の事件では、河野さんの署名押印した一枚の領収書が、決定的な意味を持ったのです。
◇
「では、次の論点に行きます!」
私はノートをめくりました。
――所有権の消滅時効。
相馬先輩が顔を上げました。
「おう」
「先輩。二十五年間使っていない土地は、所有権が消えるんですか?」
「消えねえよ」
「ですよね!」
私は大きく書きました。
――所有権は、消滅時効にかからない。
「これは昭和でも令和でも同じです」
「ああ」
「土地を二十年使っていないからといって、それだけで所有権が消えるわけではありません」
ただし。
ここには、別の制度があります。
取得時効。
私はノートの横に書きました。
「例えば、誰かが他人の土地を長期間、所有の意思をもって、平穏かつ公然と占有していた場合」
「ああ」
「要件を満たせば、取得時効によって所有権を取得することがあります」
相馬先輩が頷きました。
「つまり、所有者が使ってねえから消えるんじゃなく、他人が取得時効の要件を満たすかどうかが問題になるわけだ」
「そうです!」
私は二重線を引きました。
消滅時効。
権利を行使しないことなどによって、一定の権利が消滅する制度。
取得時効。
一定の状態が長く続くことによって、権利を取得する制度。
「同じ時効でも、方向が逆なんですね」
「そうだな」
「消えるのか、取得するのか」
私は頷きました。
そして続けました。
「では、所有権以外の財産権はどうでしょう!」
旧民法百六十七条二項。
現代の民法百六十六条二項。
債権又は所有権以外の財産権。
原則として、権利を行使できる時から二十年間行使しないときは、消滅時効にかかる。
例えば。
地上権。
永小作権。
地役権。
ただし、権利の種類による特則や、行使の有無についての判断にも注意が必要です。
「所有権は消滅時効にかからない」
「うん」
「でも、所有権以外の財産権は、原則二十年」
「そうだ」
「この違いも重要ですね」
私はさらに書きました。
――抵当権。
民法三百九十六条。
ここで、相馬先輩が口を挟みました。
「さて問題だ」
「はい!」
「借金を担保するために土地へ抵当権を設定した。二十年間、抵当権を実行しなかったら、債務者に対して抵当権だけが時効で消えるか?」
「いいえ!」
「理由は?」
「民法三百九十六条です!」
抵当権は、債務者及び抵当権設定者に対しては、その担保する債権と同時でなければ、時効によって消滅しません。
「つまり、担保している債権と抵当権を切り離して、単純に二十年だから消える、とは言えないんですね」
「そういうことだ」
「ただし、第三者との関係では別の検討が必要になります」
私はノートに赤線を引きました。
所有権。
消滅時効なし。
所有権以外の財産権。
原則二十年。
抵当権。
三百九十六条の特則に注意。
「……整理すると、すっきりしますね」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「最初から整理しろよ」
「今、してるんです!」
◇
「次は、人の命や身体が関係する時効です」
私は鉛筆を持ち直しました。
ここからは、少し重い話になります。
「先輩。例えば、工事現場で事故が起きて、人が大けがをしたとします」
「ああ」
「その損害賠償請求権の時効は、普通の貸金と同じでいいんでしょうか?」
相馬先輩は、少し考えました。
「怪我の治療が長引くこともあるな」
「そうなんです」
私は頷きました。
人の生命や身体。
それは、財産とは違う重みを持っています。
怪我をした直後には、損害の全体像が分からないこともある。
後遺障害が問題になることもある。
長い治療が必要になることもある。
だから現代の民法は、こうした損害賠償請求権について、特別の時効期間を設けています。
「まず、契約上の債務不履行などによる生命・身体の侵害です」
現代の民法百六十七条。
人の生命又は身体の侵害による損害賠償請求権。
権利を行使できることを知った時から五年。
権利を行使できる時から二十年。
「一般の債権では、客観的な期間が十年ですよね」
「ああ、お前の未来の法律ではな」
「そうです!」
「それが二十年になるのか」
「はい。生命・身体の侵害については、保護を厚くしているんです」
私は大きく丸をつけました。
ただし。
この百六十七条は、昭和六十三年には存在しない内容です。
当時の百六十七条は、一般債権の十年などを定めていました。
「先輩、また条文番号が変わっています」
「ややこしいな」
「本当にそうなんです!」
でも。
ここで終わりではありません。
「次は、不法行為です!」
私は別のページを開きました。
民法七百二十四条。
不法行為による損害賠償請求権。
昭和六十三年の条文では、被害者又は法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間。
そして、不法行為の時から二十年という期間が定められています。
「先輩、ここで大事なのが、何を知ったかです」
「何を?」
「損害と加害者です!」
私は書きました。
不法行為。
損害を知った。
加害者を知った。
そこから三年。
「単に事故が起きた日から三年と覚えるのは危険です」
「そうだな」
「誰に損害賠償請求できるのか分からない場合もありますから」
私は頷きました。
そして。
現代の民法七百二十四条の二。
人の生命又は身体を害する不法行為の場合。
この三年間が、五年間に延長されます。
「つまり!」
私は大きく書きました。
現代の不法行為。
原則は、損害及び加害者を知った時から三年。
生命・身体を害する不法行為では五年。
不法行為の時から二十年。
「ここ、試験で絶対に引っかかりそうです!」
「お前は何でも試験に結びつけるな」
「受験生ですから!」
私は胸を張りました。
でも、もう一つ注意が必要です。
昭和六十三年当時。
民法七百二十四条後段の二十年という期間については、後に除斥期間と解する最高裁判例が現れます。
それは昭和六十四年を経た平成元年のこと。
この時代では、まだ未来の判例です。
現代の改正民法では、二十年の期間についても消滅時効として整理されています。
「……先輩」
「何だ」
「法律って、条文だけじゃなくて、判例も時代によって変わるんですね」
「そうだ」
「だから昭和六十三年の事件に、未来の最高裁判例を当然のように持ち込んではいけない」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私はノートに書きました。
――法律は、その事件の時代に合わせて読む。
また一つ。
転生者として、大切な教訓が増えました。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「毎月一万円ずつ受け取る権利があったら、時効はどうなる?」
「毎月一万円ですか?」
「ああ。例えば、年金のように、一定期間ごとに金を受け取る権利だ」
私はノートをめくりました。
――定期金債権。
「これも特別な規定があります!」
昭和六十三年の民法百六十八条。
定期金債権は、第一回の弁済期から二十年間行使しないとき、又は最後の弁済期から十年間行使しないときは、消滅するという規定でした。
「第一回から二十年」
「ああ」
「最後の弁済期から十年」
「そうだ」
「……ややこしい!」
私は頭を抱えました。
しかし、現代の民法百六十八条では、規定が変わっています。
定期金債権から生じる各債権を行使できることを知った時から十年。
又は、それら各債権を行使できる時から二十年。
この期間行使しない場合について、定期金債権の消滅時効が定められています。
「ここで大事なのは、基本となる定期金債権と、そこから生じる一回一回の給付請求権を区別することです」
「ほう」
「毎月支払われるお金と、そのお金を継続して受け取る基本的な権利は、同じものではありません」
私は二重線を引きました。
――基本権と支分権を混同しない。
そして、民法百六十八条二項。
定期金債権者は、時効の更新の証拠を得るため、債務者に承認書の交付を求めることができます。
「これ、今回の事件と似ていますね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「証拠を残すってところか」
「はい!」
河野さんの事件でも、残額を認める書面が決定打になりました。
定期金債権でも、権利が存在することを確認できる証拠は大切です。
「時効って、結局、証拠が大事なんですね」
「何度も言ってるだろ」
「でも、今なら本当に分かります!」
私は笑いました。
法律上の期間を知っていても。
それを証明できなければ、争いになったとき困ることがある。
今回の澄江さんの事件は、それを教えてくれたのです。
◇
「最後に、判決で確定した権利です!」
私は新しいページを開きました。
相馬先輩が眉を上げます。
「まだあるのか」
「あります!」
「民法って面倒だな」
「先輩が言いますか!」
私は大きく書きました。
――確定判決によって確定した権利。
例えば。
短い時効期間が適用される債権について裁判を起こした。
そして、支払を命じる判決が確定した。
この場合。
原則として、十年より短い時効期間の定めがあっても、時効期間は十年になります。
「現代では民法百六十九条ですね」
「ああ」
「でも、昭和六十三年では百七十四条の二です」
「また番号が違うのか」
「はい!」
私は大きなため息をつきました。
もう慣れてきました。
昭和と令和。
条文番号を間違えると、全然違う内容になってしまいます。
「先輩、どうして判決で確定すると、十年になるんでしょう?」
「裁判で権利が確定したからだろ」
「そうですね」
私は頷きました。
権利があるかどうかを裁判で争い、判決で確定した。
それなのに、もとの短い時効期間のまま、すぐ消滅することになれば、権利者の救済が不十分になりかねません。
そこで、短い時効期間の債権についても、確定判決などによって確定した権利は、十年という期間が適用される仕組みがあるのです。
「ただし!」
私は鉛筆を立てました。
「何だよ、今度は」
「確定した時点で、まだ弁済期が来ていない債権には、この十年の特則は適用されません!」
私はノートに書きました。
――判決確定時に弁済期未到来の債権は、別。
「つまり、何でも判決が出れば十年になる、と覚えるのは危険なんですね」
「そういうことだ」
所長が頷きました。
「条文には、例外がある」
「はい!」
私は笑いました。
もう驚きません。
民法には例外がある。
それは、今回の事件で散々思い知らされましたから。
◇
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
私はノートを閉じかけました。
でも。
ふと、手が止まりました。
「所長」
「何だ」
「今回の事件、もしあの領収書がなかったら、どうなっていたんでしょう」
片桐所長は、しばらく黙っていました。
それから答えました。
「ほかの証拠を探すことになっただろうな」
「……はい」
「承認の事実を立証できなければ、時効の成立を争うのが難しくなる場合もある」
「そうですよね」
私は頷きました。
澄江さんが持っていた、一枚の領収書。
昭和六十年十二月二十日。
一万円。
残金九十九万円。
あの紙がなければ。
河野さんは、時効を主張し続けていたかもしれません。
もちろん、領収書がないからといって、承認がなかったことになるわけではありません。
しかし。
何を、どうやって証明するのか。
そこが難しくなる。
「先輩」
「何だ」
「消滅時効の勉強って、数字だけじゃ駄目ですね」
「ああ」
「証拠と、日付と、相手の行動まで見ないと」
「そうだ」
私はノートを開き直しました。
今日、学んだこと。
昭和六十三年の一般債権は、原則十年。
商事債権は、原則五年。
職業別の短期消滅時効も存在する。
現代では、原則として知った時から五年、権利行使できる時から十年。
所有権には消滅時効がない。
債権又は所有権以外の財産権は、原則二十年。
不法行為や生命・身体の損害には、特別の期間がある。
定期金債権や確定判決による権利にも、特則がある。
そして。
昭和の時効中断。
現代の時効更新。
その中心にある、承認。
「……多い!」
私は思わず叫びました。
相馬先輩が吹き出しました。
「今さらかよ」
「こんなの全部、丸暗記できません!」
「だったら、どうする」
私は少し考えました。
そして答えました。
「事件と結びつけて覚えます」
所長が顔を上げました。
「ほう」
「今回なら、河野さんの百万円」
「うん」
「商事債権だから五年が問題になる」
「うん」
「でも、一万円の返済と残額の承認があった」
「そうだ」
「だから時効が中断した」
私は微笑みました。
「これなら、もう忘れません」
相馬先輩が頷きました。
「そういう勉強をしろ」
私は最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書こう。
少し考えて。
鉛筆を動かしました。
――消滅時効は「何の権利か・いつからか・途中で何があったか」で決まる。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「悪くねえ」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも、この一行は大事です。
五年。
十年。
二十年。
数字は覚える必要があります。
けれど、数字だけでは答えが出ない。
どんな権利なのか。
いつから行使できるのか。
途中で承認や裁判上の請求などがあったのか。
そして、時効を援用できる状況なのか。
それらを整理して、初めて結論が見えてくる。
今回の森下さんの事件は、まさにそうでした。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「一つ聞いていいか」
「何でしょう!」
「お前、さっきから未来の法律ばかり話してるけど」
……。
私は固まりました。
「どこでそんな知識を覚えたんだ?」
「えっ」
「昭和六十三年にはない条文を、やたら詳しく知ってるよな」
まずい。
非常にまずい。
転生者。
正体がばれる危機です。
「あ、あの……」
「何だ」
「夢で見ました!」
相馬先輩が、ぽかんとしました。
「……夢?」
「はい!」
「民法改正を?」
「そうです!」
「変な夢だな」
「ですよね!」
先輩は、しばらく私を見つめました。
そして。
「お前、よっぽど法律が好きなんだな」
「……はい?」
「普通、夢で民法の条文なんか見ねえだろ」
私は苦笑しました。
どうやら、納得してくれたようです。
助かりました。
「まあいい」
先輩は立ち上がりました。
「そろそろ片付けるぞ」
「はい!」
私はノートを閉じました。
そのとき。
机の端に、一枚の紙が置かれているのに気づきました。
澄江さんから届いた、お礼の手紙です。
そこには、こう書かれていました。
――娘の結婚式に、母親として胸を張って出席できそうです。
私は、そっと微笑みました。
百万円。
七年前の約束。
三年前の一万円。
そして、返ってきた九十九万円。
そのお金は。
今度は、娘さんの新しい人生を支える。
消滅時効。
法律の世界では、難しい制度です。
でも。
その制度を正しく理解することで、守れるものがあります。
誰かが長い年月をかけて築いた財産。
誰かが信じた約束。
誰かが諦めかけていた権利。
そういうものです。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「やっぱり民法って、面白いですね!」
「またそれか!」
「はい!」
私は笑いました。
所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓、忘れるな」
「もちろんです!」
私は胸を張りました。
「時効は、期間だけじゃなく、起算点と中断事由まで確認する!」
「そうだ」
「そして、昭和の法律と現代の法律を混同しない!」
「それが一番大事かもしれねえな」
相馬先輩が笑いました。
私は頷きました。
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も難しい。
でも。
難しいからこそ、学ぶ意味があります。
法律を知らなければ、諦めてしまう権利がある。
法律を知っていれば、守れる財産がある。
そして。
たった一枚の領収書が、九十九万円の運命を変えることだってある。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――消滅時効は「何の権利か・いつからか・途中で何があったか」で決まる。
よし。
これで完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで机を片付けろ!」
「今、復習してたんです!」
「復習は家でやれ!」
「先輩!」
「何だ!」
「もし私が十年間、掃除をしなかったら、掃除する義務も時効で消えますか?」
相馬先輩は、ゆっくりこちらを見ました。
そして。
「消えるわけねえだろ!」
「ですよね!」
「それに、十年も掃除しなかったら、お前の机が先に埋まるぞ!」
「……確かに」
私は机を見ました。
六法。
ノート。
相談票。
原稿用紙。
そして、赤鉛筆。
すでに、かなり危険な状態です。
「分かりました!」
私は立ち上がりました。
「掃除します!」
「最初からそうしろ!」
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっていました。
商店街の明かりが、一つ、また一つと灯ります。
あのどこかで。
澄江さんは、娘さんの結婚式の準備をしているのでしょう。
返ってきた九十九万円。
それは、ただのお金ではありません。
長い間、信じ続けた約束が、ようやく守られた証拠です。
消滅時効。
それは、時間の経過によって法律関係を整理する制度。
でも。
人の約束を、ただ時計の針だけで切り捨てる制度ではありません。
いつから。
何年間。
その間に何があったのか。
そして、その権利がどんなものなのか。
法律は、そこまで見ているのです。
私は箒を手に取りました。
そして、心の中で呟きました。
――五年で消えるとは限らない。十年で消えるとも限らない。時効の答えは、時間の中に残された事実にある。
今日の教訓。
これなら、きっと忘れません。
……ただし。
掃除を十年間放置しても、所長から頼まれた今日の仕事が消えるわけではない。
そのことも。
どうやら、忘れないほうがよさそうです。
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