[民法・消滅時効]現場編 「五年経ったから借金は帳消し」の嘘。百万円を踏み倒す男が忘れていた、一枚の領収書と時効中断の刃
お金を借りたことは忘れないのに、返す約束だけを忘れる人がいます。
そして。
十年経てば、借金は消える。
そう聞いて、喜ぶ人もいます。
でも。
その十年は、いったいいつから数えるのでしょうか。
途中で一万円だけ返したら?
借金が残っていると認めたら?
そして、そもそも。
十年ではなく、五年で消える借金もあるとしたら。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一本の赤い線に救われることになります。
消滅時効。
現代の行政書士試験では、おなじみの制度です。
ところが。
昭和の民法には、私の知らない落とし穴がありました。
しかも、その落とし穴。
借金を踏み倒そうとする男が、得意げに振り回していたのです。
――五年経ったから、もう払わない。
その言葉を聞いたとき。
私は思いました。
残念でしたね。
あなたが持っているその法律知識。
この時代では、まだ使えないんですよ。
◇
「百万円、返してもらえないんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上で古い手提げ袋を握りしめていました。
名前は、森下澄江さん。
五十八歳。
駅前商店街で、小さな洋裁店を営んでいます。
夫を早くに亡くし、女手一つで娘を育ててきたそうです。
「百万円……」
私は思わず背筋を伸ばしました。
昭和六十三年の百万円。
決して軽い金額ではありません。
「誰に貸したんですか?」
「昔からの知り合いです」
澄江さんが答えました。
「河野修一さんという人で、以前は近所で金物屋をしていました」
「いつ頃ですか?」
「昭和五十六年の五月です」
私は相談票に書き込みました。
昭和五十六年。
つまり一九八一年。
今から七年前。
「何のために貸したんですか?」
「お店の仕入れがうまくいかなくて、現金が足りないと言われたんです」
「商売の資金ですね」
「はい。でも、私はお金を貸す商売なんてしていません。ただ、昔からの知り合いだから……」
澄江さんは俯きました。
「あの人のお父さんには、主人が生きていた頃、ずいぶん助けてもらいましたから」
なるほど。
恩返し。
そういう事情があったのですね。
「返済期限は?」
「その年の十一月三十日です」
半年後。
当初の約束では、そこまでに全額返済する予定だった。
けれど。
「返ってこなかったんです」
澄江さんは力なく笑いました。
「最初は、もう少し待ってくれって」
「はい」
「次は、年末には必ず返すって」
「はい」
「その次は、来年の春には返すって」
私は鉛筆を止めました。
嫌な予感。
この手の話。
約束が延びるほど、返済の見込みが薄くなることがあります。
「それで、今は?」
「もう返さないと言われました」
「……え?」
澄江さんは袋から一通の手紙を取り出しました。
青いインク。
乱暴な文字。
私は読みました。
――森下澄江殿。
――昭和五十六年の貸金については、既に五年以上が経過している。
――民法の消滅時効により、返済義務は消滅した。
――今後一切の支払請求には応じない。
――なお、本書面をもって消滅時効を援用する。
最後に署名。
河野修一。
そして、認印。
「……援用まで書いてある」
私は呟きました。
単なる踏み倒しではありません。
時効の制度を調べている。
しかも、最後には法律用語まで使っている。
「この人、誰かに相談したんでしょうか」
「分かりません」
澄江さんの声が震えました。
「でも、この手紙を持って銀行に相談したら、法律のことは専門家に聞いてくださいと言われて……」
私は手紙を見つめました。
五年。
消滅時効。
援用。
なるほど。
これは、きちんと整理しなければなりません。
私は大きく頷きました。
「澄江さん。まず、安心してください」
「え?」
「五年経ったからといって、必ず借金が消えるわけではありません!」
よし。
民法です。
私の得意分野。
現代の民法百六十六条。
債権者が権利を行使できることを知った時から五年。
権利を行使できる時から十年。
どちらか早く完成する時効。
今回のような貸金債権では、返済期限を知っているのが普通ですから――。
「あれ?」
私は首をかしげました。
七年。
五年以上経っています。
しかも、澄江さんは返済期限を知っていた。
……まずい。
現代の民法で考えると、時効が完成している可能性が高い。
「ちょ、ちょっと待ってください」
私は慌てて六法を開きました。
「民法百六十六条……」
指が止まります。
そこに書いてあるのは。
私が覚えている条文とは違う内容でした。
「……あれ?」
「どうした」
背後から声。
相馬先輩です。
「先輩!」
「何だ」
「民法百六十六条が、変なんです!」
「変なのはお前だろ」
「ひどい!」
私は六法を突き出しました。
「消滅時効って、知った時から五年ですよね?」
「……は?」
「権利行使できる時から十年と、二本立てで……」
「お前、何を言ってる」
先輩が眉をひそめました。
そして。
「一般の債権なら、十年だろうが」
……。
あ。
そうでした。
ここ。
昭和六十三年でした。
◇
「いいか、こはる」
相馬先輩は六法を机に置きました。
「お前の言う『知った時から五年』なんて一般原則は、今の民法にはねえ」
「……はい」
「普通の民事債権は、原則十年だ」
「はい……」
「民法百六十七条一項。そこを見ろ」
私はページをめくりました。
そして見つけました。
――債権は、十年間行使しないときは、消滅する。
「十年!」
「そうだ」
「五年じゃない!」
「だからそう言ってるだろ」
私は頭を抱えました。
またです。
また、未来の民法に騙されました。
現代の私は、改正民法の受験生。
民法百六十六条。
主観的起算点五年。
客観的起算点十年。
それを何度も勉強しました。
でも。
その仕組みができるのは、ずっと先。
令和二年施行の債権法改正です。
昭和六十三年には、まだ存在しません。
「先輩!」
「何だ」
「だったら、澄江さんの百万円は……!」
「待て」
先輩は私の言葉を遮りました。
「十年だから大丈夫、で終わらせるな」
「え?」
「河野は金物屋をやっていたんだろ」
「はい」
「借りた金は仕入れ資金」
「そうです」
「だったら、商事債権の問題を忘れるな」
……。
しょうじさいけん。
私は固まりました。
先輩が嫌な笑みを浮かべます。
「商法五百二十二条だ」
「……はい?」
「商行為によって生じた債権は、原則五年で時効にかかる」
「五年!?」
「そうだ」
「さっき十年って言ったじゃないですか!」
「民法上の一般債権は十年だ。だが、商事債権なら別の規定がある」
「そんな!」
私は六法をめくりました。
商法。
五百二十二条。
本当です。
五年。
書いてあります。
「先輩!」
「何だ」
「せっかく十年で助かったと思ったのに!」
「法律はお前の都合で決まらねえよ」
「ぐぬぬ……」
私は澄江さんを見ました。
お金を貸したのは、個人。
借りたのは、金物屋の経営者。
使途は仕入れ資金。
その貸付けが、商行為によって生じた債権として扱われる可能性がある。
つまり。
単純に十年とは言い切れない。
「所長……」
私は奥に向かって声をかけました。
「今回、五年なんですか? 十年なんですか?」
帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げました。
「まず、契約を見ろ」
「……契約?」
「金の流れを見ろ。返済期限を見ろ。借主が何のために借りたかを見ろ」
「はい」
「それから、返済期限の後に何があったかだ」
所長は澄江さんに尋ねました。
「河野さんから、これまでに一度も返済はありませんでしたか」
「いいえ」
澄江さんが答えました。
「一度だけ、あります」
私は顔を上げました。
「一度?」
「はい」
「いつですか?」
「昭和六十年の十二月です」
……!
私は鉛筆を握り直しました。
昭和六十年。
一九八五年。
今から三年前。
「いくらですか?」
「一万円です」
「一万円……」
百万円のうち、一万円。
たった一パーセント。
でも。
所長の目が、少しだけ鋭くなりました。
「そのときの領収書はありますか」
「はい」
澄江さんは手提げ袋を開きました。
中には、古い財布。
その財布の内側から。
折り畳まれた一枚の紙が出てきました。
「これです」
黄ばんだ領収書。
私はそっと広げました。
そこには、こう書かれていました。
――昭和六十年十二月二十日。
――森下澄江殿より借用した金百万円のうち、金一万円を返済した。
――残金九十九万円については、引き続き返済する。
――河野修一。
そして。
赤い印影。
「……先輩」
「見えたか」
「これ……!」
私は思わず立ち上がりました。
「借金が残っているって、本人が認めています!」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「そうだ」
「しかも、元金の一部を返済しています!」
「ああ」
「ということは……!」
「民法百四十七条だ」
先輩は六法を開きました。
旧民法。
時効の中断。
そこには。
請求。
差押え、仮差押え又は仮処分。
そして。
承認。
私は、その最後の二文字を見つめました。
承認。
……これだ。
現代の民法では、時効の「更新」という言葉を使います。
でも、昭和六十三年では。
時効の「中断」。
単なる一時停止ではありません。
それまで進んでいた時効期間が、法律上の理由によって振り出しに戻る。
そして新しく時効期間が進み始める。
「所長!」
「何だ」
「この一万円の返済と、残金を認めた書面が、時効中断の根拠になるんですね!」
所長が頷きました。
「そうだ。だが、まず本物か確認しろ」
「はい!」
「いつ、誰が、どの債務について書いたのか。それを固める」
私は領収書を握りしめました。
河野修一。
あなた。
借金を踏み倒すつもりで、五年という数字ばかり見ていたんでしょう。
でも。
あなた自身が押したハンコ。
それが今度は、あなたの逃げ道を塞ぐことになるんです。
◇
ところが。
事件は、ここから面倒になりました。
「そんな古い領収書、知らねえな」
翌日の昼。
事務所に一本の電話が入りました。
相手は河野修一。
澄江さんから百万円を借りた本人です。
電話を受けた私は、思わず受話器を握り直しました。
「森下さんの貸金について、書類作成のご相談を受けていることは事実ですが……」
『行政書士だろ?』
いきなり、その言い方。
『弁護士じゃあるまいし、何ができるんだよ』
……。
出ました。
行政書士を舐める人。
こういう人、本当に多いんですね。
『あの婆さん、今さら百万円返せって騒いでるんだろ?』
「森下さんは――」
『時効だよ、時効!』
男は笑いました。
『五年経てば借金は消えるんだ! そんなことも知らねえのか!』
私は深呼吸しました。
言いたい。
ものすごく言いたい。
あなたの知識。
半分だけ正解です。
でも。
決定的なところが間違っています。
「河野さん」
『何だ』
「昭和六十年十二月二十日に、一万円を返済したことはありませんか?」
電話の向こうが静かになりました。
『……何だ、それ』
「その際、残金九十九万円を返済すると書面に記された事実について、お心当たりはありませんか」
『知らねえよ!』
声が大きくなりました。
『そんな紙、勝手に作ったんじゃねえのか!』
「そうですか」
『それに、金を少し返したくらいで、昔の借金が全部復活するわけねえだろ!』
……。
私は反論しかけました。
でも。
横から相馬先輩が手を伸ばしました。
「こはる」
受話器を押さえます。
「はい」
「それ以上、法律上の当否を電話で争うな」
「……はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
そうでした。
依頼人の代理人として、紛争の示談交渉をすることはできません。
相手の言い分を確認することと、相手と法律上の争いを代理して決着させることは違います。
私は電話に戻りました。
「お話は承りました。こちらでご本人の資料を整理いたします」
『何だよ。言い返せねえのか』
「必要な意思表示は、ご本人から書面で行われることになります」
『ふん! 好きにしろ!』
電話は切れました。
私は受話器を置きました。
「先輩!」
「何だ」
「腹が立ちます!」
「そうだろうな」
「ものすごく腹が立ちます!」
「二回言わなくていい」
「だって、自分で借りておいて!」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「こはる」
「はい」
「お前が怒ったところで、百万円は返ってこねえ」
「……はい」
「だがな」
先輩は、例の領収書を机に置きました。
「こいつが本物なら、話は違う」
赤い印影。
河野修一。
残金九十九万円。
私は、その紙を見つめました。
「先輩」
「何だ」
「これ、ものすごく強い証拠ですよね」
「ああ」
「でも、相手は偽物だと言っています」
「だったら、そこを調べる」
片桐所長が奥から言いました。
「こはる。まず、時効の計算をしてみろ」
「はい!」
私はノートを開きました。
昭和五十六年十一月三十日。
当初の返済期限。
昭和六十年十二月二十日。
一部返済と残債務の承認。
昭和六十三年。
現在。
「仮に商事債権で、五年の消滅時効が適用されるとしても……」
私は指で数えました。
「昭和六十年十二月に時効が中断していれば、まだ五年経っていません!」
「そうだ」
「昭和六十三年の今なら、時効は完成していない!」
「そのとおり」
私は拳を握りました。
やった。
今度こそ。
「ただし」
所長が言いました。
……。
また、ただし。
法律の世界。
どうしてこんなに「ただし」が多いのでしょう。
「一部弁済があったことと、それがいつ、どの債務についてされたかを立証できなければならん」
「はい」
「相手は偽物だと主張している」
「そうです」
「なら、その点を曖昧にするな」
私は頷きました。
法律の条文だけでは足りない。
証拠。
証拠が必要です。
「澄江さんに、もう一度詳しく聞いてみます」
「ああ」
こうして。
私たちは、三年前の一万円を追いかけることになったのです。
◇
「覚えています。あの日は、雪が降りそうなくらい寒かったんです」
翌朝。
澄江さんは、事務所で当時のことを話してくれました。
昭和六十年十二月二十日。
夕方。
河野が洋裁店へやって来た。
手には茶色い封筒。
その中に、一万円札が一枚。
「これだけで申し訳ないが、受け取ってくれ」
そう言ったそうです。
「それで、私、残りのお金はどうなるんですかって聞いたんです」
「はい」
「そうしたら、あの人が……」
澄江さんは目を伏せました。
「ちゃんと返すから、紙に書いておくって」
私は顔を上げました。
「その紙が、これですね」
「はい」
「河野さんが自分で書いたんですか?」
「そうです。私の店の帳場で」
「ハンコも?」
「自分のポケットから出して、押しました」
なるほど。
筆跡。
押印。
作成場所。
具体的です。
「ほかに誰かいましたか?」
私が聞くと、澄江さんは少し考えました。
「……いました」
「え?」
「隣の八百屋の奥さんです」
私は鉛筆を止めました。
「その方も見ていたんですか?」
「はい。ちょうど、お直しを頼んだ服を取りに来ていて」
……!
これは大きい。
「今も、その方とお付き合いがありますか?」
「ええ。お隣ですから」
私は相馬先輩を見ました。
先輩も頷きました。
「話を聞かせてもらおう」
その日の午後。
私たちは、八百屋の奥さんを訪ねました。
名前は中村ハルさん。
六十二歳。
威勢のいい女性でした。
「ああ、覚えてるよ!」
ハルさんは、みかんを箱に詰めながら言いました。
「あの日、河野さんが来てたねえ」
「一万円を渡したところも?」
「見たよ」
「書面を書いていたところは?」
「それも見た」
私は身を乗り出しました。
「どんな様子でした?」
「澄江さんが泣いてたんだよ」
「……泣いていた?」
「うん」
ハルさんの手が止まりました。
「あの人、娘さんを看護学校に行かせるために、お金が必要だったんだ」
私は黙りました。
「でも河野さんは、まだ全部返せないって言うから」
「はい」
「せめて約束を書いてくださいって、頼んでた」
ハルさんは小さくため息をつきました。
「そしたら河野さんが、自分で書いたんだよ」
私は例の領収書を見せました。
「この紙ですか?」
「ああ、これこれ」
「間違いありませんか?」
「この字だよ。河野さん、昔から字に癖があったからねえ」
私は相馬先輩を見ました。
先輩が静かに頷きます。
ただし。
証人の記憶だけで、すべてが確定するわけではありません。
三年前の出来事。
記憶違いもあり得ます。
そこで、私たちは資料を整理しました。
元の借用証書。
昭和六十年の領収書。
澄江さんの日記。
店の金銭出納帳。
そして、ハルさんに自分の記憶を確認してもらったうえで作成した事実確認書。
出納帳には。
昭和六十年十二月二十日。
――河野氏返済分、一万円入金。
そう書かれていました。
さらに。
澄江さんの日記には、こんな一文が残されていたのです。
――河野さん来店。一万円だけ返す。残り九十九万円、必ず返すと約束。ハルさん立会い。
私は思わず息を呑みました。
「先輩」
「何だ」
「全部つながりました」
「ああ」
「一枚の領収書だけじゃないですね」
「そうだ」
先輩は出納帳を閉じました。
「証拠は、一つだけで戦うもんじゃねえ」
そして、こう続けました。
「相手が一枚を否定しても、別の資料が同じ事実を示す。そうやって固めるんだ」
私は頷きました。
百万円。
誰かにとっては、ただの数字かもしれません。
でも。
澄江さんにとっては、何年も働いて貯めたお金。
娘の将来を支えるはずだったお金。
その百万円を守るために。
三年前の一万円が、今、重要な意味を持ち始めていました。
◇
「よし。書け」
事務所へ戻ると、相馬先輩が原稿用紙を机に置きました。
「はい!」
「ただし、今回は消滅時効だ。余計な断定はするな」
「分かりました!」
私は鉛筆を握りました。
内容証明郵便。
差出人は、森下澄江さん。
宛先は、河野修一。
まず、貸金の事実。
昭和五十六年五月十日。
金百万円を貸し付けた。
返済期限は昭和五十六年十一月三十日。
次に、一部弁済。
昭和六十年十二月二十日。
一万円を返済。
さらに、残額九十九万円の債務を承認。
そして。
民法百四十七条第三号。
時効の中断。
「……よし!」
私は原案を所長に提出しました。
片桐所長は読み始めました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『内容証明郵便を送ることにより、消滅時効は中断する』」
「はい!」
所長は無言で線を引きました。
真っ赤です。
「……え?」
「違う」
「ええっ!」
「内容証明という形式だけで、当然に時効が中断するわけではない」
「……あ」
私は固まりました。
そうでした。
ただ手紙を送れば、それだけで時効が振り出しに戻る。
そんな都合のいい制度ではありません。
「所長、でも催告は……」
「民法百五十三条だ」
所長は六法を開きました。
「催告だけでは、原則として確定的な時効中断の効力は得られない」
「はい」
「催告の後、六か月以内に裁判上の請求など、法律が定める手続を取る必要がある」
「……はい!」
私は慌てて原案を書き直しました。
危ない。
ものすごく危ない。
内容証明郵便。
強力な証拠になる。
請求した事実や日付を残せる。
でも。
送っただけで、何年でも時効が延びるわけではありません。
「先輩!」
「何だ」
「内容証明って、時効を止める魔法の紙じゃないんですね」
「当たり前だ」
「でも、そう思っている人、いそうです」
「いるだろうな」
相馬先輩が煙草を消しました。
「だからこそ、時効が迫ってる案件は急ぐんだ」
「はい」
「必要なら弁護士に引き継いで、裁判上の請求などを検討する。書面を出しただけで安心するな」
私は大きく頷きました。
そして、もう一つ気づきました。
今回、時効中断の決定的な根拠になったのは。
こちらからの請求ではありません。
河野自身の行為。
一万円を返したこと。
残額を認めたこと。
つまり。
債務者による「承認」です。
「所長」
「何だ」
「債務者が借金を認めることって、それだけ重要なんですね」
「そうだ」
「でも、どうして承認で時効が中断するんですか?」
所長は少し考えました。
そして言いました。
「自分で債務があると認めた者が、それまでの時効期間だけを都合よく積み上げるのは、おかしいだろう」
……。
なるほど。
私は胸の中で、何かがすとんと落ちるのを感じました。
時効は、ただ時計の針が進む制度ではない。
長い間、権利が行使されなかったこと。
法律関係をいつまでも不安定にしないこと。
そうした理由から、一定期間の経過に法的な意味を与える。
でも。
債務者自身が、まだ借金があると認めたなら。
話は変わります。
「先輩」
「何だ」
「河野さん、五年経ったことしか見ていませんでしたね」
「ああ」
「でも、途中で自分が何をしたかを忘れていた」
「そういうことだ」
私は原案の最後に、こう書きました。
――本件貸金債務については、昭和六十年十二月二十日付書面及び一部弁済により、債務者による承認がなされている。
――右承認は、民法第百四十七条第三号に定める時効中断事由に該当する。
――したがって、仮に本件債権について商法第五百二十二条所定の五年間の消滅時効が適用されるとしても、現在までにその期間が完成したとは認められない。
――通知人は、貴殿が消滅時効を援用したことを了承せず、未払貸金九十九万円の支払を求める。
――本通知到達後十四日以内に、ご本人宛てに書面で回答されたい。
――支払がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
読み終わると。
事務所が静かになりました。
「……どうでしょう」
私は恐る恐る尋ねました。
相馬先輩が原案を手に取りました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「だが、まだ仕事は終わってねえ」
「はい?」
「添付資料の目録だ」
先輩は机を指で叩きました。
「何を根拠に、いつの承認を主張してるのか。相手が照合できるようにしろ」
「はい!」
「判例の考え方も確認しておけ」
所長が言いました。
「大審院以来、債務の一部弁済が債務の承認として時効中断につながることは、判例上も認められている。ただし、どの債務について承認したかが問題になる場合もある」
「今回は?」
「一件の貸金だ。しかも残額を明記している」
所長は領収書を見ました。
「争点がはっきりしている」
なるほど。
一万円払った。
それだけではなく。
百万円の貸金の一部だと特定している。
残額九十九万円も明記している。
だからこそ強い。
「こはる」
所長が言いました。
「時効は、日数だけで決まるものではない」
「はい」
「その間に何があったかを調べろ」
私は頷きました。
そして思いました。
たった一万円。
それが、九十九万円を守る証拠になる。
法律って、本当に面白い。
◇
内容証明を出す前に。
片桐所長は、澄江さんを事務所へ呼びました。
完成した通知書を、一行ずつ読み上げます。
「この内容でよろしいですか」
「はい」
「支払請求は、森下さんご自身の意思で行うものです」
「分かっています」
「私たちは、書類の作成と事実関係の整理をお手伝いします。相手方との法律紛争の代理交渉はできません」
「はい」
「相手が争う場合には、弁護士に相談する必要があります」
澄江さんは静かに頷きました。
そして、通知書の最後を見つめました。
「……九十九万円」
小さな声でした。
「私、もう諦めなきゃいけないと思っていました」
私は何も言えませんでした。
「五年経ったから、もう返さなくていいって言われて……」
澄江さんは、そっと目元を拭いました。
「法律って、そういうものなのかと思って」
私は首を横に振りました。
「法律は、借金を踏み倒すためだけにあるわけじゃありません」
澄江さんが顔を上げました。
「長い間、何も請求しなかった権利を、いつまでもそのままにしない仕組みはあります。でも、その間に相手が何をしたかも、法律は見ているんです」
澄江さんは黙って聞いていました。
「河野さんは、一万円を返しました」
「はい」
「残り九十九万円を返すとも書きました」
「はい」
「その約束には、ちゃんと法律上の意味があります」
澄江さんの目から、涙がこぼれました。
「……よかった」
それだけでした。
でも。
その一言は、私の胸に残りました。
書面の内容を確認した澄江さんが、署名し、認印を押します。
赤い印影。
私はその印を見つめました。
河野が押したハンコ。
澄江さんが押したハンコ。
同じ赤い色。
でも。
一方は借金があることを認めた証拠。
もう一方は、返済を求める意思の証拠。
書面には、それぞれ違う役割がある。
翌朝。
内容証明郵便は、河野修一のもとへ発送されました。
◇
三日後。
河野修一は、自宅の食卓でその封筒を開きました。
最初は、鼻で笑ったそうです。
「行政書士が何を書いたって、借金は時効だろ」
ところが。
一枚目。
貸金契約の日時。
二枚目。
一部弁済の日時。
三枚目。
昭和六十年十二月二十日付の承認書。
そこで。
河野の笑みが止まりました。
「……何だ、これ」
自分の筆跡。
自分のハンコ。
そして。
残金九十九万円。
河野は、慌てて書面を読み直しました。
民法百四十七条第三号。
時効の中断。
商法五百二十二条。
五年。
そして、その五年を昭和六十年十二月の承認から改めて数えることになる、という指摘。
「……嘘だろ」
河野は六法を引っ張り出しました。
ページをめくる。
百四十七条。
承認。
そこに、確かに書いてある。
「何だよ……」
河野の額に汗が浮かびました。
自分は五年という数字を知っていた。
商売上の借金には、短い時効があることも知っていた。
だから。
もう払わなくていいと思った。
しかし。
途中で一万円を返した。
残額を認めた。
その意味を、考えていなかった。
さらに、同封された資料目録には、別の問題もありました。
金銭出納帳。
日記。
立会人の事実確認書。
複数の資料が、同じ一日の出来事を指している。
「……こんなに残ってたのか」
河野は呻きました。
その足で、知り合いの弁護士のところへ向かったそうです。
そこで告げられたのは、実に厳しい見通しでした。
「一部弁済したのは事実ですか」
「……はい」
「残金九十九万円と書いたのも?」
「……はい」
「では、その債務の承認によって時効が中断したと評価される可能性が高いですね」
「でも、もう七年以上経ってますよ!」
「最初の返済期限から七年経っていても、途中で中断していれば別です」
「そんな……」
「それに、先方は証拠をそろえています。争うなら、こちらも具体的な反論と根拠が必要です」
河野は黙りました。
「もし裁判になったら……」
「裁判の結果を断言はできません。ただ、その承認書が真正なもので、ほかの事情も通知書のとおりなら、時効だけで請求を退けるのは難しいでしょう」
「負けたら?」
「判決などに基づいて強制執行を受ける可能性があります」
河野の顔から血の気が引きました。
百万円を借りた。
一万円しか返していない。
しかも。
残額を認めた証拠がある。
それを忘れたふりで通せると思っていた。
けれど。
民法は、そんな都合のいい忘れ方を認めてはくれなかったのです。
◇
内容証明を送って一週間後。
澄江さんから、事務所へ電話が入りました。
『朝比奈さん!』
「はい!」
『河野さんから、手紙が来たんです!』
「えっ!」
『お金を返すって!』
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
『はい!』
隣で相馬先輩が新聞を下ろしました。
私は澄江さんの話を聞きました。
河野は、先に送った消滅時効援用の通知について、今回の貸金債務には時効が完成していないことを認めた。
そして。
未払金九十九万円を支払う旨を書面で伝えてきたそうです。
ただし、一括では資金が足りない。
そのため、まず四十九万円を支払い、残り五十万円は翌月末までに支払いたい。
そういう提案でした。
「澄江さん、その条件をどうするかは、ご自身で慎重に判断してください。必要なら弁護士にも相談できます」
『ええ。分かっています』
澄江さんは続けました。
『実は、娘にも相談したんです』
「娘さんに?」
『はい。今は病院で看護婦をしているんですが』
私は微笑みました。
『お母さんのお金なんだから、きちんと返してもらおうって』
その声には、少し力が戻っていました。
そして数日後。
まず四十九万円が振り込まれました。
澄江さんは、自分の通帳を持って事務所に来ました。
「見てください」
通帳の一行。
四十九万円。
私は目を丸くしました。
「本当に入ってる!」
「はい」
澄江さんは笑いました。
けれど。
相馬先輩が横から言いました。
「まだ全部じゃねえぞ」
「分かってます!」
「残り五十万円の支払条件も、本人同士で書面に残しておくんだ」
その後、澄江さんは河野と直接確認し、残額の支払期限を記した書面を受け取りました。
私たちは、依頼された範囲でその書面の形式と記載事項を整理しました。
そして翌月。
残る五十万円も、約束どおり振り込まれました。
合計九十九万円。
百万円のうち、一万円は三年前に返済済み。
これで元金は、全額返済されたことになります。
私は通帳を見つめました。
「……終わりましたね」
片桐所長が頷きました。
「ああ」
「裁判になりませんでした」
「そうだな」
「内容証明だけで、相手が考えを変えたんですね」
所長は少し考えてから言いました。
「内容証明が金を返したわけじゃない」
「え?」
「返さなければならない理由を、相手が理解したんだ」
……。
なるほど。
紙が勝ったのではない。
法律と証拠を並べたことで、相手が自分の立場を理解した。
その結果。
本人の判断で、支払った。
それが、今回の解決だったのです。
◇
事件が終わった日の夕方。
澄江さんが、もう一度事務所を訪れました。
手には、小さな紙袋。
「これ、よかったら」
「何ですか?」
「手作りの巾着袋です」
私は受け取りました。
紺色の布地。
小さな白い花の刺繍。
「わあ……!」
「朝比奈さん、いつもノートを持っていらっしゃるから」
「私にですか?」
「はい」
私は嬉しくなりました。
「ありがとうございます!」
澄江さんは少し照れたように笑いました。
「娘が、来年結婚するんです」
「えっ!」
「相手は、同じ病院に勤めている人で」
「おめでとうございます!」
澄江さんは頷きました。
「結婚式のために、このお金を使おうと思っています」
私は紙袋を抱えました。
百万円。
七年前に貸したお金。
返ってこないと思っていたお金。
そのお金が。
今度は娘さんの新しい生活を支えることになる。
「……よかったですね」
私が言うと、澄江さんの目が潤みました。
「はい」
そして、こう言いました。
「私ね、ずっと自分が馬鹿だったと思っていたんです」
「え?」
「人を信じて、お金を貸して」
「……」
「返してもらえなくて」
澄江さんは手元を見ました。
「でも、法律はちゃんと見てくれていたんですね」
私は黙って聞きました。
「私が貸したことも」
「はい」
「河野さんが少しだけ返したことも」
「はい」
「残りを返すって約束したことも」
澄江さんは、そっと笑いました。
「全部、なかったことにはならなかった」
その言葉を聞いたとき。
私は胸が熱くなりました。
消滅時効。
試験のテキストでは、数字ばかりが並んでいます。
五年。
十年。
二十年。
三年。
それぞれの起算点。
例外。
中断事由。
覚えることが山ほどある。
でも。
今回の事件を通じて、私は思いました。
時効は、単に借金を消す制度ではない。
長い年月が経った権利関係を整理する。
その一方で。
債務者自身が借金を認めた事実まで、無視するわけではない。
時間だけでなく。
その間に起きた出来事にも、意味を与える。
だからこそ。
時効の計算には、数字だけでなく、事実が必要なのです。
◇
澄江さんが帰ったあと。
私は机に向かって、ノートを開きました。
「先輩!」
「何だ」
「今日、消滅時効のことが、ちょっと好きになりました!」
「また変なこと言い始めたな」
「変じゃありません!」
私は鉛筆を握りました。
「だって、最初は五年とか十年とか、ただの数字だと思ってたんです」
「うん」
「でも、それだけじゃないんですね」
「ああ」
「いつから数えるか」
「そうだ」
「途中で何があったか」
「うん」
「そして、どんな権利なのか」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は大きく書きました。
――消滅時効は、期間だけで判断しない。
続けて。
――起算点。
――権利の種類。
――中断事由。
この三つに丸をつけました。
「所長!」
「何だ」
「今日の教訓、できました!」
「言ってみろ」
私は胸を張りました。
「時効は、何年経ったかだけじゃなく、その間に何があったかで決まる!」
所長が頷きました。
「悪くない」
「やった!」
相馬先輩が笑いました。
「ただし、まだ覚えることはあるぞ」
「え?」
「所有権は、長い間使わなかっただけで消えるか?」
「消えません!」
「じゃあ、地上権なんかの所有権以外の財産権は?」
「原則二十年です!」
「抵当権は?」
「……えっと」
先輩がにやりとしました。
「民法三百九十六条」
「ぐっ……!」
「債務者や抵当権設定者との関係では、被担保債権と切り離して、抵当権だけが時効消滅するわけじゃねえ」
「はい……」
「じゃあ、不法行為の損害賠償請求権は?」
「損害と加害者を知った時から三年!」
「もう一つは?」
「不法行為の時から二十年!」
「その二十年、今の法律ではどういう扱いだ?」
私は口を開きかけました。
そして、止まりました。
……。
しまった。
ここも改正がある。
現代の民法では、時効として整理されています。
でも昭和六十三年当時は、不法行為から二十年という期間について、条文上も判例上も、単純に現在と同じ説明をしてよいわけではありません。
「先輩……」
「何だ」
「民法って、怖いですね」
「今さらか」
「十年が五年になったり、条文番号が変わったり、用語が変わったり……」
「うん」
「しかも、昔の制度を知らないと、今回みたいに間違えそうです」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「だから、今の六法を読めって言ってんだ」
「はい……」
私はため息をつきました。
そうです。
現代の行政書士試験で覚えた知識。
それが、そのまま昭和六十三年で使えるとは限りません。
一般債権の消滅時効。
商事債権の短期消滅時効。
職業別の短期消滅時効。
不法行為による損害賠償請求権。
そして。
判決で確定した権利。
権利の種類が変われば、時効の期間も変わる。
しかも。
途中で承認があれば、時効の計算そのものが変わってしまう。
「……覚えること、多すぎません?」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「だから面白えんだろ」
「先輩がそれ言います!?」
「お前がいつも言ってることだ」
「それはそうですけど!」
私は頬を膨らませました。
でも。
確かに。
今回の事件は、忘れられそうにありません。
百万円。
返済期限から七年。
五年で時効だと主張する債務者。
そして。
三年前の一万円。
その一万円が、残り九十九万円の命運を変えた。
なんだか。
推理小説みたいです。
犯人が残した、たった一つの手がかり。
それを見つけた瞬間に、事件の結末がひっくり返る。
法律も、同じなのかもしれません。
誰もが見落とした小さな事実。
そこに、大きな意味が隠れている。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今日、何が一番大事だった」
私は少し考えました。
そして答えました。
「相手が時効だと言っても、すぐに諦めないことです」
「うん」
「逆に、十年あるから大丈夫だと、簡単に安心もしないことです」
「そうだ」
「権利の種類と期間を確認して、その間に中断事由がないか調べる」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ノートの最後に一行を書きました。
――時効の時計は、ただ進むだけではない。債務を認めた一言で、振り出しに戻ることがある。
今日の教訓。
これなら、絶対に忘れません。
◇
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声。
『少し、相談したいことがありまして』
「はい。どうされましたか?」
『私、昔から持っている土地があるんですが』
「土地ですか?」
『はい』
私は相談票を取り出しました。
『もう二十五年くらい、使っていないんです』
「二十五年……」
『そしたら親戚が、こんなことを言ってきまして』
「何でしょう?」
男性は、不安そうに尋ねました。
『二十年以上使っていない土地は、所有権が時効で消えるから、もうお前の土地じゃないって……』
……。
私は止まりました。
相馬先輩を見る。
先輩も、こちらを見ました。
『本当なんでしょうか……?』
私は、ゆっくり息を吸いました。
「まず、お尋ねします」
『はい』
「その土地、今は誰かが使っていますか?」
『いいえ。草が生えているだけです。親戚も使っていません』
「分かりました」
私は頷きました。
「では、所有権そのものが、使わなかったというだけで消滅するわけではありません」
『えっ!』
「ただし、別の人が長年占有していた場合には、取得時効という別の問題があります。そこも確認させてください」
『そ、そうなんですか!』
私はノートを開きました。
所有権。
消滅時効。
取得時効。
またしても。
似ているようで、全然違う話です。
「先輩」
「何だ」
「消滅時効って、奥が深いですね」
「今度は土地か」
「はい!」
「また余計なこと言うなよ」
「分かってます!」
私は笑いました。
でも。
今なら少しだけ、分かる気がします。
民法は、時間の経過を大切にします。
長い間、権利を行使しなかったこと。
長い間、他人が物を占有していたこと。
長い間、続いてきた法律関係。
それぞれに、違う意味がある。
そして。
時間が経ったという理由だけで、すべての権利が同じように消えるわけではない。
そこを見極めるのが、法律を学ぶということなのでしょう。
私は相談票に、土地の所在地を書き込みました。
窓の外には、昭和六十三年の町並み。
自転車が走り。
商店街から、夕飯の匂いが漂ってきます。
その町のどこかで。
澄江さんは、娘さんの結婚式に着せる服を縫っているのでしょう。
返ってきた九十九万円。
それは、単なる数字ではありません。
長い間、働いて貯めたお金。
人を信じて貸したお金。
そして。
諦めかけていた約束が、ようやく守られた証拠です。
あの領収書。
たった一万円。
でも。
その一万円がなければ、事件は違う結末を迎えていたかもしれません。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、今日から領収書を絶対に捨てません!」
「当たり前だろ!」
「十年でも二十年でも取っておきます!」
「何でも取っときゃいいってもんじゃねえ!」
「でも、証拠は大事ですよね!」
「整理して保管しろって言ってんだ!」
私は笑いました。
確かに。
証拠を集めることと、何でも机に積み上げることは違います。
そういえば。
私の机にも、読みかけの六法と相談票が山になっていました。
「こはる」
先輩が言いました。
「はい?」
「その机、片付けろ」
「ええっ!」
「昨日から同じ書類が積んであるぞ」
「これは重要な記録です!」
「整理しろ」
「私の学習資料です!」
「整理しろ!」
……。
仕方ありません。
私は机を片付け始めました。
ただし。
あの事件の領収書の写しだけは、所定の事件記録として丁寧に綴じました。
昭和六十年十二月二十日。
一万円。
残金九十九万円。
河野修一。
その赤い印影を、もう一度見つめます。
そして、私は小さく呟きました。
「……時効って、面白い」
「こはる!」
「はい!」
「今度こそ片付けろ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
五年。
十年。
二十年。
数字は冷たく見えます。
でも、その数字の向こうには。
誰かの暮らしがあり。
誰かの約束があり。
誰かの人生があります。
だからこそ。
たった一枚の紙を、見落としてはいけない。
消滅時効は、時計を見るだけでは解けない。
その時計が、いつ動き始めたのか。
途中で何が起きたのか。
そして、その時間が、どんな権利の上を流れていたのか。
全部確かめて、初めて答えが出る。
今日の私は、それを知りました。
――十年経ったから消えるとは限らない。五年経ったから消えるとも限らない。時効の答えは、日付と証拠の中にある。
そして。
借金を踏み倒すつもりの人には、ぜひ覚えておいてほしいのです。
あなたが何気なく返した一万円。
あなたが何気なく書いた一文。
あなたが何気なく押したハンコ。
それらは。
何年経っても、都合よく消えてくれるとは限りません。
なぜなら。
時効の時計を振り出しに戻したのは、ほかでもない。
あなた自身かもしれないのです。
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