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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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458/610

[時効の完成猶予と更新]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)


 時計を止めることと、時計を最初に戻すことは、まったく違います。


 たとえば。


 十年間の時効期間。


 九年と三百六十五日が過ぎたところで、時計を一時停止する。


 それが、時効の完成猶予の考え方。


 一方。


 九年と三百六十五日が過ぎていても。


 それまでの時間をゼロに戻して、もう一度最初から数え直す。


 それが、時効の更新です。


 ただし。


 昭和六十三年には、まだそんな名前の制度はありません。


 当時の民法では。


 時効の中断。


 これが、権利を守るための強力な武器でした。


 そして。


 その違いを勘違いした私は。


 危うく、老夫婦の百八十万円を失わせるところだったのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・民法編。


「……先輩」


「何だ」


「時効って、名前がずるくないですか?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また法律に文句か」


「だって、完成猶予と更新ですよ?」


「何だそりゃ」


「……あ」


 しまった。


 また、やってしまいました。


 私は慌てて言い直しました。


「いえ! 時効の中断です!」


「最初からそう言え」


 そうでした。


 今は昭和六十三年。


 民法の債権法大改正は、まだ三十年以上先です。


 現代の受験生だった私には、


 時効の完成猶予。


 時効の更新。


 という言葉が、頭に染みついています。


 でも。


 片桐事務所の六法に書かれているのは、時効の中断。


 そして、時効の停止。


「今日は、その違いを整理したいんです」


 私が言うと、相馬先輩は机を指で叩きました。


「なら、田辺さんの事件を思い出せ」


 私は頷きました。


 田辺正一さん。


 妻の澄江さん。


 十年前、知人の大崎義男に百八十万円を貸しました。


 返済期日は、昭和五十三年十一月一日。


 ところが、大崎は十年近く返済を拒み続けた。


 そして。


「もうすぐ時効だ」


 そう言って、借金を踏み倒そうとしたのです。


 そこで私たちは、内容証明郵便で催告しました。


 すると、大崎は。


 なんと、自分から一万円を返済。


 さらに。


 ――残り百七十九万円も返済する。


 と書いた手紙まで送ってきました。


 その結果。


 債務の承認による時効中断が問題になったのです。


「先輩」


「何だ」


「あの大崎さん、どうして一万円なんて送ったんでしょうね」


「百八十万を返すより、一万円で相手を黙らせるほうが得だと思ったんだろ」


「でも、結果は逆でした」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「十年逃げ切るつもりの男が、自分で時効の時計を巻き戻した」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――催告と承認は、違う。


 ここが、今日の出発点です。


「まず、時効の完成猶予です!」


 私はノートに時計を描きました。


 十年。


 九年。


 九年十一か月。


 そして。


 時効完成まで、あと七日。


「田辺さんの事件は、ここでした」


「そうだな」


「このまま十年を経過すると、消滅時効が完成する可能性があった」


「ああ」


「ただし、消滅時効は、期間が過ぎただけで自動的に借金が消滅するという話ではありません」


 私は赤線を引きました。


 時効の援用。


 民法百四十五条。


「時効の利益を受ける人が、時効を援用することが必要なんですよね」


「そうだ」


 大崎は、こう言っていました。


 ――十一月になったら、時効を援用してやる。


 つまり。


 時効期間が満了したところで、その利益を主張するつもりだったのです。


「でも、先輩」


「何だ」


「時効が完成する直前に、債権者が動いたら?」


「場合によるな」


「そこで登場するのが、完成猶予です!」


 私は時計の針の前に、一本の線を引きました。


 ――ここでは、まだ時効を完成させない。


「これが完成猶予のイメージです」


「つまり、一時的に完成を防ぐわけか」


「はい!」


 たとえば、時効完成の七日前に催告する。


 現代の民法百五十条では、催告があったときから六か月を経過するまで、時効は完成しません。


「じゃあ、その六か月で時効期間がゼロに戻るのか?」


「いいえ!」


 私は首を振りました。


「そこが重要です」


 完成猶予では、それまで経過した時効期間が消えるわけではありません。


 九年十一か月以上進んだ時計が、最初からになるわけではない。


 一定期間、時効が完成しないだけ。


 だから。


 猶予期間が終わるまでに、必要な手段を取らなければなりません。


「じゃあ、田辺さんの内容証明は?」


「現代の制度なら、催告による六か月の完成猶予です」


「昭和では?」


「民法百五十三条です!」


 私は、昭和の六法を開きました。


 催告。


 六か月以内に裁判上の請求などの所定の手続をしなければ、時効中断の効力を生じない。


「つまり、昭和でも、催告をしただけで永久に安心できるわけじゃありません」


「そうだ」


「六か月以内に、次の手続へ進む必要がある」


 片桐所長が奥から言いました。


「だから期限管理票を作った」


「はい!」


 私は思い出しました。


 内容証明の発送日。


 到達日。


 六か月の期限。


 弁護士への引継ぎ予定日。


 全部、書きました。


 民法は、条文を知っているだけでは足りません。


 期限を管理して、初めて権利を守れるのです。


「では、次です」


 私は時計をもう一つ描きました。


 今度は、九年十一か月以上進んだ針を。


 ぐるりと戻します。


 ゼロ。


 最初から。


「これが時効の更新です」


 相馬先輩が頷きました。


「田辺さんの事件で起きたことだな」


「はい!」


 大崎は、一万円を振り込みました。


 しかも。


 残り百七十九万円についても、自分の署名押印で返済を認めました。


「これが、債務の承認です」


「そうだ」


「時効完成前の承認によって、時効期間が新しく進み始める」


 現代の民法なら。


 百五十二条。


 時効の更新。


 昭和六十三年なら。


 百四十七条三号の承認。


 そして、百五十七条による中断後の時効の進行。


「所長!」


「何だ」


「これ、言葉は違うけど、実質的には共通する考え方がありますね!」


「ああ」


「時効期間が積み重なっていても、債務者が債務を承認したら、それまでの経過をリセットする」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 だからこそ。


 一万円の返済でも、意味がある。


 問題は、返済した金額の大きさではありません。


 その返済が、どんな債務を認める行為なのか。


「ただし」


 所長が言いました。


「一万円払えば、必ずすべての借金について承認になるわけではない」


「あ、はい」


「複数の借金があるかもしれん。別の名目の支払いかもしれん」


「だから、大崎さんの手紙が重要だったんですね」


「そうだ」


 昭和五十三年の借用分。


 百八十万円。


 返済の一部として一万円。


 残額百七十九万円。


 全部、明記してあった。


「大崎さん、自分から完璧な証拠を作ってくれたんですね……」


「皮肉なもんだな」


 相馬先輩が笑いました。


 私はノートに書きました。


 ――完成猶予は、ゴールを先送り。


 ――更新は、スタートへ戻す。


 よし。


 まずは、この二つです。


「じゃあ、確認問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「時効完成の五日前に、内容証明で催告した。現代の民法では?」


「催告から六か月間、完成猶予です!」


「それまでの時間はゼロになるか?」


「なりません!」


「六か月間に、もう一度催告したら?」


「……また六か月?」


 先輩が、じっと私を見ました。


 ……。


「あっ!」


 私は叫びました。


「違います!」


「そうだ」


「催告による完成猶予中に再度の催告をしても、さらに六か月延長されません!」


「正解」


 危ない。


 民法百五十条二項。


 再度の催告。


 これは効力がありません。


 私はノートに書きました。


 ――催告を繰り返しても、無限延長はできない。


「どうしてですかね」


 私が尋ねると、相馬先輩が答えました。


「そんなことができたら、誰も裁判に進まなくなるだろ」


「あ……」


「半年ごとに手紙を送ってりゃ、永久に時効を完成させずに済むことになる」


「確かに」


「それじゃ、時効制度の意味がなくなる」


 なるほど。


 時効は、いつまでも古い権利関係が不安定に残ることを避けるための制度。


 だから。


 債権者には、必要な行動を取る機会を与える。


 でも。


 いつまでも引き延ばせるわけではない。


 このバランスが重要なのです。


「それじゃ、次は裁判上の請求です!」


 私はページをめくりました。


「田辺さんの事件で、大崎さんが一万円を払わなかった場合を考えます」


 相馬先輩が頷きました。


「催告だけでは終われねえからな」


「はい」


 もし大崎が、最後まで借金を認めなかったら。


 弁護士と連携し、裁判上の請求などの法的手続を検討することになります。


「現代の民法百四十七条では、裁判上の請求があった場合、その手続が終了するまで時効は完成しません」


「ふむ」


「そして、確定判決などによって権利が確定すると?」


「時計が最初に戻るわけか」


「そうです!」


 私はノートに二段階で書きました。


 裁判中。


 ――完成猶予。


 確定判決などで権利が確定。


 ――更新。


「つまり、裁判上の請求では、完成猶予と更新が組み合わさるんですね」


「そういうことか」


 私は頷きました。


 ただし。


 ここで重要な例外があります。


「先輩、もし裁判を途中で取り下げたら?」


「どうなるんだ?」


「現代の民法では、権利が確定しないまま訴訟が終了した場合、原則として、その終了から六か月間は時効が完成しません」


「ほう」


「でも、それだけで更新されるわけではありません」


 私は赤線を引きました。


 ――訴えの取下げと確定判決は違う。


「じゃあ、訴えてすぐ取り下げれば、時効期間がゼロになるわけじゃねえな」


「そのとおりです!」


 ここ。


 試験で間違えそうなところです。


 裁判を起こした。


 だから、必ず更新。


 これは違います。


 手続がどう終わったのか。


 権利が確定したのか。


 そこまで確認する必要があります。


「ちなみに、裁判上の請求以外にも、支払督促や調停、倒産手続への参加などが問題になります」


「全部同じ扱いか?」


「それぞれ手続上の要件があります。ただ、現代民法百四十七条の基本は、手続中の完成猶予と、権利が確定した場合の更新という組合せです」


 私はノートの端に小さく書きました。


 昭和六十三年の時効中断制度と、現代の完成猶予・更新制度。


 現代のほうが、どの段階で時効の完成を防ぎ、どの段階で時間をリセットするのか、条文上も区別しやすい。


 これが、改正された大きな意味の一つなのです。


「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「裁判で勝った後は、どうなる」


「え?」


「確定判決で権利が認められたあとだ」


 私は考えました。


「時効期間が新しく進み始めます」


「何年だ」


「……」


 あ。


 私は慌ててノートを開きました。


「現代では、確定判決などによって確定した権利については、もともとの時効期間が十年より短い場合でも、原則として十年になります!」


 民法百六十九条。


 私はそこに線を引きました。


「ただし、確定時に弁済期がまだ到来していない債権などには例外があります」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 裁判で権利を確定させたのに、その直後に短い時効期間で消えてしまう。


 それでは不都合です。


「昭和にも、確定判決によって確定した権利についての特則があるんですよね」


「ああ」


 当時の民法百七十四条の二。


 判決で確定した権利について、十年の時効期間を定める規定です。


「やっぱり、制度の根っこはつながっているんですね」


「そうだな」


 私は少し嬉しくなりました。


 時代が変わっても。


 法律が守ろうとしているものは、突然全部変わるわけではありません。


 時効という制度がある。


 でも、権利を守るために裁判までした人には、それに見合った法的な安定を与える。


 その考え方は、昔も今も存在するのです。


「次は、強制執行です!」


 私は勢いよくページをめくりました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「まだあるのか」


「あります!」


「多いな……」


「行政書士試験ですから!」


 私はノートに書きました。


 ――現代民法百四十八条。


 強制執行等による時効の完成猶予と更新。


「たとえば、判決などの債務名義を取得して、強制執行をした場合です」


「うん」


「強制執行の手続が続いている間は、時効の完成が猶予されます」


「それから?」


「手続が終了すると、原則として時効が更新されます」


 ただし。


 重要な例外があります。


「申立てを取り下げた場合や、法律の規定に従わないことによる取消しで終わった場合には、更新しません」


「なるほどな」


「その場合でも、終了から六か月間の完成猶予はあります」


 私は赤線を引きました。


 ――強制執行が終われば、何でも更新とは限らない。


「じゃあ、仮差押えはどうだ?」


 相馬先輩が尋ねました。


「待ってました!」


 私は笑いました。


 現代民法百四十九条。


 仮差押え。


 仮処分。


「これは、完成猶予です」


「更新は?」


「ありません!」


 私は大きく丸をつけました。


「仮差押えや仮処分があった場合、その手続が終了した時から六か月間、時効の完成が猶予されます」


「時計は最初に戻らねえんだな」


「そうです!」


 ここは非常に大事です。


 仮差押え。


 財産を仮に押さえる。


 たとえば。


 大崎が財産を隠そうとしている。


 そこで、将来の強制執行を確保するために、裁判所の仮差押命令を得る。


 ただし。


 仮差押えをしたからといって、それだけで債権の存在が確定するわけではありません。


「だから、完成猶予にとどまるんですね」


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「仮に押さえたことと、勝訴が確定したことは違うってわけだ」


「そのとおりです!」


 私は感心しました。


 こうやって整理すると。


 なぜ、完成猶予だけなのか。


 なぜ、更新まで認めるのか。


 少しずつ見えてきます。


「さて、次は協議です!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「協議?」


「はい。話し合いです」


「田辺さんと大崎みたいな場合か」


「そうです!」


 私はノートに書きました。


 ――現代民法百五十一条。


 協議を行う旨の合意による時効の完成猶予。


「先輩。もし田辺さんと大崎さんが、『返済について話し合いを続けましょう』と書面で合意したら?」


「どうなるんだ?」


「現代の民法なら、一定期間、時効の完成が猶予されます!」


 相馬先輩が眉を上げました。


「書面で合意するだけで?」


「はい!」


「それは便利だな」


「そうなんです」


 これは、昭和六十三年の民法にはない、新しい仕組みです。


 現代の民法改正では、当事者が裁判に進む前に話し合う機会を確保するため、協議を行う旨の合意による完成猶予が設けられました。


「でも、期間の計算が少し複雑なんですよ」


 私は三つ書きました。


 一つ目。


 合意から一年。


 二つ目。


 一年より短い協議期間を定めていれば、その期間。


 三つ目。


 協議を続けないという拒絶通知が書面でされた場合、その通知から六か月。


「この三つのうち、いずれか早い時までです」


「ふむ」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、半年だけ話し合おうって書面で合意したら?」


「原則として、その半年の期間までです」


「一年じゃねえのか?」


「短い期間を決めているので、そちらが優先します」


「じゃあ、一年間話し合うことにしたが、三か月後に片方が書面で拒否したら?」


「その拒否通知から六か月後を計算し、ほかの期限と比べて早い時までです」


「なるほど」


 私はさらに続けました。


「しかも、協議の合意を猶予期間内に繰り返せば、猶予期間を延ばすこともできます」


「何だ。じゃあ永久に延ばせるのか?」


「いいえ!」


 私は机を叩きました。


「当初、時効が完成するはずだった時から、通算して最長五年です!」


 民法百五十一条二項。


 私は二重線を引きました。


「さらに、催告による完成猶予中に協議の合意をしても、その合意による完成猶予は生じません」


「逆は?」


「協議の合意による完成猶予中に催告しても、その催告による完成猶予は生じません!」


「へえ」


「だから、催告と協議合意を組み合わせて無制限に延長することもできないんです」


 私は腕を組みました。


「でも、これって合理的ですよね」


「どうしてだ?」


「裁判をする前に、話し合いで解決できるなら、そのほうがいいですから」


 田辺さんと大崎。


 もし、もっと早い段階で書面による協議の合意をしていたら。


 もしかすると。


 あそこまで険悪にならなかったかもしれません。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「その制度は、この時代にはない」


「……はい」


「未来の法律を使って、今日の依頼人を守ることはできん」


「分かっています」


 私は苦笑しました。


 本当に、そこが転生者の難しいところです。


 便利な制度を知っていても。


 施行前なら、使えない。


 法律は、知識だけでなく。


 いつの法律か。


 それも確認しなければならないのです。


「では、時効の承認です!」


 私はノートをめくりました。


「いよいよ、田辺さんの事件の決定打です!」


 相馬先輩が笑いました。


「大崎の一万円か」


「はい!」


 現代民法百五十二条。


 権利の承認による時効の更新。


 権利の承認があったとき、時効はその時から新たに進行を始めます。


「大崎さんは、一万円を返しました」


「そうだ」


「さらに、残り百七十九万円について返済を認めた」


「ああ」


「だから、承認による時効中断が認められる有力な証拠になったんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「ちなみに、承認には必ずハンコが要るのか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「承認は、必ずしも書面や押印が必要なわけではありません」


「そうだ」


「口頭でも、債務を認める意思が示されれば、承認に当たることがあります」


「じゃあ、何で書面を取るんだ?」


「証拠です!」


 私は机の上の大崎の手紙を指差しました。


 ――残額百七十九万円については、返済したい。


 この一行。


 これが残っているからこそ。


 大崎が後から、


「そんなこと言っていない」


 と争っても、反論しやすい。


「法律上、有効であることと、裁判で証明しやすいことは違うんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「口頭でも承認は成立し得る。でも、争いになったら証拠が問題になる」


「そのとおり」


 私はノートに書きました。


 ――承認は書面が必須ではない。しかし、書面は強い証拠になる。


「それと、もう一つ」


 相馬先輩が言いました。


「承認する人に、完全な行為能力が必要か?」


 私は現代の条文を思い出しました。


「民法百五十二条二項ですね!」


「また未来か」


「すみません!」


 私は慌てて昭和の六法を開きました。


 民法百五十六条。


 承認をするには、相手方の権利の処分について行為能力や権限を有することを要しない。


「現代でも、その基本的な考え方は引き継がれています」


「なぜだ?」


「承認は、相手の権利を処分する行為ではなく、権利の存在を認める行為だからです」


 私は頷きました。


 ただし、承認をする本人に意思能力があるかなど、別の問題まで不要になるわけではありません。


「だから、未成年者でも一定の場合には有効に承認できるんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、承認する行為と、新たな借金を負担する契約を結ぶことは別だぞ」


「はい!」


 ここも、試験で引っかかりそうです。


 承認。


 債務負担。


 契約。


 似ているようで、法律上の扱いは異なるのです。


「じゃあ、次は天災です!」


 私が言うと、相馬先輩がとうとう天井を見上げました。


「まだあるのか……」


「あります!」


「民法って、どこまで続くんだよ」


「六法が終わるまでです!」


「勘弁してくれ……」


 私は笑いながら、ノートを開きました。


 ――現代民法百六十一条。


 天災等による時効の完成猶予。


「たとえば、時効の完成直前に大地震が起きた場合です」


 私は言いました。


「裁判所へ行こうにも、道路が寸断されている」


「うん」


「裁判上の請求などの必要な手続ができない」


「なるほど」


「それなのに、時効が完成してしまったら?」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「そりゃ、気の毒だな」


「ですよね」


 そこで、民法は一定の場合に特別な完成猶予を認めています。


 現代では。


 障害が消滅した時から三か月。


「三か月か」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


「しかも、ここも昭和と違うんです」


 相馬先輩が顔を上げました。


「どう違う?」


「昭和六十三年の民法百六十一条では、天災などの場合、障害が消滅した時から二週間です!」


「そうだ」


 私は驚いた顔をしました。


「二週間!」


「短いか?」


「短いですよ!」


 現代なら三か月。


 昭和なら二週間。


「災害が起きて、ようやく道路が通れるようになったと思ったら、二週間以内に必要な手続を取らなきゃいけないんですよね」


「そういうことだ」


「厳しい……!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 天災等による時効停止。


 障害消滅後、二週間。


 現代。


 天災等による完成猶予。


 障害消滅後、三か月。


 ここは、時代によって大きく異なるポイントです。


「どうして現代は延びたんでしょうね」


 私は呟きました。


 災害の後。


 人は、すぐに元の生活へ戻れるわけではありません。


 家。


 家族。


 財産。


 仕事。


 それらを守るだけでも精いっぱいです。


 そんな状況で。


 二週間以内に法的手続を取れと言われても。


 難しい場合がある。


「だから、現代では、もっと現実的な猶予期間が設けられたんですね」


 私は頷きました。


 法律は、机の上の数字だけでできているわけではありません。


 災害で困る人の生活。


 そこも考えて、制度が見直されてきたのです。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「一番重要な違いを、まだ確認していないな」


「え?」


「昭和の中断と、現代の完成猶予・更新だ」


 私は姿勢を正しました。


 そうでした。


 ここが、今日の最大のテーマです。


「昭和六十三年の民法では、時効の中断という一つの制度の中に、複数の効果が含まれていました」


「そうだ」


「たとえば裁判上の請求」


「うん」


「裁判による請求が続いている間は、時効の完成を防ぐ」


「うん」


「そして、判決が確定すれば、時効が新しく進み始める」


 私は時計を二つ描きました。


 一つは、止まっている時計。


 もう一つは、ゼロから進む時計。


「でも、これって、実は違う効果ですよね」


「そうだな」


「一つは、一時的に完成させないこと」


「うん」


「もう一つは、それまでの経過をリセットすること」


 私は大きく頷きました。


「だから現代の民法では、完成猶予と更新に整理されたんです!」


 相馬先輩が腕を組みました。


「なるほどな」


「古い制度では、時効中断という名前の下に、いろいろな効果が入っていた」


「うん」


「現代では、それぞれの法律効果を区別するようになった」


 私はノートに書きました。


 昭和。


 中断と停止。


 現代。


 完成猶予と更新。


「ただし、昭和の中断を全部『完成猶予』と読み替えればいいわけではありません」


 私は続けました。


「中断に相当する効果が、現代では完成猶予と更新に分けて整理されたからです」


 相馬先輩が頷きました。


「一対一の言葉の置き換えじゃねえんだな」


「そうです!」


 そこです。


 用語だけで覚えると、危ない。


 旧法の中断。


 新法の完成猶予。


 新法の更新。


 それぞれ、どのような法律効果が発生するのか。


 そこを理解しなければなりません。


「じゃあ、簡単に言ってみろ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートを指差しました。


「完成猶予は、時効を完成させない期間を設けること!」


「うん」


「更新は、それまでの時効期間をリセットすること!」


「うん」


「昭和の中断は、現代の更新に近い効果を持つ一方、裁判上の請求などでは手続中の完成阻止も関係していた!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


 ……ようやく。


 全部、つながってきました。


「ところで、先輩」


「何だ」


「時効が完成した後の承認って、どうなるんですか?」


 相馬先輩が、こちらを見ました。


「お、さっきの電話か」


「はい」


 田辺さんの事件が終わったあと。


 別の男性から電話がありました。


 十年以上前の借金。


 すでに時効が完成していると思っていた。


 でも。


 昨日、五千円を返してしまった。


「それで、相手が残金全部を請求してきたんですよね」


「ああ」


「これ、時効完成前の承認とは違いますよね」


「そうだ」


 私はノートを開きました。


 ここで登場するのが、最高裁の判例です。


 昭和四十一年四月二十日。


 時効完成後の債務承認についての判例。


「先輩」


「何だ」


「時効が完成した後に、債務者が債務の存在を承認した場合、どうなるんでしたっけ?」


「時効が完成したことを知らなかったとしても、信義則の問題が出てくるな」


「そうです!」


 私は頷きました。


 最高裁は、時効完成後に債務を承認した債務者が、その後に消滅時効を援用することは、信義則上許されないと判断しました。


「つまり」


 私は言いました。


「時効が完成した後でも、債務を承認すると、後から時効を援用できなくなることがあるんですね」


「そうだ」


 私は息を呑みました。


 これは怖い。


 時効完成前の承認。


 時効中断、現代でいう更新の問題。


 時効完成後の承認。


 時効援用が信義則上許されるかという問題。


 似ています。


 でも、法律上の仕組みは違います。


「じゃあ、その五千円を払った男性は、絶対に時効を援用できないんですか?」


 私が尋ねると、片桐所長が口を開きました。


「断定するな」


「はい」


「まず、そもそも時効が完成していたかを調べる」


「はい」


「その五千円は、どの債務について支払われたのか」


「はい」


「どのような経緯で支払ったのか」


「はい」


「必要な事情を確認してから、法律上の評価をする」


 私は頷きました。


 そうでした。


 判例の言葉だけを覚えて、


「五千円払ったから、絶対に時効は使えません!」


 と決めつけてはいけない。


 何が起きたか。


 いつ起きたか。


 どんな債務か。


 その事実を調べることが先なのです。


「時効って、本当に日付が大切なんですね」


 私が呟くと、所長が言いました。


「日付だけじゃない」


「え?」


「その日に、何をしたかだ」


 私は、はっとしました。


 なるほど。


 時間。


 行動。


 証拠。


 この三つが、時効の世界では切り離せないのです。


 窓の外は、すっかり夕暮れでした。


 私はノートを見直しました。


 完成猶予。


 更新。


 催告。


 裁判上の請求。


 強制執行。


 仮差押え。


 協議の合意。


 承認。


 天災。


 そして。


 昭和の中断。


 現代の完成猶予と更新。


 最初は、名前も条文もごちゃごちゃでした。


 でも。


 田辺さんの事件を思い出せば、理解できます。


「所長」


「何だ」


「確認問題を出してもらっていいですか?」


「いいだろう」


 私は鉛筆を握り直しました。


 所長が、ゆっくり口を開きます。


「現代の民法。催告による完成猶予は?」


「六か月です!」


「再度の催告で延長できるか」


「できません!」


「承認があった場合は?」


「時効が更新されます!」


「仮差押えは?」


「完成猶予です! 更新ではありません!」


「裁判上の請求で、判決が確定した場合は?」


「手続中は完成猶予、確定判決などで権利が確定すれば更新です!」


 所長が頷きました。


「では、強制執行の申立てを取り下げた場合は?」


「終了から六か月間の完成猶予はありますが、その取下げによって終了した場合は更新しません!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 所長は続けます。


「協議を行う旨の書面による合意は?」


「原則として合意から一年以内など、法律で定める期間まで完成猶予です!」


「合意を繰り返した場合の上限は?」


「当初の時効完成予定時から通算五年です!」


「天災等の場合、現代は?」


「障害消滅後、三か月です!」


「昭和六十三年は?」


「二週間です!」


 所長が頷きました。


「いいだろう」


 私は思わず立ち上がりました。


「やった!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、俺からも一問」


「はい!」


「昭和六十三年の民法百五十二条は、何だ?」


 私は固まりました。


 ……。


 現代なら。


 承認による時効の更新。


 でも。


 昭和六十三年では。


「破産手続参加等についての規定です!」


「正解」


「現代の百五十二条は承認!」


「うん」


「昭和の承認は百四十七条三号!」


「そうだ」


「そして昭和の催告は百五十三条!」


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


「未来の条文を混ぜなくなったな」


「はい!」


 私は胸を張りました。


 ようやく。


 昭和の民法と、令和の民法を、頭の中で分けられるようになった気がします。


 もちろん。


 まだ全部ではありません。


 でも。


 少なくとも今日のテーマは、忘れません。


「さて」


 私はノートの最後のページを開きました。


「今日の一行です!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「また書くのか」


「書きます!」


「毎回よく続くな」


「行政書士試験に合格するためですから!」


 私は鉛筆の先を整えました。


 そして。


 ゆっくり。


 大きく。


 書きました。


 ――完成猶予は「ゴールを延ばす」、更新は「スタートに戻す」。昭和の「中断」は、効果を見て考える。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対、褒めました!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 あの田辺夫妻のことを思い出せばいい。


 十年間。


 返してもらえなかった百八十万円。


 あと七日。


 時効完成の危機。


 内容証明による催告。


 そして、大崎が自分で送ってきた一万円。


 あの一万円には。


 単なるお金以上の意味がありました。


 大崎自身が、借金の存在を認めた。


 その行動が、時効の時計を巻き戻した。


 そして。


 老夫婦の生活に、少しだけ安心が戻った。


 民法の条文は、硬い言葉ばかりです。


 でも、その背後には。


 人の生活があります。


 貸したお金が返ってこない人。


 返したくても返せない人。


 話し合いを続けたい人。


 裁判を起こさなければならない人。


 災害で、法的手続ができなくなった人。


 それぞれの事情を考えながら。


 時効という制度は、権利と時間の関係を調整しています。


「所長」


「何だ」


「時効って、冷たい制度だと思っていました」


「そうか」


「時間が過ぎたら、もう駄目だって」


「うん」


「でも、そうじゃないんですね」


 私はノートを見ました。


「必要な行動を取れば、守れる権利がある」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「ただし、何もしなくても守られるわけではない」


「そのとおり」


 私は笑いました。


 法律は、魔法ではありません。


 内容証明を出せば、すべて解決するわけでもありません。


 でも。


 正しい時期に。


 正しい手続を取れば。


 誰かの財産を守る力になる。


 それが、民法なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の書類整理、終わったか?」


 ……。


 私は固まりました。


 机の上。


 まだ未整理の書類。


 時計。


 午後五時四十五分。


「……先輩」


「何だ」


「完成猶予をお願いします」


「またそれか!」


「あと六か月だけ!」


「長すぎる!」


「じゃあ、協議を行う旨の合意で一年!」


「そんな制度、この時代にはねえ!」


「じゃあ、時効の中断で!」


「仕事の締切りは時効じゃねえ!」


 私は机に突っ伏しました。


「民法って、日常生活には使いにくいですね……」


「使い方が間違ってるんだよ!」


 片桐所長が、奥から静かに言いました。


「こはる」


「はい……」


「書類整理は、今日中だ」


「……はい」


「それから」


「何でしょう」


「明日は、朝から新しい相談が入っている」


 私は顔を上げました。


「新しい相談?」


「ああ」


「どんな内容ですか?」


 所長は、相談票を差し出しました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――十年以上前の借金。


 ――債務者、時効完成後に一部弁済。


 ――残債務の請求を受けている。


 私は思わず息を呑みました。


「……これ!」


 相馬先輩が笑いました。


「さっきの電話の人だ」


「先輩!」


「何だ」


「今度は、時効完成後の承認ですね!」


「そうだ」


「最高裁昭和四十一年四月二十日の判例!」


「分かってる」


「信義則!」


「知ってる!」


「時効援用!」


「だから、明日だって言ってるだろ!」


 私は思わず笑いました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 法律の勉強は、今日も終わりません。


 そして。


 私はノートの最後の一行を、もう一度見ました。


 ――完成猶予は「ゴールを延ばす」、更新は「スタートに戻す」。昭和の「中断」は、効果を見て考える。


 よし。


 これなら、忘れません。


 時効の時計は、人によって速く進んだり、遅く進んだりするわけではありません。


 けれど。


 その時計に、法律上どんな意味が生まれるのか。


 それは、人の行動によって変わることがある。


 だから。


 日付を確かめる。


 証拠を残す。


 期限を守る。


 そして、必要なときに、正しい手続を取る。


 たったそれだけのことが。


 誰かの人生を、大きく変えることもあるのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート眺めてねえで、書類整理しろ!」


「今、今日の復習をしてたんです!」


「復習は終わっただろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私の勉強時間には、完成猶予が必要です!」


「勉強時間は完成しねえよ!」


「じゃあ更新で、最初から!」


「最初から勉強し直すのかよ!」


 ……。


 なるほど。


 完成猶予と更新を覚えたからといって。


 仕事の締切りから逃げられるわけではないようです。


 残念ながら。


 民法の時効制度は、見習い行政書士の書類整理を先延ばしにするためには使えないのでした。

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