[民法・占有権]法理編 こはるノート
物を持っている人が、持ち主とは限りません。
では。
持ち主ではない人が、どうして法律で守られるのでしょうか。
そして。
物を一度も動かしていないのに、占有権が別の人へ移ることがあるのは、なぜなのでしょうか。
答えを知らなければ。
他人の物を預かった人が、まるで自分の所有物であるかのように振る舞っても、何がおかしいのか説明できません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「占有権って、民法の中でも相当ややこしいですよね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今さら気づいたのか」
「だって、名前が似すぎなんです!」
私はノートに四つの言葉を書きました。
自主占有。
他主占有。
自己占有。
代理占有。
「自主と自己って、ほとんど同じ言葉じゃないですか!」
「漢字が違うだろ」
「そこじゃないです!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「だったら、昨日の旋盤を思い出せ」
私は手を止めました。
村瀬源蔵さん。
七十一歳。
亡くなった息子が使っていた古い旋盤を、悪徳業者の黒田商事に売却した老人。
代金は三十万円。
ところが、黒田商事は支払いをしなかった。
それどころか、旋盤を東海機械販売に転売したと言い出した。
そして。
「鍵を持っている俺が持ち主だ」
と、開き直ったのです。
しかし、私たちは契約書と占有関係を整理し、代金の支払催告、契約解除、第三者への通知という手順を踏みました。
最終的に、東海機械販売は売買契約を解消。
黒田商事も返還に応じました。
源蔵さんの旋盤は、無事に工場へ戻ったのです。
「あの事件ですね」
「ああ」
「黒田さん、占有と所有を混同していました」
「そうだ」
「でも、私も最初は混同してました……」
「自覚があるなら上出来だ」
くっ。
褒められているのか、馬鹿にされているのか。
判断に困ります。
そこへ、片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい!」
「今日は何を整理する」
「占有権です!」
「範囲は?」
「取得、種類、四つの引渡し、果実、費用、消滅までです!」
所長は一瞬、黙りました。
「……多いな」
「ですよね!」
相馬先輩がため息をつきました。
「お前が決めたんだろうが」
「でも、試験に出るんです!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は占有権を全部、頭の中でつなげてみせます!」
「大きく出たな」
「昨日の旋盤事件がありますから!」
よし。
こはるノート。
本日も開講です。
◇
「まず、占有権とは何か」
私はノートに書きました。
――民法第百八十条。
占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。
「つまり、必要なのは二つです」
私は指を二本立てました。
「一つ目。自己のためにする意思」
「うん」
「二つ目。物の所持」
「そうだ」
ここで私は、机の上の湯呑みを持ち上げました。
「たとえば、私がこの湯呑みを使っている」
「そうだな」
「自分でお茶を飲むために使っていますから、占有が成立します」
「普通はそう考えられるな」
重要なのは、自己のためにする意思です。
これは、所有者になりたいという意思とは違います。
「先輩、ここが最初の罠ですね」
「説明してみろ」
「自己のためにする意思と、所有の意思は違うんです!」
私は大きく丸をつけました。
自分のために物を所持する。
これは、占有権の成立に関係する意思。
一方。
自分の所有物として所持する。
これは、自主占有と他主占有を区別するときの所有の意思。
「つまり、他人から借りた湯呑みでも、占有権は成立するんですね」
「そうだ」
「私の所有物じゃなくても?」
「ああ」
「じゃあ、泥棒が盗んだ湯呑みでも?」
「占有自体は成立し得る」
私は顔をしかめました。
「やっぱり納得しにくいです」
「だから、所有権と混ぜるなって話だ」
相馬先輩は言いました。
「盗んだ奴に占有権が成立するからって、盗みが正当化されるわけじゃねえ」
「はい」
「真の所有者には、所有権に基づく返還請求などの問題がある。占有を守ることと、誰が最終的に物を持つべきかは別だ」
私は頷きました。
確かに。
もし、誰かが「これは俺の物だ」と叫ぶだけで、他人の手から自由に奪える社会だったら。
契約書も。
裁判も。
何も意味がなくなってしまいます。
「占有権は、現実の支配状態を法律のルールに乗せるためにもあるんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「まず事実上の支配を見て、その後に権利の有無を検討する」
なるほど。
占有権とは。
必ずしも「正しい持ち主」を決める法律ではありません。
物を現実に支配しているという状態を、法律上の問題として扱う制度なのです。
◇
「次は、占有の種類です!」
私はノートの真ん中に十字の線を引きました。
そして、四つの言葉を書き込みました。
自主占有。
他主占有。
自己占有。
代理占有。
「先輩!」
「何だ」
「ここを一気に整理します!」
「やってみろ」
私は深呼吸しました。
「まず、自主占有と他主占有です」
この二つの区別は。
所有の意思があるかどうか。
そこを見ます。
自主占有。
所有の意思をもって占有すること。
他主占有。
所有の意思をもたずに占有すること。
「たとえば、源蔵さんが自分の旋盤を工場で使っていたときは、自主占有ですね」
「そうだ」
「一方、黒田商事が、源蔵さんから旋盤を預かっていただけの段階なら、他主占有です」
「ああ」
ここで私は、少し考えました。
「でも、先輩」
「何だ」
「黒田さんが心の中で『今日から俺の物だ』と思ったら、自主占有に変わるんですか?」
「変わらねえ」
「ですよね!」
ここが重要です。
民法第百八十五条。
占有の性質の変更。
他主占有をしている人が、心の中で勝手に所有者を名乗っても、それだけで自主占有になるわけではありません。
所有の意思がないものとされる権原で占有を始めた場合。
占有させた相手に対して、所有の意思を表示する。
または、新たな権原によって所有の意思をもって占有を始める。
そうした事情が必要になります。
「つまり」
私は言いました。
「借りていた人が『もう俺の物だ』と思うだけでは駄目なんですね」
「そうだ」
「でも、正式に買い取れば?」
「新たな権原による占有になることがある」
「なるほど!」
私は旋盤事件を思い出しました。
黒田商事が、最初から源蔵さんの旋盤を保管していたとき。
他主占有。
その後、源蔵さんとの間で売買契約を結んだとき。
契約が有効で、所有の意思をもって占有するようになれば、自主占有となる余地がある。
「だから、最初にどういう理由で占有したかが重要なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「自主か他主かは、本人が口で何と叫んだかだけでは決まらねえ。占有を始めた権原などを見て判断する」
私はノートに大きく書きました。
――自主・他主は「所有の意思があるか」。
「次です!」
私はページをめくりました。
自己占有。
代理占有。
「この二つは、直接持っているか、他人を通じて占有しているかです」
「うん」
「自己占有は、自分で物を直接占有すること」
「そうだ」
「代理占有は、他人を通じて占有すること」
民法第百八十一条。
占有権は、代理人によって取得することができる。
「たとえば、先輩の時計を私が借りた場合」
私は言いました。
「時計を実際に持っている私は、自己占有」
「うん」
「私を通じて占有している先輩は、代理占有」
「そうだ」
私は少し嬉しくなりました。
ここまで分かると、四つの言葉が急に整理されます。
「先輩!」
「何だ」
「つまり、区別する基準が二つあるんですね!」
私はノートに書きました。
自主・他主は、所有の意思。
自己・代理は、占有の方法。
「この二組は、別の観点なんです!」
「そうだ」
「だから、借りている人は、他主占有でありながら自己占有でもある!」
「正解」
私は拳を握りました。
やった!
名前が似ているから難しく見えるだけ。
何を基準に分けているのか。
そこを押さえれば、意外と簡単です。
「ただし」
所長が口を開きました。
「こはる。借りている人が、現実に物を持っているからといって、当然に所有者になるわけではない」
「はい!」
「昨日の黒田が、そこを混同した」
私は頷きました。
占有している。
それは事実。
所有している。
それは別の権利関係。
同じ「持っている」という日本語でも、法律上の意味は違うのです。
◇
「さて」
相馬先輩が腕時計を外しました。
「次は四つの引渡しだろ」
「はい!」
「この時計を使え」
私は目を輝かせました。
「実物で勉強できるんですね!」
「変なところで喜ぶな」
先輩は時計を机に置きました。
「まず、現実の引渡し」
「はい」
先輩が時計を私に手渡しました。
「ほら」
「受け取りました!」
「これが基本だ」
民法百八十二条第一項。
現実の引渡し。
物を実際に引き渡す。
一番分かりやすい方法です。
「では、二つ目」
相馬先輩が言いました。
「今、お前はその時計を借りているとする」
「はい」
「俺がお前に時計を売る」
「はい」
「お前は、もう時計を持っている」
「はい」
「だから、改めて俺に返して、また受け取る必要はねえ」
私は頷きました。
「簡易の引渡し!」
民法百八十二条第二項。
すでに譲受人が物を所持している場合、意思表示だけで占有権を移すことができます。
「つまり、持っている人がそのまま受け取る形ですね!」
「そうだ」
次。
先輩が時計を取り返しました。
「今度は、俺がお前に時計を売る」
「はい」
「ただし、修理に出す前に一日だけ俺が預かる」
「はい」
「俺が、以後お前のために占有する意思を表示する」
私は頷きました。
「占有改定ですね!」
民法百八十三条。
物を持っていた譲渡人が、そのまま物を持ち続ける。
ただし、今度は譲受人のために占有する。
物は動きません。
でも、法律上の占有関係が変わる。
「旋盤事件では、黒田商事と東海機械販売が、この方法を使っていました!」
「そうだ」
そして。
ここには、重要な注意点があります。
「先輩」
「何だ」
「占有改定によって占有権を移すことはできます。でも、それだけで即時取得が成立するわけではありません」
「そのとおり」
私はノートに赤線を引きました。
占有改定。
引渡し方法としては有効。
しかし、判例上、占有改定だけでは即時取得は認められない。
「なぜですか?」
私は問いかけました。
相馬先輩は時計を握りました。
「外から見て、どうだ?」
「……先輩が持っています」
「売る前も?」
「先輩が持っていました」
「売った後も?」
「先輩が持っています」
「じゃあ、外見上は何が変わった?」
「何も変わっていません」
「そういうことだ」
なるほど。
動産の即時取得は、取引の安全を保護する制度です。
しかし。
物を持っている人が、そのまま持ち続けるだけなら、外見上の支配状態に変化がありません。
その占有改定だけで、真の所有者の権利を失わせることはできない。
これが判例の考え方です。
「黒田さんが、そこを勘違いしていたんですね」
「そうだ」
「占有改定で引き渡したから、第三者は絶対に守られる、と」
「だが、そんな単純な話じゃねえ」
私は頷きました。
もっとも、最初の売主から黒田へ有効に所有権が移り、黒田が正当な所有者として東海機械販売へ譲渡したなら、即時取得を持ち出す必要はありません。
即時取得が問題になるのは、基本的に譲渡人に処分権限がない場合です。
つまり。
占有改定だけでは即時取得できない。
だから東海機械販売は絶対に所有権を取得していない。
そんな短絡的な結論にもできないのです。
「……難しいですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「だから、占有と所有を一つずつ整理するんだ」
私は書きました。
――引渡しの成立と、所有権の取得は別々に検討する。
「最後、四つ目です!」
私は気合を入れ直しました。
指図による占有移転。
民法百八十四条。
先輩が時計を私に貸している。
私は時計を直接占有している。
先輩は私を通じて間接占有している。
ここで先輩が、時計を片桐所長へ譲渡する。
「所長!」
「何だ」
「時計、買ってください!」
「買わん」
「例え話です!」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前、所長に売りつけるなよ」
「勉強です!」
私は続けました。
「先輩が私に『これからは所長のために時計を持ってくれ』と指図します」
「うん」
「そして、所長がそれを承諾する」
所長は短く言いました。
「承諾する」
「これで、所長が占有権を取得します!」
物は動いていない。
私はずっと時計を持っています。
でも、間接占有する人が変わりました。
先輩から所長へ。
「これが指図による占有移転です!」
「そうだ」
私はノートに四つを並べました。
現実の引渡し。
簡易の引渡し。
占有改定。
指図による占有移転。
「できました!」
私は笑いました。
「四つとも分かりました!」
「じゃあ問題だ」
相馬先輩が言いました。
「先輩が時計を借りていた私に、その時計を売りました。私は最初から時計を持っています。何の引渡し?」
「簡易の引渡し!」
「俺が時計を売った後も、自分で預かり続けるのは?」
「占有改定!」
「俺がお前に貸している時計を所長に売り、お前に以後所長のために持つよう命じ、所長が承諾したら?」
「指図による占有移転!」
「俺がお前に時計を手渡したら?」
「現実の引渡し!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
私は得意になって言いました。
「もう完璧です!」
「まだ半分だぞ」
「……え?」
先輩が笑いました。
「果実と消滅が残ってるだろ」
……。
そうでした。
占有権。
なかなか終わりません。
◇
「では、果実です」
私はノートに書きました。
――民法百八十九条。
善意の占有者は、占有物から生ずる果実を取得する。
「果実って、リンゴとかミカンですよね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「それもある」
「それも?」
「民法の果実は、果物だけじゃねえ」
私は鉛筆を止めました。
そうです。
天然果実。
法定果実。
天然果実は、物の用法に従って生み出される産物。
たとえば、果樹から採れる果物。
法定果実は、物の使用の対価として受け取る金銭など。
たとえば、賃料。
「つまり、土地を使って収穫した果物だけでなく、建物の家賃も果実なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
「じゃあ、善意の占有者は、そうした果実を取得できる」
「そのとおり。ただし、善意の意味を間違えるな」
「はい?」
「善意の占有者ってのは、単に性格がいい人のことじゃねえ」
あ。
そうでした。
法律上の善意。
基本的には、ある事情を知らないこと。
この場面では、自己に果実を取得する権利があると信じていることが問題になります。
「だから、優しい人だから家賃をもらえる、という話じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が呆れました。
「そんな民法があったら、裁判所は性格診断所になるぞ」
「確かに……」
私は笑いました。
でも。
悪意の占有者は、事情が違います。
民法百九十条。
悪意の占有者は、果実を返還しなければならない。
さらに。
消費した果実。
過失によって損傷した果実。
収取を怠った果実。
こうしたものについても、代価の償還が問題になります。
「たとえば」
私は言いました。
「他人の土地だと知りながら占有して、そこから果物を収穫して食べてしまった場合」
「うん」
「果物を返せないから終わり、ではない」
「そうだ」
「代価を償還しなければならないんですね」
相馬先輩が頷きました。
「食っちまえば勝ち、じゃ困るからな」
「なるほど!」
そして、もう一つ。
暴行。
強迫。
隠匿。
そうした方法で占有している人についても、果実の返還に関する厳しい扱いがあります。
「つまり」
私は言いました。
「法律は、占有しているという事実を保護しながら、その占有がどんな事情によるものかも考えているんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「占有を保護することと、不当な利益をそのまま認めることは違う」
私は、その言葉をノートに書きました。
◇
「ところで先輩」
「何だ」
「善意の占有者が裁判で負けたら、どうなるんですか?」
「ほう」
相馬先輩が顔を上げました。
「いい質問だな」
「褒めました?」
「まだだ」
「どうしてですか!」
先輩は笑いました。
「百八十九条二項だ」
私は六法を開きました。
善意の占有者が本権の訴えにおいて敗訴したときは、その訴えの提起の時から悪意の占有者とみなされる。
「……えっ!」
私は目を見開きました。
「裁判に負けた日からじゃないんですか?」
「違う」
「訴えを起こされた日から?」
「そうだ」
私は思わず赤線を引きました。
これは重要です。
善意で占有していた人でも。
本権の訴えで敗訴すれば、訴えの提起時から悪意の占有者とみなされる。
「つまり、裁判が長引いて、その間に果実を取得していたら……」
「その期間の返還が問題になる」
「怖いですね……」
「だから、訴訟の時期も重要なんだ」
私は頷きました。
ただ「善意だから果実をもらえる」と覚えてはいけない。
敗訴した場合の扱いまで、押さえる必要があります。
法律は、いつから、という時間の問題が本当に多いです。
◇
「次は費用です!」
私はページをめくりました。
民法百九十六条。
占有者が物を返還するときの費用償還請求。
「先輩、これもややこしいですよね」
「何がだ」
「必要費と有益費です」
私は二つを書き分けました。
必要費。
物を保存するために必要な費用。
有益費。
物を改良し、価値を増加させるための費用。
「たとえば、古い倉庫の屋根が壊れて、雨漏りを修理した」
「うん」
「保存のために必要な修理なら、必要費です」
「そうだ」
「一方、倉庫に設備を追加して価値を高めた」
「それは有益費が問題になるな」
私は頷きました。
ただし。
何でもかんでも請求できるわけではありません。
必要費は、原則として償還請求が認められます。
しかし、果実を取得した占有者については、通常の必要費は占有者の負担となる。
有益費は、価値の増加が現存する場合に限られます。
さらに。
支出額と増価額のどちらを償還するかは、回復者の選択による。
「つまり、十万円かけて改良したからといって、必ず十万円返ってくるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「価値が三万円しか増えていなければ、回復者が増価額を選ぶこともできる」
「そのとおり」
私は唸りました。
「なかなか厳しいですね」
「勝手に高級な設備を付けて、全部払えと言われても困るだろ」
「確かに……」
さらに、悪意の占有者に対しては、有益費の償還について、裁判所が回復者の請求によって相当の期限を許与できる場合があります。
「ただし、先輩」
「何だ」
「昨日の黒田商事のような契約関係では、契約そのものの費用負担の約束も確認しないといけませんよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「民法百九十六条だけ見て、何でも結論を出すな。契約関係や他の規定との関係も調べろ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――費用は「保存か改良か」、そして「誰が何を負担すべきか」。
◇
「さて、最後です」
私は鉛筆を握り直しました。
占有権の消滅。
民法二百三条。
二百四条。
「先輩!」
「何だ」
「ここ、試験でかなり引っかかりそうです!」
「そうか?」
「だって、自己占有と代理占有で消滅事由が違うんですよ!」
私はまず、自己占有を書きました。
民法二百三条。
占有者が占有の意思を放棄する。
または。
占有物の所持を失う。
この場合、占有権は消滅する。
ただし、占有回収の訴えを提起した場合の例外がある。
「たとえば」
私は言いました。
「持っていた時計を捨てて、もう占有する意思がなくなったら?」
「占有の意思の放棄が問題になる」
「時計を盗まれて所持を失ったら?」
「原則として占有は失われる。ただし、占有回収の訴えを提起した場合は、二百三条ただし書がある」
私は頷きました。
ここで大切なのは。
自分の物だから、占有権は絶対に消えない。
そういうわけではないこと。
所有権は残っていても、現実の所持を失うことがあります。
「つまり、所有権と占有権は、消滅する理由まで違うんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「持ち主であることと、実際に占有していることを、最後まで混同するな」
私はノートに丸をつけました。
「では、代理占有です!」
民法二百四条。
代理人によって占有する場合、その占有権が消滅する原因は三つ。
一つ目。
本人が、代理人に占有させる意思を放棄したこと。
二つ目。
代理人が、本人に対して、今後は自己または第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと。
三つ目。
代理人が、占有物の所持を失ったこと。
「先輩、ここでまた旋盤事件を思い出します」
「どこだ?」
「黒田商事が倉庫を借りていたところです」
私はノートに図を書きました。
源蔵さん。
賃貸人。
黒田商事。
賃借人。
倉庫を直接使っていたのは黒田商事。
源蔵さんは、黒田商事を通じて倉庫を間接占有していた。
「ここで、黒田さんが『これからは自分のために占有する』と源蔵さんへ明確に表示したら?」
「二百四条一項二号の問題になるな」
「そうですよね!」
私は頷きました。
ただし、占有の関係と、賃貸借契約上の権利義務は別の問題です。
勝手に所有権が発生するわけでもありません。
「もう一つ、注意するところがあります!」
私は大きく書きました。
――代理権の消滅だけでは、占有権は当然には消滅しない。
民法二百四条第二項。
「ここ、名前に騙されそうです!」
「どういうことだ」
「代理占有だから、代理権がなくなれば当然終わると思ってしまいます!」
相馬先輩が笑いました。
「だが、そうじゃねえ」
「はい」
この代理権とは、占有代理権のこと。
委任契約の代理権と、何でも同じに考えてはいけません。
そして。
代理権が消滅したというだけで、代理占有権が当然に消滅するわけではない。
実際の占有関係を確認しなければならないのです。
「ただし、所長」
「何だ」
「さっきの二百四条一項に当たる事情まであれば、話は別ですよね」
「そうだ」
「単に代理権が終了したということと、占有代理人が誰のために所持するかを変更したことは、区別する必要がある」
所長が頷きました。
「その区別を覚えておけ」
私は、大きく丸をつけました。
代理占有。
代理権終了だけでは当然消滅しない。
「よし!」
私は鉛筆を置きました。
「占有権の消滅まで整理できました!」
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「えっ!」
「昨日の事件で、もう一つ忘れちゃいけねえことがある」
私は首をかしげました。
「何でしょう?」
「占有の推定だ」
◇
相馬先輩は六法を指差しました。
民法百八十六条。
占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有するものと推定される。
「先輩、これってすごく強い推定ですよね」
「そうだ」
「占有している人は、最初から自主占有で善意だと推定されるんですから」
私は頷きました。
ただし。
推定があるからといって、どんな証拠があっても覆らないわけではありません。
たとえば、賃貸借契約書があれば。
賃借人は所有者としてではなく、借主として占有を始めたと分かります。
「だから黒田さんの場合、最初の倉庫賃貸借契約書が重要だったんですね」
「そうだ」
「契約書があるから、どういう権原で占有を始めたかが分かる」
「そのとおり」
私はノートに書きました。
――推定は強い。でも、事実と証拠を調べる。
「それから、百八十七条です!」
相馬先輩が言いました。
「占有の承継だな」
「はい!」
占有者の承継人は、自分自身の占有だけを主張することもできる。
あるいは、前の占有者の占有を合わせて主張することもできる。
ただし。
前の占有者の占有を合わせて主張する場合、その瑕疵も承継する。
「つまり、都合のいい期間だけ足して、都合の悪い事情は切り捨てる、というわけにはいかないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「取得時効の問題でも重要になる」
「あっ!」
私は思い出しました。
取得時効。
十年。
二十年。
所有の意思。
平穏。
公然。
善意無過失。
以前に勉強した論点です。
「つながりました!」
私は叫びました。
「占有権と取得時効って、ちゃんとつながってるんですね!」
「当たり前だろ」
「でも、こうして事件で覚えると違います!」
私は嬉しくなりました。
民法は、条文がばらばらに存在しているわけではありません。
占有。
所有。
時効。
引渡し。
即時取得。
それぞれが、つながっているのです。
◇
「ところで」
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい!」
「昭和六十三年と現代で、占有権は大きく違うのか」
私は少し考えました。
「……今回の中心条文については、大きく変わっていません」
「そうだ」
そうなのです。
民法は、令和の時代までに大きく改正されました。
契約不適合責任。
消滅時効。
債務不履行。
解除。
成年後見制度。
いろいろな部分が変わりました。
でも。
占有権の基本的な仕組みは、昭和六十三年にも、現代にも引き継がれています。
「たとえば、占有権の取得を定める百八十条」
「うん」
「代理占有の百八十一条」
「うん」
「現実の引渡しと簡易の引渡しの百八十二条」
「そうだ」
「占有改定の百八十三条、指図による占有移転の百八十四条」
私は頷きました。
「これらの基本構造は、現代でも同じです!」
相馬先輩が笑いました。
「珍しく未来の法律と喧嘩しなくて済んだな」
「本当ですよ!」
私は胸を撫で下ろしました。
「今回は『その条文は昭和にはない』って怒られずに済みそうです!」
「何の話だ」
「こちらの事情です!」
もっとも。
占有権の条文が大きく変わっていないからといって、関連する制度まで全部同じというわけではありません。
たとえば、契約解除。
昭和六十三年の旧民法五百四十一条と、現代の改正民法五百四十一条では、条文の書き方や解除をめぐる規律に違いがあります。
現代では、催告解除について、不履行が軽微である場合には解除できないことが明文化されています。
また、解除のために債務者の帰責事由が必要かどうかについても、現代の改正民法では整理が進みました。
「でも、今回の中心は占有権です」
私は言いました。
「占有の基本的な考え方は、昔から変わらず大事なんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「現実の支配をどう扱うか。その問題は、時代が変わっても残る」
私はノートに書きました。
――法律が改正されても、変わらない基本原理がある。
◇
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私はノートを見直しました。
最初は、頭が混乱するだけだった占有権。
でも。
今は、少し違って見えます。
占有権の取得。
自己のためにする意思。
物の所持。
自主占有と他主占有。
自己占有と代理占有。
四つの引渡し。
善意と悪意の占有者。
果実。
費用。
消滅。
占有の推定と承継。
すべて、物と人との関係を整理するための法律です。
「所長」
「何だ」
「一つ、確認問題を出してもらっていいですか?」
「いいだろう」
所長は帳簿を閉じました。
「他人から借りた時計を持っている者に、占有権は成立するか」
「成立します!」
「その人は自主占有か、他主占有か」
「通常は他主占有です!」
「自己占有か、代理占有か」
「時計を直接持っているので、自己占有です!」
「では、貸主は?」
「借主を通じて代理占有をしています!」
所長が頷きました。
「よし。次だ」
「はい!」
「物を持っている売主が、買主に売却した後も、自分で保管を続ける」
「占有改定です!」
「その占有改定だけで、無権利者からの即時取得は成立するか」
「判例上、成立しません!」
「なぜだ」
「外形上の占有状態に変化がなく、それだけで真の権利者の所有権を失わせることはできないからです!」
所長が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった。
占有権の大きな山を越えた気がします。
「じゃあ俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「他主占有をしている奴が、心の中で『今日から俺の物』と思った。自主占有になるか」
「なりません!」
「理由は?」
「民法百八十五条です。一定の場合には、所有の意思を占有させた者に表示するか、新たな権原による占有が必要です!」
「正解」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ、善意の占有者は果実を取得できるか」
「原則として、できます!」
「本権の訴えで敗訴したら?」
「訴えの提起時から悪意の占有者とみなされます!」
「占有物を返すとき、保存のために使った必要費は?」
「原則として償還請求できます! ただし、果実を取得した場合の通常の必要費には注意が必要です!」
「よし」
先輩は煙草を消しました。
「最後だ」
「はい!」
「代理占有は、代理権が消えただけで当然に消滅するか」
「しません!」
「根拠は?」
「民法二百四条二項です!」
「よし!」
私は思わず立ち上がりました。
「できました!」
相馬先輩が笑いました。
「まあ、今日は合格だな」
「本当ですか!」
「ああ」
「ありがとうございます!」
私は嬉しくなりました。
でも。
所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい?」
「最後に一つだけ覚えておけ」
「何でしょう」
「占有権があることと、所有権があることは違う」
「はい」
「引渡しを受けたことと、必ず所有権を取得したことも違う」
「はい」
「相手が悪いと決めつける前に、契約と占有関係を調べる」
私は頷きました。
「……はい」
源蔵さんの事件。
最初、私は黒田社長が悪徳業者だから、全部の主張が間違っていると思い込んでいました。
でも。
売買契約によって所有権が移転していた可能性はありました。
占有改定自体も、無効ではありませんでした。
問題は。
どの権利が。
いつ。
誰に。
どんな方法で移転したのか。
そこを正確に整理することだったのです。
「所長」
「何だ」
「法律は、嫌いな相手を負かすための道具じゃないんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「事実を整理して、正しい権利関係を明らかにするためのものなんですね」
「それでいい」
私は、ゆっくり鉛筆を握りました。
そして。
今日の一行を書きました。
――占有は「誰が、誰のために持つか」。所有は「誰の物か」。引渡しは「どう移すか」。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
源蔵さんの旋盤。
黒田商事の倉庫。
東海機械販売への占有改定。
そして、戻ってきた古い機械。
あの事件を思い出せば。
占有と所有の違いが、目の前に浮かびます。
◇
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「勉強は終わりだ」
「はい!」
「掃除しろ」
「……え?」
「昨日も言っただろ」
私は机を見ました。
六法。
ノート。
鉛筆。
消しゴム。
湯呑み。
全部、広げっぱなしです。
「先輩」
「何だ」
「私、今、この机を占有しています」
「してるな」
「自己占有です」
「そうだな」
「しかも、勉強する意思があります」
「あるな」
「だから、まだ片付けたくありません!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「ほう」
「はい!」
「じゃあ、その机は誰の所有物だ?」
「……事務所です」
「お前は?」
「見習いです」
「で、所長が掃除を頼んでる」
「……はい」
「占有権があるからって、業務上の指示を全部拒めるわけじゃねえぞ」
ぐっ。
私は悔しくなりました。
「でも先輩!」
「何だ!」
「占有者にも権利はあります!」
「あるな!」
「勝手に物を奪われたら、占有回収の問題だって――」
その瞬間。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「誰も机を奪っていない」
「……!」
「掃除を頼んでいるだけだ」
……。
私は固まりました。
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
「ほらな!」
「うう……!」
確かに。
占有権があるからといって、何でも自分の思いどおりになるわけではありません。
それどころか。
占有を理由に掃除を拒否するという、かなり無理のある主張をしてしまいました。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「最初からそうしろ!」
でも。
私は少しだけ笑っていました。
だって。
昨日まで、あれほど難しく感じていた占有権。
今は、事務所の机一つでも考えられるようになったのです。
誰が持っているか。
誰のために持っているか。
どんな意思で持っているか。
どうやって占有を移すか。
そして。
いつ、占有が消えるのか。
それを区別できるだけで、民法はずっと分かりやすくなる。
私は箒を動かしながら、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――占有は「誰が、誰のために持つか」。所有は「誰の物か」。引渡しは「どう移すか」。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、占有権の復習をしていたんです!」
「掃除しながらか!」
「はい!」
「器用な奴だな!」
私は笑いました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、少しずつ明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
源蔵さんは、戻ってきた旋盤を眺めているのでしょう。
亡くなった息子が最後に使った機械。
もう仕事には使わないかもしれない。
でも、そこにあるだけで、大切な意味を持つもの。
法律は、そんな財産を守るためにも存在しています。
占有。
所有。
引渡し。
難しい言葉ばかりです。
でも。
その違いを理解することが、誰かの人生を守る第一歩になる。
私は、そう思うようになりました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり民法って面白いですね!」
「面白がるのはいいから、箒を動かせ!」
「はいっ!」
私は元気よく答えました。
ただし。
そのとき、相馬先輩が私の湯呑みをひょいと持ち上げたので、私は慌てて叫びました。
「先輩!」
「何だ!」
「それ、私が使ってる湯呑みです!」
「知ってるよ」
「勝手に持っていかないでください!」
「流しに持ってくだけだ!」
「でも、占有が――」
「洗ってやるんだよ!」
……。
なるほど。
他人が物を持ったからといって、必ずしも占有権の侵害になるわけではありません。
物の持ち方にも。
事情があります。
私は少しだけ頬を赤くしました。
「……ありがとうございます」
「最初からそう言え!」
相馬先輩が笑いました。
私は箒を動かしながら、静かに思いました。
占有権の勉強は終わりました。
でも。
民法の世界では、いつも同じことが問われるのかもしれません。
目に見える事実だけで、結論を急がないこと。
その裏にある権利と、約束と、事情を調べること。
そして。
誰かが大切にしているものを、法律の言葉で守れるようになること。
そのために。
私は、明日も六法を開くのでしょう。
もっとも。
掃除の時間だけは。
占有権を主張しても、どうやら延長してもらえそうにありませんでした。
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