[民法・時効の基本と援用]法理編 こはるノート
時間は、誰にでも平等に流れます。
お金持ちにも。
貧しい人にも。
借金をした人にも。
お金を貸した人にも。
けれど。
同じ十年が経過しても、その時間が法律上の味方になる人と、ならない人がいます。
違いは、たった一言。
――時効を援用します。
そして。
その一言を言う前に、うっかり別のことを言ってしまうと。
十年間の積み重ねが、台無しになることさえあるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……民法って、時間まで法律にしちゃうんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「時効ですよ、時効!」
「ああ」
「十年経ったら借金が消えるなんて、最初はびっくりしました」
「昨日の藤田さんの件か」
「はい」
藤田正一さん。
昭和五十一年に百万円を借りた男性です。
返済期限は昭和五十二年六月三十日。
それから十一年以上。
返済も請求もなく、裁判上の手続や債務承認も確認されなかった。
ところが突然。
貸主の黒岩重蔵が現れ、
「百万円を返せ!」
と迫ってきた。
しかも。
黒岩が用意していたのは、ただの請求書ではありません。
――債務承認及び分割弁済誓約書。
あれに署名押印していたら。
時効が完成していたことを知らなくても、後から援用できなくなる可能性が高かったのです。
「怖かったですねえ」
私は呟きました。
「何がだ」
「あのハンコですよ」
「そうだな」
「一本押しただけで、百万円の返済義務が再び問題になるんですから」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「だから言ったろ」
「何です?」
「書類は中身を読め。意味の分からねえハンコは押すな」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、時効を完全攻略します!」
「大げさだな」
「大げさじゃありません!」
私はノートの真ん中に書きました。
――時効の基本。
完成。
援用。
遡及効。
利益の放棄。
債務の承認。
そして、誰が援用できるのか。
「うわあ……」
「何だ」
「並べると、やっぱり多いですね」
「勉強ってのは、そういうもんだ」
そのとき。
奥から片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「昨日の事件を、順番に整理してみなさい」
「はい!」
よし。
今日も始まりました。
昭和の民法。
こはるノート勉強会です。
まず。
私はノートに、大きく二つの言葉を書きました。
――取得時効。
――消滅時効。
「先輩」
「何だ」
「時効って、大きく分けると二つありますよね」
「ああ」
「取得時効と消滅時効です」
「そうだ」
私は鉛筆を走らせました。
取得時効。
一定の要件を満たして、他人の物を長期間占有し続けた場合などに、権利の取得が認められる制度。
消滅時効。
一定期間、権利が行使されなかった場合に、その権利の消滅が認められる制度。
「でも、これだけだと覚えにくいんですよね」
「じゃあ、事件を思い出せ」
「藤田さんの借金ですね!」
「そうだ」
私は昨日の借用証書を思い出しました。
百万円。
貸した黒岩。
借りた正一さん。
返済期限。
昭和五十二年六月三十日。
長期間、権利が行使されなかった。
「だから消滅時効が問題になった」
「そうだ」
「では、取得時効は?」
私は窓の外を見ました。
事務所の裏には、小さな畑があります。
「例えば、あの畑!」
「何だ」
「本当の所有者はAさんなのに、Bさんが自分の土地だと思って、ずっと使い続けていた場合です!」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、使ってりゃ何でも自分の土地になるわけじゃねえぞ」
「分かってます!」
私は書きました。
所有の意思。
平穏。
公然。
継続した占有。
そして、法律が定める期間。
「昭和六十三年の民法百六十二条ですね」
「そうだ」
「原則は二十年。占有開始時に善意かつ無過失なら十年の場合があります」
相馬先輩が頷きました。
私は続けました。
「でも、例えば土地の持ち主から借りているだけなら、二十年間使ったからって当然に所有者になれるわけじゃありません」
「そのとおり」
借りている土地は、他人の土地だと認めて使用している。
そうした占有は、通常、所有の意思をもつ占有とは違います。
「つまり、取得時効は、単に長く使っただけじゃ駄目なんですね」
「ああ」
「消滅時効も、ただ長く経っただけで判断しちゃ駄目」
「そういうことだ」
私はノートに線を引きました。
時効とは。
長く続いた事実状態を尊重し、法律関係を安定させる制度。
ただし、その成立には法律上の要件が必要。
「……なるほど」
私は顔を上げました。
「所長」
「何だ」
「時効って、真実を無視する制度なんですか?」
片桐所長は少し考えました。
「真実と異なる状態を、法律が尊重することはある」
「はい」
「だが、何でも事実に合わせればいいというものではない」
「そうですよね」
「長年続いた状態を守る必要性と、もともとの権利を守る必要性。その調整をする制度だ」
なるほど。
土地を長く占有してきた人。
何十年も権利を行使されずに暮らしてきた人。
反対に。
本来の所有者や債権者。
その双方に、法律上の利益があります。
時効は、その利益を時間という基準で調整する。
「だから、期間や要件が厳密なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
時効。
単なる時間切れではありません。
法律関係に区切りをつけるための仕組みなのです。
「次は、時効の完成です!」
私はページをめくりました。
「まず、期間の問題ですね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「昨日、いきなり五年とか言ってただろ」
「うっ……」
痛いところを突かれました。
現代の民法。
令和二年施行の債権法改正後。
一般の債権の消滅時効は、原則として、
権利を行使できることを知った時から五年。
または。
権利を行使できる時から十年。
という仕組みです。
でも。
昭和六十三年では違います。
「今の民法では、一般の民事債権の原則は十年ですね」
「旧百六十七条一項だ」
「はい!」
私は書きました。
昭和六十三年。
民法百六十七条一項。
債権は、十年間行使しないときは消滅する。
「ただし!」
私は自分で付け加えました。
「一般の民事債権の話です!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「商事債権なら、原則五年という別の時効期間があります!」
「商法五百二十二条だな」
「はい!」
それだけではありません。
この時代の民法には、職業や債権の種類に応じた短期消滅時効がありました。
一年。
二年。
三年。
そんな期間まであります。
「もう!」
私は頭を抱えました。
「何でこんなに細かいんですか!」
「昔からそう決まってるんだよ」
「商人だから五年、職業によって一年とか二年とか……覚える側の身にもなってください!」
「法律に文句を言うな」
「だって現代では、かなり整理されるんですよ!」
私は思わず言いました。
令和の民法改正では、職業別の短期消滅時効が廃止され、一般的な債権の時効期間が整理されます。
その背景には、権利の種類や職業によって期間が細かく分かれ、分かりにくかったこともあります。
「つまり、昔の民法の複雑さが、未来の改正につながるわけですね」
「また未来の話か」
「すみません!」
私は慌てて昭和六十三年の六法に戻りました。
重要なのは、今の事件です。
藤田さんの借金は、個人間の一般的な金銭消費貸借。
貸付けの性質や事情を確認したうえで、一般の民事債権として十年の時効期間を考えた。
そして。
返済期限から十一年以上が経過していた。
「だから、時効完成の可能性があったんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「だが、十年経ってても安心できねえ場合がある」
「時効の中断ですね!」
「そうだ」
私は書きました。
昭和六十三年の民法。
時効の中断。
裁判上の請求。
差押え。
債務の承認。
その他、法律が定める事由。
「この時代には、時効の中断という言葉を使うんですよね」
「ああ」
現代では。
時効の完成猶予。
時効の更新。
という仕組みに整理されています。
完成猶予は、一定の間、時効の完成を猶予すること。
更新は、それまで進行した時効期間がリセットされ、新たに進み始めること。
でも昭和六十三年には、現在のような用語の区分はありません。
「先輩」
「何だ」
「これも未来の言葉を持ち込むと危険ですね」
「だから今の六法を使えって言ってるだろ」
「はい……」
私は昨日の確認作業を思い出しました。
正一さんに聞いたこと。
途中で返済したか。
借金を認めたか。
裁判所から書類が届いたか。
差押えを受けたか。
それらを丁寧に調べた。
「つまり、時効期間はカレンダーだけ見ても駄目なんですね」
「そうだ」
「いつから進んだのか。途中で何があったのか。それを確認しないと」
相馬先輩が頷きました。
「時間だけじゃなく、途中の出来事を追う。それが実務だ」
私は大きく丸をつけました。
時効の完成。
期間と経過。
両方を確認する。
これ、大事です。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「時効が完成したら、次は何だ」
「援用です!」
私は勢いよく答えました。
「民法百四十五条!」
「読んでみなさい」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の民法百四十五条。
――時効は、当事者が援用しなければ、裁判所がこれによって裁判をすることができない。
「つまり!」
私は言いました。
「時効が完成しても、裁判所が勝手に時効を適用してくれるわけではありません!」
「そうだ」
「時効を援用する必要があります!」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、援用って何だ」
「時効の利益を受けるという意思表示です」
「具体的には?」
「消滅時効なら、時効によって債務の消滅を主張すること!」
「取得時効なら?」
「時効によって権利を取得したと主張することです!」
「よし」
私はノートに書きました。
援用。
時効の利益を受けるという意思表示。
ここで。
私は昨日の内容証明を思い出しました。
――私は、民法第百四十五条に基づき、消滅時効を援用します。
あの一文。
難しい言葉に見えます。
でも意味は、はっきりしています。
「私は、この時効の利益を受けます」
それを相手方へ伝える。
そういう意思表示なのです。
「所長」
「何だ」
「援用って、必ず内容証明郵便でしなきゃいけないんですか?」
「いや」
「え?」
「法律上、内容証明郵便という方式が必須なわけではない」
「あ、そうでした!」
私は慌てて書き直しました。
時効の援用。
原則として、特定の書面方式が必要なわけではない。
口頭でも意思表示は可能。
「でも、実務では内容証明郵便を使うことが多いんですよね」
「そうだ」
「どうしてですか?」
相馬先輩が答えました。
「後で争いになったとき、何を通知したか証明しやすいからだ」
なるほど。
口頭で、
「時効です!」
と言っても。
相手が、
「そんなこと聞いていない」
と言い出したら、証拠が問題になります。
でも。
内容証明郵便なら、通知した文面を残せる。
配達証明も利用すれば、到達の事実を証明しやすくなる。
「時効は援用すればいい。でも、援用した証拠を残すのが実務なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
法律上の要件。
そして、その証明。
両方が必要なのです。
「次は、誰が援用できるかです!」
私は新しいページを開きました。
ここは、昨日の事件で特に重要だったところです。
藤田正一さん。
借金をした本人。
そして。
藤田春江さん。
保証人。
「先輩」
「何だ」
「債務者本人が時効を援用できるのは分かります」
「ああ」
「でも保証人も援用できるんですよね」
「そうだ」
「なぜですか?」
相馬先輩は煙草を置きました。
「じゃあ、考えてみろ」
「はい」
「正一が百万円を借りた」
「はい」
「春江さんは保証人になった」
「はい」
「主たる債務の消滅時効が完成した。でも、正一は時効を援用しない」
「はい」
「黒岩が春江さんに請求したら?」
私は答えました。
「春江さんが、自分の立場から主たる債務の消滅時効を援用できます!」
「そうだ」
「保証人は、主たる債務が消滅すれば、保証債務も消滅する利益を持つからですね」
相馬先輩が頷きました。
つまり。
時効の利益を直接受ける人。
そういう人は、債務者本人以外でも援用が認められる場合がある。
「ここで問題!」
私は自分で言いました。
「じゃあ、保証人が援用して、正一さんが援用しなかったら?」
「どうなると思う」
私は少し考えました。
「……保証人の責任を消すために援用できても、当然に正一さん自身の債務まで消えるとは限らない?」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「保証人の援用の効力と、主債務者本人の援用の効力は、区別して考える必要がある」
「なるほど……!」
だから昨日。
正一さんにも。
春江さんにも。
それぞれ本人の意思を確認し、通知書を作ったのです。
私は書きました。
時効を援用できる人は、必ずしも債務者本人だけではない。
ただし、誰が援用したかによって、その効力の及ぶ範囲を考える必要がある。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ、ほかには?」
「物上保証人です!」
「説明してみろ」
私はノートに小さな家を描きました。
Aさんが銀行から借金をする。
Bさんは、お金を借りていない。
でも。
Aさんの借金を担保するため、自分の土地に抵当権を設定した。
「このBさんが物上保証人です」
「そうだ」
物上保証人は、他人の債務のために、自分の財産を担保として提供した人です。
通常の保証人とは異なり、担保に提供した物を超えて当然に個人的な返済義務を負うわけではありません。
しかし。
債務が返済されなければ、担保に入れた土地などが競売される危険があります。
「だから、主たる債務が時効によって消滅すれば、物上保証人も直接利益を受けるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
さらに。
抵当権の第三取得者。
抵当権が設定された不動産を、後から取得した人。
この人も、被担保債権が時効によって消滅すれば、抵当権の負担から解放される利益を持ちます。
「だから援用できる場合がある」
「そうだ」
私は書きました。
時効を援用できる代表例。
債務者本人。
保証人。
連帯保証人。
物上保証人。
抵当権の第三取得者。
ただし、どの権利の時効を援用するのか、その人がどのような利益を受けるのかを確認する。
「これ、全部暗記しようとすると大変ですね」
「だったら、理由で覚えろ」
「理由?」
「時効によって、その人自身の法律上の負担が直接軽くなるかどうかだ」
私は思わず手を打ちました。
「なるほど!」
条文や判例の結論だけを暗記するより。
なぜ援用を認めるのか。
その理由を理解した方が、ずっと覚えやすい。
これが、民法のリーガルマインド。
法律の考え方なのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「援用できない人もいるんですよね」
「ああ」
「例えば、一般債権者」
「そうだ」
私はノートに書きました。
AさんがBさんに百万円を貸している。
BさんはCさんにも百万円を貸している。
ところがBさんは、Cさんへの請求を長年放置している。
ここで。
Aさんは、こう考えるかもしれません。
「Bさんの財産が減ったら困る。だから、Cさんとの時効の問題に口を出したい!」
でも。
Aさんは、Cさんの債務について直接の当事者ではありません。
「一般債権者は、ほかの人の時効によって間接的に損得するだけでは、当然に援用できるわけではないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「大事なのは、直接の法律上の利益だ」
私は大きく線を引きました。
援用できるか。
その人自身が、時効によって直接どんな法律上の利益を受けるか。
「ただし、先輩」
「何だ」
「ここは時代によって判例の整理も変わりますよね」
「判例は、積み重なるものだからな」
私は頷きました。
例えば、現代の教材には。
詐害行為の受益者。
後順位抵当権者。
そうした人についての最高裁判例も登場します。
ただし、その中には平成十年や平成十一年の判例もある。
昭和六十三年の今は、まだ存在していない判例です。
だから。
この時代の事務所で、未来の最高裁判例を持ち出すわけにはいきません。
私は心の中で呟きました。
未来の知識を持っていると便利。
でも。
未来の判例で昭和の事件を解決しようとしたら、完全に怪しい人です。
「……こはる」
「はい!」
「また変なこと考えてるだろ」
「いえ!」
「顔に出てるぞ」
「気のせいです!」
私は慌ててノートに視線を戻しました。
昭和六十三年。
今使える法律と判例。
それが、実務の大前提なのです。
「さて」
片桐所長が声をかけました。
「時効の効果は、いつから生じる」
「民法百四十四条です!」
私は勢いよく答えました。
――時効の効力は、その起算日にさかのぼる。
「つまり、遡及効ですね!」
「そうだ」
私は書きました。
遡及効。
時効が援用された場合、その効力が時効期間の起算日にさかのぼること。
「でも所長」
「何だ」
「ちょっと不思議ですよね」
「どうしてだ」
「例えば、十年経って時効が完成して、十一年目に援用したとします」
「うん」
「普通なら、十一年目から消滅するように思いませんか?」
「そう考える人もいるだろう」
「でも、百四十四条は違う」
私はノートに一本の線を引きました。
左端。
時効の起算日。
途中。
時効完成。
右端。
援用。
「援用した日から効果が始まるのではなく、起算日にさかのぼるんですね」
「そうだ」
私は昨日の事件を思い出しました。
返済期限が到来したあと。
そこから時効期間が進みます。
そして、十年以上が経過。
正一さんが消滅時効を援用した。
「だから、時効の効果は、通知書を出した日だけの話じゃない」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「期間が満了した日から先だけ、権利が消えるって話でもねえ」
私は頷きました。
取得時効も同じです。
例えば。
Bさんが、法律上の要件を満たして、Aさんの土地を二十年間占有した。
そして取得時効を援用した。
その場合、所有権取得の効果は、占有を始めた時点にさかのぼる。
「時効って、過去に向かって効果を発生させるんですね」
「ああ」
「時間を巻き戻す法律みたいです」
相馬先輩が苦笑しました。
「時間そのものを戻すわけじゃねえけどな」
「分かってます!」
でも、私にはそう見えました。
普通の法律は、今から先の権利関係を決めるように感じます。
ところが時効は。
長く続いた状態を確定させるため、過去の時点から法律関係を扱い直す。
だからこそ。
百四十四条。
遡及効。
この言葉が重要になるのです。
「次は、時効利益の放棄です!」
私はページをめくりました。
ここからが、昨日の事件の核心です。
時効の利益の放棄。
時効の利益を受けないという意思表示。
「先輩」
「何だ」
「時効の利益って、放棄できるんですよね」
「ああ。ただし、いつでもってわけじゃねえ」
「そうです!」
私は六法を開きました。
民法百四十六条。
――時効の利益は、あらかじめ放棄することができない。
「ここです!」
私は鉛筆で二重線を引きました。
時効の利益は、完成前には放棄できない。
「例えば!」
私は言いました。
「お金を貸すとき、貸主が借主に契約書を書かせたとします」
「うん」
「そこに『私は将来、時効を主張しません』って書いてあったら?」
「どうなる」
「時効完成前の利益の放棄として、効力は認められません!」
「そうだ」
もし、これが有効なら。
貸主は、契約のたびに、
――時効は使いません。
という一文を入れておけばいい。
そうすると。
時効制度の意味がなくなってしまいます。
「だから、あらかじめ放棄させることはできないんですね」
「そうだ」
「でも!」
私は鉛筆を止めました。
「時効が完成した後なら?」
「放棄できる」
「ですよね!」
ここが重要です。
時効完成前。
時効の利益を放棄できない。
時効完成後。
時効の利益を放棄できる。
同じ放棄でも。
いつ行われたかによって、法律上の扱いが変わります。
「つまり、時効が完成した後なら、本人が自分の意思で返済を選ぶことも尊重されるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
借金を返すという選択。
時効を援用するという選択。
法律は、その両方を尊重している。
ただし。
その選択が、本当に何を意味するのか。
そこを理解していないと、危険なのです。
「そして!」
私はノートに大きく書きました。
――時効完成後の債務承認。
相馬先輩がこちらを見ました。
「来たな」
「はい!」
昨日の事件。
一番怖かったところです。
黒岩が用意した誓約書。
――私は、百万円の債務が現在も存在することを認めます。
――毎月一万円ずつ返済します。
もし。
正一さんが、これに署名押印していたら。
「先輩」
「何だ」
「この事件で一番怖い最高裁判例、覚えてます」
「言ってみろ」
「昭和四十一年四月二十日!」
私は勢いよく答えました。
「時効完成後に債務を承認した場合、時効完成を知らなくても、その後の時効援用が認められなくなるという判例です!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
私はノートに書きました。
最高裁昭和四十一年四月二十日判決。
時効完成後に債務者が債務を承認した場合、時効完成の事実を知らなかったとしても、その後、消滅時効を援用することは信義則上許されない。
「でも先輩」
「何だ」
「これ、時効利益の放棄とは少し違うんですよね」
相馬先輩がにやりとしました。
「そこに気づいたか」
私は頷きました。
時効利益の放棄。
時効が完成していることを認識し、その利益を受けないという意思表示をすることが問題になる。
一方。
時効完成後の債務承認。
本人が時効完成を知らなくても、その後の援用が制限されることがある。
「ここ、かなり重要ですね」
「そうだ」
「つまり、時効が完成していたと知らなかったから、後からいつでも援用できる、とはならない」
「ああ」
私は昨日の正一さんを思い出しました。
本人は、法律の専門家ではありません。
時効のことも知らなかった。
だから。
黒岩から、
「昔の借金があるだろう」
と言われれば、
「確かに借りました」
と答えてしまう。
そして。
「少しずつ返します」
と約束してしまうかもしれない。
でも。
その発言が、法律上の債務承認に当たれば。
時効援用に重大な影響が生じる。
「……怖いですね」
私は呟きました。
「だから、債務承認ってのは軽く考えちゃいけねえ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「特に、時効が完成しているかもしれない古い借金についてはな」
私は大きく頷きました。
では。
なぜ、こんな厳しい結論になるのでしょうか。
「所長」
「何だ」
「時効完成を知らなかった人まで、どうして援用できなくなるんですか?」
片桐所長は静かに答えました。
「相手方の信頼だ」
「信頼?」
「債務者が、債務を認めた」
「はい」
「債権者は、それを見て、もう時効を主張されないだろうと信頼する」
「……」
「その後になって、やはり時効を援用すると言い出したら、どうなる」
私は考えました。
「……相手の信頼を裏切ることになります」
「そうだ」
信義則。
信義誠実の原則。
民法第一条第二項。
権利の行使や義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
「だから、時効完成後の債務承認があると、その後の援用が信義則上許されなくなるんですね」
「そういうことだ」
私は深く頷きました。
なるほど。
ここでも民法の基本原則が働いている。
時効による保護。
そして、相手方の信頼。
その調整です。
「ただし!」
私は自分で付け加えました。
相馬先輩が眉を上げます。
「何だ」
「借金について何か話したら、全部債務承認になるわけではありません!」
「そうだ」
「何を言ったのか、何を認めたのか、具体的な事情を見る必要があります!」
私は書きました。
時効完成後の債務承認は、援用を制限し得る。
ただし、何が債務承認に当たるかは、実際の言動や事情によって判断する。
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「昨日の藤田さんは、危ないところだったな」
「本当に」
私は背筋を伸ばしました。
あの誓約書。
もしハンコを押していたら。
百万円の請求について、まったく違う問題を抱えていたでしょう。
だから。
時効の法律相談では、単に年月を数えるだけでは足りない。
時効完成後の行動まで、丁寧に調べなければならないのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「確認問題だ」
「はい!」
「十年経った借金がある。債務者は何も言わずにいる。裁判所は、時効を理由に勝手に債権者の請求を退けてくれるか?」
「いいえ!」
「理由は?」
「時効は、当事者の援用が必要だからです!」
「よし」
「次!」
私は勢いづきました。
「今度は私が出します!」
「勝手に決めるな」
「問題です!」
私はノートを見ました。
「時効が完成する前に、『将来、時効を主張しません』と約束したら?」
「時効利益の事前放棄は認められない」
「正解!」
「俺が教えてるんだろ」
「次です!」
「おい」
「時効が完成した後に、時効完成を知らずに借金を認めたら?」
「昭和四十一年の最高裁判例だ。後から時効を援用できなくなることがある」
「正解!」
「だから俺が――」
「最後です!」
私は鉛筆を掲げました。
「時効を援用した場合、その効果はいつから生じますか?」
「起算日にさかのぼる。百四十四条だ」
「大正解!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、誰に問題出してんだよ」
「勉強会です!」
「俺は受験生じゃねえぞ」
「でも、復習は大事です!」
「……まったく」
そのとき。
片桐所長が、奥から一枚の紙を差し出しました。
「こはる」
「はい!」
「では、最後にこれを考えてみなさい」
私は受け取りました。
そこには、短い事例が書かれていました。
――AはBに百万円を貸した。
――返済期限から十年以上、請求権を行使せず、時効の進行を妨げる事情もなかった。
――Bは時効の完成を知らず、Aに対して「百万円を返します」と書面で約束した。
――その後、Bは時効の完成を知り、援用しようとした。
私は読み終えました。
「……あ」
昨日の事件と似ています。
でも。
決定的な違いがあります。
藤田正一さんは、債務承認書に署名しなかった。
こちらのBさんは、署名してしまっている。
「所長」
「何だ」
「Bさんは、原則としてその後の援用が信義則上許されなくなる可能性が高いです」
「理由は?」
「時効完成後に債務を承認したからです」
「時効完成を知らなくても?」
「はい!」
私は答えました。
「最高裁昭和四十一年四月二十日判決です!」
片桐所長が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった。
時効の基本。
少しずつ、頭の中でつながってきました。
単なる丸暗記ではありません。
藤田家の事件を思い出せばいい。
百万円。
十一年。
借用証書。
債務承認書。
押さずに済んだハンコ。
そして。
二通の内容証明郵便。
その全部が。
民法の条文と結びついているのです。
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私はノートを見直しました。
時効。
取得時効。
消滅時効。
完成。
援用。
遡及効。
利益の放棄。
債務承認。
最初は、どれも似たような言葉に見えました。
でも今は違います。
「所長」
「何だ」
「時効って、単に時間を数える制度じゃないんですね」
「そうだ」
「時間が経ったことを、法律上どう扱うか。そのために、いろいろな仕組みがある」
「うん」
私は続けました。
「借金をした人が、必ず得をする制度でもない」
「そうだ」
「貸した人が、必ず損をする制度でもない」
「そうだな」
時効は。
長期間続いた状態を尊重する。
しかし。
権利者が法的手続を取れば、時効の進行に影響する。
債務者が時効完成後に債務を承認すれば、援用が制限されることもある。
つまり。
法律は、時間だけで結論を決めているわけではありません。
当事者が何をしたのか。
どんな意思を示したのか。
そこまで見ているのです。
「だからこそ」
私は言いました。
「実務では、昔の出来事を一つずつ確認するんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「相談者が『十年以上経ったから大丈夫』と言っても、すぐに安心させてはいけない」
「はい」
「時効の期間が本当に満了しているのか」
「はい」
「途中で何があったのか」
「はい」
「完成後に債務を承認していないか」
「はい!」
「そして、誰が援用するのか」
私は最後の言葉を繰り返しました。
「……誰が援用するのか」
藤田正一さん。
そして、保証人の春江さん。
昨日の事件では。
二人それぞれの立場を整理した。
だから。
百万円の請求から、家族の生活を守ることができたのです。
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――時効は「完成」だけでは足りない。「援用」で利益を主張し、「承認」で失うことがある。効果は起算日にさかのぼる。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
あの債務承認書。
あのとき、正一さんがハンコを押していたら。
百万円の請求について、まったく違う結末になっていたかもしれない。
そう思うと。
法律を知っていることの意味が、よく分かります。
人は、いつでも正しい判断ができるわけではありません。
知らないこともある。
焦ることもある。
相手に強く言われて、うっかり約束してしまうこともある。
だからこそ。
法律の知識が必要なのです。
相手を言い負かすためではなく。
後悔するような約束を、簡単にしてしまわないために。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、昨日頼んだ書類整理をやれ」
「……え?」
私は固まりました。
「先輩」
「何だ」
「まだ覚えてたんですか」
「当たり前だ」
「もう一日経ってますよ」
「だから何だ」
「時効の完成猶予とか、更新とか……」
「今は昭和六十三年だ!」
「あっ!」
しまった。
また未来の用語です。
私は慌てて言い直しました。
「じゃあ、時効の中断!」
「そもそも時効の話じゃねえ!」
「ぐっ……!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、時効を便利な言い訳だと思ってるだろ」
「そんなことありません!」
「なら、仕事しろ」
私は不満そうに机を片づけました。
でも。
ふと気づきました。
「先輩」
「今度は何だ」
「時効が完成しても、援用しないと裁判所は時効によって裁判できないんですよね」
「ああ」
「じゃあ、私が今から『書類整理義務について時効を援用します』って言えば――」
「その前に期間が完成してねえだろ!」
「ですよね……」
相馬先輩は呆れたように笑いました。
「お前、法律を覚えるのは早いんだが、使い道がひでえな」
「民法の実践です!」
「屁理屈だ!」
そのとき。
片桐所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい!」
「今日のノートは、よくまとまっている」
「本当ですか!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
「ありがとうございます!」
「ただし」
「はい?」
「時効は、権利関係を安定させるための制度だ」
「はい」
「仕事を先延ばしにするための制度ではない」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「所長まで!」
私は肩を落としました。
どうやら。
法律上の時効を覚えたからといって。
事務所の仕事から逃げられるわけではないようです。
残念。
私は書類の束を抱えながら、窓の外を見ました。
昭和六十三年。
夕暮れの地方都市。
藤田家では、きっと今ごろ。
正一さんと春江さんが、いつもの家で夕飯を食べているのでしょう。
もう、突然の百万円の請求に怯えなくていい。
長年住んできた家を、失わずに済んだ。
その安心の裏には。
民法百四十四条。
民法百四十五条。
民法百四十六条。
そして。
昭和四十一年の最高裁判例。
いくつもの法律の考え方がありました。
時効。
それは、長く続いた事実状態に、法律上の意味を与える制度です。
けれど。
その利益を受けるためには、正しい知識と意思表示が必要になる。
だから私は、忘れないことにしました。
古い借金の相談が来たら。
期間を調べる。
途中の経緯を確認する。
援用できる人を整理する。
そして。
時効が完成した後に、うっかり債務を承認していないか、必ず確かめる。
それが、今日の教訓です。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「書類、進んでるか!」
「進んでます!」
「本当か!」
「はい!」
「じゃあ、終わった分を持ってこい!」
私は机の上の書類を見ました。
……。
まだ、ほとんど終わっていません。
「先輩!」
「何だ!」
「私、今、重大な法律問題に気づきました!」
「今度は何だよ!」
「仕事の進捗について、事実と真実が異なっています!」
「……は?」
「私は進んでいると言いました! でも、真実は進んでいません!」
「だったら仕事しろ!」
「そこで時効によって、進んでいるという事実状態を――」
「時効は嘘を本当にする魔法じゃねえ!」
……。
確かに。
時効は、何でも都合よく正当化する制度ではありません。
厳しい要件があり。
法律上の理由があり。
当事者の意思が必要になる。
だからこそ。
人の財産や生活を守る制度として、意味があるのです。
私は苦笑しながら、書類整理を再開しました。
そして。
ノートの最後の一行を、もう一度心の中で読みました。
――時効は「完成」だけでは足りない。「援用」で利益を主張し、「承認」で失うことがある。効果は起算日にさかのぼる。
よし。
これなら忘れません。
ただし。
私の書類整理の義務だけは。
どうやら、いつまで待っても都合よく消滅してくれそうにないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




