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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 総則

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455/618

[民法・時効の基本と援用]現場編 「十年経っても借金は消えない」の嘘。たった一枚の承認書で復活する百万円と、時効の援用が守った親子の家

挿絵(By みてみん)

 時間が経てば、消えるものがあります。


 足跡。


 傷跡。


 そして。


 借金。


 ただし。


 法律の世界では、十年経ったからといって、何も言わずに安心してはいけません。


 消えるはずだった借金が。


 たった一枚の紙と、一本のハンコで。


 再び牙をむくことがあるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は初めて知りました。


 民法には、時間を味方につける制度がある。


 けれど、その味方は。


 黙っているだけでは、最後まで守ってくれないのだと。


「父が……百万円を払えと言われているんです」


 朝一番。


 事務所を訪れた女性は、膝の上で封筒を握りしめていました。


 三十歳くらいでしょうか。


 名前は、藤田由紀子さん。


 町外れの小さな仕立て屋で働いているそうです。


「百万円ですか」


 私は相談票を開きました。


「借金でしょうか?」


「はい。でも、借りたのはずっと昔なんです」


「いつですか?」


「昭和五十一年です」


 私は鉛筆を止めました。


 昭和五十一年。


 今は昭和六十三年。


 十二年前。


「お父様が借りたんですか?」


「そうです。父は昔、小さな木工所をやっていたんですけど、経営が苦しくなって……」


 由紀子さんは封筒から古い借用証書の写しを取り出しました。


 黄ばんだ紙。


 そこには、


 ――金百万円也。


 ――借主 藤田正一。


 ――貸主 黒岩重蔵。


 ――返済期限 昭和五十二年六月三十日。


 と書かれています。


「返済期限は、昭和五十二年……」


「はい」


「それから?」


「父の工場は潰れました。家族で何とか生活してきたんですけど、借金の話はずっと出ていませんでした」


「一度も?」


「父の話では、返済期限を過ぎてから、返済もしていないし、返済を求められたこともなかったそうです」


 私は顔を上げました。


 十一年以上。


 返済期限から、ずっと。


 ここで、頭の中に一つの言葉が浮かびました。


 ――消滅時効。


 あ。


 これ、いけるのでは?


「由紀子さん!」


「は、はい!」


「その借金、時効になっている可能性があります!」


 由紀子さんが目を見開きました。


「時効……?」


「はい! 一定期間、権利が行使されないと、消滅時効が問題になるんです!」


「じゃあ、もう払わなくていいんですか?」


「まず、貸付けの性質と途中の経緯を確認する必要がありますけど――」


 私は勢いよく続けました。


「現代の民法では、権利を行使できることを知った時から五年、権利を行使できる時から十年で……」


「待て」


 背後から、低い声。


 相馬先輩でした。


「はい?」


「今、何年だ」


「昭和六十三年です」


「じゃあ、その五年と十年ってのは何だ」


「え?」


「お前、また変な条文を読んでねえか?」


 ……。


 しまった。


 現代民法百六十六条。


 令和の消滅時効。


 あれは、令和二年施行の改正によるものです。


 昭和六十三年には、まだありません。


「こはる」


 相馬先輩が六法を机に置きました。


「今の民法を見ろ」


「はい……」


「一般の民事債権なら、原則は十年だ。旧百六十七条一項」


「十年……」


「だが、商事債権には五年の時効がある。職業別の短期消滅時効だってある。貸した奴の商売や貸付けの事情を調べずに決めるな」


「はい!」


 危ない。


 また未来の法律で事件を解決しかけました。


 この時代。


 民法は、現代よりもずっと複雑です。


 債権の種類によって、時効期間が変わる。


 今の感覚で「借金は五年か十年!」と片づけたら、実務では大惨事です。


「ところで」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「貸主の黒岩という男は、金貸しなのか」


「いいえ」


 由紀子さんが答えました。


「父の昔の知り合いです。個人でお金を貸してくれたそうです」


「その貸付けが商取引に当たる事情は?」


「聞いていません」


「借用証書以外に、裁判所からの書類などは?」


「ありません」


 所長は頷きました。


「一般の民事債権として十年を前提に考えよう。ただし、資料の確認は必要だ」


「はい」


 私は日付を数えました。


 返済期限。


 昭和五十二年六月三十日。


 現在。


 昭和六十三年十月。


 十一年以上経っています。


「じゃあ、やっぱり……!」


「まだだ」


 相馬先輩が遮りました。


「え?」


「こはる。十年経ったら、それだけで全部終わりか?」


「……あ」


 私は六法を見ました。


 民法百四十五条。


 時効の援用。


「時効は……援用しないといけない」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「期間が過ぎただけで安心するな。本人が時効の利益を受ける意思を示す必要がある」


 なるほど。


 ただ待つだけでは足りない。


 時効が完成していること。


 そして。


 時効を援用すること。


 その二つが必要になるのです。


 私は由紀子さんに説明しようとしました。


 ところが。


 彼女の表情は、ますます暗くなっていました。


「……実は」


「はい?」


「今日、父がその黒岩さんに会うことになっているんです」


 私は嫌な予感がしました。


「何のために?」


「書類にハンコを押せって」


「書類?」


 由紀子さんが封筒から、もう一枚の紙を取り出しました。


 私は受け取りました。


 その一番上には。


 大きな文字が印刷されていました。


 ――債務承認及び分割弁済誓約書。


 ……。


 あれ?


 これ。


 まさか。


「先輩」


「何だ」


「これ、かなりまずい書類じゃありません?」


 相馬先輩が紙を受け取りました。


 そして。


 顔つきが変わりました。


「……黒岩の野郎」


 普段は口が悪い先輩ですが。


 このときの声は、いつもよりずっと低いものでした。


「こはる」


「はい」


「今日、何時に会う予定だ」


「由紀子さん?」


「午前十一時です」


 時計は九時十五分。


 相馬先輩は紙を机に置きました。


「間に合うな」


「何がですか?」


「百万円が復活するのを止めるんだよ」


 私は誓約書を読みました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――私は、昭和五十一年に借り入れた金百万円の債務が、現在も存在することを認めます。


 ――右債務について、毎月一万円ずつ返済することを約束します。


 ――債務者 藤田正一。


 ――署名押印欄。


 そして。


 その下に、小さな文字。


 ――本債務につき、時効その他の理由による異議を申し立てません。


 私は息を呑みました。


「これ……!」


「分かったか」


 相馬先輩が言いました。


「はい。時効の利益を放棄させようとしている!」


「それだけじゃねえ」


「え?」


「債務の承認だ」


 私はもう一度、書面を見ました。


 借金があることを認める。


 分割返済を約束する。


 ハンコを押す。


 たったそれだけ。


 でも。


 時効完成後に債務を承認すると、どうなるのか。


 私は思い出しました。


 最高裁判所。


 昭和四十一年四月二十日判決。


 時効完成後に債務を承認した者は、時効が完成していたことを知らなかった場合でも、その後の時効援用が信義則上許されなくなる。


 ……。


 待ってください。


 つまり。


「所長!」


「何だ」


「お父さんが時効を知らないまま『借金があります』って認めたら……!」


「後から時効を主張できなくなる危険がある」


「そんな!」


 私は誓約書を見つめました。


 怖い。


 これは怖いです。


 借金が消滅時効にかかっている可能性がある。


 なのに。


 借金を認めたという行動によって、その利益を失いかねない。


 しかも。


 時効が完成していたことを知らなくても、です。


「先輩!」


「何だ」


「じゃあ、お父さんに絶対にハンコを押させちゃ駄目です!」


「そうだ」


「それどころか、安易に『少しずつ返します』って言うのも危険ですよね!」


「よく気づいたな」


 私は身震いしました。


 借金取りが、


「とりあえず一万円だけ払ってくれ」


 と言ってくる。


 あれ。


 単に少しでも回収したいから、という話だけではないのかもしれません。


 一部弁済。


 債務承認。


 それらが、時効の援用を妨げる事情になり得る。


 十年以上も眠っていた借金。


 その最後のひと押しを、債務者自身にさせようとしている。


「……ひどい」


 私が呟くと、片桐所長が言いました。


「まず、本人に連絡しなさい」


「はい!」


「書類に署名する前に、事実を確認する」


 私は受話器を取りました。


 そして。


 藤田正一さんの家へ電話をかけたのです。


「だから、昔の借金は払うのが筋だろうが!」


 午前十時半。


 片桐行政書士事務所。


 黒い背広の男が、応接室で声を荒らげていました。


 黒岩重蔵。


 六十二歳。


 藤田正一さんに百万円を貸した男です。


 太い眉。


 大きな指輪。


 妙に立派な腕時計。


 私は、その隣に座る痩せた男性を見ました。


 藤田正一さん。


 六十七歳。


 由紀子さんのお父さんです。


 黒岩との面会に行く前に事務所へ来てもらい、本人の希望で相手方へ連絡したところ、黒岩も自分からやって来たのでした。


「行政書士なんぞ連れてきて、何のつもりだ!」


 黒岩が机を叩きました。


「正一! お前、俺から百万円借りただろ!」


「……はい」


「返してねえだろ!」


「……はい」


「だったら払え!」


 正一さんは、うつむいたままです。


 私は思わず口を開きました。


「ですが、返済期限から十一年以上が経過しています」


「だから何だ!」


「消滅時効が――」


「時効?」


 黒岩は鼻で笑いました。


「お嬢ちゃん。時効ってのは犯罪の話だろ」


 ……。


 出ました。


 民事の時効を知らない人。


「借金は借金だ。何年経とうが、借りた事実は消えねえ!」


 黒岩は得意そうに言いました。


「借用証書もあるんだぞ!」


 私は答えました。


「借りたという歴史上の事実は消えません。でも、法律上の請求権は別です」


「屁理屈だ!」


「民法には、消滅時効という制度があります」


「そんなもんで、借金が帳消しになるか!」


 黒岩が立ち上がりました。


 そのとき。


「黒岩さん」


 片桐所長が静かに言いました。


「債務承認書を用意されたのは、どうしてですか」


 黒岩の動きが止まりました。


「……何?」


「借用証書がある。返済期限も明確です。それなのに、なぜ今になって新たな承認書が必要なのですか」


「そ、それは……」


「分割払いの約束を取り直したいからですか」


「当たり前だ!」


「そうですか」


 所長はそれ以上追及しませんでした。


 黒岩は舌打ちしました。


「とにかく、正一が認めれば済むことだ!」


 私は息を呑みました。


 認めれば済む。


 その言葉。


 まさに、そこが罠なのです。


「正一!」


 黒岩は紙を突きつけました。


「お前、借りたことを忘れたのか!」


「……忘れていません」


「なら、ここにハンコを押せ!」


 正一さんの手が、震えながら動きました。


 私は思わず立ち上がりました。


「待ってください!」


 黒岩が睨みつけます。


「何だ!」


「借りたことを覚えているのと、今、返済義務を認めることは別です!」


「何を言ってる!」


「時効が完成している可能性がある以上、その書面には重大な意味があります!」


「小娘が!」


 黒岩が怒鳴りました。


 しかし。


「正一さん」


 片桐所長が言いました。


「署名するかどうかは、ご自身で判断してください。ただ、今はまだ事情を確認している段階です。急いで決める必要はありません」


 正一さんは、ゆっくり手を引っ込めました。


「……黒岩さん」


「何だ」


「今日は、ハンコを押しません」


 黒岩の顔が赤くなりました。


「何だと!」


「ちゃんと調べてからにします」


「恩知らずが!」


 黒岩は紙をひったくりました。


「分かった! だったら裁判だ! 家でも何でも差し押さえてやる!」


 正一さんの顔が青ざめました。


 けれど。


 相馬先輩が、静かに口を開きました。


「訴訟を起こすのは、あなたの自由です」


「何?」


「ただし、請求権の消滅時効が完成し、適法に援用されれば、その点が争われることになります」


「……!」


「裁判所も、時効の援用があれば、その効力を判断します」


 黒岩は唇を噛みました。


 片桐所長が続けました。


「こちらで事実関係を確認したうえで、本人の意思に基づく書面を作成します。裁判になれば、弁護士へ相談していただきます」


 黒岩はしばらく黙っていました。


 そして。


「……勝手にしろ!」


 そう吐き捨てて、事務所を出ていきました。


 扉が閉まりました。


 私は大きく息を吐きました。


「……怖かった」


「声がでけえだけだ」


 相馬先輩が言いました。


「先輩は怖くないんですか?」


「怖いのは、ああいう奴の怒鳴り声じゃねえ」


「え?」


「意味も分からずハンコを押すことだ」


 私は机の上を見ました。


 債務承認書の写し。


 もし。


 正一さんが、あの紙に署名押印していたら。


 十一年という時間が。


 無駄になっていたかもしれません。


「でも、時効って不思議ですね」


 黒岩が帰ったあと。


 私は思わず言いました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「だって、百万円を借りたのは事実ですよね」


「ああ」


「返していないのも事実です」


「そうだ」


「なのに、十年経ったら請求できなくなるなんて……」


 私は少し考え込みました。


「本当に、それでいいんでしょうか」


 相馬先輩は珍しく、すぐには答えませんでした。


 代わりに、片桐所長が窓の外を見ました。


「こはる」


「はい」


「十一年前の約束を、今から争うとする」


「はい」


「当時、誰が何を言ったか。いくら返したか。領収書は残っているか。誰が立ち会っていたか」


「……」


「時間が経てば、証拠は失われる」


 私は頷きました。


「人の記憶も曖昧になりますね」


「そうだ」


 所長は続けました。


「いつまでも昔の権利関係を不安定なままにしておけば、人は安心して暮らせない」


「だから、時間によって法律関係を確定させる……」


「うん」


 なるほど。


 時効。


 単に、借金を踏み倒す人を助ける制度ではない。


 長く続いた状態を尊重し、法律関係を安定させるための仕組みなのです。


「でも所長」


「何だ」


「それなら、十年経ったら自動的に裁判所が判断すればいいのでは?」


「百四十五条を読んでみなさい」


 私は六法を開きました。


 民法百四十五条。


 時効は、当事者が援用しなければ、裁判所がこれによって裁判をすることができない。


 昭和六十三年の条文です。


「あ……」


「どうした」


「援用が必要なんですね」


「そうだ」


 借りた人が、時効の利益を受けたいと考えるか。


 それとも、古い借金でも返済したいと考えるか。


 その選択を、法律は尊重する。


 だから。


 期間が経過しても、時効を主張するという意思表示が重要になる。


「なるほど……」


 私は頷きました。


 時間だけでは、最後の扉は開かない。


 その扉を開く鍵が。


 ――時効の援用。


 なのですね。


 そのとき。


 由紀子さんが小さく手を挙げました。


「あの……」


「はい?」


「実は、まだ問題があるんです」


 私は彼女を見ました。


「何でしょう」


「父の借金なんですけど……」


 由紀子さんは目を伏せました。


「母が、保証人になっているんです」


 ……。


 え?


「保証人?」


「はい」


「お母様が?」


「そうです」


 相馬先輩が顔を上げました。


「契約書を見せてください」


 由紀子さんが、もう一枚の紙を出しました。


 借用証書。


 その下。


 保証人欄に。


 ――藤田春江。


 という名前。


 正一さんの妻でした。


 そして。


「母は今、家を売るしかないって泣いています」


 由紀子さんの声が震えました。


「黒岩さんから、父が払わないなら、お前が払えって言われているんです」


 私は紙を見つめました。


 保証人。


 本人が返済できなければ、保証人が責任を負うことがある。


 では。


 主たる債務の時効が完成した場合。


 保証人は、どうなるのか。


「所長!」


「何だ」


「保証人も、時効を援用できるんですよね!」


 所長が頷きました。


「できる」


 よかった!


 私は少し安心しました。


 でも。


 その直後。


 所長が、もう一つ質問しました。


「春江さんは、何か署名していますか」


 由紀子さんは首を振りました。


「何もしていないそうです」


「返済は?」


「していません」


「正一さんは、途中で借金を認める書面を出したり、一部返済したりしていませんか」


「していないと言っています」


「では、そこも確認しましょう」


 所長は頷きました。


「保証人の立場も整理して、通知書を作る必要があります」


 私は六法を握りました。


 時効を援用する人。


 それは、借金をした本人だけとは限らない。


 保証人のように。


 時効によって、直接自分の責任が軽くなる人もいる。


 ああ。


 民法。


 何て奥が深いのでしょう。


 ただし。


 ここで私は、もう一度やらかしかけました。


「現代民法百四十五条にも、保証人が明記されていますし!」


「……こはる」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「はい?」


「今の条文に、保証人って書いてあるか?」


 私は固まりました。


 ……あ。


 現代民法百四十五条。


 消滅時効について、保証人、物上保証人、第三取得者その他正当な利益を有する者が明文化されている。


 でも。


 昭和六十三年の条文は違う。


「す、すみません!」


 私は慌てて六法を確認しました。


「今は『当事者』と書かれているだけですね!」


「そうだ」


「でも、判例では保証人にも援用を認めるんですよね!」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「条文に名前がねえから、保証人は援用できない、なんて考えるな」


「はい!」


 なるほど。


 未来の民法は、判例で積み重ねられてきた考え方を条文に取り込むことがある。


 法律の改正というのは、単に古い言葉を新しくするだけではないのです。


 けれど。


 昭和六十三年の今。


 私たちが使う武器は。


 当時の民法と、当時までに存在した判例です。


 未来の条文を振り回しても、黒岩には通用しません。


 午後。


 私は机に向かい、書類を広げました。


 相馬先輩が言いました。


「こはる。時系列を作れ」


「はい!」


 私は紙に書きました。


 昭和五十一年四月。


 百万円の貸付け。


 昭和五十二年六月三十日。


 返済期限。


 昭和五十二年七月一日。


 返済期限を過ぎ、債権者が請求権を行使できる状態。


 昭和六十三年十月。


 現在。


「十年以上経過しています」


「それだけか?」


「いえ!」


 私は続けました。


「その間に、時効の進行を妨げる事情がなかったか確認が必要です!」


「具体的には?」


「裁判上の請求や差押え、それから債務の承認などです!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 昭和六十三年の民法では。


 今でいう時効の「完成猶予」や「更新」ではなく。


 時効の「中断」という制度が使われています。


 私は最初、


「完成猶予がないか確認します!」


 と言いそうになりました。


 危ない。


 危ない。


 令和の受験生、昭和の民法に何度も足を取られています。


「正一さん」


 片桐所長が尋ねました。


「昭和五十二年以降、黒岩さんに一部でも返済したことは?」


「ありません」


「借金を認める書面を出したことは?」


「ありません」


「裁判所から支払督促や訴状が届いたことは?」


「ありません」


「差押えを受けたことは?」


「ありません」


「ほかに、返済を約束したことは?」


「……ありません」


 所長は一つずつ確認しました。


 古い通帳。


 借用証書。


 当時の手紙。


 正一さんが保管していた手帳。


 黒岩から今回届いた請求書。


 使える資料を机に並べます。


 もちろん、相手方が過去に法的手続を取っていなかったことまで、手元の資料だけで完全に証明できるわけではありません。


 けれど。


 現時点で、時効の中断を裏づける事情は見当たりませんでした。


「所長」


「何だ」


「これなら、消滅時効の援用通知を作れますね」


「そうだな」


 所長は正一さんに向き直りました。


「時効の利益を受ける意思はありますか」


 正一さんは、しばらく黙っていました。


「……昔、助けてもらったのは事実です」


「はい」


「だから、返せるなら返したかった」


「そうでしょう」


「でも、工場が潰れて、妻にも娘にも苦労をかけて……」


 正一さんは手を握りしめました。


「今さら百万円を払えば、妻が住む家まで危なくなる」


 由紀子さんが父親の手に触れました。


「お父さん」


「……もう、家族を苦しめたくないんです」


 私は胸が痛くなりました。


 借金を返したい気持ち。


 でも、返せない現実。


 その間で、十一年以上も生きてきた人。


 民法は、そんな人に。


 時効を援用するという選択肢を与えているのです。


「お願いします」


 正一さんが言いました。


「時効を使わせてください」


 片桐所長が頷きました。


「分かりました」


 そして。


「春江さんにも、ご本人の意思を確認しましょう」


「はい」


 保証人である春江さんも、後から事務所に来ました。


 事情を説明すると。


 春江さんは、夫の隣に座って言いました。


「私は、この人と一緒に生きてきました」


 その声は小さかったけれど、はっきりしていました。


「借金の保証人になったのも、家族でやり直そうと思ったからです」


「はい」


「でも、もう十分苦労しました」


 春江さんは涙を拭いました。


「私も、時効を主張したいです」


 私は深く頷きました。


 よし。


 本人の意思が確認できました。


 ここからが。


 行政書士の仕事です。


 三時間後。


 机の上には、二通の内容証明郵便の原案が置かれていました。


 一通目。


 藤田正一さん名義。


 もう一通。


 保証人である藤田春江さん名義。


 私は一通目を読み上げました。


「通知書」


「うん」


「私は、貴殿が昭和五十一年四月に貸し付けたと主張する金百万円について、返済期限が昭和五十二年六月三十日と定められていたことを確認しています」


 相馬先輩が頷きます。


「続けろ」


「右債権については、返済期限経過後、十年以上が経過しており、当方の確認した範囲では時効中断事由は存在しません」


「うん」


「よって、私は民法百六十七条一項及び百四十五条に基づき、右債権について消滅時効を援用します」


 私は一度、息を吸いました。


「したがって、右債権について、今後の支払請求には応じません」


 読み終えました。


 相馬先輩が言いました。


「それでいい」


「本当ですか!」


「ああ。ただし、決めつけるなよ。新しい資料が出れば確認が必要になる」


「はい!」


 次。


 春江さんの通知書。


「私は、藤田正一の上記債務について保証人となった者です」


「うん」


「上記主たる債務について消滅時効が完成しているため、保証人としての正当な利益に基づき、その消滅時効を援用します」


「続けろ」


「よって、上記債務の保証債務についても、支払義務を負わないことを通知します」


 相馬先輩は頷きました。


「よし」


 私は二通の書面を並べました。


 本人。


 保証人。


 同じ時効でも。


 それぞれの立場から、利益を守る必要がある。


「ところで」


 私は首をかしげました。


「所長。正一さんが時効を援用すれば、それだけで春江さんも守られるんじゃないんですか?」


「主たる債務が消滅すれば、保証債務にも影響する」


「ですよね」


「だが、今回は春江さん自身も請求を受けている」


「はい」


「だから、春江さん自身の意思表示も明確に残す」


 私は納得しました。


 誰が。


 何を。


 いつ主張したのか。


 それが分かる書面。


 そして、その通知を相手方へ到達させた記録。


 内容証明郵便には、文章を証明する役割があります。


 配達証明も利用すれば、相手方に配達された事実を証拠として残せます。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「内容証明を送れば、何でも勝てると思うなよ」


「はい」


「書いてある内容が間違ってりゃ、ただの立派な紙だ」


「……はい」


「でも、条文と事実が合っていれば?」


 私は答えました。


「相手に、法的な問題を正面から突きつけられます」


「そうだ」


 相馬先輩がにやりとしました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 出ました。


 先輩の決め台詞。


 でも。


 今回ばかりは、少し違います。


「先輩」


「何だ」


「今回は、ハンコを押さなかったから助かったんですよね」


 相馬先輩は一瞬黙りました。


 それから。


「……そうだな」


 苦笑しました。


「押しちゃいけねえ紙もあるってことだ」


 私は笑いました。


 まったくです。


 時効の完成。


 時効の援用。


 債務の承認。


 時効利益の放棄。


 似たような言葉なのに。


 一つ間違えれば。


 百万円が消えるか、残るか。


 その運命が変わってしまうのです。


 内容証明郵便を発送した三日後。


 黒岩重蔵から、事務所へ電話が入りました。


「……片桐さんか」


 あの大声ではありません。


 やけに低い声です。


「片桐です」


『あの書面、読んだ』


「そうですか」


『弁護士にも見せた』


「はい」


『……十年以上経ってるんだな』


「通知書の返済期限から計算した期間は、そのとおりです」


 電話の向こうで、黒岩が息を吐きました。


『俺は、借用証書さえ持ってりゃ、いつでも請求できると思ってた』


 所長は黙って聞いています。


『でも、弁護士に言われた。途中で裁判をしたとか、借金を認めさせたとか、そういうことがなけりゃ、消滅時効が問題になるって』


「はい」


『……あの誓約書に署名してもらえていたら、違ったかもしれねえともな』


 私は思わず顔を上げました。


 やっぱり。


 あの債務承認書。


 黒岩自身も、今になってその意味を理解したのです。


『俺、そんなに悪いことしたのか』


 黒岩の声が、小さくなりました。


『貸したのは本当なんだぞ』


 所長は静かに言いました。


「貸した事実と、現在その債権を法的に行使できるかは、別の問題です」


『……』


「時効の制度は、長期間行使されなかった権利について、法律関係を安定させるためにあります」


『……そうか』


「もちろん、時効の中断などを裏づける資料があれば、別途検討が必要です」


『そんなものはねえよ』


「そうですか」


 黒岩は、しばらく黙っていました。


 そして。


『……もう請求しねえ』


 私は息を止めました。


『正一にも、春江にもだ』


「分かりました」


『書面で出せばいいんだろ』


「ご本人に対して、その意思を明確に伝えていただくのがよいでしょう」


『……分かった』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「所長!」


「何だ」


「請求しないって!」


「ああ」


「やりましたね!」


 相馬先輩が横から言いました。


「まだだ」


「またですか!」


「電話だけで安心するな。書面を確認しろ」


「……はい!」


 そうでした。


 民法の世界で大事なのは。


 相手が何と言ったか。


 それを、どう証拠に残すか。


 その両方なのです。


 数日後。


 藤田家へ、黒岩から一通の手紙が届きました。


 ――昭和五十一年貸付けに係る金百万円の債権について、消滅時効の援用を受けたことを確認する。


 ――当該債権及び保証債務について、今後、藤田正一及び藤田春江に支払請求を行わない。


 ――黒岩重蔵。


 署名。


 押印。


 私は、その手紙を見つめました。


「先輩」


「何だ」


「これで、一段落ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやくな」


 私は胸を撫で下ろしました。


 百万円。


 藤田家にとっては、途方もない大金です。


 その請求から。


 一枚の内容証明郵便が、家族を守ったのです。


 一週間後。


 藤田由紀子さんが、両親を連れて事務所を訪れました。


「ありがとうございました」


 正一さんが深々と頭を下げました。


「おかげで、家を売らずに済みました」


 春江さんも、目に涙を浮かべています。


「もう、この歳で住むところを失うのかと思っていました」


 私は慌てて首を振りました。


「いえ! 私たちは書類を作っただけですから!」


 正一さんが笑いました。


「その書類が、私たちを助けてくれたんです」


 ……。


 私は、何も言えなくなりました。


 十年以上。


 借金を返せなかったという事実。


 でも、その間に。


 正一さんは工場を失い。


 春江さんは内職を続け。


 由紀子さんは家族を支えるため、働き続けてきた。


 その時間が。


 法律上、まったく無意味なものではなかった。


 時効という制度が。


 過去の権利関係に、一つの区切りをつけたのです。


「ところで」


 正一さんが言いました。


「一つ、聞いてもいいでしょうか」


「はい」


「借りたお金を返していないのに、時効を使ってしまった私は……悪い人間でしょうか」


 私は、すぐには答えられませんでした。


 借金は返すべきもの。


 それは当然です。


 でも。


 法律が消滅時効を認めている以上、その利益を受けることも、正当な選択です。


 私は少し考えてから言いました。


「正一さん」


「はい」


「時効を使うかどうかは、法律が認めた選択です」


「……」


「長い間、請求されなかった権利について、いつまでも生活を不安定にしないための制度なんです」


 正一さんは黙って聞いていました。


「だから、時効を援用したことだけで、ご自身を責める必要はないと思います」


 すると。


 片桐所長が静かに付け加えました。


「過去に借りた事実は、なくなりません」


「はい」


「しかし、過去のすべての負担を、いつまでも背負い続けなければならないわけでもありません」


 正一さんの目から、涙が落ちました。


「……ありがとうございます」


 春江さんが、夫の手を握りました。


 その光景を見て。


 私は、ふと思いました。


 民法は、時間そのものを法律に変えることがある。


 その仕組みは。


 誰かを甘やかすためだけにあるのではありません。


 長い年月の末に。


 人がもう一度、安心して暮らせるようにする。


 そんな役割もあるのです。


 夕方。


 事務所に静けさが戻りました。


 私は六法を開きました。


 民法百四十四条。


 時効の効力は、その起算日にさかのぼる。


「……さかのぼる?」


 私は呟きました。


 そうです。


 時効が完成し、援用されると。


 その法律上の効果は、時効期間の起算日にさかのぼる。


 つまり。


 単に援用通知を出した日から効果が生じる、という話ではありません。


「先輩」


「何だ」


「時効って、時間の使い方がすごいですね」


「何だそりゃ」


「長く続いた事実を、法律関係として確定させるんですよ」


「ああ」


「しかも、効果が起算日にさかのぼる」


「そうだな」


 私はノートを開きました。


 取得時効。


 他人の土地を、所有の意思をもって、法律の要件を満たして長期間占有した場合、所有権の取得が認められることがある。


 消滅時効。


 長期間行使されなかった権利について、消滅が認められることがある。


 どちらも。


 時間の経過によって、権利関係が変わる。


「でも先輩」


「何だ」


「取得時効でも、消滅時効でも、援用が必要なんですよね」


「ああ」


「で、時効が完成する前に、最初から時効の利益を放棄させることはできない」


「百四十六条だな」


「はい!」


 私は頷きました。


 民法百四十六条。


 時効の利益は、あらかじめ放棄することができない。


 もし、これが認められたら。


 お金を貸す側が、契約書に、


 ――借主は将来、消滅時効を主張しない。


 と書いておくだけで、時効制度を骨抜きにできてしまう。


 だから。


 完成前の放棄は認められない。


 でも。


 時効完成後の債務承認には、別の怖さがある。


「先輩」


「何だ」


「今回、一番恐ろしかったのは、あの承認書でした」


「ああ」


「正一さんが、時効を知らずにハンコを押していたら……」


「後から援用できなくなっていた可能性が高い」


「ですよね」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい」


「法律で一番危ねえのは、何だと思う」


「……知らないことですか?」


「それもある」


「じゃあ?」


「知らないまま、自分に不利なことを認めちまうことだ」


 私は黙りました。


 債務の承認。


 時効の援用。


 時効利益の放棄。


 たった一つの意思表示で、法律上の立場が変わる。


 知っているか。


 知らないか。


 それだけで。


 家一軒分の安心が、消えてしまうかもしれない。


「……怖いですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、書類は読め」


「はい」


「ハンコは簡単に押すな」


「はい!」


「それと」


「何ですか?」


「古い借金の相談が来たら、真っ先に確認することがあるだろ」


 私は考えました。


 返済期限。


 時効期間。


 途中の中断事由。


 債務承認の有無。


 そして。


「……時効が完成した後に、何かを認めていないか!」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 今日の事件。


 もし正一さんが黒岩の言うままに署名していたら。


 私たちは、まったく違う結末を迎えていたかもしれません。


 法律の知識とは。


 何かを取り戻すための武器であると同時に。


 取り返しのつかない一歩を、踏み出させないための盾でもあるのです。


「所長!」


 私は奥へ声をかけました。


「何だ」


「今日の教訓、分かりました!」


「言ってみなさい」


 私は胸を張りました。


「時効は、時間が経っただけでは安心できない!」


「うん」


「完成したら、援用という意思表示が大事!」


「そうだ」


「それから、時効完成後に借金を承認すると、後から時効を援用できなくなることがある!」


 片桐所長が頷きました。


「よし」


 私はノートに一行を書きました。


 ――時効は「時間」で完成し、「援用」で主張する。だが「承認」一つで、その利益を失うことがある。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあ、覚えやすいな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 そして。


 窓の外を見ました。


 昭和六十三年。


 夕暮れの町。


 きっと今ごろ。


 藤田家では、家族三人が食卓を囲んでいるのでしょう。


 百万円の請求に怯えずに。


 明日の暮らしを心配しすぎることもなく。


 いつもの家で。


 いつもの夕飯を食べている。


 そんな当たり前の幸せを。


 民法は、時効という少し不思議な制度で守ることがあるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、先週頼んだ書類の整理、まだ終わってねえな」


「……え?」


「一週間経ったぞ」


「あっ」


「いつ終わるんだ」


 私は少し考えました。


 そして。


 にっこり笑いました。


「先輩」


「何だ」


「時間が経ったので、その義務も時効で消滅しませんか?」


 相馬先輩は黙りました。


 そして。


「……お前な」


「はい!」


「一週間で消えるような時効が、どこにあるんだよ!」


「昭和の民法には短期消滅時効がいっぱいあるじゃないですか!」


「書類整理の義務は別だ!」


「じゃあ、援用します!」


「期間が完成してねえ!」


「ぐっ……!」


 片桐所長が、奥から静かに言いました。


「こはる」


「はい!」


「その仕事は、今日中に終わらせなさい」


「……はい」


 相馬先輩が吹き出しました。


「残念だったな!」


「先輩!」


「何だ!」


「もし私が十年間、書類を整理しなかったらどうなります?」


「その前に見習いを卒業できねえよ!」


 ……。


 確かに。


 時効という制度は、時間さえ経てば、何でも許してくれる魔法ではありません。


 法律が定める要件があり。


 期間があり。


 援用があり。


 ときには、利益を失う事情もある。


 でも。


 だからこそ。


 その仕組みを正しく理解していれば。


 誰かの人生を守れることがある。


 私は六法を閉じました。


 百万円の借用証書。


 十一年の歳月。


 そして、押さずに済んだ一本のハンコ。


 今日の私は、きっと忘れません。


 時効とは。


 単に、古い借金を消すための制度ではない。


 長く積み重なった時間に、法律上の意味を与える制度なのです。


 そして。


 その時間を味方につけるためには。


 知識と、意思表示が必要になる。


「こはる!」


 また相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「書類整理!」


「分かってます!」


「今度は時効とか言うなよ!」


「……じゃあ、先輩」


「何だ!」


「十年後に整理します!」


「今やれ!」


 どうやら。


 私の仕事だけは。


 いつまで経っても、時効で消えてくれそうにありません。


 残念です。


 でも。


 民法の勉強は、ますます面白くなってきました。


 次は、時効を援用できる人と、できない人。


 そして、取得時効と消滅時効の期間の違い。


 まだまだ、覚えることが山ほどあります。


 昭和六十三年の民法は。


 今日も、令和から来た受験生に容赦がないのでした。

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