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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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459/610

[民法・取得時効]現場編 「登記簿は俺の名前だろ」の罠。二十二年間守った庭を奪おうとする地主と、十年ではなく二十年を選んだ内容証明の刃

挿絵(By みてみん)


 土地は、黙っていても逃げません。


 けれど。


 その土地を「自分のものだ」と言い張る人間は、ある日突然、現れます。


 昨日まで当たり前に歩いていた庭。


 毎年、花を植えていた畑。


 子供を育て、家族と笑い、何十年も暮らしてきた場所。


 そんな土地に、突然こう言われたら。


「登記簿を見ろ。ここは俺の土地だ」


 あなたなら、どうしますか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は知ることになります。


 法律には。


 登記簿に名前が載っていない人間を、守る仕組みがあるということを。


 その名も。


 ――取得時効。


 ただし。


 十年と二十年。


 たったそれだけの違いが、ある家族の庭を守れるかどうかの分かれ道になるとは。


 このときの私は、まだ知りませんでした。



「庭を、取り上げられるんです!」


 午前九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 入ってきたのは、六十代半ばの女性。


 手には古い風呂敷。


 顔色が悪く、何かに追い詰められたような表情をしています。


「落ち着いてください。まず、お掛けになって」


 私が椅子を勧めると、女性は何度も頭を下げました。


「すみません。こんな朝早くから」


「大丈夫です。お名前を教えていただけますか?」


「杉浦フミです。六十四になります」


 フミさんは椅子に腰を下ろしました。


 けれど、風呂敷を握った手は震えたままです。


「うちの庭に、突然、杭を打たれたんです」


「杭?」


「赤い杭です。ここから先は他人の土地だから、出ていけって」


 私は思わず眉をひそめました。


「誰がそんなことを?」


「隣町の不動産屋さんです。土地の持ち主の親戚だとかで……」


 フミさんは風呂敷を開きました。


 中から出てきたのは、一枚の手紙。


 差出人は。


 ――黒田不動産株式会社。


 代表取締役、黒田栄一。


 内容を読むと、私は思わず息を呑みました。


 ――貴殿が使用中の土地の一部は、当社代表者黒田栄一の所有地である。


 ――貴殿には当該土地を占有する正当な権原がない。


 ――本書到達後十四日以内に、植木、物置その他の工作物を撤去し、土地を明け渡されたい。


 十四日。


 たった二週間。


「これ、本当なんですか?」


 私は尋ねました。


 フミさんは、首を横に振りました。


「分からないんです。でも、あの庭は、ずっと私たちの庭でした」


「いつからですか?」


「昭和四十一年からです」


「昭和四十一年……」


 私は頭の中で計算しました。


 昭和六十三年。


 差は。


 二十二年。


「二十二年間、使っていたんですか?」


「はい。主人と結婚して、家を買ったときからです」


 フミさんは、古い写真を取り出しました。


 白黒写真。


 小さな木造住宅。


 その横には、柿の木。


 そして、木の柵に囲まれた庭。


「これは、引っ越した年の写真です」


「……広いお庭ですね」


「ええ。といっても、家の横に細長く続いているだけですけど」


 写真の裏側には、鉛筆で文字が書かれていました。


 ――昭和四十一年五月三日。新居にて。


「主人が柵を作ったんです」


 フミさんは写真を撫でました。


「ここに柿を植えて。こっちには花壇を作って。子供が小さいころは、庭でよく遊ばせました」


「今も使っているんですか?」


「もちろんです。物置もありますし、毎年、野菜も作っています」


「じゃあ、どうして今になって……」


「主人が亡くなって、半年ほどしたころです」


 フミさんの声が小さくなりました。


「黒田さんという人が、突然やってきて」


 そして。


 こう言ったそうです。


「この庭の端、三十坪ほどは、うちの土地だ。返してもらう」


 私は写真を見ました。


 三十坪。


 それなりの広さです。


 しかも、そこには柿の木と物置がある。


「黒田さんは、何を根拠に?」


「登記簿を持ってきました」


 フミさんは、もう一枚の紙を出しました。


 土地登記簿謄本。


 確かに、問題の土地は別の地番になっています。


 そして。


 所有者欄。


 黒田栄一。


「……本当だ」


 私は呟きました。


「やっぱり、私が間違っているんでしょうか」


 フミさんの目に涙が浮かびます。


「でも、二十二年間、一度もそんなことを言われなかったんです」


 私は、写真をもう一度見ました。


 柿の木。


 花壇。


 物置。


 木の柵。


 二十二年間。


 誰にも隠さず。


 誰かに許可をもらうでもなく。


 自分の庭として使い続けてきた。


 その瞬間。


 私の頭に、ある条文が浮かびました。


 民法百六十二条。


 取得時効。


「フミさん!」


「は、はい」


「まだ諦める必要はありません!」


 私は立ち上がりました。


「二十二年間、占有していたんですよね!」


「せんゆう?」


「その土地を、自分のものとして使い続けていたということです!」


「はい……」


「だったら、取得時効が成立している可能性があります!」


 フミさんが目を丸くしました。


「時効?」


「そうです!」


 私は勢いよく説明しようとしました。


 そのとき。


「こはる」


 背後から、低い声。


 相馬先輩です。


「はい?」


「お前、今、何年の時効を考えた?」


「え?」


「十年か、二十年か」


 私は胸を張りました。


「もちろん、十年です!」


「……ほう」


「二十二年間も使っていたんですから、十年なら余裕です!」


 相馬先輩は、なぜか嫌な笑みを浮かべました。


「じゃあ聞くぞ」


「はい!」


「十年の取得時効に必要な条件は?」


「所有の意思! 平穏! 公然! 十年間の占有!」


「それだけか?」


「え?」


「それだけで十年になるのか?」


 私は固まりました。


 あ。


 そうでした。


「善意無過失……」


「そうだ」


「占有を始めたときに、自分のものだと信じていて、しかもそう信じたことに過失がなかったことです」


「で?」


「……で?」


「それを、どうやって証明する」


 私は口を閉じました。


 相馬先輩は、机の上の写真を指で叩きました。


「二十二年使った。それは分かった」


「はい」


「だが、十年で時効取得したと言いたいなら、開始時の無過失が必要だ」


「はい……」


「本人が『知らなかった』と言えば、それで済むと思うか?」


「……済まない、ですね」


「そういうことだ」


 私は、フミさんを見ました。


「すみません。ひとつ確認させてください」


「はい」


「家を買ったとき、この庭も自分たちの土地だと説明されたんですよね?」


「ええ」


「土地の境界を、きちんと調べましたか?」


 フミさんは、困った顔をしました。


「それは……主人に任せきりで」


「測量図は?」


「分かりません」


「登記簿は?」


「見たことがありません」


 私は、ゆっくり座り直しました。


 まずい。


 十年の取得時効。


 善意は推定される。


 でも。


 無過失は、推定されない。


 昭和四十六年十一月十一日の最高裁判例。


 十年の取得時効を主張する側が、無過失を立証しなければならない。


 現代の行政書士試験でも、重要な論点です。


「先輩……」


「何だ」


「十年は、厳しいかもしれません」


「そうだな」


「でも!」


 私は写真を指差しました。


「二十二年です!」


「……ああ」


「二十年の取得時効なら、善意無過失は必要ありません!」


 相馬先輩が、ようやく頷きました。


「そこだ」


 私は息を吸いました。


 そうです。


 十年で駄目なら、二十年。


 ただ長く住んでいればいいわけではないけれど。


 所有の意思をもって、平穏かつ公然に二十年間占有していたなら。


 占有開始時の善意無過失が立証できなくても、取得時効の道は残る。


「フミさん」


 私は言いました。


「二十二年間の記録を、できるだけ集めましょう」


「記録?」


「はい。誰が、いつから、どういうつもりで、どんなふうに使っていたのか」


 フミさんは、少し考えました。


 そして。


「……あります」


「え?」


「主人が、何でも取っておく人だったんです」


 風呂敷の中から、さらに紙の束が出てきました。


 古い領収書。


 手書きの住宅購入時の書面。


 庭の写真。


 植木屋の伝票。


 そして。


 ――昭和四十一年四月。


 と書かれた一枚の紙。


 私は、それを手に取りました。


 そこには、こんな文字がありました。


 ――本宅地及び現地木柵内を一体として売り渡す。


 売主の署名。


 買主の署名。


 赤い印影。


「……先輩」


「ああ」


「これ、すごく大事な紙じゃありませんか?」


 相馬先輩の顔つきが変わりました。


「所長を呼べ」


 私は奥の部屋を振り返りました。


「所長!」


「聞こえている」


 片桐所長は、既に立ち上がっていました。



「二十二年使っていたから、お前の土地だ?」


 翌日。


 黒田不動産の応接室。


 代表取締役の黒田栄一は、私たちの話を聞くなり笑いました。


 四十代半ば。


 高そうな背広。


 金色の腕時計。


 いかにも自信満々です。


「馬鹿馬鹿しい」


 黒田は机を指で叩きました。


「土地ってのはな、登記簿で決まるんだよ」


 私は思わず口を開きました。


「でも――」


「お嬢ちゃん」


 黒田は私を見ました。


「行政書士だろ?」


「見習いです」


「だったら、不動産のことは俺に任せとけ」


 うわ。


 出ました。


 素人扱い。


「俺は二十年、この仕事をしてるんだ」


「……」


「登記簿に俺の名前がある。それが証拠だ」


 黒田は登記簿謄本を広げました。


「ここだ。所有者、黒田栄一」


 確かに、そのとおりです。


 しかし。


 登記名義があることと、現在の実体上の所有権が必ず一致することは、同じではありません。


 私は言いました。


「取得時効という制度をご存じですか?」


「知ってるよ」


 黒田は鼻で笑いました。


「十年だか二十年だか、勝手に住み着いた奴が土地を取るって話だろ?」


「勝手に住み着いたというだけではありません」


「何?」


「所有の意思をもって、平穏かつ公然に占有する必要があります」


 黒田は肩をすくめました。


「で?」


「フミさんは、二十二年間――」


「証拠がねえだろ」


 黒田が遮りました。


「二十二年前から本当に使ってたかなんて、誰が証明するんだ?」


 私は口を閉じました。


「それに、あの土地は昔からうちの一族のものだ。先代の登記が残ってる。今は俺が相続して登記している」


 なるほど。


 所有権の登記は、代々黒田家にあった。


 一方、フミさんの亡夫は、住宅と一緒に問題の庭まで買ったと思っていた。


 売主が、本来売る権限のない隣接部分まで売却対象に含めてしまった可能性がある。


 ならば。


 売買の経緯だけでなく、取得時効を検討する意味がある。


「それにさ」


 黒田は、にやりと笑いました。


「あの婆さん、最近になって俺の土地だと知ったんだろ?」


「……はい」


「だったら善意じゃねえじゃん」


 私は目を瞬きました。


「え?」


「他人の土地だと知ってるんだろ? じゃあ時効なんて無理だろ」


 ……。


 ああ。


 そこですか。


「黒田さん」


「何だよ」


「十年の取得時効では、善意無過失が必要です」


「だから無理だろ」


「でも、それは占有開始時の問題です」


「……は?」


「それに、二十年の取得時効では、善意無過失は要件ではありません」


 黒田の笑みが止まりました。


「何?」


「昭和四十一年から二十年以上、所有の意思をもって平穏かつ公然に占有していれば、時効取得が問題になります」


「そんな馬鹿な話があるか!」


 黒田が声を荒らげました。


「俺の土地だぞ!」


 そのとき。


「黒田さん」


 相馬先輩が、静かに口を開きました。


「本日、私どもは、ご依頼人に代わって示談交渉に来たわけではありません」


「……何?」


「事実関係の確認です。土地の範囲と、これまでの経緯を確認したかった」


「確認?」


「はい。ご主張は、登記名義を根拠に全面的な明渡しを求める、ということですね」


「ああ!」


「占有期間については、認めないと」


「当然だ!」


「分かりました」


 相馬先輩は手帳を閉じました。


「失礼します」


 え。


 終わり?


 私は慌てました。


「先輩!」


「行くぞ」


「でも!」


「必要なことは聞いた」


 黒田は、私たちの背中に向かって笑いました。


「行政書士なんか連れてきても無駄だぞ!」


 ……。


 私は、振り返りそうになりました。


 しかし。


 相馬先輩に肩を押され、事務所を出ました。



「先輩!」


「何だ」


「悔しくないんですか!」


「何がだ」


「あんなに馬鹿にされて!」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「こはる」


「はい!」


「あいつ、何を勘違いしてた?」


「登記簿に名前があれば、必ず土地を取り返せると思ってました!」


「他には?」


「二十年の取得時効にも、善意が必要だと!」


「そうだ」


「あと、証拠がないと思ってます!」


 先輩は頷きました。


「で、実際は?」


「証拠を集めている最中です」


「そういうことだ」


 先輩は煙草に火をつけました。


「相手が余裕ぶってるうちは、何を言っても聞きゃしねえ」


「はい」


「だったら、言い返すんじゃなくて、逃げ道を潰せ」


「逃げ道……」


「二十二年前からの占有。所有の意思。平穏、公然。全部、紙にして残す」


 私は頷きました。


「内容証明ですね」


「ああ」


「でも先輩」


「何だ」


「土地の取得時効って、内容証明だけで登記まで変わるんですか?」


「変わるわけねえだろ」


「ですよね……」


 相馬先輩は私を見ました。


「時効が完成しても、援用しなきゃならねえ」


「はい」


「それに、相手が所有権移転登記に協力しないなら、弁護士に引き継いで訴訟を検討することになる」


「はい」


「俺たちにできるのは、正確な書面を作り、本人の意思を証拠に残すことだ」


 なるほど。


 行政書士は、裁判の代理人ではありません。


 相手方との法律紛争を代理交渉することもできません。


 だからこそ。


 本人の名義で送る書面の正確さが、何より重要になる。


「所長なら、どうしますかね」


 私が言うと、相馬先輩は笑いました。


「たぶん、こう言う」


「何です?」


「まず、二十二年前を見てこい」


 私は立ち止まりました。


 昭和四十一年。


 二十二年前。


 もちろん。


 時間を戻すことはできません。


 でも。


 その時代の証拠なら、まだ残っているかもしれない。


「先輩!」


「何だ」


「写真を集めましょう!」


「それだけか?」


「領収書!」


「他には?」


「近所の人の証言!」


「よし」


「土地の現況も測ります!」


「そうだ」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく仕事になってきたな」



 そこから三日間。


 私たちは、古い町の記憶を集めました。


 まず、フミさんの家。


 昭和四十一年に建てられた木の柵。


 修理された部分はありましたが、位置は昔から変わっていないそうです。


 柿の木。


 物置。


 花壇。


 そして、庭の端には小さな石の踏み台。


「これは?」


 私が聞くと、フミさんは笑いました。


「主人が作ったんです。子供が柿を取れるように」


 私はしゃがんで、踏み台を見ました。


 角が丸くなっています。


 二十二年間。


 何度も踏まれ、雨に濡れ、日に焼けた石。


 私はメジャーを広げました。


「先輩、柵の内側、測ります!」


「ああ。記録しろ」


 境界の最終的な確定には、測量や専門家の判断が必要です。


 けれど、少なくとも。


 現在どこまで占有しているのか。


 どの柵が、いつから存在するのか。


 それを資料にすることはできます。


 私は庭を測り、見取図を書きました。


 次に向かったのは、近所の八百屋です。


「杉浦さんの庭?」


 店主のおじいさんは、私たちを見るなり頷きました。


「ああ。昔からあそこは杉浦さんの庭だよ」


「いつごろからですか?」


「家を買ったころからだな。俺がまだ三十代だったころだ」


「昭和四十一年ごろですか?」


「そうそう」


「木の柵も?」


「あったよ。旦那さんが自分で作ってな」


 おじいさんは懐かしそうに笑いました。


「柿の木を植えたとき、うちの店から肥料を買っていったんだ」


「そのときの記録、残っていませんか?」


「二十二年前の帳簿かあ……」


 難しい。


 ですよね。


 私は少し肩を落としました。


 すると。


「ちょっと待て」


 おじいさんが店の奥へ入りました。


 しばらくして、古いアルバムを持って戻ってきます。


「これだ」


 私は覗き込みました。


 商店街の慰安旅行。


 運動会。


 祭り。


 そして。


 ――昭和四十二年春。


 と書かれた写真。


 八百屋のおじいさんと、フミさんのご主人。


 その背後には、木の柵。


 柿の木。


 そして、問題の土地を含む庭。


「これ!」


 私は思わず声を上げました。


「写ってます!」


「ああ。旦那さんが柿の木を植えた翌年だ」


 相馬先輩が写真をじっと見ました。


「借り物として使っていたという話は、聞いたことがありますか?」


「いいや」


「黒田家から、庭を貸していると聞いたことは?」


「ねえな」


「杉浦さんは、自分の庭として使っていましたか?」


「ああ。そう思ってたはずだ」


 私はノートに書きました。


 昭和四十二年。


 柵の存在確認。


 隣人証言あり。


 所有者としての利用状況。


 記録。


 記録。


 さらに記録。


 これが、昭和の証拠集めです。


 スマートフォンもありません。


 防犯カメラもありません。


 デジタル写真の撮影日時もありません。


 けれど。


 古い写真や帳簿、近所の人の記憶がある。


 そして、それらをつなげば。


 二十二年前の庭が、少しずつ姿を現すのです。



「……ところで先輩」


 翌日。


 事務所に戻った私は、六法を開きました。


「何だ」


「取得時効って、途中で占有をやめたらどうなるんですか?」


「中断する」


「ですよね」


 私は鉛筆を走らせました。


 民法百六十四条。


 占有者が任意に占有を中止したり、他人に占有を奪われたりすれば、取得時効は中断する。


「じゃあ、フミさんのご主人が亡くなったときは?」


「それだけで占有が途切れるわけじゃねえ」


「あっ」


「相続人は、被相続人の占有を承継できる。実際にもフミさんがずっと庭を使っていただろ」


「はい!」


 そうでした。


 ご主人が亡くなったからといって、二十二年間が突然ゼロになるわけではありません。


 民法百八十七条。


 占有承継の問題です。


 しかも、今回のフミさんは、購入当時から夫と一緒に暮らし、庭を使い続けている。


 相続による承継だけに頼らず、本人の占有状況も確認できる。


「じゃあ、黒田さんが杭を打ったのは?」


「杭を打っただけで、当然に占有を奪ったことにはならねえ」


「明渡しを求める手紙は?」


「それだけで二十二年の占有が消えるわけでもねえ」


 なるほど。


 占有を失うことと、所有者だと名乗る人間が文句を言うことは違う。


 しかも。


 二十年の期間が既に満了していれば、その後の出来事だけで、完成済みの時効がなかったことにはならない。


「先輩!」


「何だ」


「現代なら『完成猶予』とか『更新』って用語で整理しますよね!」


「……何だそれ」


 しまった。


 私は口を押さえました。


 出ました。


 未来の民法。


 令和二年施行の改正民法では、時効の制度が整理されて、「完成猶予」「更新」という言葉が使われます。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


「い、いえ! 中断です!」


「最初からそう言え」


「はい!」


「それと、今調べている占有の喪失による中断と、裁判上の請求なんかによる時効の中断は、きちんと分けて考えろよ」


「はい」


 相馬先輩が六法を閉じました。


「で、今回の結論は?」


 私は答えました。


「昭和四十一年からの占有が継続していたと立証できれば、二十年の取得時効が成立している可能性が高いです」


「よし」


「所有の意思についても、住宅購入時の書面が重要です」


「そうだ」


「貸してもらっていたなら、話が変わりますよね」


 相馬先輩が頷きました。


「そこも忘れるな」


 借りている土地を、借りているという認識で使い続けた。


 それなら、二十年経っただけで、当然に所有権を取得できるわけではありません。


 所有の意思をもって占有していたか。


 ここが重要です。


「でもフミさんの場合は、自分たちの土地として買ったと思っていた」


「ああ」


「しかも木の柵で囲んで、誰にも隠さず使っていた」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 つながりました。


 所有の意思。


 平穏。


 公然。


 二十年以上の継続占有。


 時効の要件が、ひとつずつ形になってきたのです。



「これで最後だ」


 三日後。


 相馬先輩が机の上に、一冊の資料を置きました。


 題名。


 ――杉浦家土地占有関係資料。


 私はページをめくりました。


 昭和四十一年四月。


 住宅購入時の書面。


 現地木柵内を一体として売り渡す旨の記載。


 昭和四十一年五月。


 新居の白黒写真。


 昭和四十二年春。


 近隣住民の写真。


 昭和四十四年。


 柿の木の剪定に関する領収書。


 昭和五十二年。


 物置設置時の材料購入伝票。


 昭和五十八年。


 庭の柵の修理代金領収書。


 昭和六十三年。


 現況写真。


 近隣住民の事実確認書。


 フミさん自身の占有経緯を記した陳述書。


 私は、思わず唸りました。


「すごい……」


 相馬先輩が笑いました。


「まだあるぞ」


「え?」


「昭和四十一年の売主について調べた」


「売主?」


「ああ。家を売った男だ」


 その売主は、既に亡くなっていました。


 しかし、相続人が保管していた古い書類が見つかったのです。


 土地売買の際の見取図。


 そこには。


 住宅。


 庭。


 木の柵。


 そして、現在問題になっている細長い土地まで。


 一体として赤鉛筆で囲まれていました。


「……これ!」


「ああ」


「フミさんたち、本当に庭全部を買ったつもりだったんですね!」


「そういうことだ」


 もちろん。


 売主に所有権のなかった土地まで、当然に買主へ所有権が移るわけではありません。


 けれど。


 占有を始めた理由としては、重要な資料です。


 フミさんたちは、他人の土地を無断で借りたつもりではなかった。


 現地で示された範囲を、自分たちが買った土地だと考えていた。


 そして。


 二十二年間、その認識に沿って使ってきた。


「ただし」


 片桐所長が口を開きました。


「十年の取得時効を断定するな」


「はい」


「登記や境界を調べれば気づけた事情があったのか。取得当時に過失がなかったかどうかは、なお慎重に見る必要がある」


「はい!」


 私は頷きました。


「だから、二十年の取得時効を主張するんですね」


「そうだ」


 所長は資料を閉じました。


「立証しにくい要件を無理に抱える必要はない」


 私は、その言葉に少し驚きました。


 十年の取得時効。


 二十年の取得時効。


 どちらも、同じ所有権を得るための制度です。


 ならば。


 既に二十二年間占有している人が、十年の善意無過失の証明にこだわる必要はありません。


 二十年間の要件を、丁寧に固めればいい。


 法律の世界では。


 短い期間の制度を使うことが、必ずしも有利とは限らないのです。


「こはる」


 所長が言いました。


「書け」


「はい!」


「本人のための、時効援用通知書だ」



 その日、私は一通の書面を書き上げました。


 宛先。


 黒田栄一。


 差出人。


 杉浦フミ。


 表題。


 ――取得時効援用通知書。


 私は読み上げました。


「第一。本件土地のうち、別紙図面表示の占有部分について、通知人及びその亡夫は、昭和四十一年五月以来、住宅敷地の一部として占有を開始した」


 相馬先輩が頷きます。


「第二。右占有は、土地購入時に示された木柵内を自己所有地と認識して開始されたものであり、その後、庭、花壇、果樹栽培及び物置設置等の目的で継続された」


「うん」


「第三。右占有は、所有の意思をもって、平穏かつ公然に行われたものである」


「よし」


「第四。昭和四十一年五月から昭和六十一年五月までに、既に二十年以上の占有期間が経過している」


「続けろ」


「第五。したがって、通知人は、民法第百六十二条第一項に基づく二十年の取得時効を援用する」


 私は一度、息を吸いました。


 そして。


「第六。貴殿におかれては、本件土地の所有権帰属及び所有権移転登記への協力について、書面による回答を求める」


 相馬先輩が頷きました。


 さらに。


 末尾には。


 ――貴殿が本件取得時効の成立を争い、登記手続に協力されない場合、通知人において弁護士に相談のうえ、所有権移転登記手続請求等の法的措置を検討する。


 私は読み終えました。


「……以上です」


 片桐所長は、書面を手に取りました。


 ゆっくり読みます。


 赤鉛筆を持ちました。


 私は身構えました。


 また、大量の赤線でしょうか。


 ところが。


 所長が指摘したのは、一か所でした。


「ここだ」


「はい」


「時効取得の対象となる土地の範囲を、もっと明確にしろ」


「あ……」


「三十坪ほど、では足りん」


「はい」


「登記上の地番と、占有部分の位置関係を示せ。必要なら測量士などの専門家による確認も要る」


 私は慌てて図面を見直しました。


 なるほど。


 土地の一部を時効取得したというなら。


 どの土地の、どの部分なのか。


 そこが曖昧では、登記手続にも進めません。


「所長」


「何だ」


「時効が成立していることと、登記できることも別なんですね」


「そうだ」


「登記名義人が協力しないなら、裁判が必要になることもある」


「ああ」


「しかも、測量も必要になるかもしれない」


 所長が頷きました。


「法律で勝てる理屈があっても、現実の手続を終えなければ仕事は終わらん」


 私は深く頷きました。


 取得時効。


 ただ年数を数えるだけではない。


 土地の範囲。


 占有の開始。


 所有の意思。


 占有の継続。


 そして援用。


 全部つながって、初めて財産を守る力になるのです。



 翌週。


 黒田不動産に、一通の内容証明郵便が届きました。


 フミさん本人が、内容を確認し、署名押印した通知書です。


 そこには。


 二十二年間の占有経緯。


 民法百六十二条第一項。


 時効援用の意思表示。


 そして、裏付け資料の一覧が記されていました。


 相馬先輩が言うところの。


 ――声ではなく、紙で突きつける反撃。


 です。


 通知書の写しを確認しながら、私は尋ねました。


「先輩。黒田さん、どう出ますかね」


「さあな」


「やっぱり、登記簿を見せてくるでしょうか」


「見せるだろうな」


「でも、それだけじゃ駄目なんですよね」


「ああ」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「登記名義があるのは事実だ。だが、取得時効が完成して援用されれば、実体上の所有権が変わっている可能性がある」


「はい」


「争うなら、占有の開始時期、所有の意思、占有の継続、そういうところを具体的に崩さなきゃならねえ」


「……なるほど」


「それに、今回は二十年だ」


「はい」


「善意無過失がなかった、という反論だけじゃ足りねえ」


 私は、少し笑いました。


 黒田さん。


 十年の取得時効なら、無過失を争う余地がありました。


 けれど。


 二十年。


 こちらは、事情が違います。


 しかも、フミさんには二十二年間の資料がある。


 その二十二年間を、なかったことにできるのか。


 そこが問題になるのです。



 内容証明を発送してから五日後。


 片桐事務所に電話が入りました。


「黒田不動産の黒田ですが……」


 私は受話器を握りました。


 あ。


 あの人です。


「はい。片桐行政書士事務所です」


『片桐さんは、おられますか』


「少々お待ちください」


 私は所長へ受話器を渡しました。


 所長は静かに応じました。


「片桐です」


『あの……杉浦さんの土地の件で』


「はい」


『通知書、読みました』


「そうですか」


 黒田の声が、妙に小さい。


『あの、二十年の時効って……本当に善意じゃなくても成立するんですか?』


「民法百六十二条第一項の要件については、通知書に記載しております」


『そうですか……』


 沈黙。


 しばらくして。


『弁護士に、相談したんです』


「はい」


『そうしたら……』


 黒田は、言いにくそうに続けました。


『昔からの占有が立証されるなら、こっちの登記があるだけで勝てるとは限らないって……』


 私は、思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は、黙って新聞を読んでいます。


『それに、二十二年前の写真まで残ってるんですね』


「はい。ご本人から預かった資料です」


『……』


『実は、先代の書類も調べてみたんです』


 黒田の声が、さらに低くなりました。


『昭和四十年代の帳簿に、杉浦さんの家の横の土地について、昔の売主との境界の食い違いがあったらしい記録が残ってまして』


 私は息を呑みました。


 え。


 それって。


『先代が、一度確認しようとしたようなんですが……そのままになっていたみたいです』


 黒田は深く息を吐きました。


『弁護士から、占有開始の経緯も確認せずに強引に明渡しを求めれば、訴訟でこちらの主張が認められない可能性が高いと言われました』


 所長は静かに聞いています。


『それに、勝手に柵や物置を壊したら、別の責任問題になるとも……』


 そこで。


 黒田が言いました。


『……明渡しの要求は、撤回します』


 私は受話器を見つめました。


 そして。


『杭も撤去します』


 え。


『所有権移転登記についても、こちらで資料を確認して、協力する方向で考えています』


 私は思わず立ち上がりそうになりました。


 でも。


 所長は落ち着いた声で答えました。


「そのご意向は、書面でご本人へお伝えください」


『はい』


「登記に必要な資料や手続については、適切な専門家に確認していただくことになると思います」


『分かりました』


 黒田は、少し間を置きました。


 そして。


『……杉浦さんに、申し訳なかったと伝えていただけますか』


 所長は答えました。


「謝罪のご意思も、ご本人へ直接お伝えください」


『……はい』


 電話が切れました。


「所長!」


 私は、思わず叫びました。


「明渡し要求、撤回ですか!」


「ああ」


「杭も!」


「ああ」


「登記も協力するって!」


「そう言っていたな」


 私は拳を握りました。


「やりましたね!」


 しかし。


 相馬先輩が新聞を閉じました。


「まだ終わってねえぞ」


「え?」


「登記が済んでねえ」


「……あ」


「向こうの電話一本で、全部解決した気になるな」


 そうでした。


 口で協力すると言っても、実際に所有権移転登記が完了するまでは、解決したとは言い切れません。


「でも、先輩」


「何だ」


「相手の態度、完全に変わりましたね」


「ああ」


 相馬先輩は笑いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「出ました!」


「何がだ」


「先輩の決め台詞!」


「うるせえ」


 私は笑いました。


 けれど。


 その言葉の意味が、少し分かった気がしました。


 こちらが怒鳴っても、黒田は笑っていた。


 登記簿があるから勝てると、信じ込んでいた。


 しかし。


 昭和四十一年の書面。


 二十二年間の写真。


 近所の証言。


 民法百六十二条。


 そして。


 本人が署名押印した時効援用通知書。


 それらを突きつけられた途端。


 彼は、初めて自分の法的な立場を考え直したのです。



 それから、およそ一か月。


 黒田は、明渡し要求の撤回を書面で通知しました。


 庭の杭も撤去されました。


 さらに、土地の範囲を専門家に確認してもらい、登記に必要な図面と書類が整えられました。


 黒田は登記手続に協力する旨の書面を提出。


 フミさんは司法書士に依頼して、所有権移転登記の手続を進めました。


 そして。


 ある日の午後。


「こはるちゃん!」


 事務所の扉が開きました。


 フミさんです。


 あの日とは違って、明るい表情。


 手には、一枚の書類。


「できました!」


「何がですか?」


「登記です!」


 私は目を丸くしました。


「本当ですか!」


「はい!」


 フミさんは、登記の手続が完了したことを示す書類を広げました。


 問題だった土地の所有権。


 取得時効を原因とする移転登記。


 必要な手続を経て、フミさんの権利が登記にも反映されたのです。


「……よかった」


 私は、思わず呟きました。


 フミさんは、何度も頭を下げました。


「本当に、ありがとうございました」


「いえ。私は、書類を作るお手伝いをしただけです」


「それでも」


 フミさんは、少し涙ぐみました。


「主人が守ってきた庭なんです」


 私は黙って頷きました。


「主人がね。柿の木を植えたとき、こう言ったんですよ」


「何て?」


「この木が大きくなったころには、子供たちも大きくなるなって」


 フミさんは、柔らかく笑いました。


「本当に、そうなりました」


 子供たちは成人し、家を出たそうです。


 でも、帰省すると、庭の柿を食べる。


 亡くなったご主人も、毎年その季節を楽しみにしていた。


「だから、あの木だけは守りたかったんです」


 私は、胸が熱くなりました。


 法律の教科書には、こう書かれています。


 ――二十年間、所有の意思をもって、平穏かつ公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。


 たった一行。


 でも。


 その二十年の間には。


 結婚がある。


 子供の成長がある。


 家族の別れがある。


 毎年咲く花がある。


 家族みんなで食べた柿がある。


 そういう時間が、積み重なっている。


 法律は。


 長い年月によって形作られた生活の事実を、いつまでも無視し続けるわけではないのです。



 フミさんが帰ったあと。


 私は机の上に、二枚の紙を並べました。


 一枚は、最初に黒田が持ってきた登記簿謄本の写し。


 もう一枚は、今回の登記手続の記録。


「……不思議ですね」


 私が呟くと、相馬先輩が顔を上げました。


「何がだ」


「最初は、登記簿に黒田さんの名前があったんですよ」


「ああ」


「それが、取得時効で変わった」


「そうだな」


「登記簿って、絶対じゃないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「登記は重要だ。だが、登記だけで何でも決まるわけじゃねえ」


「はい」


「民法が認める権利の変動を、きちんと見なきゃならねえ」


 私は考えました。


「先輩」


「何だ」


「もしフミさんが、十年間しか使ってなかったら?」


「善意無過失が問題になるな」


「ですよね」


「無過失を証明できなければ、十年の取得時効は認められねえ」


「はい」


「じゃあ、二十年なら?」


「善意無過失までは必要ありません!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 十年と二十年。


 単に年数が違うのではない。


 十年は、占有開始時の善意無過失という条件がある。


 二十年は、それがなくても成立する余地がある。


 法律が、長年続いてきた事実関係を重く見るからです。


「でも、先輩」


「何だ」


「所有の意思がなかったら、二十年使っても駄目なんですよね」


「そうだ」


「借りていた土地を、借りているつもりで使い続けただけなら」


「ああ」


「だから、フミさんが自分たちの土地として買ったと思っていたことが大事だった」


 相馬先輩が、少し笑いました。


「今日のお前は、よく分かってるじゃねえか」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の事件は、これだけでは終わりません。


「所長」


「何だ」


「私、ひとつ気になったんです」


「言ってみろ」


「今回、黒田さんは登記簿に名前がありましたよね」


「ああ」


「それなのに、取得時効で土地を失うことになった」


「そうだ」


「じゃあ……」


 私は少し考えました。


「長い間、他人に土地を使わせている地主さんは、みんな危ないんですか?」


 片桐所長は、首を横に振りました。


「そんな単純な話ではない」


「え?」


「貸した土地を、借主が借主として使っているなら、原則として所有の意思をもった占有とは違う」


「あっ」


「最初に、どういう原因で占有を始めたかが重要だ」


 私は頷きました。


 そうでした。


 所有の意思。


 ただ長く使っているかではない。


 どんな立場で使っているのか。


 そこを調べなければならない。


「だから」


 所長が言いました。


「取得時効は、長く使った者への褒美ではない」


「……はい」


「権利関係と占有の事実を、一定の条件のもとで法律が評価する制度だ」


 私は、その言葉をゆっくり噛みしめました。


 取得時効。


 時効という言葉だけ聞くと、なんだか不思議です。


 他人の土地でも。


 長い間使っていれば。


 自分のものになる場合がある。


 でも。


 ただ年数を数えればいいわけではない。


 所有の意思。


 平穏。


 公然。


 継続。


 そして。


 十年なら、占有開始時の善意無過失。


 二十年なら、その条件は不要。


 さらに、時効の援用も必要になる。


 全部そろって、初めて法律が動くのです。


「所長」


「何だ」


「今日、取得時効が好きになりました」


「そうか」


「はい」


 私は笑いました。


「二十二年間の暮らしが、ちゃんと意味を持つんですね」


 片桐所長は、静かに頷きました。


「そうだ」


 私はノートを開きました。


 そして。


 今日の教訓を書きました。


 ――取得時効は、ただ長く使った者の制度ではない。所有の意思をもって、平穏かつ公然に積み重ねた時間を、法律上の権利へ変える制度である。


 よし。


 これなら忘れません。



 夕方。


 事務所の窓から、赤い夕日が差し込んでいました。


 私は、フミさんから預かった最後の写真を眺めていました。


 柿の木の下。


 笑っている夫婦。


 小さな子供。


 木の柵。


 その柵は、二十二年間ずっと、同じ場所にあった。


 黒田が持っていたのは、登記簿。


 フミさんが持っていたのは、長い時間の証拠。


 もちろん。


 思い出があるだけで、法律上の権利が生まれるわけではありません。


 しかし。


 法律が定めた要件を満たしていれば。


 その積み重ねた時間は、財産を守る力になる。


 私は写真を封筒に戻しました。


「相馬先輩」


「何だ」


「法律って、ときどき時間を味方にしてくれるんですね」


「……そうだな」


「二十二年ですもんね」


「ああ」


「フミさんが、毎日あの庭を使っていたから、守れたんですよね」


 先輩はしばらく黙っていました。


 それから。


「こはる」


「はい」


「時間ってのはな、何もしなくても過ぎていく」


「はい」


「だが、その時間をどう過ごしたかは、後になって効いてくることがある」


 私は頷きました。


「法律でも、ですか」


「ああ」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「二十年、自分の庭として守ってきた。誰にも隠さず、普通に暮らしてきた。それを裏付ける事実があった」


「はい」


「だから、書面にできた」


 私は、小さく笑いました。


 確かに。


 あの内容証明は、突然生まれたものではありません。


 二十二年間の暮らしがあったから、書けたものです。


 そして。


 私たちは、それを法律の言葉にしただけ。


 そう考えると。


 民法百六十二条という条文が、少しだけ温かく感じられました。


「ところで、こはる」


「はい?」


「今日の問題だ」


 相馬先輩が、突然言いました。


「え?」


「Aが、Bの土地を二十五年間借りて畑にしていた」


「はい」


「賃料も毎年払っていた」


「はい」


「Aは、その土地を時効取得できるか?」


 私は勢いよく答えました。


「二十五年間だから、二十年を超えています!」


「うん」


「でも!」


「でも?」


「借りている土地を、借りているつもりで使っているだけなので、所有の意思がありません!」


「そうだ」


「だから、それだけでは所有権の取得時効は成立しません!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は拳を握りました。


「やった!」


「じゃあ次」


「え?」


「Aが十年間、他人の土地を自分のものと信じて占有した」


「はい」


「善意は推定される」


「はい!」


「無過失も推定されるか?」


 私は即答しました。


「されません!」


「おお」


「十年の取得時効を主張する側が、無過失を立証する必要があります!」


 相馬先輩が笑いました。


「よし。最後だ」


「まだあるんですか!」


「Aが、他人の土地を二十年間、所有の意思をもって平穏かつ公然に占有した」


「はい」


「占有開始時から、他人の土地だと知っていた」


「はい」


「取得時効は成立しないか?」


 私は胸を張りました。


「いいえ!」


「理由は?」


「二十年の取得時効には、善意無過失が必要ないからです!」


「正解」


 私は大きく息を吐きました。


 完璧。


 今日の取得時効は、もう忘れません。


「先輩!」


「何だ」


「私、分かりました!」


「何がだ」


「十年と二十年って、ただの数字じゃないんですね!」


「そうだ」


「十年には善意無過失が必要! 二十年には不要!」


「ああ」


「どっちも所有の意思と平穏・公然な占有が必要!」


「そうだ」


「しかも、無過失は推定されない!」


「分かったから静かにしろ!」


「はいっ!」


 私は笑いました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、ひとつの法律を覚えました。


 取得時効。


 民法百六十二条。


 十年。


 二十年。


 占有。


 所有の意思。


 平穏。


 公然。


 善意。


 無過失。


 そして、時効の援用。


 試験では、これらの要件を正確に区別する必要があります。


 でも。


 きっと私は、もう忘れないでしょう。


 だって。


 二十年という数字を見るたびに。


 フミさんの庭を思い出すからです。


 古い木の柵。


 家族で食べた柿。


 ご主人が残した石の踏み台。


 そして、二十二年間、当たり前に続いてきた暮らし。


 登記簿に名前がある。


 それは重要です。


 けれど。


 登記簿に名前がないからといって、長年の占有によって取得した権利まで、必ず否定されるわけではない。


 民法は。


 紙の上の名前だけでなく。


 現実に積み重ねられてきた時間も、見ているのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノートは終わったか!」


「終わりました!」


「じゃあ、掃除しろ!」


「また掃除ですか!」


「毎日やるもんだろ!」


 私は箒を手に取りました。


 そして、ふと思いつきました。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「私、毎日この事務所を掃除していますよね!」


「ああ」


「このまま二十年間掃除し続けたら!」


「……おい」


「事務所を時効取得できたりしませんか!」


 相馬先輩が、ものすごく嫌な顔をしました。


「馬鹿野郎!」


「ええっ!」


「お前、何を勉強してたんだ!」


「取得時効です!」


「事務所を所有する意思で占有してるわけじゃねえだろ!」


「あっ!」


「しかも、所長の事務所だって分かってるし、仕事で使わせてもらってるんだろうが!」


「……確かに」


 私は箒を握り直しました。


 なるほど。


 毎日掃除しても。


 二十年間働いても。


 それだけで、事務所が自分のものになるわけではありません。


 所有の意思。


 ここが大事。


「先輩」


「何だ!」


「やっぱり、取得時効って難しいですね」


「お前が妙なこと考えるからだ!」


 奥の部屋から、片桐所長の声が聞こえました。


「相馬」


「はい」


「こはるが二十年間掃除してくれるなら、助かるな」


「そうですね!」


 私は叫びました。


「所長!」


「何だ」


「その約束、契約書にしないでくださいね!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「お前が言い出したんだろ!」


「今のは冗談です!」


「だったら掃除しろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら床を掃き始めました。


 窓の外。


 昭和の町に、夕暮れが広がっていきます。


 あのどこかで。


 フミさんは今日も、柿の木のある庭に立っているのでしょう。


 二十二年間、守り続けてきた庭。


 これからも、家族の思い出が積み重なっていく庭。


 そこにあるのは。


 ただの三十坪ではありません。


 二十二年分の人生です。


 そして。


 その人生を守るために。


 民法には、取得時効という制度がある。


 私は、今日のノートをもう一度見ました。


 ――取得時効は、時間だけで成立するのではない。その時間を、どんな意思で、どのように占有してきたかが問われる。


 よし。


 今日の教訓。


 これなら、絶対に忘れません。


 だって。


 二十年という年月を、たった一枚の登記簿で消してしまえるほど。


 民法は、薄っぺらい法律ではないのです。

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