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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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[時効の完成猶予と更新]現場編 「内容証明を送れば、時効は止まる」の罠。あと七日で消える百八十万円と、昭和の民法が仕掛けた逆転の一筆

挿絵(By みてみん)

 借金には、賞味期限がある。


 もちろん、お金そのものが腐るわけではありません。


 けれど。


 十年も放っておくと。


「もう払わなくていい」


 そんなことが、法律上、起こり得るのです。


 たとえ。


 借りたことが事実でも。


 返す約束をしていても。


 相手が困っていても。


 時効という制度は、容赦なく時計を進めます。


 でも。


 その時計を止める方法と、針を最初に戻す方法は、同じではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 私は、この二つの違いを知らなければ。


 ある老夫婦の老後資金、百八十万円を失わせるところでした。


 しかも。


 残された時間は、たった七日。


 相手は、時効の完成を指折り数えていました。


 けれど、その男は知りませんでした。


 自分が何気なく書いた、たった一行の意味を。


「あと七日なんです!」


 朝九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 入ってきたのは、白髪交じりの女性。


 年齢は六十五歳くらいでしょうか。


 手には、古びた風呂敷包み。


 その後ろには、杖をついた男性がいました。


「お願いします! お金を取り返してください!」


 女性は、机の前で深々と頭を下げました。


「まず、お座りください」


 片桐所長が静かに言いました。


 女性の名前は、田辺澄江さん。


 六十四歳。


 夫の正一さんは六十八歳。


 かつて町工場を営んでいましたが、数年前に廃業。


 今は二人で細々と暮らしているそうです。


「貸したお金が、返ってこないんです」


「金額は?」


 相馬先輩が尋ねました。


「百八十万円です」


「……百八十万?」


 私は思わず顔を上げました。


 昭和六十三年。


 百八十万円。


 普通の家庭にとって、決して小さなお金ではありません。


「誰に貸したんですか?」


「昔からの知り合いです」


 澄江さんは、風呂敷から一枚の紙を取り出しました。


 黄ばんだ借用書。


 そこには、万年筆の文字でこう書かれていました。


 ――金銭借用証書。


 ――金百八拾萬円也。


 ――右金員、確かに借用いたしました。


 ――返済期日 昭和五十三年十一月一日。


 ――借主 大崎建設 代表者 大崎義男。


 ――ただし、本件債務は大崎義男個人の責任において返済する。


 署名。


 実印。


 印紙。


 私は日付を見ました。


 昭和五十三年。


 今から十年前です。


「それで、どうなったんですか?」


「最初は、必ず返すって言ってたんです」


 澄江さんの声が震えました。


「工事の代金が入らないから、一時的に貸してほしいって。うちの主人とは二十年来の付き合いでしたから……」


 正一さんが、申し訳なさそうに頭を下げました。


「わしが、貸してやろうと言ったんです」


「ご主人が?」


「ええ。あの頃は、向こうも苦しかった。助け合いだと思って」


 ところが。


 一年たっても返さない。


 三年たっても返さない。


 五年たっても返さない。


 催促すると、決まってこう答えたそうです。


 ――もう少し待ってくれ。


 ――仕事が落ち着いたら返す。


 ――昔からの仲じゃないか。


 そのうち。


 正一さんが病気で倒れました。


 工場も閉じました。


 生活費が苦しくなった。


 それでも、大崎は返さなかった。


「去年なんて、主人が入院したときにお願いしたんですよ」


 澄江さんが言いました。


「せめて五万円だけでも返してほしいって」


「返してくれたんですか?」


「いいえ」


 澄江さんは首を振りました。


「そのくせ、あの人……」


 言葉を詰まらせます。


「今年、新しい車を買ったんです」


 ……。


 私は黙りました。


 百八十万円を返さない男。


 でも、自分の車は買い替える。


 そして。


 数日前、澄江さんのところへ、一通の手紙が届いたそうです。


 差出人。


 大崎義男。


 内容は、たった三行。


 ――本件貸金債権については、まもなく消滅時効期間が満了する。


 ――今後、任意の弁済には応じない。


 ――法律上の権利は、法律に従って行使する。


 私は思わず言いました。


「……何ですか、これ」


 相馬先輩が紙を受け取ります。


「時効待ちか」


「時効待ち?」


「返さずに十年逃げ切るつもりなんだよ」


 先輩がカレンダーを指差しました。


 昭和六十三年十月二十五日。


 返済期日から、十年が迫っています。


 あと七日。


「七日後には、もう取り返せないんですか?」


 澄江さんが聞きました。


 私は答えようとしました。


 そのとき。


 頭の中で、現代の民法が開きました。


 時効。


 完成猶予。


 更新。


 そうだ。


 時効の完成を防ぐ方法があります。


「大丈夫です!」


 私は立ち上がりました。


「まず、催告をしましょう!」


 澄江さんが顔を上げます。


「催告?」


「返してください、という請求です。内容証明郵便で送れば、証拠も残せます!」


「それで助かるんですか?」


「はい! 民法百五十条によって、催告から六か月間、時効の完成が猶予されます!」


 よし。


 覚えています。


 令和の民法。


 百五十条。


 催告による時効の完成猶予。


 私は自信満々で続けました。


「六か月の猶予がある間に、次の手続を考えれば――」


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今、何条って言った?」


「百五十条です!」


「……百五十条?」


「はい!」


 先輩が六法を開きました。


 そして。


 私の前に置きました。


「読め」


「え?」


「この時代の百五十条を読め」


 私は条文を見ました。


 ……。


 ……あれ?


「破産手続参加……?」


「そうだ」


「えっと……」


「催告は何条だ?」


 私はページをめくりました。


 ありました。


 民法百五十三条。


 ――催告は、六箇月以内に裁判上の請求その他所定の手続をしなければ、時効中断の効力を生じない。


 私は固まりました。


 ……しまった。


 時効の完成猶予。


 更新。


 これは、令和の民法で整理された制度です。


 昭和六十三年では。


 時効の中断。


 それが、当時の言葉。


「お前、どこの六法を読んでるんだ?」


「……未来です」


「何?」


「いえ! 心の中の六法です!」


「心の中の条文で仕事すんな!」


 ごもっともです。


 民法改正。


 またやりました。


 しかも今回は、単なる用語の違いではありません。


 時効。


 時間。


 期限。


 一日間違えれば、取り返しがつかない。


 私は背筋を伸ばしました。


「先輩。昭和の民法では、催告をしたらどうなるんですか?」


「六か月以内に、裁判上の請求などの手続で補強しなけりゃ、中断の効力を生じねえ」


「じゃあ、内容証明を送るだけでは?」


「足りねえ」


 ……。


 私は澄江さんを見ました。


 六か月。


 猶予。


 更新。


 中断。


 テキストでは、どれも似たような言葉でした。


 でも。


 今、目の前には。


 その違いで老後資金を失いかねない人がいる。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「内容証明は、魔法じゃない」


「はい」


「出せば永久に時効が止まるわけでもない」


「……はい」


「まず、事実を調べろ」


 私は頷きました。


 民法の反撃は。


 条文を叫ぶことからではなく。


 過去十年間に、何が起きたかを調べることから始まるのです。


「最後に、お金を返してもらったのはいつですか?」


 私は尋ねました。


 澄江さんは首を振りました。


「一円も返してもらってません」


「では、最後に借金を認めたのは?」


「認めた……?」


「大崎さんが、『借りたお金を返す』とはっきり言ったことです」


 澄江さんは考え込みました。


「何度も、待ってくれとは言われましたけど……」


「書面はありますか?」


「ありません」


「領収書や、手紙は?」


「……手紙なら」


 澄江さんが風呂敷を開きます。


 何通もの封筒。


 年賀状。


 暑中見舞い。


 昔の商売の記録。


 その中から、一通の便箋が出てきました。


 私は受け取りました。


 日付。


 昭和六十二年六月十二日。


 内容。


 ――正一さんへ。


 ――先日は入院のお見舞いにも行けず、申し訳ありません。


 ――商売のほうは相変わらずですが、こちらも何とか頑張っています。


 ――お身体を大切にしてください。


 ――大崎。


 ……。


 私は首を振りました。


「これだけでは、借金を認めたとは言いにくいですね」


 相馬先輩が頷きます。


「借金のことが一言もねえからな」


「はい」


「ほかは?」


 澄江さんが小さな手帳を差し出しました。


 表紙には、


 ――家計覚書。


 とあります。


 中には日付と金額。


 大崎に催促。


 返済なし。


 大崎へ電話。


 不在。


 大崎の事務所訪問。


 先延ばし。


 そして。


 昨年の十二月二十日。


 ――大崎、来宅。「もう少し待ってくれ」と言う。


 私はそこに指を止めました。


「先輩!」


「何だ」


「これ、債務の承認になりませんか?」


「可能性はある」


「じゃあ!」


「待て」


 先輩が言いました。


「その『待ってくれ』が、何の話だったか証明できるか?」


「……」


「誰が聞いた?」


「夫婦二人です」


「ほかに誰かいたか?」


 澄江さんは首を振りました。


「いません」


「相手が『そんなこと言ってない』と争ったら?」


 私は黙りました。


 証拠。


 ここでも壁です。


 口約束。


 十年前の貸付け。


 何度も繰り返された催促。


 でも。


 時効を中断させる事実があったと主張するなら、それを裏付ける資料が欲しい。


「だから、書面なんですね……」


 私が呟くと、相馬先輩が言いました。


「そういうことだ」


 片桐所長が、古い借用書をもう一度手に取りました。


「大崎は、法律を知っているつもりらしいな」


「はい」


「なら、こちらも法律で返す」


 所長は短く言いました。


「内容証明を作れ」


「はい!」


「ただし、最初から時効の中断が確定したようには書くな」


「はい」


「借用書の債務を特定し、返済を求める。過去の発言については、確認できた事実だけを記載する」


「分かりました!」


 相馬先輩が机を叩きました。


「それと、六か月の期限管理だ」


「はい!」


「相手が払わなかったら、そのまま待つな。弁護士に渡して、裁判上の請求などを検討する」


 そうです。


 内容証明を送るだけで終わりではありません。


 昭和の民法百五十三条。


 催告。


 六か月。


 次の手続。


 そこで私は、もう一つ疑問を持ちました。


「先輩」


「何だ」


「六か月たったら、もう一度内容証明を出せばいいんじゃないですか?」


 相馬先輩が、私を見ました。


 ……。


 嫌な沈黙。


「お前」


「はい」


「それを十年繰り返したら、どうなる?」


「あ……」


「内容証明を送り続けるだけで、永久に時効を防げることになっちまうだろ」


「確かに……」


「催告の繰返しで、いくらでも期限を延ばせると思うな」


 私は頭を抱えました。


 危なかった。


 六か月。


 もう一度六か月。


 さらに六か月。


 そんな都合のよい仕組みではありません。


 令和の民法でも、催告による完成猶予中の再度の催告では期間を延ばせません。


 そして昭和の実務でも、催告を繰り返せば無制限に時効を阻止できるわけではない。


 制度の言葉は違っても。


 法律が警戒しているものは同じです。


 引き延ばし。


 無期限の不安定さ。


 時効は、いつまでも決着のつかない権利関係を整理するためにある。


 だから。


 債権者にも、行動することが求められるのです。


 その日の午後。


 私と相馬先輩は、大崎建設の事務所へ向かいました。


 もちろん、依頼人の代理人として示談交渉をするためではありません。


 借用書に書かれた債務者の氏名、住所など、通知書の作成に必要な事実を確認するためです。


 駅から少し離れた道路沿い。


 二階建ての立派な事務所。


 駐車場には、真新しい黒い乗用車。


 ……。


 澄江さんの言葉は、本当だったようです。


「何だ、あんたら」


 応接室に現れた男は、五十歳ほど。


 髪を後ろへ撫でつけ。


 高そうな腕時計をしています。


 大崎義男。


 百八十万円を返さない男です。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


「田辺さんから、借用書その他の書類作成を依頼されています。記載事項の確認に伺いました」


 大崎は鼻で笑いました。


「弁護士じゃねえのか」


「そうです」


「なら、何もできねえだろ」


 ……。


 来ました。


 悪役の定番台詞です。


 私は心の中で、六法を握りしめました。


「借用書にある大崎義男さんは、あなたご本人ですね」


 相馬先輩が尋ねました。


「ああ」


「現在の住所は、こちらで間違いありませんか」


「そうだ」


「当時、田辺正一さんから百八十万円を借りたという記載があります」


 大崎は腕を組みました。


「ああ、昔の話だ」


「その借用書の署名押印は?」


「俺のだよ」


 私はメモしました。


 本人。


 住所一致。


 署名押印を認めた。


 先輩は、それ以上追及しませんでした。


 ところが。


 大崎が自分から笑い始めたのです。


「しかし、あんたらも物好きだな」


「何がですか」


「あと一週間だろ?」


 私は顔を上げました。


「何がですか?」


「十年だよ」


 大崎は机に置いた卓上カレンダーを指で叩きました。


「十一月になりゃ、もう十年だ」


 私は言いました。


「時効は、一定の手続や債務の承認などによって中断することがあります」


「知ってるよ」


 大崎は笑いました。


「だから俺は、余計な書類にハンコを押してねえんだ」


 ……。


 私は息を呑みました。


 この男。


 分かっている。


「弁済したら借金を認めたことになるだろ?」


「……」


「だから一円も返してねえ」


 大崎が得意そうに言いました。


「電話では適当に返事してたけどな。書面には残してねえ」


 ……ひどい。


 借りたお金を返さない。


 しかも。


 時効を完成させるため、意図的に返済を避けている。


「田辺さんたちは困っています」


 私は思わず言いました。


「あ?」


「病院代も、生活費も必要なんです」


「そんなこと俺に言われてもな」


 大崎は肩をすくめました。


「法律が十年でいいって言ってんだろ」


 私は唇を噛みました。


 確かに。


 時効は法律上の制度です。


 けれど。


 法律を盾にして、人の善意を食い物にする。


 その態度が許せませんでした。


「こはる」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「はい」


「もう十分だ」


 先輩は大崎に頭を下げました。


「確認事項は終わりました」


「何だ。帰るのか?」


「はい」


「まあ、せいぜい頑張れよ」


 大崎が笑います。


「十一月になったら、時効を援用してやるからな」


 ……。


 私たちは事務所を出ました。


 私は、どうしても納得できませんでした。


「先輩!」


「何だ」


「悔しくないんですか!」


「悔しいさ」


「だったら!」


「だから、書類を作るんだろ」


 先輩は立ち止まりました。


「こはる」


「はい」


「時効を止めたいなら、怒鳴るより先に証拠を揃えろ」


「……はい」


「それに、あいつは一つ大きな勘違いをしてる」


「え?」


「自分が余計なことを言わなければ、絶対に逃げ切れると思ってる」


「違うんですか?」


 相馬先輩は、にやりとしました。


「時効中断の手段は、一つじゃねえ」


 そして。


「こっちには、まだ七日ある」


 そう言ったのです。


 事務所へ戻ると、片桐所長が待っていました。


「どうだった」


「本人も借用書の署名押印を認めました」


 相馬先輩が報告します。


「ただし、支払いには応じない構えです」


「そうか」


「時効の完成を狙ってます」


 所長は頷きました。


「予定どおり、催告書を出す」


「はい」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 内容証明郵便。


 昭和の実務です。


 ワープロも普及し始めていますが、この事務所では、まだ手書きの原稿を整え、郵便局の様式に合わせて作ることもあります。


 私は、一文字ずつ確認しました。


 ――通知書。


 ――通知人 田辺正一。


 ――被通知人 大崎義男。


 ――貴殿は、昭和五十三年、通知人より金百八十万円を借り受け、その返済期日を同年十一月一日と定めた。


 ――右貸付けについては、貴殿署名押印の金銭借用証書が存在する。


 ――しかし、返済期日経過後、現在に至るまで元本の弁済は確認されていない。


 ――よって、通知人は、右貸金百八十万円の支払いを催告する。


 私は読み上げました。


「以上、本書到達後七日以内に支払われたい……」


「待て」


 片桐所長が遮りました。


「はい?」


「七日以内という表現だけで、何が起こると思っている?」


「支払期限を指定して……」


「その七日が過ぎても、裁判上の請求などをしなければ、時効の問題は残る」


「あ……」


「催告の効力と、書面で指定する支払期限を混同するな」


 所長が赤鉛筆を置きました。


「この通知だけで万全だと、依頼人に思わせるな」


「はい」


 私は文面を修正しました。


 ――なお、右催告によっても弁済がなされない場合には、通知人において弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的手続を検討する。


 相馬先輩が頷きました。


「いいな」


「はい」


「そのうえで、別に期限管理票を作る」


「期限管理票?」


「催告が到達した日。六か月の期限。弁護士への引継ぎ予定日。全部書く」


「なるほど……」


 ただ郵便を送るだけではない。


 送った後の時間まで管理する。


 それが実務なのです。


 私は期限管理票を書きながら、もう一度尋ねました。


「所長」


「何だ」


「もし、大崎さんが借金を認めたら?」


「承認だ」


「それは、催告とは違いますよね」


「違う」


「どう違うんですか?」


 所長は六法を開きました。


 民法百四十七条。


 時効の中断事由。


 請求。


 差押え、仮差押え、仮処分。


 そして。


 承認。


「債務者が債務を承認すれば、時効中断が生じる」


「はい」


「承認による中断なら、その時から新たに時効期間が進行する」


 私は顔を上げました。


「……最初から?」


「そうだ」


 十年間近く進んでいた時計。


 その針が。


 ゼロへ戻る。


 現代の民法でいうところの。


 時効の更新。


 まさに、それです。


「所長!」


「何だ」


「じゃあ、大崎さんが一万円でも返してくれたら!」


「一部弁済は、残りの債務の承認を示す有力な事情になる」


「ですよね!」


「ただし、どの債務についての支払いか、争いがないようにしろ」


「はい!」


 私は勢いよく鉛筆を握りました。


 ……そこで、相馬先輩が言いました。


「こはる」


「はい?」


「相手に『一万円だけ払わせろ』なんて交渉をしに行くんじゃねえぞ」


「……はい」


「俺たちは弁護士じゃない。依頼人の代理人として示談交渉をするわけにはいかねえ」


「分かっています」


「書面は本人の意思で出す。金を受け取るのも本人だ」


「はい」


 所長も頷きました。


「行政書士の仕事は、権利関係を整理し、適切な書類を作ることだ」


 私は頷きました。


 そうです。


 内容証明を送れば、相手が必ず支払うわけではありません。


 債務の承認を強制することもできません。


 裁判による回収や強制執行が必要なら、弁護士の仕事です。


 けれど。


 相手が自分の意思で債務を認め、その事実が書面に残れば。


 法律上の状況は大きく変わります。


 私は通知書を完成させました。


 田辺正一さんに内容を確認してもらい、本人名義で差し出してもらいます。


 郵便局の窓口。


 内容証明郵便。


 配達証明も付けました。


 送った日。


 到達した日。


 文面。


 それらを証拠として残すためです。


 そして。


 翌日。


 通知書は大崎のもとに届きました。


 三日後。


 事件が動きました。


 正確には。


 大崎義男が、自分で事態を動かしてしまったのです。


「片桐さん!」


 田辺澄江さんが、息を切らして事務所に駆け込んできました。


「これを見てください!」


 差し出されたのは、銀行の振込票。


 金額。


 一万円。


 振込人。


 オオサキヨシオ。


 私は目を丸くしました。


「大崎さんからですか?」


「はい!」


「どうして?」


 澄江さんが言いました。


「内容証明を読んだあと、主人のところへ電話があったんです」


「何て?」


「百八十万円は今すぐ払えないけど、とりあえず一万円送るって」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩の目が細くなります。


「それで?」


「主人が言ったんです。何のお金か分からないものは困るから、ちゃんと書いてほしいって」


「うん」


「そしたら、こんな手紙まで……」


 澄江さんが封筒を取り出しました。


 私は中身を読みました。


 ――田辺正一殿。


 ――昭和五十三年借用分百八十万円の件について、今すぐ全額を返済することは困難です。


 ――本日、一万円を借入金の返済の一部として振り込みました。


 ――残額百七十九万円については、仕事の入金を待って返済したく、もう少し猶予をお願いしたい。


 ――昭和六十三年十月二十八日。


 ――大崎義男。


 署名。


 押印。


 ……。


 私は息を止めました。


 相馬先輩が手紙を手に取りました。


 片桐所長も、ゆっくり顔を上げました。


「これは……」


 私は呟きました。


「先輩」


「何だ」


「書いてあります」


「ああ」


「昭和五十三年の借用分」


「ああ」


「百八十万円」


「そうだ」


「一万円を返済」


「うん」


「残り百七十九万円を返すって……」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「全部、自分で書いてやがる」


 ……。


 私は震えました。


 怒りではありません。


 興奮です。


「所長!」


「ああ」


「これ、承認ですよね!」


「そうだ」


「しかも、金額と債務の内容まで特定している!」


「そうだ」


「一部弁済まで!」


 所長は静かに頷きました。


「これなら、承認を裏付ける証拠として強い」


 私は思わず立ち上がりました。


「時効が!」


「中断する」


 相馬先輩が言いました。


「昭和の民法では、そう言うんだ」


「はい!」


「令和の言葉なら?」


「更新です!」


 先輩が笑いました。


「また未来かよ」


 でも。


 今度は間違えません。


 呼び方は違う。


 けれど。


 この一万円と手紙には、十年近く進んだ時効の時計を最初に戻す力がある。


 少なくとも、承認が時効完成前に有効にされたことが確認できれば。


 大崎が狙っていた十一月一日の時効完成は、もはや前提を失います。


「でも……」


 私は首をかしげました。


「どうして大崎さん、こんな手紙を書いたんでしょう」


 澄江さんが言いました。


「主人に電話で、こう言ったそうです」


「何て?」


「一万円払えば、少しは黙ってくれるだろうって」


 ……。


 私は絶句しました。


 百八十万円を借りて。


 十年間返さず。


 たった一万円で時間を稼ごうとした。


 しかも。


 自分の債務を、わざわざ文書で認めてしまった。


「先輩」


「何だ」


「これって……」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「時効を待ってた男が、自分で時計を巻き戻したんだよ」


 なんという皮肉でしょう。


 大崎は、債権者の催告を軽く見ていました。


 きっと。


 内容証明なんて紙切れだと思ったのでしょう。


 しかし。


 その紙をきっかけに、自ら返済の一部を行い。


 残債務まで明記した。


 結果。


 時効中断を裏付ける、決定的な証拠を残したのです。


 翌朝。


 大崎義男から、田辺家へ電話がかかってきました。


 最初は、相変わらず強気だったそうです。


『一万円送ったぞ。それでしばらく黙ってろ』


 正一さんは、片桐事務所で教わったことを思い出し、落ち着いて答えました。


『借金を認めた手紙も受け取ったよ』


『……何?』


『残り百七十九万円を返すって書いてあった』


『当たり前だろ。借りてるんだから』


『そうか。それなら、今後の返済について、きちんと考えてほしい』


 そこで。


 大崎は電話を切ったそうです。


 しかし、その日の夕方。


 再び電話がありました。


 今度は、声が違いました。


『……田辺さん』


『何だね』


『あの手紙なんだが』


『うん』


『弁護士に見せた』


 私は、後からその話を聞きました。


 大崎は知り合いの弁護士に、内容証明と自分の手紙を見せたそうです。


 そして。


 弁護士から指摘された。


 債務を承認している。


 一部弁済もしている。


 時効完成前の承認なら、中断が生じる。


 当初の十年が満了するのを待っても、そのまま時効を援用できるわけではない。


 そう説明されたのです。


『……一万円払っただけなのに』


 大崎は呟いたそうです。


 正一さんは答えました。


『一万円だけじゃない』


『何?』


『自分で、残りも返すって書いただろう』


 沈黙。


 そして。


『……分かった』


 大崎は、ようやく言いました。


『きちんと返済する』


 その声には、もう以前の余裕がありませんでした。


 数日後。


 田辺夫妻が再び事務所を訪れました。


 今度は、泣いていませんでした。


「大崎さんから、こんな書面を受け取りました」


 澄江さんが差し出したのは、返済計画の申出書でした。


 ――残債務百七十九万円について、下記のとおり分割して返済することを希望する。


 ――第一回返済日 昭和六十三年十二月末日。


 ――以後、毎月末日、一定額を返済する。


 ――借主 大崎義男。


 署名。


 押印。


 私は思わず笑顔になりました。


「よかったですね!」


「はい……!」


 澄江さんが何度も頷きます。


「これで、ようやく……」


 けれど。


 相馬先輩は、書面を見て言いました。


「まだ終わってねえぞ」


「え?」


「返済計画を書いただけだ。金が全部戻ったわけじゃねえ」


「……はい」


「これから本当に払うか、確認しなきゃならねえ」


 所長も頷きました。


「返済計画については、条件を明確にした書面が必要です」


 大崎からの申出を受けて、田辺夫妻は内容を検討することにしました。


 片桐事務所では、本人同士が合意した内容を正確に書面化するため、返済額、期日、振込先などを整理します。


 争いが再燃した場合や、強制執行まで視野に入れる必要がある場合には、弁護士に引き継ぎ、公正証書を含む適切な手段を検討する方針です。


 そして。


 大崎は、時効が完成するはずだと考えていた十一月一日を迎える前に、百七十九万円の債務が残っていることを改めて書面で確認したのです。


 その後、約束された最初の返済も、田辺夫妻の口座に入金されました。


 私は振込票を見ました。


 今度は一万円ではありません。


 十万円。


「……本当に、返してきた」


 私が呟くと、澄江さんが微笑みました。


「まだ全部じゃありませんけどね」


「はい」


「でも、主人が言うんです」


「何て?」


「ようやく、昔貸したお金が、少しずつ帰ってくるようになったって」


 正一さんは、杖を握りながら頷きました。


「わしはな」


「はい」


「金を貸したことを、後悔しておった」


 その声は、かすれていました。


「人を信じたのが間違いだったのかと思ってな」


「……」


「でも、借用書は捨てずに取っておいた」


 正一さんは、古びた借用書を見つめました。


「これがなければ、どうなっていたことか」


 私は答えました。


「大切な証拠ですから」


「そうか」


 正一さんは笑いました。


「紙一枚が、こんなに役に立つんじゃな」


 私は、胸が熱くなりました。


 百八十万円。


 それは、老夫婦の生活費。


 病院代。


 これから先の安心。


 そして。


 二十年前の友情を信じた、正一さんの気持ちでもありました。


 時効は、ただ借金を消すための制度ではありません。


 長く放置された権利関係を整理し、社会の法律関係を安定させるための制度です。


 だからこそ。


 権利を持つ人には、適切な時期に行動することが求められる。


 一方で。


 債務者自身が借金を認めたなら、時効の進行をそのままにしておく理由も変わります。


 大崎は、百八十万円の借金を認めました。


 しかも自ら、一万円を返しました。


 その行動が、時効の時計を巻き戻した。


 法律は、言葉だけでなく。


 人の行動にも、意味を与えるのです。


 夕方。


 田辺夫妻を見送ったあと。


 私は机に戻り、六法を開きました。


「……時効って、怖いですね」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何だ、急に」


「十年たつと、時効の問題が出てくる」


「そうだな」


「でも、催告すると一時的に完成を防ぐための時間が得られる」


「うん」


「ただし、それだけで永久に安心ではない」


「そうだ」


「そして、債務者が承認すると……」


「時効が中断する」


 私は頷きました。


「時計が、最初に戻る」


「そういうことだ」


 私はノートを開きました。


 そこに、二本の時計を描きました。


 一つ目。


 時効完成まで、あと七日。


 そこに。


 ――催告。


 と書きます。


 六か月以内に必要な手続へ進むための時間を確保する。


 ただし、催告だけでは完全な解決にならない。


 二つ目。


 時効完成まで、あと七日。


 そこに。


 ――債務の承認。


 と書きます。


 そして、時計の針を最初に戻しました。


「先輩」


「何だ」


「ようやく、分かった気がします」


「何がだ」


「時効の完成猶予と、更新の違いです」


 先輩が眉をひそめました。


「また未来の言葉か」


「はい。でも考え方の整理です!」


「言ってみろ」


 私は鉛筆を置きました。


「完成猶予は、時効の完成を一時的に先延ばしにすること」


「うん」


「更新は、それまで進んでいた時効期間をリセットして、新しく進み始めること」


「そうだな」


「ただし、昭和六十三年では、時効の中断という制度の中で扱われている」


「そうだ」


 私は笑いました。


 そして。


「催告で時間を稼いでも、次の手続を忘れたら意味がない」


「そのとおり」


「承認があれば、時効の時計が最初からになる」


「うん」


「一部弁済も、承認の証拠になることがある」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「やっと分かったか」


「はい!」


「じゃあ、最後に一つ」


「何ですか?」


「今回、もし大崎が一万円も払わず、手紙も書かなかったら?」


 私は考えました。


「……内容証明の催告だけが残ります」


「そのあとは?」


「六か月以内に裁判上の請求などの必要な手続を取れるよう、弁護士と連携します」


「よし」


「ただし、裁判や強制執行は行政書士の仕事ではありません」


「正解」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、一番危なかったのは何だと思う」


 私は考えました。


 時効。


 十年。


 催告。


 承認。


 一万円。


 そして。


 私は答えました。


「内容証明を送れば、それだけで安心だと思い込むことです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「送ったあとに、何をしなければならないのか。それを知らなければ、依頼人を守れません」


「うん」


「しかも、期限が迫っているときほど、一日が重い」


 所長は、静かに言いました。


「法律を知っているだけでは足りん」


「はい」


「いつ使うかを知らなければ、意味がない」


 私は、その言葉を噛みしめました。


 そうです。


 法律の条文を百個覚えていても。


 使う日を一日間違えれば。


 守れるはずの権利を失ってしまう。


 時効は、時間の法律。


 だから。


 日付こそが、最大の武器であり、最大の敵なのです。


「ところで、先輩」


「何だ」


「今回、大崎さんは何で、あんなに簡単に手紙を書いちゃったんでしょう」


「そりゃあ……」


 相馬先輩が笑いました。


「一万円くらいなら、払っても損しねえと思ったんだろ」


「はい」


「十年近く逃げ切って、最後に一万円払えば、相手も黙ると思った」


「なるほど」


「でもな」


 先輩は机を指で叩きました。


「法律は、金額だけを見てるわけじゃねえ」


「……はい」


「その金を、何のために払ったかを見る」


 私は、はっとしました。


 一万円。


 それだけなら、百八十万円のごく一部です。


 けれど。


 ――借金の返済の一部。


 その一言が付いたことで。


 法律上の意味が変わった。


 大崎本人が。


 借金の存在を認めたことになる。


「つまり……」


 私は呟きました。


「一万円の価値が、百八十万円の時効を動かしたんですね」


 相馬先輩が笑いました。


「そういうことだ」


 私は感心しました。


 法律って、本当に怖い。


 そして、面白い。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「私、今日から時計を見る目が変わりそうです!」


「は?」


「だって、時効って時計みたいなものじゃないですか!」


「まあな」


「催告で一時的に完成を防ぐ!」


「うん」


「承認で時計を最初に戻す!」


「そうだ」


「そして、何もしなければ!」


「時効が完成することがある」


「完璧です!」


 私は得意になりました。


 ところが。


 相馬先輩は、壁の時計を指差しました。


「じゃあ、こはる」


「はい!」


「今、何時だ?」


「五時十分です!」


「今日の書類整理は、何時までだった?」


「……五時です」


「十分過ぎてるな」


「はい」


「終わったか?」


 ……。


 私は机の上を見ました。


 山積みの書類。


 未整理の帳簿。


 まだ封をしていない封筒。


 ……しまった。


「先輩!」


「何だ」


「私にも、完成猶予を認めてください!」


「は?」


「書類整理の期限を、一時的に先延ばししてください!」


 相馬先輩は、真顔になりました。


「却下」


「ええっ!」


「そもそも時効じゃねえだろ!」


「じゃあ、更新で!」


「余計に駄目だ!」


 私は机に突っ伏しました。


「昭和の民法、厳しい……」


「民法の問題じゃねえ!」


 片桐所長が、奥から静かに言いました。


「こはる」


「はい……」


「仕事の期限は、守れ」


「……はい」


 相馬先輩が笑いました。


「時効の勉強が、さっそく役に立ったな」


「全然、役に立ってません!」


「期限を守る大切さは分かっただろ」


「それは分かりましたけど!」


 私はしぶしぶ帳簿を手に取りました。


 窓の外は、夕暮れ。


 商店街の明かりが、一つずつ灯っていきます。


 あのどこかで。


 田辺夫妻は、少し安心して夕飯を食べているのでしょう。


 十年間。


 返ってこなかった百八十万円。


 その返済が、ようやく始まった。


 まだ全額が戻ったわけではありません。


 これからも、約束が守られるか見届ける必要があります。


 でも。


 もう、ただ時効の完成を待たされるだけではない。


 法律と書面が、老夫婦に次の一歩を与えたのです。


 私はノートを開き、今日の教訓を一行だけ書きました。


 ――時効の完成を先延ばしにすることと、時計を最初に戻すことは、違う。


 そして、小さく書き足しました。


 ――昭和は「中断」。令和は「完成猶予」と「更新」に整理。


 よし。


 これなら、もう忘れません。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の男性の声。


『十年以上前の借金なんですが……』


 私は鉛筆を握り直しました。


「はい」


『もう時効だと思っていたんですけど、昨日、相手に五千円だけ返してしまいまして……』


 ……。


 私は止まりました。


 相馬先輩を見る。


 先輩も、こちらを見ました。


『そしたら、残りも全部返せって言われたんです。もう十年以上たってるのに、おかしくありませんか?』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 時効が完成した後の承認。


 しかも。


 一部弁済。


 私はゆっくり息を吸いました。


 これは、さっきの事件とは違います。


 時効完成前の承認と。


 時効完成後の承認。


 その二つは、同じように扱えるとは限りません。


 そして私の頭には、現代の受験勉強で覚えた最高裁判例が浮かんでいました。


 昭和四十一年四月二十日。


 時効完成後に債務を承認した者が、その後、消滅時効を援用することについて。


 信義則上、許されないとした有名な判決です。


 ……。


 あれ?


 この判例。


 昭和六十三年にも、もう存在しています。


 つまり。


 今回は、未来の知識じゃない!


「先輩!」


「何だ!」


「これ、最高裁の判例が使えます!」


「分かってるよ!」


「昭和四十一年です!」


「知ってる!」


「時効完成後の債務承認です!」


「だから、まず相談者の話を聞け!」


「はいっ!」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、借金の返済期限と、最後に返済した日を教えてください」


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も時間との戦いです。


 時計を止めるのか。


 時計を最初に戻すのか。


 それとも。


 すでに時効が完成した後なのか。


 たった一つの日付で、結論が変わる。


 たった一通の手紙で、運命が変わる。


 そして。


 たった一万円の返済が、十年近く積み重なった時効の時間を振り出しに戻すこともある。


 私は今日、確信しました。


 時効で本当に怖いのは、時間が過ぎることではありません。


 時間が過ぎる前と後で、自分の行動がどんな法律上の意味を持つのか、知らないことなのです。


 だからこそ。


 法律を学ぶ。


 日付を確かめる。


 証拠を残す。


 そして。


 時効の針が最後の一秒を刻む前に。


 守るべき権利のため、必要な行動を取る。


 それが。


 昭和の小さな行政書士事務所で、私が学んだ。


 時計よりも大切な、民法の教訓なのでした。

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