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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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460/701

[民法・取得時効]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 二十年間、他人の土地を使い続けたら。


 その土地は、自分のものになるのでしょうか。


 答えは。


 ――場合によっては、なります。


 ただし。


 二十年間、そこにいた。


 それだけでは足りません。


 自分のものとして使っていたのか。


 誰にも隠さず使っていたのか。


 無理やり奪って使い始めたわけではないのか。


 途中で占有が途切れていないか。


 そして。


 十年で取得できる場合と、二十年かかる場合では、何が違うのか。


 これを間違えると。


 二十二年間守ってきた庭でさえ、法律上の権利を証明できなくなるかもしれません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、二枚の紙を並べていました。


 一枚は、土地登記簿謄本の写し。


 もう一枚は、取得時効援用通知書の控え。


 どちらも、杉浦フミさんの事件に関するものです。


「……不思議ですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「最初は、黒田さんの名前が登記簿に載っていたんですよ」


「ああ」


「なのに、最後にはフミさんのものになった」


「そうだな」


「しかも、売買契約で黒田さんから買ったわけでもない」


「取得時効だからな」


 そう。


 取得時効。


 二十二年間、自分の庭だと思って使い続けた土地。


 ところが、登記簿上は隣町の不動産業者、黒田栄一の所有地。


 黒田は、登記簿を盾に明渡しを要求しました。


 でも、フミさんには記録がありました。


 昭和四十一年の住宅購入時の書面。


 木の柵に囲まれた庭の写真。


 柿の木。


 物置。


 近所の人たちの証言。


 そして、二十二年間の生活。


 それらを整理して、民法百六十二条第一項に基づく取得時効を援用したところ、黒田は明渡し要求を撤回。


 登記手続にも協力しました。


「所長」


 私はノートを開きました。


「今日は取得時効を完璧に理解したいです!」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「そうか」


「はい!」


「では、まず聞こう」


「何でしょう!」


「フミさんは、二十二年間その土地を占有していた。それだけで取得時効が成立するか」


「……え?」


 私は固まりました。


 相馬先輩が、にやりと笑います。


「いきなり落第だな」


「まだ答えてません!」


「じゃあ答えろ」


 私は鉛筆を握り直しました。


「いいえ。所有の意思をもって、平穏かつ公然に占有していた必要があります!」


「それだけか?」


「一定の期間も必要です!」


「ほかには?」


 私は少し考えました。


「時効を援用しなければ、裁判所は時効を理由に判断できません!」


 片桐所長が頷きました。


「よし」


 私は胸を撫で下ろしました。


 危ない。


 取得時効。


 簡単そうで、落とし穴が多い。


 今日のこはるノートは、長くなりそうです。


 ◇


「まず、取得時効って何なのか、です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第百六十二条。所有権の取得時効。


「先輩、どうして他人の土地なのに、自分のものになるんでしょうか」


「長い間続いた事実状態を、法律が一定の条件で保護するからだ」


「でも、本当の所有者からしたら、たまったものじゃありませんよね?」


「そうだな」


 相馬先輩は煙草を置きました。


「だから、ただ長く使っただけでは認められねえ」


 なるほど。


 取得時効は、他人の物を使った人へのご褒美ではありません。


 長年継続した占有の事実を尊重し、権利関係を安定させる制度です。


 何十年も昔の出来事について、証拠が失われてしまうこともあります。


 売買契約書がなくなった。


 当事者が亡くなった。


 境界が曖昧になった。


 そんなとき。


 現在の占有状態が長年継続しているにもかかわらず、いつまでも権利関係が不安定なままでは、社会生活に支障が生じます。


「フミさんの事件が、まさにそうだったんですね」


「ああ」


「二十二年前に家と庭を買ったつもりだった。でも登記簿を調べたら、庭の一部が別人名義だった」


「そうだ」


「二十二年前の売買の事情を、今になって完全に明らかにするのは難しい」


 相馬先輩が頷きました。


「だからといって、無条件にフミさんのものになるわけでもねえ」


「はい」


「法律で決められた要件を満たしているか、一つずつ見る」


 私は書きました。


 ――取得時効は、長期間継続した占有を、一定の要件のもとで権利として保護する制度。


「つまり」


 私は言いました。


「時間が権利になるんじゃなくて、法律が認める占有の状態が、時間によって権利取得につながるんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そういうことだ」


 よし。


 まずは、考え方がつかめました。


 ◇


「じゃあ、取得時効の要件を整理します!」


 私は新しいページを開きました。


 ――時効によって取得できる権利であること。


 ――所有の意思をもって占有すること。


 ――十年または二十年の期間。


 ――平穏かつ公然であること。


 ――その占有が継続していること。


「先輩、まず一つ目!」


「何だ」


「時効取得できるのは所有権だけですか?」


「違う」


「ですよね!」


 私は六法を開きました。


 民法百六十三条。


 所有権以外の財産権についても、取得時効が認められる場合があります。


「たとえば、地上権や地役権などですね」


「ああ」


「永小作権も」


「そうだな」


「それから、賃借権も、一定の要件のもとで時効取得が認められる場合があります」


 相馬先輩は頷きました。


「ただし、全部を所有権と同じように考えるなよ」


「はい!」


 そこは大切です。


 民法百六十三条は、所有権以外の財産権を、自己のためにする意思をもって、平穏かつ公然に行使することを問題にします。


 賃借権の場合には、単に長期間使用していただけでなく、賃借の意思に基づく客観的な権利行使の状況などが重要になります。


「たとえば、道路として長く使っていた土地があった場合」


 私は言いました。


「地役権の取得時効が問題になることもありますよね」


「あるな」


「でも地役権には、民法二百八十三条の要件もあります。継続かつ表現のものに限られる」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「よく調べたな」


「はい!」


「じゃあ、何でもかんでも二十年使えば地役権になるわけじゃねえな」


「そのとおりです!」


 私は大きく丸を付けました。


 ――時効取得できる権利かどうかを、最初に確認する。


 これが第一関門です。


 ◇


「次は、所有の意思です!」


 私はノートに大きな文字を書きました。


 ――所有の意思。


「これがないと、二十年でも百年でも駄目なんですよね」


 相馬先輩が頷きました。


「原則としてな」


「でも、自分の土地だと思っていれば、それでいいんですか?」


「その『思っている』ってのが曲者だ」


「え?」


 相馬先輩は、机の上にあった湯飲みを持ち上げました。


「こはる。この湯飲みを、お前に貸す」


「はい」


「十年使え」


「長いですね!」


「二十年でもいい」


「湯飲みが割れます!」


「黙って聞け」


 ひどい。


「で、二十年後。お前が『これは私の湯飲みです』と言い出したら、時効取得できるか?」


「……できません」


「なぜだ」


「借り物だからです」


「そうだ」


 相馬先輩が湯飲みを置きました。


「借りた物は、借りた物として使っている。勝手に所有者になるわけじゃねえ」


 私は頷きました。


 ここで重要なのが。


 自主占有。


 他主占有。


 という区別です。


 自主占有は、所有の意思をもった占有。


 他主占有は、所有の意思をもたない占有。


「でも先輩」


「何だ」


「自主占有かどうかって、本人の心の中で決まるんですか?」


「違う」


「ですよね」


 所有の意思の有無は、単なる内心の思い込みだけでは決まりません。


 占有を始めた原因や、その性質などから客観的に判断されます。


 たとえば。


 土地を買って引渡しを受けた。


 それなら、所有の意思をもつ占有と評価されるのが通常です。


 一方。


 土地を借りて使い始めた。


 それなら、原則として他主占有です。


「フミさんの場合は?」


 相馬先輩が尋ねました。


「住宅と庭を一体として買ったと思っていました」


「うん」


「売買の書面にも、現地の木柵内を売り渡すと書かれていました」


「そうだ」


「だから、購入した土地として占有を始めたと判断する重要な材料になります!」


「正解」


 私は大きく丸を付けました。


 でも。


 ここで一つ気になります。


「先輩。もし借りていた土地を、途中から自分の物にしたいと思ったら?」


「思うだけじゃ駄目だ」


「え?」


「民法百八十五条を見ろ」


 私は六法を開きました。


 占有の性質の変更。


 他主占有から自主占有に変わるためには、所有の意思があることを所有者に表示するか、新たな権原によって所有の意思をもって占有を始めることが必要になります。


「つまり!」


 私は顔を上げました。


「借りている人が、心の中で『今日から私の土地!』と思っても、それだけでは自主占有にならない!」


「そうだ」


「二十年使えば何でも自分のもの、じゃないんですね」


「最初からそう言ってるだろ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――所有の意思は、心の中の宣言ではなく、占有の原因や性質から判断する。


 これも試験で間違えやすいところです。


 ◇


「次は、最大の山場です!」


 私は新しいページを開きました。


 そこに、大きく二つの数字を書きます。


 ――十年。


 ――二十年。


「先輩!」


「何だ」


「どうして十年と二十年に分かれるんでしょうか?」


「占有開始時に、善意無過失だったかどうかだ」


「そうです!」


 私は書きました。


 民法百六十二条第一項。


 二十年間、所有の意思をもって、平穏かつ公然に他人の物を占有した者は、所有権を取得する。


 そして第二項。


 十年間、所有の意思をもって、平穏かつ公然に他人の物を占有した者は、占有開始時に善意無過失であれば、所有権を取得する。


「まず、十年です」


 私は言いました。


「十年で取得するには、占有を始めた時点で、善意であり、しかも過失がなかったことが必要です」


「善意って何だ」


 相馬先輩が尋ねました。


「法律でいう善意は、いい人という意味ではありません!」


「そうだ」


「今回なら、他人の所有物だと知らず、自分に所有権があると信じていたことです」


「じゃあ無過失は?」


「そう信じたことについて、過失がなかったことです!」


 私はフミさんの事件を思い出しました。


 フミさんたちは、住宅を買ったとき、庭も一緒に買ったと信じていました。


 しかし。


 本当に過失がなかったのか。


 登記簿の確認。


 測量図。


 売買契約の内容。


 境界の表示。


 そういった事情を調べなければなりません。


「だから、所長は十年を選ばなかったんですね」


 片桐所長が頷きました。


「二十二年間の占有を証明できるなら、無過失という追加要件を負う必要はない」


「なるほど……」


 私は大きく頷きました。


「つまり、十年で勝てるかもしれなくても、二十年の要件が満たされているなら、そちらを主張するほうが立証しやすい場合があるんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「書面はな、格好よく書くもんじゃねえ。立証できることを書くんだ」


 私は鉛筆を止めました。


 なるほど。


 十年の取得時効。


 なんとなく短いから有利に見えます。


 でも、無過失を証明できなければ成立しません。


 一方、二十年の取得時効では、占有開始時の善意無過失は必要ありません。


 だから。


 フミさんの事件では、二十年の取得時効を選んだ。


「では先輩」


「何だ」


「最初から他人の土地だと知っていたら?」


「二十年の取得時効なら、悪意であることだけを理由に否定はされねえ」


「そうですよね!」


 私は嬉しくなりました。


 ここが取得時効の面白いところです。


 他人の物だと知っていても。


 所有の意思をもって。


 平穏かつ公然に。


 二十年間占有していれば。


 取得時効が成立する場合があります。


 もちろん、盗んだ物なら何でも二十年で取得できる、という単純な話ではありません。


 所有の意思や平穏な占有など、それぞれの要件を満たすかを検討する必要があります。


「先輩。二十年の取得時効って、何だか大胆な制度ですね」


「そうだな」


「本当の所有者から見たら、厳しいですよね」


 片桐所長が静かに言いました。


「だからこそ、法は長い期間と厳格な要件を求めている」


 私は頷きました。


 所有権を失うということは、とても重大です。


 だから、取得時効は簡単には成立しない。


 それでも、長期間継続した占有を一定の条件で保護する。


 そこに民法の考え方があるのです。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「一番間違えやすいところだ」


「来ましたね!」


「何が来たんだ」


「試験の罠です!」


 私はノートに書きました。


 ――占有の推定。


 民法百八十六条。


「先輩。占有している人について、法律上推定されるものがありますよね」


「ああ」


「所有の意思!」


「うん」


「善意!」


「うん」


「平穏!」


「うん」


「公然!」


「そうだ」


 私は四つの言葉を大きく囲みました。


 所有の意思。


 善意。


 平穏。


 公然。


 これらは、占有者について推定されます。


「じゃあ、無過失も推定されますよね!」


 私は、わざと元気よく言いました。


 相馬先輩が即座に答えました。


「されねえ!」


「正解です!」


「何で俺が答えさせられてるんだ!」


 私は笑いました。


 でも。


 ここは本当に重要なのです。


 無過失は、推定されません。


 最高裁昭和四十六年十一月十一日判決。


 十年の取得時効を主張する者は、占有開始時に過失がなかったことを立証する必要があります。


「つまり」


 私は言いました。


「善意は推定されるけれど、無過失は自分で証明しなければならない」


「そうだ」


「これ、セットで覚えないと危ないですね」


「ああ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――善意は推定。無過失は立証。


 そして、その下に赤線を引きます。


「でも先輩」


「何だ」


「どうして無過失は推定されないんでしょうか?」


「考えてみろ。十年という短い期間で、他人の所有権を失わせるんだぞ」


「……はい」


「自分のものだと信じていた、というだけじゃ足りねえ。そう信じたことに落ち度がなかったか、そこまで確かめる必要がある」


 なるほど。


 十年。


 二十年よりも短い期間で、所有権の取得を認める制度。


 だからこそ。


 単なる思い込みではなく、過失のない誤信だったことが必要になる。


 私は頷きました。


「十年が短い理由と、無過失の要件がつながりました!」


「そういうことだ」


 暗記すると、忘れます。


 善意は推定。


 無過失は推定されない。


 この二つを、ただ文字として覚えると混乱します。


 でも。


 なぜ無過失まで必要なのか。


 その理由を理解すると、覚えやすい。


 私はノートに小さく書き足しました。


 ――短い十年で他人の所有権を取得する以上、占有開始時の無過失まで要求される。


 よし。


 これなら忘れません。


 ◇


「続いて、平穏と公然です!」


 私はノートをめくりました。


「先輩。平穏な占有って、何ですか?」


「暴行や強迫によらない占有だ」


「じゃあ、公然は?」


「隠していないことだ」


「そうですね!」


 私は書きました。


 平穏。


 暴行・強迫によらない占有。


 公然。


 秘密にせず、外部から認識できる状態で占有すること。


「フミさんの庭は、どうでしたか?」


 相馬先輩が尋ねました。


「木の柵で囲っていました!」


「うん」


「柿の木を植えて!」


「うん」


「物置を置いて、毎年野菜も作っていました!」


「そうだ」


「しかも、近所の人たちが、昔からフミさんの庭だと思っていました!」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、公然の占有を裏付ける事情がある」


「はい!」


 ここで気づきました。


 公然というのは、毎日大声で「この土地は私のものです!」と宣言することではありません。


 隠さず、外から分かる状態で占有していることです。


 フミさんは、二十二年間、普通に庭として使っていました。


 何も隠していない。


 むしろ、近所の人たちがそれを見ていた。


 だから、公然の占有を裏付ける証拠が集まったのです。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、人目を避けてこっそり占有していた場合は?」


「公然の要件が問題になる」


「ですよね」


「ただし、占有は平穏かつ公然と推定される。その推定を覆す事情があるかどうかを見なきゃならねえ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――平穏・公然は、占有者に有利な推定が働く。


 でも。


 それで全部が解決するわけではありません。


 相手が具体的な証拠を示して争うこともある。


 だから、現場では証拠を集める。


 そこが、民法の面白さです。


 ◇


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる。次の問題だ」


「はい!」


「フミさんのご主人は、途中で亡くなっているな」


「はい」


「では、占有期間はどうなる」


 私は即答しました。


「相続によって、占有を承継することができます!」


「そうだ」


 民法百八十七条。


 占有の承継。


 占有者の承継人は、自分の占有だけを主張することも、前の占有者の占有を合わせて主張することもできます。


 ただし、前の占有者の占有を合わせる場合には、その瑕疵も承継します。


「つまり」


 私は言いました。


「お父さんが十五年間占有していて、その後に息子が五年間占有した場合、要件を満たせば占有期間を合わせて主張できるんですね」


「そうだ」


「でも、前の人の占有に問題があれば、その問題まで引き継ぐ」


「ああ」


 私は頷きました。


 期間だけ都合よく引き継いで、悪い部分は捨てる。


 そんなことはできません。


「ちなみに、フミさんの場合は、夫婦でずっと暮らしていたんですよね」


「そうだ」


「だから、夫の占有を承継したかだけでなく、フミさん自身がどのように占有していたかも検討した」


「そのとおり」


 片桐所長が頷きました。


 そして。


「占有が続いていたことを、どう証明した?」


「写真です!」


「それだけか」


「領収書!」


「ほかには」


「近所の方の証言!」


「そうだ」


 私はさらに言いました。


「民法百八十六条第二項もあります!」


 所長が、少しだけ目を細めました。


「言ってみろ」


「前後の二つの時点で占有した証拠があるときは、その間も継続して占有したものと推定されます!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 重要です。


 たとえば。


 昭和四十一年に占有していた証拠がある。


 昭和六十三年にも占有していた証拠がある。


 その場合、間の期間についても占有の継続が推定される。


 もちろん、途中で占有が途切れていたと相手が証明すれば、その推定が覆ることもあります。


「だから」


 私は言いました。


「二十二年間、毎日一枚ずつ写真を撮る必要はないんですね」


「当たり前だ」


「昭和のフィルム代が大変なことになります!」


「そっちの心配か」


 相馬先輩が笑いました。


 でも。


 法律の推定がなければ、二十二年間ずっと占有していたことを証明するのは大変です。


 毎日、毎時間。


 誰かが見張っていたわけではありません。


 だから、法律は一定の事実から継続を推定する仕組みを置いている。


 なるほど。


 ここでも、証明の負担を軽くする工夫があるのです。


 ◇


「では、取得時効の中断です」


 私は、少し表情を引き締めました。


 ――民法第百六十四条。


「先輩。占有者が、自分から占有をやめた場合は?」


「時効が中断する」


「他人に占有を奪われた場合は?」


「これも中断する」


 私は頷きました。


 取得時効は、占有の継続が重要です。


 途中で任意に占有を中止したり、他人によって占有を奪われたりすれば、民法百六十四条によって時効が中断します。


「つまり、二十年の途中で占有が途切れたら、原則としてそこまでの期間をそのまま積み上げることはできません」


「そうだ」


「でも先輩!」


「何だ」


「黒田さんが、赤い杭を打ちましたよね!」


「ああ」


「あれは占有を奪ったことになるんですか?」


「杭を打っただけで、当然に占有を奪ったとはいえねえ」


「ですよね!」


 フミさんは、杭を打たれた後も庭を使っていました。


 柿の木も残っていました。


 物置もありました。


 黒田は明渡しを要求しましたが、現実にフミさんの占有を排除したわけではありません。


 しかも、昭和四十一年から昭和六十一年までに、二十年間の期間が既に経過していました。


「じゃあ、もし黒田さんが強引に庭を取り上げたら?」


 相馬先輩が、少し険しい顔になりました。


「占有回収の問題が出てくる」


 私は六法を開きました。


 民法二百三条。


 占有権の消滅事由。


 占有者が占有の意思を放棄したり、占有物の所持を失ったりすると、占有権は消滅します。


 ただし。


 占有回収の訴えを提起した場合には、例外があります。


「民法二百条ですね」


「ああ」


 占有を奪われた者は、一定の要件のもとで占有回収の訴えによって、その物の返還などを求めることができます。


 そして、民法二百一条第三項によれば、占有回収の訴えは、占有を奪われた時から一年以内に提起しなければなりません。


「つまり」


 私は言いました。


「占有を奪われた場合でも、法律が定める方法で迅速に占有回収を求めれば、占有権を保護できるんですね」


「そうだ」


「でも、占有回収の訴えは裁判ですから、行政書士が代理することはできません」


「ああ」


「必要なら弁護士に引き継ぐ」


 片桐所長が頷きました。


「それが役割分担だ」


 私はノートに書きました。


 ――占有を失ったら終わり、と即断しない。占有回収の訴えと期間制限を確認する。


 なるほど。


 占有が奪われたらどうなるか。


 そこにも法律は救済の道を用意している。


 ただし。


 何もしなくていいわけではありません。


 法律が定めた手続を、適切な時期に使う必要があるのです。


 ◇


「ところで先輩」


「何だ」


「取得時効って、二十年経った瞬間に自動的に認められるんですか?」


「時効の援用が必要だ」


「そうでした!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第百四十五条。時効の援用。


 私は説明しました。


「時効は、当事者が援用しなければ、裁判所が時効に基づいて裁判することはできません」


「そうだ」


「つまり、取得時効を使うという意思表示が重要なんですね」


 フミさんの事件では。


 二十二年間の占有を確認しました。


 二十年間の要件を検討しました。


 そして、フミさん本人の意思で取得時効を援用しました。


 その意思表示を、内容証明郵便にしたのです。


「でも先輩」


「何だ」


「内容証明郵便を送れば、それだけで所有権移転登記ができるんですか?」


「できねえ」


「ですよね」


 内容証明郵便は、どんな内容の文書を、いつ差し出したかを証明するためのものです。


 書面に書いた事実が真実であることまで、郵便局が保証するわけではありません。


 また、取得時効の援用通知を送っただけで、登記名義が自動的に変わるわけでもありません。


「黒田さんは、最初は明渡しを要求していましたよね」


「ああ」


「でも、内容証明を読んで、弁護士にも相談した」


「そうだ」


「そして、登記手続に協力する方向に変わった」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、裁判まで行かずに済んだ」


「はい!」


 私は思いました。


 これこそ、行政書士が書類を作る意味です。


 感情的に相手を責めるのではありません。


 事実。


 法律。


 証拠。


 本人の意思。


 それらを、正確な書面として残す。


 相手がその内容を検討し、自発的に態度を改めることもある。


 もちろん。


 相手が争い続けるなら、弁護士による訴訟などが必要です。


 でも、裁判になる前に解決できる可能性を高める。


 そこに、書面の力があるのです。


 ◇


「さて」


 片桐所長が言いました。


「もう一つ、忘れてはならんことがある」


「はい!」


「取得時効が完成した後、土地が別の人に売られた場合だ」


 私は、はっとしました。


「あっ!」


 そうです。


 登記。


 ここが、もう一つの重要な問題です。


「たとえば」


 所長は紙に三人の名前を書きました。


 A。


 B。


 C。


「Aの土地を、Bが二十年間占有して取得時効を完成させた」


「はい」


「その後、AがCに土地を売り、Cが所有権移転登記をした」


「はい」


「Bは、Cに対して、登記なしで時効取得を主張できるか」


 私は少し考えました。


「原則として、できません!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 取得時効完成後に、元の所有者から土地を取得して登記した第三者に対しては、原則として、時効取得者は登記がなければ所有権取得を対抗できません。


 民法百七十七条。


 不動産物権変動の対抗要件。


「でも、先輩」


「何だ」


「取得時効完成前に土地を買った人だったら、話が違いますよね」


「おお」


 相馬先輩が顔を上げました。


「言ってみろ」


「取得時効完成前に所有者から取得した人に対しては、その人の登記があっても、後に完成した取得時効を登記なしで主張できるのが原則です!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここが、難しいところです。


 取得時効完成前の第三者。


 取得時効完成後の第三者。


 この違いによって、登記が必要かどうかが変わる。


「先輩、ややこしいですね」


「民法だからな」


「ひどい説明です!」


 相馬先輩が笑いました。


 私はノートに書きました。


 ――取得時効と登記は、時効完成前後の第三者を区別する。


 そして、さらに注意点。


 時効完成後の第三者に登記で負ける場面でも、その後さらに時効取得に必要な占有期間を満たせば、再度の取得時効を主張できる場合があります。


「つまり」


 私は言いました。


「時効と登記の争いでは、誰がいつ土地を取得したのか、時効がいつ完成したのか、そこまで調べる必要があるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が静かに言いました。


「だから、日付を曖昧にするな」


「はい」


 私は、フミさんの資料を見直しました。


 昭和四十一年五月。


 占有開始。


 昭和六十一年五月。


 二十年経過。


 昭和六十三年。


 時効援用。


 この日付が、重要だった。


 法律では。


 いつ。


 誰が。


 何をしたか。


 その順番ひとつで、結論が変わることがあるのです。


 ◇


「さて、先輩」


 私は六法を閉じました。


「最後に、昭和六十三年と現代の違いを整理します!」


「また未来の法律か」


「はい!」


 相馬先輩は、露骨に嫌な顔をしました。


「お前、未来の法律が好きだな」


「好きというか、未来から来たので……」


「何?」


「い、いえ! 未来の法律にも興味があるんです!」


 危ない。


 転生者。


 また口が滑りました。


 私は咳払いしました。


「まず、取得時効そのものについては、大切なことがあります」


「何だ」


「民法百六十二条の基本的な仕組みは、昭和六十三年と現代で変わっていません!」


 十年。


 二十年。


 所有の意思。


 平穏。


 公然。


 占有。


 十年の場合の善意無過失。


 これらの基本的な要件は、現代でも引き継がれています。


「珍しいな」


 相馬先輩が言いました。


「何がですか?」


「お前が、条文を間違えねえ」


「失礼ですね!」


 でも、確かに。


 民法は大きく改正されました。


 特に令和二年施行の債権法改正では、時効制度も整理されています。


 しかし、取得時効の基本的な期間や要件が、すべて変更されたわけではありません。


「違いが大きいのは、時効の完成を妨げる制度や、その用語です」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 ――時効の中断・停止。


 令和。


 ――時効の更新・完成猶予。


 相馬先輩が眉をひそめました。


「また妙な言葉だな」


「現代では、時効が完成しないようにする効果と、進んでいた期間をリセットする効果を、分かりやすく区別するようになったんです」


「ほう」


 私は続けました。


「たとえば、裁判上の請求などでは、一定の期間、時効の完成が猶予されます。そして、確定判決などによって権利が確定した場合には、時効の更新が生じることがあります」


「昔の中断という言葉の中に、違う効果が含まれていたわけか」


「そうです!」


 私は大きく頷きました。


「ただし、占有の中止や喪失に関する民法百六十四条は、現代でも『中断』という言葉が残っています」


 相馬先輩が、しばらく黙りました。


「……全部変えたわけじゃねえのか」


「はい!」


「ややこしいな」


「そうなんです!」


 私は笑いました。


 民法は、改正されたからといって、昔の考え方が全部消えるわけではありません。


 必要な部分を整理する。


 分かりにくい制度を明確にする。


 一方で、長年使われてきた基本原則は残す。


 取得時効は、その分かりやすい例なのです。


「所長」


「何だ」


「取得時効は、昔も今も、長年の占有を一定の条件で保護する制度なんですね」


「そうだ」


「でも、周辺の時効制度は、時代によって整理されている」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 ――取得時効の核心は変わらない。時効の周辺制度と用語には改正がある。


 ◇


 窓の外は、すっかり夕暮れでした。


 私は、今日のノートを最初から見直しました。


 取得時効。


 最初は、単純な制度だと思っていました。


 十年か二十年。


 ただ、それだけの話。


 でも。


 フミさんの庭を思い出すと、違います。


 まず、占有を始めた理由。


 家と庭を買ったと思っていた。


 次に、所有の意思。


 借りたつもりではなく、自分の土地として使っていた。


 そして、平穏と公然。


 誰にも隠さず、普通に庭として使っていた。


 占有期間。


 二十二年間。


 その証拠。


 白黒写真。


 木の柵。


 柿の木。


 物置。


 領収書。


 近所の人たちの証言。


 さらに。


 占有の継続。


 時効の援用。


 登記手続。


 全部がつながって、初めて土地を守ることができた。


「所長」


「何だ」


「ちょっと問題を出してもらっていいですか?」


「いいだろう」


 所長は静かに頷きました。


「では、第一問」


「はい!」


「Aが、Bの土地を十五年間、自分のものと信じて占有した。占有開始時に善意無過失だった場合、取得時効は成立し得るか」


「はい! 十年の取得時効が成立し得ます!」


「では、開始時に過失があった場合は?」


「十年の取得時効は認められません。二十年の要件を満たすか検討します!」


「よし」


「第二問」


 相馬先輩が口を挟みました。


「Aが、Bの土地を二十五年間借りて使っていた」


「はい!」


「Aは、最初から借地だと分かっていた。賃料も払っていた」


「はい!」


「それでも二十年経てば、所有権を取得できるか?」


「原則として、できません!」


「理由は?」


「所有の意思のない他主占有だからです!」


「よし」


 私は拳を握りました。


「第三問」


 所長が続けました。


「Aは、他人の土地を二十年間、所有の意思をもって平穏かつ公然に占有した。しかし、開始時から他人の土地だと知っていた」


「はい!」


「取得時効は?」


「悪意であることだけでは否定されません! 二十年の取得時効には、善意無過失は必要ありません!」


「正解」


 相馬先輩が笑いました。


「第四問だ」


「はい!」


「十年の取得時効で、善意は推定されるか?」


「されます!」


「無過失は?」


「されません!」


「誰が証明する?」


「十年の取得時効を主張する側です!」


 よし。


 完璧。


「第五問」


 片桐所長が言いました。


「占有者が、途中で自分から占有をやめたら?」


「民法百六十四条により、取得時効は中断します!」


「他人に占有を奪われた場合は?」


「原則として中断します。ただし、占有回収の訴えによる保護が問題になる場合があります!」


「よし」


 私は大きく息を吐きました。


 やりました。


 取得時効。


 今なら、きちんと説明できます。


「所長!」


「何だ」


「最後の問題、私から出してもいいですか?」


「言ってみろ」


 私はにやりと笑いました。


「Aが、Bの土地を二十年間、自分のものとして使い続けました」


「うん」


「平穏、公然。所有の意思もあります」


「うん」


「時効の要件は全部満たしました!」


「それで?」


「Aは、時効を援用していません」


 私は胸を張りました。


「この場合、裁判所が勝手に取得時効を認めて判決を出せますか?」


 片桐所長は、静かに答えました。


「できない」


「正解です!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「おい! 所長に試験問題を出すな!」


「だって、覚えたことを確認したかったんです!」


「自分で確認しろ!」


「はい!」


 私は笑いました。


 でも。


 こうして問題にすると、理解が深まります。


 法律は、ただ条文を覚えるものではありません。


 具体的な事実に当てはめて考えるものです。


 何が要件なのか。


 何が推定されるのか。


 何を立証する必要があるのか。


 そして、どんな手続を取らなければならないのか。


 そこまで分かって、初めて法律を使えるようになる。


 私はノートの最後のページを開きました。


 ◇


 机の上に、一本の鉛筆を置きました。


 そして。


 今日の一行を書きます。


 ――取得時効は「所有の意思・平穏・公然・継続占有」が基本。十年なら開始時の善意無過失、二十年なら不要。善意は推定されても無過失は推定されない。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「先輩!」


「何だ」


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「一行です!」


「一行に詰め込みすぎだろ」


「全部大事なんです!」


 相馬先輩は笑いました。


「まあ、悪くねえ」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は、ノートを閉じました。


 そのとき。


 机の端に置いてあった、フミさんの写真が目に入りました。


 柿の木。


 古い木の柵。


 笑っている家族。


 二十二年間。


 毎日少しずつ積み重なった時間。


 その時間は、目には見えません。


 でも。


 木の幹の太さ。


 使い込まれた物置。


 色褪せた写真。


 近所の人たちの記憶。


 そういう形で、確かに残っていました。


 法律は、それらの事実を拾い上げます。


 単なる思い出としてではなく。


 権利を判断するための証拠として。


 私は、少しだけ微笑みました。


「所長」


「何だ」


「取得時効って、面白いですね」


「そうか」


「はい」


 私は写真を見つめました。


「二十年という数字の向こうに、二十年分の暮らしがあるんです」


 所長は静かに頷きました。


「そうだな」


「その暮らしが、法律の要件を満たしていれば、所有権を取得できる」


「ああ」


 私は、今日の勉強を思い返しました。


 十年。


 二十年。


 所有の意思。


 平穏。


 公然。


 善意。


 無過失。


 占有の継続。


 時効の中断。


 援用。


 そして、登記。


 難しい言葉ばかりです。


 でも。


 もう、ただの暗記項目には見えません。


 フミさんの庭を思い出せばいい。


 二十二年間、自分の庭として使い続けた土地。


 黒田は登記簿を盾にしました。


 けれど、フミさんには占有の事実がありました。


 その事実を、民法百六十二条という法律が評価した。


 だから、守れた。


 私はノートの最後に、小さく書き足しました。


 ――法律は、時間そのものを守るのではない。時間の中で積み重ねられた事実を、権利として評価する。


 よし。


 これで完璧です。


 ◇


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「勉強は終わったか!」


「終わりました!」


「じゃあ、掃除しろ!」


「またですか!」


「毎日やるもんだろ!」


 私は箒を手に取りました。


 そして、ふと思いつきました。


「先輩!」


「何だ!」


「私、毎日この事務所を掃除していますよね!」


「ああ」


「それを二十年間続けたら!」


「……おい」


「この事務所を時効取得できたりしませんか!」


 相馬先輩が、ものすごく嫌な顔をしました。


「馬鹿野郎!」


「ええっ!」


「今まで何を勉強してたんだ!」


「取得時効です!」


「所有の意思がねえだろ!」


「あっ!」


「見習いとして使わせてもらってるだけだろうが!」


「……確かに」


 私は箒を握り直しました。


 なるほど。


 毎日掃除しても。


 二十年間働いても。


 それだけでは事務所の所有権は取得できません。


 所有の意思。


 ここが重要。


「先輩」


「何だ!」


「やっぱり、取得時効って奥が深いですね」


「お前が妙なことを考えるからだ!」


 奥の部屋から、片桐所長の声が聞こえました。


「相馬」


「はい」


「こはるが二十年間掃除してくれるなら、助かるな」


「そうですね!」


 私は叫びました。


「所長!」


「何だ」


「その約束、契約書にしないでくださいね!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「お前が言い出したんだろ!」


「今のは冗談です!」


「だったら掃除しろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら床を掃き始めました。


 窓の外。


 昭和の町に、夕暮れが広がっていきます。


 あのどこかで。


 フミさんは今日も、柿の木のある庭に立っているのでしょう。


 二十二年間守り続けてきた庭。


 これからも、家族の思い出が積み重なっていく庭。


 そこにあるのは。


 ただの三十坪ではありません。


 二十二年分の人生です。


 そして。


 その人生を守るために使われたのが。


 民法百六十二条。


 取得時効。


 私は箒を止め、今日の一行をもう一度思い出しました。


 ――十年なら善意無過失。二十年なら不要。ただし、所有の意思・平穏・公然・占有の継続は忘れない。


 よし。


 今日の教訓。


 これなら、絶対に忘れません。


 だって。


 二十年という年月を、ただの数字として片付けてしまうほど。


 民法は、薄っぺらい法律ではないのです。

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